薄暮におよびて

 赤とんぼが群れを成し、或いは一匹だけが悠々と空を泳いでいる。
 西に傾いた太陽は地上に長い影をもたらし、涼しい風が夏目の頬を優しく撫でていく。収穫の終わった稲田は水が抜かれて乾き、落穂を啄む雀の姿がそこかしこに見受けられた。
 夏は駆け足で通り過ぎ、いつの間にやらすっかり秋になってしまった。ススキの穂が揺れて、空の低い位置には気の早い月が朧気に浮かんでいた。
 景色を邪魔する背の高い建物も周囲になく、遠く山並みは影を背負って薄暗い。横に長く伸びる雲は太陽の上半分を隠していたが、一日の勤めを全うしようとする陽光を遮るには不十分だった。
 オレンジ色の光が丘陵を照らし、真昼よりも眩しい。この光を浴びたものは、たとえどんなにつまらないものであっても神々しく見えるから不思議で、夕明かりを全身に受け止めた彼は、気持ち良さそうに深呼吸を繰り返し、目尻を下げた。
 今日は少し良いことがあった。いや、これから起こるのだが。
 日曜に、西村や北本たちと一緒に勉強会をするのだ。それは他に人にとってはなんて事は無い、平凡な出来事かもしれない。しかし、夏目にとって、誰かと未来の約束を交わすのは、この町に来る前ではありえなかった。
 まだ三日も残っているけれど、気持ちが浮き足立つのを止められない。勉強はあまり得意ではないが、友人らと机を囲んで頭を抱えあうのは好きだ。そんな事を言ったら、ふたりに変な顔をされるかもしれないが。
 この調子で週末まで、楽しい事尽くめで過ごせたら良いのに。
「綺麗だなー」
 機嫌が良いので、自然と足取りも軽くなる。鮮やかな朱色を染め上げる空を見上げ、夏目はしみじみと呟いた。
 この夕暮れがあまりにも綺麗だから、世話になっている藤原の家に真っ直ぐ帰るのも惜しい気がした。ちょっとだけいつもと違うコースを辿ってみようという気持ちが膨らんで、気もそぞろに彼は目の前の三叉路を左に曲がった。
 水量の少ない川に架かる古い橋を渡り、住宅密集地を避けて畑の間を走る農業道路を進む。夏場は緑一色だった空き地も随分と黄土色の部分が増えて、物寂しさが漂っていた。
「バッタ見つけたー」
「おー、すげー」
 その空き地の中を、十歳前後だろうか、男の子が三人ほど駆け回っていた。そのうちの、帽子を被った子が急にしゃがんだかと思うと、勝ち誇った顔をして右手を高く掲げた。
 聞きつけた友人らが一斉に駆け寄り、まるで帽子の子をヒーローのように扱う。日が完全に暮れるまであと一時間も無いが、彼らはまだまだ遊び足りないように思われた。
 自分にもあれくらいの年頃があったはずなのに、遊びまわった記憶に乏しいのは、当時の彼は親戚の間をたらい回しにされ、軽く人間不信に陥っていたからに他ならない。
 友人と呼べる存在もなく、嘘つき呼ばわりされて常に周囲から浮いていた。
 人には見えないもの――妖怪と言われるものを見る目を持ち、声を聞く耳を持ち、触れる手を持つ。それが彼にとっての不幸でなくなったのは、つい最近のことだ。
 此処に来て良かったと心から思う。誰かに存在を必要とされたのは初めてだったから戸惑ったけれど、あの決心を覆さなくて良かった。
 塔子も、滋も、本当に良くしてくれている。遊びに誘ってくれる友人が出来て、夏目が持って産まれてきた力に理解を示す存在も現れた。祖母という、自分がこの世に現れたルーツを知ることも出来た。
 幸せだと感じている。こんなに急に沢山のものを受け取って、両手で抱えきれなくなりそうで、それが少しだけ不安だけれど。
「っと、そろそろ帰らないと」
 気がつけば足は完全に止まり、夕暮れに相対しながらぼうっとしていた。虫探しに躍起になっている子供らは場所を変えており、遠くに小さな頭が並んでいるのが見えた。
 明るく、元気な声は、耳を澄ませばまだ聞こえる。迫り来る闇を恐れない気骨は褒め称えるに値するが、家族も心配するだろうからそろそろ帰るよう促してやるべきで、夏目は鞄を抱え直して一歩前に出た。
「あ、ブサ猫だ」
「うん?」
 お節介な高校生を気取るのも、たまには悪くない。気が大きくなっていた夏目は声を張り上げる前準備として深く息を吸い、肺に一旦留め置いた。
 そこに聞こえて来た少年特有の高い声に、彼は息を吐くタイミングを失って変な顔をしてしまった。
 子供らは夏目がいるのとは反対側に顔を向け、うちひとりが何かを指し示していた。残るふたりも注目しており、興味引かれて首を巡らせると、背の高い草の群生がガサガサと不自然に揺れていた。
 彼らの言う猫というものは、夏目からは見えない。しかしその「ブサ猫」という表現には思い当たる節があり、まさか、という疑念が生じて彼は頬をヒクリと痙攣させた。
「いや、そんなわけが」
「やーい、ブサ猫、ブサネコー」
 独り言を呟く向こうで、子供らが一斉に悪口を囃し立ててはしゃぎ始めた。バッタや蟷螂といった虫もそっちのけで、両手を振り回して姿の見えない猫を罵る。
 いくら相手が言葉の分からない猫相手とはいえ、少々酷すぎやしないかと夏目が思い始めた矢先。
「ぶみゃー!」
 どこかで聞いた事のある声が轟き、茂みがひと際大きく揺れた。
 飛び出した白いボールが、固まっていた少年らに向かって突っ込んでいく。わー、という掛け声と共に彼らは四方に散らばり、誰も居ない空き地に着地を果たしたそれはフガフガ言いながら気勢をあげた。
 頭から背にかけて二色の帯が走り、猫と呼ぶのも憚られるような規格外サイズ。太り気味の胴体を地面に張り付かせ、短い四肢を踏ん張らせて眦を裂いている。
 見覚えがある、というレベルではない。
「ニャンコ先生」
 遠目にも分かる姿を確かめ、夏目は小学生相手に本気で怒っている妖怪に肩を落とした。左手で額を覆い、項垂れながら首を振る。
「わー、怒った。ブサ猫が怒ったぞ」
「こっちだこっちー」
 両手を叩き合わせ、子供らが益々ヒートアップして斑を挑発する。鼻息荒く吐いて牙を剥いた巨大猫は、手近にいた小学生に飛びかかり、あっさり避けられて頭から地面に突っ込んだ。
 見事に目標を外した斑の滑稽さを笑い、子供らは大喜びだ。むくりと起き上がって緩く首を振った招き猫は、性懲りも無くまた帽子の子に襲い掛かり、簡単に逃げられて悔し涙で頬を濡らした。
 じたばたと地団太を踏む背中が、いやに哀愁を呼び覚ます。失笑を禁じえず、夏目は前髪を梳いて肩を竦めた。
「なにやってんだ、先生は」
「あははー、悔しかったらこっちまで来てみろよ」
「帰ろうぜー」
「おー」
 道路より一段低くなっている草地から抜け出た子供らは、互いに顔を見合わせ、各々の感覚で現在時刻を算出し、駆け出した。言いように遊ばれた斑を振り向きもせず、今日という日に満足そうに去っていく。
 ぽつんと取り残された斑のあまりにも切ない姿に、笑みを噛み殺して夏目は足音を忍ばせた。彼をからかう絶好のチャンスで、抜き足差し足で気付かれぬように後ろからそっと近付く。
 だが夏目が草むらに最接近するよりも早く、斑はトボトボと落ち込んでいると分かる足取りで畦を登り、反対側の道路に出てしまった。
「あちゃ」
 一気に距離が開いてしまい、夏目は失敗したと顔を顰めた。もっと早く動くべきだったと後悔しながら、鈍い足取りで家路に就こうとする斑を追いかけて自分も歩き出す。
 右手に持った鞄を前後に揺らし、五分前よりも確実に薄暗さを増した道を進む。休耕地を挟んでひとつ向こうの道を行く斑は、ごく稀に通り過ぎる人に驚かれつつ、声をかけられつつ、藤原の家に着実に近付いていた。
 用心棒だといっても、斑は四六時中夏目に張り付いているわけではない。人間である夏目は、同時に学生でもある。平日は欠かさず学校に出向かなければならないが、猫の姿を借りている斑はそこに混じることが出来ない。
 従って、日中の行動は基本的に別々だ。夏目が授業を受けている間、斑がひとりで何をしているのかを、夏目は知らない。
 部屋でゴロゴロしているか、馴染みの妖怪たちと酒でも飲み交わしているか、その辺を散歩しているか。いずれかだろうとぼんやり考えてはいたが、本当にその通りだった。
 夕暮れに染まる田舎道を、斑の小さいが、猫にしては大きい身体がポテポテと行く。意外なことに、通りすがりの人はこの不細工な猫もどきに好意的だった。
「あら、藤原さんとこの」
「早く帰るのよー」
 パート帰りらしき女性がふたり、斑を見るとお節介に告げて朗らかに笑った。
「ねこちゃん、ばいばーい」
 母親に手を引かれた幼い女の子が、物珍しげにしながら紅葉の手を揺らした。
 部活帰りらしき中学生の集団が斑を取り囲み、ひと通り頭を撫で繰り回して彼の怒りを買い、逃げるように走って行った。
 真ん丸猫、デブ猫、ブサ猫、色々と呼び方はあって、中には、何処で聞いたのかニャンニャン先生、と呼びかけている人までいた。塔子を真似てニャンキチ、と声をかける女性も多かった。
「へえ……」
 不思議な感じがした。夏目にとって斑とは、友人帳を共に守ると約束した盟友であり、時に守り、助けてくれる頼もしい存在だ。しかしこの町の人々にとっては、斑は藤原の家で飼われている猫という認識なのだ。
 改めて考えるまでもない、それは至極当たり前のことだ。人はあの猫の正体が、数百年を生きる妖怪だというのを知らないのだから。
「変なの」
 斑がしっかり猫として認知されているのもそうだが、一歩引いた際の視点がこうも違っていることも驚きだった。
 トンボを見つけた斑が、懲りずに捕まえようと飛びかかる。前脚が触れる寸前にふいっと風に乗って避けられて、腹這いに着地した彼の間抜けな姿につい夏目は噴出した。
「鈍くさいな、先生」
 一応、猫のくせに。
 口を閉じて手の甲で押さえつけるが、喉の奥から迫り上がってくる笑いを抑え切れない。くくく、と肩を震わせて懸命に堪え、目尻を下げて暗がりに浮かぶ白い姿を目で追いかける。
 太陽はいよいよ地平線の向こうへ消えかかり、名残の光が雲をおぼろげに照らしている。真っ赤な夕焼けも徐々に東からやってくる闇に押され、範囲を狭めつつあった。
 明日もきっと気持ちよいくらいに晴れるに違いない。深く息をついて清々しい気持ちで空を仰いだ一瞬の間に、夏目の視界から丸ぼってりした猫はいなくなった。
「あれ。……あ、いた」
 ちょっと目を離した隙に、と慌てて視線を巡らせて探すと、道端に置かれた地蔵の前に蹲っていた。
 尻を向けているので、何をしているのか詳細は分からない。だけれど、あの地蔵には大抵饅頭か何かが供えられているので、散歩後の腹ごしらえをしている可能性は十二分に考えられた。
「まったく」
 もうじき夕飯だというのに、食い意地が張っている。意地汚い。
 そもそも、お供えものに手を出すとは何事か。毎日熱心に地蔵に向かって手を合わせている人に失礼で、若干の憤りを感じながら、夏目は道と道とを繋ぐ細い畦道を見つけると、二十センチ少々の落差を飛び越えて駆け出した。
 どの道、彼が使っていた道はもうじき行き止まりに到達する。合流するのが少し早くなっただけだと自分に言い聞かせ、近くからだとガツガツやっていると分かる猫に歩み寄った。
「先生」
「ふぎゃ!」
 きつめの口調で名前を呼び、真後ろで立ち止まる。元々薄暗かったのが、夏目の影のお陰でもっと暗くなり、聞こえて来た怒声にもビクリとして、すっかり猫の姿に馴染んでしまっている妖怪は大仰に肩を震わせた。
 丸い尻尾を毛羽立てて、右前脚を舐めながら振り返る。案の定口の周りには食べかすが張り付いており、地蔵の前の皿には三分の一以下になった饅頭の残骸が転がっていた。
 剥ぎ取られたと思しき皺くちゃの包み紙が横に転がっていて、誰の仕業かは一目瞭然だった。猫の手が案外器用なのは、夏目も承知している。
「お、おお、夏目ではないか。どうした」
「どうしたもこうしたも、……先生、盗み食いか」
 明らかに動転していると分かる上擦った声で、どうにか場を取り繕って誤魔化そうとしているのが見え見えだ。激しく狼狽している彼を睨み、横目でお地蔵様を見て、最後に夏目は深い溜息を吐いた。
 額に指をやり、そのまま前髪を梳いて後ろへと流す。憐れみを含んだ目で見詰めてやると、彼はぐっと息を呑み、顔の汚れを大急ぎで払い除けた。
 何事も無かったかのように装うが、食べかけの饅頭は隠し切れない。無言の圧力に長くは耐えられず、斑は観念したかと思いきや、短い前足を胸の前で交差させてそっぽを向いた。
「盗んだわけではないわ。此処に落ちておったのだ」
「はあ?」
 開き直りとも取れる台詞を堂々と吐き捨てて、夏目を呆れさせる。色の薄い髪を今日最後の夕日に照らした彼は、居直った食い意地張った猫に肩を落とし、左手で顔を覆った。
 同時に鞄を握る右手に力を込め、高く振り翳す。避ける暇も与えずに角でゴンッ、と斑の頭を打ち、咥内に残っていた分を吐き出させてから、彼は素早く膝を折った。
「すみませんでした」
 穏やかな笑みを浮かべている地蔵に向かって飼い主責任で頭を下げ、タンコブの上から斑を押さえつけて一緒に謝らせる。この饅頭のような体格をした猫は必死に抵抗したが、力でねじ伏せて額を地面に叩きつけると、途端に大人しくなった。
 前後に並んだタンコブからは薄ら白い煙が立ち上り、涙目で睨む様は迫力が無く、むしろ滑稽だった。
「ったく、夕飯が食べられなくても知らないぞ」
「ふふーん、だ。そんな中途半端な胃袋はしておらんわ」
 それは自慢できることではないぞ、と心の中で突っ込みを入れ、夏目はすっかり暗さを増した道程を、心持ち急ぎ気味に進んだ。
 右隣を斑が、器用に四本足を動かしてついてくる。生意気を言って口を尖らせ、まだヒリヒリする額を時に気にして恨み言を呟いては、夏目に蹴りを入れようとして悉く空振りを続けていた。
 真ん丸に太った腹は、時々地面を擦るらしい。彼が通った跡が土の地面に薄ら残されているのを振り返って見て、どうして塔子から貰っている分だけでそこまで太れるのかという理由に思い至り、夏目は苦笑した。
 あの様子では、道行く人からもお菓子を分け与えられているのではなかろうか。道端の地蔵の供え物を失敬するのも、これが初めてとは到底思えない。
 どうりで太るはずだ、と溜息が自然と漏れて、辛気臭い顔をするなと斑に怒られた。
 それにしても、と夏目は暮れなずむ空を見詰めた。
「知らなかった」
「うん?」
「先生って、意外に有名だったんだな」
「意外だとはなんだ、意外とは」
 近所でこんなにも顔が知れ渡っているとは、夢にも思わなかった。正直な感想を吐露したのに叱られて、夏目は苦笑した。
 確かに特徴的な外見をしているし、ふてぶてしい態度を目の当たりにしたら、忘れ去るのも容易でないだろう。人の言葉を理解するので、悪口を言われたら途端に反応するから、子供たちには良いようにからかわれていた。
 それで勢い付いて、人の言葉で喋ってしまわないようにだけは、気をつけてもらわなければ。
 人語を操る猫、として有名人になられるのだけは困る。藤原のふたりに迷惑をかける行為は謹んで貰いたい。
「そんな間抜けなこと、私がするとでも思っておるのか」
「思ってるから心配してる」
 真顔でぴしゃりと言いきり、渋い顔をする斑の反論を封じ込めて夏目はすれ違おうとしている人の顔を見た。向かい側からやって来た女性は、藤原の家からそう遠く無いところに住んでいる人だった。
「あら、こんばんは」
「どうも」
 斑との会話を中断し、気さくに話しかけてきた女性に会釈して通り過ぎる。彼女は斑にも目を向けて、微笑みながら去っていった。
 気を取り直し、夏目は道を左に曲がって追いかけてくる斑に視線をやった。
「ともかく、変なことだけはするなよ。あと、拾い食いはみっともないから」
 それではまるで、夏目が餌を与えていないようではないか。飼い主と思われている手前、食事量が足りていないとよそ様に思われるのは癪だ。きちんと面倒を見ているのに、周囲に正しく伝わらないのは納得行かない。
 ダイエットしろと日頃から口を酸っぱく言い聞かせているに関わらず、実際は多量に間食を摂っているのも腹立たしい。
「私の美貌に惹かれた娘たちが、是非とも食べてくれと寄越すのだ。断るのも悪かろう」
「……あー、はいはい」
 それは俗に、ブサカワイイと言われる部類に入っているのではないのか。多軌の顔がすかさず脳裏に浮かんで、夏目は頬を引きつらせた。
 世の中の女子中学、高校生の感性は良く分からない。多軌に出会ったばかりの頃は、可愛いと連呼されるのも慣れていなかった斑だけれど、最近は大分耐性がついてきたようで、逆に自己アピールをして道行く乙女からおやつをせしめる術を身につけたらしい。
 想像してうんざりして、夏目は痛むこめかみに指を置いて嘆息した。
「あら、貴志君。早く帰らないと、もう遅いわよ」
「はい、有難う御座います」
 近所のお節介な女性が軒先から顔を出して言い、夏目は深く頭を下げて礼を告げた。
 後ろに遠ざかる照明の灯った家を振り返り、斑は小さな尻尾を横に揺らした。夏目は深く考える様子もなく、植木に水をやっていたその家のご主人にも声を掛けられ、恐縮した様子で頭を掻いた。
「ふむ」
 先ほど夏目は、斑を指して有名人だと言った。
 しかし、ならばこの状況はなんだろう。
「調子に乗りすぎると、先生、痛い目に遭っても知らないからな」
「分かっておるわい」
「ホントか?」
 太陽は地平線の向こうに姿を隠し、白い月は知らぬ間にかなり高い位置に移動していた。墨を塗りたくったような闇の所々に星が瞬き、飛行機の照明がチカチカと明滅する。
 さっきまでそこかしこで見られたトンボは姿を消し、草葉の陰からは鈴虫の鳴く甲高い声が響いた。
 疑り深い眼差しを向けられ、憤慨した斑がプンスカと煙を吐く。分かり易い変化に夏目は笑って、二度ばかり深呼吸を繰り返し、鞄で自分の太腿を叩きながら不意に呟いた。
「いいな」
「なにがだ」
「いや、あー……巧く説明出来ないんだけど、みんなが気軽に声をかけてくれるって」
 暮れなずむ道を行きながら、夏目は今日見た光景を順番に並べていった。子供から大人まで、随分と顔見知りが多い。見た目が猫だから、というのもあろうが、あそこまで気さくに話しかけてくれる人が大勢いるのは、正直に羨ましかった。
 幼い頃から、変なものが見えた。しかも其処にいる、とどれだけ訴えても夏目以外に見える人はいない。嘘つきというレッテルが常に付きまとい、子供から話を聞いた親も次第に夏目を気味悪がって近付かなくなった。
 成長し、世の中の道理を理解するにつれ、隠して誤魔化すという術を覚えた。それでも、前の場所では巧く行かなかった。
 だからこそ、初めて夏目貴志を望んでくれた塔子、滋の為にも、この秘密は絶対に隠し通さなければいけない。胸に左手を押し当てて心の中で誓いを新たにした夏目の神妙な顔を見上げ、斑は分かっていない彼に呆れて欠伸を零した。
「やれやれ」
「やあ、確か滋さんのところの」
「こんばんは」
 始末に終えないと内心笑っていた矢先、夏目はまたも近所の人に呼び止められて小さく頭を下げた。
 首からタオルを提げた男性は、夏目の、そして滋の健在ぶりをひと通り聞いて呵々と笑うと、そうだ、と急に手を叩いた。何かを思い出したらしく、其処で待つように言って踵を返して駆け出す。
 不思議そうにしながらも、言われた通り留まり続けた夏目は、戻って来た男性から大量のサツマイモを差し出されて面食らった。
「これ、持っていけ」
「いえ、でも……」
「いいから、いいから」
 おすそ分け、というものであろうか。聞けば兼業農家だというその男性は、折角の収穫物の一部を半ば無理矢理押し付け、乱暴に夏目の背中を叩いた。
 痛みに顔を顰めながらも、お節介だけれど温かい心の持ち主に重ねて礼を言う。男性は照れ臭そうに日に焼けた顔を赤らめ、早く帰れと手を振った。
「凄いな、貰っちゃった」
 塔子が喜ぶ、とさしたる考えも抱かずに夏目が呟く。歩き出した彼に並走する斑の表情は、暗がりの所為で彼には見えなかった。
 鞄を脇で抱え、サツマイモを落とさないよう注意深く進む。夕飯までもう時間はなく、心は焦るのだが体はなかなか思うように前に進まなかった。
「あーら、貴志君じゃない。丁度良かったわ」
「はい? あ、どうも」
 のろのろ進んでいたら、夕刊を取りに出てきていた女性にまたも呼び止められる。藤原の家はもう直ぐ其処に、屋根も見えているに関わらず、なかなか到達できないのがもどかしかった。
 手招かれたので近付いて、少し待ってくれるよう頼まれる。またか、と思っていると一度屋内に戻った女性は、紙袋に入った何かを持って出て来た。
 渡されて、中を覗きこむ。サツマイモも入れて良いと言われて、遠慮なく彼は中に紅色のそれを転がした。
 入っていたのは林檎だった。
「こんなに沢山」
「いいのよ。実家が送って来たんだけど、うちじゃ食べきれないから」
 腐らせてしまうよりは、誰かに食べてもらう方が嬉しい。目尻を下げて微笑む女性に力強く言われ、夏目は顔をほころばせた。丁寧に礼を言い、紙袋と鞄を左右に分けて持って歩き出す。
 三軒先でまた呼び止められて、今度はタッパーに入った佃煮を渡された。
「大量だな」
「あはは……」
 紙袋はずっしり重い。果たして帰りつくまで袋の底が持つだろうか。
 ボソリ言った斑に緩慢に笑い返し、既に筋肉痛を訴えて攣りそうな腕を揺らす。街灯には火が入り、暗くなった道を仄明るく照らしていた。
 家々の玄関先の照明も灯り、幻想的な空間を演出している。陽射しが途絶えて肌寒さが増したが、心の中はほっこり温かかった。
「どちらが人気者なんだか」
「悪かったよ」
 お前も人のことを言えないと言外に咎められて、苦笑を禁じえない。ただ道を歩いていただけで随分な収穫であるが、それは夏目が、この地域ですっかり藤原夫妻の子供として認められた証でもあった。
 皆の気遣いが嬉しい。肩肘張らず、此処にいて当たり前の扱いをしてくれるのが、嬉しい。
「先生、俺、この町が好きだよ」
「どうした急に」
「……なんとなく」
 鞄と紙袋を両手でしっかりと抱き締め、夏目は一歩一歩薄暗い道を進む。やがて門柱に灯る微かな明かりが見えて、その間に佇む人影に彼は相好を崩した。
 ペースが自然と速まり、追いかけて斑も四肢を前に繰り出した。

2009/09/18 脱稿