眼ありて

「あ、イテ」
 ひゅう、と吹いた風に前髪を掬われて、直後何かが目に入った。
「夏目?」
 隣を歩いていた西村が、突如横から響いた悲鳴にびっくりして振り向く。その向こうにいた北本もが、何事かと怪訝な顔をして身を屈めた。
 ふたりに揃って見詰められて、夏目は咄嗟に手で塞いだ左目を恐る恐る開いた。指先が薄ら濡れているのは、眼が異物を駆逐しようと防衛本能を働かせたからだろう。
 夏目自身、なにが起きたのか分からずに困惑が顔に出る。自分が何故片目だけ器用に泣いているのかと不思議そうにしてから、違和感を覚えて目をごしごしと擦った。
「ゴミでも入ったか?」
「あんまり擦ると良く無いぞ」
「分かってるんだけど……」
 並んで歩くふたりからほぼ同時に言われ、夏目は堪えて腕を下ろした。それでもまだ瞳の奥がゴリゴリして、深い場所に、本来其処にあるべきではないものが紛れ込んでいるのが分かった。
 夏目は湿ったこめかみに張り付いた髪の毛を耳に掛け、何度も瞬きを繰り返し、涙を招いた。
 人前で泣くのは恥かしいが、今回はちゃんとした理由があるのであまり気にならない。なるべく目に触れぬよう、眼孔の直ぐ下辺りを指でなぞり、どうにか異物感を排除しようと努力を重ねる。
 けれど、芳しい効果は得られなかった。
 北本にも言われたが、触るのは目によくない。しかし気になる。意識しないように気を配っても、やはり気にしてしまう。
 片目を閉じた状態で十メートルばかり歩いてみたが、左右にふらついただけで何の効果も無かった。それどころか瞼を持ち上げると、若干視界が霞んでいた。
 卵を握る程度に軟らかく手を丸め、それで左目を覆い隠す。もっとも、今更風除けをしたところで、どうにもならないのは夏目自身もよく分かっている。
「家帰って、水で洗うといいぞ」
「そうだな、そうする」
 幸い、藤原の家はもう直ぐ其処だ。
 これが学校を出た直後だったらば、最悪だった。油断するとすぐに手の甲を押し当ててしまう己を戒め、彼は鞄を両手で握り締めた。体の前方に据えると、足を動かす度に膝に当たってトントン、と跳ね上がった。
 交差点でふたりと別れ、残り少ない経路を辿って優しい佇まいの門を潜り抜ける。そこから玄関までは少し小走りになって、夏目は低い段差をひとつ飛び越えると、勢いつけて玄関をあけた。
 ガラリと音を響かせ、ガラス戸が左にずれる。開かれた空間に身を滑らせた彼は、外に比べて暗い屋内に目を細め、左目に走った痛みに顔を顰めた。
 またしても右手で擦りそうになって、慌てて肘を掴んで下ろしているうちに、物音を聞きつけた塔子が台所から顔を出した。白い割烹着姿に笑顔を向け、夏目は靴を脱いで上がり框に爪先を置いた。
「ただいま帰りました、塔子さん」
「お帰りなさい、貴志君。あら、その目」
 散々蹴り飛ばした鞄を胸に抱え、ファスナーを引っ張って口を開く。空っぽの弁当箱を渡そうとした夏目だったが、間近まで来た塔子に見上げられて、首を捻った。
 最初何のことだか分からずにきょとんとしてから、ああ、と緩慢に頷いた。
「風で、ちょっと」
「直ぐに洗ってらっしゃい、真っ赤よ」
 塵が入ったのだと言葉少なに言えば、それを上回る勢いで塔子が捲くし立てた。
 あまりの迫力に夏目も驚きが隠せず、自分では見えない左目を指差す。途端に深く頷かれて、背中を押された。
 洗面所へと押し込まれ、夏目は肩を竦めた。弁当箱を持ったままだったのを思い出し、引き返そうとした塔子を呼び戻して手渡す。今日も美味しかったと伝えたかったのだが、そんな事はいいから、と乱暴に腕を叩かれた。
「はいはい」
 心配性な彼女に苦笑を禁じえず、夏目は深く考えないまま鞄を足元に置いた。少し長い前髪を掻き上げ、鏡に映る自分の顔を覗き込む。
「……げ」
 一秒後、何故あんなにも塔子が過剰な反応をしたのかを知り、彼は絶句した。
 確かに、赤い。それもかなり毒々しく、禍々しい色をしていた。
「うわー」
 右目は無事なので、余計に左目の充血具合が際立って感じられた。眼球の左右、及び下側が、赤いペンキを塗りたくったかのように真っ赤に染まっていた。毛細血管が膨らんでいるのか、蜘蛛の巣のように無数の赤い筋が走っている。白い部分の方が、遥かに面積が少なかった。
 黒目を取り囲んで、赤と白が複雑に絡み合って混沌としていた。
 そんなに沢山、強く擦ったつもりはなかったのに、予想外に酷いことになっていた。
 夏目は唖然としたまま、あっかんべーをする時のように、目の下に人差し指を添えて軽く引っ張った。しかし隠れていた部分も見事に赤一色で、気分が悪くなりそうだった。
 眼球裏に潜り込んだ砂粒か塵かは、まだ外に排出できていない。意識すると、ごろごろするものがあるのが分かる。
「洗おう」
 気楽に考えていた自分を反省し、急いで洗面台に手を伸ばして蛇口を捻った。最初に石鹸で両手を擦って泡立て、指の間まで丹念に汚れを落としてから漱ぎ、その手で水を溜めて顔に浴びせかける。
 しかし顔を濡らす瞬間、目を閉じていることに気付いて、彼は露骨に顔を顰めた。
「なにやってんだ、俺」
 無意識の行動に腹を立て、地団太を踏んでタオルを探して腕を伸ばす。捕まえた柔らかな布で雑に顔を拭って水分を吸わせ、またも意識せぬまま左目を苛めていた事実に、彼は唖然となった。
 たった三十秒前に反省したばかりなのに、もう忘れていた。苛立ちにかまけて行動すると宜しく無いと言い聞かせ、落ち着くように頭の中で呪文の如く繰り返す。目を閉じて深呼吸を三回繰り返した彼は、未だ片眼が赤い鏡の中の自分に溜息を零した。
「取れないな」
 感覚だけで異物の居場所を探るが、目に見えない場所というものは実に厄介だ。上手に言葉で説明出来ない。
 多分この辺、と思う箇所があっても、指差して他人に教えることも難しい。夏目は上から、下から、左からと、鏡に映る角度を変更してみたが、なにをやっても結果は変わらなかった。
「そのうち取れるかな」
 掌に溜めた水で、今度は左目だけを洗ってみるが、水の冷たさに顔が痺れただけに終わった。
 水中で瞬きして、取れろ、取れろ、と念じるが、違和感は消えない。ただ最初ほどは、気になら無くなっていた。単に慣れただけだろうが。
「いって……」
 睫に残る水分をタオルに吸わせ、目の下を擦って夏目は呻いた。
 これ以上洗面所に陣取っても、どうにもなりそうにない。諦めて嘆息した彼は、タオルをハンガーに戻して鞄を持ち、階段を登って自室へ向かった。
「ただいまー」
 障子戸を開け、部屋の中にいるだろう存在に元気の無い声で帰宅した旨を伝える。
 鈍い足取りで敷居を跨ぎ、俯かせていた顔を上げる。部屋の真ん中に敷かれた座布団に鎮座していた、白地に二色の筋を柄に持つ猫が、ぴょこん、と耳を立てて振り向いた。
 そうして落ち込んでいる夏目の顔を下から覗き見て、細い目を大きく見開いた。
「なんじゃ、その目は」
「あー」
 言われるとは思っていたが、案の定だ。説明するのも億劫で、夏目は気の抜けた声で返事をするだけに終わらせ、鞄を机の横に立てかけた。
 四本の足で起き上がった斑が、トテトテと近付いて来て近い場所から彼を見上げる。彼との身長差は結構あるのだが、その距離からでも分かるくらいに、夏目の目は赤かった。
「ちょっとゴミが入っただけだよ」
「また鏡か」
「それは、……違うと思う」
 広げた手を左目に被せ、夏目はゆるゆる首を振って窓の外に目を向けた。
 西に傾いた太陽が、いつもより少しだけ赤い気がした。
 以前、妖怪が落として割れた鏡が夏目の目に入ったことがあった。それは常ならぬものであるから、瞳に傷が出来ることは無い。代わりに割れた鏡がひとつに戻ろうとして、あちこちに散らばった欠片を呼ぶものだから、近くにそれがあると共鳴しあって頭痛がする、という症状が出た。
 田沼まで巻き込んでしまい、迷惑甚だしい出来事だった。ただ、嫌な記憶ばかりでない。あの妖怪のお陰で、彼との間にあった隙間が少しだけ埋まった気がするのだ。
 実に面倒臭く、また本来は無関係であるはずの多軌まで巻き込む大騒動にまで発展してしまい、当時の夏目は非常に申し訳なく思い、彼らを巻き込んでしまった事を恥じた。
 けれど終わってしまって、改めて出来事を振り返ると、存外に――そう、意外に、悪くなかった。
 妖怪を目の当たりにしてしまう事、それは見えぬ人からすれば永遠に分からない現象だ。説明するのは難しく、却ってこちらが妄想を働かせているのではと、相手を疑心暗鬼にしてしまう。
 名取と居るときは、それが起こらない。あの時の田沼に対しても、同じだ。
 心安いとでも言うのか、兎も角そんな感じだった。
 妖怪のことは、分からない人には一生分からない事だと、心の片隅で諦めていた。分かってくれと、声高に主張するのを幼い時分に止めてしまって、この歳までずるずると来てしまった。
「痛いな」
 そっと左目を手で覆い、夏目は呟いた。声が聞こえたのか、斑がちょっとだけ変な顔をした。
「なんなら、刳り抜いてやろうか」
「それは……遠慮する」
 にやりと笑って不穏な台詞を吐いたダルマ猫に肩を竦め、夏目はいい加減制服から着替えようと箪笥に向かった。観音開きの戸を広げ、中にあった小さな鏡を覗き込む。長く伸び気味の前髪を横に払うと、相変わらず毒々しい赤が顔の一部を占領していた。
 洗面台のような邪魔なものがないので、じっくり間近から覗き込める。しかし出るのは溜息ばかりだ。
「ゴロゴロするな」
「あまり触れるなよ」
「分かってる」
 鏡に映る己を睨み付けていたところで、紛れ込んだ異物がこぼれ落ちて来るわけではない。気にしすぎるからいけないのだと言い聞かせ、夏目は斑の言葉に頷いた。
 手早く室内着に袖を通し、身繕いを整えて夕日が差し込む窓を振り返る。西の山並みは鮮やかな朱色に染まり、翌日の天気をありありと教えてくれた。
 塔子が夕食の支度を終えるまで、まだ少しありそうだ。時間を持て余し、夏目は机上の時計を見下ろして鞄に手を伸ばした。
「見えなくなっているわけでは、ないのだな」
「うん?」
 膝を折り、座布団を引き寄せた夏目の左横に陣取った斑が、低い声で問う。表情はいつも通り飄々としており、声にも真剣みがない。しかし普段と少し様子が違う気がして、夏目は不思議そうに彼を見返した。
 まん丸い尻尾がひょこひょこと揺れ、その影が畳に長く伸びていた。そちらについ目をやった夏目は、二秒ほど停止して、嗚呼、と相好を崩した。
「見えるよ」
 充血し、白目の殆どの部分が夕焼けの如き朱色になっているけれど、視力自体は健在だ。試しに右目を閉じ、尚かつ右手で覆ってみるが、左目だけでもちゃんと、斑の間抜け過ぎる顔は見えた。
 ただ隻眼では距離感が掴みづらく、物の輪郭も若干朧気になって小さな不安に駆られる。腕を下ろした夏目は、緩く握った拳で机の縁を叩き、膝に下ろした。
「見えてる」
「そうか」
 自分に言い聞かせるかのように繰り返し呟き、夏目は左右の眼を揃って閉じた。
 瞼の裏に隠れた彼の瞳をじっと見詰めていた斑は、穏やかな表情を浮かべる彼に囁くように言葉を返し、くるりと重たい体を反転させた。そのまま遠ざかろうとする気配に、夏目がおや? と首を傾げて目を開く。
 斑は白い尾を揺らし、トテトテと四肢を操って座っている彼の後ろへと回り込んだ。
「先生?」
 どうかしたのかと、机に片手を添えて腰を浮かせる。上半身を捻って招き猫を依り代とする妖怪の行方を追おうとした矢先。
 ぼはん、と真っ白い煙が部屋中に立ち込めて、夏目は咄嗟に両腕で顔を庇った。
「うぐっ」
 そうして油断しきりの彼の背中に、突如巨大且つ重いものがのし掛かった。
 胡座を作っていた夏目は避ける事も、踏ん張る事も出来ず、机の縁に肘をぶつけてそのまま前のめりに畳に倒れ込んだ。
 曲げすぎた腰の骨が嫌な音を響かせ、無理を強いられた股関節が悲鳴をあげた。歯を食いしばった夏目が懸命に両腕を投げ出し、半分に引きちぎられそうな衝撃を堪えてじたばたと足掻くが、背中から頭にかけて覆い被さっているものは、そう簡単には動かない。
 今何に襲われているかなど、振り返って確かめるまでもなかった。
「先生!」
 大声を張り上げ、夏目は力一杯、顔の横に垂れ下がった白い毛を引っ張った。
「ははは、どうした」
「どうしたも、こうしたも……っの、重い」
 しかしそんな抵抗など些細なもので、本来の姿に戻った斑が高らかに笑った。必死に足掻く夏目が面白いのか、益々小さな人間に身を預け、体重をかけてくる。
 このままでは本当に押し潰されて、熨斗烏賊にされてしまいかねない。
 いったい何がどうして、こんな羽目に陥ったのか。振り返る会話の節々からではさっぱり想像がつかず、夏目は奥歯を噛み締めて両腕を畳に突き立てると、渾身の力を込めて腹筋に力を込めた。
 だがそれでも、狼と狐を混ぜ合わせたような妖怪の巨躯を押し退けるなど、モヤシとさえ揶揄される細腕では叶わなかった。
「だ、めだ、あ……」
 ついに力尽き、ばったりと倒れ込む。それなのに斑は依然上から退かず、ただ少し不安げに、横向いている夏目の顔を覗き込んだ。
 ふわふわの白い毛が頬や首を擽り、夏目を覆い隠した。
「あー、もう……なんなんだよ、先生」
「気が向いたからな」
「だからって、いきなり」
 ふて腐れた声で愚痴を零し、少しだけ出来た隙間で身動ぎして楽な体勢を作る。斑も前足を曲げ、腹這いになった体を僅かに持ち上げた。
 きっと今此処に塔子が来ても、夏目がひとり倒れているだけにしか映らない。けれど、確かに斑は此処にいる。
「……見えてるよ、先生」
「そのようだな」
「ああ」
 鼻先をすり寄せられて、くすぐったかった夏目は小さく笑った。弱々しく腕を伸ばし、彼の首辺りを撫でてやる。ブラッシングなどしたことがないだろうに、サラサラの毛並みが心地よかった。
 目の奥に消えた異物は、時間が経てば自然と排出されるだろう。充血は、きっと明日になれば治まる。痛々しい姿も、今日一晩の辛抱だ。
 これしきの事で視力が減退する事もない、ましてや失明など。
 けれど、もしかしたらいつかは、そうなるかもしれない。昨日まで見えていたものが、不意に、突然、予告もなく見えなくなってしまった人を、夏目は知っている。
 ただそれは、とても寂しい事だけれど、哀しい事ではないのだ。
「覚えてるよ」
 ぼそぼそと呟き、夏目は香り良い畳に目を細めた。そのまま瞼を降ろし、暗闇に身を委ねる。
 こうすれば、何も見えない。けれどそこに、斑の気配を感じる。
 斑と共にあった時間は、胸の中に残される。
 夏目が忘れない限り。忘れようとしない限り。
 いつか、近いうちに。田沼と、多軌にも全部話せる日が来るだろう。この愉快で、優しく、時に厳しい、心豊かな妖怪達との日々を。
 そして出来れば、一緒に覚えておいて欲しい。
 彼らはいつだって、たとえ見えなくとも、すぐ傍で自分たちを見守ってくれているのだと。

2009/07/20 脱稿