迅雷はしる

 西の山稜からもくもくと湧き出た入道雲が、周囲の空一面を圧巻するまで、そう時間は掛からなかった。
「うわっ」
 急に周囲が暗くなったかと思えば、ピカッと眩い閃光が走って夏目の瞳を焼いた。裏返った悲鳴をあげた彼はその場で仰け反り、たたらを踏んで、最終的には膝を折ってしゃがみ込んだ。
「ふぎゃ」
 傍らにいた大きな猫、らしきものも、突如雲間を走った雷光に目を向き、慌てて頭を庇って短い前足を持ち上げた。ぶるりと全身の白い毛を逆立て、天頂より地上目掛けて劈いた雷鳴に耳をぺたんと折り畳む。
 夏目もまた、迷信を信じているわけではないが咄嗟に臍を庇って両手を腹に押し当て、背中を丸めて小さくなった。
 周囲は緑眩しい稲田で、飛びぬけて背が高いものは何も無い。強いて言うなら夏目本人がそれに当たり、後はやる気の無い顔の案山子くらいだ。
 隠れてしまった太陽を探して顔を上げ、また視界の端に走った稲妻に彼は悲鳴を噛み潰した。僅かに遅れ、鼓膜を突き破る勢いで轟音が響く。首を亀のように引っ込めて小さくなり、露出したうなじに落ちた水滴に、夏目は息を呑んだ。
「ヒィ!」
 一瞬何が落ちてきたのか理解出来ず、引き攣った声をあげた青年の横で、その声に驚いた斑が飛びずさった。
 朱と朽ち葉色の二本の筋模様を後頭部から背に走らせている白い猫の頭にも、夏目が襲われた冷たいものが落ちて砕けた。
 最初はちょん、と軽い衝撃。続けてちょんちょん、やがてドバーっと。
「ぎゃあ、冷たい!」
「まずい、降って来た」
 見る間に周囲は靄が立ち込め、夜さながらの暗さを醸しだし、土の大地は水を吸って一気にぬかるんだ。稲田に張られた水が、雨を受けて大合唱している。飛沫が散って、夏目は腰を浮かせた。
 上を見ようにも、目を開けていると雨が入って来るので叶わない。あっという間に髪も服もずぶ濡れで、寒気に見舞われた彼はカチリと奥歯を鳴らした。
「先生、逃げるぞ」
「言われるまでもないわ」
 このままでは濡れ鼠で、風邪を引いてしまう。夏場の風邪は治り難いというし、寝込んで貴重な夏休みを無駄に過ごすなんていうのは御免被りたい。
 額に張り付いた前髪を払い除け、夏目は叫んだ。斑も合点承知と頷き、ひとりと一匹は勢い勇んで水溜りだらけの畦道を駆け出した。
 とはいえ、近隣に雨宿りできそうな場所は見当たらない。
 両翼はどこまでも広がる稲田で、民家は影も形も無い。集落は遠く離れており、今や雨の生み出す霞の所為でぼやけ、形を捉えることさえ難しかった。
 辻に伸びる橡の若木も、茂らせている葉の量が少なくて雨宿りに向かない。逃げ込んだものの、ボタボタ落ちてくる雫の大きさに耐えかねた斑が憤慨し、ひょろりと細い幹を蹴り飛ばしたものだから、葉の表面に溜まっていた雨粒が一斉にふたりの頭上に、雨の倍になって降り注いだ。
「先生!」
 なにをするのかと罵声を上げ、夏目は鬱陶しげに落ちてきた雫を払い、他の避難場所を探して視線を泳がせた。
 足の短さが災いとなって、人間以上に泥だらけの斑が小さく舌を出して天を仰ぐ。額を打つ大粒の雨に唾を吐き、すこぶる悪い視界の中、何かを思い出してかピクリと三角の耳を震わせた。
「夏目」
「なんだよ」
「こっちだ」
「へ? あ、先生!」
「早く来い」
 小粒の鼻をヒクつかせて雨の中から微かな匂いを嗅ぎ分け、橡の下から飛び出す。前脚が水溜りに突っ込み、跳ねた泥が靴に掛かって、身を硬くした夏目は訝しげに、数百年を生きる妖怪を見下ろした。
 だが斑は仔細を一切省き、顎をしゃくって西に進路を取ると、灰色の雲の下を走り出した。
「なんなんだよ……」
 理由のひとつを告げる暇さえ惜しいのか。一瞬にして靄の中に紛れてしまった白い尻尾に目を細め、夏目は仕方なく彼を追い、泥の海に足を踏み出した。
 夏休み前に購入したばかりのスニーカーも、すっかり色が変わってしまった。分厚い布を潜り抜けた水が、靴下さえもぐしょぐしょに濡らしている。一歩進むたびに足の裏で水が波打って、軟体動物の上を歩いている不快さが付きまとった。
 斑に追いつき、横に並ぶ。雷鳴は遠ざかったものの、まだ断続的に轟いていた。
「どこかに落ちたかな」
「雷が落ちた田は、よく実るぞ」
 黒い闇を切り裂く稲光を細めた目で見詰め、呟く。聞こえたのか否か、足元の斑が合いの手を返して言った。
「へえ……」
 俗説だが、聞いた事がある気がする。雷が落ちた田は、即ち天の神に祝福された地だ。
 もっとも、雷の直撃を受けて死んでしまう人も実際にいるので、諸手を挙げて歓迎できるものではない。夏目も、まだまだ充分気をつけなければならない。
「にしても、よく降るな」
 雨宿りできる場所はまだか、と夏目は道案内を買って出た斑の背中を見下ろした。
 両手は頭の上に、目に入る雫を減らそうとして庇の代わりを務めている。薄紫のシャツは水を吸って色を濃くし、肌に張り付いて、モヤシと揶揄される脆弱な肢体の輪郭を浮かび上がらせていた。
 この雨で鳥の声すら聞こえない。道は少し固くなり、水溜りは減っていた。
「見えたぞ」
 斑の声にハッとして、夏目は前方に目を凝らした。
「ああ」
 なるほど、と即座に納得し、頷く。ふたりほぼ同時にゴールテープを切り、彼らは連なる稲田の終わりに陣取る古木の根本に飛び込んだ。
「は、は……あー」
 疲れたと即座に身体を反転させ、太い幹にもたれかかって膝を折る。此処ならば降雨の被害も殆ど受けずに済み、もっと早く思い出してもらいたかったと恨めしげに斑を見て、夏目は絞れそうなシャツを抓んで引っ張った。
 それは樹齢三百年はあろう、大きな楠だった。枝ぶりも立派で、太陽光を存分に浴びて育った葉は大きく、濃い緑だ。防虫剤の樟脳にも使われる、特有の匂いが雨のお陰か強まって、かすかに鼻についた。
 大きく息を吸って吐き、肩を上下させて呼吸を落ち着けた夏目は、隣で全身を毛羽立て、ぶるりと犬のように雫を撒き散らした斑に迷惑そうな顔をした。
 だが、声に出しては言わない。彼が居なければ、夏目は此処に辿り着けなかった。
「でっかい木だな」
 こんな場所があるとは知らなかった。独白し、突然の通り雨から彼を守ってくれている古樹を見上げる。
 地面から張り出した根は複雑に絡みあい、血管のように縦横無尽に大地を覆っていた。幹は夏目が両腕を広げても、反対側にすら届かない。少しでも多く日光を集めようとして、互い違いに葉が繁るので、それが雨を弾く傘の役目を果たしていた。
 無論、完全ではない。だが何も無い場所でぼうっと突っ立っているよりは、格段に良い。
 人心地ついたと深呼吸して、雨の匂いを肺いっぱいに溜め込んで吐き出す。前髪から垂れ落ちる雫を指で弾き飛ばし、まだ湿り気を帯びていつもより小さく見える斑にも手を伸ばす。引き寄せてやると、どうやら寒かったようで、彼は抵抗せず夏目の胸元に鼻筋を埋めた。
 抱きかかえてやり、背を撫でる。
「止むかな」
「さぁの」
 人のシャツで顔を拭い、逆に濡れてしまった斑がくぐもった声で言った。
 泥汚れを押し付けられた夏目は小さく舌打ちし、恩を仇で返した不届きな猫を放り投げた。彼は二メートルばかり先に落下して、水溜りに背中から沈んだ。
 飛び散った泥を避けて木の幹に擦り寄り、すっかり黒猫になった斑を見て、彼は呵々と笑った。
「酷い顔だな、先生」
「貴様! あのれ、食ってしまうぞ」
「腹壊しても知らないからな」
 激高した斑がその場で暴れるものだから、彼の汚れはますます酷くなっていく。雨の中でダンスを踊る狸猫は滑稽で、目尻に涙が浮かぶまで笑い転げ、夏目は深く長く、息を吐いた。
 散歩中、突然青空を飲み込んで降り出した雨。当然傘なんて持って出歩いているわけがなく、世話になっている藤原の家も走って帰るには遠すぎる。
 このまま夜半まで降り止まなかったら、どうしようか。辺鄙なところで足止めを食らったもので、近くに住居もないので誰かに助けを求めることすら出来ない。
 通り掛る人の姿も無い。昔はこの大楠の根元で、農作業をひと段落させた人々が集い、賑わっただろうに。
「なんか、寂しいな」
 雷鳴はもう聞こえない、耳を打つのは大地を穿つ雨の音ばかりだ。
 どこかでカエルが鳴いている。夏目にとっては厄介極まりない雨だが、喜んでいる生き物もいるのだと思い出させられて、彼は嘆息した。
「まったく」
 一頻り暴れて気が済んだ斑が夏目の足元に戻って来て、また毛を逆立てた。泥水攻撃は二度と御免で、彼は慌てて立ち上がると、雨を避けながら急ぎ反対側へと逃げた。
 畦道の裏側は、日の光も殆ど届かない所為か根の張り具合も幾分大人しかった。だから、だろうか。
「っと、危ない」
 根元に小さな祠が、壊れかけた状態で飾られていた。
 危うく蹴り飛ばすところで、寸前で踏み止まった夏目が片足立ちで二度、飛び跳ねた。後ろから迫っていた斑も、視線の高さに朽ち掛けた木造建築があると知って、出し掛けた前足を泳がせる。
 後退した夏目を避けて、斑も後退を計った。それから外側を回りこんで、横に並ぶ。
 材質は桐だろうか、しかし傷みが酷い。手入れされる事無く放置されて十年以上過ぎようとしている、そんな雰囲気が感じ取れた。
「こんなところに」
 表から見えない分、人の目に留まる機会も乏しく、忘れ去られるのも早かったと思われる。
 大きさは、夏目でも両手で抱えられるほど。高さが三十センチ弱で、至ってシンプルな、飾り気の無い、その分素朴で味のある風体をしていた。但し屋根は右半分が腐り、崩れていた。格子戸も左側が存在しておらず、残り半分もぶらん、と垂れ下がっているのみだ。
 いつ、誰が、どうして此処に祠を奉ったのかは、分からない。首を傾げて下を向いた夏目だが、斑も巨木の存在は知れど、この祠にまつわる情報は耳にしていなかったらしい。怪訝に眉を寄せていた。
「まあ、いいか」
 彼は膝を折るとしゃがみ込み、風が吹けば空中分解してしまいそうな祠の前で両手を合わせた。中は空っぽかと思いきや、意外なことに、小さな木造の像が置かれていた。
「ちょっとだけ、休ませてもらいます」
 仏像と思われるが、菩薩か、天か、如来かも、知識が無い夏目には区別がつかなかった。
 ただ、柔和で優しい笑顔をしている。十五センチほどしかない、掌サイズの仏像を拝んだ彼は、足首に絡みつくズボンを気にして立ち上がり、祠から少し離れた場所に陣取った。
「つめたっ」
 旋毛に落ちてきた大きな雫に悲鳴をあげて、左足の膝から先を持ち上げる。靴を脱いで天地をひっくり返してやれば、中に溜まっていた水がザーッと滝のように流れていった。
 斑は仏像が珍しいのか、まだ祠の前に佇み、首を右左に揺らしながら、触れようか、触れまいか、前脚を出しては引っ込めていた。
「壊すなよー、先生」
「失礼な」
 反対の靴の水も抜いて、要らぬちょっかいを仕掛けている猫に注意する。人の言葉を解し、喋るそれは、この大楠と同様数百年を生きる妖怪だ。
 今は丸っこい、太ったただの猫だけれど、本来の姿は狐と狼をあわせたような、白い毛並みの尾が長い妖怪だ。光を操り、自由自在に空を駆け巡る、非常に強い妖力を秘めた獣。
 それがどういう経緯か、今はこんな姿になって夏目の傍にいる。用心棒という名目だけれど、今となってはそれもすっかり形骸化した印象が否めない。
 だが、きっかけや動機がどうであれ、夏目の傍にここまで長く居てくれた存在は彼が最初だ。夏目という人間の持つ悩みや、苦しみや、痛みを、とても深い場所まで理解してくれる存在もまた、彼が初めて。
 ありがたいと思っている。但し言えば調子に乗るので、言わないけれど。
 夏目はすっかり汚れたスニーカーを上下に振り、中を覗き込んだ。水を排出したとはいえ、靴は依然濡れたままだ。其処に湿った靴下を履いた爪先を押し込んでも、結局は生温く不快なまま。
「むー」
 小さく唸って考え込み、彼は結局靴下も脱いで絞った。雑巾のように重ねて捻り、布が吸収した水分を排出する。
 だが、途中ではたと我に返り、彼は肩を竦めた。
「タオル、無かった」
 どれだけきつく絞ろうとも、靴下から完全に水分を取り除くのは難しい。そして素足も濡れている。湿った布を被せられ続けることに、変わりは無いのだ。
 もっと早く気付けばよかったと後悔しても、過ぎた時は戻らない。夏目は渋々座り込み、左から順に灰色に濁った色の靴下を履いていった。靴は爪先を押し込んだだけにして、踵は踏み潰す。スリッパのようにしておかないと、濡れた感触が足全体を圧迫して気持ちが悪い。
「猫はいいよなあ」
「にゃ?」
 まだ祠にちょっかいを仕掛けている斑を眺め、ぼそりと呟く。彼は多分、聞く人が聞けば可愛らしく感じるだろう声で鳴き、首を捻った。
「なんでもないよ」
 裸で過ごせる獣が羨ましい、と言ったら着衣を引っぺがされそうだ。頬杖着いた夏目は、薄暗い雲の切れ目を探して視線を遠くに投げた。
 雨の勢い自体は、少しずつであるけれど弱まりつつある。だが、完全に止むには当分かかりそうだ。
「止まないな」
「そうだな」
「先生ならひとっ飛びだろ」
「夕飯三日分で考えてやろう」
 地上は雨でも、雲の上は晴れている。一気に空高くまで駆け上っていけば、藤原の家も直ぐだ。
 だが基本面倒臭がりの斑は、夏目に顎で使われるのが気に入らないようで、偉そうな態度で踏ん反り返って見返りを要求してきた。
 問うた夏目自身、さして期待してはいなかった。案の定か、と溜息は出たがそれだけで、馬鹿にした風情で肩を竦めると、座を改めて楠の幹に寄りかかっている小さな祠に顔を向けた。
 こういう木造の社を見ると、思い出すものがある。
 年老いた女性と、彼女を見守る優しい妖怪。嘗ては大勢に拝まれ、祈られ、その想いを糧にしていたが、いつしか忘れ去られ、人々の記憶から消え行き、最後の祈り手だった女性も失って、一緒に消えてしまったとても小さな、小さな妖怪。
 直前に名前を返せて良かったと、心の底から思う。
「此処にも居たんだろうか」
 露神の社はもう空っぽで、誰も居ない。奉られていた存在が消えてしまったので、新たに供物を持って詣でる人も現れなくなった。
 夏目が居なくなったら、それこそ本当に誰からも思い出される事なく、やがて朽ち、壊れ、最初からなにもなかったかのように雲散霧消してしまうのだろう。この祠にも、かすかに何ものかの気配が残っているものの、形を成すほどの強さではなかった。
 誰かが遺した想いがこびり付いて、今にも風に飛ばされようとして懸命にしがみついているように見える。
 掠れた声で呟いた夏目に、斑はなにも言わなかった。立てた耳を伏し、雨を巻き上げて吹き荒れた突風に身を低くする。教えてもらえなかった夏目は顔面に冷風の直撃をくらい、目に入った雨粒に咄嗟に瞼を閉ざした。
 視界が暗闇に染まる。
「う……」
 呻き、彼は虚空に手を伸ばした。
 笑い声が聞こえた。
 空耳かと疑い、目を開く。雨は降っていない。斑の姿も見えない。此処はどこかと周囲を見回せば、枝ぶりも立派な大楠が陽光を浴びて気持ち良さそうに涼風の中で佇んでいた。
 緑の若葉が繁り、小鳥の大合唱が響く。小さな子供が駆ける足音が響き、顔をそちらに向けるが視界は楠の緑以外、空さえも真っ白だった。
 大楠だけが描かれた画用紙に迷い込んだ気分になって、夏目は息を呑んだ。今一度注意深く景色に目を凝らすのに、形あるものはなにひとつ浮かんでこない。その代わり、絶える事無く声が続いた。
 女の子の声、男の子の声、年老いてしわがれた声、赤ん坊の、鈴を転がしたようなかわいらしい声。
 複数、単体問わず、笑い声は止まない。会話が展開されているのに、方言が強いのか夏目には内容がさっぱり聞き取れなかった。誰もが早口で、テープを早送りしているようでもあった。
 分かるのは、声がどれも楽しげである事。
 そして。
「ああ、田植え唄だ」
 どこかで聞いた覚えがあるメロディーに耳を欹て、符合するものを記憶から掘り出した夏目は頷いた。
 今となってはすっかり機械での田植えが主流になってしまっているけれど、伝統行事として初夏の頃、田植え祭がこの地でも開催されていた。その最中で笠を被った早乙女らが歌っていた曲に、よく似ている。
 そういえばこの近くは、ずっと果てしなく稲田が広がっていた。今はまだ緑一色だけれど、季節が過ぎれば黄金色の稲穂が、頭を重くして風にそよぐに違いない。
 光景を思い浮かべ、そこに笑い合う人々の声を重ね合わせていく。きっとこの大楠は、田植えの疲れを癒す人々の憩いの場だったのだ。
 優しい気持ちが胸に満ちていく。そうっと息を吐いた彼は、どっしりと構える風格も立派な楠を仰ぎ、瞼を下ろした。
 目を開く。最初に見えたのは、ふてぶてしい顔をした、規格外サイズの猫の顔だった。
「……先生」
「ぼさっとしおって」
 どアップでその顔で覗き込まれると、流石に迫力が段違いだ。呆れ半分、驚き半分で名を呼び、夏目は斑を押し退けて身を起こした。
 そこはさっきまでと変わらぬ大楠の根元で、雨はまだしとしとと降り続いていた。笑い声は掻き消え、白一色だった背景は灰色に濁って空を埋め尽くしていた。
 カエルの合唱が時折、耳を打つ。木の葉を揺らす雨音は五月蝿いのに、酷く静かだった。
「俺、どれくらい」
「五秒かそこらだな」
 気を失ったかのように動かなくなって、斑が傍に行った瞬間目を開いた。
 長く感じたのは自分だけで、実際はその程度でしかなかったということだ。夏目は右手で頭を庇い、首を振って身を起こし、座り直した。
 傍らには斑、その向こうに古ぼけた祠がある。誰が作り、なにを想って此処に奉ったのか、なにも分かりはしないけれど。
「楽しかったんだろう、な」
 此処に居て人々を見守っていた存在もとうに消え失せ、残留思念とも呼べるものだけが未練がましく地上にしがみついていた。
 もっと早く此処に辿り着けていたなら、なにかが違っただろうか。こんな風に楽しげな笑い声が哀しく耳を打ち、こびり付いて離れないなんてことも、無かったかもしれない。
 彼は手を伸ばした。斑の頭上を追い越し、今にも朽ち果てようとしている雨に濡れた祠に指を置く。
「あ――」
 一瞬だった。
 夏目が何かをしたわけではない。斑がなにかを仕組んだわけでもない。
 それは呆気ないほど簡単に。まるで砂の城が水に飲まれて形を失うように。
「……」
 斑はちらりと横目で見やり、興味を失ってかふいっと顔を反らした。鼻先を夏目の胸元に埋め、彼を雨避けに使って丸く、小さくなる。
 夏目は触れたかどうかさえ判然としない、行き先を失った指を空中で握り締めた。木造の祠は音もなく崩れ落ち、小さな埃を巻き上げてあっという間に塵と化した。中に納められていた像さえもが一緒に、雨に飲まれて跡形も無く消え失せる。
 形を遺さず、記憶さえも留めさせてくれず。
 だが、気のせいだろうか。
「なんでかな」
 空っぽの掌を顔の前で広げ、夏目は泣き笑いの表情を浮かべて呟いた。
 斑が耳を伏し、人の膝で勝手に寛ぐ。
「お礼言われるようなことなんか、なにもしてないのに」
 むしろ、思い出を壊してしまうような、責められることをしたはずなのに。
 拳を作り、胸に押し当てる。息苦しさの中に不可思議な温かさを感じて、彼は首を右に倒した。楠の根元から空を窺い、緑の中にかすかに見えた青に目を見張る。
 雨はまだ降っていた。しかし勢いは確実に弱まり、遥か彼方では天使の階段とも呼ばれる雲間からの光が、遍く地表を照らしていた。
「先生、今度さ」
「なんだ」
 胸に抱えこんだ斑の背を撫で、遠くを見据えて夏目が呟く。
 相槌を打って、斑はゴロゴロと喉を鳴らした。
「今度、みんなで、此処で、弁当でも食べようか。田沼や、タキや、西村や北本も、みんな誘って。大勢で」
 飼い猫と化してきている斑は大きく欠伸をし、興味無さそうに寝返りを打った。撫でていた手を押しのけられて、夏目が目を細める。
 西の空にかかる虹の橋が、笑った。

2009/08/09 脱稿