雨しだり

「あら、やだ。曇って来たわ」
 台所で煎餅を齧り、午後の優雅なひと時を楽しんでいた塔子は、窓の外に目をふとやって呟いた。
 朝方は綺麗に晴れ、気持ちの良い青空が広がっていた。天気予報も、今日は洗濯日和だと太鼓判を押していた。
 ところが、椅子から立ち上がった彼女が見上げる空は、どんよりとした灰色の雲が幅を利かせ、太陽をすっかり隠してしまっていた。
 窓を開けてみれば、隙間から流れ込む空気は僅かに湿気を帯びていた。
「そうだ、いけない」
 暫く台所から、背伸びをして上空の様子を眺め続けた彼女は、庭に洗濯物を干したままなのを思い出して、両手を叩き合わせると慌てて踵を返した。
 食べかけの煎餅をテーブルに残し、慌しく廊下に出て玄関から表に出る。底の平らなサンダルを引っ掛け、温い風を浴びている物干し竿へと駆け寄った。
 両手で抱えられるだけの量を先ず回収し、一旦屋内へと戻る。サンダルが裏返るのも構わず蹴り飛ばして脱ぎ、襖を開けた先の座敷にまとめて放り投げ、再び外へと。それをもう二度ばかり繰り返して、彼女は疲れたと畳みの上にへたり込んだ。
「ニャン?」
 塔子が動き回っている間も、厚みのある雲は速度を速め、空一面を覆い尽くした。朝から出かけていた斑も雨の気配を敏感に感じ取り、外の散歩を早々に切り上げて、丁度開いていた玄関から藤原の邸宅にあがりこんだ。
 そして入って直ぐの部屋でしゃがみ込んでいる割烹着姿の塔子を見つけ、どうしたのかと彼は首を捻った。玄関の戸も解放されたままで、湿気を帯びた空気が絶えず室内に流れ込んできていた。
 彼の短い足では、戸を閉めるのもままならない。無用心だと猫の鳴き声で呼びかけると、彼女は額の汗を拭って顔を上げ、優しげな笑みを浮かべた。
「あら、ニャンキチちゃん、お帰りなさい」
 膝の先に積み上げられた無数の衣類をそのままに、塔子は立ち上がった。
 斑の大きな頭がぐるりと回って、いそいそと歩く彼女の後姿を目で追いかける。ガラガラと音を立ててレールの上を磨りガラスの戸が滑り、最後に鍵を閉め、彼女は肩を竦めた。
「雨が降るなんて、聞いてないのにね」
 そうしてやおら斑を振り返り、低い位置に居る彼に目を細めて話しかけた。
「ニャオン」
「ふふ、ニャンキチちゃんもそう思うでしょ?」
 返事があったのが嬉しいのか、彼女は相好を崩して襖も閉めた。台所の窓も開けたままだったのを思い出して、足音響かせながら走っていく。斑も、彼女の後ろについて回った。
 白地に朱と朽葉色の紋様が頭から背にかけて走る斑は、見た目だけならば猫のそれと同じだった。もっとも、サイズは少々規格外ではあるけれど。
 ぼってりとして丸い腹、人を小馬鹿にしているかのような目つきも、依り代としている招き猫のデザインが元になっている。
 そう、斑はその辺の猫とは根本的に違っている。彼は人の言葉を理解し、また喋るのも可能な、妖怪だった。
 今は理由あって、封印に使われた招き猫の姿を借り、人間の生活に紛れ込んで日々を過ごしている。本性は白く長い毛並みを持った獣だ、朱色の紋様が額に走り、自由自在に空をも翔る強大な力を持っている。
 故に彼の本来の姿を知る妖怪が、今のこのメタボリックな猫の姿を見た際、あまりの落差に嘆き哀しむという事もしばしばあった。
 空模様は益々怪しくなり、いつ雨粒が落ちてきても可笑しくない色合いに変容を遂げていた。風の勢いも強まり、台所から見える木立も煽られ、緑の葉をいっぱいに茂らせた枝がざわめいていた。
 幸いにも夕食の買い物は、午前中に全て済ませてある。火急に買い足さねばならないものも、今のところ思いつかない。
 早めに気付いてよかったと胸を撫で下ろした塔子は、足元にまとわりついて来る斑の甘えた仕草に微笑み、テーブルにあった煎餅を一枚取った。
「はい、どうぞ」
「ニャンっ」
 なんの疑いもなく差し出し、斑も躊躇なく口をあけた。嬉しげに目尻を下げ、バリバリと獣の牙で硬い煎餅を噛み砕いていく。
 あっさりと一枚食べ終え、また強請ってあーん、と大口を開けると、塔子も楽しそうに笑い、皿に残っていた最後の一枚を彼に差し出した。
 盛大な音を響かせて醤油味の菓子を砕き、飲み込む。顔に散った欠片を、前脚で撫でて取り除いた彼を前に、塔子は物憂げな目線を遠くに投げた。
 時計は間もなく、午後三時を指し示そうとしていた。
「貴志君、傘持っていったかしら」
 食べかけの煎餅を半分に割り、小さい方を口に入れて独白する。もう片方をもらえるかと期待した斑だったが、彼女は気付かずに全部ひとりで食べてしまった。
 がっかり、とまではいかないが、少々面白くなくて、斑は心の中で舌打ちした。夏目がこれを知れば、一日三食用意してくれるだけでもありがたいのに、と怒るに違いない。
 夏目とは、斑が猫で塔子に媚を売る原因となった人間だ。
 以前、この地方に暮らしたとある若い女性が、数多の妖怪の名を記した友人帳を作り、遺した。これを受け継いだのが、その孫に当たる夏目貴志だ。
 妖怪の名前とは、妖怪の力そのもの。失われれば命は尽き、奪われれば自由を束縛される。また、これを持つ者は、そこに名が記されている妖を自在に呼び出し、使役するのも可能となる為、友人帳は多大な力を秘めた宝とも言うべき代物だった。
 だからこれを狙う妖怪は多い。斑もそのひとりだ。
 夏目と斑の契約の対価が、そのものズバリ友人帳の継承。夏目は妖怪たちに名前を還すことを望み、斑は万が一彼が志半ばで倒れた際、これを譲り受ける約束を交わした。
 以来斑は夏目の用心棒として、こうして仮初の猫の姿を使い、彼が世話になっている藤原夫妻の家に堂々と居座っている。
 夏目に親はない。彼は幼少期から親類のつてを頼り、各地を点々していた。
 レイコほどではないにせよ、彼女の血筋故か強い霊力を秘めた夏目は、幼い頃から妖怪を、そうと知らずに見る事が出来た。人には見えないものを、本来は存在しないとされるものを、当たり前のように見て、会話してきた。
 彼が出会った妖怪の中には、人に優しい者もいた。けれど一部の心無い、卑しい妖怪によって、彼は度々深く傷つけられてきた。
 人には見えないものを見る子、それは見えない側からすれば奇異と恐怖の対象ともなる。彼は人からも迫害を受け、苛められ、嘘つきと罵られ、謗られて育った。
 藤原の夫妻が救いの手を差し伸べたのは、如何なる偶然か、運命かは分からない。けれど彼は此処に引き取られたことで、人としての心を取り戻した。妖怪も、自分を傷つける者達ばかりではないと思い出した。
 彼はレイコとは違い、人も妖怪も愛しいものと受け止めていた。
 塔子の独白に、遠い昔の記憶を蘇らせて斑は丸い尻尾を左右に振った。つまらない事を思い出してしまったと軽い自己嫌悪に陥り、冷たい床の上で腹這いになる。
 今夜の夕食はなんだろうかと、気を取り直してテーブルに頬杖ついている女性を窺い見ると、彼女は未だ窓の向こうに意識を飛ばし、眉目を顰めていた。
「持って行ってるわけがないわよね」
 困ったように溜息を零し、頬に手を添えて小声で呟くのが聞こえた。
 予報で出ていた降水確率は三十パーセント未満、午前中は雲ひとつ無い快晴だった。そんな状態で雨傘を片手に学校に行くなど、心配性の度が過ぎる。折り畳み傘を鞄に忍ばせるのだって、憚られよう。
 念の為確かめに、彼女は玄関に戻った。片隅に置かれている傘立てに残っている本数を数え、靴箱に収納されていた折り畳み傘も調べる。どれも、家族の人数分きちんと揃っていた。
 つまりは、夏目が自前で購入していない限り、彼は傘を持っていっていない。
「やっぱり」
 分かっていたこととはいえ溜息が出て、塔子は施錠したばかりの玄関の鍵を外した。庇の下から曇天を見上げ、幾らか下がった気温に身震いする。
「困ったわー、これからお夕飯の支度があるのに」
 取り込んだ洗濯物も、畳まなければいけない。仕事はまだまだ沢山残っており、時間を潰して届けに行くには気が引けた。滋が仕事を終えて帰って来た時に、夕食が出来上がっていなかったら申し訳ない。
 トテトテ、と肉球で廊下を滑るように歩いた斑が、ニャオン、と猫なで声を出す。煎餅のお陰で喉が渇き、水が飲みたかっただけなのだが、声に塔子は振り返り、そうだ、と子供みたいに目を輝かせて両手を叩き合わせた。
「ニャンキチちゃん、お願いがあるの」
「ニャ……ン?」
 星を浮かべてキラキラした目で見詰められ、斑は嫌な予感に背筋を震わせた。
 不用意に彼女に近付いたのを後悔して、慌てて逃げようとしたが丸ぼったい腹が邪魔をして巧く走れない。猫の癖に愚鈍なところを披露して、彼は呆気なく塔子の腕に抱えあげられた。
 必死に抵抗するが、毎日美味しい食事を用意してくれる人である手前、無闇に爪を立てて怪我をさせるのは憚られた。夏目にバレれば、怒りの鉄拳が脳天に直撃するのも免れない。
 助けて、と叫ぼうにも、塔子には猫で通している手前、元の姿に戻って逃げるのも叶わない。
「うふふ~、よろしくお願いね、ニャンキチちゃん」
 五分後、実に楽しげな微笑でお願いされて、斑はげっそりとした顔で項垂れた。
 彼の背中には荷物梱包用のビニール紐が、×マークの如く張り巡らされていた。そしてその交差する地点、丁度背中の中心部に、黒い折り畳み傘が固定されていた。
 簡単に解けないようにしっかり結び目を作り、塔子は我ながら妙案だと自画自賛して目を細めた。
 彼女は家事をせねばならず、手が離せない。そして藤原の家には他に、夏目の為に傘を届けに行く人員は無い。但し猫はいる。
 そうして斑に白羽の矢が立てられたわけだが、彼は四足の獣ということで、傘を手に持つのも叶わない。それで、背中にこれを括りつけられてしまったのだった。
 見るからに滑稽な格好に、無い首を懸命に後ろ向かせて斑は渋い顔をした。
「ニャンー」
 嫌だ、と猫語で主張してみるが、無論塔子に通じるわけがない。それどころか彼女は己の発案に悦に入っており、不満げな声も「了解した」のひと言に、勝手に意味をすり替えられてしまった。
 最早なにを言っても無駄と悟り、諦めの境地で斑は藤原家の門から外に出た。玄関先の塔子が、朗らかな笑顔で手を振って見送ってくれる。どんより曇り空以上に彼の心は闇色に染まり、憂鬱だと自然と溜息が落ちた。
「まったく、何故私がこんな事をせねばならんのだ」
 路上に人の姿が無いのを確かめ、仕方なく歩き出して斑はひとりごちた。
 四本の足を交互に動かし、アスファルトで舗装された路上を進む。夏目の学校が何処にあるのかは熟知しており、猫の足では相当の時間がかかるのも、当然彼は理解していた。
 いつ降り始めてもおかしくない空をちらりと見やり、またひとつ、溜息をつく。
「やっとれんわ」
 そうして彼は、スタート地点から百メートルも行かぬうちに歩みを止めた。
 斑にしてみれば、夏目が雨に遭おうがびしょ濡れになろうが、別段困らない。むしろ日頃積み重なった怨みもあって、良い気味だとせせら笑いたくなった。熱を出して寝込んだとしても、斑にはなんら関係ないことだ。
「ん、いや、うん。無い、無いぞ。無い無い」
 そこまで思考を巡らせて、一瞬胸がざわめいた。声に出して同じ単語を何度も繰り返し、微弱ながら罪悪感を訴えた心に懸命に言い聞かせる。
 塔子は、斑を信頼して夏目の傘を預けた。斑が夏目の元に向かうのを、なんら疑っていなかった。
「ぐ、ぬぬ……おのれ」
 こうしている間にも、時間はどんどん過ぎていく。雲は一段と低くなり、遠くで雷が轟くのに彼は身を竦ませた。
 ぽつん、と三角の耳の間に何か冷たいものが落ちた。
「ぬ、いかん」
 ついに降り始めた。
 泣き出した天を仰ぎ見て、彼はぶるぶると首を振った。ジッとしていては雨の被害に遭うばかりで、隠れる場所を探して視線を泳がせる。その低く狭い視野に、小学生らしき子供が、慌てた様子で駆け込んできた
 三人ばかりの集団で、先頭を行く男の子が斑を見つけて「あ!」と大きな声をあげた。
「なんじゃ!?」
「あの猫、傘持ってる!」
 吃驚して仰け反っていると、少年は甲高い声で叫んだ。後続のふたりも速度を緩め、前方で地面に蹲っている斑に顔を向けた。
 背中に紐で括りつけられているもの、それは彼らの言う通り、折り畳み傘だ。
「すっげー」
「変なの」
「捕まえろ!」
 小学生にすれば、傘を背負った猫は珍しい、のひと言に尽きる。そしてこの突然の降雨、手ぶらの彼らにとって斑が持つ傘は非常に魅力的だ。
 声高に叫んだ小学生にぎょっとして、彼は慌てて来た道を取って返した。藤原の家の前を素通りし、追いかけてくる子供たちから必死の思いで逃げ回る。
 その間も雨は降り続け、徐々に勢いを増していった。
 雲行きが怪しくなって来たから、雨に遭う前に早めに散歩を切り上げたというのに、これではなんの意味もない。塔子の余計なお節介と、傘を持っていかなかった夏目に恨み言を吐き捨て、彼は堪えきれなくなり、ぼふんっ、とその場で白煙を巻き散らかした。
 子供らの声が足元遥か下から響き渡る。彼は素早く本来の姿に戻り、力の無い人の目に妖怪は映らない、という法則を利用して、しつこかった彼らを振り切るのに成功した。
「あれー、何処行った?」
「ちぇーっ」
「つまんねーの。帰ろうぜ」
 口々に勝手な事を言い、男の子らが撤収していく。降り始めた頃に素直に家に帰っておけば良いものを、余計な回り道をした彼らを見送り、斑はやれやれと肩を落とした。
 自分も、さっさと用事を済ませて帰ろう。獣の身に戻った今、空を駆れば夏目の待つ高校までさほど時間も掛からない。
 初めからこうしておけばよかったと悔やみながら、彼はそういえば、と背に括り付けられていた傘を捜して首を後ろ向けた。
「……ぬあ!」
 そして彼は、絶句した。
 猫の胴回りと、妖怪としての本性の胴回りが、同じサイズであるわけがない。
 限界を楽に通り越したビニール紐は見事に引き千切れ、固定されていた傘は何処かへと。
「しまったあああ!」
 下を見れば、雑草伸び放題の空き地が広範囲に広がっていた。上からでは、ちっぽけな折り畳み傘は紛れてしまい、まるで見えない。
 彼の雄叫びも、同然通行人の耳に響くことは無い。塔子からの頼みごとを果たせず、挙句紛失したと知れれば夏目は間違いなく、烈火のごとく怒るはずだ。
 手痛いお仕置きを想像して、彼は冷や汗を流した。
 噎び泣きながら猫の姿に戻った斑が一匹、寂しく傘を探し回る姿は、背の高い草に隠れて誰の目にも留まらなかった。

 本日最後の授業が終わる直前に、ついに雨が降り始めた。
 誰もが予想していなかったことに、普段は静かに机に向かっている面々も驚きを隠せず、教室内はちょっとした騒ぎになった。夏目も、ざわめくクラスメイト達と一緒に大きな窓から鉛色の空を見上げ、不穏な雲行きに眉を潜めた。
「あんなに晴れてたのに」
 ぽつりと呟いて、授業に集中するよう促す教諭の声に、居住まいを正す。テレビの予報でも、今日は一日中青空が臨めると謳っていただけに、相応にショックは大きい。
 こうもり傘は持って来ているわけがなく、また万が一の為の置き傘も、先日使ってそのまま家に置きっぱなしだ。
 こういう時こそ必要なのに、自分の迂闊さを呪いたくなった。前髪をくしゃりと掻き毟り、黒板に書かれた文面を移し終えた彼は、他の生徒が未だ猫背に机にかじりついている中、ひとり背筋を伸ばし、外の景色に見入った。
 皆が紙に筆を走らせる音が重なり合って、不協和音を奏でている。あまり心地よいリズムではないが、ガラス一枚を隔てた先の雨音を掻き消すには充分だった。
 重苦しい雲の色に知れず溜息を零し、夏目はシャープペンシルの先でノートの角を小突いた。黒い点を徐々に大きくして、最後に消しゴムをかける。けれど凹んでしまった箇所はどうやっても元に戻らず、黒炭の滓も僅かに残ってしまった。
「参ったな」
 どうやって帰ろうか。
 思い悩み、視線を上向ける。板書の終わった生徒が気もそぞろにしているのは面白かったが、自分もそのうちのひとりかと思い直すと、途端憂鬱になった。
 傘は無い。塔子に連絡して届けてもらうのは、気が引ける。
 西村や北本、或いは田沼に頼んで入れてもらうか。しかし田沼はともかくとして、残る二名が傘を持っているとはとても思えなかった。
「やっぱ田沼かな」
 クラスは違うが、この身に宿る稀有な能力を通して知り合いになった男子生徒の顔を思い浮かべ、彼は頬杖を崩した。消されていくチョークの文字を脳裏に焼きつけ、開くよう言われた教科書に指を走らせる。ぱらぱらと捲って指定のページを見つけ出し、勝手に閉じぬよう筆入れを重石代わりに端に置いた。
 再び筆が走る音が鼓膜を打つ。それに混じって、雨音は次第に強まっていった。
 授業終了のチャイムが鳴り響く頃には本降りになり、土のグラウンドには大きな水溜りが沢山出来上がっていた。植物は嬉しげに羽ならぬ葉を広げ、心地よい雨に打たれて喜んでいるけれど、生憎と人間の多くは、彼らほど素直に喜べずに居た。
 掃除とホームルームも終わり、時間帯は放課後に突入したが、いつもはさっさと帰る生徒の多くが、教室を出られずにいた。
「どうしようか」
「ねえ、傘持ってる?」
「入れてくんないかなー」
 そんな声がそこかしこから聞こえ、夏目は重苦しい溜息を吐いて冷たいガラスの表面を曇らせた。
「夏目、帰らないのか?」
「西本」
 憂鬱な気分で雨に霞む外を眺めていた彼の肩を叩き、仲の良いクラスメイトが話しかけて来た。振り返ればくりっとした目を細め、西村がどことなくいたずらっ子の顔で笑っていた。
 腰を窓枠に預け、人懐こい笑みを浮かべる彼に肩を竦める。帰りたくても帰れないのだと態度で示せば、彼はちょっと意外そうな顔をした。
「あれ、けど夏目って」
「置き傘?」
 表情の変化に思い至るところがあり、最後まで言わせずに聞き返す。途端に西村は踵を床に擦りつけ、俯き加減で後退した。
 上目遣いに見詰められて、夏目は苦笑を禁じえなかった。
「家、に。前に使って、そのまま。持って来てないんだ」
 先日、その置き傘を使う機会があり、西村はそれを覚えていたようだ。今日も是非ご相伴に預かろうと近付いて来たのだが、夏目から返ってきた予想外の返答に、露骨にガッカリした顔をしてくれた。
 確かに傘を家に忘れて来たのは自分のうっかりミスであるが、なにも西村が、そんな顔をしなくてもよかろうに。
「そういうお前こそ、どうなんだよ」
「いやー、さあ。持って来てると思う?」
「思わない」
 念のため聞けば、彼は張り付いた笑みを浮かべて頭を掻いた。
 素っ気なく即答して再度窓に顔を向け、さっきよりも雨脚が強まっている外に顔を顰める。西村は胸の前で指を突き合わせ、前を向いたまま少しずつ後退した。
 三歩ばかりの距離を作り、くるりと向きを変えてすたこらさっさと逃げて行く。薄情と言うか、なんというか。非常に分かり易い男である。
 もっとも、彼のそういう人間味に溢れたところは、嫌いではない。変に上品ぶることもなく、自己中心的なの正義感を振り翳して、独善的に他者を糾弾しないだけ、ずっと良い。
 待っていれば雨の勢いも弱まるかと期待したが、そうはならなかった。夏目と同じ事を考えていた生徒も、一向に止む気配がないと知ると、諦めに似た表情を浮かべて次々教室を出て行った。
 鞄やタオルを頭に被せ、少しでも濡れる面積を減らそうと地道な努力をして、校舎を駆け抜けていく。西村と北本らしき人物がそうやって走る姿も、教室から見下ろすことが出来た。
 ぼんやりしていても、無駄な時間が過ぎていくばかりだ。
「さて、どうするかな」
 田沼はもう帰っただろうか。多大な不安と、一抹の希望を抱き、夏目は窓辺を離れた。自分の机から帰り支度の済んだ鞄を回収し、人気の減った教室を出る。廊下はより湿気を含んだ空気が蔓延し、じめっとした重苦しい雰囲気に包まれていた。
 どこの部活にも所属しない帰宅部は、本来ならこの時間、既に帰路についている。ただ今日に限って、その半数がまだ居残っている気がした。
「えっと、あ、悪い。田沼って、今日は」
「田沼?」
 一組の前まで行き、丁度教室を出ようとした男子生徒を捕まえて問いかける。夏目の質問に、背の高い彼は首を傾げ、今し方出たばかりの室内を振り返った。
 ぐるりと見回してから、なにか気になるところでもあるのか、ぽりぽりと五分刈りの頭を引っ掻いた。
「田沼、たぬ――……あー、あいつ、今日休みだ」
「え?」
 腰を曲げて身を乗り出し、覗き込んだ夏目の目にも、探し人の姿は見当たらない。だからてっきり、もう帰ってしまったのかと思いきや、意外なひと言に彼は面食らった。
 素っ頓狂な声を出して姿勢を戻せば、見上げられた男子生徒は吃驚している夏目に二度頷いた。
「朝から居なかったし」
「そっか……。有難う」
 田沼は夏目ほどではないが、妖怪を感じ取る力を持っている。そしてその気配に当てられて、頻繁に体調を崩していた。
 何も聞いていないが、今日の欠席も恐らくはそれが理由だろう。
 一縷の望みを賭けていたのだが、見事に断ち切られてしまった。かといって、田沼を非難するのは筋違いだ。
 自分も西村とさほど人間性は変わらないと、己に呆れて肩を竦める。最早打つ手なし、どうしようもないので、大人しく濡れて帰る覚悟を決めようと彼は正面玄関へ向かった。
「あれ、夏目君だ」
「タキ?」
 その道中、階段を降りようとしていたら反対側の廊下から歩いてくる人影があって、夏目は名を呼ばれて反射的に顔をあげた。
 見知った女子生徒の姿をそこに見出し、表情を綻ばせる。肩の辺りで切り揃えた髪を、この湿気の所為か若干重そうに揺らして、彼女は鞄を胸に駆け寄って来た。
「今帰り?」
「そう。タキも?」
「うん。なかなか止まないしね」
 友達と喋りながら待っていたのだけれど、と彼女は肩を竦めながら小さく舌を出した。
 その友人も、学年がひとつ上の彼氏が傘を片手に迎えに来て、一緒に帰ってしまったという。
「入れてもらえばよかったのに」
「嫌よ、お邪魔虫になっちゃう」
 何気なく言えば、彼女は頬をぷっくり膨らませて怒りに顔を赤くした。
 確かに、言われてみればその通りだ。いくら予期せぬ雨に見舞われたからと言って、恋人同士の相合傘に紛れ込むのは失礼だし、肩身も狭かろう。迂闊な発言だったと正直に謝罪した夏目に、多軌は数秒置いてからぷっと吹き出した。
 なにか変な事を言っただろうかと、急に笑われて夏目は焦った。しかし記憶を振り返っても、腹を抱えられる程可笑しな発言をしたつもりはない。
「タキ」
「あはは。ごめん、なんでもない」
 自分でもどこが笑いのツボに入ったのか、ちっとも分からない。顔に掛かる髪を掻き上げ、自然と浮いた涙を拭って、タキはまた舌を出した。
 可愛らしい仕草に怒る気も失せて、夏目は鞄を抱え直し、肩を竦めた。
「しかし、そうか。タキも傘、ないんだ」
 実は少々、当てにしていた。しかし女子に頼るのも気恥ずかしいので、教室まで訪ねに行くのは思い留まっていたのだが。
 彼の独白に、タキは顔を上げた。台詞の内容から、夏目も自分と同じような境遇にあるのだと察し、立てた人差し指を頬に当てて考え込む。もっとも、そんな事をしても妙案が浮かぶわけがなく、打開策は何ひとつ見出せなかった。
 結局二人揃って困ったな、と苦笑しあうだけに終わった。
「吃驚しちゃうよね、いきなり降り始めるんだもん」
「そうだな」
 天気予報へ盛大に不満を表明し、彼女はぴょん、と階段をひとつ飛び降りた。足を滑らせないか冷や冷やした夏目は、次の段からはちゃんと交互に足を繰る彼女に安堵し、後ろに続いた。
 校舎は蒸し暑く、片手を団扇にして風を招くがあまり涼しくない。手首を動かした分だけエネルギーが消費され、右腕が他よりも若干火照っただけだった。
 これからの季節、もっと暑くなるのかと思うと、溶けてしまいそうだ。
「なんか、騒がしいね」
 首筋を流れる汗を鬱陶しそうに払い除けた夏目の耳にも、人のざわめきが聞こえた。多軌が手摺りから身を乗り出し、階下を窺う。どうやら玄関の方で誰かが騒いでいるらしい。
 悲鳴と怒号が入り混じるが、言葉の内容までは巧く聞き取れない。夏目も彼女に倣い、落ちないよう注意しつつ手摺りから下を覗き込んだ。
 黒い影が、狭い視界をひゅっ、と風の如く走り抜けた。
「ん?」
 どこかで見たことのあるシルエットだったが、一瞬過ぎて分からない。九十九折の階段を駆け上ってきているようで、喚き声が少し近くなった。
「どうかしたのかな」
「さあ……」
 姿勢を戻し、夏目が首を傾げる多軌に言葉を濁す。あの影の走りからからして、どうやら騒動の主は夏目の足元、つまりは彼らが居る階段を一階から駆け上ってきていると予想できた。
 それ即ち。
「にゃつめー!」
「うわあ!」
 当然ここでじっとしていれば、向こうからやってくる。
 その結論に至った矢先、目の前に巨大な何かが立ちふさがった。
 仰け反り、恐怖に慄いて彼は鞄を投げ捨てた。それと一緒に、飛びかかってきた真ん丸い物体から零れ落ちたものが踊り場へ転がっていく。多軌はヒッ、と顔を引き攣らせて自分の鞄を抱き締めた。
 夏目は段差の角で尻を打ち、そのまま一段滑り落ちた。顔面に張り付くものの感触にも覚えがあって、がっしりしがみついてくるそれを懸命に引っ張り、剥がそうと足掻く。
 けれど藻掻けば藻掻くほど、それはきつく彼の顔を締め上げた。
「な、夏目君……?」
「こ、んの……馬鹿ニャンコ!」
 決死の思いで首根っこを掴んで剥ぎ取る。罵声をあげた彼にビクっとして、多軌は視線を泳がせた。
 踊り場まで落ちてしまった夏目の鞄を思い出して拾いに行き、重なり合うように転がっていた細長い黒いものも一緒につまみ上げる。雨と、恐らくはそれ以外のものでぐっしょり濡れたそれは、男性用の折り畳み傘だった。
 柄の部分に付随していた紐を恐々持ち、彼女は雨と泥で真っ黒に汚れている丸い尻尾を見上げて、改めて手元の傘を見た。
 こんなもの、さっきまで無かった。
「にゃにをする、貴様! 私がどんなに辛い目に遭ったと思っておるのか!」
「五月蝿い、ったく。学校に来るなんて、どういうつもりだよ」
 口の中に泥が入ったと、水に濡れた葉っぱを頭に張り付かせて夏目が喚く。一方首を抓まれた斑も、短い四肢をじたばたさせて半泣きで声を荒げた。
 正面玄関から突進してきた物体を追っていた生徒が何人か、何事かと興味津々に踊り場に顔を出す。斑が人の言葉を喋っているのを聞かれるのは拙いと判断し、多軌はふたり分の鞄と汚れた傘を持って階段を駆け上がった。
 すれ違い様に、まだ斑相手に説教している夏目の襟首を掴む。
「ぐはっ、タ、タキ……?」
 彼女の細腕では、同い年とは言え男子と猫をまとめて引き揚げるのは難しい。それでも注意喚起にはなって、首が絞まった彼は今更ながら、周囲の状況を思い出した。
 汚れ放題で鼻水まで垂らしている斑を抱え、急いで上層階目指して駆け出す。一足先を行っていたタキが、こっち、と人気の無い方角を指差して叫んだ。
 彼女の誘導に従い、照明が灯りながらも薄暗い廊下を急ぐ。角を曲がったところで追いかけてくる人がいないのを確かめ、ふたりは仲良くその場にしゃがみ込んだ。
「ったく……、なにしに来たんだよ、先生は」
 これまでにも何度か、夏目と一緒に学校に潜り込んだことのある斑であるけれど、まさか雨の日に、泥まみれで訪ねてくるとは思わなかった。
 ぐっしょり濡れ鼠となった猫は元気がなく、真ん丸い胴体も心持ち萎びている。普段は人を食ったような顔をしているのに、この時だけは元気がなく、めそめそと泣き続けた。
「あのね、夏目君。これって」
 本当は今すぐに抱きつきたいところだが、斑がびしょ濡れなので躊躇していた多軌が、やはり濡れ雑巾に等しい折り畳み傘を差し出した。先ほど、階段で拾ったものだ。
 一緒に鞄も返してもらった夏目が、柄の刻印を見て首を捻った。
「これ、俺のだ」
「やっぱり?」
 傘カバーは泥水を盛大に浴びて目も当てられない状態だったが、取り出してみれば中は案外綺麗だった。試しに広げてみると、内側にまで雨水はしみこんでいない。
 奇跡だと呟いて、夏目はまだへたっている斑に目を落とした。
「まったく、私をパシリに使うとは」
「届けに来てくれたのか」
「頼まれただけじゃわい!」
 間違っても自分から望んで来たのではないと、人目が無いのを良いことに怒鳴り散らし、斑は四足で起き上がると全身の毛を逆立てた。
 ぶるぶるっ、と犬さながらに身体を振り回し、水分を弾き飛ばす。そこに夏目や多軌がいるのに、お構い無しだった。
 冷たい雫を浴びせられ、ふたりは座ったまま身を退いた。それでも避けきれず、白いシャツや腕、顔にまで黒い点々が飛び散って、ふたりは顔を顰めた。
「なにするんだ、先生」
「ふーんだ」
 折角届けに来たのに労いの言葉のひとつも無い、と斑は丸い尻尾を立ててツーン、とそっぽを向いた。
 愛らしいお尻を向けられ、多軌の手が宙を泳ぐ。抱き締めたいのを懸命に堪え、フルフル震えている様に苦笑し、夏目は湿った髪を掻き毟った。
 確かにこの状況で傘を届けてくれたのは有り難い。泥水を飛ばされたのは、少々気に食わないが。
「助かったよ、先生」
「ぷんぷーん」
「どうもありがとう御座います」
 軽い口調での礼は突っぱねられてしまい、夏目は仕方なく頭を下げた。多少素っ気無い口ぶりではあったが、ちらりと振り返った斑は満足げな顔をしていた。ふふん、と上機嫌に鼻を鳴らし、振り向こうとして自分を狙う視線に怯え、慄く。
 多軌は懸命に自分の欲望と戦いながら、鼻息荒く彼ににじり寄ろうとしていた。
 今抱き締めれば、制服がぐしょぐしょになってしまう。しかし抱き締めたい。ぎゅっとして、すりすりして、もふもふしたい。
「多軌、洗ってくれば?」
「にゃぬ!」
「そうね、そうするわ!」
 欲望が駄々漏れになっている彼女に苦笑し、夏目はそこにある女子トイレを指差した。言われて気付いた彼女は、斑がぎょっとするのを他所に力強く宣言し、勢い勇んで斑を抱えあげた。そのまま誰も居ないトイレに、一直線に駆け込んで行く。
 開けっ放しのドアからは聞き苦しい雄叫びのような悲鳴が響き、乾いた笑いを浮かべた夏目は、タオルを持ってきていた筈だと鞄を漁った。
 いったいあの潰れ饅頭のどこが可愛らしいのか、多軌の感性はよく分からない。しかし、嫌ってくれるよりはずっと良い。
 相変わらず斑の野太い悲鳴が轟く中、見つけ出したハンドタオルを片手に、夏目は立ち上がった。ふたり分の鞄、そして斑が苦心の末に届けてくれた折り畳み傘を持って。
「そうだな、折角だし」
 泥まみれになりながら、傘を咥えて来てくれた斑に、たまには感謝の気持ちを贈ろう。帰り道、ちょっと遠回りをするのも悪くない。
「先生、多軌。七辻屋に寄っていかないか」
「え? どうして」
「なんだか急に、饅頭が食べたくなってさ」
「にゃぬ! 饅頭だと」
「そうそう。だから先生、早く綺麗にしてもらえよ」
 泥団子のままでは、七辻屋には入れない。そう言うと、必死の抵抗の末に女子トイレから逃亡を図った斑はぐぐぐ、と呻き、大人しく中に戻っていった。
 両手を水浸しにしていた多軌にタオルを渡し、夏目がこっそり耳打ちする。
 傘は自分が持つから、と。
 もれなく斑を抱きかかえる役目を与えられた彼女は、これまでに類を見ない満面の笑みを浮かべ、諸手を挙げて跳び上がった。

2009/06/22 脱稿