日蝕

 まだ朝の、一応は早いと呼べる時間帯だというのに、太陽は眩く燦々と輝き、地表に流れる影は色濃い。
 蝉の大合唱がそこかしこから響き渡り、路上を歩く犬は暑そうに舌を垂らしている。その首輪に繋がれたリードを握る人間もまた、全身から汗を滴らせて鬱陶しそうに晴れ渡る上空を睨みつけていた。
 汗で湿った薄茶色の髪の毛を掻き上げ、綱吉はいつもと大差なく見える晴天具合に肩を竦めた。
「あっちー」
 声に出して呟くと、余計に暑く感じる。だからなるべく我慢しているのだが、それでも時折、油断するとすぐこの単語が舌の上を滑り落ちていった。
 額に流れた汗が睫に引っかかり、視界に水滴が混ざりこむ。咄嗟に瞼を閉じて避けた彼は、首を振り、灼熱地獄と化したアスファルトの道程に肩を竦めた。
 こういう暑い日こそ涼しい室内で、のんびりまったり、ゆっくり過ごしたい。惰眠を貪って、アイスクリームを頬張りながら、日頃見るのも叶わないワイドショーを眺め、平日の休みを満喫することこそ、夏休みの醍醐味ではないか。
 だのに、なにが悔しくて補習に行かねばならないのだろう。
「はいはい、自業自得ですよ。ええそうですね、そうですとも!」
 海の日を前にして、並盛中学校は約一ヵ月半という長期休暇に突入した。しかし沢田綱吉は期末テストの結果があまりにも芳しくなかった為、夏季特別講習に目出度く当選してしまった。
 英語二十三点、数学十八点、物理化学も赤点。終業式の日に貰った通知表は、とても親に見せられた代物ではなかったが、リボーンに銃口突きつけられて脅されては、渡さないわけにもいかなかった。
 縦長の一本線がずらりと並ぶ様は、ある意味壮観だった。
 家に居れば鬼のような家庭教師に尻を叩かれ、学校に行けば小言の五月蝿い教師に囲まれて、折角の楽しい夏休みは机に齧り付く毎日で終わってしまいそうだ。
 想像すると涙と溜息が同時に出た。
 プールにでも行くのだろう、透明のビニールバッグを担いだ小学生が数人、連れ立って走っていく。自分もあれくらいの頃は炎天下でも好き勝手外で遊び惚けていたと思い出し、それから五年も経過していないのを思い出して、また嘆息が漏れた。
 盛大に肩を落として、トボトボと道を行く。学期中ならば学生で溢れている学校前の道も、補習と部活に参加する生徒しか通らないのでとても静かだった。
 気合の入った掛け声がグラウンドから聞こえて来て、運動部員は強いな、と山本の顔を思い浮かべて苦笑する。
 到底真似できないと、夏休み前から真っ黒に日焼けしていた親友を脳裏から追い出し、綱吉はやっと到達した日陰にホッと息を吐いた。蒸し暑い校舎に入り、靴箱を開けて中身が空なのにちょっとびっくりさせられた。
「あ、そっか。こっちだ」
 つい癖で下駄箱を開けてしまったが、上履きは終業式に持って帰って、洗って、庭先で干して、昨日やっと回収したところなのだった。
 そして補習は、昨日から開催されている。
「今日は忘れてこなかったぞ」
 呟き、鞄を開けて、元は白かった、今は汚れて黄土色の布の袋を取り出す。
 中から洗ったはずなのにどうにも汚らしい上履きを出してスノコに並べ、運動靴から履き替えて脱いだばかりの若干生暖かいそれを下駄箱の中へと。昨日は上履きという存在そのものを完全に失念しており、一日靴下で過ごさなければならなかった。
 補習を受ける生徒は学年全体で十人ほど。うち、昨日素足の刑に処されたのは綱吉だけだった。
 終業式から三連休を挟んで、すぐに補習開始。持って帰るから悪かったのか、持っていくのを忘れたのが悪いのか。どちらにせよ、綱吉の落ち度であるのは間違いない。
 だから今日は誰にも笑われないように、昨日帰って直ぐに鞄に押し込んだ。それで何か違うことを忘れているのでは、と疑いもしない。
 彼は幾らか上機嫌に、けれど階段に差し掛かったところで直ぐにうんざりした表情を作って、気が重そうに一段ずつ登っていった。
 補習はコマ数が少ないので、通常の始業時間よりも開始が遅いのがまだ救いだ。時計は午前十時に至る少し手前を指し示しており、綱吉は憂鬱な面持ちで指定された教室後方のドアを開けた。
 先に来ていたお仲間が一斉に彼を振り返り、まるで悪事を企む同盟者のような顔をしてニヤリと笑った。
「さーわだ、おっせーぞ」
「あれ、他は?」
「さあな」
 そのうち来るだろう、と言われて緩慢に頷き、綱吉は真ん中の列の前から三番目に鞄を置いた。
 気のせいか、昨日よりも人数が少ない。大抵綱吉が最後に登校するのに、珍しいことがあったものだ。それとも、補習が面倒になって二日目から早々にサボりか。
 ぐるりと教室を見回して、教卓で笑いを噛み殺しているふたり組に怪訝な顔をする。彼らは時々綱吉の顔をちらりと見ては、不思議そうに首を捻っている様を認めて両手を叩き合わせた。
「ねえ」
「おっと、時間だ」
「え、何処か行くの?」
「お前には教えねー」
 遅く来るのが悪いのだと尊大に言い放ち、ふたりは開けっ放しの前の扉から廊下に飛び出して行った。綱吉が慌てて後ろを追いかけるが、戸惑いが先に立っているので速度が出ない。
 ドアから外を窺うと、ふたりは階段を駆け上って視界から消えた。
「なんなんだよ……」
 ひとり置き去りにされて、綱吉は頬を膨らませた。ワケが分からないと地団太を踏み、教室に戻る。時間の配分が平素の授業のそれと違うから、チャイムは補習開始予定時間になっても鳴らなかった。
 そして、誰も来ないし、戻ってもこなかった。
「あれ?」
 ひとりぽつん、と椅子に座って行儀良く待っていた彼も、十分して流石にこれは変だと思って立ち上がった。
 先ほどの生徒を追いかけて行くべきだったかと後悔するが、今から移動を開始しても見つけ出すのに相当時間がかかるだろう。いったい補習仲間は何処へ行ってしまったのか、外を窺っても運動部の掛け声しか聞こえてこず、綱吉は不安に胸を掻き毟った。
 恐る恐る戸口に戻り、廊下を窺うが、グラウンドとは違って校舎内はシーンとしている。自分の呼吸する音さえ大きく響いて聞こえて、彼は生唾を飲んだ。
 先生が来ないのも妙だが、生徒らが揃って席を外すというのもおかしい。授業場所が変更になったのかと疑うが、だったら連絡事項として綱吉にも伝えられて然るべきだ。
 そうして彼は、先ほどの、やたらと人の顔を見て笑っていた生徒を思い出した。
 彼らは、綱吉とクラスが違う。リボーンが家庭教師としてやって来た後も、人を見てダメツナと指差し笑う連中のひとりだ。
「まさか」
 嫌な予感が胸を過ぎり、綱吉は教室内部を改めて、注意深く見回した。真っ先にチョークの粉が塗された、汚い黒板に目が留まる。
 何かが書かれていて、それを慌てて消した形跡が窺えた。蛇行する筋は太く、書かれていただろう内容は容易に読み解けない。だが此処に、今日の補習における重要な記載があったのは、最早疑う余地が無かった。
 白い粉を指で辿り、彼は途方に暮れた顔をして唇を噛んだ。
 暑さ以外の理由で頭がガンガンする。首筋に生温い汗を浮かべた彼は、悲壮な表情をして振り返り、相変わらず人通りの無い廊下を視界に入れて肩を落とした。
 あのふたりは階段を、上の方へ走って行った。わざと綱吉を惑わす為でなければ、彼らの目的地もその方角にある。上階にあるのは一年生の教室、または渡り廊下を経た先に特別教室がいくつか。
 それと、屋上。
「どうしよう」
 行った方が良いに決まっている、補習とはいえ授業だ。しかし意地悪をされて置いていかれて、こんな泣きそうな顔をして合流するのは嫌だ。
 暑い中、折角学校まで来たというのに、本気で今すぐ帰ってしまいたい気分になった。綱吉は思い切り床を蹴り飛ばし、怒りを幾らか発散させた。
 考えるだけで悔しくて、涙が出て来る。じんわり濡れた瞳を乱暴に擦り、絶対に泣いてなどやるものかと心に誓って、彼は荒々しい足取りで廊下へと出た。
 そうして階段の手前で曲がろうとして、足が止まった。
「あ、うわ」
「……なに」
 予想していなかった人が登って来るところに遭遇してしまい、思わず声に出てしまう。聞きつけた雲雀は途端に不機嫌に顔を顰め、下から綱吉を睨みつけた。
 険のある眼差しを向けられ、暑さがスーッと引いていく。ぎこちなく笑い返そうとして失敗して、綱吉は頬を引き攣らせた。
 他に風紀委員の姿は無く、草壁も一緒ではないようで、雲雀はひとりだけだった。だからといってそれが救いになるわけでもなく、会釈だけしてすれ違って置けばよかったと後悔しても遅い。
 雲雀はゆっくりと残りの段差を登り、硬直している綱吉の前に立った。
 道を塞がれ、渋々半歩後退する。
「ど、どうも……」
「補習は?」
 彼が何故、夏季休暇中の学校に居るのかについては、問われなかった。最初から補習授業が行われると知っていて、参加者名簿に綱吉の名前があるのも把握していたと思われる。
 綱吉の頭の悪さは、ある種天賦の才ともいえた。学年最下位を独走する彼は、誰の追随も許さない――褒められたものではないのだが。
 低い声で淡々と問われて、綱吉はギクリと肩を震わせた。反射的に胸の前で両手を結び合わせ、サササ、と前を見たまま後ろに進んで、雲雀から距離を取る。ぎこちない笑みを浮かべてなんとか誤魔化そうと試みるが、雲雀の表情は険しくなる一方だった。
 階段を登り終えた時の姿勢のまま、綱吉に左肩を向けていた彼が、ゆっくりと正面に向き直った。
「サボりとは、いい度胸だね」
 不敵な笑みを浮かべ、彼は軽く握っていた両手を広げた。ゆったりとした動きで、トンファーを取り出そうとしてか指先が怪しく蠢く。不穏な空気を肌で感じ取り、綱吉は大慌てで首を横に振った。
 両腕を前に突き出し、違うと叫んで更に三歩、後退する。
「違う?」
「そそそ、そ、そうです。補習、俺、ちゃんと時間通りに来たのに、待ってても先生が来ないから」
 他クラスの生徒に意地悪をされた云々の話は飛ばして、綱吉は唇を尖らせ言った。
「本当に?」
「嘘じゃないですよ」
 だが雲雀は信じてくれず、綱吉はムッとして語気を強めた。
 だったら来てみろと、補習が行われる筈だった教室に戻って中を指し示す。無人の部屋を覗き込んだ雲雀は、ようやく納得した様子で頷いた。
 そうして、綱吉がなかなか気付かなかった黒板の不自然さに即座に反応し、目を眇めた。
「なに、これ」
「それは……なーんでしょうねえ?」
 本当は知っているのに誤魔化して、綱吉は苦笑した。無理のある笑顔を横目で盗み見て、雲雀が教卓に寄りかかる。上半身を後ろに倒して濃緑色の盤面を眺め、瞳を上向かせた。
 何かを思い出した風の表情の変化に、傍らで見守っていた綱吉は首を傾げた。しかし雲雀は何も言わず、姿勢を戻すと、ツカツカと窓辺に寄って白いカーテンを真横に引いた。
「あれ」
 眩い陽光が差し込むとばかり思っていた綱吉は咄嗟に身構えたが、予想に反して外は微妙に薄暗い。さっきまであんなにも晴れていたはずなのに。
「ああ、やっぱり」
「ヒバリさん?」
「なら、全員屋上かな」
 ひとり得心が行った様子で呟いている彼に歩み寄り、綱吉は横に並んだ。空の暗さの理由を探ろうと膝を軽く曲げ、上を向く。
 途端、何故か雲雀に顔を叩かれた。
「いてっ」
 ぺちん、と小気味のいい音がして、綱吉はそのまま蹲った。打たれた箇所を両手で庇い、睫が目に入ったと乱暴を働いた青年をねめつける。
 雲雀は肩を揺らして笑い、いきなり歩き出した。
「ヒバリさん」
「おいで。もうじき良いものが見られるから」
 唐突な彼に面食らい、中腰で名前を呼ぶが振り向いてさえ貰えない。その代わり手招かれて、綱吉は釈然としないまま立ち上がり、彼に遅れて教室を出た。
 上に行くのかと思いきや、雲雀が取ったルートは地上階へ向かうコースだった。
「何処に行くんですか?」
「外だよ」
 屋上は生徒らが群れているだろうから、と言って雲雀はリズムよく階段を降りていった。彼にまで置いていかれないよう、綱吉も駆け足で追いかける。一階に出ると雲雀は正面玄関ではなく職員室前を素通りし、体育館に通じる道順を辿り始めた。
 外、と聞いていたのでてっきり靴を履きかえるのかと思っていたが、違うらしい。
 黙々と進む背中を見詰め、綱吉は教室で見たよりも若干暗さが増した外に意識を傾けた。状況の異様さを感じ取ってか、あれほど喧しかった蝉の声もいつの間にか消えていた。
「なんだろう」
 曇ってもいないのに、こんなに薄暗いのは気味悪い。肌寒さを覚えて己を抱き締めると、久方ぶりに振り向いた雲雀が肩を竦めて笑った。
「日食だよ」
 知らなかったのかと続けられて、綱吉はきょとん、と目を丸くした。
 足も止まってしまい、両者の距離が開く。仕方なく雲雀は左肩を彼に向けたまま立ち止まり、呆れ顔で腰に手を据えた。
「なに、本当に知らなかった?」
「え、あ……テレビとかで、あるっていうのは聞いてはいますけど」
 日本で四十数年ぶりに見られるという皆既日食は、天体マニアのみならずとも注目に値する一大イベントだ。
 地球は太陽の周りを、自転しながら一年かけて回っている。月はその地球の周囲を、一日一周のペースで回っている。この三つの天体が一直線に重なる時、それも太陽と地球の間に月が挟まることで起きる現象が、日食だ。
 地球も月も、常に太陽を周回しているのだから、これらが軌道上で重なる日食は、それなりの頻度で起こりそうなものだ。けれど三者の回転する角度が僅かにずれている為に、地球上の同じ地点で、皆既日食が繰り返し見られるのは稀だ。
 だからこそ、日本で観察できる今日は貴重な一日になると随分前から言われていた。新聞、雑誌、テレビも大賑わいで、間違った観察方法をしないようにとの啓発も繰り返されて来た。
 それなのに綱吉は、すっぱりその事を忘れていた。
「補習も、即席の天文観察会になったんじゃないの?」
「はあ」
 分かったような、分からなかったような顔をして返事し、綱吉は窓の外に目を向けた。そういえば今日の献立、ではなく補習メニューは理科だった。
 きっと今頃、屋上では先生の小難しい説明が展開されているに違いない。しかし、ならば何故雲雀は空に近い屋上ではなく、遠い地上を目指すのだろう。
 また前を向いて歩き出した彼に付き従い、綱吉は雲の少ない空に目を丸くした。
「うわ」
「かなり進んでるね」
 部活中の生徒らも、事の成り行きを見守って空を見上げている。雲雀は校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下の下で立ち止まり、左手首に巻いた時計に目をやった。
 針は午前十一時に至る少し手前を指し示していた。
 足元に伸びる影が薄い。肌を撫でる大気も、この時期の熱風とは少し感触が違っていた。
「ん、なんか。涼しい?」
「日照が限られているからね」
 夏の厳しい日差しが弱まり、盛夏の只中でありながら僅かに肌寒ささえ感じた。屋外にいるというのに信じられず、不思議そうに呟けば雲雀から合いの手が入った。
 瞬きをひとつして隣を窺えば、彼は真っ直ぐ前を向いて吹く風に任せて黒髪を揺らしていた。
「凄いんですね」
「そうだね」
 ただ残念な事に、並盛では皆既日食を望めない。太陽が全て隠れるのは日本列島でも南の方だけで、此処からではせいぜい七割が隠れる程度だ。
 それでも部分食としては充分だと雲雀は呟き、控えめに笑った。
 その思いがけず優しい表情に、目が合った綱吉はドキリと胸を高鳴らせた。
「へ、へえ。そうなん、ですか」
「うん」
「へー」
 心臓が変な風に跳ねて、急に呼吸が苦しくなった。ドドド、と耳元で何かが迫る音が響き、さっきまで涼しかったのが何処かへ消え失せて今はただ、馬鹿みたいに暑い。
 返事もどことなく落ち着きを失い、妙なところで読点を打ってしまった。
 けれど雲雀は気付かず、スッと身を引いて前に向き直った。視線は外されたが足元が波打つような変な感覚が抜けず、綱吉はよろめきを誤魔化し、一歩前に出た。
 渡り廊下のトタン屋根の下を抜け、上履きのまま乾いた土へと降り立つ。
「沢田」
「どんな風になってるんだろ」
「沢田!」
 火照って赤い顔のまま、雲雀から逃げるように更に二歩、前へ。そうして頭上にある、月に半ば食われてしまっている太陽を仰ぎ見ようとして、彼は後ろから伸びた雲雀の腕に思い切り押し潰された。
 べちん、と教室で叩かれたよりも痛い音がして、骨身に沁みた一撃に綱吉は逢えなく撃沈した。
 矢のように鋭い声が発せられた直後、手加減なしの拳骨を脳天に喰らった。上向こうとしていた綱吉はもう少しで地面にキスをするところで、もんどりうって倒れこみ、じんじんする頭を両手で抱えてしゃがみ込んだ。
 無体を働いた雲雀も、殴った右手が少し赤くなった。
「なにするんですか!」
「馬鹿」
「それは認めますけど!」
 頭が悪いから、テストの成績も低レベルだった。馬鹿だから、夏休みなのに補習授業に呼ばれた。
 自他共に認めるダメツナは、教室で待ち惚けしているくらいが丁度良いとからかわれ、補習内容が変わって屋上行われることになった特別授業の事も、教えてもらえなかった。
 自分で言っておいて落ち込んだ彼に肩を竦め、雲雀は右手首をぷらぷらと揺らした。
「……違うよ」
「なにがですか」
「太陽を直接、何の防御手段も講じずに見たら、失明する」
 嘆息を混ぜ込んだ彼の言葉に、恨みがましく視線を上向けた綱吉は面食らった。
「え?」
「太陽光には、目に見えない紫外線や赤外線が混じってるっていうのは、知ってるよね」
 日焼けの原因になると言われている紫外線ならば、知っている。赤外線は電子レンジくらいしか思い浮かばなかったが、雲雀が言うのだから間違いないのだろうと綱吉は頷いた。
 その、あまり分かっている様子がしない表情に苦笑して、雲雀はいい加減立ち上がるよう手で促した。
 渋々、極力上は見ないようにして背筋を伸ばし、綱吉は瘤になっている箇所に指を這わせた。
「つまりは、……そうだね、君は夏の太陽を、何十分も見上げていたいと思う?」
「いいえ」
 これははっきりと返事をして、彼は首を横に振った。
 夏場に限らず、直射日光を長時間見詰められるとは思わない。なにより眩しいではないか。目が乾いて、頭が痛くなる。
「ああ、なるほど」
 そこまで考えて、綱吉は納得顔で頷いた。たとえ日食中であっても、見上げるものは太陽だ。
「多分君の解釈は少し違うけど……、裸眼で見てはいけないとだけ知っていれば、それでいいよ」
 あまりにも噛み砕きすぎた綱吉の理解に、雲雀は頬を掻いた。が、仔細な説明をしている間も惜しいので今回は妥協して、伸ばした人差し指で地面を指し示した。
 向かう先には、何本か木が植えられている。水飲み場をぐるりと囲む形で、日陰の涼を提供していた。
 花壇に伸びる花たちも、この薄暗さが分かるのか片寄せあって不安げに風に震えている。真っ先にそちらに目を向けた綱吉は、またも違う、と雲雀に首を振られた。
「おいで」
 腕を前後に振り、雲雀が上履きであるに関わらず平然と地面に降り立った。綱吉をその場に残し、曇り空を思わせる青天の下をずんずん歩いて行く。水飲み場の方へ向かう彼を慌てて追いかけ、綱吉はふと目に入る光景に違和感を抱いて首を捻った。
 なんだろうか、なにかがおかしい。
 雲雀は周辺の木々の中で最も背の高い、広範囲に枝を広げている木の根元に立った。盛り上がった根っこに右の爪先を置き、幹に手を添えて遅れて到達した綱吉に目を細める。
「ほら」
 そうしてまたも足元を指し示し、綱吉が抱いた違和感の正体を教えた。
「あ、あれ」
「これが今の、太陽の姿だよ」
「ほ?」
 意味が分からなくて、綱吉は素っ頓狂な声を出して彼を凝視した。
 ふたりは樹下にあり、緑葉の傘の下に入っている。風が吹くたびに枝が揺れ、サラサラと木漏れ日が散った。
 その形は、綱吉が知る限り綺麗な円形であるはずだ。ところが今現在、ふたりの肩に、腕に、そして地面に舞い散る光は、まるで三日月のような奇妙な形をしていた。
 虫食いだと綱吉が呟けば、面白かったのか雲雀は声を立てて笑った。
 型で切り抜いたような形の木漏れ日が、綱吉の肩や腕にも降り注ぐ。前を見れば、雲雀にも同じ形の日射しが、そよそよと吹く風と一緒に舞い散っていた。
「どう?」
「え?」
 思わず見惚れてしまって、問いかけに一瞬反応が遅れる。赤い顔をしてきょとんと目を丸くした綱吉は、不可思議な彩に包まれる雲雀の微笑みから慌てて視線を逸らし、俯いた。
 太陽に月が食い込む、その最たる瞬間が終わったのだろうか。周囲は少しずつ明るくなり、彼らの足元で踊る木漏れ日も少しずつ、本来の形を取り戻そうとしていた。
「あ、あー」
 三日月が、半月に。綱吉は邪魔になる前髪を左手で押さえ込み、膝を折って木漏れ日に顔を寄せた。
 時間の経過を残念がる彼を眺め、雲雀が笑みを噛み殺す。
「また、そのうち見られるよ」
「本当ですか?」
「二十六年後にね」
「うわー……」
 キラキラと期待に満ちた眼差しを向ければ、さらりと遠い未来を宣告された。これでは喜んだ自分が馬鹿みたいで、綱吉は遥か彼方に視線を流した。
 ズボンを軽く叩いて砂埃を払い、立ち上がる。雲雀はちょっとした悪戯が成功したのが嬉しいのか、不満げに頬を膨らませている綱吉を見てしきりに目を細めて肩を揺らしていた。
「ちぇ」
「なに」
「どうせなら、ちゃんと見たかった」
 今頃になって、テレビでやっていた日食観察の際の注意事項を思い出した。朝も、そういえば食事時のニュースで特集していたではないか。
 直接目で見るのは危険だから、赤外線を遮る特殊な加工を施した眼鏡を使用するように、とも言っていた。それがあれば、雲雀に頭をポカスカ殴られることも無かったのだ。
 素直に屋上に行っておけば、先生が用意してくれていたかもしれないのに。
「なら、忘れないように買っておかないとね」
 次は、と付け足して呟き、雲雀は徐々に明るくなっていく空に胸を反らせた。
 疎らな木漏れ日を足で蹴り飛ばした綱吉が、風に乗って耳元で囁かれた言葉に琥珀の目を見開く。慌てて両手を広げ、暗算も出来るだろうに指折り数えて今の年齢と、次に日本で見られる皆既日食までの年数を足していった。
「よん、じゅう……」
 気が遠くなるような年齢がはじき出されて、先に歩き出していた雲雀の背中を窺う。
 その彼は渡り廊下に戻ると、まださっきと同じ場所にいる綱吉を振り返り、怪訝に眉を潜めた。
「どうしたの」
「あの、ヒバリさん」
「うん?」
「その眼鏡って、誰が」
「君に頼んだら忘れるだろう」
「あう」
 それも否定できない。駆け寄って訊ねれば即答されて、綱吉は呻き、下唇を噛んで、上目遣いに雲雀を見やった。
「なに?」
「……なんでもないです」
 雲雀は分かって言っているのだろうか。
 次の皆既日食は、二十六年後。綱吉はもう四十歳の、いい大人だ。
「二十六年、か」
 十年後の自分の姿さえ想像つかないのに、いきなりその倍以上先の未来が目の前に降って来た。考えるだけでも可笑しくて、声を殺して笑っていたら、隣を行く雲雀が変な顔をした。
 熱でもあるのかと言われて、額を撫でられる。
「ちゃんと忘れずに、ふたつ、買っておいてくださいよ」
 それでもケラケラ笑いながら楽しみにしていると言えば、雲雀は肩を竦め、軽く握った手で彼を叩いた。
「分かってるよ」
 やや不機嫌に頷き、風紀の腕章を揺らして雲雀は手を広げた。ふたりの間で揺れる腕が、ふとした瞬間にぶつかって、肌が触れ合う。
 明日のことも分からない自分たちだけれど、二十六年後に地球上で、この日本で、日食が起こるのは確約されている。
 ならばその日の、その瞬間も。
 ふたりは共に、隣に。

2009/07/20 脱稿