秋津

 ふっと頬を撫でた風の行方を追いかけ、綱吉は琥珀の瞳を左に流した。
 襟足を擽って彼の注意を引きつけた悪戯な精霊は、夕日を浴びて鮮やかに緋色に輝くススキ野原へと逃げ込み、姿を消してしまった。隠れ家を追い出されたのかトンボの群れが宙を泳ぎ、方向を定めぬまま散っていった。
「沢田?」
 歩みを止めた綱吉を振り返り、先を行く青年が名前を呼ぶ。周囲に物音があまり無いからだろう、思いの外大きく響いた声に驚き、彼はビクリとしてから恐る恐る前に向き直った。
 黒髪をそよがせた雲雀が、学生服の裾を揺らして仁王立ちしている。腰に手を当てて若干憤慨しているのは、彼が話している最中に、綱吉が他所に気を取られたからに他ならない。
「ヒバリさん」
「聞きたくないなら、いいよ」
 ぼうっとしているうちに五歩分近い距離が開いていた。慌てて鞄を抱え直し、小走りに駆け寄れば、雲雀は不機嫌そうに唇を尖らせてふいっと顔を逸らしてしまった。
 拗ねた口調で言われて、綱吉はそれが可愛く思えてならず、つい笑ってしまいそうになった。
 だが実際にそんな事をすれば、雲雀は益々機嫌を損ねてしまう。懸命に自制心を働かせて我慢し、それでも堪えきれない分は俯いて顎を鞄に沈めて隠して、歩き出した彼を追い、綱吉も足を前に繰り出した。
 長い影がふたつ、アスファルトの道に並んだ。
 少し長い影と、少し短い影。つかず、離れず。
「何、見てたの」
「え?」
 綱吉の肩の、小刻みに揺れるのが落ち着くのを待ち、雲雀は西日鮮やかな空を仰いで呟いた。
 独白めいた問いかけに綱吉の反応が一歩遅れる。押し付けていた所為で鞄の皺が一部顎に写ってしまった彼は、凸凹する肌を撫でて数秒考え込み、また開きそうになった距離を急いで詰めた。
 雲雀の歩幅と、綱吉の歩幅は違う。気を抜くとすぐに置いて行かれてしまって、こんなところから彼との身長差を強く感じた。
 たかが十センチ、されど十センチ。拳ひとつ分、というのはかなり大きいと、否応なしに意識させられた。
 山本や獄寺達と一緒にいる時は、あまり気にならないというのに、何故か彼にだけは。
「ああ、えっと」
 心持ち急ぎ足で歩き、綱吉は鞄を抱える腕に力を込めた。
 道は交通量も少なく、すれ違う人も疎らだ。犬を連れて散歩する人と五分前にすれ違ったが、町会が違うからだろう、知らない顔だった。
 綱吉と同年代の人の影も無い。住宅地から離れ、繁華街からはもっと離れた、並盛町の端の端に当たる道を通って帰ろうなんていう奇特な生徒は、綱吉と雲雀くらいなものだ。
 お陰でこうやって、誰かに見付かることもなく並んで歩けるのだけれど。
 道の両側には、住宅地を建設するために整備されたが、資金難で開発計画自体が立ち消えてしまって、結局ほぼ手付かずで放置された空き地が広がっていた。何処からか飛んできた種が芽吹き、荒れ放題であるけれど、その中に様々な植物が健気に背を伸ばしている。
 ススキの群生に顔をやり、綱吉は小さく肩を竦めた。
「もう、すっかり秋だなー、って思って」
 頬を擽った蜂蜜色の髪を掻き上げ、耳に引っ掛けて呟く。傍らから「ああ」という緩慢な相槌がひとつ聞こえて、そちらを向けば、雲雀は先ほど綱吉が見ていたものを眺めていた。
 絡まない視線を残念に思いながら、再び首を反対に転じて夕焼け色に染まる景色に目を細める。
「赤とんぼ」
 完全に歩みが止まったふたりの前を、四枚の細い翅を音もなく動かし、トンボが一匹通り過ぎて行った。思わず自由の利く手を持ち上げて人差し指で指し示し、後を追うように動かす。
 たったそれだけなのにちょっと嬉しくなって、隣の人を窺えば、雲雀は笑っていた。
「珍しくもないのに」
「そりゃ、そうなんですけど」
 先ほど綱吉が自分で言ったように、季節はもう秋。環境破壊だなんだと言われて数が減ってはいるが、この辺りまで来ればトンボなど幾らでも飛んでいる。敢えて声に出して言うまでもないくらいに。
 少し呆れている彼に決まりが悪い顔をして指を引っ込め、綱吉は右足を立てて爪先で硬い地面を擦った。
「君の家の近くには居ないの?」
「いますよ。昨日か、一昨日か、ランボが捕まえてきてました」
 夏場は蝉を入れるのに大活躍だった緑色の虫かごは、今は別の生き物に占領されている。奈々が、狭い場所に閉じ込めるのは可哀想だからと放してやっていたが、あの子の事だ、今日も懲りずに虫取り網片手にあちこち走り回っているのだろう。
 想像して目尻を下げた綱吉の頬に、ふっと黒い影が落ちる。視界の端が暗くなって、そちらに瞳を向ければ雲雀の手が下りてきた。
「ん」
 唐突にこめかみの辺りを指の背で撫でられて、ついでとばかりに髪もくしゃくしゃに掻き回された。
 皮膚を引っ張られる感覚に鼻から息が漏れて、反射的に目を閉じた綱吉はお陰で雲雀の珍しい表情を見損ねた。急にどうしたのかと声を上げて訊くが、彼は意味など無いとだけ答え、今し方綱吉に触れた手を唇に添えた。
「……!」
 これもまた、彼の言葉を借りるなら、特別な意味など何も無い行為なのだろう。しかし綱吉は意識せざるを得ず、夕焼けに負けないくらいに顔を真っ赤にさせた。
「沢田?」
「なんでもありません!」
 ぼふん、と煙を吐いて背中を向けた綱吉に小首を傾げた雲雀の、無意識具合が甚だ遺憾だった。
 彼は本当に、人の感情に関して疎い。自覚なしに綱吉の照れを呼び起こす行動を、気まぐれに、不意打ちでするから困る。
 ぶすぶすと黒い煙を棚引かせて収縮し、肩を丸めて小さくなった綱吉を見下ろして雲雀は顔を顰めた。唇を尖らせて眉間に皺を寄せ、自分の利き手を暫くじっと見詰めてから、ズボンのポケットへと。
 再度様子を窺った綱吉はまだ俯いていたけれど、お陰で良く見えるようになった項の辺りが程よく色付いていたので、本当に怒っているのではないと悟り、彼は苦笑した。
「いくよ」
 呼びかけ、道を進みだす。
 さっきからずっと、こんな調子の繰り返しだった。
 一緒に学校を出るのは人目があるからと放課後に外で待ち合わせをして、のんびりと時間をかけて綱吉を家までの道程を行く。制限時間は、沢田家の夕食が開始される午後七時だ。
 この刻限を過ぎると、もれなく綱吉は夕飯を食いっぱぐれてしまう。リボーンや奈々にも叱られる。
 自分と一緒にいた所為で綱吉が説教を受けるのは忍びなくて、雲雀は先を急ごうとするのだけれど、綱吉は何故かモタモタして、鈍い足取りで彼との距離を広げた。
 平べったい鞄を両手で抱き潰し、景色に目を向けては頻繁に足を止める。五秒か十秒かそのまま停止して、都度雲雀の視線にはっとしていた。
 丸い頬を照らす夕日の色合いは、徐々に濃くなろうとしていた。太陽は地平線と再会を果たし、ゆっくりと遠い山の向こうに消えていく。朱色に彩られた雲の影に半分隠れ、陽炎のようにゆらゆら揺れて見えた。
 自分の影を蹴る仕草をして、またも足が止まった綱吉が近付いてくるのをじっと待つ。
「あ」
「?」
「……へへ」
 その彼が不意に高い声をあげるものだから驚いてしまい、雲雀は僅かに身を硬くした。
 ただその緊張は無駄だったようで、綱吉は何かを見つけて目を細め、嬉しげに頬を緩めたに過ぎなかった。
 彼の視線の先に何があるのか、雲雀の位置からでは分からない。ふたりがいる道路と、左手に何処までも広がるススキ野原との間には若干の高低差があって、土手の影が草むらに伸びていた。
 なかなか動き出さない綱吉に痺れを切らし、雲雀は羽織っている学生服を翻して一度は進んだ道を戻った。
 開発が中断した余波で、整備に回される資金も滞っているのだろう。アスファルトの路面は所々罅割れており、端に向かうほど度合いは酷くなった。裂けた箇所から雑草が伸びており、植物の生命力の強さを物語っていた。
 だが、こうやって雑草が伸びれば伸びるほど、アスファルトに走る割れ目は大きくなる。放置しておけば、車も通れぬ道になってしまうだろう。
 少しは予算を回すように仕向けないと、此処を行く綱吉が危ない目に遭う危険性だってあるのだ。そんな事を考えて、意外に近い場所を見詰めて息を殺している少年の斜め後ろにつく。
 ちょっと前屈みになっただけで、雲雀の肩が綱吉にぶつかった。
「あっ」
 当てられるまで存在に勘付いていなかった綱吉が、吃驚した様子で振り向いた。顔が近く、呼気が鼻に触れる。丸く見開かれた琥珀は、夕焼けの余波だろう、いつもより発色が良く鮮やかだった。
 窄められた唇の紅色に目が奪われる。ふっくらとした頬は焼きたてのパンのように柔らかそうで、思わずかぶりつきたい気持ちに駆られて雲雀は慌てて半歩後退した。
 その場に留まった綱吉が、鞄に刻まれた皺の数を増やして鼻を膨らませた。口は変な風に波を打っており、パクパクと金魚の如く開閉を繰り返していた。
「び、び……びっ」
 吃驚したと、そう言いたいのだが、言葉が喉に詰まって出てこない。心臓が止まるかと思った。実際はその正反対で、一気に拍動強めて怒涛の勢いで鳴り響いているのだけれど。
 自然と紅潮する頬を持て余し、狼狽を隠して首を振る。
 紺色のベストの上から胸を撫でて深呼吸を三回、ちょっと間を置いてもう一回。それでやっと人心地ついた彼は、唇を舐め、気を取り直してまだ次の対応に苦慮している雲雀に微笑みかけた。
「どうか、しました?」
「ああ、……いや」
 助け舟を出してやれば、雲雀は鼻の下を掻いて言葉を濁し、綱吉に固定されていた視線を外した。右を向いてもう一度、今度は頬を引っ掻く。
「どうしたのかと、思って」
「ん?」
「何見てるのか、気になったから」
 語彙はそれなりに取り揃えているのに、なかなか会話を発展させるに相応しいものが出てこない。次いで鼻の頭に指を置いた雲雀は、綱吉の言葉を丸まる鸚鵡返しに呟き、不思議そうにされたのを受けて言い直した。
 ちょっとだけ語気が荒くなってしまったが、もっときつく怒鳴られたこともある綱吉はさして気にすることもなく頷き、目尻を下げた。
「あそこに、って、あれ……いない」
 捻っていた腰を戻し、草原に向き直って下の方を指差す。ススキに混じってエノコログサが高く伸びている一画だったが、振り向いた時にはもう眺めていたものは行方をくらましてしまっていたようで、綱吉はおろおろと周囲を見回した。
 雲雀は広げた空間を詰め、今度はぶつからないように横に並んだ。指し示された一帯に目をやるが、薄暗いだけで、特に目立って珍しいものは何も無かった。
 猫でもいたのかと話を向けると、ようやく動き止んだ綱吉が首を振った。
「トンボが」
 鞄を抱き直し、残念そうに呟いてから顔を上げる。目が合って、ほんの僅かだったが彼は硬直した。
「沢田?」
「トンボが二匹、いたんです」
 秋の夕暮れ時、そこいらを飛びまわるトンボの姿など、先にも話が出た通り、良くある光景だ。だのに綱吉には、此処にあった平凡さがとても稀有なもののように見えた。
 二匹の赤とんぼが、並んだススキの先に、向かい合って停まっていた。
 ただ、それだけ。番なのか、偶々だったのかは分からない。綱吉が雲雀に構っている間に何処かへと飛び去ってしまったので、最早確かめようもない。
「それで?」
「あ、えーっと……」
 状況の説明だけで終わらせてしまった綱吉に、他にもあるのではないかと雲雀が水を向けた。途端に綱吉はぎこちない笑みを浮かべ、言葉を濁して視線を彷徨わせた。
 図星を指摘されたが、正直に胸の内を吐露するのも憚られる。恥かしそうに身を捩った彼は、蟹歩きで雲雀から距離を取ろうと図った。
 横目で睨み下ろし、雲雀が深く溜息をつく。
「いいよ、嫌なら」
「えっ」
 言いたくないのなら無理に聞かない。そう伝えたつもりだったのに、思いの外声は冷たくなってしまった。それで綱吉も慌てて、自分を置いて歩き出した雲雀に反射的に手を伸ばした。
 学生服の背中を爪で引っ掻き、手応えの無さからその向こう側が空洞なのを思い出す。苦虫を噛み潰したような顔をして綱吉は肩を引き、思い切って肘を真っ直ぐ伸ばした。
 今度こそちゃんと布地を掴み、引っ張る。肩に羽織っているだけのそれは後ろからの力に弱く、ずるりとずり下がって雲雀の意識を留まらせた。
 落ちかけていると知って急ぎ左手で押さえ込み、抵抗して犯人に目を向ける。生まれながらに細く切れ長な瞳は迫力充分で、本人にその意図がなくても、見る人によっては睨まれているように感じられた。
「ま、っ……」
 怯みそうになった自分を鼓舞し、綱吉は奥歯を噛んだ。
 大丈夫、彼は怒っているのではない。そう自分に言い聞かせて、萎縮する心を奮い立たせる。
 雲雀と力比べをする気は最初からなくて、振り向かせる目的が達成出来た綱吉は指を解き、肘を引っ込めた。脇腹とで鞄を挟み、口を大きく開けて息を吸い込む。
 叫ぼうとした瞬間、
「あ……」
 意外にも雲雀の口から、間抜けな吐息が漏れた。
 綱吉も目を見開き、今し方自分たちの間を通り抜けて行った存在にぽかんとした。首をブリキ人形のようにぎこちなく回し、夕涼みの空に融けて行くトンボの後姿を追いかける。
 場の空気などお構いなしに、背中に羽根の生えた二人連れはのんびりと日暮れ前の散歩を楽しんで、何処かへと消えた。横に並ぶではなく、縦列だったけれど。
 先を行くトンボ、追いかけるトンボ。
 誰かと誰かのようで。
「僕達みたいだ」
 学生服のずれを直した雲雀が、遠くの空を見たままぽつりと言う。台詞を奪われた綱吉は目を丸くし、琥珀に夕日を映し出してぽかんと口を開いた。
 間抜け面を振り返った雲雀が、どうしたのかと小首を傾がせる。
「沢田?」
「……先に言われた」
「なに?」
「なんでもありません!」
 惚けたままの綱吉の独白は、誰の耳にも届かなかった。だけれど彼が何か呟いたのは分かった雲雀が、腰を曲げて距離を詰めてくる。
 その近さにうろたえて、綱吉は鞄を抱き締めて叫んだ。
 顔が人に断りなしに赤くなって、身体全体が火照って仕方が無い。ぎゅっと荷物を潰して全身を強張らせ、硬く目を閉じた綱吉の怯え方に苦笑し、雲雀は出し掛けた手を留めて空を握った。
「帰るよ」
 何事も無かったかのように、実際何も無かったのだけれど、呟き、促す。恐る恐る目を開けた綱吉が見た彼の背中は、相変わらず感情が読み取れない無表情だった。
 揺れる空っぽの袖に目を移し、半歩遅れて歩き始める。砂が散ってザリザリする道の端を、あのトンボのように縦に並んで。
 斜めに伸びる雲雀の長い影を踏んで、追い越して、けれど本体にはなかなか追いつけず、綱吉は右手から注ぐ今日最後の陽光に目を眇めた。
 後ろを見れば、自分の変に細長い影が雲雀のそれにぴったり寄り添いあっている。半分だけ重なって、たまに離れて、またくっついて。
「あ、いいな」
 羨ましい、と自分の影に向かって呟いて、綱吉は胸の前で交差させていた右手を垂らした。
 気がつけばもうかなり遅い時間だ。空は明るさと暗さが半々に入り混じり、赤と青が混じって濃い紫色の雲が漂っていた。
 刻限まで、もう僅か。家までの距離を考えると、のんびりと景色を眺めている猶予は残っていない。
 雲雀は前を向いたまま、黙々と歩く。ペースは乱れない。時折綱吉が遅れていないかを確かめて視線を動かすが、その大半に綱吉本人は気付いていなかった。
 腰を少し右に回して後ろを気にして、歩く。たまに落ちている石に乗り上げて慌てる。
「前、ちゃんと見ないと」
「見てますよ」
 説教めいた声で注意すると、ムキになって言い返すくせに、彼はまた直ぐに斜め後ろばかりをチラチラ見て、足元不如意になって転びそうになっていた。
 おっとっと、と横に飛び跳ねて土手から落ちそうになり、軽い悲鳴を上げて道に戻って来る。何をやっているのかと肩を竦めて嘆息し、雲雀は増えてきた建物の影に足を踏み入れた。
「あー……」
 途端に左側から残念がる声が聞こえて、いったい何かと綱吉を見るが、俯いているので表情は見えない。さっきから何を、と彼を注視したまま日陰から出ると、また急に綱吉は視線を巡らせ、立ち位置を僅かにずらした。
 鞄を抱き締める手が、知らないうちに左手一本になっている。いつの間に、と怪訝に眉を寄せていると、今頃視線に気付いた彼がパッと、中途半端な場所にあった右手を背中に隠した。
「沢田?」
「時間、過ぎるのって、あっという間ですね」
「ああ」
 挙動不審な様に疑問符を浮かべるが、違う話題で誤魔化されて雲雀は相槌を打つに留めた。
 日陰が増え、日向との入れ替わりが激しくなる。綱吉が足元を気に掛ける時間も徐々に増えていって、雲雀は訊こうか聞くまいかで逡巡し、脇に垂らしていた左手を揺らした。
 隣を行く人が、ピクリと肩を震わせた。
 声には出さない。だが彼が何に反応したのかを注意深く観察して、雲雀は視線を下方に転じた。
 綱吉が見ている先、やたらと後ろを振り返る彼が確かめていたもの。
「…………」
 一瞬だけ目を見開き、雲雀は左手をスッと横に出した。
 地面に落ちる影の位置が変わって、気付いた綱吉が慌てて右手をずらした。ちょっとだけ雲雀に近づけて、指先の角度を調整する。
 路上で並ぶ影の手と手が、まるで本体が手を握り合っているかのように繋がった。
 実際には掠りもしていないのだけれど、そこだけは現実と異なる世界が展開されていた。ならば綱吉はずっと、これがしたいが為に後ろを気にしていたのか。
「馬鹿な子」
 涙ぐましい努力を惜しまない彼に心の中で苦笑し、胸の中がじんわり暖かくなるのを感じて、雲雀は目を細めた。
 綱吉は、雲雀が気付いたことに気付いていない。大きな影に入った途端に肩を落として落胆の表情を浮かべ、前を向いて次の日向までの歩数を数えている。
 ススキ野原は終わりを迎え、一戸建てが立ち並ぶ住宅地に景色は切り替わった。建築物が増えれば、当然陽射しも遮られて影は増す。
 沢田邸までの距離を計算して、雲雀は目に見えて落ち込んでいる綱吉に嘆息した。
「沢田」
「はい?」
 人目はある、けれど昼間に比べれば少ない。影が増えるという事は、それだけ薄暗くなって、周囲から注目を浴びづらいという利点もある。
 綱吉をそうと悟らせずに道の端に追い遣りながら、雲雀は前を見たまま彼を呼んだ。抑揚の無い声に、何の疑いもなく綱吉が顔を上げる。
 影の中へ入り、彼の右手がピクリと動く。雲雀は意地悪く笑い、じっと綱吉の顔を見下ろした。
「……っ……!」
 瞬きもせずに表情の変化をつぶさに見て取って、見事赤くなった綱吉に彼はぷっ、と噴き出した。悪戯が成功した子供みたいに、ケラケラと、控えめな音量で笑う。腹を抱えて。
 反論したいが出来なくて、口をパクパクさせた綱吉は顔から火が噴き出る思いで奥歯を噛んだ。
 日陰から出たふたりの後ろをついていく、ふたつ分の影。どんなに動いても、動いても、繋がりあった手はもう離れなかった。

2009/09/05 脱稿