悔恨

 始まりは、本当に些細なことだった。
 社会科の先生の脱線話が面白かったとか、数学の先生はネチネチしているのであまり好きではない、だとか。そういう、他愛も無い日常のあれこれを綱吉がほぼ一方的に喋って、雲雀が耳を傾けて聞き、たまに相槌を打つ。そんなごくありふれた、いつも通りの時間を過ごしていた最中だった。
「……聞いてますか?」
 雲雀が風紀委員長として並盛中学校の実権を握り、運営に大きく介入しているのは、今更驚くことではない。
 故に彼が多忙を極め、放課後になってもなかなか手が空かないのも、綱吉は十二分に把握していた。
 こうやって応接室に毎日のように押しかけて、無駄話をして帰っていく。雲雀が凶悪無比で暴力的だという一面しか知らない人間からすれば、綱吉の行動は凡そ真似できるものではない、命知らずの愚行に見えるだろう。また、風紀委員側からしても、雲雀の仕事を邪魔する傍迷惑な行動にしか映らないはずだ。
 群れるのを嫌い、他者を寄せ付けない雰囲気を遺憾なく発揮している雲雀が、綱吉にだけ近付く事を許している。両者の間にある感情が、互いに好意に起因するものでなければ、到底成立し得ない方程式ともいえた。
 ただその日は、これまで無限に繰り返して来た日常に、少しだけささくれが立っていた。
 昨日、一昨日よりも雲雀の相槌の数が少ない。手元の資料に目を走らせるばかりで、応接室中央のソファにいる綱吉をあまり気にかけようとしない。
 綱吉もまた、いつもなら「忙しいのだな」と自分に言い聞かせて納得していたことが、この日に限って出来なかった。
 授業を終え、ホームルームを終え、獄寺からの帰宅の誘いも断り、一路早足で廊下を駆け抜けて訪ねて来たのに、思えば雲雀はこの時から反応が芳しくなかった。ドアをノックして誰何の声に返事をして、入室を許可されはしたものの、彼は椅子から立って出迎えてもくれなかった。
 俯いたまま、顔を上げさえしない。熱心に何を読んでいるのかは知らないが、目配せのひとつでもして欲しかった。
 ただ我が儘を言って雲雀を怒らせると、途端に部屋を追い出されかねないのでぐっと我慢した。それからこの時間まで、雲雀の口から発せられた言葉は、コーヒーを飲むかの問いに対しての返答と、「ああ」「ふぅん」という相槌が各々二回ずつ、のみ。
 からくり人形を相手にしている気分だ。こうも反応が鈍いと、邪険に扱われているのではと勘繰りたくもなる。
「ヒバリさん、俺の話、ちゃんと聞いてますか?」
「うん?」
 最初の呼びかけにも返事がなくて、綱吉は語気を荒げて言い直した。
 猫背だった背筋を伸ばし、ソファに座ったまま右手にいる雲雀を睨みつける。オレンジに染まった空はカーテンが遮っているので見えないが、窓から差し込む西日の眩しさは布越しでもはっきりと分かった。
 どこかでカラスが鳴いている。早く帰れと急きたてられている気がして、綱吉は唇を噛んだ。
 やっと書類から顔を上げた雲雀が、右手に持っていたものを机に置いて小首を傾げた。一寸の間を挟み、
「聞こえてるよ」
「嘘だ」
 比較的穏やかな声で告げた彼に、綱吉は吐き捨てるように切り替えした。
 これには雲雀も、ちょっとばかり気分を害したらしい。こちらは「聞いている」と返答しているのに、即座に否定されるのは、いかに心穏やかな状態であったとしても、快いものではない。
 見るからにムッとした表情で、雲雀は雑多に散らかっている机の上に肘を立てた。
「嘘じゃないよ」
 掌を合わせて指を絡めて結び、平らに均したところに顎を置く。早口に言った彼に、綱吉は首を振った。
「嘘だ、聞いてない。さっきから、全然。……俺が何喋ってたか、覚えてますか」
 素直に雲雀の返事に頷けず、綱吉は癖のある蜂蜜色の髪を掻き回した。合間に吐息をひとつ挟み、悔しげな顔をして乾いた唇を舐める。声のトーンを幾許か低くした彼の質問に、雲雀は両手を結び合わせたまま小手を前に倒した。
 椅子を引き、机との間隔を詰めて居住まいを正す。本当に数センチでしかないが距離が詰まり、綱吉は一気に居心地が悪くなって下を向いた。
「体育の時間に、懸垂が三回しか出来なかった。悔しいから家で練習しようとして物干しにぶら下がったら、重さに耐え切れずに折れてしまって尻餅をついた。おまけに母親にも、赤ん坊にも怒られた」
「それは、ひとつ前のです」
 サラサラと水が流れるように語られて、綱吉は僅かに頬を赤くした。
 自分で言った内容ながら、他人の口から聞かされるとやはり恥かしい。揃えた膝に両拳を置いて背中を丸めた綱吉の、可愛らしい反抗に雲雀は笑みを浮かべ、彼の不審を解消してやるべく記憶の引き出しを引き抜いた。
 しかし。
「……ヒバリさん?」
「明後日は休みだけど、遊ぶ予定が立ってない」
「それは。――やっぱり聞いてないじゃないですか」
 出てきた引き出しは中が空っぽで、思いがけないことに動揺が走った雲雀は咄嗟に浮かんだ会話を諳んじた。
 途端に綱吉はソファから身を乗り出し、膝でテーブルを蹴り飛ばした。空っぽのコーヒーカップが受け皿と喧嘩をして、甲高い音をひとつ立てる。しかし綱吉は構いもせず、狭い隙間に立ち上がると拳を震わせた。
 ふたりの居る応接室にも、カレンダーくらいはある。壁に吊るされたそれの、今日から数えて二日後は日曜日だ。
 しかし並盛中学は週休二日制を敷いている。明日に当たる土曜日も、授業は予定されていない――休日だ。
 思い浮かんだのは、昨日の綱吉が言った台詞だった。帰り際にカレンダーの前に立って、これ見よがしに言葉を紡いで、雲雀はその時返事をしなかった。
 頭の片隅に残っていたのだろう、それが思いがけず今になって飛び出して来た。
「いや、聞いてるよ」
「じゃあ、本当に聞いてたって言うなら、なんで間違えるんですか!」
 口元に手をやり、雲雀が動揺を悟らせまいと表情を隠して呟く。だが目は虚ろに泳ぎ、綱吉を見ようとしない。そういうところも気に障って、彼は大声で怒鳴り散らし、悔しさを発散すべく地団太を踏んだ。
 応接室がにわかに騒がしくなり、眉間の皺を深くした雲雀がそっと溜息を零す。幾分気持ちも治まった綱吉は、こんなことで怒っている自分にも嫌気がさしたのか、上唇を噛み締めて前髪を握りつぶした。
 音を立ててソファに身を沈め、雲雀に背中を向けた。
「綱吉」
「もういいです。聞く気が無いのなら、俺はもう何も喋りません」
 完全に臍を曲げてしまった。つっけんどんな彼の返事に苦笑し、雲雀は困った様子で長めの前髪を指で脇に払い除けた。
 黙りこんではいるが、部屋から出て行くつもりは今のところ、無いらしい。真面目に聞いていなかったのを認めて、素直に謝れば、彼の機嫌はすぐに元通りに戻るだろう。しかし雲雀とて、なにもわざと聞いていなかったのではない。
 どうしても今日中に終わらせておきたい仕事なのだ、これは。だから集中して、間違いの無いようにチェックを重ねてやっていた。一応綱吉にも意識を向けていたが、時々声を聞き逃していたのは、否定できない。
「誰の為だと」
 自分にだけ聞こえる音量でぼそりと呟き、雲雀は散らばっている書類を種類ごとに集め始めた。
 ガサガサと紙が擦れ合う音と、グラウンドで部活に勤しむ生徒らの掛け声しか聞こえない。静謐に包まれた応接室は決して過ごし易い場所ではなく、綱吉はもぞもぞと膝を擦り合わせ、肩を揺らした。
 ちらりと背後を窺うが、雲雀は集めた資料にまたも目を落とし、綱吉をまるで気にかけていなかった。
 黙っていた方が彼の仕事も捗るのは、分かっている。綱吉だってテレビをつけながら宿題をやっていたら、気付けばテレビに夢中で一ページも進んでいなかった、なんてことはしょっちゅうだ。
 雑音は無いに限る。雲雀の仕事も早く終わる。綱吉はただじっと待っていれば良い。
 だけれど、それでは綱吉が此処に居る意味もない。
「……」
 邪魔なのだろうか、自分は。雲雀の害にしかならない存在なのだろうか。
 聞きたいが、聞くのが怖い。なにより今し方、綱吉は自分で「喋らない」と宣言したばかりだ。
 身動ぎ、何も無い空間に視線を向け直した彼は、肩を落として溜息を零した。勢い任せで言ってしまったが、早くも後悔している。元々じっとしているのも、静かな空間に居るのも不得手の為、この環境はどうも落ち着かなかった。
 しかも綱吉は顔を逸らしているので雲雀が見えないが、雲雀からは綱吉の一挙手一投足が全て見えるのだ。
「うぅ」
 握り拳を硬くし、喉の奥で呻く。折角ふたりきりなのに、お互い黙ったままでいるのは時間の無駄だ。綱吉が居ない方が、雲雀が仕事に没頭できるのは明白なのだから、さっさと鞄を持って家路に着くのが妥当な状況でもある。
 だのに足が動かない、腰が重い。立ち上がるのを、本能が拒んでいる。
「俺の、馬鹿」
 ぼそぼそと呟いた綱吉の首筋を、ふわりと空気が撫でた。
 窓は閉まっているので、風が吹き込んだのではない。微風とも呼べない微かな変化でしかなくて、錯覚かと疑うくらい、下手をすれば気付かずに過ごしてしまうくらいの、大気の流れだった。
 だけれど綱吉ははっきりと肌で受け止め、顔を上げた。振り返ると同時に物音も響いて、彼は大きな琥珀の瞳を丸め、二度続けて瞬いた。
 視界の端からぬっと伸びた腕が、綱吉の飲み終えたコーヒーカップを捕まえた。ソーサーはそのまま残し、底に黒い滓を残すカップだけを持って引っ込められる。行く先を追いかけて目線を持ち上げれば、黒髪の青年を斜め後ろに見上げる格好となった。
「え」
「まだ飲む?」
 いつの間に移動したのか、雲雀がソファの後ろに立っていた。
 驚き、呆然としている綱吉に、彼は何事もなかったかのように涼しい声で問うた。もう片手には彼が使っていたカップが握られていて、御代わりを作るついでに綱吉にも質問を投げたのだと、直ぐに分かった。
「え、あ……むう」
 咄嗟に頷き、飲む、と言いそうになったのを堪え、綱吉は口に鍵をして顔を背けた。
 雲雀とは口を利かないと決めたのだ。こんなにも簡単に、決意を覆しているようでは、男が廃る。
 自分に言い聞かせ、強く念じて綱吉は険しい表情で自分の手元を睨みつけた。後ろの雲雀がどう思ったのかは分からないが、苦笑に混じった溜息が聞こえたので、意固地な彼に呆れているのは、間違いないだろう。
 誰の所為で、こうなったと思っているのか。
 雲雀の邪魔をして、それを当たり前と決め込んでいた自分も多少悪いとは思う。しかし一所懸命喋っていたのを無視されたとあっては、気分は良くない。
 こうなれば徹底的に我慢比べをしてやる。誓いを新たにして咥内の唾を飲み込んだ綱吉の鼻腔に、芳しいコーヒーの香りが漂った。
 無意識に喉が鳴り、背筋が伸びる。指にこめた力を緩めてこっそり後ろを窺うと、ポットの前を離れた雲雀がカップを左右にひとつずつ持ち、ソファのある応接セットへ向かって歩き出そうとしていた。
 慌てて姿勢を戻し、磨かれたガラスのテーブルに向き直る。雲雀は紅色に染まった項を襟から覗かせている綱吉に笑み、途中で自分のコーヒーをひとくち啜ってから反対側のソファへ回り込んだ。
 綱吉の目の前にミルクと砂糖入りを差出し、三人は楽に並べるソファの真ん中に座る。ちょうど、綱吉の正面になるように。
 温かな湯気を立てる白いカップと、早く受け取れと言わんばかりの雲雀とを交互に見て、綱吉は戸惑いに瞳を揺らした。
「ありがとう、ございま――」
「喋らないんじゃなかったの」
 彼なりの、仲直りなのかと判断し、掠れる声で礼を述べて両手を広げる。しかし熱を持った陶器が彼の手の上で安定を見た瞬間、雲雀は素っ気無く言い放った。
 危うく零してしまいそうになり、綱吉は肝を冷やしてカップをソーサーに下ろした。信じがたい目で真ん前にいる青年を見据えるが、彼はそっぽを向いたままコーヒーを啜っている。熱いだろうに平然として、ソファの背凭れに身を沈めて。
 絶句し、綱吉は渦を巻く薄茶色の液体を覗き込んだ。インスタントにしては上品な香りがするが、急速に飲む気が失せて、彼は受け皿ごとカップを雲雀の方へ押し出した。
「なに」
 ガラスを引っ掻く陶器の音に、雲雀が怪訝な顔をした。中身が半分以下に減ったカップを置き、テーブルの真ん中に位置をずらした手付かずのそれから綱吉へ視線を移し変える。
 彼は不機嫌に口を尖らせ、要らない、との意思表示で首を横に振った。それからもう一度、皿を押す。
 綱吉側から雲雀側へ移動を果たしたソーサーが、雲雀のカップに行き当たって止まった。カツン、と音が鳴って直ぐに消える。しかし綱吉の耳には、いつまでも消えないものとして残されてしまった。
「飲まないの」
「要りません。あと、ヒバリさんとはもう、口利かない」
 すっぱり言いきり、綱吉は険を強めた目で雲雀を睨んだ。
 強気に出た彼に驚き、雲雀の目がいっぱいに見開かれた。彼の感情がここまで表情に表れるのも珍しいが、あまり嬉しくなくて、綱吉は心の中で舌打ちし、気まずげに顔を逸らした。
 ただ、撤回する気は皆目無い。雲雀の邪魔をしたのは悪いと思うが、一緒にいるのに全く相手をされないのは、あまりにも寂しすぎる。
 忙しいと最初に言ってくれれば、大人しく引き下がったのだ。それをせず、応接室の中に綱吉を招き入れた雲雀にだって、少なからず罪はあると綱吉は思う。
 半端な優しさは要らない。嬉しくない。だのに雲雀は、その辺をまるで分かっていない。
 気付いて欲しくて、強情を張ってしまう。言わなければ理解し合えないことだって多いのに、察して欲しいと相手に対して無茶な我が儘をつきつけているとも知らずに。
 無言を貫こうとする綱吉に肩を落とし、雲雀は二つ並んだカップの縁を指でなぞった。
 減っている方はブラックで、そうでない方はミルクのお陰で色が薄い。完全に溶け合い、渦は消えた。湯気も最初に比べればかなり減っている。
 綱吉の好みに合わせて砂糖を多めに入れたので、かなり甘いはずだ。甘味は食べられないわけではないが、得意でも無いので避けて通っている雲雀には、少々辛い味付けでもある。
 要らないといわれても、雲雀だって要らない。折角綱吉の為を思って淹れたのに、無碍に扱われてしまって彼はムスッと鼻を膨らませた。
 しかし同時に、これしきの懐柔では綱吉の機嫌が直らないというのも分かった。拗ねると喚き散らす傾向にある彼にしては珍しい対応で、懸命に押し黙って耐えている横顔に目を眇め、雲雀はブラックコーヒーのカップを持ち上げた。
 温くなった残りを一気に飲み干し、音を立ててテーブルへ戻す。濡れた口元を雑に拭っていると、横目で見ていた綱吉がパッと顔を背けていった。
 口を利かない、と言っておきながら、雲雀の動向が気になって仕方が無い様子が窺えた。このまま一生会話を交わす事無く終えてしまうのではないかと、そんな事まで考えて悶々としているに違いない。
 綱吉はどうにもネガティブな方向に思考を持って行きがちなので、頭の中身は楽に想像できてしまう。ただ稀に、さっきのように突拍子もなく大きく、強く出て来る事があるから、その対比もまた面白い。
「あまり美味しくないね」
「?」
「ひとりで飲むのは」
 数滴のみを残すだけとなったコーヒーカップを高く掲げ、首を捻った綱吉に雲雀が意地悪く告げる。途端に彼は耳まで赤くして、何か言いたげに口を開いて息を吐いた。
 懸命に声を我慢し、唇を戦慄かせて小さく、丸くなる。対岸で畏まる彼の姿を声も立てずに笑い、雲雀はカップを置くと同時に机に置いてきた資料の山と、カレンダーを見て、最後にカーテンに影を落とす西日から己の手元へと視線を流した。
 どっかりソファに体重を預け、天井を仰いで額に左手を押し当てる。
「明日もいい天気になりそうだ」
「む、う」
 何気ない彼の独白に、いつもの癖でつい綱吉は相槌を打ちかけた。寸前で誓いを思い出し、両手で口を押さえ込んで声を封じる。
 必死な彼に目を細め、雲雀は姿勢を戻して右を上に脚を組んだ。
 肘を膝に立てて優雅に両手を結び合わせ、そこに顎を置く前傾姿勢を取った雲雀の眇められた瞳は、黒く冴え冴えと輝き、戸惑う綱吉を射た。
「折角の土曜だしね。暖かいし、かといって暑過ぎることも無さそうだし。久しぶりに風紀委員関係なしに、何処かへ出かけようかと思ってたんだけど」
「……っ」
 絡ませた指を動かし、上半身を揺らした雲雀の目線が窓の向こうへと流れる。日暮れが迫り、闇の帳が降りるまでそう時間は掛からない。
 太陽が沈み、再び登ればもう土曜日。快晴の予報が出ている、雨の心配は要らない。絶好の行楽日和だと、テレビの気象予報士が太鼓判を押していた。
「それには今日中に終わらせてしまわないといけない仕事が多くてね。生憎僕は、風紀委員長であって聖徳太子じゃない」
「ぐ」
 同時に複数人の発言を聞き取り、全員に的確な助言を下したという歴史上の偉人を例に出した雲雀に、綱吉は喉の奥で声を潰した。
 何かをしながら、別のことも一緒にやるのは難しい。雲雀はわざと綱吉を無視していたのではないことくらい、綱吉だって分かっている。そして何故彼が、綱吉への対応を疎かにしてまで仕事に打ち込んでいたのか、その理由にも気付いてしまった。
 ちらりとカレンダーを見る。雲雀とのやり取りを思い出す。
 気にしてくれていたのだ、最近一緒に出かけていないことを。
「だけど、この調子じゃ、終わりそうにないし」
「……」
「明日も応接室にカンヅメかな」
 綱吉は上唇を噛んで下を向いた。握った手を視界の中心に据えて、それをぶつけ合わせて骨を鳴らす。
 彼が綱吉を応接室に招き、緩慢な相槌を打ちつつ待たせたのも、仕事を終えて直ぐに計画の打ち合わせが出来るように。何処に行きたいか、何をしたいか、膝を突き合わせて話が出来るように。
「……やだ」
 ぽつり、綱吉が呟く。
 雲雀は視線を戻し、脚を解いて行儀良く座り直した。
「綱吉?」
「やだ」
「口、利かないんじゃなかったの?」
「明日からにする」
 頬を風船のように膨らませ、子供みたいに駄々を捏ねる綱吉に、雲雀は笑った。問えば握った拳で自分の膝を何度も叩き、最後に「いーっ」と口を真一文字に結んで歯を見せる。
 十歳は幼くなった彼の態度に、雲雀は今度こそ声を立て、肩を揺らした。
「明日から?」
「そうです。ヒバリさんとは、明日から口利かない」
 まだ完全に許したわけではない。しかし、雲雀との外出を人参として鼻先にぶら下げられては、抗いきれるわけがなかった。
 依然むすっとしたまま雲雀を睨む綱吉だけれど、綺麗な琥珀色の瞳の奥では、明日への期待がいっぱいに満ち溢れている。きらきらと輝く彩は、どんな眩い星よりも鮮やかだった。
「じゃあ、明日からね」
 けれど、そんな事を言って良いのだろうか。ふたりだけで遊びに出て、綱吉が無言を貫き通せるわけがない。
 そんな無粋な疑問は、翌朝見事に打ち砕かれた。待ち合わせ場所、手を振った駆け寄って来たいとし子は、雲雀からの問いかけをあらかじめ想定していたらしい。
「口は?」
「明後日から、利きません」
 満面の笑みで、ある意味勝ち誇った顔で言った彼に、雲雀の中でちょっとした悪戯心と対抗心が芽吹く。彼はまたも、綱吉が指定した明後日に正門前で同じ質問を投げかけた。
「明々後日から、にします」
 遅刻ギリギリで急いでいるところを引きとめられた綱吉は、まだ覚えていたのかと少し嫌な顔をした。
 明々後日に雲雀が訊けば、言い出した本人はすっかり忘れていて、何のことかと首を傾げた。
 一週間後、十日後、一ヵ月後、三ヵ月後と、飽きもせずに雲雀は彼に問い続けた。あまりのしつこさに、いい加減痺れを切らした綱吉は、最後にするつもりでこう叫んだ。
「もう。だったら、ヒバリさんとは十年後から口利かない!」
 怒鳴るように宣言した彼に、流石にそれは先過ぎると雲雀は笑った。
 つられて綱吉も笑って、この約束はふたりの記憶の海に深く沈み、長く思い出される事もなく。
 時が過ぎるまでは。

 繋がらない電話、聞こえない君の声。
 あの日の些細な口約束を悔いても、もう遅くて――

2009/04/29 脱稿