遠雷

 太陽を望めない地下の生活では、一日のサイクルを維持するに時計は必需品だった。
 外の明るさで、今が大体何時頃なのかを悟ることが出来ないからだ。当たり前のように陽射しを享受し、無駄に浪費していた頃には、考えられなかったことだ。
 地下のアジトで電気を消すと、真っ暗闇が広がるだけ。朝が来ても鳥の囀りや、奈々の起こす声は一切聞こえないし、朝ご飯の美味しい匂いも感じられない。
 目覚まし時計の無機質な電子音で叩き起こされて、綱吉は大きな欠伸と共に背筋を伸ばした。頭上高くに腕を掲げ、腰を捻ってボキボキと音を響かせる。
 最初の頃は自室のベッドが恋しかったが、今となってはあの寝台の感触さえも思い出せない。このボンゴレの秘密基地に、そう長く居座るつもりもなかったのに、あれからどれだけの日にちが過ぎたのか、それさえ分からなくなってしまっていた。
 硬いベッドを撫でて床に降り立ち、靴を履いて部屋を出る。寝間着のままだが、最早構いもしなかった。
「ふぁ~、ああ……」
 大変だった戦いから数日が過ぎ、表面上は平穏が戻りつつあった。京子やハルも、誰も待っていない自宅に帰った日はちょっと挙動不審だったけれど、一晩過ぎた後は概ね落ち着いていた。
 様々に犠牲を払い、苦心の末に辿り着いた入江正一からもたらされた、まだ元の時間に戻れないという事実は、綱吉たちを激しく落胆させた。
 与えられたのは新たな情報と、合流を果たした十年前の了平と、雲雀。もっとも雲雀は何処かへ立ち去ってしまい、アジトには居ないのだが。
 草壁が無事に見つけ出してくれているのを祈るしかない。その草壁も忙しいのか、あの日以降こちらに一切顔を出していなかった。
 その代わりと言ったら問題があろうが、アジトには何人か新しい顔が増えた。遥々海を越えて助力に駆けつけてくれたバジルと、頼りになる兄貴分ことディーノだ。
 鬣がオレンジ色の炎という白馬に跨り、さながら絵本の中の王子様然として現れた彼だけれど、中身は綱吉たちが知る十年前のディーノと、そう変わっていなかった。ただ顔立ちはより精悍さを強め、外見の迫力も増していた。マフィアのボスとして着実に実績を重ねて来たであろう様子が滲み出ており、少なからず心が騒いだ。
 後は、記憶にある若かりし彼よりも、少しだけ髪が伸びていた。十年経っているのだから、それも当然だろうが。
「あれ、伸ばしてるのかな」
 短髪の彼も格好良かったが、長髪になった途端に色気とでも言おうか、男の深みもぐっと増したような気がした。艶やかな金髪から覗く眼差しの優しさは以前のままで、綱吉を安心させた。
「んー……」
 自分も大人になれば、あんな風になるのだろうか。
 想像を巡らせて、そもそも基盤となるものが違うと肩を落とし、苦笑する。ディーノはイタリア人、綱吉は多少混じっているとはいえ、殆ど生粋の日本人に等しい。
 この数ヶ月で幾多の戦いを経験させられたけれど、綱吉の体格は驚くほど変化が無かった。少量の贅肉が筋肉に変わり、体重が若干増えたものの、ボディビルダーのようなムキムキには程遠い――そうなりたいとも思わないけれど。
「そういえば」
 半袖のシャツから覗く自分の腕を軽く抓み、薄っぺらな皮を引っ張って綱吉は視線を浮かせた。
 爪の跡が残る肌を撫で、廊下を歩きながら小首を傾げる。
「ディーノさん、幾つなんだろ」
 彼は顔を洗うべく、薄明かりが照らす通路をひとりで歩いていた。獄寺や山本はまだ眠っているのか、姿は見えない。以前は獄寺とふたりでひとつの部屋を共有していたのだが、今はそれぞれひとり部屋が割り当てられていた。
 起こしてやるべきかで一瞬迷う。だがその前に自分の身なりを整えるのが先決と、彼は洗面台も併設している男子トイレに向かった。
 十年過ぎても、トイレの基本構造は変わっていない。臭いが篭もらないようにという配慮か、水で洗い流すのではなく、一気に吸い込む方式が採用されてはいたけれど。
 臭いものには蓋、という言葉が思い浮かんで、つい苦笑が漏れた。
「おー、ツナ」
 ひとり笑いを噛み殺して歩いていると、通路の向かい側からディーノが歩いてくるのが見えた。両者の丁度中間地点に、トイレの入り口を示す札が出ている。どうやら彼も、綱吉と目的は同じらしい。
 首から白いタオルをぶら下げて、表情は至って眠そうだ。
「おはよう御座います、ディーノさん」
 手を伸ばせば触れられる距離まで近付いてから、綱吉が彼を見上げて朝の挨拶を口ずさむ。即座に同じ言葉が返って来て、それだけで綱吉は嬉しくなった。
 目尻を下げてはにかんでいると、どうかしたのかと聞かれた。
「いい夢でも見たのか?」
「夢は見てないですけど」
 朝から爽やかな気分になれた。それが嬉しいのだと告げるが、肝心のディーノは分からない様子で首を右に倒しただけだった。
 ただ、直ぐに姿勢を正すと太く逞しい腕を伸ばし、綱吉の寝癖だらけの頭を軽く叩き、撫で回した。
「そっか、良かったな」
「はい」
 もっと気落ちしているかと危惧していたが、案外元気そうだ。ホッとした様子でディーノは刺青の入った腕を戻し、ハリネズミ状態の頭を抱えた綱吉を改めて見下ろした。
 細く白い腕、全体的にひょろっとした印象を抱かせる体躯、大きくて見目の幼さを強調する琥珀の瞳、小ぶりの鼻と愛らしい唇。
 二十四歳の沢田綱吉から比較すれば発展途上過ぎるくらいの、握れば簡単に折れそうな脆弱さ。
 共に同じ時間を歩んでいた時は、こんな風には感じなかったというのに。
「ツナ」
「はい」
「手、見せてくれないか」
 言われて、綱吉は不思議そうにしながら己の右手に目を向けた。
 ディーノが一足先に、此処に重ねてくれと言わんばかりに左手を前に出す。だのに掌を向けられた少年は、何故か出せと言われたものを慌てて背中に隠してしまった。
「ツナ?」
「洗ってきます」
 怪訝な声を出したディーノに小さく舌を出し、綱吉はその場で跳ねると急ぎ足でトイレに駆け込んでいった。
 置き去りにされた青年は、行き場を失って宙を泳ぐ己の手を裏返し、汚れているだろうかと首を捻った。トイレの入り口からは水が流れる音が聞こえて来て、仕方なく彼また綱吉に倣い、ドアを潜った。
 前面に巨大な鏡を設置した洗面所には、蛇口がみっつ並んでいた。そのうちの左端を使って、綱吉が丹念に手を擦り合わせている。石鹸が実によく泡立っており、シャボンの匂いが周辺に立ち込めていた。
「汚れてたのか?」
「そういうわけじゃないですけど」
 眠っている間にかいた汗もそのままなので、見た目は綺麗でも雑菌は沢山繁殖している。それがディーノにまで飛び火するのは、心苦しい。
 早口に告げて石鹸を洗い流した綱吉が、手首から先を上下に降って雫を飛ばした。
「使えよ」
「有難う御座います」
 目線が左右に泳いでいたので、ディーノは気を利かせて首に巻いていたタオルを外した。
 遠慮なく受け取った綱吉が、白い布を広げて両手で挟んだ。くるり、と手首を回転させて掌全体を包み込ませ、右から順に引き抜く。
「顔も洗っちまいな」
「そうですね」
 折角洗面所に来たのだから、ついでに用事を全部片付けてしまおう。
 ディーノの提案に首肯した綱吉が、水気を取り除いたばかりの手を再び蛇口に差し伸べた。センサー感知式なので、それだけで勝手にランプが灯り、水が流れ出す。最初は緑で、時間で赤に変化して点滅を開始する。それが水の止まる合図だ。
 なんだか急かされている気もするが、地下施設での水は空気同様、貴重なものだ。一滴でも無駄に出来ない。
 両手の平を上向けて揃え、溜め込んだ冷水を顔に叩きつける。バシャバシャという音が静かなトイレに反響し、蜂蜜色の髪を湿らせた綱吉は犬の如く首を振った。
 濡れた手で顔面を拭い、鼻に潜り込もうとしていた分を息と共に吐き出す。垂れ下がった前髪越しに見る鏡の中の自分は、元気なのかそうでないのか、どちらともつかない曖昧な顔をしていた。
 落ち込むことと、元気が出ることが一度に押し寄せて、感情がまとまらない。借りっ放しのタオルで唇を拭い、傍らに人が居るのも忘れて、彼は小さく溜息をついた。
「ツナ、タオル」
「うわっ」
 完全に意識が他所向いていて、横から言われて綱吉は悲鳴をあげてしまった。
 金髪から無数の雫を滴らせたディーノが、左手を差し出して変な顔をした。
「……どうした?」
「いや、なんでも、無いです」
 ぼうっとした所為で、彼が其処に居る事をすっかり忘れていた。そして此処に居るディーノが、綱吉の良く知っている、二十代のディーノではないというのも忘れていた。
 面影は残しつつも、別人と言って過言では無い。一瞬、誰だったかが思い出せなくて、目を瞬かせた綱吉は三秒間硬直し、はたと我に返って首に回したタオルを急ぎ外した。
 顔を下向け、腕を真っ直ぐ伸ばして彼に差し出す。
「どうぞ」
 仰々しく、まるで得意先に名刺を手渡そうとするサラリーマンのような姿勢を作った綱吉に軽く笑いかけ、ディーノは短い礼を告げてタオルを引き取った。湿り気を帯びた肌をゆっくりと擽り、顎の周囲を気にして何度か手を往来させる。
「やべ、髭剃り置いてきた」
 背筋を伸ばして鏡を覗き込んだ彼の言葉に、綱吉はきょとんとして改めてディーノを見た。
 言われてみれば確かに、薄らと顎に髭が伸びている。あまり体毛が濃い方でないから、そう目立たなかったが、妙に新鮮で、不思議な気がした。
 十年前のディーノも、そういえば洗面所で髭剃り片手に悪戦苦闘していた気がする。部下が居ないとてんでダメダメな彼は、電気剃刀からして上手に扱えず、いつもどこかしら切って血を流していた。
「あんまり分かりませんよ?」
「でもなー、格好悪いだろ」
 髪の毛とほぼ同色の為、肌の色に混在してしまって、本人が気にするほどではない気がした。だがディーノは頻りに顎を撫で、首の角度を変えて鏡を眺め続ける。
「取ってきましょうか」
 それが少し面白くて、目尻を下げた綱吉は提案した。けれど彼は顔を俯かせ、困った表情を作って首を振った。
 照れ臭そうに寝癖が残る頭を掻き回し、白い歯を見せた。
「それがさ、ロマーリオに預けた荷物の中なんだ」
「あ、あー……」
 ディーノは昨晩、ひとりでこのボンゴレのアジトにやって来た。いつも一緒の頼りになる髭の部下、ロマーリオは、同じく苦労性の草壁と連れ立って酒場に出向いてしまい、こちらには顔を出していない。
 となればアジトにある分を探さなければ。今は十四歳に入れ替わってしまっているけれど、綱吉たちを此処に案内してくれた二十四歳の山本の残した荷物の中に、それらしきものがあった気がする。
 今は使わずとも問題ないが、十年後の彼には必要不可欠な物のひとつに髭剃りが含まれているのは、如実に歳月の流れを感じさせて、妙な気分だった。
「しょうがないか」
 そのうちロマーリオが届けに来るだろう、と楽観的に考えて笑い、ディーノが両手を腰に据えて胸を反らす。呵々と声を響かせる彼に、綱吉も全身の力を抜いて苦笑した。
「髭のディーノさんも、格好いいですよ」
「本当か?」
 世辞を言われたと勘繰ったディーンが、疑うような目線を投げて口を開いた。
 本心と社交辞令が半々だった綱吉は、ちょっと決まりが悪い顔をして視線を彼から外し、濡れた前髪を掻き上げて目を見開いた。
 そういえば、顔を洗う前にディーノは何かを言っていなかったか。
「手、って?」
「んあ?」
 五本の指が揃った小さな己の掌を見詰め、身体ごと金髪の青年に向き直った綱吉が問うた。手を見せてくれと言われたのだったと、今になって思い出した。
 言った本人さえすっかり失念しており、最初不思議そうに眉目を顰めてから、数秒のタイムラグを挟んで両手を叩き合わせる。
 甲高い音がひとつ、締め切られたトイレに響いた。
「ツナ、手」
 ほら、と扉前の時と同じく、彼は左手を前に出した。今度は躊躇なく、綱吉が掌をそこに押し当てる。指の長さも、太さも、記憶にある相手のそれとはまるで違っていた。
 だけれど、触れた肌の温もりは十年前のディーノと変わらない。大きくなったのか、そうでないのか、サイズの差異までは判別がつかなかったが、逞しい二の腕もあわせて視界に入れ、綱吉は照れ臭そうに頬を赤く染めた。
「小さいな」
「だって、俺、まだ十四だし」
「そっか。んー、でも」
「でも?」
「……秘密」
 悪戯っぽくウィンクをして、もったいぶった口調でディーノが告げた。
 先に続く言葉が、十年後の綱吉の体格に関わるものだとは、簡単に予想がついた。だからほんのり期待したのに、結局教えてもらえなくて、綱吉は落胆と憤慨を混ぜこぜにして頬を膨らませた。
 露骨に拗ねた顔をする少年の頭を叩くように撫で、ディーノは楽しげに腹を抱えて笑った。
 人をからかって、なにが面白いのか。憤懣やるかたなしで、綱吉はムスッとしたまま彼の腕を一発殴って感情を発散させた。
「いって。酷いな、ツナ」
「ディーノさんの方が」
「仕方ねーだろー」
 意地悪をする彼が悪いのだと主張すれば、即座に彼は困った様子で頬を掻いた。
 過去から来た綱吉たちには、あまり未来の情報を与えてはいけない。特に本人に関わる情報には敏感であれ、というのがリボーンからのお達しだ。
 未来の自分自身を知ってしまえば、今の彼らの成長がそこで止まってしまうかもしれない。諦めを覚え、努力を忘れてしまう可能性も否定しない。リボーンの視点はいつだって冷静で、冷徹だ。
「……むう」
 だが少しくらいは教えてくれても良いではないか。まだ拗ねている綱吉のぷっくりした頬を撫で、ディーノは左手を下ろした。
 節くれ立った太く長い、しなやかな彼の指に目をやって、綱吉は洗面台の台座に腰を寄りかからせた。軽く膝を曲げ、目を細めている青年の顔をまじまじと見詰める。
「なんだ?」
「ディーノさんって」
 綱吉が居た時代のディーノは、既に成人していた。それから更に十年が経っているのだから、この場にいる彼は、タイムスリップをしたのでない限り、確実に三十路に突入している。
 その年代の知り合いなど、シャマルしか思い浮かばない。彼は独身生活を謳歌していたけれど、果たしてディーノもそうなのだろうか。
 マフィアの後継者ともあれば、引く手数多だろうし、部下としても身持ちを固めてくれた方が安心出来るだろうに。
「まだ結婚してないんですか?」
「ぐっ」
 気になっていた質問を何気なく口に出した瞬間、ディーノは胸を押さえて呻き声を発した。
 笑顔は一瞬で凍りつき、引き攣り笑いに切り替わった。頬の筋肉がピクピクして、優しい目つきは今や半泣き状態だった。
 もしかしなくとも、気にしていたのか。
 予想していなかった彼の傷つき具合に驚き、綱吉は背筋を伸ばして洗面台から飛び降りた。
「ディーノさん」
「いや、ぁ、ああ、うん。そう……なんだ」
 その場に蹲り、項垂れる彼の前に立って、綱吉も膝を折った。酷く弱々しい、掠れた声で質問を肯定されて、聞いてはいけないことだったらしいと想像し、綱吉は唇を噛んだ。
 いつだったか雑誌で、結婚問題はかなりナーバスな話題だと書かれているのを読んだことがあった。気軽に触れて良いものではないので、注意するようにとのコメントが付け加えられていたのだが、すっかり忘れていた。
「あの、えっと。ごめんなさい。俺、そんなつもりじゃ」
 ここまで大袈裟に落ち込まれると、綱吉もどうしていいのか分からない。
 ディーノの左手、薬指に指輪が無かったから、まだ独身なのかと気になっただけだ。悪気があって問うたのではないので、こんな反応は想像だにしていなかった。
 三十を過ぎても独身貴族を貫く男性は大勢居る。だからそう気落ちしないでくれと懸命に思いつく限りの言葉を重ね、綱吉は足元を気にし、腰を下ろした。
 トイレとはいえ、清掃が行き届いているので床は綺麗だ。寝転ぶのは気が引けるが、座る分には問題ないと判断して、彼はしゃがみ込んでいるディーノに膝を寄せて手を伸ばした。
「ディーノさん」
 そんな顔をされると、綱吉まで哀しくなってしまう。どうか元気を取り戻し、いつもの彼に戻ってくれるよう願いを込めて頭を撫でれば、深く項垂れていたディーノは恐る恐る顔を上げた。
 若干自虐的な笑みを浮かべて、綱吉の手に甘えて頬を寄せる。
「分かってんだけどさ」
 後継者を作り、育てるのは、ひとつの組織の頂点に立つ人間としての責務でもあった。血縁関係に縛られる必要もなかろうが、それが重要なファクターであるのも間違いない。父親からキャバッローネを引き継いだディーノだから、将来はその息子に、と周囲が期待するのも仕方が無かった。
 だのに未だ所帯を設けず、ふらふらとしている。三十二を過ぎてさすがにこれはよろしくないと、他に比べて寛容だった部下も最近は随分と口煩くなって来た。
 髪を梳き上げ、肩を竦めたディーノは小さな溜息をひとつ零した。
「でもさー、どうせだったらやっぱり、自分が一番好きな相手と、一緒になりたいじゃん」
「いるんですか?」
「ああ」
 白い歯を見せて無理矢理笑ったディーノの、気になる言葉につい突っ込んでしまう。身を乗り出した綱吉に優しい目を向け、彼は迷う事無く頷いた。
 それもまた意外なひと言だった。
 ディーノほどの男に恋心を抱かれながらも、振り向かない女性がこの世にいようとは。
 確かに部下が居ないとてんでダメ人間であるけれど、ハンサムで、背も高く、なにより強い。ここぞと言う時は頼りになるし、判断力や行動力にも優れている。
 彼は綱吉の、憧れの人だ。
「あ、そっか」
 だが思い人に気持ちを伝えるのにとても大きな障害があるのを思い出して、綱吉は膝の上の手を握り締めた。
「その人って、ひょっとして、一般の?」
「どうかな。けど、俺がキャバッローネのボスなのは、知ってる」
 含みを持たせた言い方に疑問を抱きながらも、予想とは違った返答に些か驚き、綱吉は出かかった声を飲み込んだ。
 京子やハルに、自分がマフィア後継者である事をずっと言い出せずにいる自分とは、どうやら状況が違うらしい。ディーノも同じ悩みを抱えているのなら相談し合えると思ったのに、当てが外れた。
「マフィアのボスとは嫌だって、言われたんですか?」
 となれば、残る可能性はこのひとつきり。
 だが、拳を硬くした綱吉の質問に、彼は首を横に振った。
「言って無いんだ」
 自分自身を笑って、彼は綱吉に倣い、床に腰を下ろした。肩幅に足を広げ、三角に立てた膝の頂に両手を置く。
 発せられた言葉の意味を読み取れず、綱吉は琥珀の目を丸くして彼を凝視した。
「なにをですか?」
「好きだってこと」
「ええっ」
 告白すら未だだという告白に、綱吉が素っ頓狂な声を出してその場で飛び跳ねた。両腕を頭上にやって万歳のポーズを取り、それで驚きを表現した彼を笑って、ディーノはクシャリと髪を掻き毟った。
 物憂げで、哀愁を漂わせた瞳が宙を漂い、両者の間に落ちた。
「そんな。じゃあ、その人は」
 綱吉が両手を結び合わせ、指をもじもじ動かしながら懸命に言葉を捜して呟く。
 にわかには信じ難かった。ディーノが告白を躊躇するなんてこと、あるのだろうか。
「俺が好きだってことも、知らないだろうな」
 皮肉に顔を歪め、彼は言った。溜息混じりの独白に胸が締め付けられるようで、綱吉は解いた手を己の胸元に添えた。襟が伸び気味のシャツを握り締め、無数の皺を表面に刻み込む。
 どうして言わないのだろう。ディーノ程の男に好意を抱かれて嫌な気分になる人など、いるわけがないのに。
「色々あるんだよ。でも、そうだな。何度かは、伝えようとした」
 ただ肝心の時になると、必ずと言っていいほど邪魔が入るのだ。
 ふたりきりのタイミングを狙おうにも、いつだって誰かが傍に居て引き離せない。外で会う約束をしても、護衛だと言ってひとりかふたりが常に同行する。食事に誘えば、自分の家で食べた方が美味しいし安上がりだと言って、逆に家族同伴の食卓に誘われる。
 贈り物をしても、こんな高価なものは自分にはつりあわないと受け取ってくれない。
 聞けば聞くほど不器用で、悉く運が悪い彼に同情しつつ、なんだか実に彼らしく思えて、綱吉はつい笑ってしまった。
 ぷっ、と小さく噴き出して、気を悪くしたディーノにじろりと睨まれて舌を出す。
「ごめんなさい」
「いや、いいさ。ツナの所為じゃないんだから」
 力の無い笑みで返されて、綱吉は口を閉じると彼の方へ僅かに身を寄せた。元気付けるべく、手近なところにあった彼の膝をぽんぽん、と叩き、目を細める。
「モテモテなんですね、その人って」
「ああ、びっくりするくらいにな。でも本人は、あんまり気付いてないみたいだけど」
「へー」
 ディーノだけではなく、色々な男から懸想されて、しかも誰にも靡かない。ひとりに定めず、平等に皆を愛して、守ろうと慈しんでくれている。
 強く、立派で、控えめながら芯はしっかりとしており、揺るがない。そんなところに周囲の人々は惹かれて、付き従うのだろう。
 語られる人物像は綱吉には眩し過ぎて、少し妬ましく、羨ましくなった。
 彼の気持ちがどんなに強いものなのかは、思い出しながら言葉を紡ぐディーノの、誇らしげな表情からも充分に伝わってきた。リボーンを介して知り合った頼れる兄貴分も、この十年で綱吉以上に大切な存在を見出したのだ。
 喜ばし事だ。だのに、何故だろう。自分の居場所を奪われたような気がして、ちょっとだけ面白くない。
「凄い人、なんですね」
「そうだぜ。他の奴じゃ絶対に真似出来ないことを平気でやるし、考えもしなかったことをどんどん実行しちまう。十年前は、本当にちっちゃかったのにな」
 そう言って彼は俯いていた綱吉の頭を、大きな手でくしゃくしゃに掻き回した。
 四方八方を向いて跳ね放題だった髪の毛が、余計酷い形に作りかえられた。上から押し潰そうとする圧力に抵抗して腹に力を込めた綱吉は、両手を使って彼を押し退けると、乱れた息を整えながら、眉目を顰めて今し方聞いた台詞を繰り返した。
「十年前、って」
 鸚鵡返しの問いかけに、一瞬だけディーノの表情がしまった、と言わんばかりに曇った。
 その時代は、ちょうど此処に居る沢田綱吉が生きる時代だ。十四歳の綱吉と、二十二歳のディーノが、和気藹々と仲間と肩組み合って、騒がしく、賑やかで、楽しい時間を過ごしていた頃だ。
 ならば、まさかとは思うが。
「ディーノさん、もしかして……」
 ゴクリと唾を飲んだ綱吉の緊張を感じ取り、ディーノもまた表情を引き締めた。
 綱吉の脳裏に灯るライトは、さっきからずっと警告のアラームを発していた。ひとつの可能性に行き当たり、心臓がドキドキして胸がぎゅっとする。唇が乾き、無意識に引っ掻いて、思い浮かんだ人物像に綱吉ははっ、と息を吐いた。
「ディーノさんが好きな人って」
「ああ」
「京子ちゃんですか!?」
「は?」
 声高に叫んだ綱吉の真剣な眼差しと裏腹に、唾まで浴びせられたディーノはぽかんと間抜けに口を開いた。
 じたばたと膝を叩き合わせ、綱吉は真っ赤になった顔を両手で隠した。ひとりキャーキャー言って、ディーノを置き去りにする。
 綱吉の頭の中では、自分に遠慮して言い出せないでいるディーノの姿が勝手に捏造されていた。確かに京子はモテる、そして本人はその自覚が無い。常に兄である了平や、親友の黒川花が目を光らせており、時に突拍子も無い事を言って周囲を驚かせたりもする。
 ディーノからすれば、そんな風に考える綱吉こそ、突拍子も無い思考回路を持っていると感じるのだが、京子の例に漏れず、綱吉自身、その事には気付いていないようだった。
 真面目に悩んでいる青少年の姿に、堪えきれず声立てて笑い、ディーノはまたも綱吉の頭をかき回して手前に引っ張った。
「わっ」
 いきなり胸に抱きかかえられて、背中をバシバシ叩かれる。力加減などまるで無くて、兎に角痛い。
「ちょっと、ディーノさん。止めてくださいってば」
「はは、あーっ、あははは。いや、わりぃ。ツナ、傑作だ」
 完全に的外れな推理だと、勘違いを指摘してディーノは目尻に浮かんだ涙を拭った。最後にもう一発、思い切り綱吉の肩を叩いて彼を解放する。シャツの襟首から覗く華奢な肩が、他に比べて僅かに色付いていた。
 ヒリヒリすると腕を後ろに回した綱吉が、渋い顔をして狼藉を働いた青年を睨んだ。だがディーノは気にする風もなく、顔の横で手を振り、喉を鳴らして笑った。
「確かに京子は可愛いけどな。俺の好みとはちょっと違う」
「え、えー」
 きっぱり目を見て否定されて、綱吉は不満の声をあげた。
 条件にぴったりだと思ったのだが、違うとは。ではいったい、彼の想い人とは誰なのろう。最初から考え直すものの、他に思い当たる人物は出てこなかった。
「俺の知らない人ですか?」
「うーん。秘密」
 人差し指を立てて自身の唇に押し当てた茶目っ気に溢れる表情に、綱吉は唇を尖らせた。リスのように頬を膨らませ、面白くないと不平不満を並べ立てる。
 そんな顔をされても教えるわけにいかないディーノは、肩を竦めて苦笑した。
「分かんない?」
「分かりません」
 目一杯ヒントは与えてあるのに、天性の理解力の無さは相変わらずだ。
 丸い目を平たくして、愛らしい唇を突き出して拗ねる十四歳の少年に目を細める。もっと沢山、色々な表情を見ておけばよかったという後悔がディーノの胸を過ぎり、少しだけ呼吸が苦しくなって、彼は下を向いた。
 床に座り直し、両手で頭を抱え込む。
「ディーノさん?」
「言えば、……言っておけば、良かったな」
「え」
「居なくなっちまう前に、ちゃんと、伝えておけばよかった」
 右手だけを滑らせて落とし、彼は寂しげに微笑んだ。
 紡がれた言葉の意味は、耳を通して即座に綱吉の全身を駆け巡る。どくん、と心臓が強く跳ねて、嫌な汗が首筋に滲んだ。
 山本の父親、ロンシャンや持田先輩。綱吉に――ボンゴレに関わってしまったが為に、奪われた数多の命。
「……っ」
 喉の手前で呼気が詰まり、噎せて咳込んだ未来のボンゴレ十代目に眇めた目を向け、ディーノは首を振った。左手を伸ばして、途端に泣きそうに顔を歪めた優しい子の頬を包み込む。
 綱吉は唇を噛み締め、嗚咽を堪えて俯いた。
 寸前、引き結ばれていた唇が何かを呟いた。音にはならず、ディーノの耳にも当然響かない。けれど聞こえた。ごめんなさい、と。
「ツナが謝ることじゃない」
「でも」
「悪いのは白蘭で、ミルフィオーレで、ツナ、お前自身も被害者なんだ」
 謝らないで欲しい。いや、謝ってはいけない。
 謝罪とは、即ち己の非を認めること。相手の罪を帳消しにしてしまう、危険な言葉だ。
「そんな」
「それに、ツナ。お前は変えてくれるんだろう?」
 用意された戦いの舞台は、もうじき。これに挑み、打ち勝ち、綱吉たちは本来の時間へ帰るのだ。
 歪に壊れてしまった時間を奪い返し、正しく、希望ある、優しい想いに溢れた世界を取り戻す。誰も失わせない。誰も哀しませない。綱吉自身が言ったのだ、この時代は間違っていると。
 未来を、誤った方向へ進もうとしている時間を止めるために、綱吉は戦う。
 これはディーノの失われた愛しい人を取り戻す戦いでもあるのだ。
 綱吉の両腕を取り、引き寄せたディーノが細い肩に顔を寄せて囁く。祈るように目を閉じて、静かに、厳かに。変えてくれ、と。
「ディーノさん」
「……俺にも責任があるのかもな。もっと早く気付けていたら、先手を打てていたら、強かったなら。だめだな、あれこれ考えちまう」
 心の寄る辺を失って折れた心は、なかなか元には戻らない。胸にぽっかり広がった空洞を埋める手段を持たず、虚無感に囚われて無為な時間を過ごした。
 変わったのは、ミルフィオーレに侵入した六道骸が流した情報を見てから。
 日本に、十年前の綱吉たちが居る。ボンゴレリングを携え、タイムトラベルを経て未来へやってきている。
 砕け散った心が、想いが、残っていた欠片から一気に成長を遂げて大輪の花を咲かせた。再びディーノに立ち上がる気力をもたらした。居ても立ってもいられず、ボンゴレ本部とヴァリアーの危機も無視して日本行きのチケット片手に飛行機に飛び乗った。
「有難うな、ツナ」
「ディーノさん?」
 また会えてよかった。そう呟き、ディーノは綱吉の華奢な腰に腕を回した。緩い力で抱き締めて、至福の時を味わって目を閉じる。
「それで、お前達が勝って、元の時間に戻ったら。俺に、十年前の俺に伝えてくれ」
「え?」
「手を伸ばせ、捕まえて離すな」
 届くまで諦めるな、掴んだらなにがあっても絶対に逃がすな。
 哀しい思いをするのも、悔しい思いをするのも、後ろを振り返って落ち込むのも、ひとり打ちひしがれて暗い部屋に閉じこもるのも。
 今此処に居る、この時代の自分だけで充分だ。
 未来は変わる。
 必ず変わる。
 変えてみせる。
 その為に、今のディーノが出来なかったことはなんだ。
「後悔する前に動け」
 二度と届かぬというのなら、託そう、全てを。十年前の、まだ夢や希望に純粋で、無鉄砲に馬鹿でいられた頃の自分に。
 二十二歳のディーノに。
「頼む」
 綱吉に縋り、呻く。
 未来を変える。
 必ず変える。
 契りあわなかった心を、今度こそ結ぶために。
 彼の涙を、無駄にせぬために。
 魂が搾り出した切なる願いに、綱吉は小さく頷いた。

2009/09/23 脱稿