Design

 墨を塗りたくったような一面の闇が天頂を覆い、疎らな星がどこか遠慮がちに空を泳いでいた。
 月は無く、静寂が満ちている。空気は凛と冷えているものの、肌を刺すような鋭さは持たず、欠伸が出そうな速度の風が、呑気に木立を揺らしていた。
 深く、ある種の気高さを持つ夜の暗がりに、不謹慎なほどに眩い光が古城の窓から細く零れ落ちる。分厚いカーテンに遮られた荘厳な、それでいてかなりの悪趣味さが窺えるおどろおどろしい城も、外見に反して内部は驚くほど近代化されて、様々な機器が所狭しと並べられていた。
 無論、優雅に時を過ごすに値する家具類も充実している。城で最も広い間取りのリビングには、およそ人の一生で稼ぎきれる額を遥かに飛び越えるような値を持つソファやテーブルが、無造作に置かれていた。
 シャンデリアに灯る明かりがキラキラと踊っている。流れる音楽は穏やかで、無駄なリズムは一切混じらない。日頃自分たちが歌うのとはまるで正反対の楽曲であるが、たまには趣向の違うものを耳にしなければ、傾向が一辺倒になりがちで面白みに欠けると自覚している。だからこういう曲に耳を傾けるのも、音楽活動を続けていく上で重要な時間といえた。
 柔らかなソファにゆったりと腰掛け、寛いだ姿勢で心穏やかに過ごす。気まぐれに右手に持ったワイングラスを揺らしては、血のように赤い液体で喉を潤して、彼はひとり、充実した時を楽しんでいた。
 のだが。
「ユ~リ~」
 管弦楽の優しいメロディーに紛れ込んだ、無粋な声。間延びして、明らかに猫なで声と分かる声色を使い、背後に忍び寄る影があった。
 二秒後、がばっと左右から、ソファごとユーリを抱き締める腕が伸びた。白い包帯で隙間なく包まれた二本の腕が、華奢な肩を掴んで首に回された。
 背中にも軽い衝撃を浴びて、ユーリは鬱陶しげに閉じていた瞼を持ち上げた。鮮やかなルビーの瞳を幾らか煙らせ、不機嫌極まりない表情を作り出して唇をへの字に曲げる。
 険のある目つきで己の手元を先ず見やり、狭いガラスの檻で大きく波打つワインに舌打ちする。その後深々と溜息をついた彼は、自由の利く左手を持ち上げて肘を捻り、肩越しに人の顔を覗き込もうとしている男の額を、手探りで殴りつけた。
 無理のある体勢だったので、そう痛くは無かったはずだ。しかし身を引かせるには充分で、するりと逃げていった両手を追いかけ、ユーリは白い包帯まみれの男を振り返った。
 とはいえ、彼は別段全身大怪我をしているわけではない。
 なにも包帯でなくとも、身体に密着させる布なり、なんなりがあれば、それで事足りるのだ。ただ単純に、透明人間には包帯がつきものだからと、大昔の小説を模しているだけに過ぎなかった。
「なんだ、スマイル」
 上機嫌に笑う、青白い顔の男を視界に入れ、ユーリは残り僅かになっていたワイングラスをテーブルに置いた。優雅に組んでいた脚を解き、空になった両手を腰元で結び合わせる。ソファから立ち上がる気配が無い彼に、スマイルは癖のある笑い声を零し、ソファを右から回り込んだ。
 艶を持ち、黒光りする先の細い靴がぎりぎり届かない距離を保って、彼は床に直接腰を下ろした。右目は包帯と濃い藍の髪に隠れて見えない。露になっている左眼は、ユーリとはまた彩が違う丹の色だった。
 何が楽しいのか、彼は常に笑みを浮かべていた。昔から人をからかうのが好きで、透明人間という事もあり、誰かを驚かせるのが得意な道化師でもある。ユーリがリーダーを務めるバンドのベースを担当しており、付き合いはそこそこ長い。
 七分丈のシャツに、あちこち擦り切れてボロボロのジーンズを合わせ、足元は素足。ただし白い包帯に覆われているので、完全な裸足とは言いがたかった。
「えっとネ。ちょ~っと、お願いがあるんだケド」
 ニコニコと無邪気に微笑み、胡坐を崩して膝からユーリににじり寄る。瞬間、まだ幾らか穏やかだったユーリの表情が険しさを増した。
「断る」
「まだ何も言ってないじゃナイ」
「だが、断る」
 きっぱりと、内容を聞く前に拒否を表明した彼に、スマイルは子供のように唇を尖らせた。頬に溜め込んだ空気を一気に吐き出し、話くらい聞いてくれても良いではないかと訴えるが、まるで相手にしてもらえない。
 ツンと鼻筋を立ててそっぽを向いたユーリは、膝立ちで距離を詰める男を横目で睨むと、長い溜息を吐いて銀糸の髪を掻き上げた。
 サラサラと指の隙間から逃げていく髪を目で追い、ソファ近くで座り直したスマイルが、露骨に拗ねた顔をして拳で床を叩いた。
 丁寧に磨かれた飴色の床板が軋んだ音を立て、ハープの奏でる壮麗な音楽の邪魔をする。折角ひとり気ままに過ごしていたのに、彼の登場ですっかり台無しだ。
「ユーリってば」
「どうせお前の頼みごとなど、一緒にギャンブラーZの映画を見ようだとか、そんな類に決まっている」
 腕を伸ばし、人の膝を叩いて注意を呼び寄せながら、スマイルはしつこくユーリにねだった。しかし彼は一蹴し、まるで寄せ付けない。
 払い除けられた手を胸に庇い、スマイルは勝手に決め付けるなと頬を膨らませた。
「なんだ、違うのか」
「ウゥン、それもあるけど」
「なら、お断りだ」
 一旦浮かせた背中をソファへ戻し、足元に蹲るスマイルを牽制して彼は爪先を泳がせた。
 大きく弧を描かせて脚を組み、僅かに高くなった膝に両手を添える。背筋は伸ばして威圧的な姿勢を作った彼に、スマイルは唇を尖らせて不貞腐れた表情を作った。
 蹴られるのは嫌なので、渋々最初に座った地点まで戻る。両足を横に広げて、踵で床を太鼓のように打ち鳴らし、会話の邪魔にならない音量で流れる楽曲を悉く上書きした。
 眉間の皺を深くしたユーリが睨み下ろすが、今度は彼がぷいっと顔を逸らして反抗的な態度を取った。
「スマイル、五月蝿いぞ」
「ユーリの、ケチ」
「用が済んだのなら、さっさと何処へでも好きな場所へ行け。邪魔だ」
「聞こえませ~ん」
 両手で耳を塞ぎ、首を振って生意気な事を言い放つ。日頃から出来るだけ怒らないように心がけているユーリも、そろそろ堪忍袋の緒が切れそうだった。
 頬の筋肉を若干痙攣させ、握り拳を宙に浮かせた彼を横目で見やり、スマイルはようやく足を真っ直ぐ伸ばして太腿を両手で抱え込んだ。
 踵を寄せて膝を立て、そこに凭れ掛かる。身体を前後に揺らし、時折ユーリを盗み見てはボソボソと口の中で文句ばかりを呟いた。
「ユーリの意地悪」
「今に始まったことではないだろう」
「ユーリの偏屈」
「悪かったな」
「ユーリの馬鹿」
「お前に言われたくはない」
「トウヘンボク」
「それはお前だろう」
「分からず屋」
「もっと有意義な意見ならば聞いてやろう」
「我が儘」
「どっちが」
 それを逐一やり返し、ユーリは喉の奥で笑いを咬み殺した。
 淡々と交わされるこういう会話は、嫌いではない。切れ目の無いやり取りは、ユーリの言うような有意義なものとは程遠いものの、慣れ親しんだ相手との気負わない時間も大事だと、言葉にはしないが心では認めている。
 それが不意に途切れて、静かな音楽だけが背景を行くようになって、彼はおや? と首を傾げた。
 左膝を横倒しにし、残る右足に頬杖を作ったスマイルが、面白くないと吐き捨てた。
「あーあぁ」
 これ見よがしに盛大な溜息を吐き、ズボンの埃を軽く叩き落として立ち上がる。視点を低い位置から高い位置へ移し変え、ユーリは急変した彼の態度に顔を顰めた。
「もういいヨ」
 ガシガシと乱暴に癖のある髪を掻き回し、遠くを見据えたスマイルがぼそりと言う。強固なユーリの態度に痺れを切らし、諦めの境地に入ったというのが、そこから窺えた。
 素っ気無い口調は笑顔溢れる彼からは想像つかず、背筋が薄ら寒くなってユーリは無意識にソファへ爪を立てた。
 飲みかけで放置されたグラスが、シャンデリアの眩い光を反射して淡く輝いている。掛けっ放しのレコードは次の曲へ移り、幾許かテンポを速めたメロディーラインがふたりの心を擽った。
 怒らせてしまったと後悔しても、時既に遅い。会話は相手がいればこそ成立するものであり、ユーリは楽しめても、スマイルが必ずしも同じ気持ちでいるとは限らない。
 せめて最初の申し出くらい、きちんと聞いてやればよかった。ひとりきり、闇を褥に過ごす息苦しさは痛いくらい知っているというのに。
 少しの気まぐれと悪戯心から、スマイルの気持ちを蔑ろにしてしまった。見開いた目を伏し、俯いたユーリを眺め、スマイルは両手を腰に当てて遠くへ目を遣った。
 沈黙する大型テレビ、意識の片隅を絶えず刺激する優美な音楽。窓の外、カーテンの隙間から覗く空は一面の闇だ。そこだけを見ていると、まるで時間から切り取られた海の底にいる気分になった。
「チェっ」
「スマイル」
「せーっかく、良いワインが手に入ったから、ユーリと一緒に飲もうカナ、って思ってたのにな」
「え?」
「ユーリは要らないみたいダシ。勿体ないけど、アッシュ君と一本空けちゃおっと」
 自分の非礼を詫びようと身を乗り出した彼を制し、スマイルはまたも唐突に声のトーンを変えた。
 低音から、高音に。一オクターブは確実に違っている。いつもの、飄々として考えている内容を誰にも悟らせない、ペテン師の口調だった。
 腰を捻って振り向いたスマイルが、にやりと意味深な笑みを浮かべる。ヒヒヒ、と喉を擦らせる独特の笑い声で、変わり身の早さに呆気に取られているユーリの前で肩を揺らした。
 五秒と瞬きひとつ分の時間を経て、ユーリがハッと肺の中に溜め込んでいた息を吐いた。
 騙された。
「スマイル!」
「だーって、ユーリってば酷いんだモン」
 思わず立ち上がって怒号を上げれば、足を踏み鳴らしたスマイルがそれを上回る大声で叫んだ。
 折角人が話しかけているのに、聞きもしない。無碍にあしらわれて気分が良いわけがなく、少しくらい仕返しをしても許されるはずだ。
 拗ねたのも、怒ったのも、素っ気無くしたのも、全て演技。見事に騙されたユーリは、悔しいやら、情け無いやらで至極複雑な顔をして、空っぽの両手で何度も空気を握りつぶした。
 呵々とひと際楽しげに笑い、溜飲を下げたスマイルが隻眼をスッと細めた。
「で?」
「……なんだ」
「どうするノ?」
 意地悪い笑みを浮かべ、肘でユーリの脇を小突く。したり顔の彼に素直に頷くのは悔しくてならず、ユーリはテーブルに残していた赤ワインのグラスを手に取った。
 ひとくちで飲み干し、空になったそれを彼に向かって突き出す。
「色は?」
「白」
「つまみはあるんだろうな」
「アッシュ君に頼んであるよ~」
 その辺は抜かりが無いと喉を鳴らし、彼はもう一度、探るような目でユーリの顔を覗き込んだ。
 平らなグラスの底でその額を叩き、ユーリも負けじと口角を持ち上げて彼を笑ってやった。
「それで? 代償はギャンブラーZ鑑賞会か」
「大当たり」
 さすが付き合いが長いだけあって、よく分かっている。
 拍手と共に賞賛の言葉を贈られたがあまり嬉しくない。だがひとりで飲み明かすよりは、賑やかに大勢で、騒がしく過ごす方がずっと面白い。
「ひとりの夜も、いい加減飽きたことだしな。仕方が無い、付き合ってやろう。有り難く思え」
「ハイハ~イ」
 偉そうな物言いにも気を悪くする様子なく、スマイルは嬉しそうに相好を崩して彼から空のグラスを受け取った。底に残っていた赤いひと滴を揺らし、傾けて縁から滴らせる。
 意地汚く舌を伸ばした彼にユーリは肩を竦め、早く用意するよう急かして包帯だらけの頭を殴り飛ばした。

2009/04/27 脱稿