入相

 鰯雲が群れだって空を流れるのを見て、脳裏に思い浮かぶ人の姿はいつだってひとつだ。
「ただいまー」
 夕焼けもかなり薄くなり、闇がひたひたと後ろから迫ってくる。あと三十分もすれば完全に日は地平線に沈んでしまうだろう、夏休みが終わってまだ一ヶ月も経っていないに関わらず、日暮れは随分と早くなった。
 玄関のドアを開けて中に入ると、否応なしに人工の灯りが瞳を焼いた。眩しさに目を細め、奥に向かって声をかける。右肩に担いだ鞄を下ろして靴を脱いでいると、綱吉の帰宅を知った子供たちが一斉にリビングから飛び出して来た。
「お帰り、ツナ兄」
「お帰りなんだもんねー」
 フゥ太、ランボの男子組が短い廊下を走って駆け寄り、上がり框に登った綱吉にタックルを仕掛けてくる。それをどうにか受け止めて踏ん張っているところに、イーピンを抱いたビアンキも姿を現した。最後に奈々が、空っぽになった弁当箱を引き取るべく、エプロン姿で顔を見せた。
 今日も美味しかったと笑顔で告げて、未だ脚にしがみついているランボを引き剥がす。洗面所で手洗い、嗽を済ませた綱吉は、出たところで今日遅かった理由を母親に訊かれた。
「獄寺君ところで、宿題」
「本当に?」
「嘘じゃないよ」
 疑って掛かる奈々に唇を尖らせて反論し、ほんの少し気分を害した状態で階段を登り始める。足音が五月蝿く響き、それを面白がったランボがドタバタと同じように暴れ始めて、イーピンに静かにするよう怒られていた。
 階下はそんな調子で、子供たちの騒々しい声が続いたが、二階にあがってしまうと喧騒は少しだけ遠退いた。
「ただいまー」
 自分の部屋の扉を開けて、綱吉は中に居るだろう人の姿を探し、自然と視線を右から左に流した。
 沢田家には今現在、大勢の居候が居る。勝手に居付いた者ばかりだが、奈々は気にする様子がないし、むしろこの大家族ぶりを楽しんでいる傾向が見られた。綱吉も、一人っ子だったのが急に兄という立場に格上げされて、面倒だと思いつつ毎日が賑やかなのは決して嫌ではなかった。
 その居候の中でひとりだけ、一階で姿を見かけなかった人物がいる。だからきっと、綱吉の部屋を間借りする形で居座っているリボーンは、此処にいるに違いないと予測を立てていたのだが、案の定で、黄色いおしゃぶりを首から提げた赤子は、中央の四角いテーブル前に陣取り、新聞に目を通していた。
 英語か、それとも違う言語か。兎も角綱吉が通常使っている日本語以外の文字で、横書きで記された紙面から顔を上げようともしない。集中しているのかもしれないがちょっと癪で、先ほどよりも語気を強めて大きな声で「ただいま」と叫ぶと、流石に喧しかったらしく、赤子はちらりと綱吉に目を向け、鼻を鳴らして笑った。
「なんだよ」
「いいや」
 小さなことに大袈裟に拗ねている綱吉の、子供っぽさを笑ったのだ。
 癖のある特徴的な声で短く言われ、まだまだ腹立たしさが消えぬ中、気まぐれに吹いた風に頬を撫でられて彼は顔を上げた。
 右手に握った鞄を揺らし、ドアをそのままにして部屋の奥へ向かう。勉強机の椅子を引いてそこに通学鞄を置いた彼は、軽やかに裾を揺らしているカーテンに首を傾げた。
 窓が開いていた。
 それ自体は、なんら不思議なことではない。けれど妙に、胸の奥で何かが引っかかる。チリチリと焦げ付くものがある。
「寒くないの?」
 外を覗けば、帰宅時よりもずっと空は暗くなっていた。下辺のみが濃い緋色に染まった雲が無数に連なり、西の地平線を隠している。飛行機のライトが点滅する、とても小さな光が見えた。
 昼間はまだまだ暑いけれど、朝方、そして日暮れ後はかなり涼しくなった。暖房が必要な季節はまだ先だが、寝苦しい夜は通り過ぎた。
 今、綱吉の頬を優しく撫でる風も、かなり冷たい。だから制服も、まだ半袖を着用しているけれど、朝と夕方だけ、綱吉は上から紺色のカーディガンを羽織るようにしていた。
 並盛中学校の制服はブレザーで、合服にも種類が多いのでコーディネートが色々と楽しめる。もっとも、生徒の中には何人か、それを良しとしない面々も存在しているけれど。
「俺が開けたわけじゃねーからな」
「そうなんだ?」
 朝、学校に行くべく部屋を出た時、此処の窓は閉まっていた。陽射しが入らぬように、カーテンもしっかりと閉めておいたはずなのに、今はそれが全開になっている。
 リボーンでないとしたら、奈々くらいしか可能性が思い浮かばない。換気の為と称して、彼女はよく家中の窓を開けて回っているから。
 確かめたわけではないが、恐らくこれが正解の筈だ。閉める理由が無いのでリボーンはそのままにしていたに過ぎず、深く考える必要など最初から無かったと、綱吉は自分に言い聞かせてアルミのサッシに手を伸ばした。
 机の前から離れて壁際に寄り、胸の高さにある窓越しにベランダを何気なく見やる。
 其処に行くには、隣の部屋から出るしかない。スリッパのまま歩き回るのは汚れが付着するし、逐一外履きを持ち歩いて履き替えるのも面倒なので、ベランダ専用のサンダルが一足、右手の隅の方に雨を避けて置かれていた。
 そのサンダルは基本的にベランダのみで使用されて、外を出歩く際に奈々が使うことは無い。雨で濡れることはあっても、泥汚れが付着するなんて事は、台風でも来ない限りありえない。
 そう、有り得ない事だ。
「あれ」
 だのに、何故だろう。綱吉が視線を向けた先に、土が落ちていた。
 小指の先程もない大きさで、点々と。鉢植えから零れたのかと一瞬思ったが、その類はベランダに一切置かれていない。
 あまりに不自然で、違和感を覚えた彼は小首を傾げ、瞳だけを前方に流した。落下防止の柵が設けられて、ベランダと空とを区切っている。そこにも、僅かながら新しい汚れが付着していた。
 落ちているのと同じ土だ。手を伸ばして触ろうとしたが、生憎と距離があって届かない。顰め面をして頬を膨らませた彼は、外に乗り出した上半身を戻し、窓枠に圧迫された腹を撫でた際の感触にもまた眉を寄せた。
「あ、れ」
 下向けば、紺色のカーディガンの糸目に砂が混じっていた。家に帰る道中で転んだ覚えはないし、そんなに強い突風に煽られた記憶も無い。
 ならばいつ、どこでこの砂は綱吉に張り付いたのか。
 柔らかな織物をもうひと撫でして、彼は琥珀の目を大きく見開き、下を見た。
 横に長いフレームの溝には、長く掃除をしていないお陰で砂埃が満遍なく降り積もっていた。掃除機で上から吸わせようにも、溝が深くて届かない。手で拭い取るのは非常に手間で、窓拭きはしても此処も綺麗にしようとはなかなか思い立たない。
 だが、その溝ではない部分にも、不自然に土汚れが付着していた。凹凸の、凸部分。そう、例えるならこの枠に靴のまま片足を乗せたような形で。
「なあ、リボーン」
 疑念は深まり、鼓動は高まる。ひとつの可能性が生まれ、同時に確信へと切り替わり、綱吉を突き動かした。
 だが、足りない。まだそうだと決め付けるには、材料が足らなさ過ぎる。
「なんだ」
 新聞から顔を上げずに、赤ん坊が低い声で聞き返す。紙が擦れる音がしたので、ページを捲ったのだろう。
 綱吉は彼に背中を向けたまま、左手で砂が絡んだカーディガンを握り、右手で窓枠に薄ら残る不法侵入者の痕跡をなぞった。
 指に土が張り付き、擦ると指紋の間に潜り込んで残りはどこかへ消え失せる。冷たくも温かくも無い無機物相手にさえ緊張してしまい、耳鳴りのように頭の中に響く心臓の音を数えて彼は自分を落ち着かせた。
「あの、さ。ひょっとして、その、なんていうか」
「ああ、来たぞ」
「えっ」
「雲雀だろ」
 ドギマギしながら質問を繰り出そうとして、なかなか核心にまで辿り着けずに間誤付く綱吉を尻目に、彼の心を易々と読んだリボーンが、初めて紙面から視線を外して言った。
 小さな身体に乗った大きな頭をぐるりと右に回し、不敵な笑みを浮かべて顔を赤くした少年を見上げる。見透かされた綱吉はあげそうになった悲鳴を喉に詰まらせて息を止め、ぎょっと身を竦ませて窓辺で凍りついた。
 違う、と首を振ろうとするが、頬が痙攣して声が出ない。心臓は急転直下の勢いで収縮活動を繰り返し、息苦しさに喘いで咥内の唾を一気に飲み干す。両手で胸元を掻き毟った彼の、不思議そうにしながらも焦っている表情を笑い飛ばし、リボーンは新聞を畳んでテーブルに置いた。
 すっかり冷たくなったコーヒーを一気に飲み干し、口元を拭って戻す。その間、約十五秒。綱吉はピクリともせず、ただ瞳だけを慌しく左右に泳がし続けた。
 動揺ぶりが手に取るように分かり、実に面白い。さっきまで赤かった顔は、今は青く染まり、今度は紫色になったかと思えば、また赤くなって唇を噛み締めている。
「や、な、ん、えと、だから」
 何がいいたいのかさっぱり分からず、しどろもどろに切れ切れの音を発して、やがて彼は限界値を越えたらしい、頭から真っ黒い煙を吐いた。
「うぅ……」
「まだ帰って来てねーつったら、帰ってったぞ」
 両手で顔を覆い隠し、ぶすぶす煙を立てて蹲った綱吉に追い討ちをかけ、リボーンは右手を伸ばした。床で遊んでいたレオンを肩に乗せ、読みえ終えた新聞とコーヒーカップを手に立ち上がる。
 指の隙間から部屋を去ろうとしている赤子を確かめ、綱吉は膝立ちから四つん這いになって姿勢を前に倒した。
「なんで、引きとめておいてくれなかったのさ」
「知るか」
 狼狽を心の奥に押し込め、綱吉への来客を追い返してしまった人物に大声を張り上げた。しかし冷たい口調で一括されて、綱吉はビクリと肩を震わせた。
「テメーが寄り道なんかしねーで、さっさと帰って来りゃ良かったんじゃねーか」
 大粒の眼に睨まれ二の句が告げず、彼は下唇を噛んで前のめりだった体勢を戻した。膝で床を叩いて行き場の無い苛立ちを発奮させ、それでも恨みがましくリボーンを見やる。その頃にはもう、赤ん坊は背中を向けてしまっていた。
 開けっ放しのドアから廊下に出ようと、小さな足を前に一歩繰り出す。後ろ向きに肩に停まっていたレオンだけが、打ちひしがれる綱吉を見詰めていた。
「俺は、だって、暇じゃないんだもん」
「それはアイツだって同じだろうが」
 今日はたくさん宿題が出たから、獄寺の家に寄って、教えてもらいながら一緒にやっていたのだ。大体半分終わったところで時間が遅いのに気付いて、急いで帰って来た。
 決して遊んでいたわけではなく、正当な理由がある。そう主張した綱吉だが、またもぴしゃりと言い切られ、首を亀のように引っ込めた。
 振り向いたリボーンの迫力に気圧されて、取り付く島を与えてもらえない。
 多忙な風紀委員活動の合間に立ち寄った相手を、いつ帰って来るか分からない綱吉を待たせて部屋に留めておくわけにもいかない。リボーンの言いたい事は分かるし、彼の判断は至極真っ当だというのも理解している。
 しかしそこに感情が追いつかない。
「うー」
 唇を真一文字に結んで呻いた綱吉に嘆息し、リボーンは呆れ返った様子で肩を竦めた。
「でもさ、でもさ」
「しつけーぞ、ツナ」
「だって、今日は一回も会えなかったんだよ!」
 朝は遅刻しなかった。服装チェックでも引っかからなかった。昼休みは委員会の会議だとかで、応接室は無人だった。放課後は、獄寺との勉強会。
 顔を合わせる機会は悉く潰されて、学内ですれ違う事すらなかった。休憩時間、偶然を期待してあちこち無駄に歩き回って見たけれど、見事に空振りばかりで体力と時間の浪費に終わってしまった。
 取り立てて急ぐ用事も無く、会って話さなければならない必要性も見当たらない。会わず、喋らず、一日を終えるのも別段珍しくないし、耐えられないわけではない。
 これまでにも何度か、そういう経験はあった。
 だけれど、矢張りダメだ。わざわざ家まで、部屋まで来てくれたのにすれ違いに終わってしまったと教えられた以上、じっとなどしていられない。リボーンの対応が悪かったと、自分の責任を棚上げにして詰らなければ気持ちが治まらない。
 これがいかに不条理な理屈かは、本人だってよく分かっている。それでも、思わずにいられなかった。
 リボーンが雲雀に、少し中で待つように言ってくれていたなら、と。
「じき夕飯だぞ」
「分かってるよ」
「だから、だ。そこまで言うなら、とっとと帰って来い」
「……え?」
 口惜しげにしている綱吉に、いい加減にしろと赤ん坊が凄む。呆れ混じりに言い聞かせるリボーンに反感しか抱けず、ぶっきらぼうに吐き捨てた綱吉は、二秒後の目を丸くし、きょとんとした。
 首を右に三十五度倒し、疑問符を頭に浮かべる。既に綱吉は家に帰ってきているというのに、何故そんな妙な言い回しをするのだろうか、と。
 不可思議なものを見る目を向けられた赤ん坊は、肩のカメレオンの頭を撫で、意味深な笑みを浮かべた。
 瞬間ハッとして、綱吉は音を立てて立ち上がった。靴下がフローリングで滑り、危うく転倒しかけたのを踏み止まって前傾姿勢で駆け出す。リボーンが居るドアの横、その僅かな隙間を一瞬にして駆け抜けた彼は、階段を登って来た時以上の騒音を撒き散らして一気に一階に駆け下りた。
 あまりの五月蝿さに、リビングでテレビを見ていた子供たちも気付いて顔を出した。
「ツナ兄?」
「どうしたの、ツナ」
 フゥ太に続き、台所からオタマを片手に奈々が身体半分廊下に出した。その頃にはもう綱吉は靴に片足を突っ込んでおり、汚れた運動靴の爪先を叩いてつぶれた踵を引き起こした。
 制服から着替えてもいない息子の慌てた姿に、奈々が眉目を顰める。
「何処に行くの」
「ちょっと、忘れ物」
「明日じゃダメなの?」
「絶対にダメ!」
 もうじき日が暮れる。夕食も間もなく出来上がる。今から出かけたら、行き先にもよるが、帰って来る頃にはもう周囲は真っ暗闇だ。
 止めておくよう言外に告げた奈々に大声で言い返し、綱吉はもう片足にも靴を履いて玄関のドアに手を掛けた。鍵を外して押し、夕暮れもすっかり遠退いた空の下へと飛び出す。
 後ろから奈々の、早く帰って来いとの声が聞こえたが無視し、綱吉は道路に出たところで自分の部屋を振り返った。
 ベランダの所為で、開けっ放しの窓は上半分しか見えない。だがきっとあそこにはリボーンが立って、綱吉が慌てふためく様を面白おかしく眺めているに違いない。
「くっそ」
 彼の思い通りになるのは癪だが、逸る気持ちは最早制御が利かない。ブレーキではなくアクセルを全開にして、綱吉は深呼吸ひとつの末に当たりをつけて東に続く道を駆け出した。
 街灯はその殆どが点灯し、道端に仄明るい輝きを提供している。会社帰りなのかスーツの男性が鞄片手に急ぎ足で、買い物袋を提げた女性を追い越していった。
 その両方を追い抜き、綱吉は息を切らして視線を右に、左に忙しく動かした。
「どこ、だ」
 直感だけを頼りにこの方角に来てしまったが、正解だという保証はどこにもない。ただ、雲雀のことだから中学校に帰るコースを選ぶはずだ、という確信めいたものはあった。
 だから自宅から学校に通じる最短経路を進んでみたのだが、民家の隙間からもう校舎が見えているというのに、未だ覚えのある後姿に行き当たらない。すれ違う人は皆下を向いているが、雲雀はいつだって真っ直ぐ前を見据えている。
 焦燥感が呼吸を阻害し、喧しい心音は車のクラクションを聞こえなくする。
「えええ……」
 見付からない。雲雀がいつ訪ねて来たのか、リボーンは明確な答えを出さなかったが、口ぶりからそう前の事ではないと思われた。駆け足なら綱吉でも追いつけるぞ、とそういう風に解釈したのに、前提からして間違っていたのか。
 弱りきった表情で唇を咬み、信号の無い交差点で地団太を踏んで、綱吉はかなり暗くなった町並みに目を凝らした。
 此処最近、雲雀は学生服を羽織っている。周囲が完全に闇に落ちてしまったら、黒い格好をしている彼はもっと見つけ難くなる。尻に火がついた思いで彼は方々を駆け回ったが、それらしき人を見つけることさえ出来ぬまま、時間ばかりが過ぎて行った。
 リボーンに一杯食わされたのか。ぜいぜいと息を吐き、生温い汗を拭って彼は泣きそうになりながら唾を飲んだ。
 人を振り回すのが大好きな赤ん坊だから、その可能性も大いにありうる。何故最初に疑ってかからなかったのかと、雲雀の事となると途端に周りが見えなくなってしまう自分を悔やみ、綱吉は盛大な溜息を吐いた。
 肩を落とし、汗に湿る前髪を掻き上げる。視界を広くしたところで意味などなくて、塩っ辛い唇を舐めて制服の上から落ち着きを失っている心臓を宥める。
「なんで、巧く行かないんだろ」
 声に出して呟くと余計に哀しくなって、暮れなずむ町でひとり置き去りにされた気分に陥り、彼はぐしゃぐしゃに頭を掻き毟った。
 明日になれば学校で会えるというのに、どうして一晩くらい我慢出来ないのか。
 会えなかった時間だけ、会えた時の喜びが大きいのは知っている。だから今日は諦めて、家に帰ろう。そう自分に言い聞かせて帰路に就くよう促すが、どうしてだか足は一歩も動かなかった。
 靴底がアスファルトに張り付いて剥がれない。四辻の真ん中で惚けて立つのは危険だし、迷惑極まりない行為であるに関わらず。
「あ、あれ。くそっ」
 物理的な問題ではなく、精神的な理由から、身体は意思に反してこの場に留まろうとしている。無理矢理に引き剥がせば心と体が乖離してしまいそうで、半泣きで鼻を啜り、綱吉は向こうから来る人の足音にハッとした。
 顔を上げ、大きな目を限界まで見開いて、逢魔が時に現れた人の影を追う。
 黒い学生服に、黒い髪。輪郭は暗がりに滲んではっきりとしないが、体格は綱吉が良く知る、そして今現在捜し求めている人のそれと合致した。
 高すぎず、けれど低すぎない丁度いい背丈。細身で、けれど華奢ではない。いつだって毅然とした態度を貫き、俯かず、背筋をピンと伸ばして前だけを見て歩いている。
「あ……」
 思わず声が漏れて、さっきまであんなに動かなかった足が自然と前に出た。
 その人は綱吉に気付かず、彼が立つ辻のひとつ手前を左に曲がった。周囲は住宅地で、塀や垣根に阻まれて姿は一瞬で見えなくなった。
 前にでかかった手が空を掻き、下を向く。靴底でアスファルトを擦って砂埃を立て、綱吉は瞠目し、直後駆け出した。
「待って!」
 暗すぎて彼の目に見えなかったのだろうか。それとも、訪ねて行った先で綱吉が不在だったのに怒っているのか。
 考えるが分からなくて、もうそんな事どうでも良くて、兎に角今は彼に追いつくのに必死で、両足を交互に前に運び、綱吉は息を弾ませて角を曲がった。ぼんやりと照明が灯る小道を、黒髪の、学生服の青年が、変わらぬペースで遠ざかろうとしていた。
「待って。待って!」
 譫言のように繰り返し、懸命に手を伸ばす。背後から接近する慌しい足音に気付いてか、青年は出し掛けた足を戻し、立ち止まった。
 振り返る、ゆっくりと。
 もう直ぐそこに迫り、抱きつく体勢に入っていた綱吉は、視界に飛び込んできた青年の驚く顔に、その倍驚いた。
「うあっ」
 急いでブレーキをかけるが、間に合わない。襟のホックを外した青年が、いきなり胸に飛び込んできた少年に悲鳴をあげ、後ろ向きにたたらを踏んだ。持っていた鞄を振り回し、それが綱吉の肩に当たった。
 倒れそうになった綱吉は反射的に目の前の人物にしがみつき、恥かしさから真っ赤になった顔を伏した。離れて自力で立つべきと分かっているのだが、足がもつれてしまい、支えが無いと転んでしまいそうだった。
「な、なんだい、君」
 動揺ぶりが窺える上擦った声に問われても、直ぐに返事が出来ない。いくら薄暗くて、顔の輪郭さえあやふやになっていたからと言って、まさか間違えるとは思わなかった。
 人違いだと告げて謝るのさえ恥かしくて出来ず、黙りこくってただ下ばかりを見つめる。黒い革靴を愛用している雲雀とは違い、青年が履いているのは綱吉のものにも似た、薄汚れた運動靴だった。
 背格好が似ていたのと、焦っていたのもあって、完全に勘違いしてしまった。恐らくは高校生だろう、こうやってしがみつくとよく分かるが、体格も雲雀よりひと回り大きかった。
「ご、ごめ、ごご、おっ」
「用が無いなら、離れてくれないか」
 呂律が回らぬ舌で懸命に空気を掻き回し、弁解を口にしようとするが果たせない。その間に青年は落ち着きを取り戻し、綱吉の肩を叩いて押した。
 促されるままに身を引こうとして、結んだ手を解いて膝に力を込める。
 首筋に、チリチリとした熱が走った。
「あぶないっ!」
 ハッと息を呑んで反射的に叫び、綱吉は再度学生服の高校生にしがみついて彼を路上に押し倒した。
「うわあ!」
 みっともない悲鳴をあげ、両手を振り回した青年が受身も取れぬままアスファルトに腰を強かにぶつけてもんどりうった。
 彼らが今さっきまで居た場所、その丁度頭があった位置を銀の風が駆け抜ける。その余波を跳ね上がった蜂蜜色の髪に浴びた綱吉は、危機一髪だったと冷や汗を流し、しゃがみ込んだまま後ろを振り返った。
 青年の鞄が近くに落ちている。それを蹴り飛ばし、今度こそ本物の雲雀恭弥は憤然とした面持ちでトンファーを構え直した。
 怒りのオーラが立ちこめており、綱吉の全身に悪寒が走る。脂汗が額に滲んで、彼は頬を引き攣らせた。
「ひ、ヒバリさん……」
「誰、それ」
 転がった地面から起き上がり、ぶつけた箇所を撫でていた青年を顎でしゃくって静かに問う。声に抑揚が無い分、内に込められた怒りの度合いは凄まじかろう。全身を汗びっしょりに濡らし、綱吉は両手を顔の前で振った。
 単純に人間違いをしただけだが、先ほどの余韻を引きずってか巧く言葉が出てこない。代わりにしゃっくりが出て、横隔膜まで痙攣している現実に彼は臍を噛んだ。
 なんというタイミングで出て来るのだろう、彼は。逢いたいとずっと思っていたけれど、よもやこんな最悪な状況で遭遇するとは、考えもしなかった。
「や、えっと。その」
「なんなんだい、君たちは!」
 急に後ろからタックルを仕掛けられたり、突き飛ばされたり、トンファーで殴られそうになったり。ただ家に帰ろうと歩いていただけの青年が動揺激しく叫び、雲雀と綱吉を交互に指差した。
 喚かれて眉を寄せ、雲雀が答えを求めて綱吉を見下ろす。あまりに冷たい視線に背筋が慄き、地面に屈んだまま立つことも出来ず、彼は指先でアスファルトを小突いた。
「その、だから、この人は」
「誰であろうと、構わないけどね」
「ちちち、違うんです!」
 横目で怒鳴り散らしている青年を窺っていると、それにすら機嫌を損ねた雲雀が右手のトンファーを握り直した。立ち上った怒気に慌て、舌足らずな声で叫んで両手を広げる。
 間に割り込んで青年を背中に庇った綱吉に、雲雀は片眉を持ち上げて不快感を露にした。
「この人は、関係ありません」
「綱吉、退きなよ」
「退きません。ヒバリさん、勘違いしてる」
「君たち、僕の話を――」
「五月蝿いよ」
 睨みあう両者の会話に、無視するなと青年が割り込もうとする。すかさず雲雀がトンファーを振り上げ、慌てた綱吉が青年をまたも突き飛ばして自分も横に跳んだ。
 ガッ、と激しい音がして砕かれたアスファルトの欠片が顔の横を勢い良く飛んでいく。痛む場所をまた打った青年は、問答無用で武器を振り翳した雲雀に瞠目し、彼が悪名名高い並盛中学風紀委員長だとようやく気付いて顔を青褪めさせた。
 奥歯をカチカチ鳴らし、全身を震え上がらせて両手両足をバタつかせる。そこに転がっていた自分の鞄を見つけると横薙ぎに掴み取り、胸に抱え込んで立ち上がった。
 振り向きもせず、二度と謝罪を求めようともせず、一目散に駆けて行く。
「ひぃぃぃぃ~~~~~!」
 普段から武術に慣れ親しんでいない人間にとって、雲雀はどの世代からも脅威だ。甲高い悲鳴を残して逃げていった青年に呆気に取られ、姿が見えなくなる直前に気付いて「ごめんなさい!」と大声で謝った綱吉だったが、その声は果たして彼に届いただろうか。
 後には憤然とした面持ちを崩さない雲雀と、苦笑いを浮かべる綱吉だけが残された。
 鴉の声さえ聞こえない。昼の名残は消え失せて、カーディガンなしでは肌寒かった。
「綱吉」
「ヒバリさん、乱暴すぎます。あの人に悪いことしちゃった」
 不機嫌を隠そうとしない声で名前を呼ばれるが、逆に言い返して綱吉は後ろを振り返った。
 もう影も形も無い青年に、今一度心の中で頭を下げる。もし次に町ですれ違うことがあれば、ちゃんと謝罪しよう。
 そう決めて、短い息を吐く。反論された雲雀はムスッと唇を尖らせ、トンファーを綱吉の前にちらつかせた。
 今日は会えなかったから、せめて顔を見るだけでもと思って家を訪ねたら、とっくに下校時間を過ぎているのにまだ帰ってきて居ないと言われた。どうせゲームセンターかどこかで遊んでいるのだろう、と思い当たる節をあちこち巡ってみたが、どこにも居ない。
 諦めがつかず、流石にこの時間になれば帰っているとヤマを張って、学校には戻らずもう一度沢田の家を目指していた矢先、制服姿の綱吉が辻の真ん中で立ち往生しているのが見えた。
 願ったり叶ったりで、呼びかけようとしたら向こうが先に動いた。雲雀ではない誰かに反応して、一直線に駆け出した。
 追いかけて、角を曲がったところで目を疑った。綱吉が知らない男に抱きついている光景に、魂が震えた。
「あの男と、何してたの」
「だからそれはー……」
 完全に疑ってかかっている雲雀に焦れて、綱吉は頭を抱え込んだ。正直に言えば良い話なのだが、気恥ずかしい。その場でじたばたと足踏みをして、彼は弱りきった顔でイラついている雲雀を盗み見た。
 トンファーは、いつでも綱吉を殴れるように表に出たままだ。浮気したと、そういう風に捉えられても無理なくて、思い出してまた赤くなり、綱吉は右足を引いてつま先で地面を叩いた。
 硬い感触が靴を通して全身に広がる。そわそわと落ち着きなく身を揺らし、彼は夜闇の中でも際立って明るい琥珀の目を、思い切って雲雀に向けた。
 強い眼差しで見詰められ、黒を背負う青年の表情に小さな緊張が走った。
「あの人は、全然そんなんじゃないです」
「抱きついてたじゃない」
「それは、そうなんですけど」
「だったら何」
「あー、もう!」
 自分の説明の仕方が悪いのは百も承知だが、雲雀も鈍いのが腹立たしい。気付いてくれても良いのに、と鈍感な彼を叱って、綱吉は握り拳で空を殴った。
「だから、間違えたの」
「――?」
「ヒバリさんの馬鹿!」
 町中だというのも忘れて怒鳴り、綱吉は一歩半、前に出た。雲雀との距離を詰め、牙を剥く。
 咄嗟にトンファーを構えようとした青年をひと際強く睨みつけ、鼻を啜り、大きく息を吸って。
「馬鹿!」
 もうひとつ叫び、彼は両手を伸ばして地面を蹴った。
 アスファルトに別れを告げた彼の体が、ゆっくりと弧を描いて重力に引き戻される。胸から体当たりされた雲雀は反射的に両手の武器を開放し、飛び込んできた小柄な少年を抱きかかえて後ろによろけ、踏み止まった。
 爪先から着地した綱吉の踵が宙ぶらりんに浮き、両手は学生服を掴んで皺くちゃにする。
 嗅ぎ慣れた匂いと馴染んだ体温に、安堵から涙が出そうになった。背中から腰に回された両腕は、いつしかしっかりと結ばれて綱吉を束縛する。肩口に額を埋めて四肢の力を抜いた愛し子に、雲雀はようやく合点がいったと頷いた。
「ほんとは、こうなるはずだったんです」
 あの高校生は、黒い学生服だった。身長も、ちょうど雲雀と同じくらい。
 拗ねた口調で呟いて、綱吉は彼の首に腕を回した。自分からもぎゅうぎゅう抱きついて、今日一日分の雲雀を補充する。
「……そう。でも、僕以外の人に抱きついたお仕置きは、必要だね」
 綱吉が人違いをしでかしたのは理解出来たが、矢張り少々許しがたい。暗さを言い訳に恋人と見知らぬ他人を見間違えたのだから、彼の怒りももっともであり、綱吉は耳元で響いた意地悪な台詞に僅かに怯んだ。
「え、えー」
「そうだね、何が良いかな」
 確かに思い込みだけで突っ走って失敗したのは綱吉の手落ちだと認めざるを得ないが、雲雀の言い分は少々傲慢すぎる。不満げな声をあげた綱吉だったがさらりと無視されて、考え込んでいる青年に彼は腰を引いた。
 手を解き離れようとするが、がっちり抱え込まれていて叶わない。
「折角だし、こういうのはどう?」
「うぐ」
 逃げようと足掻くが呆気なく封じ込まれた綱吉の耳朶に息を吹きかけ、甘く囁く。紡がれた短い願いに瞬時に真っ赤になり、湯気を立てて綱吉は呻いた。
「えあ、う……」
「嫌?」
「あー、もう。もう、もう!」
 強請る声色が恥ずかしくて、悔しくて、子供のように地団駄を踏んで綱吉は叫んだ。緩く握った拳で雲雀の左肩を叩き、そのままずり落ちそうなところで留まっている学生服を握り締める。
 雲雀は声を殺して笑い、早く、と急かして曲げた膝で綱吉を蹴った。
「ほら」
 日はとっぷりと暮れた。二人の立つ場所は丁度街灯と街灯の合間に当たり、車が通りでもしない限り彼らの姿は周囲からは影に紛れ、目立たない。
 誰も来ない今しかチャンスは無いと教え、雲雀は綱吉の後れ毛を気まぐれに擽った。
 爪の先で肌を掻かれ、身震いした彼は泣きそうな顔で瞳だけを上向けた。
「ヒバリさんの、……」
「なに?」
 口をもごもごさせて何かを呟き、聞こえなかった雲雀が顔を寄せて首を左に傾がせる。
「バカ!」
 すかさず爪先立ちになった綱吉が、雲雀の腕の中で目一杯背伸びをした。
 急に伸び上がってきた彼に目を瞬かせ、雲雀がちょっとだけ身を仰け反らせる。追いかけ、綱吉は学生服を握る指先に力を込めた。
 服の上から彼を引っ掻き、縋り付いて目を閉じる。
 軽く触れた唇の感触は遠く、儚い。けれどそれは夢でも錯覚でも、幻でもなく、故に雲雀を驚かせ、喜ばせた。

2009/09/15 脱稿