薄羽蜻蛉

 ジージージー、と蝉の声がする。
 頭の中で延々と反響する夏の風物詩は、もしかしたら熱にやられた脳が引き起こした幻かもしれない。だって、そうではないか。気温三十五度を越える炎天下の中、蝉がこんなにも元気良く大合唱するわけがない。
 犬のように舌を出し、ぜいぜいと息をする。それだけでも額には玉の汗が滲み、こめかみから頬を伝って首へと滑り落ちていった。
「あっつぃ……」
 壁時計は午後二時を指し示していた。一日のうちで、最も暑い時間帯である。
 空は恨めしいほどの青空が広がって、太陽は満面の笑みで地表を照らす。これを遮り、雷雨をもたらす入道雲は、ただ今別の町に出張中だ。
 もっとも、この暑さだ。多少の雨が降ったところで湿度があがり、不快指数が増すだけに終わりそうだ。のみならず雨を避けて窓を閉めれば室内は密閉されてしまい、熱気が篭もってさぞや暑苦しかろう。
 想像したら益々体温があがって、全身の汗腺が一斉に開いた。腋からも大量の汗が滲み、着ているシャツの大部分はとっくに色を変えていた。
 窓とドアを全開にして、風の通り道を作ってはいるけれど、肝心の吹く風は悉く熱波だ。涼をもたらすどころか、汗ばむ肌には毒にしかならない。
 シャツの襟刳りに指を入れて引っ張り、手で扇いで風を作るが、それも温い。咥内は乾く一方で、どれだけ唾を招いて飲み込んでも追いつかなかった。
「駄目だ、死ぬ」
「死なないよ」
「死ぬ。絶対に死ぬー!」
 ぼそり呟き、綱吉はついに力尽きてテーブルに突っ伏した。両手を投げ出し、其処にあったものを反対側へと押し出す。教科書やノート、辞書といったものがごっそり床に落ちて、一瞬舞い上がった埃に、向かいに座る青年は眉間の皺を深めた。
 幸いにも、中央にあったコップふたつは無事だ。片方はほぼ空で、もう片方にはまだ半分程麦茶が残されている。角が丸くなった氷も幾つか、水面近くに浮かんでいた。
 綱吉が動いた余波で、カラン、とひとつ、氷がグラスにぶつかる涼しげな音が響く。それで顔をあげた彼は、楕円に歪んだ視界の先で平然と佇む青年を睨み、また額をテーブルに押し当てた。
「暑い」
「そうだね」
 紙を捲る音が静かに響いて、即座に相槌が返される。その口調が、言っている内容にまるでそぐわなくて、心が篭もっていない、と綱吉はひとりごちた。
 そんなぶつぶつ愚痴を零す彼をテーブル越しに眺め、雲雀は小さく肩を竦めた。
 冷房使用禁止令が出ている沢田家の夏は、兎に角暑い。寝入り端の短時間ならばスイッチを入れるのを許されるが、日中は基本的に扇風機か、団扇のみ、使用が許される。昼間から使っていると電気代が高くつくのも当然ながら、冷房に慣れすぎるのは健康に良くない、という理由からだ。
 奈々の気持ちは痛いくらいに分かる。むしろ痛すぎるくらいだ。
「あちぃ……死ぬ」
「死なないよ」
「嘘だー、このまんまじゃ絶対に焼け死ぬー」
 両手を伸ばしたまま、床に倒した足をじたばたさせて騒ぐ綱吉にそっと嘆息し、雲雀は読んでいた本を下ろした。ページの目印として栞を挟み、閉じてテーブルに置く。空になった手はそのまま前に滑り、綱吉同様、いっぱいに汗をかいているグラスへと伸ばされた。
 氷の弾ける軽やかな音が、瀕死状態の少年の鼓膜を打つ。ハッとして顔を上げ、彼はだらしなく口を開けて目の前で展開される光景に見入った。
 茶色の液体が波打ち、グラスが緩やかに傾けられる。円い底を伝った雫がぽたり、表紙カバーのない文庫本に落ちた。
 濃い橙色の表紙の一部分が、黒っぽく染まった。しかし雲雀は全く気に掛ける様子なく、綱吉とは違って逞しい喉仏を上下に揺らし、まだ辛うじて冷たさが残る麦茶を体内に送り込んだ。
 グラスに半分だったものが、四分の一になった。
 水中を漂っていた氷が重なりあい、水面を突き破って顔を出して涼しげな艶を放つ。ただの水を冷やし固めただけのものなのに、至極の宝石のように見えて、綱吉は無意識に喉を鳴らした。
 雲雀はグラスを握ったままテーブルへ戻し、左手で濡れた唇を拭った。そうして彼は、依然突っ伏したまま視線だけを前向けた少年が、非常にゆっくりと手を動かし、拳を解いて指を蠢かすのを見て、サッと麦茶を空中に浮かせてしまった。
「これは僕の」
「いーやー!」
 ばれたと知るや、綱吉は開き直ってガバッと身を起こした。
 不満顔を作った雲雀を睨みつけ、ギギギ、と奥歯を噛んで十秒後、力尽きてまた倒れこむ。今度は横に、テーブルよりは幾らか冷たさが保たれているフローリングへと。
 あまり頻繁に掃除をしていない部屋なので、そちらも大概埃まみれなのだが、綱吉は形振り構おうとしなかった。この暑さが少しでも軽減されるのなら、素っ裸になるのもなんら苦にならない。
 もっとも雲雀が居る手前、そこまでするのは憚られた。
「うぅ……」
 恨めしげに雲雀を見上げ、直ぐに自分の体温を吸って温くなってしまった床を拳で殴る。襟足に張り付く髪の毛を鬱陶しそうに掻き上げ、彼は仰向けに姿勢を替えた。
 様々なものが散乱し、綺麗とは言いがたい空間に大の字に寝転がって、目を閉じる。
 浅い呼吸を繰り返して、薄い胸がシャツと一緒に上下するのを眺めながら、雲雀は手にしたグラスをカラカラと回した。
 もう一度口に添えて傾け、残っていた液体を咥内へ招き入れる。期待の眼差しが低い場所から投げかけられるが、それをさらりと無視し、喉を鳴らして全て飲み干した。
「むー」
「取りに行けばいいじゃない」
 氷だけになったグラスを顔の前で揺らし、雲雀は相好を崩した。
 此処は綱吉の家なのだから、飲みたければ台所に行って自分で用意すれば良い。冷凍庫から氷を、冷蔵庫から冷えた麦茶を出して、コップに注ぐだけだ。トータルしても、さして手間は掛かるまい。
 だのに綱吉は頬を膨らませ、不満を露に雲雀に向かって口を尖らせた。
「今すぐ欲しいんです」
 ランボが駄々を捏ねる時みたいに、今度は両手両足をじたばた動かして音を響かせる。暑さで相当参っているらしい、普段はあまり我が儘言わない彼なのに、今日はエスカレートするばかりだ。
 こんな状態では夏休みの宿題を終わらせるなど、到底不可能だ。綱吉を起きあがらせるべく、しかし自分は座ったまま近付こうとはせず、雲雀はパイプベッドのフレームに凭れかかり、テーブルから零れ落ちた参考書を拾って放り投げた。
 突然の事に驚いた綱吉が、素早く首を動かして直撃を避けたが、続けざまにもう二冊飛んできて、流石に最後のノートは躱しきれなかった。
 コーン、と角が額にぶつかって、小気味の良い音が響いた。
「ふごっ」
「ナイス」
 後頭部から床に激突した綱吉を笑い、投げた体勢のまま雲雀が拳を作る。人の不幸を嘲笑う声色に頬を膨らませ、綱吉は腰から上だけ見える彼を睨み付けた。
「酷いです、ヒバリさん」
 文句を言うと、肩を竦められた。
「そう思うなら、さっさと終わらせなよ」
 彼が此処に居る理由は、ビアンキと夏のバカンスに出かけたリボーンに頼まれたからだ。
 見張り番がいないと、綱吉は直ぐに勉強をサボる。たった三日間でも遅れが出れば、夏休みが終わるまで絶対に巻き返せないと踏んでの処置だ。
 綱吉が今日のノルマを終わらせないと、雲雀だって帰れない。風紀委員の仕事を抜けてまで、わざわざ訪ねて来ているのだから、こんな無駄な時間を過ごすのは止めて、しゃにむに勉強してもらわないと困る。
 冷たく言った彼に、それでも不満顔を作った綱吉は、今頃南国で優雅なひと時を過ごしているだろう赤ん坊に向かって無尽蔵の恨み言を吐いた。
「いーやーだー。俺も海に行きたい、遊びたい、遊びたいー」
 どんどん行動が退化していく彼に辟易して、雲雀は黒髪を掻き上げた。暇潰しに本を読むよりも、駄々を捏ねる綱吉を見ている方が、よほど面白い。けれどいつまでもこの状況が続けば、彼も帰るに帰れない。
 昨日は夕食をご馳走になるような時間まで掛かった。今日は、それよりも更に遅くなりそうだ。
 暴れれば暴れるほど体力が消費され、喉が渇くし、暑くなるのではなかろうか。冷静に観察しながら頬杖をつき、雲雀は氷だけになったグラスを指で小突いた。
 底の方に、最初は氷だった水が沈殿している。一方の綱吉のグラスは、残っていた一滴さえも蒸発して、欠片すら残っていなかった。
 部屋に運ばれたタイミングは同じだったから、双方の飲むペースが違っただけだ。綱吉は一気にごくごくと、雲雀は思い出した時に喉を潤す程度に。
 その結果が、これだ。
 案の定力尽きた綱吉が、口を大きく開いて息を吸っては吐いている。シャツに隠れた胸が上下する動きも、先ほどより幾許か速かった。
「暑い……」
「自業自得」
 呻くように呟かれた声が聞こえ、雲雀は雫を滴らせるグラスを持ち上げた。氷が溶けた分を飲み干し、濡れた底を撫でて拭い取る。文庫本の表紙に出来た染みは、乾いたのか、いつの間にか消えていた。
 どこまでも素っ気無い雲雀を見るのさえも億劫で、綱吉は目を閉じたまま呼吸を繰り返した。何度も唾を飲み込んで、少しでも全身の渇きを癒そうと足掻くけれど、巧く行かない。雲雀は死なないと言ったが、このままでは本当に干乾びてしまいそうだ。
「俺がミイラになったら、ヒバリさんの所為ですから」
 唐突に、脈絡もなく言われ、雲雀は座ったまま肩を揺らした。
「へえ?」
「慰謝料請求してやるんだから」
 自分が死んでしまっては手続きも出来ないし、大金を手にしても使えないと、分かって言っているのだろうか。どうやらそんな事さえ判断がつかなくなっているらしく、雲雀は短く嘆息すると、かなり小さくなってしまった氷を目の高さまで掲げた。
 窓から差し込む光を浴びて、つやつやとしたクリスタルが輝いていた。
「君に死なれたら、赤ん坊に怒られるね」
 かといって、綱吉の為に空のグラスを手に、階下へ出向いて茶を用意してやる義理もない。それは綱吉の仕事だ。
 そして今この部屋で、僅かに残った水分は、両者の体内に流れる血液と、グラスに転がる小石ほどの氷しかない。
 雲雀は仕方なくといった風情で呟くと、重い腰を起こして立ち上がった。
 ギシ、と床が軋む音に薄目を開け、綱吉が首を横へ倒す。狭い視界に二本の足が見えて、しかもそれが段々近付いて来ているのを、彼は夢うつつに見守った。
 やがて足は正面から横向きに変わり、綱吉の狭い視野から消え失せた。
 雲雀は何処へ行ったのかと、視点を固定したまま考えていると、
「あいちっ」
 ゴン、と無防備だった額を思い切り叩かれた。
 咄嗟に瞼を閉じ、額に何かを載せたまま首を上向きに戻す。奥歯を噛み締めて骨から直接脳に来た衝撃を耐えていると、それまで火照るばかりだった肌がほんの少しひんやりして、心地よさに包まれた。
 身体中の熱がそこを目指して走り出し、額からこめかみに垂れた温い雫も気にならなかった。
「きもちいひ……」
 感極まって呟けば、押し当てられていたものが現れた時同様、突然消えた。慌てて首を擡げて目を開き、待って、と叫んで手を伸ばす。それは身を起こした綱吉の上へ消えていった。
 首を振り向かせれば、雲雀が真後ろでしゃがんでいた。右手でほんの少量の水が残るグラスを掲げ、惚けている彼に苦笑する。
「はい、お終い」
 氷は綱吉の体温で、全部解けてしまった。揺らされたグラスの中では、もう冷たくない水がちゃぷん、と飛沫を立てた。
 動きを目で追い、琥珀の瞳を歪ませて綱吉は渋い顔をした。開けっ放しの扉を前に、雲雀が底意地の悪い笑みを浮かべていた。
「欲しい?」
 体の熱は若干鎮まったけれど、喉の渇きまでは癒えていない。問われれば即座に喉が鳴って、床に添えた手が拳を形作った。
 分かり易い彼の反応に目を細め、雲雀は伸ばし気味だった肘の角度を強めた。離れていくグラスを追いかけて、綱吉の上半身が宙を泳ぐ。前に繰り出した手が、彼の袖を掴んだ。
 風紀の文字が入った腕章を引っ張られて、彼はふっ、と鼻白んだ。
「あげない」
「ヤだ」
「ダメ」
 拒否の言葉を拒絶するが、上書きでまた拒まれた。ならば実力行使だと追い縋り、雲雀の腕に両手を絡めてしがみつく。だけれど綱吉の全体重をそこに預けても、彼は難なくグラスを高く持ち上げてしまった。
 腹這いから膝立ちになって、尚も喰らい付くがあと一歩が届かない。綱吉の指先は虚しく空を切り、水滴をこびり付かせたグラスの底を掻いただけに終わった。
「ぬ、……このぉ!」
 息継ぎの合間に一旦身を引いた綱吉の目の前で、雲雀の喉仏が一度だけ上下した。端正な彼の顔がガラス越しに歪んで見えて、いやに赤く映る唇からコップの縁が離れるのも待たず、綱吉は悔し紛れにそれを奪い取った。
 即座に彼に背中を向けて天井を仰ぐ。グラスを上下逆にして振り回すが、温い雫がひとつ、鼻の頭に落ちただけだった。
 もとよりそう量は多くなかったので、これも仕方が無い。ただ、分かっていても胸を埋める虚しさは否めず、彼はがっくり肩を落とした。
「ちぇぇ」
 三分もあれば充分の労働を惜しんだばかりに、それ以上に疲れてしまった。空のコップを抱き締め項垂れた綱吉の背中は、脱力頻りで完全に無防備だった。
 存在さえ忘れ去られた雲雀が、空になった両手を音もなく伸ばした。
 落ち込んでいる綱吉の肩の上を素通りして、彼が気付く前にバッと左右の幅を狭める。
「っ!」
 予想していなかった後ろからの攻撃に、瞬時に綱吉の頬が強張った。咄嗟に跳ね除けようと肘を突っ張らせるが、両手で握り持ったコップの存在を思い出して一瞬の躊躇が挟まった。
 後ろ斜め上から圧し掛かるように、雲雀の体が降ってくる。汗を吸ったシャツは埃で薄ら汚れているのに、一切構う事無く彼は綱吉を抱き締めた。
「ひば、りさっ」
 鼓動が跳ね、折角治まりつつあった熱が再発する。気候の所為ではない熱さに見舞われて、綱吉は逆に全身に鳥肌を立てた。
 声が上擦る。舌が回りきらず、焦っているうちに顎を掴まれて、最後まで名前を呼べなかった。
 ぐっと力を込めて、無理矢理振り向かされる。視界の上半分が自分の髪と、雲雀の黒髪で埋まった。
「んぅ――」
 刹那、唇が温かなものに触れ、閉じるのを忘れた口腔に柔らかいものが捻じ込まれた。
 逃げようとして顎を引き、頭を後ろへ倒す。斜めに仰け反った綱吉を追いかけて雲雀が身を前に倒し、無理な体勢で胸が密着して、汗の匂いが鼻腔を甘く擽った。
 舌を絡め取られ、強く吸い上げられる。反射的に目を閉じた綱吉の咥内に熱を蔓延らせ、雲雀は粘膜に残った本当に微小な水分を彼に押し付けた。
 膝立ちを強いられた綱吉が、呼吸に苦しさから涙を浮かべてコップを強く握り締めた。密着する雲雀の身体にも圧迫されて、薄いガラス製のそれは、もう少しで割れて砕けるのではないかと思われた。
「っふ、ん……はぅ、ン――」
 噛み付くようなキスの合間に息継ぎを繰り返し、ほんの数滴にも満たない水分を互いに押し与え、奪いあう。
 水の跳ねる音が、ふたりの間だけで淫靡に響いた。
「は、ンぁ、ん……もっと」
 身体の中心部で燻る熱に煽られて、指の強張りを解いた綱吉は強請ると同時に雲雀へと手を伸ばした。
 解放されたグラスが、するりと空中を滑って彼の膝を叩いた。落下の向きが変わり、今度は雲雀の腿を打って転がり落ちる。
 辛うじて粉砕は免れたガラスは、南の空高くで輝く陽光を浴び、床に白い目を描き出した。

2009/07/28 脱稿