爽秋なりて

 気が重くなる話を学校で聞かされたからだろう、玄関を潜った先で帰宅を告げた声は、いつもよりかなり小さかった。
 奥から塔子が顔を出し、あれこれ話しかけて来たけれど、受け答えも何処と無く上の空で、申し訳ない事をしてしまったと思う。軽い弁当箱を抱いた彼女は、夏目が階段を登って二階に上がるまで、下からずっと不安げな表情で見守っていた。
 夕食の席できちんと謝ろう。それで、出来れば相談という名の質問をしてみよう。
 俺はいつまでこの家にいていいですか、と。
「ただいま~」
「遅かったな、夏目」
「お邪魔してるよ」
 考えるだけで憂鬱になって、晴れない気持ちはどんより曇り空。だのに障子戸を開けた瞬間聞こえて来たのは、呑気で、且つ陽気な妖怪ふたり分の声だった。
 夕焼けが差し込む窓辺に、向かい合って座る片方は美しい女の妖怪。残りはでっぷり丸い、招き猫を依り代とした妖怪だった。
 どちらも顔見知りで、勝手に部屋に入られて驚くような間柄でもない。特に猫の方は、今や完全に藤原家の飼い猫と化していた。
 本人は自分を高貴な妖怪と言って憚らないが、猫の姿をして与えられる餌を貪り食っている姿を見ている限り、とてもそうは思えない。食い意地が張っており、尚且つ意地汚い。たくさん食べるので、塔子は作り甲斐があると楽しんでいる様子だが。
 夏目ひとりだけでも食費が大変なのに、そこにもう一匹、たとえ猫とはいえ大ぐらいを囲うとなると、出費は果たしていかばかりか。世話になっている手前、余計な迷惑をかけたくないのに、この猫、もとい妖怪である斑は、全く気にしようとしない。
 少しは感謝の気持ちを持て、と常々口が酸っぱくなるまで言い聞かせているのに、である。
「おや、斑。杯が空じゃないか」
「おお、本当だ。すまんが一献頼もうか」
 担いで来た鞄を下ろし、学生服を脱ぐべく部屋の奥に向かった夏目を他所に、妖怪二匹は楽しげに言葉を交わし、恐らくは女妖怪のヒノエが持ち込んだのであろう酒瓶を傾け、杯を満たした。
 外はまだ明るく、太陽は地平線に近いといえ、空の只中を漂っている。
 依り代が実体なので、窓から差し込む光を浴びて、斑の足元には長い影が伸びている。しかし隣に陣取るヒノエには、それがない。
 人の目に妖怪は写らない、特別な力が無い限りは。そして夏目には、それがある。声も聞くし、触れられるし、そこに在る筈の無い命の息吹さえ繊細に感じ取ってしまう。
 それで彼は、幼少期から随分と苦労を強いられた。
 両親を早くに亡くし、以後親戚縁者を頼って方々を転々とする日々。養い子など、よっぽど望まれていない限りは歓迎される立場になく、愛されたい気持ちと自分は厄介者だという自覚の狭間で常に心は揺れ動いた。
 望んで得たのではない、そこに在らざる命――妖怪と接する能力は、彼に定住を許さず、安らぎの時間を与えてはくれなかった。
 人は自分の目に見える範囲で世界を構成する。夏目はその常識から外れたものを、さもそこに在るが如くに認識し、理解し、許容する。だが他人には、それが理解出来ない。
 人は見えないものは無い物として受け止め、存在を許さない。
 嘘つきと罵られ、蔑まれ、貶され、本当の事を正直に言えないうちに、心は澱に沈んだ。生きるのを諦めるのはとても簡単だけれど、だからといって死を易々と選び取れるほど諦めがいいほうではなかった。
 考え方が変わったのは、自分を必要とし、愛してくれる人が現れた時から。
 求められることの幸福を、今の夏目は痛いくらいに実感している。藤原滋、塔子夫妻に引き取られて良かった。これまで自分を苦しめるばかりだった霊力の由来、自分自身のルーツも奇異な偶然から知ることが出来た。
 この地に来て自分は、夏目貴志というひとりの人間になることが出来た。
「ヒノエも、ほれ、飲め。呑め」
 昼間から酔っ払っている妖怪の明るい声に嘆息し、制服から部屋着に着替え終えた夏目は、部屋の片隅に鎮座する箪笥の戸を閉めて肩を竦めた。
 日当たりの良い場所を占拠している彼らの周囲には、食い終えたツマミやら、呑み終えた酒瓶やらが大量に転がっている。いったいいつからやっていたのかと呆れるばかりで、腰に手を吸え、彼はゆるゆる首を振った。
「先生、ヒノエ」
「なんだい、難しい顔をして。景気が悪いね」
 酒盛りをするのは構わないが、程度は弁えて欲しい。以前、散らかしたものを片付けもせずに去られた事があって、酷い目を見た経験から怒鳴った夏目だったけれど、ヒノエは気にする様子も無くなみなみ注がれた杯を掲げ、婀娜な笑みを浮かべた。
 ふっくらした赤い唇で告げられ、苦々しい顔をした夏目がまたしても溜息を零す。呑むか、と酒瓶ごと差し向けられるが、未成年である夏目は丁寧に遠慮を申し出た。
 前髪を掻き上げて額を晒し、惜しがりもせずに斑の相手に戻ったヒノエに肩を落として、夏目は仕方なく座布団を引っ張りだし、彼らの横についた。
 眩しい西日を避けて日陰を選んで座り、並べられている品々を左から右に眺めていく。
 人間社会と妖怪たちの社会は決して相容れず、交わらない。故に彼らが食するものも、人間である夏目にとっては珍しいものばかりだった。
 人が口に入れるものに似て非なるものが半分、とても食べ物に見えない毒々しいものが半分。
 酒は、常々疑問なのだが、いったい誰が作っているのだろう。妖怪の名前が記された一升瓶を前に、真面目に米作りからやっている河童の姿を想像してしまって、彼は自分に呆れた。
 空瓶を小突いて転がし、影を伴わないそれが揺れ動く様を見下ろして、彼は三度目の溜息を吐いた。
 胡坐を作り、頬杖をついて背中を丸める。心此処に在らず、物憂げな表情の彼をちらりと盗み見て、焼いたスルメをしがんでいた斑は、噛み千切れないそれを口に入れたまま畳の縁を叩いた。
 バシバシと音を立て、ついでに埃も巻き上げた彼を、ヒノエが迷惑そうに見詰めた。
「辛気臭い顔をするでないわ、酒が不味くなる」
 溜息ばかり吐くな、と言外に咎められて、夏目は視線を浮かせて憤慨している猫に目を眇めた。
 全体的に白く、頭から背にかけて二色の筋が模様として走っている。バスケットボールをふたつくっつけたような外見で、ならば尻尾はテニスボールといったところか。それが、彼が動く度にひょこひょこと一緒に揺れるものだから、実に滑稽な光景だった。
 面白くて笑っていると、それがまた腹立たしいようで、斑は酔いの影響もあるのだろう、いつもよりずっと大声で喚き散らした。
 両耳に指を入れて迷惑そうに顔を顰め、あまり騒ぐと階下に聞こえてしまう、と釘を刺す。依り代に引き篭もっている時点で、斑の姿は霊力を持たない一般人の目に映るし、声も聞こえるのだ。
 塔子に妖怪の事を知られるのは、困る。それであの人との関係が壊れてしまうとは思わないが、少なからず彼女は恐れを抱くだろう。
 疑心暗鬼に陥りたくない、お互いに。数え切れない過去の失敗を顧みて、夏目は四度目の溜息を吐いた。
「今日はまた、どうしたんだい」
 酒盃を置き、代わりに煙管を取り出したヒノエが理由を問う。斑はすっかり酔いの境地にあり、最後はわけも分からぬ言葉を吐いて、赤い顔をして畳に突っ伏してしまった。
 ぷぅぷぅ鼻息を立て、気持ち良さそうに頬を染めて目を閉じている。こうやって静かにしていると、傍目には愛嬌があってよいのだが。
 口喧しく、説教五月蝿く、図々しい。多軌がこの不細工を捕まえて、可愛いと連呼できるのか未だ不思議でならず、物珍しげにその額を小突き、夏目は頬杖を崩した。
 座布団の上で居住まいを正し、人の机に寄りかかって煙管をふかしているヒノエに向き直る。
 こちらは、恐らく斑と同じくらいは呑んでいるだろうに平然として、悠然と構えて夏目の次の言葉を待ち構えていた。話すまで放さないと、意地悪く細められた目が語っている。
 どうしてこうも、人より多く歳月経た妖怪たちは、人を茶化すのが好きなのだろう。
 もっともそれでこそ妖怪であり、そうでなければ妖怪ではないのだが。
 自己完結させて苦笑し、夏目は細い上に色素も薄い前髪を人差し指に絡めた。くるくると巻いて引き抜き、真っ直ぐに戻る様を上目遣いに眺めて、両手を後ろへと投げ出す。
 背筋を後ろに反らして天井を仰いだ彼は、そのままずるずる身を沈めて大の字に寝転がった。
 下半身は座布団の上にあるので、その差分だけ頭が低くなる。背中の下に空間が出来上がって、この姿勢を維持するにも相応の腹筋が必要だった。
「よっ、と」
 脱力してしまうか、否か。数秒もない逡巡の末、彼は息を吸って留め、腹に力を込めて体を起こした。
「なにをやっているんだい」
「さあね」
 自分でも分からない、と一分と寝転んでいなかった自分に首を傾げ、夏目は立ち上がった。一秒としてじっとしているのが苦痛で、彼は箪笥の横に置きっ放しにしていた鞄を拾うと、胸に抱えて座布団へ戻った。
 どっかり座り、荷物を広げて一枚の紙を取り出す。
 見せられたとことで、人間社会に通じていないヒノエにはこれが何であるか分からない。上下逆だったプリントをひっくり返し、天地正しくしてから見下ろして、彼女は煙管の端を前歯で噛んだ。
 書かれている文字ならば読める。
「進路希望?」
「そう」
 斑は呑気に鼻ちょうちんを膨らませていた。耳もぺたんと閉じている。
 話に割って入ってくる様子が無いのを確かめて頷き、夏目は返された紙をその場に置いた。
 邪魔になるツマミの皿を脇へ追い遣り、畳の目を隠して表面をなぞる。ざらついたわら半紙に印刷されたそれは、トナーでも零れたのか、表面はやや黒ずんでいた。
 名前の記入欄に夏目の字で、彼の名前が書き込まれている。だがその下の、三つに分かれた欄はいずれも空白だった。
 書こうとして迷った時間が、隅の方に刻まれている。汚れかと思われたのは、無数の点集まりだった。
 シャープペンシルの先で何度も小突いたのだろう。クラスメイトの多くも似たような事をしていた、だけれど一部の生徒は、迷いの無い筆捌きで文字を書き記していた。
 大学へ行くか、専門学校へいくか。
 就職、或いはもっと別の道。
 ずっと先の、遠い未来のことだと思っていたのに、いつの間にかすぐそこまで迫っていて、あまりの不意打ちに何も考えられなかった。否、極力考えないようにしていたのだと思い知らされた。
 藤原の家に引き取られて、新しい学校に転入して、友人が出来て、夏目を理解してくれる存在に出会って、多くの別れを経験した。
 空洞だった心が、綺麗なもので満たされていく。どんな宝石にも負けない、キラキラと輝いているものたちが、灰色だった夏目の世界を鮮やかに彩った。
 此処に来て良かったと思う。だからこそ、此処を去らねばならない日を考えたくなかった。
 明日の事を考えながら、明後日を夢見ながら、一ヵ月後には目を逸らす。一年後なら、尚のこと。
 今がいい。このままがいい。
 変化を求めて此処に来た。そして今は、変化を嫌って立ち尽くしている。
「人間っていうのは、本当に面倒臭いねえ」
 薄汚れた紙切れをひらりと掬い取り、艶やかに染めた爪で弾いてヒノエが笑う。煙管を咥えて妖艶な微笑みを浮かべた彼女に、決まりの悪い顔をした夏目は肩を引いた。
 座布団の端を握って身体を前後に波立たせ、日暮れ模様の空を見る。
 閉めきった部屋でも、木造建築だからか、どこかしら空気が流れて滞ることが無い。決して隙間風などではなく、例えるならばそれは、家自体が呼吸している、という事だろう。巨大な生命体の腹の中にいると考えると、それもまた滑稽で笑えるが、結局のところはそういう事だ。
 畳の肌触りも心地よく、夏目に安らぎを与えてくれる。人に話したからか、幾分沈んでいた気持ちも和らいだ気がして、夏目は取り戻した紙を額に翳した。
 日の光に透かせ、細かく印刷された文字を左から右へ追って行く。
 大学進学か、否か。進学なら理系か、文系か。それによって最高学年のクラス分けが行われるという話は、以前から耳にしていたので特別目新しいものではない。
 だが夏目はまだ、将来をどうするか決めあぐねていた。
 頼めば滋は、進学を許してくれるだろう。学費や、交通費や、もしひとり暮らしをせねばならない場合の食費などの仕送りも、惜しむまい。塔子もあわせて、彼らはそういう性格だ。
 遠縁であるというだけで、ここまで親切にしてくれるとは思えない。だからこそ彼らが本当に夏目を――たとえそれが、自分たちの実の子供が産まれてこなかったからという理由であっても――必要とし、求めてくれているのだと分かる。
 恩返しをしたかった。
 いつになるか分からないけれど、自分が貰った分の愛情を彼らに、倍にして返したいと思っている。
 だけれど、方法が分からない。なにをすればいいのかも、思いつかない。勉強でいい成績をとって、いい大学に行って、いい会社に勤めることが孝行に繋がるとはどうしても思えなくて、余計に夏目は、果ての無い砂漠に取り残された気分になった。
 そもそも、恩返しをする為に滋に出資させ、大学へ行くというのは甚だ本末転倒だ。
 将来の目標、夢、と言われても漠然としすぎていて、はっきりと形を持たせるのは容易ではない。勉強は嫌いではないが、とことん追求したいものでもなく、運動神経も平凡で、スポーツ選手を目指す気は到底ない。
「お前さんは、あんまり執着が無さそうだからね」
「うぐ」
 あっさり言い切られ、夏目は言葉に詰まって呻いた。
 愉快だと笑い、ヒノエが煙管をくゆらせる。吹き付けられた煙を嫌ってプリントで風を作り、彼は渋い表情をそのままにして背中を丸めた。再び頬杖をついて、仇のように薄っぺらな紙切れを睨みつける。
 確かにヒノエの言うことも正しい。夏目は長く、持たざる側の人間だった。
 今でこそ守らなければならないもの、奪われてはならぬものを手元に置いているが、それさえも斑から教わらなければ、今もただの紙の束に過ぎなかったろう。
 祖母である夏目レイコが遺した友人帳。多くの妖怪の名前が記された、唯一無二の品。
 将来の目標があるとするならば、此処に刻まれた名前を全て返却すること、だろうか。だけれども、何処にいるのかも知れない妖怪を探すのは労力が必要だし、待つには甚大な時間が必要だ。
 なにより、人としての生活を諦めねばならない。
 今は学生で、自由な時間が多いから許されているが、もし社会に出て会社勤めを始めたらば、好きな時に好きな場所へ出向くなど不可能だ。大事な会議中に妖怪に名の返却を求められても、応じてやれるわけがない。
 いわば夏目は、今現在狭間に立っている。
 人としての己を優先させるべきか、否か。
 俯いて両手を膝で揉みあわせた夏目が、重ね合わせた掌に向かって溜息を零す。何度目か最早数えるに及ばず、彼は物憂げに目を細め、結んだ両手を額に添えた。
 瞼を閉ざして西日を遮り、年季を感じさせる天井を仰ぐ。そのまま後ろへ倒れた彼の、行き場の無い心の有様を想像して、ヒノエは傍らで眠る斑の丸い背を撫でた。
 緋色に塗られた長い爪が、陽光を反射して鈍い輝きを放っている。それはまるで血の色だった。
 命の色だ。
「あたしには、お前さんが何に対してそんなに迷っているのかは、分からないけれどねえ」
 何百年と存在しているに関わらず、人間社会に馴染んだことのないヒノエには、夏目の苦悩は理解し難い。他の妖怪とて同じだ、彼らは好きな場所に棲み、好きな時に眠り、時間の概念に縛られない。
 限られた時間の中で、己を縛ることで自由を謳歌した気分になる人間とは、根本的に異なっている。
 彼らは、そう、縛られない。だから風のようであり、水のようであり、大地のように温かい。そして、時に冷たい。
 ぷぅぷぅ鳴いている斑の頬を小突いて、ヒノエは煙管を手の中でくるりと回した。細長い棒の動きに従い、刻み煙草の塊がトン、と彼女の掌に落ちた。
 それで火傷をすることは無いのかと思うのだが、彼女は平然とそれを潰し、袖の中から取り出した小さな箱に入れた。あれは恐らく、携帯灰皿の類に違いないのだが、ならば最初からそちらに受け止めさせればよいのではとも思ってしまう。
 彼女は慣れた手つきで新しい刻み煙草を指で丸め、火皿の中に押し込んだ。火を灯し、息を吸って、吐く。窄められた唇からは、再びもわっとした煙が溢れ出した。
 夏目は寝転がったまま一連の流れをぼんやり眺め、悩みが無さそうな彼女を少しだけ羨ましく思った。
「ヒノエはさ、なにか、やりたいこととかは」
「さあて、ねえ」
 明日への展望はあるのか、そう問えば彼女は遠くを見て答えをはぐらかした。眇められた隻眼に意地悪な彩は感じられない、だからこの曖昧な返事は彼女の本音なのだろう。
「明日の事は、明日考えるさ。今は、今のことだけを」
 大きく口を開け、くしゃみでもするかと思われた斑は、しかしむにゃむにゃ言うだけだった。急に顔を動かすから吃驚してしまい、肘を引いて身を起こしかけた夏目を彼女が笑う。
 カラコロと喉を鳴らし、鈴のような声が部屋に響いた。
「人間は、面倒臭いね」
「ヒノエ」
「先の事を先に決めておかなけりゃいけないなんてさ」
 彼女の手には、先ほどのプリントが握られていた。理解出来ないと言いながら真剣な眼差しで記された文言に見入り、矢張り自分には分からない、と爪で引っ掻いて突っ返してくる。
 顔に被せられ、夏目は後頭部を畳に戻した。両手で紙を持って床と平行になるよう掲げ、考えるだけで気が重くなる文章と提出期限の日付に眉を寄せる。
 締め切りは一週間後。これがもし単純な計算問題が並べられた宿題であれば、楽勝だと笑えただろうに。
「あと一週間で、決めなきゃなんないのか」
 突如降って来た難題は、夏目の心を酷く暗い場所に追いやってしまった。進学か、否か、それだけでも決めて仕舞わなければいけないのは、自分でも分かっている。けれど具体的にどこどこの大学に行きたい、なになにを専門に学びたい、という野心めいたものは、切羽詰った状況に置かれた今でも、燃え上がるどころか燻りさえしなかった。
 出来るならばこれから先もずっと、妖怪たちと関わっていきたい。しかし、人の目に見えないものを相手にするというのは、世の大勢の理解を得られないのが常だ。
 ならば妖怪が見える人間達が形成するコミュニティに加わるかという話になれば、それも決心がつかない。的場一門の考え方には到底賛同できないし、名取のように仕事と割り切ってしまうのも無理だ。
「参ったな」
 独白し、夏目は紙を顔に落とした。ヒノエが手を伸ばし、取り除いてくれて、視界は鮮やかな朱色の夕焼けに染まった。
 結局のところ、今のままでいるのが一番居心地良いのだ。そう結論付けたところで、時間は過ぎて行く一方で夏目を待ってはくれない。
「夏目」
 ヒノエが上半身を傾がせ、夏目の上に覆い被さる。一瞬ビクリとしたが、襲って食おうという気配は感じない。単純に顔を覗き込まれただけで、彼は強張った頬の力を緩め、どうしたのかと問うた。
 長い指で顎を擽られ、直ぐ上にある唇をなぞられた。くすぐったくて首を振ると、彼女はなにがしたかったのか、直ぐに離れて行った。
「一度進んだ時は戻らないけれど、進んだ道は、戻れるだろう」
「ヒノエ?」
「焦って決めたところで、碌な事が無いよ。お前は、あまり足が速いほうでもなかろう」
 頬を指の背で擽られ、夏目は滔々と紡がれる彼女の言葉に目を丸くした。
 息継ぎしようとして喉で引っかかってしまい、しゃっくりみたいな音が出た。起き上がろうとしたが、金縛りに遭ったかのように動けなかった。
 言葉が流れて行く。
「お前さんは、見た目によらず猪突猛進だからね。選ぶものが三つ、四つあったっていいじゃないか」
 人生は早い、けれど長い。
 夕暮れを浴びている所為か視界が濁り、彼女の姿が見えない。
「だけどね、夏目。これだけは覚えておいで」
 どこかで烏が鳴いている。車が通り過ぎる音が遥か遠くを駆け抜けた。
「もし、お前の生き道に私らが邪魔になるようなら、遠慮は不要だ。捨てていけ」
「ヒノエ!」
 耳から脳に飛び込んだ彼女の声に、夏目は畳を蹴って飛び起きた。膝立ちになって詰め寄り、両手を衝きたてて拳を作る。
 一瞬にして形相を変えた彼に対し、ヒノエは何処までも静かで、穏やかな笑顔だった。
「構わない、捨てていけ。置いていけ。なあに、慣れている」
 飄々と告げて、煙管をくゆらせる。一瞬だけ彼女の顔が見えなくなって、夏目は瞠目し、息を呑んだ。
 心臓がどどど、と五月蝿く泣き喚き、全身は慄いて脂汗が流れる。だのに肝心の言葉が出ない。瞳は乾いて痛みを訴え、眩暈にも似たものを覚えて目の前が暗くなる。
 気付かぬうちに彼は俯いていた。
 その頭をヒノエの手が撫でる。よしよし、とまるで子供をあやすように。
「お前が私達に――妖怪に関わることで、望む明日が手に入らないのなら、構うことは無い、捨てろ。私は、お前がお前らしく生きられないくらいなら、潔く消えよう」
 重荷にはなりたくない。そう告げる彼女の前で首を振り、夏目は拳を震わせた。
「気にするな、お前が思うほど私達は弱くはない」
 むしろお前の方が、と言おうとしたヒノエの手を拒み、彼はぐっと腹に力を込めて身を起こした。首を振り、懸命に頭の中で渦を巻く感情から単語を拾い集め、積み重ね、思い通りにいかない自分の不甲斐なさを嘆きながら、唇を噛み締める。
 違う。
 違うのだ。
 悔し涙を目尻に浮かべる彼に、ヒノエはちょっと意外そうな顔をして、気の抜けた表情で笑った。
「いや、だ。嫌だ。そんなのは、……俺は、俺は絶対、捨てたりしない。確かにそりゃ、時々鬱陶しいと思うし、今まで嫌な事も沢山あったけど、でも、だからってそんな、簡単に捨てたりなんか、出来るわけないじゃないか」
 己の胸を叩き、其処で鳴動する心臓を主張して彼は叫んだ。
「ヒノエや、先生や、三篠や、露神、燕や、時雨や、キヨや、アサギや、メリーさんや、タマも、玄も、翠も、たくさん、たくさんの妖怪と知り合って、出会って、俺は、今の俺になった。だから今更、お前達の事を無かったことになんか出来ない。忘れるなんて出来ない。嫌だ。ヒノエ、頼むからお前が、そんな事言うな」
「けどね、夏目。……重いだろう」
「重くない!」
 これでは駄々を捏ねる子供と一緒だ。
 自分の比較的冷静な部分がそう評価して笑ったが、今更撤回するのも嫌で、夏目は歯軋りして堪え、眦を裂いて目の前の女妖怪を睨んだ。
 彼女は笑っていた。それも、手を叩いて声をあげて。
「ヒノエ……!」
「ああ、まったく。夏目、お前は本当に、馬鹿な子」
「ぐ」
「レイコとは違うね」
 呆れたと笑い飛ばされ、頭を撫でられる。最後に聞こえた一言は、彼女の独白として夏目は聞き流した。
 今の自分が居るのは、多くの人たちに支えられたからだ。その中には当然のように、多くの妖怪の名前がある。目を閉じれば浮かび上がる姿がある。
 彼らを置いていくなど出来ない、そんな事をしたら自分が自分で無くなってしまう。たとえどんなに重くなろうとも、辛いことになろうとも、これだけは決して違えない。
「しかし、それじゃあどうするんだい」
「……ああ」
 袖を引っ込めた彼女の問いかけに、目尻にあった涙を弾いて夏目は肩を竦めた。
 振り出しに戻ってしまったと鼻の頭を掻き、そうだな、と嘯く。
「ゆっくり、みんなと相談して決めるさ」
「そうかい」
 取り乱してしまった事を恥じて、頬をほんのり赤く染めた彼の言葉に頷き、ヒノエはふっと煙を吐いて煙管を裏返した――丁度、眠っている斑の背中の真上で。
 トン、と人差し指で羅宇を叩き、上下に揺らせば、紅蓮の玉がひとつ、ぽとりと落ちた。
「ふぎゃあぁ!」
 途端に大絶叫が部屋中にこだまして、夏目は咄嗟に両手で耳を塞いだ。首を引っ込め、飛び起きて仰け反り、のた打ち回る斑の姿に目を点にする。
 ヒノエは呵々と喉を鳴らして笑い、滑稽だとしっちゃかめっちゃか暴れまわる斑を他所に立ち上がった。
「さて、狸も猫に戻したことだし、お暇するよ」
「ヒノエ」
「あまり根を詰めて、自分を潰すんじゃないよ」
 座ったまま顔をあげた夏目の額から頬を撫で下ろし、彼女が優しい声で忠言を発した。後ろでは依然斑が火傷をした背中を下にして変なダンスを踊っていたが、狸寝入りをしていたのだとしたら、あれくらいの罰は受けて然るべきだろう。
 いや、敢えて割って入らずにいたのかもしれないけれど。
「気をつける」
「じゃあね。斑も」
「黙れ!」
 ひらりと手を振り、斑の罵声も軽く受け流して彼女は窓を開けると、夕涼みの声が響く中、軽やかな足取りで去っていった。僅かに遅れて窓から身を乗り出してみるが、もうどこにも彼女の影は見出せなかった。
 やっと静かになった部屋を振り返り、黒い煙を吐いている斑に目を細めてくっ、と笑いを堪える。ドタバタしていたからだろう、階下から塔子の、何事か問う声が聞こえた。
「なんでもー」
 負けじと声を張り上げ、夏目は窓を閉めた。散らばったままの酒盛りの跡に肩を竦め、渋い顔をしている猫の額を小突く。
「先生、後でいいかな。ちょっと相談があるんだけど」
「ふん、知らんな」
 声を潜めて頼み込むが、笑ったのがばれていたようで、そっぽを向かれてしまった。丸い尻尾を振り、そそくさと部屋を出て行く。階段を降りて右に曲がれば、すぐそこが食堂だ。
 今は塔子が、夕食の準備をしているはずで。
 この家での生活を守りたい。皆と一緒に、出来るだけ長く過ごしたい。
 その為には、なにをすべきか。
「……まだ時間はあるさ」
 色々な人に、妖怪に、聞いてみよう。そして見つけよう、自分が本当にやりたいことを。
 斑の後ろに続き、夏目が部屋を出る。障子戸を閉めて無人となった部屋に、ふっと、風が吹いた。

2009/09/03 脱稿