指頭

 明日こそは遅刻すまい、と誓った日に限って、どうしてか目覚まし時計が反乱を起こしてくれるのは、何故だろう。
「うっそだろー!」
「さっさと行って来い、ダメツナ」
 ドタバタと足音五月蝿く廊下を走り回り、綱吉は制服のボタンをはめながら洗面所へと駆け込んだ。後ろからは呆れ顔のリボーンが、目出度く遅刻確定の時間に起床した彼を嘲笑い、愛用の銃器片手に準備を急かす。
 枕元でうつ伏せに転がっていた時計を拾い、文字盤を見た瞬間、それまで全身に蔓延していた睡魔は綺麗さっぱり吹き飛んだ。朝食をのんびり食べていては間違いなく遅刻で、彼は冷たい水で雑に顔を洗うと、前髪から雫を垂らした状態で台所に駆け込み、ランボが取ろうとしていたトーストを横から掻っ攫った。
「ちょっと、ツッ君」
「時間ないの、ランボごめん」
 奈々に見咎められ、小さな手が空を切ったランボには涙目を向けられたが、綱吉は構う事無くそれに目玉焼きを載せると、半分に折り畳んでぎゅっと押し潰した。
 間にサラダも適当に放り込み、即席サンドイッチを作って口に放り込む。立ったまま食べるのは行儀悪いと分かっていても、時間との戦いだ、一秒であろうと惜しい。
 半熟の黄身がとろとりと垂れるが、味を気にしている余裕は皆無。綱吉はろくに咀嚼もせぬまま、噛み千切った塊を牛乳で胃に押し流し、残り半分となったサンドイッチを咥えてキッチンを飛び出した。
「どうしてもっと早く起きられないの」
「ひょーふぁふぁふぃふぁなふぃ!」
 目に涙をいっぱい溜めて、えぐえぐとしゃくりをあげているランボを宥め、肩を竦めた母の小言に怒鳴り返すが、トーストが口の中にあるので、呂律が回らない。しょうがないじゃない、と鳴らなかった――もとい、自分で気付かぬうちに止めていた目覚まし時計に責任を押し付け、彼は洗面所からのんびり出て来たリボーンを恨めしげに睨んだ。
 同じ部屋で寝起きしている彼こそ、起こしてくれればいいのに。
 視線に意思を込めるが、黄色いおしゃぶりを下げた赤ん坊は飄々とした態度を崩さない。綱吉など端から眼中に無い顔をして、着席して食事を楽しむべく、キッチンへと姿を消した。
「ちぇ」
 階段を駆け上りながら悪態をつき、綱吉は開けっ放しのドアから部屋に戻った。昨晩着て寝たパジャマは、起きた直後の騒動を想起させる散らばり方をしていた。
 それらを拾いもせずに避けて通り、窓際の勉強机に近付く。時間割など当然揃えているわけがなくて、口の中に残っていたレタスの芯を奥歯で擂り潰し、彼は急ぎ積み上げられた教科書の山を突き崩した。
 正面の壁に貼っている表と照らし合わせるが、今日が何曜日だったかが直ぐに思い出せない。
「あー、もう!」
 昨日が火曜日だったから、今日は木曜日。焦りすぎて、真ん中の水曜日をすっ飛ばしていることにも気付かず、彼は翌日の授業の支度を整えて、最後に椅子に引っ掛けたままだったネクタイを引っ掴んだ。
 衣替えも終わり、並盛中学校の制服は、現在半袖に紺色のネクタイが基本だった。
 とある委員会を除く、並盛中学校在席の男子生徒は全員、綱吉と同じ服装を強いられる。少しでも乱そうものなら、悲惨だ。
「ネクタイ、結んでる暇無いよ」
 どうしよう、と壁時計を見上げて苦悶の表情を浮かべ、綱吉は二者択一を迫られて唇を噛んだ。
 実のところ、彼はこの作業がとても苦手だった。自分でやると、どうしても綺麗に結べない。かといって奈々にやってもらうと、彼女は基本的にのんびりなので、急かしても聞いてくれない。
 そして、ちゃんと結べていないと、それだけでも身だしなみが出来ていないと言われて、風紀委員に減点を言い渡されてしまう。
「どうしよう……って、もう!」
 悩んでいる間も時間は着実に過ぎていき、分針がひとつ進んだのを見て、彼はやけくそに叫んだ。
 教科書が詰め込まれた鞄を右肩に担ぎ、ネクタイの両端を抓んで頭を潜らせた。襟の下に素早く押し込んで、部屋を出る。
 階段を駆け下りながらどうにか左右の長さを揃えると、待ち構えていた奈々から弁当を受け取って一旦鞄を下ろした。
「もっと余裕を持って行動しなさいな」
「分かってるよ」
 五月蝿い小言を適当にやり過ごし、教科書類の一番上に弁当を置いて、ファスナーを閉める。途中、弁当を包む布を噛んでしまい、指先に感じた抵抗に彼は顔を顰めた。
 どうして急いでいる時に限って、こうも面倒臭いことが起きるのか。
「ちっくしょ……こなくそ!」
 彼は腹に力を込めて鼻息荒く吐き捨て、強引に布を巻き込んで鞄の口を閉じた。見ていた奈々が頬に手を添え、呆れた顔をして溜息をつく。こんなに落ち着きが無い子に育てた覚えは無いとまで言われて、その息子はばつが悪い顔をした。
 銀色のファスナーの隙間からは、包みに使っている布がちらりとのぞいていた。食い込んだ分削られて、糸が解けてしまっている。乱暴に扱われたのを責められている気分になって、綱吉は視線を逸らし、靴に爪先を押し込んだ。
「ネクタイ、どうするの」
「走りながら結ぶ」
 襟から胸元に垂れ下がるネクタイにも目をやり、奈々が問う。そんな器用なことが出来る息子ではない、という感想は心の中に留め、踵を返した綱吉に彼女は鷹揚に手を振った。
「行って来ます!」
「気をつけるのよ」
 転ばないように、と言おうとした矢先、扉が開くタイミングと、足を前に出すタイミングが微妙に合わなくて、彼は額からドアにぶつかっていった。ごちん、と痛そうな音を響かせて蹲るが、痛がっている余裕が無いのを直ぐに思い出し、彼は目尻に涙を浮かべ、恥かしそうに出て行った。
 右肩に鞄、左手は赤くなった額に。
 燦々と晴れ渡る空の下、予鈴まであと十分を切った学校へと急ぐ。
 ネクタイの事は、ドアに頭をぶつけた衝撃で、綺麗さっぱり何処かへ飛んで行ってしまった。胸元の布が、一歩前に進むたびにはためいて邪魔でならず、彼は痺れを切らし、青が点滅する信号を駆け抜ける寸前、思い切って襟から引き抜いた。
 正門手前で結べば良い、今は兎に角遅刻しないのが最優先だ。
「ちっくしょ……どーして俺って、いつもこうなんだよ!」
 半ばやけくそで叫び、周囲の人が怪訝にする中、全速力で道を急ぐ。遠くに校舎のてっぺんが見え始めて、彼はホッとした様子で肩の力を抜いた。
 瞬間。
「うげっ」
 キーンコーン、と長閑な音色が鼓膜を打った。
 中学校の周辺は住宅地で、チャイムを鳴らすような工場は無い。だから間違いなく、これは並盛中学校から流れている。
 冷たい汗を背中に感じ、綱吉は喉の渇きに喘いだ。家から全力で走って来たので体力は限界一歩手前、正門まで残る距離はおおよそで、二百メートル少々。
 元気が有り余っていたなら、三十秒あれば余裕で到達できる。しかし朝食もろくすっぽ食べていない彼の耳には、鐘の音は断頭台のギロチンの音に等しく響いた。
 しかもネクタイも、まだ結べていない。
「どどどど、ど、どうし、よっ」
 左手に握った細長い布の束に目をやり、右往左往して綱吉は出かかった脚を引っ込めた。
 壁の向こうは学校の敷地だが、乗り越えるには少々高すぎる。それに正門までは直線コースなので、こちらの動きは多少遠くとも、向こうから丸見えだ。
 風紀委員の黒い学生服が、点となって並んでいるのが見えて、綱吉は奥歯を噛み締めた。
 諦めていくしかないのか、まだ本鈴まで幾許か余裕がある。
「ええい、男は度胸!」
 余韻を残して終わった予鈴に耳を澄ませ、綱吉は覚悟を決めてネクタイを首に通した。
 鞄を肘と脇で挟んで動かないよう固定し、顎を引っ込めて指先をちょこまかと動かす。左右どちらが前だったかで一瞬悩み、ままよ、と記憶を頼りに結び目を作ってそこに細い方を捻じ込んだ。
 引っ張って形を整え、完成したのは。
「う、逆だ」
 出来上がってから気付くというのはなんとも間抜けな話だと、数秒前の自分を心底怨みながら綱吉は頭を抱え込んだ。
 けれど、直している暇はもう残されていない。駆け足で通り抜ければ、流石の風紀委員も気付くまいと自分を鼓舞して、彼は両手で鞄の柄を握り、それで結び目を隠すことに決めた。
 悪足掻きだと分かっているが、今は一点でも減点を減らしたいのだ。
 あと数点追加されると、放課後の罰掃除が待っている。次の担当先は、汚くて臭くて暗い、として有名な体育館裏の男子トイレだと、以前より宣告されていた。
 あそこの掃除をすると汚物の臭いが身体に染み付いて、翌日まで臭うとまで言われていた。そんな場所をひとりでやらされるのは絶対に御免で、彼は必死の思いで正門に向かって強く地面を蹴り飛ばした。
 寸前で、同じく遅刻を回避しようと懸命に走る生徒に追い抜かれる。彼は大声で風紀委員に挨拶をして、戦々恐々しながら校舎へ駆け込んでいった。
 綱吉も負けじと歯を食いしばり、残る全ての力を振り絞って鞄を胸に抱き締めた。
「おはよう御座いますぅ!」
 若干舌足らずに叫び、リーゼントが勇ましい、この暑い中長袖の風紀委員の間を駆け抜けた。
 ぎりぎりセーフ、これで今日は一日安泰。
 本鈴まではまだ数分残されていた。遅刻回避の喜びに、彼は心地よい汗を散らして両手の力をつい、緩めてしまった。
「沢田綱吉、ちょっと待った」
「っ!」
 鞄が胸の上を滑り、隠れていた襟元が露になる。教室に着くまでが戦いだとすっかり忘れていた彼は、その人物の前を通り過ぎようとした瞬間、呼び止められて口から心臓を吐き出した。
 転びそうになったのをどうにか堪え、目を白黒させててダラダラ汗を流して挙動不審に鞄を抱え込む。自分は沢田綱吉などではない、と確実に嘘だと分かる言い訳をしようとした口を閉ざし、彼は観念してしょんぼりと近付いてくる青年を前に小さくなった。
 項垂れて、一緒に蜂蜜色の髪の毛までが頭を垂れた。
「ネクタイ」
「うぅ……」
 ずばり指摘されてしまった以上、最早言い逃れは不可能。折角此処まで走って来たのに、と綱吉は涙目で自分を呼んだ人物を仰ぎ見た。
 他の委員とは違い、彼だけは綱吉と同じ制服だった。白の半袖シャツに、黒のスラックスと革靴。違いがあるとすれば左腕に安全ピンで固定された腕章くらいだ。ついでで、ネクタイの結び方と。
 大人しく鞄を下ろし、見事結び目が前後逆になっているネクタイを彼の前に晒す。ぎりぎり間に合った生徒が、雲雀に捕まっている綱吉を見て同情めいた視線を投げて通り過ぎて行った。
「どうして駄目か、分かってるよね」
「はい……」
 朗々と響く声に、今にも消え入りそうな声量で返す。鞄で膝を叩き、綱吉は左手で汚らしい結び目を撫でた。
「やり直し。あと、生徒手帳出して」
 人差し指で胸元を小突かれ、綱吉は下唇を突き出して顔をあげた。
 不満げな表情を向けられて、雲雀は肩を竦めて小さく笑った。
「返事は?」
「はぁい」
 ぶすっと頬を膨らませ、渋々といった感じで返事して、綱吉は左胸に手を押し当てた。ホームベース型のポケットを上から叩き、中に指を入れてかき回す。顔は雲雀に向けられたままなので、どうにも見ていて滑稽だった。
「ん?」
 その綱吉の手が一旦ポケットから出て、掌全体で周囲を包み込んだ。ぽんぽん、と軽く二度撫でて、次のその手は尻へ向かった。
 膨らみに添えて左から右に撫で回し、数秒の沈黙を挟んで。
「……あ、れ。えっと、少々お待ちを」
 冬服のブレザーなら、滅多に洗濯しないのでポケットに入れっぱなしでも問題ない。しかし夏服は、汗を吸うので毎日交換しないと臭くて仕方が無い。
 今日のこれも、先日奈々が洗濯してアイロンを当ててくれたものだ。
「忘れたの?」
「そんなわけは。待ってくださいってば」
 雲雀の合いの手に首を振り、彼は肩に担いでいた鞄を肘に提げた。右手でファスナーの抓みを持ち、あけようと銀のラインを滑らせる。
 しかし弁当包みの布が絡んだところで引っかかり、金具が其処から先に進まなかった。
「お? あ、れ。この」
 閉める際に噛んだ時、慌てずにちょっと戻して間に挟まっている布を退けておけばよかったのだ。その僅かな手間さえ惜しんで、強引にファスナーを閉めたので、一センチ以上に渡って布が食い込み、ちょっとやそっとでは外れそうになかった。
 鞄を左右に揺らし、一緒になって上半身も前後に揺する彼に、雲雀が怪訝な顔をした。
「まだ?」
「待ってください、今すぐ……」
 何故昨日の自分は、手帳を鞄の外側にあるポケットに入れなかったのだろう。念の為確認した中は飴の包み紙が一つ入っていただけで、ほかは見事に空っぽだった。
 急かす雲雀に臍を噛み、綱吉は膝を折って鞄を下ろした。近頃雨が降っていないので、乾いた地面はかなり埃っぽかった。
「沢田」
「今出しますから!」
 仕方なく、開いた十センチばかりの隙間から手を入れて、金属の目が肌に食い込んで痛いのを我慢し、中を手探りでかき回す。しかし元凶となっている弁当が真ん中にどん、と居座っており、反対側の奥まで指が届かなかった。
 いける範囲を弄るが、それらしきものに行き当たらない。
 雲雀は嘆息し、両手を腰に当てた。視線を上向け、晴れ渡る青空にまぶしそうに目を細める。
 本鈴のチャイムが、高らかに鳴り響いた。
「委員長」
 すかさず副委員長の草壁が彼に声を掛け、近づいて来た。蹲っている綱吉をちらりと見てから、背筋をピンと伸ばして畏まる。
「終わって良いよ」
「承知いたしました。そちらは……」
「いい」
 本日の遅刻者は、綱吉以外ゼロ。最近は風紀委員を恐れて、皆頑張って早起きを心がけているその成果といえよう。
 ガラガラと門が閉められる音を聞き、綱吉は半泣きで後ろを振り返った。
「えええー」
「遅刻もプラスね」
「そんなぁ。ちゃんと間に合ってたじゃないですか」
 本鈴が鳴る前に中学校の敷地に入っていたのだから、セーフの筈だ。しかし雲雀のルールでは、本鈴が鳴る前に教室に入っていなければ、遅刻。ここでモタモタしていたのも、全ては綱吉自身の責任だ。
 すげなくあしらわれ、彼は大粒の瞳を歪めて口をへの字に曲げた。
 数秒を惜しんだばかりに、ロスはその十倍以上になってしまった。自己嫌悪に陥るには充分で、最早焦っても意味が無いと彼は肩を落とした。
 深く溜息を零し、くしゃりとすっかり乾いた前髪を掻き毟る。
「ちぇ」
「ほら、手帳」
 悪態をつき、舌打ちする間も雲雀は待ってくれない。彼とて暇では無い、綱吉ひとりだけをいつまでも構ってはいられないのだ。
 手を差し出され、綱吉は心の中でだけ、彼にあっかんべー、と舌を出した。
 しかし現実はというと、かなり深刻だった。
 強引に噛んだ布ごとファスナーを開こうとしたので、力業を駆使した結果、余計複雑に糸が絡み、さっき以上に開かなくなってしまっていた。このままでは生徒手帳どころか、教科書も、ノートも、弁当箱さえ取り出せない。
 まだ時間割を一日間違えているのには気付かず、綱吉は汗で塩っ辛い唇を舐めて、片膝をついた。
「こンの……っ」
「なに、開かないの?」
 手を差し入れた分だけ広がった口を片手で押さえ、利き手で金具を握って渾身の力を込めて引っ張る。しかし綱吉の思い通りに事は運ばず、雲雀は呆れ混じりに汗だくの彼に問い掛けた。
 返事をせず、綱吉は同じ仕草を二度行い、ゼロコンマ五ミリばかり進めたところで力尽きた。
「そ、です、よっ!」
 ぜいぜい言いながら肩で息をして、もう一度挑戦する。だが結果は同じで、それどころか進めた分も戻らなくなってしまった。
 前にも、後ろにもいかない。立ち往生した金具は、どんなに揺らしてもビクともしなくなった。
「ちょ、ええー」
 またもや不満の声をあげ、綱吉は睫に飛んだ汗を嫌がって首を振った。
「なにやってるの」
 雲雀も痺れを切らし、膝を折って屈んだ。鞄を挟んで真向かいにしゃがみ、悲壮な顔をしている綱吉を覗きこむ。彼は苦虫を噛み潰したような顔をして、全く動かないファスナーを指で弾いた。
 見て分からないか、と生意気な態度を取った彼をひと睨みして、雲雀は膝に肘を立てて頬杖を着いた。
「噛んじゃってるね」
「ですよ」
 自分の方へ倒れた金具を爪で拾い、分かりきった事を呟いた彼に、綱吉は頬を膨らませた。
 そもそも、並盛の風紀委員が厳しすぎるから、こういう事になるのだ。もうちょっと規則を緩めて寛容になってくれたなら、綱吉は朝から焦ることなく、余裕を持って行動できたのだ。
 自分の寝坊癖を棚にあげた彼の不平不満に肩を竦め、雲雀はファスナーから外した手で綱吉の眉間を小突いた。
「言い訳は、見苦しいよ」
「だって、しょうがないじゃないですか」
 このまま鞄が開かなくなったら、雲雀の所為だ。論理を飛躍させて結論付けた彼に嘆息して、雲雀は仕方なく、彼の鞄を自分の足元に引き寄せた。抓みを立てて、ファスナーの内側から見える糸くずを軽く引っ張る。
 学校の正門脇で、ふたりして向かい合ってなにをしているのかと、見ている側は怪訝に思うだろう。しかし綱吉は人生がかかっており、彼の人生を委ねられた雲雀も、真剣だった。
 彼は半円形の鞄を持ち上げると底部を膝で支え、左手を隙間から内部にもぐりこませた。
「ヒバリさん?」
「黙って」
 ひと言で綱吉を制し、彼は糸が絡んでガチガチに固まってしまっている部分を覗き込んで、金具を軽く引っ張った。布端を咥え込まれた弁当の包みが、それにあわせてヒラヒラと暗い場所で踊った。
 大きな四角い箱に目を眇め、これが原因かと雲雀は肩を竦めた。
「寝坊するのが悪い」
「うぅ」
 どういう経緯でこうなったかを大雑把に推測し、ぴしゃりと言い切る。ずばり言い当てられた綱吉は萎縮し、膝を抱いて小さくなった。
「これ、布を切っても手遅れだよ」
 どうせ安物のハンカチを流用したものだから、端が一部引き千切れてしまっても、文句は言われまい。けれど既に深く広く、糸くずが絡んでしまっており、滑らかな開閉を阻害する邪魔者を排除するのは、そう簡単ではないと思われた。
 彼のひと言に、綱吉の琥珀が大きく歪んだ。
「そんなぁ」
「やってみるけど」
 泣き出す寸前まで来ている彼に苦笑して、雲雀は弁当の包みを下に引っ張った。ファスナーを掴んだままなので、張力の限界を超えた布は、実に呆気なく糸に戻り、ファスナーから分離した。
 これで幾分やりやすくなったと、雲雀は金具に絡む糸を一本引き抜いた。
 元々細い目を一層細め、真剣な眼差しで鞄と向き合う彼に、綱吉は丸めていた背中を伸ばして固唾を飲んだ。彼の緊張が痛いくらいに伝わってくる。耳元でピシピシと、凍った空気が罅割れていく音が聞こえてくるようだった。
 数ミリ金具を動かし、間にある糸を一本ずつ抜いてはまた少しだけ動かして、具合を確かめながら進めていく。根気の要る作業で、綱吉は見ているだけで疲れてしまった。
 自分には無理だと、乱暴に扱うことしか出来ないズボラな性格の自分に肩を落とす。
「外れそうですか?」
「黙ってて」
 進んでいるのか、いないのか、見守るしか出来ない綱吉にはさっぱり分からない。焦れて聞くと素っ気無く返されて、彼は唇を尖らせた。
 仕方がないでは無いか、退屈なのだから。
 雲雀が鞄を動かす度に、中のものが傾きにあわせて前後に揺れ動く。弁当が無事であればいいと願うが、登校中の猛烈ダッシュでとっくの昔にぐちゃぐちゃになっている気もして、彼は溜息を吐きながら天を仰いだ。
 白い綿雲がぽっかり浮かび、徒党を組んで青空を行進していた。雲雀が見れば群れるなと言いそうだと考えて、可笑しくなった。
「なに?」
「ふぇ?」
「笑ってる」
 そこへいきなり問いかけられて、綱吉は変な声を出してしまった。きょとんとして前を向くと、雲雀が手を休め、中腰を止めて地面に直接座り込んでいた。
 広げた膝の間に鞄を下ろし、門扉に寄りかかって足を投げ出す。正面から右斜めにずれられて、綱吉は尻を浮かせたまま、摺り足で彼の正面に回り込んだ。
 そうする必要など何処にもなかったのだが、なんとなく、そうしなければいけないような気がした。
「笑ってました?」
「うん」
「そうかな……」
 怪訝に問い返すと速攻で頷かれ、綱吉は自分の事なのに分からなくて首を傾げた。
 確かにちょっと面白いとは思ったが、顔にまで出ていたとはあまり思いたくない。恥かしいし、自分が笑われたと勘違いした雲雀が、機嫌を損ねて作業を放棄してしまうのではないかと、それがなにより恐ろしかった。
 けれど心配は不要で、雲雀は黙々と作業を続け、最初に比べると幾らかファスナーはスムーズな動きを取り戻していた。
「おぉ」
 凄い、と目を丸くして感嘆の声を出す。雲雀はちらりと綱吉を見て、鼻白んだ。
「あ、笑った」
「笑って無いよ」
「嘘だ」
「君だって、笑ってるじゃない」
「……むむ」
 いつも仏頂面の彼が、ちょっとだけ表情を緩めたのが嬉しくて、ついからかってしまう。すると揚げ足を取られ、綱吉は背中を丸めて立てた膝に顎を沈めた。
 ぶすっとする彼が面白いのか、雲雀は目を細め、達磨になっている綱吉の額を小突いた。
 絡んだ糸は、あと少しで全部取り除けそうなところまで来ていた。一時間目の授業が開始されて、既に十五分近くが経過していた。
 これが自分だったら、最初の五分で飽きていたに違いない。雲雀は短気だと思っていたが、意外に辛抱強く根気がある事に驚いて、綱吉はマジマジと彼の顔を見詰め、目が合いそうになって慌てて下を向いた。
 普段はトンファーを握り、群れている不良を滅多打ちにしている手も、思ったほど汚れていない。むしろ綺麗だ。
 自分の掌に目をやって、甲も返して傷だらけの表面に眉根を寄せる。なにかとトラブルに巻き込まれる綱吉は、それなりに怪我も多かった。おっちょこちょいな面もあるので、紙で指を切るのもしょっちゅうだ。
 何度も表裏を返して、雲雀のそれと見比べる。
「大きいな」
「なにが?」
 思わずぼそりと呟けば、雲雀が急に言った。
 まさか聞こえると思っていなくて、綱吉は驚いた。正面から真っ直ぐな眼差しを向けられて、心臓が飛び跳ねた。
「いや、あ、の」
「終わったよ」
「ヒバリさんの手、おっきいな……って、うわわ」
 何故か勝手に顔も赤くなって、しどろもどろに言い訳を口にしていたら、いきなり鞄をつき返された。
 爪先だけで地面にしゃがんでいた綱吉は、膝に鞄を置かれてバランスを崩した。ドスン、と音を立てて尻餅をつき、砂埃を撒き散らして雲雀に呆れた顔をされた。
 強かに打った尾てい骨を撫でて慰め、そのまま膝を横倒しにして地面に座り、円を半分に切ったようなバッグを腿に置く。ファスナーの金具は端に留まり、口は閉まっていた。
「ほんとだ」
「それで、僕の手が、なに」
 試しに触ってみると、スムーズに開閉した。糸くずが詰まっていた箇所だけは若干固く感じたが、ちょっと力を入れるだけで難なく通り抜けることが出来た。
 驚きと感動に満ち溢れ、凄い、と琥珀の目を輝かせて目の前の青年を見上げる。そんな尊敬の眼差しを払い除け、雲雀は伸ばしていた足を片方引き寄せ、そこに寄りかかった。
「手?」
「さっき、何か言ってたよね」
「ああ。ヒバリさんの手、大きいですよね」
「そう?」
 相好を崩した綱吉の言葉に、雲雀は広げた右手を見下ろした。
 先ほどの綱吉同様に、表裏を何度か入れ替える。しかしぴんと来ないようで、眉間の皺は解けなかった。
「普通じゃないの」
「そうかなー」
 生まれてから今まで、彼の手はこれひとつだ。このサイズで殊更困ったこともないし、他人の手を羨ましいと思ったこともない。
 人からも言われた例がなくて、彼は首を傾げたまま、不思議そうに綱吉を見た。
「大きいほうが良いの?」
「そりゃ、小さいよりは」
 綱吉は背が低い分、手も足も、相応に小さい。まだまだ成長期の真っ只中なので、この先どうなるかは分からないにしても、将来は悲観的だ。
 小さく舌を出して言った彼に頷き、雲雀はふぅん、と分かったような、分からなかったような相槌を打って、右手を彼に差し向けた。
 いきなり掌を顔の前に持ってこられて、ぎょっとした彼は座ったまま後退した。なにか、と横から雲雀を覗き見て、無言の眼差しにああ、と頷く。
 それくらい、口で言うのもたいした労力ではなかろうに。そう思うのだが、鞄のファスナーが動かなくなってしまったのも、ちょっとした労力を惜しんだからだ。人のことはいえないと、綱吉は肩を竦めた。
 雲雀が右手なので、自分まで右手を掲げるのはバランスが悪い。向かい合ったまま、綱吉は左肩を持ち上げ、握っていた手を開いた。
「確かに、小さいね」
「そうでしょうとも」
 掌を重ね合わせると、いつも涼しげな顔をしている雲雀の、ちょっと汗ばんだ肌の感触が直に伝わってきた。
 彼も人の子だと思い出し、胸の奥がくすぐったくなった。
「大体、ヒバリさんと俺とで、身長差、どれだけあると思ってるんですか」
「二十センチくらい?」
「……そんなにはありません」
 真顔で言われ、綱吉はカクン、と頭を落とした。
「そうだっけ?」
「そうですよ」
「本当に?」
「ホントですって……ぶわ!」
 尚も疑問を呈され、綱吉はしつこい彼に怒鳴り返そうと口を開いた。瞬間、雲雀と重ね合わせたままだった左手が、ぎゅっと握られた。
 指と指との間に、雲雀の指が滑り込む。そのまま思い切り、骨が粉砕されるのではと思えるくらいに力いっぱい握り締められた。
 そこに内臓器官は無いのに、心臓までもが彼に鷲掴みにされた気分だった。しっとりと汗ばんだ肌の感触にどきりとして、全神経が彼と繋がっている箇所に集中する。思わず首を引っ込めて身を強張らせた彼を笑い、雲雀は予備動作なしに立ち上がった。
 肩が抜けそうなくらいに引っ張られて、綱吉はたたらを踏み、目の前に来た彼の顔に引き攣り笑いを浮かべた。
 伸びきった左腕が、頭よりも随分高い位置にある。手はまだ離してもらえなくて、爪先立ちを強制された。
「ひ、ばりさん……?」
 痛いのだけれど、と赤い顔で問いかけると、彼はふっ、と鼻を鳴らし、肩を下ろした。但し手は、依然結ばれたまま。
 掌を通して、雲雀の熱が流れてくる。綱吉の心音が、彼に届けられる。
 この耳に五月蝿い心臓の音が聞かれるのは、正直、死にそうなくらいに恥かしい。
「はなし、て、くだ、さ……」
「嫌だと言ったら?」
 歯をカチカチと鳴らして、引き攣った笑顔で懇願するが、雲雀の返答は非常につれない。至近距離からの意地悪い微笑みに、綱吉の鼓動がまたひとつ、ふたつ、立て続けに跳ねた。
 思わずぎゅっと、自分までもが彼の手を握り返してしまう。まるで、放さないでと自分から言っているように。
 雲雀も気付いているのか、低い声で笑った。
「遅刻の理由は、応接室でゆっくり聞くよ。此処は暑いからね」
「え、えええー?」
「生徒手帳の提出、まだだよ?」
 立った所為で日陰から頭が出てしまい、南東の空に輝く太陽に目をやって彼は言った。瞬時に綱吉の口から非難の声が放たれたが、痛いところをつかれて返す言葉が見付からない。
 そうだった、と右手で咄嗟に掴んだ鞄を見下ろすが、左手どころか身体全体の自由を奪われた今、自力で取り出すのはほぼ不可能に近かった。
 なにも応接室に行かずとも、此処で雲雀が手を放してくれさえすれば、事は片付く。だのにそのつもりは毛頭ないようで、雲雀は含み笑いを押し殺し、うろたえる綱吉を楽しげに眺めて一歩前に繰り出した。
 引きずられ、綱吉の身体が斜めに傾いだ。
「ほら、ちゃんとついてきなよ」
「いった。痛いです、引っ張らないで!」
 そんなにしなくても、雲雀から簡単に逃げられないのは分かっている。半ば泣き言を叫んで、綱吉は掌から伝わる心音に唇を噛み締めた。
 それはいつもの二倍の速度で、二倍の大きさで、ふたりの間に響き渡っていた。

2009/07/15 脱稿