麦藁

 サングラスを掛けた太陽が、にっかり笑って地表を照らしている。
 焦がされたアスファルトから立ち上る蜃気楼に、綱吉は一瞬だけ町中とは違う景色を見てハッと背筋を伸ばした。それまでより幾許か歩調を早め、小走りに追いかける。けれどどこまで行っても追いつけず、それはどこまでも逃げていった。
 逃げ水、と呼ばれる現象だとは知らず、路上に浮き上がった小さなオアシスに惑わされ、彼は残り少なかった体力を確実に削って行った。
 ふよふよと地表を浮くようにして、水溜りが泳いでいるのだ。気温三十五度近くになり、太陽は天頂に近い。路上に伸びる影はどれも短く、身を潜ませるには不適格だった。
「あっつぅ、い……」
 呟けば体感温度がまたひとつ上がったようで、額に浮き上がった玉の汗がこめかみから頬を伝い、落ちていった。
 熱を帯びたアスファルトに触れた瞬間、水分は一気に蒸発して消え失せた。今にも自分までもがそうなりそうだ、と行方を見送り、綱吉は蒸れる頭を嫌って被った帽子を外した。
「う、うぅ」
 途端呻き声が漏れて、彼は慌てて白い鍔広の帽子を戻した。
 左右から鍔を握り、跳ねあがる髪の毛を強引に中に押し込んで深く被る。体から滲み出る蒸気が布と髪の毛の間で温風を作り出す事よりも、地肌を直接焼く陽射しの方が、よっぽど痛いと感じたからだ。
 真夏の、真昼。外出は少額の駄賃と交換条件の上で成立したわけだが、早くも後悔一直線だった。奈々に頼まれた買い物、夕飯に使うからと味醂を一本と言われたのだが、これがまたすこぶる重くて肩が抜けそうになる。
 動く度にガサガサと袋が音を立て、それが耳に不快だった。鬱陶しげに舌打ちして、スニーカーの底で強く地面を蹴り飛ばす。
「もうやだ、ああ嫌だ、もう嫌だ」
 堪えきれなくなった愚痴が唇から次々に溢れ出し、咥内も徐々に渇いていく。省エネなのか湧き出る唾の量も、心持ち少ない。犬のようにだらしなく舌を伸ばして熱を発散させた彼は、ふと、頭上に響く子供達の歓声に気付いて歩みを止めた。
 地球を焼きつくそうとする太陽など無縁の、小さな子供のはしゃぐ声。元気が良いな、と普段は深く気にも留めずに通り過ぎるだけなのだが、長年この町に暮らしている綱吉の頭には、ぴんとくるものがあった。
「ああ、そういえば」
 呟き、彼はふらりと左に進路を変えた。
 十メートルばかり行くと十字路に出て、更に少し行けば左手に大きな公園が姿を現した。住宅が乱立する町中とは違い、樹木が多く植えられて涼しげな木陰が提供されていた。
 市民に開放された広い空間から、子供達の声が聞こえてくる。ランボくらいの年齢から、フゥ太より少し年下の子供まで幅広く、中心部に設けられた設備ではしゃぎまわっていた。
 遠目からでも彼らが何をしているのかが見えて、綱吉はそれまでの険しい表情を緩めた。
「ちょっと休んでいこう」
「十代目?」
 夕飯の仕度が開始される前に味醂を届けられたら良いのだから、十分程度の休憩なら問題なかろう。滴り落ちる汗を拭って肩の力を抜いた綱吉の耳に、不意にそれまで聞こえていた甲高い子供の物とは違う、声変わりを終えた青年の声が響いた。
 振り向き、姿を確かめて綱吉は目尻を下げた。
「獄寺君」
「え、あ、……十代目、ですよね」
「うん? うん」
 この世の中で唯一、綱吉をそう呼ぶ青年は、何故か当人を前に怪訝な顔をして、若干自信なさそうに確認してきた。そんな事は今まで一度もなかったので、綱吉もまた不思議そうに眉を寄せ、彼を見上げて頷いた。
 最初の頃は慣れなかった「十代目」との呼びかけも、あだ名のひとつだと認識してしまえば、今はさほど気にならなかった。ダメツナと呼ばれるよりは、百倍良い。
 もっとも、本当にマフィアの後継者となって本当に十代目を名乗るつもりは、今のところ皆目ないのだけれど。
「どうかした?」
 獄寺は目が悪かったろうか。
 首を傾げて振り返った記憶の中で、教室で眼鏡をかけた彼の姿が思い浮かんだ。ならばコンタクトレンズを入れ忘れて出てきてしまい、見える世界全部がぼやけているのだろうか。
「あ、いえ」
 綱吉の疑問に彼は首を振り、照れ臭そうに頬を赤く染めた。はにかんだ笑顔は歳相応で、彼本来の性格である無邪気さを感じさせた。
「なに?」
「あたま、が……」
 否定の言葉から先が続かなくて、綱吉が急かして背伸びをする。ふたりの距離が僅かに縮まって、獄寺は言い逃れ出来そうに無いと悟ると、大人しく諦めて己の頭を指差した。
 だけれど単語ひとつでは意味が分からず、綱吉はまたも首を捻り、獄寺の艶やかな銀髪を見詰めた。
 暑いから、だろう。彼は襟足に被る髪を纏めて、紐でひとつに束ねて結んでいた。後ろまで届かなかった髪の毛が顔の左右で揺れて、矢張りはみ出た短い髪が、ちょんちょん、と方々に向いて跳ねていた。
 特に変なところは見当たらず、なんだろうかと懸命に頭を働かせる綱吉の前で、獄寺は白い歯を見せた。
「いえ、俺のじゃなくて」
「俺?」
 己を指差した綱吉に、獄寺が迷わず頷く。それで瞳を上向けた綱吉は、空に続くはずの視界を遮る帽子の存在を思い出した。
 直射日光を防ぐ目的で目深に被ったそれを軽く持ち上げ、綱吉はきょとんとした。
 続きを言い辛そうにしている獄寺を窺い見て、なだらかな曲線を作り出している帽子の表面を撫でる。
 そこにはいつもある、薄茶の髪の尖りは無い。四方八方に跳ねている癖毛は全て帽子の中に捻じ込まれ、押し潰されている。
「……タンマ」
 まさか、と巡り巡った思考が、ひとつの答えに辿り着く。綱吉は幾らか声のトーンを落とし、愛想笑いを浮かべている獄寺に半歩、詰め寄った。
 両手を広げ、落ち着くようポーズを取った獄寺が、綱吉が詰めてきた分の距離を後退した。
「まさか俺が帽子被ってるから、俺がわかんなかったとか?」
「そういうわけでは、決して」
 偶々道を歩いていた獄寺が顔を向けた先で、綱吉によく似ている人がいた。けれどなんだか、ちょっと違う気もする。どうにも本人だと確信が持てなくて近付いて、向こうが立ち止まったので思い切って呼びかけてみた。違ったら気付かずに行過ぎるだろうし、綱吉だったら必ず振り返る筈だ。
 そうして結果は、ご覧の通り。
「む、う」
「機嫌直してくださいよー、十代目」
 頬を膨らませた綱吉にぺこぺこと頭を下げ、猫なで声を出す彼にそっぽを向く。綱吉の視界に、公園の中央に作られた小さな噴水が現れた。
 子供達の声は、そこから響き渡っている。周囲には母親らしき人たちが輪を作り、井戸端会議ならぬ噴水端会議に花を咲かせていた。その一帯は日除けが無いというのに、元気なものである。
「十代目?」
「べっつにー」
 臍を曲げたまま綱吉は獄寺を無視し、当初の目的通り公園の敷地に足を向けた。焦げ付いたアスファルトから、熱を持ってはいるもののまだ優しさを感じさせる砂地へと移動し、子供達の群集にちょっとずつ近付く。
 置き去りにされた獄寺は己の足元と綱吉の背中を交互に見やり、待ってくれと叫んで駆け足で綱吉を追いかけて来た。
「何か用?」
「特に、は無いのですが」
「ふーん。じゃあ、いいじゃない」
 急ぎの用件があって話しかけてきたのではないのなら、あそこで別れても問題なかろう。だのにしつこく付きまとってくるものだから、綱吉の機嫌はこの炎天下の所為もあって、悪化の一途だった。
 耳につく幼子の歓声に肩を落とし、右手に握るスーパーの袋を大きく振り回す。それで殴られそうになった獄寺は、寸前で後ろに跳んでこれを躱した。
 獄寺とて痛いのは嫌なので逃げるのは当然の判断だったが、避けられた綱吉は益々頬を膨らませ、つーん、と彼に背を向けた。大股に進んで姦しい女性らとは反対側に行き、円形の噴水傍で立ち止まる。
 深さ三十センチ弱の、楕円形をしたコンクリートの水槽の中央に、綱吉よりも背が高い柱が一本立っている。そのてっぺんと、周囲に無数の穴が開けられており、数分間隔で水が吹き出て、止まる、を繰り返していた。
 柱の頂上から湧き出る分は距離もあまり稼げず、水はほぼ真下に落ちて行く。その代わりに周辺の穴には角度が設定されており、細かい水滴がまるでシャワーのように噴出した。
 子供達は霧が噴くたびに歓声を上げ、両手を叩き合わせ、濡れたコンクリートの上を素足で走り回った。水槽自体にも水が浅く張られており、彼らが歩くたびにパシャパシャと雫が跳ねた。
「あー……」
 噴水の外に在っても、霧は飛んでくる。味醂の入った袋を背中に隠した綱吉は、喉を仰け反らせて高い位置から降り注ぐ霧状の水を浴びて気持ち良さそうに声を零した。
 火照っていた身体が一気に冷えていく。日向でありながら、この一帯は少し気温が低く感じられた。
「十代目」
「なんだ、まだ居たの?」
「ぐっ」
 てっきりもうどこかに行ったものとばかり思っていた獄寺が、綱吉の隣に滑り込んで胸元に拳を押し当てた。
 あまりにも冷たい反応に、表情に悔しさを滲ませて奥歯を噛み締める。ゆるりと視線を足元に落とした彼にさしたる興味も抱かず、綱吉は止まってしまった水流に溜息を零した。
 折角冷えて来たのに、これではまた逆戻りだ。
 表皮が水分を取り戻した途端、喉の渇きがより鮮明となって綱吉に襲い掛かる。幼い喉仏を撫でた彼を低い位置から見上げ、その場にしゃがみ込んでいた獄寺は唐突に、風を起こして立ち上がった。
「十代目!」
「うわっ」
「喉、渇きませんか。俺、ちょっくら行って、買って来ます!」
「へ? え、あ……えー?」
 背筋を伸ばして敬礼のポーズを取り、周囲に人が居るのも考えずに大声を張り上げて叫んだと思えば、一瞬で方向転換を果たして綱吉の前から駆け出した。要る、要らないの返事さえ待たず、公園を飛び出していってしまう。
 呆気にとられ、出し掛けた手を引っ込めることも出来ない。綱吉は苦笑し、この場に居合わせた人たちの視線に恥かしそうに俯いた。
 そうしている間にまた噴水から水が溢れ出し、冷たい水が霧となって綱吉を包み込む。痒くて仕方が無い右頬を軽く叩いた彼は、少し意地悪をしすぎただろうかと、獄寺が去っていった方角に目を向けた。
 子供達は相変わらず、元気に綱吉の前を走り回っている。皆はだしで、着ていたものを脱いでオムツ姿になった、よちよち歩きの子までいた。綱吉のように中には入らず、水面を叩いて遊んでいるだけの子もいる。
「平気かな」
 直射日光を長時間浴びるのは毒だが、少しくらいなら構わないだろう。自分に言い聞かせ、彼はずっと被りっ放しだった帽子を外した。
「ふぅ」
 途端に布の内側にあった熱気が押し流され、汗に湿った頭皮が噴水の恩恵を受けて冷やされた。髪の毛は水浴び前から既に濡れており、毛先は萎れてしなしなだった。
 それでも、根っこの方はまだ元気に起立している。ハリネズミのような棘を掻き回し、綱吉は唇を舐めた。
 流石に真夏だけあって、毎日が暑い。熱中症は屋内でも起こる危険性があるので、水分摂取はこまめにするようにとテレビでも散々言われているが、そういえば家を出てから一切水気のあるものを口に入れていない。
 口を開け、舌を伸ばし、降りしきる水を飲もうと顔を前に出す。けれど途中、人の視線を感じて恥かしくなって綱吉は前に傾がせた姿勢を戻した。欠伸をしたのだと誤魔化し、ワザとらしく目尻を擦ってやり過ごす。
 いくら水でも、飲んで良いものとそうでないものがある。熱中症を気にしてお腹を壊したら、元も子もない。
 折角の夏休みなのに、家で寝込むのは哀しすぎる。獄寺がなにをしに公園を出て行ったかも忘れ、綱吉はひたすらに自制心を働かせて喉の渇きを堪えた。
 小さな子が綱吉の前方で転び、比較的大きな水飛沫があがった。足元はコンクリートなので硬く、打ち所が悪ければ怪我をする。
「大丈夫?」
 慌てて手を差し伸べて起き上がるのを手伝ってやり、心配げに顔を覗き込むが、歯も生え揃わない男の子はぶつけて赤い額をひと撫でするだけで、何食わぬ顔をして水柱の方へ駆けて行った。
 元気が良い。そしてとても、強い子だ。
「今度、ランボも連れて来てやろうかな」
 無心に水遊びに興じる幼子を眺めながら呟き、綱吉は腕にまとわりつく水分を拭い取った。シャツやズボンにも、汗以外の水分が過分に付着して、少し重かった。
 ただランボは、誰が居ようと、場所が何処であろうと、お構いなしに自分の都合優先でしっちゃかめっちゃかするから、公共の場に連れ出すのに少し勇気が要る。小さな子に意地悪をして泣かせて、その母親に見つかって説教されるのは、保護者代わりを務める綱吉の方だ。
「……やっぱ止めとこう」
 光景が楽に想像できて、げんなりした声で呟いて前言を撤回する。布製の帽子を握り、気を取り直そうと眩い太陽を噴水越しに見詰めて目を細めた。
 そこへ、
「十代目」
 すっかり綱吉に忘れられていた人物が、汗をダラダラ流して戻って来た。胸の前で交差させた腕の中に、背の低い缶コーヒーを二本抱えている。彼の体温を吸い込んでか、缶の表面もまた汗まみれだった。
「獄寺君?」
 そういえば居たのだった、と若干驚いた顔をして目を丸くし、綱吉が彼に向き直る。満面の笑顔を浮かべた彼は噴水の手前で減速し、待たせてしまった事を深く詫びた。
 別段彼を待っていたわけではない綱吉は、どう返事をするべきかで一瞬迷い、曖昧に笑って心の中では舌を出した。
「カフェオレと、ブラックと、どっちにしますか」
「ってか、本当に買って来たんだ」
「え? そうですよ」
 聞き返した綱吉に、不思議そうな顔をして、彼は買って来たものを両方差し出した。けれど砂糖とミルクが入っていないコーヒーなど、綱吉は飲めない。それは獄寺も知らないはずではない。
 わざとか、天然か。いぶかしんだ視線を投げるが獄寺は気付かず、白い歯を見せて楽しげに笑っている。どこまでもお気楽な彼にまたひとつ溜息を零し、綱吉は缶にではなく、自分のポケットに手を伸ばした。
「お金」
 コーヒーひとつにしたって、代価は必要だ。支払う意思を見せた綱吉に、けれど獄寺はまた缶を二本抱えて慌て始めた。
「いいです、十代目。俺、そんなつもりじゃ」
「でもさ」
「十代目に非礼を働いたお詫びですから」
 どうか受け取ってくれるよう、と頭まで下げられて、綱吉はまた周囲の好奇の視線に晒されて顔を赤らめた。出し掛けた財布をポケットに押し込み、言い出したら譲らない獄寺の真っ直ぐな性格に嘆息する。
「分かったよ」
 呟いて空っぽの手を差し出せば、パッと表情に花を咲かせて獄寺が顔をあげた。底抜けに明るい、嬉しそうな姿が馬鹿みたいに眩しくて、綱吉はある種の罪悪感を胸に抱かされた。
 獄寺は迷わずカフェオレの缶を綱吉に握らせ、自分は真っ黒い外観の缶を顔の横で振った。中の液体をシェイクして、プルタブを起こす。栓が内側に凹んで、開かれた飲み口に目尻を下げる。
 彼も暑かったに違いない。綱吉は右手に味醂を、左手にカフェオレを持ち、視線を左右に流した末にその場にしゃがみ込んだ。コンクリートの縁に腰掛け、味醂もそこに置く。
「座れば?」
「はい、お邪魔します」
 続けて反対側の空間に手をやり、何も無いところを叩く仕草を取る。獄寺は依然嬉しそうにしたまま、綱吉が示した場所に腰を下ろした。
 ふたりして噴水に背中を向けて、子供らの声を聞きながら少し温くなった飲料を喉に押し流す。綱吉はちびちびと、獄寺は大胆に一気だ。
「ぷはー」
 まるでどこぞのサラリーマンが、仕事帰りに一杯、という時のような声を出し、彼はすこぶる美味そうにコーヒーを飲み干した。隣の綱吉がぽかんとした顔で見守る中、唇に残った苦味も余すところなく舐め取って、彼は限りなく幸せそうに目を細めた。
 いつもは隠れている耳が、今日は髪を結んでいるから表に出ている。長時間陽射しを浴びて居たからか、外側の殻の部分だけが赤く日焼けしていた。
「そういえば、十代目。帽子は」
「う……ん?」
「帽子は、被らなくていいんですか」
 綱吉の為に自動販売機まで全力で走って、全力で公園まで戻って来たのだ。そりゃあ、喉も渇くだろう。缶コーヒー一本では足りないのではなかろうかと、物憂げな瞳を向けていたら、いきなり獄寺に聞かれて、綱吉は面食らった。
 味醂が入った袋の上に置いた、白い帽子。前に身を乗り出した彼の問いに、綱吉もそちらに目をやって、肩を竦めた。
「ああ。……うん、いいんだ」
「ですが、折角あるのですから被ったほうが」
 熱射病になったら大変だと捲くし立てる彼の真剣な眼差しに、綱吉は少し甘い唇を窄めた。苦々しい顔をして、肩幅に広げた腿の間に缶ごと両手を置く。 
 誰の所為で被らなくなったと思っているのか。時々綱吉が驚くほどに勘が鋭いのに、ごく稀に呆れ果てるほどに鈍いから困る。握り締めた缶の縁を指でしきりになぞり、綱吉は俯いたままカフェオレが温くなるのを待った。
 背中ではまたひと際大きな歓声が起こり、直後冷たいものが頭の上に降り注いだ。
「十代目?」
「だって、被ったら、俺だって分からなくなるんでしょ」
 子供達の声に紛れさせ、ボソボソという。出来れば聞こえて欲しくない、けれど叶うなら分かって欲しくて、彼の耳に届くか否かの音量で呟いた綱吉の横顔を、獄寺は暫くの間ぼけっと見詰め続けた。
 その彼の手の隙間から、中身も数滴しか残っていないブラックコーヒーの缶が滑り落ちる。足元は湿った砂地なので音は響かず、弾むことさえなく、くるくると二度ばかり回転して横倒しになり、動かなくなった。
「え、あ」
 手の中が空っぽになって五秒は経ってから、獄寺が変に上擦った声を出して膝を広げた。前屈みになって落としたものを拾い上げ、表面に付着した砂を払い除ける。
 奇妙な沈黙がふたりの間を流れて行く。後ろでは水の噴出が止まり、全身を濡らした子供たちが、きゃっきゃと弾んだ声を響かせた。
 缶を両手で包み持った獄寺は、真っ直ぐ遠くを見据えて、足も肩幅より広く開いて、太腿に肘を置いた。腰元で缶を弄りながら視線を僅かに左右に揺らし、瞼を閉じ、数秒の間を挟んでスクッと立ち上がった。
 カフェオレをちびちび舐めるように飲んでいた綱吉が、足元に伸びた影につられて顔をあげた。
「大丈夫です」
「獄寺君?」
「十代目が帽子を被ってらっしゃる姿は、記憶しました。次からは絶対、間違えません」
 自信満々に言い放ち、彼は握り拳で胸を叩いた。任せろと言わんばかりのポーズに綱吉は一瞬惚け、直ぐに相好を崩した。
「なに、それ。ほんとに?」
「本当です」
 大まじめに頷く彼がおかしくて、綱吉は声に出し、ケラケラと笑った。
 そんな彼の後ろで、陽光が噴水の霧に反射して、柱の近くに小さな虹が沸き起こる。歓声がまたひとつ大きくなり、気付いた獄寺が綱吉の肩を叩いて注意を促した。
「十代目、見てください」
 ほら、と指さされて腰を捻った綱吉も、見えた景色に驚きを露にして、真後ろから感じる熱を思い出し、直後照れ臭そうに目尻を下げた。

2009/07/24 脱稿