眩耀

 チカチカと、瞼の裏で光が細かく明滅するのを感じて、綱吉は顔をあげた。
「んー?」
 瞬きにも満たない刹那の時間で、光の量が急激に増減した。しかし原因を探ろうと、意識して視線を上向けた頃には、瞳が覚える不快感は薄れ、消えてしまっていた。
 なんだろうか、と怪訝に眉を寄せて首を捻る。窓の外で誰かがライトを点滅させたのかとも思ったが、それも違う気がして彼は鼻の頭を爪で掻いた。
 勉強机の棚の上、手元を照らす小型の卓上ライトに変化は無い。相変わらず煌々と、一向に捗らない勉強風景を眩しく照らしてくれていた。
 シャープペンシルを握る手の、薄ぼんやりとした影がノートを斜めに横切っている。六ミリ幅の罫線が引かれた紙面は、隙間だらけだった。
 目線をあげたついでに壁時計を見れば、午後六時を少し回ったところ。開けっ放しの窓から吹き込む風は、昼の炎天下を思い出させる温さだった。
 それでも西の地平線に接した太陽は、少しずつ空の彼方へ向かい、眠りに就こうとしていた。棚引く雲を朱色に染めて、明日も頑張って大地を灼熱の炎で照らすぞ、と意気込んでいるようでもあった。
 連日の高温多湿ぶりには辟易させられた。たまにザッと降るスコールじみた雨のお陰で、湿度もずっと高いままだ。
「っと、いけない。終わらせちゃわないと」
 この課題が片付かないと、明日みんなで遊びに行けないのだ。
 相変わらず、リボーンの鬼家庭教師ぶりは健在だった。山積みにされた参考書の、指定のページを全て解き終えなければ、家から、もとい部屋から一歩も出さないとまで言われていた。
 そんな無茶な話、綱吉も当然反発した。しかし死ぬ気弾ではなく、実弾入りの拳銃を眉間に突きつけられては、逆らう気も失せるというもの。
 容赦ない彼の命令に渋々従い、綱吉は帰宅してからずっと机にかじりついていた。
 明日は土曜日、皆でプールに遊びに行くのだ。獄寺や山本は当然ながら、京子やハルも勿論一緒。期末試験前の憂鬱な気持ちを吹き飛ばし、リフレッシュしようという企画だった。
 ただそれも、テスト勉強に余裕があっての計画だ。綱吉のように、常に学年最下位に甘んじているような底辺の生徒は、一分一秒だって長く教科書と格闘すべきなのだろう。
 それでも、彼とて健全なる男子中学生。たまには思い切り、外で遊びたい。
 そう言ってリボーンから出された代替案が、この大量の問題集で。
 要するに、遊んでいる間にやる勉強を、今日まとめて一度に終わらせろと、そういう事だ。
「うん?」
 すっかり止まっていた手を動かし、左手で頭を掻き毟りながら机に肘をつく。猫背気味の姿勢を作ってテキストの例文に目を走らせた彼は、また目の端でチカッと光ったのに眉を寄せた。
 見間違いではない。確かに今、部屋の中で何か光った。
 まさかサボっていないかを監視するために、リボーンがカメラでもこっそり設置したのではなかろうか。充分あり得る話で、プライバシーの侵害だと心の中で呟き、綱吉は椅子を引いて立ち上がろうとした。
 そこへ、背筋がざわりとする不快感に見舞われて、彼は顔を引き攣らせた。
 目の前の景色が、まるで映りの悪いテレビにノイズが走るように、急に色を薄くして、ザラつき始めたのだ。
 耳障りな虫の羽音に似た音がして、こめかみの周囲に鈍痛を覚える。奥歯をカチリと鳴らし、彼は自分の身体を咄嗟に抱きすくめた。
 なにが起きているのか分からず、おろおろして部屋を見回す。リボーンは階下で、ビアンキと一緒にテレビを見ながら夕食が出来上がるのを待っている為、綱吉は今ひとりだった。
 生温い風が首筋を撫で、悪寒が強まった。
 まさか自室で怪奇現象に遭遇するとは思わず、冷静な思考回路は瞬く間に霧散した。彼は爪先立ちで左右の膝を擦り合わせて内股を作ると、助けを呼ぶべく、恐る恐る出口へ向かって歩き始めた。
 刹那。
「ひゃあ!」
 ヴン、とひと際大きな音が頭の中で響いた、気がした。
 いきなり目の前に閃光が走って視界が真っ白に染まり、直後ブツッ、と暗くなった。
 みっともなく悲鳴をあげ、綱吉は全身に鳥肌を立てた。ガタガタ震えて、いっそう身を小さく縮めこませる。心臓はバクバク言って、脂汗が滝のように肌を流れて行った。
「な……に?」
 部屋は真っ暗闇ではなかった。
 細い明りが、ひとり立ち尽くす綱吉を優しく照らしている。ただ、明らかに数秒前よりは暗かった。
 唾を飲んで喉の渇きを誤魔化し、汗を拭って視線をあげる。丁度部屋の真ん中にきていた彼の頭上には、乳白色のカバーに覆われた円形の蛍光灯が二本、固定されていた。
「あれ? あ、あー……」
 そこに違和感を覚え、彼は眉目を顰めて上向けた人差し指を回した。なにかが違っていると、今の部屋と記憶にある景色とを比較する。
 答えはすぐ見付かった。
「切れちゃったんだ」
 何てことは無い、蛍光灯の片方の寿命が尽きて、切れてしまっただけだ。
 そういえば、長く交換した記憶が無い。少なくとも中学生になってからは、一度も触っていないはずだ。
「参ったな」
 前に交換したのは、小学校の中学年の頃ではなかろうか。当時は家光もそれなりに家に居たので、彼に頼んで入れ替えてもらった。
 その父親も、今は不在。次いつ帰って来るのか、さっぱり分からない。
「どうしよう」
 外側の、大きい方の蛍光灯が切れたらしい。もう片方の、内側の小さい分はまだ生きており、薄れ行く太陽の光を補って室内を照らしていた。
 日常生活を送る分には特に困らない明度は、確保出来ている。ただ、ついさっきまでの、明るすぎるくらいの部屋を知っているだけに、この環境はどうにも慣れなくて、落ち着かなかった。
 勉強をするのにも、卓上ライトがあるのでさほど苦は生じない。振り返って点けっ放しだったのを思い出し、数歩戻ってスイッチを切る。そうすると余計に室内の暗さが際立って、彼はもぞもぞする胸を服の上から撫でた。
「どうしよっかな」
 同じ台詞を繰り返して唇を舐め、白色の光に目を細める。時間が無いのは分かっているが、どうにも気になってしまって、こんな状態で勉強を続けるのは無理だった。
 ならば取るべき道は、ひとつ。
「あるかなー、替えの」
 母である奈々が買い置きしてくれているのを切に願い、彼は部屋の明りをそのままにしてドアを開けた。
 室内よりも風の通りが悪いからか、若干ムッとした廊下の空気を鼻腔から吸い込み、急いで階段を駆け下りる。一階に出ると、肌に張り付く湿気は僅かに弱まった。
 玄関は明るかった。
「母さん」
 暖簾を捲り、夕食の支度に忙しい母を呼ぶ。彼女はフライパン片手に菜箸を巧みに操り、今夜のメインディッシュであろう豚の生姜焼きを裏返していた。
 じゅわっという音がして、香ばしい匂いがいっぱいに広がった。思わず腹の虫が鳴り、生唾を飲んだ息子を振り返って、奈々はどうかしたかと小首を傾げた。
 エプロン姿の母親は、息子の贔屓目かもしれないが、若くて綺麗だ。可愛い、と表現しても良かろう。そして綱吉は、何故か父親たる家光ではなく、彼女に似てしまった。
 男として産まれたのに、十四年間の人生で一番沢山貰った褒め言葉が「可愛い」というのは、少々納得行かない。
「部屋の電球、切れちゃって」
「あら、大変」
 モジモジしながら事の次第を告げると、ガスコンロの青っぽい火を消して、彼女は綺麗に焼き色がついた豚肉を皿に移し変えた。
 目がどうしてもそちらに行ってしまい、胸元を掻き毟った彼は後退して、着々と準備が整いつつある食卓の風景を視界から隠した。
 戸口から離れて廊下に出ると、僅かな言葉で綱吉の願いを理解した奈々が、スリッパを履いた足でついてきた。
「小さいの?」
「ううん。一番大きい奴」
 階段下のスペースは物置になっていて、毎日使わないものなどが押し込められている。ほかに古新聞や、読み終えた雑誌も一旦此処でひとまとめにして、廃品回収の日にまとめて出すようになっていた。
 奈々はその小さな扉を開け、豆電球のスイッチを入れて身を屈めた。
「ツナ、終わったのか?」
 懐中電灯を探り当てた奈々が、しゃがんだまま狭いスペースに入っていく。見守る綱吉の後ろから声がして、振り向けばリボーンが肩幅に足を広げて立っていた。
 リビングのドアが開いており、この時間にやっている子供向け番組のテーマソングが聞こえた。イーピンにランボが、興味津々な顔をして様子を窺っている。ビアンキは、ソファに座る背中と頭だけ見えた。
 そういえばリボーンには、終わるまで部屋を出るなと言われていた。険しい顔つきの赤ん坊にヒッ、と顔を引き攣らせ、綱吉は両手で頭を庇いながら必死に言い訳を並べ立てた。
「未だだけど、違うって。サボってるんじゃなくてだな」
「ツナ、あったわよ」
「ほんと?」
 眼光鋭く睨みつける赤ん坊に臆し、踵が浮く。無意識に後ろへ下がろうとしていた彼の足元で、奈々が丸めた背中を伸ばして言った。
 急ぎ振り返り、差し出された青色の薄い箱を両手で受け取る。厚さ五センチ程度の四角い箱は、綱吉の顔より大きかった。
 いつも下から見上げるばかりなので、部屋の蛍光灯の直径がどれくらいあるのかなど、考えたこともなかった。意外にサイズがあるのだと物珍しげに眺めていると、近づいて来たリボーンに、無視するなとばかりに脛を蹴られた。
「イテッ。もう、なにするんだよ」
 危うく割れ物を落としそうになり、両手で胸に抱え込んで庇って綱吉は下を向いた。家の中でありながら黒い帽子を被った赤ん坊は、首から提げた黄色いおしゃぶりを揺らして顎をしゃくり、二階を示した。
 早く戻れと、そう言いたいのだろう。
「分かってるよ、ったく」
 綱吉だって、無論そのつもりだ。ただこれから夜になり、明かり無くしては何も出来ない時間になるのだから、蛍光灯を取り替えるくらいの猶予は許されても良い筈。
 薄暗いところでは勉強の効率も下がると主張すれば、リボーンは納得したのか、一理あると頷いた。
「もうじき夕ご飯よ?」
 その会話を聞いていた奈々が、物置のドアを閉めて言った。
「だってさ」
「ふむ。しょーがねーな。なら、さっさと交換して来い」
「イッテ。だから、蹴るなってば」
 午後七時には食卓につくように言われて、リボーンはちらりと腕時計を見た。あと十五分程度しかないと知り、大事に新品の蛍光灯を抱えている綱吉の背中を、今度は思い切り蹴飛ばした。
 吹っ飛ばされ、前につんのめって転倒を回避した綱吉が、薄いブルーのシャツの上からヒリヒリする自分の背中を撫でた。
 リボーンが涙目の彼をにんまり笑い、立ち止まっている暇があったら動け、と指示を飛ばす。ランボはとっくに興味を失っており、テレビの前に陣取ってガハハハ、と下品な笑い声を立てていた。奈々も食事の準備に戻り、イーピンが手伝いについていった。
「リボーン?」
 その中でソファの背凭れに腕を回したビアンキが、けだるげな表情で振り返る。名前を呼ばれた赤ん坊は、階段を登り始めた綱吉に続こうとして、ふっと鼻白んだ。
 特に返事はせず、即座に彼女から顔を逸らして一段目に右足を引っ掛ける。飛び跳ねるようにして、彼の背丈では登るのも少々辛い段差を、軽やかな身のこなしで登っていった。
 綱吉が開け放ったまま放置していたドアを潜り、確かにちょっと薄暗い部屋に入る。綱吉は邪魔になるテーブルを端に退かし、どうやって交換しようかと上下を見比べて頭を掻いた。
 背伸びをしながら腕を真っ直ぐ上に伸ばしても、指先は天井に掠りもしない。届くような高さしかない空間は圧迫感があるので、それは致し方ないにしても、こういう時に困ると彼は初めて知った。
「梯子とか、あったかな」
「脚立か?」
「ああ、それそれ」
 梯子は、立てかける壁が必要だ。部屋の真ん中には当然柱はなくて、だから必要になるのは自立式の脚立。リボーンの冷たい訂正に、綱吉はぽん、と手を叩いて嬉しそうに頷いた。
 無知をひけらかした彼に呆れ、リボーンは小さな肩を竦めて帽子の鍔を握った。上に居たレオンがちょろちょろと動き、彼の背中を伝って床に降り立った。前に回りこみ、首を伸ばして主人を窺う。
 自分が変身しようかという意思表示だったのだが、レオンはあまりに小さすぎる。いくら様々な形を取ることが出来る形状記憶カメレオンである彼でも、綱吉の体重を持ち上げて支え、長時間耐えられるほどの体力は有していない。
 黙って首を振ったリボーンとレオンの葛藤を他所に、綱吉は箱の蓋を開けた。円形のものを入れるのに、何故四角い箱を使うのか疑問に感じながら、慎重に中の物を取り出す。
「へえ、こんな風になってるんだ」
 もっと壊れ易そうなものかと思いきや、握った感触は意外にしっかりしている。天使の輪を大きくしたような形状を珍しげに見詰め、綱吉は一箇所だけほかと異なる部分があるのに気づいて首を傾げた。
「そいつがプラグだ」
「へー」
 テレビだってコンセントに電源を差し込まなければ映らないように、蛍光灯だって電気を通してやらなければ、ただの壊れ易いガラス製品でしかない。言い得て妙の説明に頷き、綱吉は両手で握ったそれを頭上に翳した。
 そんな事をしたところで、切れてしまった蛍光灯と入れ替わるわけではない。時間が惜しいのだから早くしろ、と促し、リボーンは綱吉の勉強机に向かった。
 椅子によじ登って机に這い上がり、ちゃんとやっていたのを確かめてから、コマ付きの椅子を押し出した。
「えー、俺がやるの?」
「ほかに誰がやるんだ」
「そりゃまあ、そうなんだけど」
 ここに来て不満げな声を出した綱吉が、ずばり言われて唇を尖らせた。家光不在、奈々は家事に忙しい。今現在この家で最もが高いのはビアンキだが、女性に頼るのは男としてのプライドが邪魔をした。
 仕方なく蛍光灯は一旦テーブルに戻し、彼は椅子を照明の真下に運んだ。
「おっ、うわ……っとと」
 そうして普段は腰を下ろす場所にそろりと右の爪先を乗せ、左足で床を蹴った。
 ぐん、と背筋が伸び上がり、自分の身長よりもずっと高い場所に目線が行く。思わぬ違いに彼は驚き、無意識に後退しようとして踵を浮かせた。
 瞬間、五つあるコマが彼の動きを受けてフローリングを削った。足元が急に右に動いて、彼は予想外の連続に両手をバタつかせた。
 後ろに倒れそうになり、恐怖に身を竦ませて慌ててバランスを取り返す。滑稽なダンスをリボーンに披露して、左側にあった背凭れにへっぴり腰でしがみついた。
 こんなにもグラグラするものだったのかと、普段何気なく使っている椅子の新たな一面に綱吉は冷や汗を流した。
「なにやってんだ」
「しょうがないだろ。これ、怖いんだって」
 見ている分には馬鹿らしいことをしていると思われるかもしれないが、綱吉は至って真剣だ。膝を広げて椅子の上でしゃがみ込み、苦虫を噛み潰したような顔で上を窺う。
 床に降り立ち、椅子の傍へ戻ったリボーンが同じものを見上げて肩を竦めた。
「ダメツナ」
「うっさいな。だったら、リボーン、お前がやってみろよ」
 どうせその身長だから、椅子に乗っても、机に立ったところで、天井まで届くわけがないのだが。
 負け惜しみを口にした綱吉を見詰め、けれど彼は笑った。少しも悔しがっておらず、余裕綽々の態度が妙に気に掛かる。
「……なんだよ」
「十年前なら、代わってやったんだがな」
「なんだよ、それ」
 言っている意味が分からないと、綱吉は頬を膨らませた。
 そもそもリボーンは、赤ん坊だ。十年前に生きているわけがない。つらつら並べられた疑問と文句にも彼は表情を変えず、ただ意味深に微笑んでさっさと続きをやるよう、捲くし立てた。
 中途半端なところではぐらかされてしまった。教えてくれても良いだろうに、もったいぶる家庭教師を睨み、綱吉は時計の針に溜息をついて恐々立ち上がった。
 さっきより注意深く膝を伸ばし、バランスの安定を待ってから腕を伸ばす。今度はちゃんと、天井に届いた。
「よっ、と。あれ……どうやって外すんだ、これ」
「上に押し上げながら回すんだぞ」
「ええー? あ、っと。これか?」
 よくよく見れば、蛍光灯カバーの片隅に、外し方が図入りで書かれていた。それに従い、何度か右に、左に回していくうちに、カチリと引っかかっていた爪が外れる感触がした。
 落とさないよう気をつけて下へ下ろせば、カバーで拡散されていた光が直接綱吉に降り注いだ。
 部屋の大外に向かう光が減り、蛍光灯周辺だけがいやに神々しく輝いて見えた。
「あっつ」
 ずっと点灯させているからか、内側の蛍光灯が熱を持っている。外側は見事に真っ暗で、プラグの周囲が焦げ付いたかのように黒く汚れていた。
 触ろうとして皮膚をチリリと焼いた高熱に慄き、綱吉は慌てて肘を引っ込めた。見上げていたリボーンが彼の迂闊さを叱って、怒られた方は知らなかったのだから仕方がないではないか、と口を尖らせた。
 それしきのこと、常識の範囲で想像が可能ではないのか。口を酸っぱく言う赤ん坊に反論が出来ず、綱吉は顔を逸らすと、カバーを左手に持って椅子を飛び降りた。
 両手を自由にしてから再び椅子に戻り、若干入り口側にずれた位置を調整して、先ほどよりは気楽な心構えで座面に足を置いた。
「これ、どうなってるんだろ」
「コンセントを先に抜くんだぞ」
「分かってるよ」
 口ばかり動かすくらいなら、少しは手伝ってくれてもいいのに。絶えず文句を吐きながらも、綱吉はリボーンの助言に従って首を横に倒し、新品で見たのと同じようにコンセントの差込口がある部分を探し出して指で抓んだ。天井から伸びた白いコードが、しっかり深く差し込まれている。
 ちょっと引っ張るだけでは外れてくれそうになくて、綱吉は左手を伸ばし、掌を天井の平らな面に押し当てた。椅子の上で背伸びをして右腕を伸ばしてプラグの根元を握り、円を描くように揺さぶりを仕掛ける。それでも容易くコンセントは抜けず、彼は前回これを触った父への恨み言を心の中で吐き捨て、歯を食いしばった。
「ふんぬっ」
「落ちるなよ」
「はっ――ずれたああぁあ!」
 リボーンの声は殆ど聞こえなかった。彼は顔を真っ赤にして肺に息を溜め込み、引き抜くのに成功すると同時に吐き出した。
 やった、と思う間もなくバランスを崩した身体が前に大きく傾ぐ。左手が天井に別れを告げ、綱吉は慌てて右手のコンセントを投げ捨てた。
 必死に腕を伸ばして左手を再び天井と一体化させ、事なきを得る。ひとつの物事に打ち込むのは良いが、他の事に全く意識が向かなくなるのは問題があるとリボーンに言われて、彼は臍を噛んだ。
 垂れ下がってブラブラ揺れるコンセントを睨み、輪を固定している三本の爪を奥から順に外していく。最後は左手で蛍光灯を支え、外すと同時に椅子から床に下りた。
 見事に真っ黒で、薄ら埃を被っていた。
「うひゃあ……」
 これは何年分だろうと考えつつ、既に物でいっぱいのテーブルではなく、ノートが広げられたままの机に置く。即座に踵を返して新品を手に、大分慣れたと調子に乗って椅子に飛び乗った。
 恐怖心を抱かないのは大事だが、過信は問題だ。鼻歌交じりに作業に取り組む綱吉を仰ぎ見て、リボーンは円らな瞳を眇めた。
 彼の心配を他所に、綱吉は外した時とは逆の手順で蛍光灯を爪に嵌め込んでいった。
 登る際にコンセントの真下に顔が行くよう、椅子を動かしていたのが良かったらしい。ついさっきのような失敗をすることもなく、少々手間取ったが無事にコンセントは奥まで突き刺さった。
 瞬間、息を吹き返した明かりが綱吉の眼前でパッと盛大に花開いた。
「うわ!」
 これも、最初から予測出来たことだった。
 蛍光灯が切れる前から、このコンセントには電気が流れていた。今まではその流れていた電気を光に変換出来ていなかっただけで、真新しいものが取り付けられれば当然、電流は走る。点灯する。
 だのに彼は、その事をすっかり忘れていた。
「ひっ、ひえ、え……ちょっ」
「ツナ!」
「っと、待っ……」
 支えを求めて懸命に伸ばした腕が、虚しく空を切る。虚空を握りつぶした両手が視界を交差して、彼は瞳を焼く眩い煌きに呑まれ、目を閉じた。
 バランスを崩して後ろに飛んだ踵が、椅子の縁を通り越して何も無い空間を叩いた。重心がその分傾き、辛うじて残っていた左足もが引きずられる形で座面を滑り落ちる。落ちる直前で蹴り上げられた爪先が天を向き、彼の身体は宙を舞った。
 軽やかに翼を広げる鳥とは似ても似つかないポーズでバタつき、受身を取るのもままならない。
「っ――!」
 リボーンが咄嗟に、レオンにクッションへの変身を命じるが、間に合わない。細長い舌を巻いた緑色の奇妙な生物は、叫ぼうとして口を開き、そのまま何も言えずに硬直する主を前に、何も出来なかった自分を恥じてか頭を引っ込めた。
 椅子から落ち、仰向けに床に倒れた綱吉の頭上で黄色い星が飛び交う。目を回している彼に近付いてそろりと覗き込めば、息はしているようで赤ん坊はホッと胸を撫で下ろした。
 本来の身長があれば、綱吉に任せずとも自分が全て出来るのに。
 身の丈一メートルにも満たないこの身体が、時に恨めしくなる。リボーンは複雑な面持ちで俯き、首にぶら下がる黄色いおしゃぶりを撫でた。
 気絶はしていないが、後頭部を痛打した衝撃が抜けずに呻いている少年の頭を容赦なく爪先で蹴り飛ばし、起きろと命じて彼は壁の時計を振り返った。そろそろか、と思った矢先、奈々の声が階下から響いた。
「ツッくーん、リボーンちゃん、晩御飯よー」
 支度が出来たと呼ぶ声に俯き、苦痛を堪える綱吉を覗きこむ。彼は苦心の末に右の瞼を細く開き、眩しい中で自分に影落とす存在を見詰めた。
 黒いシルエット、知っている顔よりもずっと細身で、凛々しい。
「リボー……?」
 知らない大人の男性に見えるのに、自分はこの人を誰よりも知っている気がする。彼は矛盾する自身の感覚に心の中で首を傾げ、力尽きてまた瞼を閉ざした。
 全身を床に投げ出し、痛い、と呟く。帽子を被り直した赤ん坊は、ぷっくりした頬を緩めて笑みを浮かべた。
「早くしねーと、なくなっちまうぞ」
「わーかってるよ。くっそ、いってて……」
 一瞬だけ見えた影は、新品の蛍光灯が見せた幻か。分からなさすぎて考えるのは放棄して、綱吉は肺に残る二酸化炭素を吐き出して深呼吸を繰り返した。
 激痛を押し退けて身を起こし、早々に部屋を出て行く赤ん坊を見送る。ぶつけて瘤になっている頭を撫で、彼は煌々と輝く蛍光灯に肩を落とした。

 たわわに実った杏が、甘そうな色をして綱吉を見下ろしていた。
 しかし、如何せん、枝が遠い。背伸びをして目一杯腕を伸ばしても、恐らく指先を掠める程度しかならないだろう。周囲を見回しても、緑の芝茂る庭園の片隅、足場にするようなものはどこにも転がっていなかった。
 庭師が置き忘れた脚立でもないかと諦め悪く近くを徘徊するが、これといったものは何も見付からない。
「ちぇ」
 折角美味しそうなのを見つけたのに。
 綱吉は頬を膨らませて唇を尖らせると、面白くない、と杏の木を八つ当たりで蹴り飛ばした。
 これでニュートンの林檎よろしく、地面に落ちれば面白かったのだが、重力法則を突っぱねて杏は枝の先で重そうに揺れただけだった。
「くっそ」
 試しに腕を真っ直ぐ伸ばしてジャンプをするが、掴み取る前に身体は落下に転じてしまう。ならばいっそ死ぬ気の炎で飛ぶか、と一瞬考えたが、杏ひとつの為にそこまでするのも馬鹿らしい。また、誰かに見られでもしたら恥かしいではないか。
 悔しげに地団太を踏み、木漏れ日舞い散る巨木を仰ぎ見る。
 庭師の男を呼んで、摘み取ってもらおうか。既に彼の口の中は杏の味になっており、今更諦めて引き返すなど不可能だった。
 さて、どうするか。
「何やってんだ」
 腕組みして思案に暮れ、矢張り死ぬ気の炎で、と考えているところに、思考を中断させる声が響く。耳慣れた低音に振り返る間もなく、綱吉のハリネズミのような頭は上からの圧力によって潰された。
 亀のように首を引っ込め、彼は背後から圧し掛かってきた男の足を踵で思い切り踏みつけた。今すぐに退け、という意思表示だったのだが、男はカラカラと喉を鳴らして笑い、首に腕を回して尚更抱きついてきた。
「ちょっ、こら。リボーン、重い」
「相変わらず小さい上に、細いな。ちゃんと食ってるのか?」
「食べてるよ!」
 もう片手は腰に回されて、逃げようとした下半身を引き寄せられる。ウェストのラインを服の上からなぞられて、綱吉は背筋を粟立てて悲鳴をあげた。
 本気で嫌がっている綱吉を面白がり、リボーンが肩越しに覗き込んで来る。たった十年、されど十年。あっという間に身長は追い越され、相手を膝に抱える役目はいつしか逆転していた。
 今や綱吉より二十センチは高くなったリボーンは、肘を使って抵抗する綱吉を上から押し潰し、自分が話しかけるまで彼が見上げていた物を探して視線を泳がせた。
 オレンジ色も鮮やかな杏の実がひとつ、いかにも摘んでくださいといわんばかりの場所で揺れているのが見えた。
「届かなかったのか」
「うっさいな」
「採ってやろうか」
「いいよ、別に!」
 後ろから眺めていただけでは分からなかった、綱吉のひとり芝居の理由が判明した。リボーンは可笑しくて仕方が無い顔をして目尻を下げ、綱吉を引きずるようにして杏の真下へ移動を果たした。
 そうして片腕で彼の身動きを封じたまま、スッと流れる仕草で背筋を伸ばした。
 綱吉があれだけ苦労してもつかめなかったものを、彼はいとも容易く手に入れてしまった。丸い下辺を掴み、右に手首を捻って枝からもぎ取る。顔の前に下ろされた果実はいかにも甘そうで、食欲をそそる芳醇な匂いに満ち溢れていた。
 思わず喉を鳴らした綱吉が、奪い取ろうと手を伸ばす。しかし指が触れる寸前で、それはするりと逃げてしまった。
「あっ、こら」
 追いかけて顔を上げ、首を回す。またも空振りした手の先で、リボーンはわざとひけらかすかのように、杏の実に齧り付いた。皮は剥かない、そんな道具など此処には無い。
 しゃり、と良い音が綱吉の耳にも届く。咀嚼する口の動きに視線が集中して、綱吉は彼の腕を振り払い、酷い、と右足を高く掲げた。
 踏む前にスッと後退されて、余計に悔しい。
「届かないのが悪い」
「仕方ないだろ!」
 いけしゃあしゃあと言い放たれ、綱吉は憤慨しきりで両腕を振り回した。
 殴りかかるが、リーチが違う。拳が届く前にリボーンに片手で頭を押さえ込まれ、そこから先に進まない。
「大体、欲しけりゃ相応の言葉なり、代価なり、あるだろ」
 もうひとくち齧り、噛み砕きながら、黒服のヒットマンが意地悪く笑う。額にデコピンを喰らって黙り込んだ綱吉は、恨めしげに彼に睨み、ちぇ、と青い芝生を蹴り飛ばした。
 いつでも聞いてやる、と偉そうな態度の男をぎゃふんといわせたくて、蜂蜜色の髪の青年は眦に力を込めると、唇を尖らせた。
「ん」
 鼻から息を吐き、声に出す。口は閉じたままなので、言葉にはならない。
「なんだ?」
「んっ」
 聞こえたリボーンが怪訝に眉を寄せ、爪先立ちで身体を揺すっている彼に首を捻る。その前で綱吉は尚も息を吐き、リボーンへにじり寄った。
 直後、ピンと来たリボーンは口角を持ち上げて笑い、目尻を下げた。
「ったく、しょうがねーな」
 来い、と手招きすれば、綱吉は爪先立ちの間まで彼の腕の中に飛び込んだ。体当たりして、即座に背伸びを。
 腰から背中に回した腕を結び合わせ、彼は瞼を下ろして眩い光を遮った。
 久方ぶりのくちづけは、ほんのり甘い味がした。

2009/07/01 脱稿