高枕

 その日は、何の変哲もない木曜日だった。
 いつも通り遅刻ぎりぎりの時間に登校して、風紀委員の服装チェックにびくびくしながら上履きに履き替えて教室へ行き、退屈な午前の授業をひと通り終えて、学校での数少ない楽しい時間である昼休みを満喫。午後からの授業を思って憂鬱な気分になりながら、すっかり寒くなった窓の外を眺めてぼんやりと時間を過ごす。
 普段と大差ない、退屈で面白みも少ないけれど、事件らしい事件も起こらない、平々凡々とした穏やかな昼下がり。
 このまま授業を終えて、掃除をして、教科書が詰め込まれた重い鞄を担いで家に帰る。事務的に同じことの繰り返しの毎日に、少しくらい刺激が欲しいかな、と確かに思ってはいたけれど。
 いたけれど。
「……なんの、御用、でしょう」
 昼休憩が終わりに近づき、予鈴まであと五分を切った頃。
 唐突に学校全体に設置されたスピーカーが警告を発した。何事かと教室がざわめく中、読み上げられた名前の人物は咄嗟に状況判断が出来なくて、一斉に振り向いたクラスメイトの視線に竦みあがった。
 一年A組、沢田綱吉。今すぐ応接室へ来ること。
 数百人の生徒が在籍する並盛中学にて、その名前を持つ人間はひとりしかいない。きょとんとした当人は、持ち上げた視線を級友に向けた後に自分自身を指差して首を傾げた。
 十個以上の首がタイミングを揃えて上下運動して、頷かれた綱吉は、今度は反対側に首を倒した。
 一旦音の途切れたスピーカーが、またザザザ、という砂嵐を起こした。
 まるで教室でのこのやり取りを見ていたかのように、追加される。三十秒以内で来るように、と。
 そんな無茶な、と綱吉は悲鳴を上げて椅子を蹴り倒した。獄寺が握り拳を振り回して、横暴だとスピーカーに向かって喧嘩を売っている。山本は頭の後ろで両手を結び、何かしたのかと綱吉に聞いた。
 けれど、答えている暇などなかった。
 カウントダウンするノイズ交じりの声の主が誰であるか、今更問うのも愚かしい。召集先が応接室と来てピンと来ない人間は、教職員含めひとりもいないのではなかろうか。
 心臓を爆発させる勢いで廊下を走り、階段を駆け下りてその部屋へと向かう。ノックもなしにドアを叩き壊すつもりで押し開けると、真正面の机に悠然と構えていた青年が、長細いマイクを手にこちらを見た。
 しなやかな指が四角い土台部分のスイッチを押す。瞬間、ブツッと言う雑音がスピーカーからひと際大きく響き、そして沈黙した。
 息せき切らした綱吉が、右手をドアに押し当てたまま雲雀を睨みつける。前傾姿勢で肩だけを動かし、すっかり乱れた呼吸を整えて汗を光らせている彼を見て、雲雀は大きくて重いマイクを机に戻し、意味ありげな妖しい笑顔を浮かべた。
 切れ長の眼を眇めた彼に見詰められ、鎮まろうとしていた綱吉の心臓はドキリと跳ね上がった。
「入りなよ」
 朗らかに言われ、綱吉は背後を気にして廊下を振り返った。時間の所為もあるが、風紀委員が根城にしている応接室の前を好んで通りたがる生徒が居ない為、人気の乏しいそこはシンとして冷たい空気に満ち満ちていた。
 首の後ろを撫でた風に体温を奪われ、ヒヤッと来た綱吉は慌てて応接室内に身を滑らせてドアを閉めた。まだ落ち着かない心臓を制服の上から撫で、額に張り付いた前髪を払い除けた彼は、壁に当たって跳ね返る心地よい暖気に視線を浮かせ、天井に設置されている空調を見詰めた。
 四角形の各辺に付随する羽が斜めに角度を取り、暗闇が細い隙間から覗いている。綱吉の頬を擽る暖風はそこから流れていた。
「あの」
「君、身長いくつだっけ」
「はい?」
 自分に何の用なのか。わざわざ校内放送まで使って呼び出した相手に視線を戻し、綱吉は居住まいを正して両腕を脇に垂らした。
 温かな空気を吸い込んだからか、気管が緩んで鼻水が垂れそうになる。慌てて息を大きく吸った彼に、雲雀は机に肘を立てて顔の直ぐ下で両手を結び合わせた。
 重なり合った手の甲に顎を載せ、少しだけ前屈みに身を乗り出した彼の質問に、綱吉は目を丸くした。
「身長?」
「そう」
 教室から此処まで三十秒で来い、等と無茶な注文をしておいて、そんな問いかけが成されるとは夢にも思わなかった。琥珀色をした大粒の目をぱちくりとさせて、綱吉は念のため聞き返したが、雲雀は素早く首肯するに留めて理由は口にしなかった。
 そんなものを聞いてどうするのか。疑念が沸き起こるが、真っ直ぐ綱吉を射抜く雲雀の視線からは逃れ難く、彼は胸元に手を置いて上着の襟を握りしめた。厚みのあるジャケットの生地をなぞりながら、数ヶ月前の健康診断の結果を懸命に思い出そうとする。
「いくつ?」
「ちょっと待ってください」
 だが測った季節は春で、中学校入学したばかりの時期だ。あれから既に半年以上が経過しており、幾らなんでも多少は背が伸びている――筈。
 急かす雲雀に広げた右手を突き出し、左手で頭を掻き毟って古い記憶を懸命に頭から引っ張りだす。当時はリボーンもおらず、友人もおらず、学校は楽しい場所ではなかった。あまり思い出したくない日々の連続で、健康診断の結果もその中に深く埋没していた。
「えっと、確か……ひゃくごじゅう、よん? ご?」
 自分に首を傾げ、疑問符をつけて綱吉が呟く。自信がないのだと明らかに分かる素振りに、雲雀は結んでいた手を解いて背凭れに身を沈めた。優雅に足を組み、椅子を軋ませる。
 部屋の奥から聞こえて来た騒音に、綱吉は頭皮に爪を立てて上目遣いに雲雀を窺った。
 彼ならば、風紀委員長の特権乱用で、綱吉の個人データくらい直ぐに取り出してしまえるだろうに。四月末の健康診断の結果だって、ちょっと調べれば簡単に手に入る。いや、既に入手済みの可能性の方が非常に高い気がした。
 とすると、彼が知りたがっているのは現在の綱吉の身長だ。半年で伸びた分を加味しての数値を、彼は欲していると思って間違いないだろう。
 ただ保健室へ出向く機会も滅多にないし、綱吉は身長測定器に好んで乗りたがる性格でもない。
「どっち?」
 不確定な返答に満足しない雲雀が、不機嫌さを表情に滲ませる。腹部に両手を置いたまま斜めにしていた背中を真っ直ぐに戻した雲雀に、充分距離があるに関わらず迫ってくる印象を与えられた綱吉は身を捩り、ドアに背中を張り付かせた。
 露骨過ぎる怯え様に、雲雀の表情が曇った。
「いや、あの、えっと……分かりません」
 高まる不穏な空気に焦りを感じ、嫌な汗を背中に流した綱吉は、もじもじと膝を擦り合わせてそっぽを向いたまま答えた。
 身長なんて、そもそも平素の生活ではあまり意識しない。伸びているかどうかなんて、成長痛でもあれば別だが、今のところそんな懸念が微塵もない綱吉には判別がつかなかった。奈々も何も言わないところからして、彼女がさしたる変化を感じていないのも確実。
 結局のところ、今綱吉が出せる答えは「知らない」の四文字しかない。
 雲雀の表情がムッと険しくなった。
「っていうか、なんだって俺の身長なんか」
 もうすぐ五時間目の授業が始まる、ここでのんびりしている余裕はない。両手を広げて、自分を呼び出した本当の理由を聞きたがった綱吉に、雲雀はふむ、と小さく息を吐いて肩の力を抜いた。
 椅子の上で前後に身体を揺らした後、ゆったりとした仕草で立ち上がる。浮いていた足が床に降ろされる音が響いて、綱吉は内開きのドアに背中を押し当てた。
 今外から誰か来て、ドアを開けたら押し出された自分は壁に挟まれるな、などとどうでもいい事を考えながら、机を回り込んで近付いてくる雲雀に表情を強張らせる。中学校の全権力を一手に集める風紀委員長は、高らかと鳴り響く予鈴の音をドア越しに聞いて、怯えきって俯いている綱吉の前で立ち止まった。
 室内灯の明りを遮り、人型の影を作り出す。視界が急に薄暗くなって、綱吉は閉ざしていた瞼を恐々持ち上げた。
「百五十五前後、かな」
「……はい?」
「身長」
 てっきり殴られるかなにかだと思っていたのに、聞こえたのはそんな彼の声だけ。拍子抜けた顔で雲雀を見た綱吉は、自分の頭上に掲げられた雲雀の手に気付いて首を傾げた。
 方々を向いて跳ねている髪の毛分を差し引いて、それくらいだと雲雀が告げた。
「僕が百七十手前だから」
「はあ」
「おいで」
 自分との差が十五センチ程度だから、おおよそその辺だろうと当たりをつけた雲雀が、疑問符を浮かべている綱吉を手招いて離れる。まさか本当に綱吉の背丈を知りたいが為に呼び出したのかと思ったが、どうやらまだ用事は終わっていないらしい。
 意味が解らないと、人の都合お構いなしの暴君の背中を見やり、綱吉は鳴り終わった予鈴の余韻に耳を澄ませた。
 踵を返した雲雀について部屋の中央に向かうか、それとも背にしたドアを開けて教室へ戻るか。一応二者択一ではあるものの、雲雀の凶暴性を知っている以上、結論は出ていた。
 それでも念のため、言ってみる。
「あの、俺、授業が」
「許可は取ってあるよ」
「え」
「赤ん坊から」
「……」
 もしやそこまで手を回しているのかと、期待が膨らんだ瞬間、すぽん、と萎びてしまった。そっちかよ、と心の中で呟いて、脱力頻りの状態で綱吉は足を前に繰り出した。
 リボーンの許可があっても、それで授業のサボりが帳消しになるわけではない。根本的にずれている雲雀に肩を落とし、綱吉は疲れた顔を持ち上げて、応接セットの前で立ち止まった彼に首を傾げた。
 雲雀は羽織っていた学生服を外し、皺にならないよう丁寧に折り畳んだそれを、ふたり掛けには大きく、三人並ぶには少し狭いソファの背凭れに引っ掛けていた。
「ヒバリさん?」
「体重は?」
「四十六か、それくらいだったと思いますけど」
 そちらは、風呂場に隣接する洗面所に体重計が置かれているので、気が向いた時に乗って測っているので分かる。今は昼食後直ぐなので、幾らか増えているだろうと少し多めに見積もって言えば、雲雀はふむ、と顎に手を置いて頷いた。
 頭から足の先まで見詰められて、居心地悪さから綱吉は身を捩らせた。
「ヒバリさん、俺」
 さっさと教室に戻ればよかった。そうした場合、後からなにをされるか分からなくて怖いが、こんな風にじろじろ見られるのも気分が悪い。女子ではないので自分の体重が恥かしいとは思わないが、脆弱な体格を改めて指摘された気分で、綱吉は唇を尖らせた。
 貧相な骨格は、母親譲りだ。父親はがっしり体型なのに、そちらの遺伝子はあまり色濃く反映されなかった。
「座って」
「ヒバリさん、俺、授業が」
「午後は、英語と地理だっけ」
「そうですけど……」
 白いカッターシャツ一枚になった雲雀が、学生服の上からソファを叩いた。軽く埃が舞い、光を反射してきらきらと虹を放つ。
 人の話をまるで聞かない彼に痺れを切らし、その場で足踏みをした綱吉を涼しげな黒い瞳が射抜いた。さらりと言われ、渋々頷くと今度は本鈴が鳴る音が聞こえた。
 電子処理された鐘の音が、高く低く、一定のリズムで音階を刻んでいく。
 頭の中に響くそれと、耳から入ってくる音色とに若干のずれがあるのは、脳内が勝手に記憶を再生させているからだ。
「座りなよ。今日の授業分は、僕があとで見てあげる」
 左手で背凭れを握り、黒い生地に皺を作った雲雀が抑揚ない声で言った。
 チャイムに気を取られていた綱吉が、数秒遅れで反応して顔を上げる。含みのある彼の表情を間近に見て、綱吉は無意識に半歩後退した。
「そういう約束だから、赤ん坊と」
「俺の意見は無視ですか」
「うん」
 自分の与り知らないところで、自分に関わる何かが裏取引されていた。まるで聞かされていなかった事実に、綱吉は怒るよりも呆れ、このふたりならば充分やりそうなことだと諦めの境地で項垂れた。
 綱吉がどれだけ強く訴えかけても、彼らは聞く耳を持たない。天上天下唯我独尊を地で行くふたりには、最早なにを言ったところで無駄だ。
 深々と溜息をついた綱吉は、広げた手で顔半分を覆って弱く首を振った。
 兎も角雲雀は、綱吉が授業をサボる了解をリボーンに求め、リボーンは授業の代替を執り行うことで承諾した。英語と社会の二教科、本当に雲雀が教えてくれるのか甚だ疑問であるが、ではそもそも、何故彼はこの時間に自分を呼び出したのだろう。最初の疑問に立ち返って、綱吉は眉を顰めた。
 座るようにと促されたソファに目を向け、重厚な赴きある革張りのクッションに怪訝な表情を作り出す。自宅のリビングにあるものよりもずっと立派で、座り心地も気持ち良さそうなそれから再度雲雀を仰ぎ見た綱吉は、仕方なく彼の言葉に従い、部屋の入り口側からソファ前面へ回り込んだ。
 脚の短いガラスの天板のテーブルを間に挟み、向かい側にはひとり掛けのソファがふたつ、並べられている。壁際には愛想のないロッカーが置かれて、中の棚には所狭しと盾や杯の形をしたトロフィーが押し込められていた。
 少し高い位置に目をやれば、額に入った賞状も、よく見える角度で飾られていた。
 雲雀の視線を感じ、他所に注意を払うのを止めて綱吉は制服の裾を握って真下に向けて引っ張った。膝を曲げて身を屈め、ゆっくりとソファに腰を落とす。尻に皮の感触を感じて脚に込めていた力を抜いて、
「わっ」
 予想以上の柔らかさに驚き、両手両足を跳ね上げた。
 ずるり、と体が斜めに沈み、後頭部が背凭れに埋まってしまった。腰はソファの浅い位置まで滑っており、真正面には天井が見える。唸り声をあげる空調がまるで笑っているようで、自分が意外に緊張しているのだと初めて知った。
「なにしてるの」
「……わかりません」
 背中には背凭れと座面の境界線が来ており、隙間が綺麗な三角形を形成していた。反対側から前に回り込んでいた雲雀にもしっかり今の瞬間は見られたわけで、呆れ声の問いかけに、綱吉は顔を真っ赤にしていそいそと両手で上半身を支えた。
 腰を持ち上げ、今度は慎重に身体を下ろす。ゆっくり過ぎるじれったい動きを、雲雀は何も言わずに見守っていた。
「もう少し」
 そうして綱吉が、二度、三度と上半身を揺らして安定出来る場所を見つけ出したところで、不意に彼は言葉を発した。
「もう少し、そっち」
 思案顔で顎を叩いていた指を回転させ、綱吉の左側を指し示す。今現在の綱吉の位置は、横に長いソファの、向かって右端より。但し肘掛けからは二十センチ弱の隙間があった。
 顔を上げて雲雀の指を見て、左手が落ちている空間に目を向けた綱吉が不可解だと顔を顰めた。けれど雲雀の指は動かず、あまり口答えするのも宜しく無いと早々に諦め、大人しく彼の指示に従って左に寄る。
 大人三人が並ぶに充分なスペースがあるのだから、これくらいのゆとりは許されても良かろうに。妙に細かい雲雀に心の中で嘆息し、綱吉はこれで良いかと尻に巻き込んだジャケットを引っ張りながら問うた。
 今度は頷いてもらえて、ホッと胸を撫で下ろす。
 しかし、一体何だというのだろう。いきなり呼び出して、授業をサボるよう言われ、身長体重を聞かれて、座る位置まで指定されて。
 茶のひとつくらい出てきても良いのではなかろうか。理不尽な雲雀の要求にこたえてやっているのだから、それくらいの接待は当然だと考えつつ、温い室内の空気にベージュ色の上着を着たままでは少し暑いかと、綱吉は手持ち無沙汰気味に息を吐いた。
 襟元に指を入れ、雲雀の前だというのも忘れてネクタイを少しだけ緩める。いくらか楽になった呼吸にほっとしていたら、右側から細長い影が落ちた。
「ん?」
 なんだろうかと顔を上げた瞬間、黒いものがいきなり顔の前を、上から下に走って行った。
「どわっ」
 ドサッと音を立てて膝に乗ったそれに驚き、ソファに座ったまま飛び上がる。膝に蹴られたそれは僅かに浮き上がり、自分の意思で綱吉の太股に沈んだ。
 サッカーボールくらいはある真っ黒の毛玉の正体に直ぐに気付けず、目を白黒させた綱吉は急激に脈拍を強めた心臓に怯えて身を小さくする。首を亀のように引っ込めた彼を下から見て、雲雀は床に置いていた脚を右から先に持ち上げた。
 綱吉とは反対側に肘掛けに踵を乗せて、ずり落ちる動きを利用して履いていた靴を脱ぐ。自然落下したそれらの音ではたと我に返った綱吉は、じっと自分を見詰める黒い視線に気付き、頬を引きつらせた。
「ひっ」
「五月蝿いよ」
「ばっ」
「枕は静かにしなよ」
 一音発するたびに大仰に背を仰け反らせる綱吉に、雲雀は顰め面を作って下から手を伸ばした。小さな鼻を抓み、思い切り引っ張ってやる。
 それくらいの近さに――綱吉の膝に、雲雀がいた。
 この状況は、まさに俗に言う膝枕だった。
 いったいなにがどうして、こうなったのか。全く予想していなかった結果に綱吉は頭を混乱させるが、雲雀は至って平然として、綱吉の右太股で後頭部を弾ませると、紺の靴下を履いた足を突っ張らせて上半身を押し出した。
 首の後ろが太股の形にぴたりと寄り添い、左右の脚のくぼ地には後頭部の出っ張りがすっぽりと収まった。
「うん」
 悪くない、と嘯いた彼が信じられず、綱吉は頭上にやったままの両手のやり場に困り、わたわたと温かい空気を掻き回した。
「ヒバリさん、えっ、え、あのっ。なに、なにこれ」
「枕」
「それは分かります、っていうか分かりません!」
 さっきと同じ単語を繰り返されて、余計頭がパニックになり、綱吉は支離滅裂な事を口走った。
 膝枕だというのは、状況を見れば即座に理解出来る。出来るのだが、解らない。何故自分なのか。ひょっとしなくても呼び出された理由はこれなのか、身長や体重を聞いたのも、全部。
「最近寝つきが悪くてね」
 頭をぐるぐる回している綱吉の混乱振りを笑い、目尻を下げた雲雀が低い声で囁く。
「赤ん坊に相談したら、枕を変えればいいんじゃないかと言われてね」
 綱吉がまともに聞いていないのを承知で、雲雀は楽しげに言葉を連ねた。
 曰く、リボーンに助言を乞うたところ、今まで使っていたものとは違う枕を試してみてはどうか、と。更に適度に温かい環境を維持するだとか、人間の心音は安心感を与えてくれるだとか、色々と余計な知恵をあの赤ん坊は披露してみせたのだとか。
 それがどうして、こんな結論に至るのか。
 雲雀という人物の思考回路がまるで想像できず、綱吉は太股にかかる重みに眩暈を起こし、両手で額を覆った。
「物は試しと言うだろう?」
「だからって、俺じゃなくてもいいじゃないですか」
 緩く首を振り、綱吉が必死に訴えかける。なにも自分のような、骨格も肉付きも貧相な男ではなく、もっとふくよかで柔らかい女の子で試すなりすればいいものを。
 しかし雲雀は、それこそ不本意だといわんばかりに眼力を強め、綱吉を睨んだ。
「女子は、やれセクハラだなんだと五月蝿いからね。それに君なら、僕の寝こみを襲ってどうこうしよう、という気も起こらないだろうし」
 顔を隠している綱吉の手を取り、引き剥がして雲雀が悪戯っぽく言う。それは信頼されているのか、馬鹿にされているのか、どちらだろう。判断しあぐね、綱吉はがっくりと脱力した。
 身長と体重から分かるように、綱吉の体には殆ど贅肉がない。筋肉も申し訳程度にあるだけだ。然るに脚も当然細いが、決して枕にするに適した素材だとは言い難い。むしろごつごつして、寝心地は最悪に思える。
「そうでもないよ」
 なんとか退いてもらおうと言葉を連ねるが、雲雀はすげなく言い切ってしまった。黒髪の隙間からじっと綱吉を見詰めた後、ふっと力の抜けた笑みを浮かべて瞼を閉ざす。
 脚に感じる重みがほんの僅かに増して、綱吉はどきんと心臓を弾ませた。
 薄く開いた唇から、安定したリズムで吐息が零れ落ちる。無防備にも程があると呆れるくらいに、雲雀は綱吉の膝の上で寝入る体勢に入ってしまった。
 両手は胸の上に重ねて、苦しくない姿勢を自然と作りだす。本当に此処で、この状態で眠るつもりなのかと綱吉はひとり焦るが、雲雀からの反応は皆無だった。
「ひば、ひばりさっ」
 うろたえ、綱吉は視線を泳がせる。まさかもう寝入ってしまったのか、それはあまりにも速すぎやしないか。
 未だ置き場所が見付からない両手を胸の前で絡ませ、綱吉は指の隙間から穏やかな寝顔を晒す雲雀を覗き見た。日頃目にする凶悪な面構えが薄れ、見目整った麗しい青年が姿を現す。果たして自分の知る雲雀恭弥と本当に同一人物かと疑ってしまえる変わりように、彼は天を仰いだ。
「待ってよ、もー……」
 空調は心地よい温度を維持し、綱吉を優しく包み込む。そよそよと吹く風は、春の陽だまりを思わせた。
 眠る雲雀を膝に、身動き取れなくなって綱吉は途方に暮れた。
 彼を起こすのは、怖い。前に酷い目に遭っているのを思い出す。かといって、このまま自然に目を覚ますまで待つのも、辛い。目覚ましをセットしているわけでもなく、いつ起きるのかは全く不明だ¥。
 寝つきが悪いと言っていた。その言葉が信じられないくらいに、彼はすんなりと意識を闇に沈めてしまった。
「ヒバリさん」
 そういえば家のちびっ子たちを抱っこしていたら、ランボもイーピンも、気がつけば眠ってしまっている場合が多かった。あのリボーンでさえ。
 子供達は眠るのが半分仕事のようなものだから、今まで深く気にも留めなかった。そんなに自分の膝は、気持ちが良いのだろうか。自分では試せないから、解らないけれど。
「ヒバリさーん」
 小声で呼びかけるが、落ち着きある寝息が繰り返されるだけで、返事はなかった。
 そのリラックス具合に脱力し、綱吉はゆっくりと背凭れに身体を預けた。ふかふかのクッションに背中を沈め、深く長い息を吐き出す。
「俺、そんなに良い奴じゃないんですよー?」
 雲雀は、綱吉が自分の寝込みを襲うような卑怯な真似をしない、と言っていた。
「俺、馬鹿だから、勉強教えてもらっても、飲み込み悪くて時間かかりますよー?」
 英語は嫌いだった。社会も、暗記物が多いのでなかなか頭に入ってこない。
「俺、ヒバリさんが起きるまでじっとしてられる自信、ないですよ」
 暖房で適度に温んだ空気、静かな空間。なにもする事がないこの状況で、膝の上には気持ち良さそうに眠る人。
「俺、寝ちゃいますよ」
 もう既に、少し、うつらうつらとしている。
「涎、垂らしたらヒバリさんにかかっちゃいますよ」
 背中を丸めて俯けば、そこには仰向けの雲雀の顔。
「いいんですかー?」
 間延びした声で問うが、相変わらず返事はなくて。
「ヒバリさーん」
 小声で呼びかけて、綱吉は蜂蜜色の髪の毛を天地逆に垂らした。
 ハリネズミのような頭を下向けて、寝入る雲雀を至近距離から見詰める。近すぎて、逆に見えなくなりそうで、怖くなった綱吉はぎゅっと目を閉じた。
 

 ホームルーム終了のチャイムが鳴り響く頃、綱吉はやっと雲雀から解放された。
 二時間以上彼の重みに耐えた膝は痺れ、触れると電流が走ってじんじんと痛む。同じ姿勢を維持し続けたのもあって骨格が固定されてしまい、立ち上がるのも困難を極めた。
 苦労の末になんとか自力で歩けるところまで回復して、廊下に出る。応接室のドアは雲雀が開けてくれた。
「悪かったね」
 お陰でぐっすりと眠れたと、本当か嘘か分からないことを言われ、綱吉は僅かに頬に朱を走らせて俯いた。
 閉まろうとするドアに身体を挟み、上半身だけを廊下側に出した雲雀が、斜めにしている姿勢を支える為にドアに置いた腕を揺らして淡く微笑む。
「明日も」
「はい?」
「昼休みだけでもいいよ」
 少ない単語を並べただけの雲雀に、綱吉が首を傾げる。たっぷり五秒掛けて意味を理解した彼は、途端にカーッと顔全体を真っ赤にして慌てた様子で何度も頷いた。
 首が吹っ飛んでしまうのではないかと危惧するくらいの勢いに、雲雀が喉を鳴らして笑う。
「そうそう」
 深々とお辞儀をし、教室に戻って帰ろうとした綱吉の背中を呼び止め、雲雀は指だけで彼を招いた。開いた二歩分の距離を一歩で戻り、綱吉が琥珀色の目を大きくする。不思議そうに見詰めてくる彼に、雲雀は少しだけ身を乗り出した。
 ぐっと迫った影、吐息が鼻先を掠め、前髪が黒髪で擽られた。
 触れた瞬間、雲雀は笑ったはずだ。
「……っ!」
 全身に電撃が走り、指先がピンと反り返って、綱吉は驚いた時の猫のように全身を毛羽立てた。
 ついでとばかりにぺろりと残る涎の痕を舐めた雲雀が、眇めた黒い瞳で意地悪く綱吉を見る。
 心臓を射抜かれて、彼は凍りついた。
「僕は、寝こみを襲われる趣味はないよ」
 だから先に襲わせてもらう。
 囁きを残し、応接室のドアは閉ざされた。
 廊下にひとり置き去りにされた綱吉は、感触の残る唇を指でなぞり、全身から湯気を立ててその場に崩れ落ちた。

2009/11/08 脱稿