迅雷

 空では白い綿雲が群れを成して、悠然と泳いでいた。
 小鳥のさえずりに誘われて首を巡らせ、下に視線を転じれば、長く伸びた己の影に寄り添い、少しだけ小さい影が並んでいた。
『……』
 おや、と思って今度は首を右に向ける。そうすれば綿毛のような、甘い蜂蜜にも似た色の髪の毛が、ふわふわと風を受けて今にも飛んで行きそうに揺れていた。
『ん?』
 雲雀が不思議そうにしているのに気付いた彼が、愛嬌のある瞳を上向けて小首を傾げる。本人にその自覚はなかろうが、実に可愛らしい仕草に心がホッと和んで、雲雀はやけに荒んだ、空虚な心をどこかに放り出した。
 何故そんな感情を抱いていたのかも、一瞬で忘れてしまった。何も案ずることなど無いのだと、傍らに佇む少年の面影を残す青年を見詰めていると、根拠もなくそう思えた。
 どんな高価な宝石よりも綺麗に輝く琥珀の瞳に微笑み返し、雲雀は繋いだ手に力を込めた。ぎゅっと握り締められて、なにが可笑しかったのか、薄茶色の髪の青年は急にケラケラと笑い出した。
『なに』
『だって、ヒバリさんってば。……大丈夫ですよ』
 地平線は遥か彼方に、その向こうは澄み渡る大空が。
 気まぐれな雲が美しい蒼にアクセントを加えて、眩し過ぎる太陽から地上を守っている。
 穏やかに吹く風に伸び気味の襟足を擽られた青年は、自由の利く手でそれを上から押さえ込んだ。日焼けとは無縁の白い肌が見え隠れして、雲雀は吸い込まれそうな艶やかさに見とれ、慌てて顔を反らした。
 繋いだ手を軽く引っ張って、もっと近付くように無言で促す。重ね合わせた掌、深く絡ませた指、決して放すものかという強い意志を感じ取り、青年は嬉しげに目尻を下げ、コトン、と雲雀の肩に頭を寄りかからせた。
『結局、身長、追いつけなかったな』
『君に負けるようじゃ、僕もお終いだよ』
『酷いなあ。頑張ったのに』
 骨を丈夫にするというから、カルシウムを多く含む食品を、兎に角大量に摂取するよう心がけた。しかし思うように背丈は伸びず、見た目の貧弱さはあまり変わってくれなかった。
 それが不満だと唇を尖らせた彼を笑い、雲雀は目を細めた。
 優しい風が吹いている。緑の大地が陽射しの中に溶け込んで、どんな絵画よりも素晴らしい景色を演出していた。
 大地が薫る。雲雀は瞼を下ろし、闇の中でもはっきりと感じられる温かさに顔をほころばせた。
『ヒバリさん』
『なに』
『ヒバリさんは、怖いことって、ありますか』
『どうしたの、急に』
『さあ。なんとなく、思ったから。ありますか?』
 唐突の話題の転換に、雲雀は怪訝に眉根を寄せた。しかし隣から向けられる真摯な眼差しを無碍に拒絶も出来ず、数秒間逡巡し、左手を丸めて顎に添えた。
 右手は解かぬまま、繋がりを強めて力を込める。傍らの彼は息を呑み、結び合った手に瞳を向けた。
『あるよ』
『え?』
 イエスか、ノーか。二者択一でどちらかを選ぶとしたら、答えはイエスだ。
 頷きながら呟いた雲雀に、彼は意外そうに声を発して顔を上向けた。間近から浴びせられる疑問を含んだ視線に微笑で返し、雲雀は甘えるような仕草で彼の髪に右の頬を寄せた。
『昔は無かった』
『今は』
『たくさん。ああ、違うね。ひとつだけ、だ』
 自分で言った内容を即座に否定し、雲雀は切れ長の目をそっと閉ざした。
 肌に触れる感触は本物だ。温かく、柔らかく、心地よくて、ずっとこのままでいたいと思わせてくれる。いい匂いがする、甘い香りがする。食べてしまいたいくらいに。
 死ぬことは別に怖くない。無為に生き続けることのほうがよっぽど、恐ろしい。
 それは孤独だった時分は知らなかった感情だった。自分がひとりでは無いと気付いた瞬間から、抱くようになった思いだ。
 失いたくない。
 手放したくない。
 ひとりだった頃に戻りたくない。
 ずっと、永遠に、どうかこのままで。
 様々な思いを握り締める手の力に込めて、雲雀は瞼を開いた。次は君が答える番だと目で物を言えば、彼は若干気後れした様子で顎を引き、照れ臭そうに頬を引っ掻いた。
『なんか、意外』
『そう?』
『でも安心した。ヒバリさんも、一丁前に人間だったんだ』
『なに、それ。僕がロボットか何かとでも思ってた?』
『どっちかっていうと、悪魔……かな』
 血も涙も無い、と途中まで言いかけて、睨まれていると気付いた彼は愛想笑いで続きを誤魔化した。
『やだな、冗談ですよ。冗談』
 真に受けないで欲しいと頼み込み、乱暴に雲雀の胸を叩く。
 肋骨の上を平手打ちされて、屈強な上半身は倒れこそしないが、僅かに震えた。内臓にまで届いた衝撃に心臓は呻き声をあげ、息苦しさを覚えた雲雀は首筋を伝った嫌な汗に眩暈を引き起こした。
 くらり、と頭が揺れる。今、何かとても大切な事を思い出しそうになった。
 忘れてはいけないなにかを忘れてしまっていることを、思い出した。
『大丈夫ですよ』
 左手で額を押さえた雲雀に語りかける声は優しい。春の息吹を思わせる音色に、沸き起こった動悸は見る間に鎮まった。
 ほうっと息を吐いて、雲雀は黒髪を湿らせた脂汗を、鬱陶しそうに払い除けた。横からはクスクス笑っている声が聞こえて、不躾な彼を睥睨し、肩を竦める。
 繋ぎあった手が揺れる。解けそうになって、雲雀は慌てて指先に力を入れ直した。
『そっか。ヒバリさんは、あるんだー』
 感心した風情で呟かれ、それが気に食わなかった雲雀は形の良い唇を歪ませた。ムッとへの字に曲がるのを見て彼はまた楽しげに、鈴を転がしたようなかわいらしい声で笑った。
『君の方が沢山あるだろう』
『えー。俺、無いですよ』
『冗談』
『本気で。怖いもの、無いです。なにも、怖いことなんか無いんです』
 不満げに言葉を並べ立てた雲雀の前で手を横に振り、彼は途中から真剣な表情で言い切った。偽りも、誤魔化しも感じ取れなかった見事なまでの断定に、雲雀は片方の眉を持ち上げ、奇異なものを見る目つきを作り出した。
 彼は気の抜けた表情で受け流し、雲雀に寄せる体重を増やした。凭れかかられて、雲雀の心臓がひとつ、軽やかに鳴った。
『無いです。昔は確かにいっぱいあったけど』
『今は』
『大丈夫だって思えるから』
 なにも怖くない。いつもと変わらぬ口調で告げた彼の表情が見えなくて、雲雀は身を捩り、首を前に倒した。
 けれど雲間から差し込む日差しが邪魔をして、雲雀の黒水晶の瞳を焼く。シルエットだけが浮き上がり、彼が笑っているのか、もっと違う複雑な顔をしているのかも、区別がつかなかった。
『どうして』
 焦りが見え隠れする声で質問を繰り出し、雲雀は落ち着け、と心の中で繰り返した。
 揺らぎもせず、穏やかな笑みをたたえた青年がスッと目を細めた。
 零れ落ちんばかりに大きな瞳が眇められ、その部分だけがやけに色鮮やかに映し出される。影ばかりの中、爛々と輝く眼は却って不気味だった。
『つなよし』
『ヒバリさんに出会えたから』
 胸を過ぎった恐怖感に慄き、雲雀が彼の名前を呼ぶ。遮るように言葉が紡がれる。
 繋いだ手に熱が走る。
『だから大丈夫。俺はヒバリさんに出会って、ヒバリさんを好きになって、ヒバリさんも俺の気持ちに気付いて、応えてくれた。それだけは確かだから。どんなに世界が壊れても、無茶苦茶なことが起きても。ヒバリさんが怖いと感じていることになったとしても』
 微笑み、彼は振り向いた。
 雲雀の視界に色が戻る。暗がりに煌いた光は一瞬にして鮮やかな色彩を取り戻し、青年へと成長を遂げた沢田綱吉を照らし出した。
『俺は平気。怖いことなんか、なにもないんだ』
 右手を胸に押し当て、力強く宣言する。頬を朱色に染め、少しだけ恥かしそうにしながら、けれど堂々とした態度を崩さない。
 彼が眩しかった。
 そんな風に思えるだけの強さを、自分はまだ持ち合わせていないのだと知った。
『つなよし』
『だから大丈夫。ヒバリさんも、怖がらないで』
 今度は彼の方が、繋いだ手に力を込めた。
 骨にまで響く強さに、雲雀は反射的に下を向いた。
 風を感じ、慌てて視線を跳ね上げる。逆光の中に佇む青年は変わること無い笑みを浮かべて、変わらずに其処に居た。
 深く安堵して、表情にも滲ませて、雲雀は肩の力を抜いた。全身に迸った緊張を解き、弱々しく首を振る。
『ダメだね、僕は』
『ヒバリさん』
『それでもまだ、僕は怖くて仕方が無い』
『……うーん。ま、いいんじゃないですか、それで』
『綱吉?』
『なにもかも俺と同じである必要なんて無いんです。ヒバリさんはヒバリさんで、俺は、俺』
 暫く考え込んだ後、右の人差し指で雲雀と自分自身を交互に指差し、彼は相好を崩した。
『それに、ヒバリさんに怖いものがあるって、なんか安心するし』
 言いながら、彼は右手を雲雀の右腕に添えた。袖を引っ張るところから始めて、肘を抱え込む。全体重を預けて寄りかかって来られて、流石に支えるのに苦慮した雲雀は膝を軽く曲げて自らも左腕を伸ばした。
 横並びだったのが向かい合わせになり、胸に抱き込めばすっぽりと包み込んでしまえるくらいの大きさしかない。そういえば身長が思うように伸びないのをずっと気に病んでいたと思い出して、あまり変な成長をしてくれなくてよかったと嘯く。
 腕の中で心地良さそうに目を細めていた彼が、途端に拗ねて頬を膨らませた。
『酷い、気にしてるのに』
 緩く握った右の拳で肩を叩かれ、雲雀は痛みよりもむず痒さを感じて破顔した。
『君は君、僕は僕……か』
『ですよー。違ってていいんです、それが当たり前なんだから』
 世界が「もしも」の数だけ存在し、様々に時が分岐して数多の可能性が混在していたとしても。同じ人間が通る道を一本違えただけで、驚くほど異なる未来が現れるのだとしても。
 結末の異なる物語が無数に、平行して存在しているとしても。
 どの世界でもたったひとつ、違わない出来事がある。
 それは綱吉が雲雀に出会い、雲雀に稀なる想いを抱き、雲雀が綱吉に気付き、雲雀が綱吉に一方ならぬ感情を覚えたこと。
 ふたりが出会わない世界は、存在しない。綱吉と雲雀は、どの選択肢を選んだとしても必ずどこかですれ違い、互いに気付く。
 その確信ひとつあれば、充分だった。綱吉はこの先どんな未来が待ち受けているとしても、なにも恐れたりはしない。
『綱吉』
 愛おしげに名前を呼び、雲雀は肩に添えられるだけになっていた彼の手を握った。反対側の手と同様に指を絡め、握り締める。両手の自由を奪い、奪われ、彼は唇を尖らせてやや恨めしげな眼差しを雲雀に向けた。
 上目遣いの視線に微笑みかけ、額をぶつけ、擦り合わせる。脳に来た衝撃をやり過ごした彼は、益々口を窄ませた。
 タコの物真似のつもりかと言えば、察しろと大声で怒鳴られた。
『ヒバリさんの、にぶちん!』
『じゃあ、言ってごらんよ。望み通りにしてあげるから』
 子供の頃に戻った彼の罵声に、雲雀は揚げ足を取ってずい、と首を前に倒した。至近距離から琥珀を見詰めると、大粒の瞳には自分の姿だけが映し出された。
 透き通る程の麗らかな艶にうっとりと見入り、早くと急かしてごりごりと額を擦る。間に挟まれた髪の毛が痛いのか、彼は身を捩って後ろに逃げようと足掻いた。
 だけれど、両手は囚われたまま。心までもが、奪われたまま。
『言わないと、ずっとこのままだよ』
『ひどい!』
『酷くないよ』
 言えば叶えてやるのだ、随分と妥協した方だと雲雀が笑う。彼は満腹のリスのように頬を膨らませ、窄めた唇から息を吐いた。
 悔しげに歯軋りし、言おうか言うまいかの境界線を何度も往復して、最後は降参の白旗を揚げて雲雀に縋りついた。シャツから覗く首に鼻先を埋め、目を閉じる。背筋を伸ばす。目を閉じる。爪先立ちになる。
 先手を打って、雲雀にくちづける。
 目の前を掠めて通り過ぎて行った微熱に背筋を震わせ、雲雀は生まれながらにして細い目を限界まで見開いた。
 振り解かれた両手から、熱が逃げていく。その場でくるりとターンを決めて、見事逃げ遂せた彼が惚ける雲雀に向かってあっかんべー、と舌を出した。
『ヒバリさんのバーカ!』
『言ったね』
『あはは、怒った。ヒバリさんが怒った』
 無邪気に人の悪口を叫び、人が一歩前に踏み出せば即座に踵を返して逃げていく。遠くなる背中を追いかけ、雲雀は緑豊かな草原を駆け出した。
 太陽は眩い。空は青い。白い雲が優雅に泳いでいる。風は温かく、心地よかった。
 だから目覚めた時、どちらが夢でどちらが現実なのか区別がつかず、雲雀は布団に横になったまま、数秒間ぼんやりと天井を見上げ続けた。
 頬をツ、と伝った涙の感触で、こちら側が「今」なのだと教えられる。
「また、懐かしい夢を」
 身じろいだ末に起き上がり、肩まできちんと被っていた布団を足元へと下ろす。寝汗をかいて僅かに湿ったシーツをなぞり、雲雀は返す手で頬に残る数本の筋を擦った。
 涙の名残を消し去り、ひとつ、ふたつ息を吐いて呟く。声に出した途端に現実が現実となって舞い戻ってきて、暗がりの中、彼は仕方なく立ち上がった。
 妙な時間に目を覚ましたもので、おまけに眠気はすっかり吹き飛んでしまった。寝入っている最中は凪いでいた心が、急速にざわめいてヒソヒソ話を開始する。それが不快でならなくて、雲雀は少しの乱れも無かった衿を敢えて自分の手で乱した。
 喉元を広げ、火照った肌を空気に晒す。水の一杯でも飲んで来ようと欠伸を噛み殺して寝所を出た彼は、ぽつりぽつりと灯る細い明かりを頼りに冷たい廊下を素足で進んだ。
 完成してからまだ間がなく、複雑に入り組んだ通路は此処の主である雲雀さえも容易に道を惑わせる。それでなくとも夜半を過ぎ、貴重な電力は極力削られて、最低限の明るさだけが保たれるのみ。空気の循環も、機能を絞っている為か、酸素濃度が地上に比べると低いように思われた。
 息苦しさを覚えて胸を撫で、雲雀は眉目を顰めた。
「……ん?」
 確かこちらだったはず、と歩みを緩める事無く薄暗い廊下を突き進んでいた彼は、ふと何かの気配を感じ取って眉を寄せた。
 神経に障るものがある。草木も眠るようなこの時間、自分以外に動くものの存在など、本来あってはならないはずだ。
 鼻から息を吐いた彼は、眠っている間にほんの少しだけ伸びた髭を撫で、感触に顔を顰めて後ろを振り向いた。
 遠く、遠く、か細い光が見える。それは壁から降り注ぐ間接照明とは違って、深く長いトンネルの切れ目を思わせる、紙に針であけたような穴から注ぐ光だった。
「ああ」
 あちらとの境界だった扉は、十年の時を飛び越えた再会を果たして以来、開かれたままだった。
 記憶の片隅に追い遣っていた事実を思い出し、雲雀は緩慢に頷いた。腕を下ろし、興味ないと踵を返そうとする。だが、ピンと張り詰めた糸は、依然として何かを感じ取って細かく震え続けていた。
 襟足の産毛が逆立ち、鳥の羽で擽られているような感覚がする。腹の奥底がひっくり返るような不快感に眉根を寄せ、このままでは眠れないと、彼は渋々、自分の神経に障り続けるものの正体を探るべく、細い明かりの発生源へ爪先を向けた。
 歩くたびに足の裏が廊下の床材に張り付き、ぺたぺたと音がする。それはとてもとても幼い頃、実家の板敷きの廊下を歩いていた時の感触に、どこか似ていた。夏場など特に汗をかくので、汚れたままで歩くと脂で足跡が残ってしまい、母だったか祖母だったかに怒られた気がする。
 遠い記憶に思いを馳せていると、表情が勝手に柔らかくなる。思い出して引き締め、雲雀は開いたまま放置されている扉を潜り抜けた。
 それまでは間接照明が主体だったのが、天井からの直接照明がメインになって、急に周囲は明るくなった。とはいえ、こちらも省エネモードに入っており、昼間と比べればかなり薄暗い部類に入ろう。
 星明りだけの場所から、星と月が照らす場所に切り替わった、という表現が思い浮かび、直ぐに沈んだ。
「水の音」
 ゴボボ、という微かな、地鳴りにも似た音が鼓膜を打つ。よくよく注意して、耳を澄ましていないと簡単に聞き逃してしまえる程の音量しかない。
 下か、上か。逡巡し、雲雀はエレベーターに乗り込むと、三角が記されたボタンを押した。
 程なくしてひとつ上の階層に出て、ひと際強まった闇に口をへの字に曲げる。聴覚を刺激する音は幾らか強まり、下の階にはなかった異様な臭いも感じられるようになった。
 吸い込めば喉が刺激され、自然と唾液が排出される。不快感を殊更刺激させる悪臭の正体には、覚えがあった。
「誰」
 独白するが答えは見出せず、雲雀は仕方なく歩き出した。此処まで来た以上、乗りかかった舟だ。どうせあの三人のうちの誰かだろうから、大人として、背中を撫でてやるくらいはしてやろうと寛容な心を奮い立たせる。
 もっとも、現場に到達した途端に殴り飛ばしてしまいそうであるが。
 寝入る時も万が一に備えて手放さない愛用の武器を袖の中で握り、雲雀はそうっと息を殺し、音の発生源に近付いた。
 真っ黒に染まった壁の一角が崩れ、そこだけが煌々と照っている区画がある。光は拡散せずその場に留まり、異様な光景を演出していた。
「誰か居るの」
 呼びかけ、雲雀がその切れ目に手を置く。途切れた壁の内側は男子トイレで、間断なく続く水音はその奥から響いていた。
 饐えた臭いが酷くなり、思わず鼻を抓んで口呼吸に切り替える。返事は無くて、仕方なく雲雀はそのまま素足で、タイル張りのトイレ内部に居場所を移した。
 天井から注ぐ光は半分だけ電源が入り、残り半分は沈黙していた。片側に影が偏り、それを踏み越えては追いつかれながら、彼は仕切り板で区切られた個室の、奥から二番目の正面に立った。
 開けっ放しの戸口からは裏を上にした足がふたつ、はみ出ていた。
 洋式便器を両手で抱えるようにしてしがみつき、頭を突っ込んでいる。便座は上がっていて、その姿勢からでは便器内に溜まった水は直ぐそこだろう。
 しな垂れた薄茶色の髪の毛を見て、雲雀は唇を噛み締めた。
 うう、とも、ああ、ともつかない呻き声を零し、沢田綱吉が胃よりももっと奥からこみ上げてくる不快感を堪え、夕飯として食べたものをそこにぶちまけていた。
 此処に来て既に長い様子が、疲弊しきった背中から感じられた。雲雀がすぐ間近に、手を伸ばせば届く距離に居るというのに、振り返ろうともしない。返事ひとつする気力さえ、残っていないのだろう。
「う、ぐ……」
 ならば胃の中身もとっくに空の筈だ、階下に響くまで頻繁に水を流し続けていたのだから。
「沢田綱吉」
「はっ、あ、……う、イッ」
 呼びかけても反応は無く、逆に逃げるように前に出て、彼は便器に頭を突っ込ませた。重力に引かれて垂れ下がった前髪が、黄色く染まった水面に波を立てる。吐くものが何も無くなったに関わらず、嘔吐感だけが残って苦しいのだ。
 胃液を逆流させて、酸で食道が焼かれる。余計苦しくなるだけだのに、止められない。あまりの辛さにすすり泣く声が混じって、雲雀は前に出そうとした手を引き戻した。
 宙を掻いた指先を袖の中に戻し、嘆息する。背中をさすってやるよりも先にすることがあると、雲雀は肩を竦め、トンファーを取り出した。
 使い込み、指に馴染んだ愛器をしっかりと握り締め、表面を優しく撫でる。綱吉は未だ蹲り、動かない。雲雀の存在に気付いているかどうかも、甚だ怪しかった。
「うえぇ、っく、うう……」
 心底気持ちが悪そうに、そして苦しそうに喘ぎ、綱吉は奥歯を噛み締めた。
 涙と鼻水と唾液とで顔の下半分は水浸しで、痛みと吐き気を堪える表情は老人のように皺くちゃだった。顔のパーツが全て真ん中に寄って、吐いても、吐いてもなくならない苦痛に動くことさえ出来ない。
 このまま此処で息絶えるなんて、最高に格好悪い死に方だ。早く部屋に戻って布団に潜って、朝になるまで泥のように眠ってしまいたいのに、一歩トイレから出た途端また吐き気に襲われて舞い戻る繰り返しだった。
 最初はまだ幾らか元気があって、仲間に吐いているところを見られないよう生活フロアとは違う階に出向くだけの配慮も出来た。それから一時間以上、ずっとこうしている。
 いっそ内臓も全部吐き出してしまえたら楽なのに。汚れた部分を洗って、痛い部分には薬を塗って包帯を巻いて、また体の中に戻せたら良いのに。
 ありえない絵空事を思い描き、途絶えては舞い戻ってくる嘔吐感に苛まれ、綱吉は息も絶え絶えに苦くてしょっぱい唇を舐めた。
 さっきから聞こえる筈もない人の声が聞こえて、ついに幻聴までと、自分の体の限界を感じて咽び泣く。どうして彼は一緒に来てくれなかったのかと、黒髪に黒の学生服という出で立ちの青年を思い浮かべた矢先だ。
 降って沸いた凶悪な殺気に彼の全身が慄き、凍りつきそうな寒気に襲われた。
「――なっ」
 咄嗟に抱えていたものを手放して前のめりの姿勢を立てる。振り返ろうとした瞬間、銀の閃光が視界を真っ二つに分断し、遅れてやって来た頭蓋が裂けんばかりの衝撃に、彼の琥珀の瞳は左右揃って眼孔から飛び出した。
 一瞬は耐えた。しかしタイミング悪く登って来た内臓からの嘔吐感が、トドメとばかりに彼の首を絞めた。
「ヒ……」
 空を漂った指先が、やがて糸を失ってぱたりと落ちた。後頭部から便器に撃沈しそうになったのは、寸前で雲雀がその髪を掴むことで、ぎりぎり回避された。
 鼻水その他諸々で溢れる顔面は、非常に汚らしい。正直なところ、今すぐにでもそこの便座に突っ込んで洗い流してやりたいくらいだった。
 だがそんな事をしたら、本気で事切れてしまいかねない。雲雀は何本か引っこ抜けた蜂蜜色の髪を払い落とし、白目をむいて星を飛ばしている綱吉の華奢な身体を肩に担ぎ上げた。
 十四歳の綱吉を持ち上げるのに、二十五歳の雲雀はなんら苦労しない。もし十年前の自分だったら、両手を使って抱えるのが限界だっただろうが。
「昔から小さかったね、君は」
 聞こえていないと知りながら呟き、雲雀は顔の横に来た小ぶりな尻を悪戯に撫でた。そのまま落とさぬように両手で支え、色々なものが飛び散って汚い個室をそのままにトイレを出る。両手が塞がっているので、照明を消すのも不可能だった。
 エレベーターは夜半遅い時間故に誰も使っていないお陰で、当階で停止したままだった。
 ボタンを押して扉を左右に開き、廊下に比べて格段に明るい箱型移動施設の中へ身を滑らせる。即座にひとつ下の階を選択して動かし、雲雀は紺の長着の裾を翻した。
 ボンゴレのアジトに置いていたところで、彼に処方する薬を正しく判断できる人間はいない。追い詰められた彼がひとり孤独に耐えながらひたすら嘔吐を繰り返していながら、誰ひとりとして気付かないのが良い証拠だ。
 仲間の温かみが彼を生かす力にもなれば、時に精神を蝕む毒になることもある。それを綱吉本人が、なにより理解出来ていない。
 ひたひたと足音を響かせて廊下を突き進み、雲雀は明るい場所から暗い場所へ身を移した。彼の肩で揺さぶられる綱吉は、深い場所に意識を沈め、どれだけ激しく揺さぶられようと目覚める様子は無かった。
 風紀財団側アジトに戻った雲雀が真っ先に向かったのは、トイレでも風呂でも台所でも、己の寝所でもなかった。
「――どわあ!」
 一日の疲れを癒す大事なひと時を邪魔された草壁が、問答無用でドアを蹴り破って入って来た人に恐れおののき、聞き苦しくてかなわない野太い悲鳴をあげた。
 昼間のスーツを脱ぎ捨て、藍色の甚平姿という非常にラフな格好で布団に潜り込んでいた彼は、無言で接近する主に腰を蹴られて飛びあがった。慌てて照明を灯して雲雀がひとりでないのを知り、絶賛気絶中の綱吉の弛緩ぶりに目を丸くする。
「恭さん」
「濡れタオルと布団とぬるま湯と茶粥、今すぐ」
 怪訝に問いかけた瞬間、矢継ぎ早に単語のみの命令が下される。パブロフの犬よろしく反射的に了解の旨を表明して敬礼した草壁は、理由を問うという無粋な事はせず、格好もそのままに駆け足で部屋を飛び出して行った。
 騒々しい足音は一瞬で消え失せ、急にシンとした空気が天井から降ってくる。短く息を吐いた雲雀は、うつ伏せに肩に担がれている綱吉が呻く声を聞いて柳眉を顰めた。
 頭が下を向いているので、血が上ったのかもしれない。そろそろ下ろしてやった方が良いと判断して、彼は此処が草壁の部屋であるのも忘れて膝を折った。
 薄明かりの中、青褪めた綱吉の頬を撫でてこびり付いた汚れを取り除く。胃の中で消化される途中だったと思しき、正体不明の物体を爪で削ぎ落とせば、肌を擦られる感触を嫌った綱吉が、意識無いまま首を横に振った。
「恭さん」
「客間に運ぶよ」
 いったい何処から持って来たのか、水を張った大きな盥を抱えた草壁が戻って来て、雲雀は横抱きに綱吉を再度持ち上げた。
 ただひとり意識がない少年の唇は青紫に変色しており、閉じられた瞼は時折痙攣を起こし、見るからに痛々しい様相を呈していた。戸口に寄れば待ち構えていた草壁も彼を見下ろし、痛ましい姿に顔を曇らせた。
 たった十四歳だ。まだ、親の加護を受けて存分に自分の楽しみを追求して然るべき年齢だ。
 だのに全身、どこもかしこも傷だらけで、挙句心までズタボロに引き裂かれている。
「着替えも」
「そうだね、頼むよ」
 吐瀉物に綱吉の襟元や胸元が汚れているのを見て、草壁が控えめな音量で呟く。雲雀は首肯し、先ほど自分で言った客間へ進路を変更した。
 盥を抱えた草壁が先を走り、雲雀に言われた客間の支度に取り掛かる。布団は、あの部屋には無いのだ。
 綱吉の右腕は胸の上に、左腕はだらりと垂れて指先は床を向いていた。呼吸は比較的安定している、気道に異物が詰まっている心配はひとまず無さそうだ。緩みきった唇からは時々呻くようなくぐもった声が零れ、眉間に寄った皺は深い。
 夢の中でさえ魘されているのだ。
 憐憫の情を抱かずにはいられないが、そうしたところでこの子の為になるわけではない。余計な感情は切り捨てる覚悟がなければ、この役目は務まらない。雲雀とて今にもぽっきり折れてしまいそうな、ひ弱な葦の一本でしかないのだから。
 両腕で横抱きにした綱吉を、極力揺らさぬように配慮して運ぶ。襖は開けっ放しで、明るいけれど柔らかな光が廊下に溢れていた。
 中に入れば、それまでの無機的な廊下とは違い、柔らかな畳の感触が足の裏に広がる。まだ若い藺草の匂いが鼻腔を擽り、それだけで心が和らいでいくようだった。
「こちらに」
 既に布団を敷き終えていた草壁が、上掛けの布団を脇に置いて雲雀を手招いた。無言で頷きそちらに寄って、運んで来た少年を静かに下ろす。背中が安定したからか、彼は目を閉じたまま居心地悪そうに身をよじった。
 何かを探すように首を右に、左に傾ける。瞼は閉ざされたままだ。唇が薄く開いた。
 誰かの名前を呼んだように思えて、草壁は雲雀を見た。主たる青年は、顔色ひとつ変えずにただ佇んでいた。
「着替えは、こちらに。生憎とこちらの沢田さんの身体に合うものが御座いませんでしたので」
「構わないよ」
 折り畳まれた白の襦袢に、薄紅と蘇芳の袷を示され、雲雀は無表情に呟いた。それが果たして誰のものか、分からない彼では無いだろうに。
 驚くほどに感情の揺れが無い雲雀に小さな目を細め、草壁は一旦座を退いた。湯を沸かしてくると告げ、仰々しく辞儀をして客間を出て行く。後には雲雀と、意識の無い綱吉だけが残された。
 行灯を模した照明の炎は、和紙一枚を通すだけでも随分と柔らかな印象を与える光に変わる。僅かにオレンジを帯びた色合いのそれを横に感じながら、雲雀は敷布団に横たわる少年の頬をそっと撫でた。
 脂汗で張り付いた髪を払い除けてやり、呼吸し易いよう気道確保目的で姿勢を動かしてやる。後頭部を少しだけ後ろに反らし気味にして、左を下にして横向きに、肘は伸ばして右手は左上腕の上。膝を緩く曲げて体重を分散させてやると、青白かった肌色は時間を追うごとに赤みを取り戻していった。
 眉間の皺も浅くなり、呼吸の間隔も平素に戻りつつある。ただこのままでは着替えさせてやるのも困難で、雲雀は胡坐を崩し、右膝を立てて綱吉の頭の先へ居場所を移し変えた。
 飽きもせず癖だらけの髪を撫で、草壁が戻るが先か、綱吉の意識が回復するが先かを考える。
 そのどちらかによって、世界はまたひとつ、分岐を迎える。
「出来すぎた偶然だよ、本当に」
 林檎が地面に落ちた。ただそれだけのことで、世界は見違えるほど変わった。
 匣兵器が産まれたのも、似たようなものだ。そしてその事実は、あまりにも不自然すぎた。調べれば調べるほどに募る違和感と、見え隠れする白い影。
 まるで雲を掴むような話でしかなく、故に誰にも話したことは無い。ただひとりを除いては。
「君は、最初から分かっていたのかな」
 そんな便利な能力ではなかろうに、超直感など。
 跳ねた薄茶の髪を指に絡めて軽く引っ張り、綱吉の意識を釣り上げる。微かな痛みに反応した彼は鼻をヒクつかせ、またも何かを求めて首を上向けた――雲雀の方へと。
「……り、さ……」
 掠れた声は殆ど音にならず、布団に吸い込まれて消えていく。雲雀は眉ひとつ動かさず、ピクリと引付を起こした彼の瞼を指の背で軽くノックした。
 起きるよう促し、指先をするりと鼻先へと滑らせる。
「恭さん」
「そこに置いておいて」
「はい。茶粥は、もう暫くかかります」
「分かった」
 薄ら湯気を立てる白湯を入れた湯飲みを、盆ごと雲雀の傍らに置いて、草壁は入って来た時同様音もなく退いた。襖をゆっくりと閉め、席を辞す。雲雀は彼を見送りもせず、意識と無意識の水面下を漂っている綱吉の肌を擽り続けた。
 唇はずっと、ここにいない誰かを呼んでいる。落ちた瞼の隙間から新たに流れた涙を、彼は拭ってやらなかった。
 雲雀は白湯の盆を引き寄せた。両手で持ち上げて、熱すぎないかどうかを調べて元に戻す。吐いた後は水分と塩分の補給が急務だが、冷たい飲料は弱った胃を刺激して、却って良くない。
「う……」
 腰から下に布団をかけてやり、前屈みにした姿勢を戻す。胡坐を作って腕を組み、数秒待てば、綱吉はまた苦しげに眉を寄せ、胸を掻き毟った。シャツの上から爪を立て、荒い呼吸を繰り返して呻き声を発した。
 仲間を求めて吼える獣の声にも似ていた。奥歯を噛み締め、迫り来る恐怖に耐えて、耐えて、耐えて。
「――うああ!」
 悲鳴をあげ、彼は被せられていた布団を蹴り飛ばして身を起こした。
 脂汗を大量に流し、闇に瞠目して肩を何度も上下させる。そこにあった掛け布団を握り締めて、瞬きさえ忘れて己の手を凝視する。罅割れた皮膚には薄らと血が滲み、無数の傷跡が交錯していた。
 目の奥がチカチカして、綱吉はふらつく身体を支えながら額に指を置いた。ぐっしょり濡れた肌を掻き、視界を遮る前髪を後ろへと追い遣る。
 薄暗い、けれど完全な闇ではない。此処が何処なのか直ぐに理解出来ず、彼は音を立てて鼻から吸った息を吐き、腰を捻って上半身ごと身体を右向けた。
 人が居る――
「ヒバ……っ」
 一瞬、違う人を思い浮かべた。しかし直ぐに別人だと脳が判断して、そちらに傾いた体を押し留めた。
 否、同じ人である。だけれど微妙に違う。綱吉が知る「彼」と目の前の「彼」と、決定的に異なる点は、その年齢だ。
 十年後の雲雀恭弥。綱吉とは違う沢田綱吉と同じ時間を歩いて来た、別の雲雀恭弥。
 面影を残しつつも、まるで異なる気配を纏った青年を呆然と見上げ、綱吉は喉まで出かかった声を押し潰した。震える胸元に拳を添え、身を引いて俯く。雲雀は綱吉の、歓喜に満ちた表情が壊れていく様を一部始終見守りながら、なにも言わなかった。
「飲みなよ」
 視線が完全に外れるのを待って、青年は盆を布団の方へ押しやった。湯気の量はかなり減っていたが、温度としてはむしろ丁度良い加減になっていた。
 綱吉が意識を取り戻すまでの時間も考慮して、草壁はこの温度で用意したのだろう。気を遣い過ぎる部下にこっそり肩を竦め、雲雀はまだ覚醒しきっていない綱吉に再度促した。
「え、あ、の」
「飲んだほうが良い」
 胃液が過剰分泌されているのだから、中和してやらないと内壁が痛むだけだ。
 語気を強めた雲雀にいわれ、勝手が分からぬまま綱吉は仕方なく頷いた。恐る恐る感覚が鈍い両腕を動かし、湯飲みを包み込む。指先から伝わる熱が、過度の緊張を解きほぐしてくれた。
「あ……」
 体が冷えていたのだと今更思い知らされ、綱吉はほうっと息を吐き、目尻を下げた。最初はちびちびと、後半は遠慮を忘れて一気に飲み干し、体内に染み渡る水分の有り難味に胸を撫で下ろす。
 ただの水を沸騰させ、冷ましただけのものなのに、こんなに美味しいとは知らなかった。湯飲みの、口をつけた部分を親指でなぞり、綱吉は頭を下げた。
 盆に湯飲みを戻し、改めて雲雀を窺う。布団の上で楽な体勢で座り直した彼は、自分がどうして此処に居て、雲雀が一緒なのかを懸命に考え、汚れたままの胸元を見て記憶を取り戻した。
 抓んで引っ張り、横から注がれる光に晒して、乾いてしまっている元は米粒だっただろうものを引っ掻いた。
「そっか、俺。ん、と……殴りました?」
「うん」
 トイレで吐いていたところ、不穏な気配を感じて振り返った。雲雀の顔が一瞬見えた気がしたが、先ほど目を覚ますまでの記憶は一切が闇に閉ざされている。
 恐々確認の為に問えば、雲雀はさらりと頷いた。
「やっぱり」
 どうりで痛いのが腹の中と喉だけでない筈だ。じんじんする後頭部に指をやり、タンコブが出来ているのを確認して綱吉は涙を飲んだ。
 けれどあのままあそこに居ても、どうにもならなかったのは事実だ。雲雀が気付いてくれなければ、綱吉は今もトイレでひとり悶絶していただろう。
 白湯で胃を癒す事さえ出来ず、不快感に苛まれ、内臓全てを吐き出すまで終わらない責め苦を受け続けていた。
 想像してゾッとして、両手で身体を抱きしめる。カタカタ震えて歯の根の合わない奥歯を噛み締めている彼に目を眇め、雲雀は盆を引いて代わりに折り畳まれた長着と帯を前に出した。
 襦袢を上に重ね、綱吉の膝先に置く。並べられた衣装に首を捻った少年は、怪訝な様子で無表情の雲雀を仰ぎ見た。
「着替え」
「ああ……」
 吐瀉物がそこかしこに張り付き、唾液やら胃液やらで黄色く変色しているシャツは、臭う。このままで居ればまた気分を悪くする可能性も高くて、綱吉は納得だと頷き、手に取ろうとして寸前で躊躇した。
 伸ばした腕を引っ込め、頻りにズボンで掌を擦る。シャツだけでなく両手や顔も汚れたままだというのを、思い出したらしい。
 雲雀はスッと立ち上がると、綱吉が視線を上げて目で追いかける中、何も告げずに部屋を出て行った。
「……」
 シャツの襟首を抓み、好奇心に負けて鼻を寄せ、あまりの異臭に即座に後悔して顔を顰めた綱吉は、雲雀が去っていった方角に目を向け、気後れした様子で膝をぶつけ合わせた。
 背中を丸めて両手で身体を抱き締める。ひとりでいると、一斉に周囲の闇が蠢いて襲ってくるようで、彼は硬く瞼を閉ざし、奥歯を噛み締めた。
 みっともなく悲鳴をあげてしまいそうになるのを懸命に堪え、自分の為に敷かれた布団に額を押し当てる。一時は治まっていた吐き気が蘇り、彼は慌てて両手で口を塞いだ。
「うっ……」
 涙で霞む視界に学生服の雲雀が現れ、霞み、深い藍色の着物姿の雲雀と入れ替わる。どっと溢れ出た涙は瞳を洗うのに、こちらの姿は消えてくれない。違うのに、と縋りつきたくなる両手を押し留め、綱吉は差し出された濡れタオルに首を振った。
 嗚咽を噛み殺し、嫌だ、と彼に背を向ける。
「沢田綱吉」
「嫌だ、呼ばないで」
「綱吉」
「お願いだから!」
 その顔で、その声で、あの人と同じように自分を呼ばないで欲しい。悲痛な叫びを口走り、綱吉は白いタオルを彼の手から叩き落した。
 パシン、と乾いた音がひとつ空間を切り裂き、指先に走った痺れでハッと我に返る。瞠目した綱吉は相変わらず感情が読めない無表情の雲雀に怯み、沸き起こった涙で頬を濡らした。
 声も無く泣き、拳で目尻を擦る。
「沢田」
「も、……やだ」
 此処がボンゴレ側のアジトでないのは、部屋の雰囲気から直ぐに分かった。ならば気が置けない仲間達は、近くに居ない。雲雀以外の存在は、草壁がせいぜいだろう。
 その気の緩みが、綱吉を泣かせた。
 雲雀はひっきりなしにしゃくりを上げる彼に肩を竦め、嘆息し、落ちたタオルを拾って広げた。四角く折り畳み、綱吉の傷だらけの手を片方捕まえる。無理矢理顔から引き剥がして、隠れていた頬に強引に布を押し当てた。
 傷つけないよう丁寧に擦られる。人肌程度の湯で絞られているからか、肌触りは心地よかった。
「ひばり、さん」
「後は自分でやって」
 綱吉の片手はまだ顔に残っており、左半分を隠している。最初こそは感触も快かったものの、同じ場所ばかり擦られると痛い。掠れる声で名を呼べば、雲雀はぶっきらぼうに言ってタオルから手を離した。
 膝に落ちた白い布と、宙を泳ぐ彼の手と。交互に見詰め、綱吉は視線を伏した。
 言いたい事は沢山あるけれど、なにひとつ言葉となって出てこない。悔しげに唇を噛んで、綱吉は渋々落ちたタオルを広げて畳みなおし、顔面に叩き付けた。
 上下に動かして汚れを拭い取り、両手も拭いて、首に絡む汗の名残も全て取り除いた。
 本当は身体中拭きたかったのだけれど、タオル一枚では上半身の途中で乾いてしまって片付かない。妥協を強いられ溜息を零し、綱吉はせめて、と汗腺が集中する腋にだけ、シャツの裾から手を入れた。
 ひと通り気が済んでホッとしていたら、不意に視線を感じてビクリとなる。
「う」
 そういえば雲雀が居たのだと、一時忘れていた人の存在を思い出して、綱吉は座ったまま布団の上を後退した。
「終わった?」
「ひっ、あ、いえ、はい!」
 静かに問われて怯えて叫び、そうではないと自分で自分に突っ込みを入れて訂正する。急に騒がしくなった彼に柳眉を顰めた雲雀は、組んでいた腕を解き、ほら、と着替えとして用意された裏地のついた着物を差し出した。
 膝に載せられてもう逃げられず、綱吉はすっかり乾いてしまったタオルを置いて襦袢を持ち上げた。
 白い木綿の布を顔の前に掲げ、女性向けのワンピースにも似た形状に戸惑いを露にする。
「あの」
「なに」
「これ、どうやって……」
「着た事ないの?」
「浴衣なら、あるんですけど」
 やや侮蔑を含んだ質問に、気まずげにして綱吉は顔を伏した。
 浴衣なら襦袢は着ない。そういえばあの子も、ひとりで着られるようになるまで年単位掛かった。
 深い場所に沈んでいた記憶を掘り起こした雲雀は、脳裏に浮かんだ笑顔に首を振り、うなじを掻いて嘆息した。
「貸して」
 自分から渡したくせに、と差し出された掌を見て綱吉は臍を噛んだ。言葉には出さず、大人しく今し方雲雀から押し付けられたものを全て彼に返す。立ち上がって脱ぐよう言われて、渋々従った。
 シャツを脱ぎ、ズボンもベルトを外して下に落とす。下着一枚となった綱吉を睥睨し、雲雀は襦袢を広げた。
「腕、横に」
「はーい」
 綱吉の裸体を見ても、雲雀は何の反応も示さない。興味ない様子で告げ、綱吉もやる気が無い返事で応じた。
 左から順に袖を通され、腰で細い紐を縛る。余った端を紐に絡めて簡単に外れないよう固定するところで、布越しに擦られたのが少しくすぐったかった。
「……っ」
 声を殺し、黙々と自分を着付ける男を見詰める。雲雀は時々膝を折って姿勢を低くするので、胸元に頭が来た時は旋毛までしっかり見えた。
 十年後の雲雀は、大きかった。背丈だけではない、精神的な面も、綱吉が知る中学生の彼とは随分違っていた。手も、足も、何もかも記憶の中の彼より一回り成長している。背中も。階段一段分だった身長差は、倍以上になっていた。
「はい、終わり」
 腰で貝の口に帯を結んだ雲雀が、トン、と綱吉の肩を押す。危うく前に倒れるところで、惚けていた彼は慌てて右足を前に出して踏ん張った。
 ズボンのベルトよりも、帯の位置が少し高い。それが慣れなくて、綱吉は身体を前後に挟んで撫でた。不思議なことに、思っていたよりも内臓に掛かる圧迫感は薄かった。
「緩めに結んであるけど、苦しかったら言いなよ」
 雲雀の言葉に視線を向け、気遣われたのだと知る。薄紅の衣は女性向けかと思われた、現に雲雀には無いおはしょりがある。
 こんな明るい、可愛らしい色を着せられると、なんだか気恥ずかしい。座るよう促され、裾を気にしながら正座を作ると、無理をしなくて良いと笑われた。
 雲雀の着物ではあるまい、彼にこの色はおおよそ似合わない。ならばいったい、誰が着るのだろうか。
「君のだよ」
「え」
「ああ、……君じゃないけど」
 帯の上から腹を何度も撫でる綱吉に、不意に雲雀が言った。心の声を読み取られて驚いていると、彼が低い声で訂正を加える。それで、綱吉には分かってしまった。
 嗚呼、と相槌を打って揃えた膝に震える両手を重ね合わせる。指を絡めて握り締めると、巻き込まれた袷の表面に皺が寄った。
 絹の肌触りが心地よくて、なんだかとても懐かしい感じがした。そんなわけはないと分かっているのに、着た事があるような錯覚を抱かされる。
 恐らくは着物に染み付いた、この時代の沢田綱吉の匂いだとか、思念だとかに、超直感が反応しているだけだ。実体験を伴わない記憶の共有とでも言うのだろうか、ともあれ不思議な感覚だった。
 袖口を緩く握り、手の大半を筒の内側に引っ込める。おはしょりは、どうやら余ってしまった裾の処理に折り返しただけだったようだ。糸を解いて縫い直す暇などなかったから、袖の長さもそのままだ。
 今の綱吉にはほんの少し、大きい。
「そっか。俺、まだまだ伸びるのか」
「さあね」
「……む」
「君とあの子は、違うから」
 消えてしまった沢田綱吉が進んできた時間と、十年の垣根を越えて現れた沢田綱吉の進む時間は、違う。たどる道は決して同じにはならない。だから背丈も、大きくなるかもしれないし、このままかもしれない。この着物の丈が将来的に違って来る可能性は皆無ではなく、薄紅と蘇芳の袷が作られない未来も充分ありうる。
 時は分岐する。ひとたび選択が別たれた未来は、永劫重なり合わない。
 遠くを見据えて告げた雲雀の言葉の重みを受け止め、綱吉は左右の手を捏ね回した。
 正座を崩して膝で折った足を広げ、ぺたんと布団に尻をつけて楽な姿勢を取る。そんなだらしない座り方も、状況が状況だからと雲雀は見逃してくれた。
「いっ、て」
「夕飯は、なんだったの」
「えー……カレー、と」
 胃の辺り、それよりもっと下。錐で刺されたような痛みが断続的に襲って来て、綱吉は深緑の帯の上から腹を撫でた。背中を丸めて唇を噛み締め、どうにかやり過ごす。
 いがらっぽい喉や、胃のムカつきも変わっていない。気分は優れないままで、出来るなら横になりたかった。
「今、哲が粥を炊いてる」
「食べたくない」
「ダメ」
 夕飯に出たものは、全部平らげた。そして皆が寝静まった晩、消化途中のものも含めて全部吐いて、トイレに流した。
 雲雀やラル・ミルチとの特訓でズタボロで、本当なら食欲なんてあるわけがない。けれど無理をしてでも食べないと、体が持たない。体力をつけるためにも、我慢して食べきる必要があった。
 それに、折角京子やハルが頑張って作ってくれたのだ。味の良し悪しは兎も角として、彼女らの前で食べたくないから要らない、とはいえない。男が廃る。
 意地っ張りな部分を覗かせ、拳を硬くした綱吉の言葉に、雲雀は呆れ顔を作って座を解いた。
「だったら、尚更食べなさい」
「ぐ」
 冷たくぴしゃりと言い、立ち上がった雲雀は摺り足で畳を滑るように移動した。空になった湯飲みを乗せた盆を持ち、襖を横に走らせる。何故分かったのか、ノックがあったわけでも無いのに、そこには畏まって座る草壁の姿あった。
 時代劇の芝居臭い仕草でリーゼントの頭を下げた男が、雲雀から盆を受け取って、交換で湯気立てる手鍋を差し出した。
 小ぶりの角盆に乗り、他にも水差しとコップ、レンゲが一緒になっていた。雲雀は黙ってそれを受け取り、踵を返す。草壁はまたも深くお辞儀をし、中には入らず襖を閉めた。
 言葉に頼らずに意思疎通を果たす両者の間には、深い絆がある。それは、十四歳の綱吉では、どうやっても二十五歳の雲雀恭弥と繋ぎ得ないものだ。
 羨ましいような、悔しいような、複雑な気持ちを押し殺して綱吉は乱れていた掛け布団を引き寄せた。頭から被って達磨になって、食べないという意思を表明する。途端後頭部を叩かれ、タンコブに響いた痛みに綱吉は舌を噛んだ。
 振り向いて酷い、と視線で訴えても雲雀は何処吹く風で、再び膝を折って屈み、良い匂いをする粥の入った小鍋を下に置いた。盆だと思っていたものは、実は四本の足を持つ膳だった。
 漆塗りに一箇所だけ金螺鈿をあしらった、見た目は地味だけれど高そうな一品だ。傷をつけたら大問題だと、鍋に手をつける前から臆してしまう。だが雲雀は気にするようすもなく、被せられていた蓋を外した。
「う」
 内側に篭もっていた湯気が一斉に溢れ出し、一緒になっておいしそうな匂いが周囲に充満した。無意識に喉が鳴って涎が出て、慌てて飲み込んだ綱吉に、雲雀は水差しのコップを差し出した。
「ほら」
「いいです、もう。食欲無いし」
「吐いてもいいから、食べなさい」
「それ、凄く矛盾してます」
 膳ごと押しやられて、綱吉は乱暴な物言いの彼に肩を竦めた。
 雲雀が初めて感情めいたものを覗かせ、眉根を寄せた。気弱な態度を崩さず、命に対してもどこか投げやりな雰囲気を漂わせる綱吉を睨み、コップを下ろすと交換でレンゲを持ち上げた。
 粥の表面に張った薄い膜を破り、米粒の形が損なわれるまで煮込まれた茶粥を少量掬い取る。湯気の量が増えて、綱吉の視界が濁った。
「ヒバリさん」
「無理にでも食べさせるよ」
「だから、要らないって言ってるんです。……どうせ吐いちゃう、勿体無いです」
「吐かなければいいじゃない」
「さっきと言ってることが違う」
「聞き分けが無い子だね」
「誰の所為でこうなったと思ってるんですか」
 力技で口を開けさせ、無理矢理突っ込むのも辞さない構えの雲雀に、綱吉も自然と語気が荒くなった。
 眦を強めて眼前の男を睨みつけ、数秒と経たず横を向いて視線を落とす。握り締められた拳は細かく震えており、噛み締められた唇は土気色をしていた。
 未来に来てから、綱吉は体重が落ちた。元々痩せ気味だったのに、拍車がかかった。食事は喉を通らず、無理をして押し込んでも吐いてもどしてしまう。しかもそれを、誰にも言わない。
 京子たちは慣れないながらも懸命に、綱吉たちの役に立とうとして努力している。栄養価を考えて献立を作り、修行に忙しい男子には肉類を多めに配分していた。
 だが脂っこいものは内臓に負担がかかる。昼の修行、特訓に体力を削り、食事をするにも浪費し、最後は耐えかねて嘔吐。眠りは浅くなり、減った体力は回復しない。そして朝が来て、特訓が始まり、悪循環が繰り返される。
 雲雀は手を抜かない、綱吉がどんなに弱っていても。
 ここで倒れるならば仕方が無い、とでも言わんばかりに。
「僕の所為だとでも?」
 綱吉の、十四歳の綱吉にとっての雲雀恭弥は、こんなにも冷たくない。綱吉を死に追い遣るような真似はしない。
 だから彼は違う人。顔や仕草、声が似ているだけの、別人。
 悲痛な声をあげた綱吉に、それでも感情を乱す事無く、雲雀は淡々と言葉を重ねた。繰り出された質問に、項垂れた綱吉が奥歯を噛み締めた。
「他に誰が」
「違うね」
 徹底的に綱吉を虐め、痛めつける。猛獣が如き雲雀を前に、綱吉は怯え震えるしかない野ウサギに等しい。
 反撃するも避けられ、受け流され、カウンターで攻め返される。こちらは逃げられない。受け止めるだけの構えを作る暇すら与えられない。先だっての指輪争奪戦の際にリボーンから受けた特訓で、人よりちょっとだけ頑丈な身体になったのが逆に恨めしく思えた。
 さっさと気絶して戦線離脱したいのに、打たれ強いばかりに許してもらえない。
 鬼、悪魔、と散々心の中で罵り、認めようとしない雲雀に悪意の念を放つ。
 彼は、くっ、と喉を鳴らして笑った。
「君が弱いから悪いんだよ」
「んなっ」
 未だ雲雀に一太刀も浴びせられずにいる綱吉に、偉そうに言う資格は無い。きっぱりと断言した彼に絶句して、綱吉はこみ上げる怒りに全身を戦慄かせた。
 しかし十四歳の彼に迫力は皆無で、しかも体調不良の真っ只中。すぐに限界が来て、舞い戻ってきた胃痛に呻いた。
 両手で腹を抱えて小さくなった少年に嘆息し、雲雀は幾分冷めた粥を掻き混ぜて、レンゲの中身を落とした。空にしたそれを、強引に綱吉に握らせる。
「要らない、ですってば」
「食べなさい」
「どうせ俺が弱いのがいけないんですよ。俺が、もっと……十年後の俺がもっと強かったら!」
「強かったよ」
「え――」
 十年分の差は、大きい。大人になった雲雀に、子供の綱吉が敵うわけがない。ちょっと考えれば、誰にだって直ぐに分かることだ。
 そしてこの時代の、この悲劇は、沢田綱吉の実力不足に起因しているのではないか。もう何処にも居ない沢田綱吉が、或いはもっと強ければ、事件は未然に防げたかもしれない。大勢の命を守れたかもしれない。
 だのにあの男は、無責任になにもかも投げ出して、死んでしまった。
 雲雀を遺して逝ってしまった。
 綱吉には雲雀の暴力が、八つ当たりにしか思えなかった。いなくなってしまった人の替わりに、自分が彼の怒りを浴びせられているのだと、それ以外に考えられなかった。
 だから、淡々とした雲雀の問答がとても不思議だった。
「強かったよ、あの子は」
 そこで彼は一旦言葉を切り、なにを思い出してか、優しい笑顔を作った。
 この時代に来て初めて見る表情に、綱吉は何故か照れ臭さを覚えて身を引いた。膝をもじもじさせて、体全体を揺らす。
「あの子は、僕なんかよりもずっと、強かった」
「嘘だ」
「本当だよ」
 否定すれば、即座に否定を否定された。
 右膝を立ててそこに腕を置いた雲雀の視線が、此処ではない場所に向けられる。その切ない眼差しを傍らで眺めているうちに、彼の表情が変化した理由を感じって、綱吉は嗚呼、と頷いた。
 今、雲雀の前にいるのは、十四歳の過去から来た綱吉ではない。
 彼は共に十年という時を過ごした、もうひとりの沢田綱吉を見ているのだ。
 憎らしく思えてしまう。だけれど、自分も同じだ。綱吉は此処にいる雲雀に、十年前に置き去りにしてきた雲雀に対して程強く出られないし、甘えられない。どうしても距離を感じてしまう。臆病になる。
 触れてはいけないような気がして、手を伸ばせない。
「俺が、ダメツナが、ヒバリさんより強いなんて、そんなわけ、ないのに」
「僕が言うのに信じられない?」
 なにをやってもダメダメの、ダメツナ。運動はからっきし、勉強はいつだって最下位、仔犬に吼えられただけでも腰を抜かし、忘れ物は毎日のように。頼まれたら断れず、けれどダメダメだからいつもみんなの希望を叶えられない。
 誰からも期待されない。誰にも望まれない、求められない。要らない人間なのだと、ずっと思っていた。
 リボーンが押しかけて来て、獄寺が転校して来て、山本と親しくなって、京子やハルとも普通に話せるようになって。
 振り向かせたい人が出来た。
 憧れを抱くだけで、手が届くわけがないと決め付けていた人に、偶然指先が触れた。捕まえたくなった。腕を伸ばした。握り締めた。振り向かせた。見詰めて、見詰め返された。
 手が、繋がった。
 けれど、違う。
 この人は、綱吉と手を結び合った人ではない。
 雲雀の言葉ならどんな嘘でも信じた、けれど彼は、「綱吉」の「雲雀恭弥」ではない。
「……はい」
 納得がいかない顔で頷けば、何故か雲雀は苦笑した。
「憎らしいほど、そっくりだね」
「む」
 基本は同じ人間なのだから似ているのは当然だと言いそうになって、寸前で綱吉は思いとどまった。
 それを言ったら、この雲雀を「雲雀恭弥」と認めることになる。それは悔しくて、嫌だった。
 自分が好きな人がこんな大人になるなんて、思いたくもない。
 唇を噛み締めてへの字を作った綱吉に目を眇め、雲雀はこれ以上冷めないようにと、鍋に蓋を被せた。レンゲの分だけ隙間が出来るが、それは気にならないらしい。どうせいつかは冷めるのだと、綱吉も視線の片隅に見て頬を膨らませた。
「あの子は、強かったよ。怖いもの知らずで」
「……そんなの、嘘だ」
 膝で拳を作り、綱吉はそっぽを向いたまま反論した。
 自分の事は、自分が一番良く分かっている。綱吉は基本的に、怖がりだ。
 骸との戦い、ザンザスとの死闘、雲雀との特訓。どれを思い出しても、震えが止まらない。
 長着の上から肩を抱いた綱吉にちらりと目を向け、雲雀は腕を伸ばした。指の背で頬を撫でられ、押されて顔をあげた彼は、いつになく優しい瞳が自分を射ていると気付いて息を呑んだ。
 勝手に赤くなる顔を見られたくなくて、慌てて俯く。雲雀の手は、触れた時同様、気まぐれに離れて行った。
「あの子に訊かれた事がある。怖いものはあるか、と」
 温もりが遠ざかり、綱吉の視線が持ち上がる。追いかけた指の先、寂しげに微笑む雲雀から今度は目が逸らせなかった。
「僕はある、と答えた。そして僕も、同じ事をあの子に尋ねた。そうしたらあの子は、そんなものは無い、だって」
「そんな」
「僕も嘘だと思った」
 いつもの強がりだと思って馬鹿にしたら、大真面目に反論された。怖いものなんか何も無い、大丈夫、なにも怖くない。
 だから怖がらなくても良い、とさえ。
「ヒバリさん」
「気付かれていたね、あの子に。僕がなにを恐れていたか」
 空っぽの掌を見下ろし、雲雀が自嘲気味に囁く。自分に向かって放たれた言葉ではない、独白に近い呟きに背筋を伸ばし、綱吉は彼に向かって手を伸ばそうとした。
 けれど肩が上がらない。膝に指が張り付いて剥がれなかった。
 もどかしさに打ちひしがれ、綱吉が大粒の琥珀を見開く。上唇を噛み締めている彼を見やり、雲雀は笑った。
 寂しげに微笑んだ。
「だからもう、僕にも、無いんだ」
 ぽとりと零れ落ちた言葉の欠片に、雲雀の姿が歪んだ。
「あ、れ……」
 レンズ越しでも、ガラス越しでもないのに何故、と思って綱吉が掌を上向ける。落ちて砕けた雫の意味を悟ると同時に、溢れ出るのを止められなくて、彼は呆然と、指の背を伝い落ちるものを見送った。
 琥珀を潤ませ、涙で色を滲ませている少年を見詰め、雲雀が困った様子で優しく微笑んだ。
「君が泣いてどうするの」
「だ、って」
 自分だって訳が分からない。擦っても、堰き止めても、目尻から次々の零れていく。止める術など思いつかず、しゃくりをあげ、綱吉はみっともなく鼻水を垂らした。
 音を立てて息を吸い、引き結んだ唇の隙間から吐き出す。ふたりの間に置かれた粥はすっかり冷めて、湯気は完全に消えてしまった。
「そん、な、の……嘘だ」
 怖いものが無いなんて、ありえる筈がないのに。
 綱吉は、此処に居る十四歳の沢田綱吉は、それこそ怖いものだらけだ。
 平々凡々な日常を送っていたのに、いきなり自分をマフィアの後継者にすると押しかけ家庭教師の赤ん坊が現れてから、彼の世界は一変してしまった。
 成績最下位、友人と呼べる存在もおらず、パシリに利用される毎日。不満は多かったし、楽しくもなかったけれど、少なくとも逆らわなければ暴力を振るわれることもなく、痛い思いをする事もなかった。
 ザンザスに、お前に十代目を継がせない、と宣告はしたが、自分がその席に座る気は今現在も、あまり無い。マフィアなんて絶対に御免だし、誰かを傷つけて、哀しい思いをさせてまで、金儲けに走りたいとは思わない。
 だから正直なところ、十年後の世界に来て、自分がボンゴレ十代目を名乗っていたことに些か驚いた。
 綱吉は死ぬのが怖い。
 何故この時代の沢田綱吉は、話を聞く限り簡単に、呆気なく、鉛弾などで死んでしまったのだろう。恐ろしくなかったのだろうか、己の死を。
 それによって引き起こされるだろう数多の不幸を、なんとも思わなかったのだろうか。
「嘘だ。嘘だよ!」
 今の雲雀は、到底幸せそうに見えない。逆だ、とても辛そうに見える。表面上は穏やかなフリをしているけれど、心の中は深い闇に包まれて、哀しみに満ち溢れている。
「なら、君は……なにが怖いの」
 長くしなやかな指が宙を泳ぎ、綱吉に触れた。はらはらと流れ落ちる涙を逆に辿り、睫を弾いて離れていく。舞い戻って、広げられた掌が頬を包み込んだ。
 綱吉は咳き込み、しゃくりを上げ、唇を震わせて俯いた。弱く首を振り、それでも離れて行かない手の熱に安堵して、ほうっと息を吐く。恐る恐る持ち上げられた右手が、雲雀の左手に重なった。
 爪を立てて握り締められ、雲雀は微かな痛みに肩を竦めた。
「おれ、は」
 ボンゴレを壊滅間際まで追い込んだミルフィオーレの白蘭は、怖い。
 こんな世界に自分たちを送り込んだ元凶である入江正一の、目的不明の行動が空恐ろしい。
 リボーンを含む、最強と呼ばれた七人の赤ん坊ことアルコバレーノを死に追い遣った怪異も、原理が分からないとい点で、見えない不安として胸中にこびり付いている。
 この時代の両親がイタリアで行方不明になり、以後の情報が一切入って来ないのが辛い。山本の父親が既に亡き人となっている事実には愕然とさせられた。
 大勢が、綱吉に関わったというだけで命を奪われ、危険に晒されている。
 勝てるのかという不安、勝たなければならないという重圧。歴代ボンゴレから託された思い、責任の重さがずっしりと双肩に圧し掛かって潰されそうだ。
 京子とハルを無事に元の時間に送り返したい。戦う術の無い彼女らや、まだ幼いランボとイーピンを守り通さなければいけない。クロームの容態も気に掛かる、ビアンキと仲違いをしたままの獄寺も心配だ。
 ひと通り並べ立て、息継ぎを挟んだ綱吉を見据え、雲雀は彼の頬から手を引き剥がした。追い縋って来る手を解き、離れるのを嫌がって足掻いたその手を逆に握り締めてやる。
 顔をあげた彼の瞳に、新しい涙が浮かんだ。
「終わり?」
 抑揚に乏しい声で問えば、彼は声もなく咽び泣いた。俯いたまま首を振り、蜂蜜色の髪の毛を揺らす。喉元まで出てきている声を懸命に堪え、唇を開閉させて酸素を掻き集め、大きく鼻を啜り、繋いだ手にもう片手を覆い被せる。
 肩を上下させ、嗚咽を押し殺し。
「……いっ」
 今までの言い訳がましい詭弁をかなぐり捨てて、彼は呻くように言った。
「会いたい!」
 血が滲むような声で叫び、記憶よりもずっと大きい雲雀の手を握り締める。皮膚を裂くまで爪を立て、引っ掻き、押し殺してきた感情をそこに全部ぶちまける。
 怖い。
 このまま彼に会えないで終わるのが怖い。
「会いたい。ヒバリさんに、俺のヒバリさんに会いたい!」
 今此処に居る雲雀恭弥ではなくて、まだ中学生で、スーツではなく学生服を着て、風紀財団ではなく風紀委員長で、前髪は長くて幾らか幼さが残る顔立ちをしていて、我が儘で自分勝手で、強引で気に入らないとすぐに暴力をふるって。
 我が強くて俺様で、綱吉なんかまるで眼中に無いと思わせておいて、意外にしっかりと人の事を観察していて。
 ヤキモチ焼きで、時々びっくりするくらいに甘えて来て。
 彼の強さは憧れだった。真っ直ぐに伸びる背筋、揺るがない心、絶対に誰にも負けないという自尊心の高さ。妥協しない一途な精神、皆を惹き付けて止まない大きくて広い背中。
 彼のようになりたいと思った。自分が戦わねばならない状況に追い込まれた時、彼を標にした。彼のように戦えば負けないと、勇気づけられた。
 雲雀恭弥に会いたい。
 あの人に会いたい。
「嫌だ。会いたい、会いたい……ヒバリさんに会いたい」
 頭を垂れ、其処に在る人に縋る。彼の長着の色を点々と濃くして、綱吉は引き裂かれそうな心のありようを叫んだ。
 彼に会えないのは寂しい。切ない。傍に居て欲しいのに、近くに居ない。もう会えないかもしれないとさえ考えて、気が狂いそうになった。
 手を解き、彼の袖を掴む。腰を浮かせて厚い胸倉に飛び込み、綱吉は堪えきれずにわんわんと声をあげて泣いた。
 雲雀が短く息を吐く。己に身を委ねる小さな存在を支える人の幻を暗がりに見て、彼は微笑み、細かく震えている綱吉の背をぽんぽん、と撫でてあやした。
「君は、雲雀恭弥が好き?」
 改めて問うのも変な気がしたが、聞かずにいられなくて雲雀が唇を開く。聞こえて来たあまりにも当たり前すぎる疑問に、綱吉は泣きながら、馬鹿にするなと怒って彼の膝を叩いた。
 両腕で背中を抱き締められ、引き揚げられる。膝に座らされて、綱吉は一瞬面食らった。肘を叩かれ、軽く抱き締められる。
「好き?」
 言葉で答えを欲しがる彼の声を耳元で感じ取り、耳朶を擽る呼気に背中が慄いた。
 この人は違うと分かっていても、心が震える。仕草や息遣いに小さな共通点を見つけ出す、その度に胸が熱くなった。
 彼の肩に額を擦りつけ、頷いて返す。
「……好き、です」
「いつから?」
「そんなの、わかんない」
 気がつけば好きになっていたのだ。憧れが恋心に切り替わるのに、いったいどんな理由が必要だろう。
 遠い高みに居る人に手が届きそうだと分かった瞬間、居ても立ってもいられなくなった、ただそれだけだ。
「好きです。好き……ヒバリさんが好き。大好き。会いたい、今すぐ会いたい!」
 強すぎる想いが、綱吉を押し潰す。孤独を増幅させる。大人となった雲雀の腕に抱かれていても、心に開いた穴は塞がらない。
 苦しげに胸の内を吐露する綱吉の背中を優しく撫で、雲雀はそうっと瞼を閉じた。
「有難う」
 綱吉の言葉でようやく確信が持てたと、彼とは対照的に安らいだ表情をして、雲雀は呟いた。
 聞き取れなかった綱吉が身を捩り、顔を上げる。間近に見た青年は、十代の雲雀の面影を残しながらも、矢張り綱吉が知る彼とは違う人だった。
「その言葉が聞けただけで充分だ」
 夢に見た思い出の中、繋いだ手。どんな時間を通り過ぎたとしても、どの未来に辿り着いたとしても。綱吉は雲雀と出会い、雲雀は綱吉を知り、お互いに惹かれあい、結ばれることだけは変わらない。
 だから大丈夫。
 どんな出会い方をしても、どんな過ごし方を経ても、綱吉は雲雀に恋をする。
 変わらない。
 その未来だけは、違えない。
 それが分かってさえいれば、怖いことなど、なにもない。
「ねえ、沢田綱吉」
「……ヒバリさん?」
「君に予言をあげる」
 穏やかな笑みで、穏やかな声で、この世で最も愛しい人の名前を刻む。彼の変化に不安を抱き、綱吉は背筋を伸ばした。
 紡ぎだされた言葉の意味を取りあぐね、怪訝に眉根を寄せる。上目遣いに見詰めてくる琥珀を覗き込み、触れかけた唇を避けて、彼は小ぶりの鼻にそっとくちづけた。
 肩を強張らせた綱吉が咄嗟に目を閉じる。前髪を梳きあげられて、額が露になった。白い肌に残る無数の傷跡を、雲雀の指は労わるように辿っていった。
「よげ、ん?」
「うん」
 現実主義者の雲雀にはおおよそ似合わない言葉で、鸚鵡返しに問うた綱吉に頷き、彼は目を細めた。
「会えるよ」
「え?」
「じきに、君の雲雀恭弥に会える。必ず、そう遠くない未来に」
「……待って。それって、ヒバリさん」
「ねえ、沢田綱吉。覚えておいて」
 十年前の雲雀が来るという事は、此処に居る雲雀と入れ替わるという、そういう事だ。それだけならば諸手を挙げて歓迎を表明するのだが、言葉尻から不穏なものを感じ取って、綱吉は瞠目した。
 言わせてはいけない気がするし、入れ替わらせてもいけない気がする。
 待ってくれと訴えかけようとしたのに、唇が弛緩し、音は放たれなかった。
「僕はいつだって、君の隣にいる」
 頬を撫でる手の大きさに、魂がさざめく。涙を止めて目を見開く綱吉に微笑み、彼は。
「好きだよ、沢田……つなよし」
 たったひとり大切な、愛くるしい人の名前を呼んだ。

 予想していなかった敵襲に、ジャンニーニの焦る声が鼓膜を打つ。雲雀恭弥がひとりで向かったという報告に、綱吉は唇を噛み締めた。
 大丈夫。
 心の中でしきりに繰り返し、自分に言い聞かせて彼は走った。
 大丈夫。
 あの人は、大丈夫。
 あの人に怖いものはない。
 だから綱吉も、彼を信じる。怖くなんか無い。
『じゃあ、俺も、……俺も、ヒバリさんに予言します』
 一頻り泣いて幾らか気分もスッキリして、赤く腫れた瞼を擦った綱吉は身を起こして小さく笑った。
『へえ?』
 興味深げに雲雀は片方の眉を持ち上げた。その意地悪な視線に微笑み返し、刹那的な生き方を選ぼうとしている彼に釘を刺す。
 大丈夫だよ、と。
 可能性の分だけ無数に分岐した世界があるとしても、ひとつだけ揺るがないものがある。存在し得ない世界がある。
『ヒバリさんも、会えます』
 沢田綱吉は必ず雲雀恭弥に出会う。
 雲雀恭弥は、必ず沢田綱吉とめぐり合う。
『会えます。また、俺に……沢田綱吉に、会える。俺は、帰ってきます』
 どんな出会い方をしても、どんな関わり方を経ても。
 ふたりは必ず互いに惹かれ、同じ思いを抱き、手を伸ばす。
 指を絡め、繋ぎ合わせる。
『だから、ヒバリさん』
『なに』
『……死なないで』
『死なないよ』
 彼は笑っていた。楽しげに、嬉しげに、心の底から。
『僕は君を、光に満ちた世界に連れ戻すまでは絶対に、死なない』
 シャッターが開く。外に通じる道が開かれる。
 約束を果たさんと先頭を切り、綱吉は仄暗き地下世界から駆け出した。

2009/08/08 脱稿