影うつろいて

 よく冷えた麦茶で上昇傾向にあった体温を下げ、汗を拭いて人心地つく。偶々点けたテレビでは、この暑い日差しの中、真っ黒に日焼けした高校球児が白球を追いかけて、画面を所狭しと走り回っていた。
 外野手と内野手、合計三人が追いかけていたボールが、三角形の丁度真ん中に落ちた。お見合いをしてしまった選手のひとりが、大慌てで転がるボールを捕まえる。瞬間、映像は切り替わって三塁コーチャーがぐるぐると腕を回すのが見えた。
 泥だらけのユニフォームを着た選手が、猛然とダッシュして三塁ベースを踏んだ。
 歓声が沸き起こる。悲鳴が聞こえる。選手の叫ぶ声を掻き消し、実況のアナウンサーの興奮した声が響く。
 また画面が変わった。レフトが投げ放ったボールが、中継を経ずに直接ホームベースを目指して飛んでいく。キャッチャーがミットを構える。スライディングの体勢に入った選手が、ふっとブラウン管から消えた。
 別角度に切り替わった。土埃が舞い上がり、一瞬静寂が落ちる。誰もが息を呑み、審判の判断を仰いだ。キャッチャーが大きく目を見開いた。
 足から滑り込んだ状態で選手が倒れ、その腰にはボールが入ったミットが押し当てられている。マスクを跳ね飛ばしたキャッチャーが、次の瞬間にガッツポーズを作った。果敢なスライディングを見せた選手は、高く突き上げられた審判の腕に絶望を抱き、がっくりと項垂れた。
 手に汗握る攻防戦に、観客からは無数の拍手が送られた。絶対に負けるものかという意気込みのもと、応援団が一致団結して声を張り上げる。揺れる黄色いメガホンと、チアリーダーのポンポンと、長ランを着込んだ応援団員の白手袋が陽射しを受けて輝いていた。
 テレビの前に座って、夏目はいくらか温くなってしまった麦茶を取ろうと手を泳がせた。
「凄いなあ」
 ぽつり呟いて、残り少ない茶を一気に飲み干す。
 室内にいても喉は渇く。これだけでは足りなくて、彼はテレビをそのままに立ち上がった。
 塔子は買い物に出ていて、いない。滋も仕事で、夕方を過ぎるまで帰ってこない。
 斑――猫の姿を借りた白い妖怪は、いつもの気まぐれを発動させてさっきから姿が見えない。どうせ夕食時にはひょっこり帰って来るに違いなく、夏目はさして気にも留めず、台所の戸をあけた。
 冷蔵庫を開いて、ドアポケットに入っていた冷えた麦茶を取り出してコップに注ぐと、少しでも温くなる時間を遅めようと、冷凍庫から出した氷も放り込んだ。容積が増えて、麦茶が溢れそうになった。慌てて膝を折った彼は、身を屈めて行儀悪くコップに口を寄せた。
 表面張力分を音立てて啜り、濡れた唇を舐めて苦笑する。こんなところ、塔子には見せられない。
 塔子どころか、他の誰であっても見せられる光景ではない。斑だって、知れば呆れるだろう。
 意外にズボラなところがあると、中には驚く人があるかもしれない。いつだって几帳面に、出したものは片付ける性格をしていると、思う人は思っているだろうから。
「勝手だよな」
 深く知りもせずに決め付けられるのは悔しい。だが自分だって同じ事を他人に対してしているではないか、と思うに至って、彼はひとり気まずげに視線を脇へ流した。
 汗を掻いている透明なコップを手に、廊下を経て座敷へと向かう。
 藤原の家にはあまりテレビが無い、夫婦ふたり生活が長かったので、家電製品の中ではさほど重要視されていなかったのだろう。
 夏目の部屋にも、無い。必要なら買う、と引き取られて直後に聞かれて、必要ないと答えた。以来、事ある毎に聞かれて、同じ返事を繰り返している。
 部屋にテレビがあると、滋たちと肩を並べてテレビを眺めることが出来なくなりそうだからだとは、口が裂けてもいえなかった。
 茶色い座卓にコップを置き、テレビの前の座布団に腰を据える。五分と経っていなかったはずだが、高校野球は攻撃と守備が入れ替わっていた。
 応援歌がスピーカーから絶えず流れている。いつもなら五月蝿いと思う音量なのだが、今は何故か心が逸り、胸が躍った。
 二階の窓は開けっ放しなので、時々吹く風にあわせて風鈴が揺れている。軽やかな音色が、テレビからの大音響に掻き消されがちに響き、夏目に此処がどこかを思い出させた。
 雫を垂らすグラスに指をやり、小さな水溜りを引っ掻いて、彼は胡坐を崩した。
「どっちが勝つかな」
 応援しているチームは、特にない。負けている方を応援する。だが、勝っているチームでも巧打が出れば拍手を送り、凡打であれば悔しがる。外野に飛ぶと座ったままでも背伸びしては、ファールかホームランかの判断に一喜一憂した。
 耳慣れたフレーズが、吹奏楽部の演奏で繰り返されている。だのに厭きない。不思議だ、と今度こそコップを握り締めて氷で幾らか薄められた麦茶で喉を潤していると、微かにぽーん、という音が聞こえた。
 果たしてこれは、テレビからなのか、否か。判断に苦慮して夏目はグラスを置き、視線を天井に向けた。
 あちこち開けっ放しだから、外の音が紛れ込んでいるのかもしれない。それにしては覚えがありすぎる、とメロディーもなにもない単音に首を傾げていたら、またひとつ、今度は意識を向けていたのもあって、さっきより大きく聞こえた。
「あ」
 なんだろうか、と暑さの所為でぼんやりしていた頭が、一気に冴えた。
「呼び鈴!」
 何故今の今まで忘れていたのかと、藤原宅の玄関脇に備え付けられたベルの音にサーっと青褪め、彼は座布団を蹴り飛ばして立ち上がった。畳の目に足を取られて滑り転びそうになり、踏ん張ってどうにか堪えて廊下に飛び出す。どたばたと足音響かせる様は、これまた人に見せられたものではなかった。
 磨りガラスの玄関の戸の向こうに人影が見えた。塔子ではない、彼女は鍵を持っている。西村や北本なら、座敷からテレビの音が聞こえると言って、勝手に敷地に入って庭から回り込んでくるに違いない。
 宅急便ならば荷物を抱えているはずだがそれもなくて、斑が呼び鈴を押すわけが無い。となれば、いったい誰が訪ねて来たのか。
「はーい」
 上擦った声で戸の向こうの人に呼びかけ、彼は大慌てで塔子のサンダルに爪先を押し込んだ。踵がはみ出て歩き難いが、鍵を外すだけなので構わない。ガチャガチャと音を響かせて螺子を巻くように細い棒を回して引き抜くと、勢い良く扉を横に走らせた。
 勢いつけすぎて反対側の壁に当たり、跳ね返ってくる。びゅんっ、と走った風に前髪を攫われて、夏目は唖然となった。
「あ、……どうも」
 向こうも、まさかこんなに大慌てで出てこられるとは思っていなかったらしい。目を丸くして、彼女は遠慮がちに笑った。
 南から照る日差しを背中に浴びて、額には薄ら汗が浮かんでいた。帽子を被っているが暑そうで、遠く蝉の鳴き声が鼓膜を打つ。
 惚けてしまった夏目の前で手を左右に振った彼女にハッとして、夏目は急いで扉に預けたままだった右手を開放した。
「あ、ああ。タキ」
「こんにちは」
 約束はしていない、なにも。夏休みに入ってからは学校で顔を合わせる機会も減って、すっかりご無沙汰だった。
 久しぶりに会う多軌はほんのりと日に焼けて、けれどまるで変わらない優しい笑顔を浮かべていた。
「どうしたんだ、今日は」
「うーん、ちょっとね」
 訪問を予告する電話もなく、突然訪ねて来た彼女に首を傾げ、夏目は半歩後退した。譲られた道を通り、彼女が敷居を跨ぐ。お邪魔します、という小さな声が聞こえた。
 帽子を取った彼女の手には、白い紙袋がひとつぶら下がっていた。墨色で店名らしきものが表面に書かれているが、パッと見ただけではそれが何処の店なのか分からない。
 言葉を濁した彼女は、薄水色のポロシャツに膝丈のパンツ姿の夏目から視線を外し、家の奥を覗き込んだ。
 廊下の電気は消えている。夏目の他は誰も居ないので、人気は当然ながら乏しい。
「おばさんは?」
 屋内から聞こえるのは、点けっ放しのテレビの音声くらい。それ以外は静かなもので、右に傾けた姿勢を戻した多軌の問いかけに、夏目は頬を掻いた。
「買い物。出かけてる」
 端的に、事実のみを返して、彼は次の手に迷った。
 玄関先で用件を聞き、立ち話だけで済ませてよいものか。それとも一旦上がってもらい、茶の一杯でも出してもてなすべきなのか。
 塔子がいたなら、こんなにも困らなかっただろう。自分から切り出すのも、早く帰れと言っているように取られかねないと考えるとなかなか口を開けず、彼は唇を噛んで黙り込んだ。
 そんな夏目の葛藤を知らず、多軌は自分で聞いておきながら塔子の不在にあまり興味なさそうにして、相槌を返し、手にしていた紙袋を握り直した。
 体の前に持っていって、差し出す。
「これ、お土産」
「え?」
「この前家族で、海に行って来たの。そのお土産」
「ああ」
 ガサリ、と袋の中身が揺れて音がする。食べ物なので、夏休みが終わるまで待っていると傷んでしまいかねない為、持って来たのだと彼女は笑った。
 屈託無い表情に無邪気さが覗き、夏目は一瞬抱いた緊張を解きほぐした。
 両手で持った袋を渡されて、受け取って、夏目は軽くも重くも無い中身に心の中で小首を傾げた。中身が何か、とても気になる。だけれど本人を前にして、しかも玄関先で取り出すのは憚られた。
 どことなくそわそわした様子で、多軌が夏目の手元ばかり見詰めている。周囲を窺うように、視線はたまに宙を泳いだ。
「なに?」
「へ?」
 一応これで、多軌の用事は終わった。渡すものは無事に渡せたので、このまま踵を返すのが道理であろう。
 だが彼女の態度から去りがたくしている様子が感じ取れて、夏目は眉を顰めて問い、汗ばんだ首に毛先を張り付かせている彼女の大きな目に幾らか驚いた。
 裏返った声を出されて、それで夏目は、彼女がさっきからなにを気にしているのかを理解してしまった。
 ああ、そうか、と。
 分かった途端、右手にぶら下げた袋が急に漬物石よりも重くなった気がした。
「先生なら、今は外に」
「え? あ、あー、あ。そうなの?」
 心の中を読み取られてしまった多軌が、あからさまに動揺して顔を赤くした。カーッと色を強めていく肌を間近に見て、土産を渡すというのはただの言い訳に過ぎないと教えられる。
 がっかりしたわけではない。だが、少しばかり傷ついた。
 感情の変化を表情には出さず、夏目は露骨に落胆している多軌に目を眇めた。
「暫くしたら帰って来るかもしれないし、待つ?」
「え、いいの?」
「忙しいなら、仕方が無いけど」
「ううん、暇。ぜんっぜん、暇」
 力いっぱい叫ばれて、そんなに気張らなくても良いのに、と夏目は苦笑した。右手の荷物は、まだ重い。ずっしり肩に来る。
「おじゃましま~す」
 嬉しげにスキップして、彼女は夏目の前を通り抜けた。汗を吸ってへたっていた毛先が、急に軽やかなリズムを刻んで踊り始めた。すれ違う瞬間、ふわりと微かに石鹸の匂いがして、夏目は無意識に彼女の背中を目で追っていた。
 上がり框に腰を下ろし、サンダルのホックを外すべく屈んだ彼女の足に瞳が吸い寄せられる。細い、しなやかな足首は、男である夏目とは随分形が違っているように思えた。
「夏目君、テレビの音がする」
「そうだった」
 右足から先に開放した多軌が、奥から聞こえてくるヒッティングマーチに気付いて腰を捻った。言われて我に返り、夏目は急ぎ玄関の戸を閉めると鍵をかけ、窮屈な塔子のサンダルから足を引き抜いた。
 テレビを消すのが先だ。彼は足音を軽く響かせ、薄暗い廊下を突き進んで座敷に入った。ひんやりした畳の感触を足の裏で受け止め、知らぬ間に点差が開いていた高校野球の映像に息を吐く。
 蹴り飛ばした座布団が、襖の直ぐ手前でひっくり返って斜めになっていた。
「お邪魔します」
「うわっ」
 三度目の台詞を吐いた多軌が、何故か二階には行かず夏目の後ろに立っていた。ひょっこり腰を曲げて座敷に顔を出し、中を覗きこむ。庭に面した窓は全て開け放たれ、吊るされた葦簀が夏の厳しい陽射しを緩和していた。
 塔子が育てた夏野菜が、緑の葉をいっぱいに広げて庭先を占領している。これで向日葵のひとつでも咲いていれば、色彩的にもっと鮮やかになっただろうに。
 蝉の声、風鈴の音。テレビから響くのは、高校野球部員の息遣い。
「見るんだ?」
 飴色の座卓の上には、すっかり氷が溶けてしまった麦茶が放置されたままだ。大きな水溜りの中に浮かんでいるコップに目をやった多軌は、次いで夏目が片付けている座布団に目を細め、笑った。
「な、なに」
「ううん。急いで出てきてくれたんだな、って」
 夏目は単に、思いがけぬ来訪者に驚いただけだったが、待ち構えていた多軌にしてみれば、彼が自分の為に焦ってくれたのだと思えて嬉しい。微笑んだ彼女の言葉に唖然とし、夏目は意味もなく座布団を叩いた。
 舞い散った埃を手で払い除け、今更二階に案内するのも、と思い直して彼は座卓の隣に座布団を敷いた。座るよう促すと、多軌は笑って頷き、畳の黒い縁を跨いでゆっくりと進んだ。
 自分の飲みさしの麦茶は、流石に渡せない。暫く此処で待つように告げ、夏目は貰った土産の袋を抱えて台所に向かった。
 紙袋が心持ち軽い。不思議だと首を捻ると、彼は食事時に使っているテーブルにそれを横にしておいて、一瞬考えて袋の中身を取り出した。
 上下を調べるだけのつもりだったが、見えてしまった包装紙に興味が向くのは、人間として致し方なかろう。彼は両手で四角形の、比較的大きな箱を掲げ持ち、袋とは違う文字が記されている包み紙をなぞった。
 食べ物と言っていた。大きさからして、塔子と滋、そして斑の分も含まれていると思って相違なかろう。
「そういえば、こういうの貰うの、初めてかも」
 昔は夏休みが嫌いだった。
 世話になっている家の人に遠慮して、気味悪がられていたのもあって、彼らが旅行に出かける時はいつだってひとり留守番だった。
 気楽だったけれど、つまらなかった。夜になれば不気味な妖たちを相手に孤軍奮闘するのはいつものことだったけれど、隣の部屋に行けば誰かがいる、という安心感がもてない分、酷く心細かったのを覚えている。
 一日でも早く休みが終われと祈り、学校でも浮いていたから仲の良い生徒は少なく、ましてや土産だと贈り物をぽん、と手渡してくれる存在など、望むべくも無い。
 だから、たとえ自分ひとりの為だけに買って来てくれたのではないとしても、嬉しい。
 多軌が旅先であっても自分を忘れずにいてくれたのが、嬉しい。
「おっと、そうだった」
 自然と緩んでいく口元を意識して引き締め、夏目は食器棚から乾いたグラスをひとつ取った。冷えた麦茶と氷を一緒に注ぎ、茶菓子でもないかと台所を一周してから、盆を片手に座敷へと戻る。
 多軌は座布団に優雅に腰を下ろし、ツーアウトニ、三塁のシーンに握り拳を作っていた。
「野球、好き?」
「そういうわけじゃないけど、なんか、見ちゃう」
 座卓に盆を置き、早速汗を流しているグラスを彼女の方へ押し出す。振り返った多軌は小さく舌を出し、礼を言って冷たいお茶を喉に送り出した。
「美味しい」
 外は気温三十度を越えている。ずっと直射日光を浴びていた身体は熱を蓄え、火照っていた。
 ごくごくと飲んで、半分以下にしてから彼女ははたと我に返り、肩を竦めた。悪戯を叱られた子供の顔をして、コップを置く。
 カキーン、といい音がして、夏目共々視線はテレビに流れた。
「あー……」
「惜しい」
 高々と打ちあげられた白球は、しかし風に押し戻されてか観客席の手前で失速し、待ち構えていたグラブの中に吸い込まれていった。キャッチした選手が白い歯を見せて笑い、塁審にボールを手渡してベンチの奥へと姿を消した。
 スリーアウトチェンジ、攻守交替だ。
 九回裏、最後の攻撃。負けているチームにとっては、これが最後のチャンスであり、勝っているチームはひたすら守り抜くだけ。
「凄いね」
「うん?」
「だってこの人たち、私達とそう歳も変わらないんだよ」
「ああ」
 言われてみれば、そうだ。甲子園はテレビの向こう側なので、まるで遠い世界の事の出来事のように感じられるけれど、あの大きな野球場でプレイしている選手は、夏目と同年代の高校生なのだ。
 その事実を、ついつい忘れてしまいそうになる。同時に、何故か気になってしまう理由も分かった。
 自分が出来ないことをやってのけている彼らへの羨望、憧憬。そして自分の夢を彼らに託すような気持ち。
 応援したくなる。そして彼らを応援する心を通じて、気付かぬうちに自分自身にもエールを送っているのだ。負けるな、と。
 夏目は水っぽい麦茶を啜った。盆に残っていた木製の、底が浅い椀を小突き、多軌にも勧める。彼女はちょっと意外そうな顔をして、控えめに笑った。
「開けてくれてもよかったのに」
 なにについて言われているのか咄嗟に理解出来ず、夏目が小さな目を丸くする。それで、彼が包装自体解いていないのだと気付いて、彼女は自分の思い込みに照れ臭そうにした。
「お土産」
「良かったの?」
「後でもいいけど」
「食べたいのなら、持ってくる」
「あー、違うの。いい、後にして」
 貰った経験も乏しいので、土産の対処に夏目は慣れていない。
 貰ったばかりのものを本人に出すのは失礼と思って遠慮したのだが、その遠慮はかえって失礼だったのか。思い直して腰を浮かせた彼を、けれど多軌は大声出して止めた。
 ポロシャツを引っ張られ、落ち着くよう言って夏目は必死になっている彼女の手を包み、引き剥がした。
 細い手首だった。
「別に、うん、たいした奴じゃないし。夏目君って甘いもの、平気だったよね」
「あ、ああ」
 彼女の腕はすぐさま引っ込められ、夏目の手の中は空っぽになった。僅かに残るのは体温だけで、それも外から吹いた風に撫でられて霧散してしまった。
 どこかぼんやりした調子で頷き、彼は畳に座り直した。座布団を新しく持ってくる気にもなれない。画面では、あっという間にツーアウトまで追い込まれたチームに向けて、必死に応援するスタンドの様子が映し出されていた。
 ベンチでも、メンバーが大声を張り上げている。
 お前なら出来る、頼むから打ってくれ、云々。辛うじて聞こえる、もしくは唇の動きから読み取れる台詞には、悲痛な願いが込められていた。両手を結び合わせ、声もなく祈る人の姿もあった。
「どうなると思う?」
 不意に多軌が聞いた。
「さあ……」
 勢いは、守っている側にある。このまま試合終了だろうと思いつつ、夏目は答えを濁した。
 言ってしまうと、簡単に諦めてしまう男だと、そう思われそうで嫌だった。
「あっ」
 そして数秒後、言わなくて良かったと心底彼は思った。
 白球がライト方向へ飛んでいく。一塁の塁審が軌道を見送り、ぐるぐると大きく腕を回した。
 死に体だったチームが、にわかに活気付く。三塁上で飛びあがったバッターが、顔をくしゃくしゃにしてホームベースを踏んだ。
 そこだけ見れば、まるで勝ったような喜びようだが、まだ同点に追いついただけ。試合は終わっていない。
 ピッチャーズマウンド上で、白い帽子の投手は惚けた顔を引き締め、自分に気持ちを入れ替えるべく首を振った。
「わー、凄い」
 多軌が惜しみない拍手を送り、夏目は跳ねた心臓が落ち着くのをじっと待った。
 蝉が啼いている。わらび餅販売のトラックが客を呼ぶ声が、夏の景色に彩を添えていた。
 座布団の上ではしゃぐ多軌の首筋には、玉の汗が浮かんでいた。彼女が動く度に右に左に揺れて、滑らかな肌をツ、と伝って白いレースに縁取られたチュニックに吸い込まれていった。
 布をたっぷり使った膝丈のスカートからは、華奢な脚が覗いていた。薄らとサンダルの紐の模様に日焼けの跡があるが、そう目立つものではない。
 海に行っていたという割には、あまり焼けていないのが不思議だった。
「楽しかった?」
 野球はまだ終わりそうに無い。大歓声に負けじと声をあげ、夏目はテレビに夢中になっている彼女の気を引いた。
 振り向いた多軌が、主語の欠けた問いかけに首を捻った。
「海」
「ああ、うん。でもちょっと、冷たかった」
 付け足された単語で、家族旅行の話だと気付いた多軌は、座布団の上で居住まいを正して夏目に向き直った。揃えた膝の上に両手を置き、指を絡めて軽く握り合わせる。
 そういえば今年は冷夏だといわれている。毎日それなりに暑いからさほど気にしていなかったが、確かに昨年や一昨年と比較すれば、熱帯夜の記録はあまり伸びていない。
 風鈴が奏でる音に顔をあげた夏目をじっと見詰め、多軌はもぞもぞ、と指を動かした。
「泳ぐのには、ちょっとね。でも波打ち際でいっぱい遊んだよ」
「その割に、あんまり焼けてない」
「だって、日焼け止めばっちりだったし」
 紫外線の浴びすぎはかえって身体に良くないのだと主張して、多軌は膝立ちになって胸を張った。自慢げに言われても苦笑しか出てこず、夏目は曖昧な相槌で場を濁し、椀の中のラムネ菓子をひとつ引き抜いた。
 赤色のセロファンを抓み、捩じりを解いて中身を出す。食べるか、と掌に転がった白いものを差し出すと、多軌は一瞬言葉を詰まらせてから右手を持ち上げた。
「海か……」
 見ているようで見ていないテレビは、十回表の攻撃を迎えていた。
 さっきのホームランで点差はなくなった。後はピッチャーの意地の張り合いだ。
 ぼそりと言った夏目の瞳が、スッと流れて多軌を映し出す。
 海など長いこと行っていない、それどころか家族旅行すらした事が無い。海水浴を最後に楽しんだのは、楽しめなかったけれど、恐らくは小学校の林間学校ではなかろうか。
 そんな事を考えながら、何気なく目の前の少女を上から下まで眺める。長く伸びた襟足を掻き上げた彼女は、どことなく虚ろな夏目の表情に、何故かむっとした。
「スケベ」
 そうしていきなり、人に向かって失礼な事を言い放った。
「は?」
「夏目君の、エッチ」
「……はい?」
 いーっ、と口を真一文字に引き結んだ彼女の、険のある視線に夏目は素っ頓狂な声を出した。口に入れたラムネを噛み砕き、微かな酸味に顔を顰める。
 海の話をしていただけだ。それが、何故急にこうなるのか。
 脈絡がさっぱりつかめなくて、夏目はうろたえた。左肘が座卓にぶつかり、置いていたコップの中で麦茶が大きな波を作った。
 角が解けた氷がカラン、と軽い音を立てて水中に沈んだ。直ぐに浮き上がり、心許なげに揺れ続ける。移ろい激しいテレビの映像を反射して、濡れた表面は虹色だった。
「夏目君のエッチ」
「待てって、タキ」
「だって、想像してたでしょ」
「……え」
「私の水着姿」
 緩やかに流れ動いた夏目の視線が、彼女にそう思わせたのだ。確かに海水浴の話題の後でそんな風に見られたら、意識せざるを得まい。
 深く考えていなかった夏目は、指摘されて初めて気付き、今更ながらにカーッと体内に熱を走らせて耳の先を赤く染めた。茹で上がった直後の蛸のような顔をして、頭のてっぺんから湯気を吐く。
 初心な反応を見て、多軌は振り上げようとしていた拳を止めた。
 胸を大きく反らせた彼女は、無論服を着ている。レースで作った花をあしらったチュニックに、フリルたっぷりのふわふわのスカート。どれも見た目の涼しさを演出して、色合いは薄い。
 重ね着をしていても、体のラインははきりと分かった。
 想像力を働かせた夏目の目には、そのラインに沿って、下着と見紛うばかりの水着を身にまとう彼女の姿が、ぼんやり浮かんで、消えた。
「え、あ、えええ?」
 胸を寄せた挑発的な、西村に以前見せられたグラビアアイドルの写真集のようなポーズを決める多軌の絵が見えた気がして、当人を前にして夏目は仰け反った。
 脳裏を過ぎる意味深な笑顔に、人を惑わす視線と、艶やかな唇。掴んだ手首は、吃驚するくらいに細かった。足も、男である夏目と比較するととても小さい。
「う、あイテ!」
「夏目君!?」
 汗に濡れる肌を捕まえたい誘惑に駆られ、直後彼は後頭部を見舞った衝撃に星を散らした。多軌がひっくり返った彼に目を見開き、大丈夫かと叫んで上から顔を覗き込んでくる。
 チュニックの隙間から胸元が見えそうで、彼はもう一段階顔を赤くし、両手で視界を塞いだ。
「だ、だいじょっ」
「ふーんふーん、ふふーん……ぬお!」
 しどろもどろに叫び返し、平気だから退いてくれるよう気弱な声で頼み込む。その向こう、庭に面する縁側から鼻歌交じりに現れた斑が、倒れる夏目に覆い被さろうとしていた多軌に気付き、後ろ足だけで立ってそのままひっくり返った。
 どさっ、と重たい音がして、三十センチばかりある段差を転げ落ちた猫の姿をした妖怪が、顔をあげた多軌の視界から消えた。
 しっかり声を聞き、姿を見送った多軌が爛々と目を輝かせる。テレビでは逆転サヨナラのランナーを二塁に置いて、息詰まる攻防戦が展開されていた。
「きゃー!」
 甲高い悲鳴に掻き消され、バッドが打ち返した球の行方が見えない。一瞬にして彼女の気持ちを奪い取って行ってしまった罪作りな妖怪に心の中で悪態をつき、助かったのか否か、決まりが悪い自分自身を持て余した夏目は天井を見上げた。
 蝉の声が止んだ。
「ね、……見たい?」
 落ちた場所からよじ登ろうとしている斑の必死な姿に悶えていた多軌が、不意に、幻聴かと疑う音量とタイミングで言った。
 聞き取って、けれど脳が理解せずに聞き流そうとした夏目が、飛びあがって喜んでいる球児たちの汗臭そうな姿から瞳を浮かせた。
「やーん、猫ちゃーん」
「ぬおぉ、小娘、何故此処に。来るな、来るでない!」
 住処に帰ったら、居るはずの無い人間がいた。それだけでも驚きなのに、いたのが多軌だったものだから、斑の驚愕も相当だったに違いない。折角登った縁側でまた仰け反って、二度目の落下を果たす。畳の上を滑るように駆けて行った彼女は、膝を折って葦簀の下から庭先を覗きこんだ。
 でっぷり太った猫もどきが、腹を上にしてのた打ち回る。
 夏目は身を起こし、整列の末に健闘を讃えあって礼をしている選手らに目を向けた。リモコンを取り、スイッチを押す。音が消えた。蝉の声が戻って来た。
「ふぬー。ぬがが、放せ、小娘。はなさんかっ」
「やーん、可愛い。もふもふ~~」
 巨漢の斑を抱き上げた多軌は、幸せそうな顔をしていた。胴を締め付けられた妖怪は、依り代にしている招き猫の姿のままのた打ち回り、必死に抵抗して夏目に助けを求めた。
 その、夏休み前も散々見た光景に幾らか複雑な気持ちを抱き、夏目がふっと気の抜けた顔で息を吐いた。
 海は遠い。けれど、川ならある。泳ぐに適した、人も滅多に来ない泉を、夏目は知っている。
「あのさ、タキ。この後なんだけど」
「うん?」
 陽射しは眩しく、暑い。
 夏はもう暫く、終わりそうにない。

2009/08/20 脱稿