面当

「お腹すいたー!」
 ドアを開ける音と共に響き渡った大声に、机に向かっていたシャマルはビクリと肩を震わせた。
 走らせていた筆が変な方向に曲がり、薄く罫線が引かれた紙面に蛇行する川が完成した。水性ペンを使用しているので消しゴムでは消せず、幅三センチに渡る無駄な縦線に舌打ちし、彼はガシャガシャと髪を掻き回した。
「此処は食堂じゃねーぞ」
「そんな事、知ってるよ」
 保健室に入るなり言う台詞ではない。椅子を引いて腰を捻った彼の罵声に、戸口に立っていた少年は不満げに頬を膨らませた。
 此処は並盛中学校にある保健室だ。具合が悪い生徒の為にベッドが用意され、怪我をした生徒の為に消毒薬や軟膏、包帯などが取り揃えられている部屋だ。間違ってもそこにいる蜂蜜色の髪をした少年が求めるような、胃袋を満たす物は置かれていない。
 仕事に没頭していた所為で気付かなかったが、時間帯は既に放課後に突入していた。そういえばさっき、チャイムが鳴っていた気がすると顎を撫でた彼の前で、沢田綱吉はやや憤然とした面持ちでドアを閉めた。
 ぴしゃり、と厳しい音がひとつ、賑わう学校の一角に響いた。
 怪我をした様子も、具合が悪い様子も無い彼は、当たり前のような顔をして肩に担いだ鞄を右手に持ち替え、シャマルの方へ歩み寄った。
「帰れ。仕事の邪魔だ」
「ええ、うっそだー」
「嘘じゃねえ」
 良く見ろ、と失礼な事を言う彼の為に椅子を左にずらし、汚らしい机を晒す。異国語で書かれた大量の書籍に、パソコンで印刷したと思しきプリントの数々、そして癖の強い字が書きなぐられたレポート用紙。
 A4サイズの紙の中ほどまで文字で埋められているのだが、何故か最後に走っているのは解読不能な長い線だった。
「なに、これ」
「オメーの所為だ」
 手を伸ばし、人差し指で指し示した綱吉の横顔に悪態をつき、シャマルは近付くなと犬猫を追い払う仕草で手を振った。
 あまりに酷い扱いに、綱吉の頬がまたぷっくり膨らんだ。
「いいじゃん、別に」
「暑いんだよ」
「冷房入れたら?」
 一般教室に空調は設置されていないが、保健室は標準装備だ。しかし今は電源が入っておらず、換気扇がカタカタと低い音を奏でていた。
 開けっ放しの窓からは、陽射しを遮るカーテンを揺らして、絶えず風が流れ込んでくる。涼しいとは言いがたいが、直射日光を浴びせられるグラウンドよりはまだ気温は低い。
 生徒よりずっと恵まれた環境にいるくせに、文句が多い。綱吉は彼の主張を揚げ足とって返し、改めて左から右に流れている文字の羅列に目を向けた。
 日本語ではない。あまり得意ではないが、授業で学んでいる英語とも違う気がする。
 ならば、彼の母国語か。
「なに、それ」
「なんだって良いだろ」
「えー、良いじゃん。教えてよ」
 俄然興味が沸いて、身を乗り出してシャマルに食って掛かるが、彼は心底嫌そうに顔を顰め、肘で綱吉を押し返した。
 薄汚れてよれよれの白衣が顎の直ぐ下に迫って、喉を衝かれる恐怖が勝り、綱吉は仕方なく浮かせていた踵を下ろしてその場でたたらを踏んだ。
 僅かに後ろへ傾いだ姿勢を戻し、揺れる鞄で座っている男の膝を叩く。弁当の角が当たったのだろう、彼は痛そうに声をあげたが、綱吉は聞かなかったフリをしてくるりと身体を反転させた。
 背中に両手を回し、スキップを刻むように軽い足取りで部屋を横断していく。人に暴力を働いておきながら楽しげにしている姿にシャマルは露骨に顔を顰め、舌打ちひとつして椅子の上で居住まいを正した。
 握りっ放しだったペンを置き、やたらと目立つ蛇行する線を爪で引っ掻く。
 それは某所から依頼された論文の草稿だった、但し筆者であるシャマルの名前は決して表には出ない。ゴーストライターというものが存在するが、大雑把に言えばそれの医者版だ。
 体内に様々な病原菌を飼っている彼は、いわば天然の培養器だ。中には学会に知れ渡っていない、世間一般からすれば未知の領域に当たる病気まで混じっているものだから、彼の体質を知る人はこぞって彼に、病理の提出を求めてくる。
 そういうのを逐一相手にしていては鬱陶しくてならないし、なによりシャマルの本業に邪魔になって仕方が無い。だから本当は依頼されてもあまり受けないのだが、今回は報酬が破格だったので、名前も顔も出さないという条件で引き受けることにした。
 自分を実験台にする、というのはある意味楽であるが、その分シビアだ。一歩間違えれば命に関わる――そんな深い場所まで突撃するつもりもないのだが。
 聞かされてもあまり良い気分になれない話題でもある。金の為に命を売るにも等しい所業を、わざわざ伝えることもない。
 余っていた椅子に鞄を置き、洗面台で手を洗っている少年の後姿をちらりと窺い、シャマルは意外に甘っちょろい考えを残していた自分に肩を竦めて苦笑した。
「コーヒー頼む」
「えー」
 気を取り直して、椅子の上で仰け反って依頼すると、途端に不満声が返された。
「いいじゃねーか、ついでだろう」
「そりゃまあ、そうだけどさ」
 彼が水場に行ったという事は、電子コンロで湯を沸かすつもりだということだ。保健室における綱吉の行動パターンは、殆ど決まっている。茶を飲むか、ベッドに寝転ぶか、シャマルを相手にぐだぐだと世間話を一方的に捲くし立てるか。
 今日もその例に漏れず、綱吉は唇を尖らせはしたがシャマルの為にと、ふたり分の水をヤカンに溜めてコンロのスイッチを押した。
 流れ作業で棚からマグカップをふたつ取り出し、一方にインスタントコーヒーを、もう一方にはココアの粉をスプーンで掬って入れていく。手馴れた動きを横目でちらちら眺めながら、シャマルは中断させた執筆に戻るかどうかで逡巡した。
 綱吉が来るまではそこそこ集中出来ていたのに、今はまるで叶わない。どたばたと足音や物音が耳朶を打つというのもあるし、なによりこの白い空間にひとりきりではない、という現状に、胸の奥底がむずむずしてならないのだ。
 鼻が詰まって、くしゃみが出そうで出ない。忌々しげに唇を噛んでは舐めていたら、顔の横に何かが飛び出した。
「ん?」
「熱いよ」
 机に向かって頬杖ついていたシャマルは、低く呻くと共に首を回して斜め後ろに目をやった。綱吉が左手に黒いマグカップ、右手には白いそれを手にして立っていた。
 細い湯気を無数に吐くコーヒーを両手で受け取り、そのまま机に置く。綱吉は自由になった左手を制服のズボンに押し付けると、そこにも椅子があるというのに何故かまたユーターンしていった。
「どうした」
 いつもはどれだけ邪険に扱おうとも、シャマルの傍にぴったり張り付いて離れない彼が、珍しい。思わずコーヒーに口をつけるのを止めて問いかけた彼を振り返らず、綱吉は洗面所横にある冷蔵庫の、冷凍の扉を開けた。
「ん?」
 まさかココアが熱いから、氷を入れて冷やそうとでもいうのか。そんな事を考えて動向を見守っていると、何かを取り出した彼は扉を閉めて小さく舌を出した。
 悪戯っぽい表情を眺め、シャマルが怪訝に眉を寄せる。綱吉はまたしてもスキップを刻み、ココアを波立たせて彼の傍に戻って来た。
「じゃーん」
 いったい何事か、と奇異なものを見る目つきをしていた無精髭の男の前で、効果音つきで持って来たものを掲げる。どこか誇らしげな、堂に入った態度ではあったが、見た瞬間、シャマルは疲れた顔をして前髪を掻き毟った。
「テメエか!」
 自分で入れたつもりの無いものが、冷凍庫にこっそり紛れ込んでいるのは知っていた。綱吉の仕業だろうとは思っていたが、敢えて本人に問い質すことはしなかったのに。
 校則違反の持ち込み禁止品を保健室の冷凍庫に、こうも堂々と隠しておくとは、まったくもって良い度胸である。
「だって、ヒバリさんに見付かったら没収だし」
 それに鞄やポケットに入れたままでは熱を吸収し、溶けてしまう。朱色の頬を膨らませて屁理屈を言い放ち、綱吉はそこにあった椅子にどっかり腰を落とした。
 治療器具を乗せたワゴンの片隅にココアのカップを置き、こげ茶色のパッケージを破いて中身を取り出す。ひんやり冷えたそれは、他ならぬチョコレートだ。
 そういえば彼は、開口一番空腹を訴えていた。授業も終わり、真っ直ぐ家に帰れば良いものを、保健室に寄り道したのだって、これを冷凍庫に隠していたからだ。
 自分に会いに来たのだと思い込んでいたシャマルは、怒りと落胆が入り交じった面持ちで脚を組み、椅子を軋ませて再度机に向き直った。
 銀色の包装を剥ぎ取った綱吉が、態度を豹変させた彼に気付きもせず嬉しげに目尻を下げてチョコレートの角を齧った。パキン、と最初から刻まれていた目地に沿って、薄い板チョコがふたつに割れる。
「んー」
「そんなモンばっか食ってると、太るぞ」
「俺に太れって言ったの、誰だよ」
 チョコレートに、ココア。糖分摂取過多だと嘲り言うと、即座に綱吉は椅子の上で身を乗り出し、右足で床を蹴った。
 中学二年生の平均身長に届かず、体重は女子の平均並み。とても発育が良いとは言えない体格の彼を案じて、シャマルはいつだったか、もう少し沢山食べるように忠告した事があった。
 ただ真意は上手に伝わらなくて、ガリガリで触り心地が悪い、という風にこの少年は解釈してくれた。お陰でそれからの数日間、綱吉は不機嫌の極みで、ちっとも触らせてくれなかったのも同時に思い出された。
 そうではないのだが、と脂性の髪を撫で、シャマルが胸ポケットを叩いて中から煙草を取り出す。後ろから仕草を見ていただけなのに、すぐさま理解して、綱吉は左足を掲げ、彼が座る椅子を蹴り飛ばした。
「一日六本まで」
「これで五本目だ」
「嘘くさ」
 綱吉に太れという一方で、シャマルは煙草の本数を減らさない。喫煙が、元々病弱な彼の身体に鞭打つ行為だと、本人も分かっているだろうに。
 医者の不養生だと嘯き、綱吉は歯型の残るチョコレートを下ろして、マグカップに手を伸ばした。軽く息を吹きかけて表面温度を冷まし、音立てて濃い色の甘い液体を啜る。シャマルはというと、自分で注文しておきながら、コーヒーを飲もうとしなかった。
 嘘か本当か、五本目の煙草を咥えてライターで火を灯す。片手を壁にして風を防ぎ、サッと石を叩いて青っぽい炎を作り出して、消す。フーっと深く吸った息を吐き出せば、唇の隙間から白い煙が溢れ出した。
 古いモノクロ映画に出て来る俳優みたいだ。
「どした」
「別に」
 堂に入った様を眺めていたら、視線に気付いたシャマルが瞳だけを綱吉に向けた。
 まさか見惚れていたとは言えず、ぶっきらぼうに言葉を返して顔を背ける。だけれど一度高く跳ねた心臓はなかなか元の位置に戻らなくて、顔も自然と朱に染まった。
 恥かしそうにもぞもぞと脚を揺らす綱吉をちらりと盗み見て、シャマルはくっ、と喉を鳴らして笑った。美味そうに煙草を吸い、机に頬杖ついてカーテンがはためく窓の方へと身を乗り出す。
 綱吉になるべく煙が行かぬよう椅子の位置をずらすが、そうと悟られぬよう視線は常に外に向いた。
 喋りながら通り過ぎる、女子テニス部の生徒を見つけてだらしない顔をする。向こうも彼に気付いて、ケラケラ笑いながら小走りに去っていった。
 しまりの無い、鼻の下が伸びた顔をする彼を睨み、綱吉は面白く無さそうに温くなったココアを啜った。
 シャマルが無類の女性好きで、男性嫌いな性格をしているのは知っている。明らかな女尊男卑の方針を掲げ、保険医でありながら女生徒には手厚く、男子生徒には唾でもつけておけ、と言って憚らない。綱吉も御多分に洩れず、あまり真面目に怪我の手当てをしてもらった例が無い。いつだって渋々、嫌そうな顔をされる。
 そういう人物だというのは、リボーンを介して知り合った当初から分かっていた。それでも、綱吉がいる前であんな風にでれでれされるのは、気に食わない。
 それに、と綱吉はココア味の唇を舐め、昼休みも終わる間近に聞きかじった話を思い出し、顔を顰めた。
 彼の百面相を知らず、シャマルは悠然と煙草をふかしてボールペンに手を伸ばした。吸殻が山盛りの灰皿に灰を叩いて落とし、ペンを握った手でマグカップを持ち上げる。誰が作ってもそう味も変わらないインスタントコーヒーを喉の奥へと流し込み、彼は小さく息を吐いてそれを空いたスペースに置いた。
 ボールペンの尻で紙面を叩き、中断していた作業を再開させようと忙しなく頭の中で文章を組み立てていく。
 力みの消えた表情は真剣で、眼差しは強い。そうやって黙って、煙草片手に仕事に励んでいる姿は、日頃のだらしなさが帳消しになるくらいに様になっていた。
 中身は少々アレだが、外見は決して悪くないのだ。無精髭を剃り、白衣は洗濯をしてアイロンを当てて、ネクタイももうちょっと綺麗に結びさえすれば、彼は歳相応の良い男の部類に入るはずで。
 けれど、と綱吉は残り少なくなったココアを置き、食べかけのチョコレートと交換した。噛み千切ったところが唾液を含んで少し溶け、柔らかくなっていた。
「俺だけでいいのに」
 シャマルの、こういう真面目な姿を知っているのは、自分ひとりだけでいい。昼休憩で耳にした女子の会話がまたも脳裏に蘇り、彼は悶々としながら板チョコを真ん中で割り砕いた。
「どうした」
 その音が思いの外大きく響いて、シャマルが椅子を引いて振り返る。
「え?」
 こちらを向くとは思っていなかった綱吉は、びっくりして目を丸くし、床に零れ落ちた欠片を上履きで踏んで慌てた。
 足を退けると、茶色の小さなシミが出来上がっていた。当然ながらこれはもう食べられない。
「何やってんだ」
「ごめん」
 呆れ半分でシャマルが呟けば、綱吉は俯いたままぼそりと言った。その項垂れた姿が、いつもと少し印象が違っていて、シャマルは首を捻り、かなり短くなった煙草を灰皿に捻じ込んだ。
 火を消し、次の一本を出そうとして視線を泳がせる。
「六本、なあ」
 これまで一日でふた箱も空にしていた人間には、その量は切な過ぎる。綱吉に負けないくらいの小声で呟き、シャマルは盛大な溜息を零した。
 綱吉はまだ下を見たまま、煙草の焦げ跡が幾つも残る床につま先をこすりつけた。
 脳裏を過ぎる、昼の出来事。他所のクラスで、もしかしたら学年さえも違うかもしれない、顔も知らない女子が何人か輪になって、格好良いと思う男性を列挙しているところに遭遇した。
 獄寺や山本の名前が真っ先に上がり、風紀委員長の雲雀の名前も黄色い歓声と共に聞かれた。どうせ自分は候補にも挙がらないと途中で聞き飽きて、さっさとゴミ捨てを終わらせて教室に帰ろうとした矢先だ。
 誰が言ったのかは分からない。けれど綱吉の耳は確かに、シャマル先生も意外にいいかもよ? という台詞を拾った。
 一斉に悲鳴があがり、嘘だの、冗談だの、散々な言われようだったけれど、最初に発言した女子は割と長い間真剣に、それらの意見に反論していた。身なり良くして黙って立たせておく分には申し分ないのではないか、という程度の主張だったけれど、言葉の迫力から彼女は本気で、もっと深い部分についてもシャマルに好意的な意見を抱いていると思わせた。
「あのさ」
「うん?」
「あのね、……やっぱり内緒」
 女子好きの彼だから、この話をすればきっと喜ぶに違いない。だけれど綱吉としては、あまり喜ばしくない。シャマルの魅力に気付いている人が自分以外にもいるのは嬉しいけれど、同じくらい、いや、それ以上に悔しい。
 自分だけでいい、彼が実はとても格好良いと知っている存在は。
 この意見に多大なる偏見と、贔屓が入っているのは認める。だけれど、仕方がないではないか――好きなのだから。
 言いかけて途中で止めて、また視線を逸らす。注意を引きつけられたシャマルは、さっきから様子が可笑しい綱吉に首を捻り、節くれだった太い指を差し向けた。
 頬に触れられる寸前、綱吉がぎゅっと目を閉じて身を縮こませる。肩を強張らせて全身に緊張を走らせた彼の態度に、シャマルは思い当たる節が無くて、眉根を寄せた。
 いつもならもっと、甘えた顔をして擦り寄ってくるのに。
「熱でもあんじゃねーのか」
「無いよ」
「んで、内緒ってなんだ、内緒って」
「だから、内緒だって。いいじゃん、たいした話じゃないし」
 やはり女子が彼の噂をしていたなんて、教えたくない。いいや、絶対に教えてなどやるものか。
 手を広げ、今度は頭を鷲掴みにしてわしゃわしゃかき回してくる彼から逃げ、綱吉は椅子ごと身を引いた。手の中に残っていた甘いチョコレートを噛み砕き、ココアを煽って一気に飲み干す。
 シャマルは綱吉の頭の形に丸まったままの掌を見下ろして、ギシ、と椅子を鳴らした。
「教えねーつもりか?」
「だって、本当にどうでも良い事なんだってば」
「ほー、この俺に隠し立てするとは良い度胸だ」
 どうでも良い話という顔をしていなかったくせに、虚勢を張って言い逃れしようと足掻いている。なんと生意気で、いじらしい。
 不敵な笑みを浮かべた彼に、綱吉はムッと頬を膨らませた。人を見透かした目をして、無精髭が伸びる顎をゆっくり撫で回す。品定めされている気分になって、綱吉は椅子の座面を握り締めた。
 両足を肩幅に開き、股の間に出来上がった空間に手を下ろす。肩を広げて前のめりになった彼を見下ろし、シャマルはこの素直で無い愛し子をどう裁いてやろうか思考を巡らせた。
 下唇を突き出した綱吉が、睨み合いなら負けないと琥珀の瞳に力を込める。
 その姿に、彼は笑った。
「ボンゴレ坊主」
「その呼び方止めてって、何度も言っ……シャマル?!」
 シャマルはあまり、綱吉を名前で呼ばない。その代わり小僧だの、坊主だの、ボンゴレだの、気に障るような呼び方ばかりする。それが嫌で、綱吉はいつも怒る。ムキになって、冷静さを失う。
 今回もパブロフの犬宜しく反応を返した彼に、シャマルは低く笑った。椅子から腰を浮かせた綱吉へすかさず腕を伸ばし、残り半分のチョコレートを握る手を捕まえて引っ張った。
 前のめりの姿勢を崩された肩をもう片手で支え、倒れないよう受け止めて不遜な笑みを口元に浮かべる。
 至近距離で視線が交錯する。彼がなにを狙っているのかを悟った綱吉は、寸前までの彼の行動を思い出して慌てて胸を反らした。
 そんな些細な抵抗も難なく封じ込めて、シャマルは椅子から立ち上がった。綱吉の大きな瞳に彼の姿がいっぱいに映し出されて、煙草の匂いを感じ取った彼は反射的に目を閉じた。
「ぅン……っ」
 ぬるりとした感触、柔らかくて生暖かいもの。それが綱吉の唇を下から上へ行き過ぎたかと思うと、今度はもっと熱いものが降ってきた。
 咄嗟に前歯を閉じて侵入を阻むものの、嗅覚を刺激する匂いを堪えきれず、無意識に口呼吸に切り替えて綱吉は喘いだ。すかさず、僅かな隙間を見つけ出したシャマルの舌が咥内へと潜り込み、咽喉まで逃げていた綱吉を引きずり出した。
 絡め取られて、コーヒーの苦味と煙草の酸味が唾液と一緒になって流れてくる。吐き出したくても出来なくて、綱吉はチョコレートごと彼の袖を握り締めた。
 体温を浴びせられて軟らかくなっていた菓子が、ぐちゃりと潰れて白衣に大きなシミを作った。
「は、……って、テメー、なにしやがる」
「シャマル、こそ。キスする時はウガイしてからにしてって、いつも言ってるのに!」
 張り付いたチョコレートはこげ茶色なので、遠目に、何も知らない人が見れば、食べ物ではないもっと違うものを想像しかねない。間近から見ても、匂いは確かに甘いのに、感触や色形がそれっぽく見えてならず、シャマルは忌々しげに舌打ちして茶色く染まった白衣を引っ張った。
 彼を押し返した綱吉もまた、苦臭いキスに思い切り顔を顰めて口元を拭った。
 シャマルはコーヒーを飲むし、煙草も吸う。その両方が咥内で混ざり合うと、かなりきつい臭いが発生する。
 綱吉が彼に禁煙を勧める理由のひとつが、これだ。コーヒーだけなら我慢出来るが、両方だと鼻が曲がりそうになる。
 涙目で怒鳴った綱吉に胸を反らし、シャマルはふん、と鼻を鳴らした。
「どっかの誰かが可愛くねーことすっから、お仕置きだ」
「なにそれ。ひっど、サイテー。シャマルがモテないのって、そういうところあるからだよね」
 相手が嫌がる事を平然とやってのけて、しかも居直る。偉そうに踏ん反り返っている男を罵倒して、綱吉はまだ苦くてならない唇をごしごしと擦った。
「ったく、いいんだよ、もう」
「なにが」
 それでも耐えられなくて、彼は空のマグカップを手に踵を返した。洗面台へ向かい、蛇口を捻ってかなり薄いココア水を作ってウガイを開始する。
 そんな彼の背中を眺め、シャマルは白衣を脱ぎながら言った。
 濡れた口元を拭った綱吉が振り返り、小首を傾げる。シャマルはべったり張り付いたチョコレートに顔を顰めたまま、目だけ綱吉に向けた。
「どっかの小五月蝿いのが、一匹いるからな」
 面倒を見るのにやたらと手間がかかるので、他は遠慮する。早口に捲くし立て、彼はふいっと顔を逸らした。
 白衣の下に着ていたスーツにまで染みていないかどうかを調べて、腕を捻って袖を引っ張る。最早彼の注意は綱吉に向いておらず、放置された彼は一瞬ぽかんとしてから、白いタオルを手繰り寄せた。
 タオル掛けから外し、先に水滴滴らせる唇を拭う。
「――!」
 次いで顔全体をタオルで覆い隠し、勢い良く蹲った。

2009/08/23 脱稿