雨衣

 本日の天気予報は、曇り時々晴れ、ところにより雨。
 朝方、家を出る時はまだ辛うじて晴れていた。薄い雲が空を覆い、隙間から陽光が弱々しく地上を照らしている。お陰で気温もそう高くなくて、過ごし易い一日になるかと思われた。
「ツナ、傘」
「えー」
「いいから、持って行きなさい」
 降水確率は午前二十パーセントで、午後からの確率は六十パーセント。但し玄関から仰ぎ見た空模様からは、まるで雨が降る気配が感じられなかった。
 それなのに奈々に弁当箱と一緒に紺色の雨傘を差し出され、綱吉は渋った。
 今日は体育があるので、ただでさえ荷物が多い。体操服を入れた袋を右手に、左手に教科書類を入れた鞄を持っていた彼は、これ以上持てないと肩を揺らして主張した。
 されど、母は強し。奈々は眦を吊り上げて怒り顔を作り、腰に手を当てて、綱吉の生命線とも言える弁当箱を背中に隠してしまった。
「ダーメ」
 グレーの布に包まれた本日の昼食が、前後左右に揺れ動く。中身がぐちゃぐちゃになってしまわないか心配で、横に身を傾けて覗き込もうとする息子に今度はにっこり微笑み、奈々は、はい、と傘とセットにして差し出した。
 有無を言わせぬ雰囲気に臍を噛み、綱吉は亀のように首を引っ込めた。
「はぁい」
 間延びしたやる気の無い返事をしつつ、今持っているものを右手に集めて、左腕を伸ばす。受け取った弁当はずっしりと重く、隙間がないくらいにぎゅうぎゅうに詰め込まれたおかずを想像して、彼は喉を鳴らした。
 手早く鞄に詰め込み、袋と一緒に傘を持てば、準備は完了だ。
「いってきまーす」
 こっそり傘は置いて行ってやろうかと思ったが、しっかり門扉を潜るところまで奈々に見送られてしまい、外の傘立てに押し込んでいくという荒業は、残念ながら出来なかった。
 息子の考えることなどお見通しの母親に肩を落とし、綱吉は薄曇の空を仰いだ。
 今日は起床時間に余裕があったので、遅刻する心配はない。ゆっくり歩いて行けるなんて稀で、朝の清々しい気持ちで胸をいっぱいにしながら、彼は通学路を急いだ。
 幾つかの角を曲がり、横断歩道を駆け抜け、穏やかな風に頬を擽られながら、中学校を目指す。近付くに連れて徐々に同じ制服に身を包んだ生徒の数も増えてきたが、傘を持っている生徒は、半数にも満たなかった。
 奈々は心配性すぎるのだ。
「要らないんじゃないのかなあ」
 ひとり呟き、綱吉は薄い水色の空を見上げて傘を握る手に力を込めた。
 この調子で降らないまま授業が終わったら、帰る頃には存在を忘れていそうだ。傘立ては正面玄関を入って直ぐ、立ち並ぶ下駄箱と一緒に、クラス別で置かれている。
 放課後はどうしても気忙しく、早く帰りたいとせっかちになっているので、靴を履き替えたらそのまま外に飛び出してしまいがちだ。そうやって家に着いてから忘れたのを思い出し、翌日が朝から大雨で悲惨な目に遭う、というのがいつもの綱吉の行動パターンでもあった。
 よく紛失したり、壊したりするので、奈々も最近は安い傘しか買ってくれなくなった。今持っているのも、勿論そうだ。
 透明なビニール傘よりは高級だが、強風に煽られると直ぐに骨が折れてしまう。そんなだから大事にする気も起こらず、失くした時の為に名前を書いておく、という小さな努力さえしていなかった。
「降らなかったら、持って行き損だよ」
 プラスチックの先端でアスファルトを叩き、乱暴に扱って綱吉は悪態をついた。
 道は並盛中学の生徒で溢れ、賑やかだ。彼はその中で知っている顔を捜して視線を泳がせ、後ろから肩を叩いた手に驚いてつんのめった。
「おはよう御座います、十代目」
「あ、おはよう」
 前に傾いだ身体を戻し、振り返る。視界に飛び込んできた、慣れ親しんだ笑顔にホッとして、綱吉は強張った肩から力を抜いた。
 綱吉を「十代目」と呼ぶのは、この世にひとりきりしか居ない。
 マフィアの後継者候補としてリストアップされている綱吉だが、本人にその意思はない。だから獄寺のその呼び方には、最初かなり抵抗があったのだが、最近はなんとかあだ名のひとつとして受け入れられるようになってきていた。
 斜め後ろから隣に移動した獄寺に笑いかけ、綱吉は左右の腕を交互に振った。彼の足に当たって邪魔になるので、右に持っていた傘は左手に移動させる。その一連の動きを目で追って、彼は首を傾げた。
「降るんですか?」
「どうだろうね」
 不思議そうな顔をして、白っぽい空に目をやった獄寺に、綱吉は曖昧な答えしか出せなかった。
 天気予報の降水確率など、博打みたいなものだ。当たるも八卦、当たらぬも八卦。奈々に無理矢理持たされただけと溜息混じりに告げると、彼は成る程、と納得した様子で頷いた。
 空っぽの左手を広げ、掌を上にして彼は降ってくるものがないかを確かめている。今は雨雲の影も形も無いのだから、空から落ちてくるものがあるとすれば鳥の糞くらいではなかろうか。
 生真面目な彼の横顔を盗み見て綱吉は笑い、奈々とのやり取りで若干損ねていた機嫌を直した。
「雨になったら、体育、なくならないかな」
「今日は体育館の日ですから、無理じゃないですかね」
「ああ、そういえばそうだった」
 雨に濡れてまで外で授業を受けたくない。そう思っての発言だったが、あっさり獄寺に前提から覆されてしまい、綱吉は額に手をやって、通学鞄以外持っていない彼に顔を顰めた。
 またサボるつもりなのだろうか、彼は。
「ダメだよ、ちゃんと授業出ないと」
「今日は出ます」
「でも、体操着」
「学校に置いてあります」
 着替えるのが面倒だとか、スポーツで馴れ合うつもりはないだとか、色々言って彼はなにかと体育をサボろうとする。出たら出たで山本に馬鹿みたいに張り合って、チームプレイを無視して試合を滅茶苦茶にしてしまうこともしばしばあった。
 いつだって苦労するのは、ふたりの間に立たされる綱吉だ。山本は笑って真面目に取り合おうとしないので、獄寺ひとりが機嫌を悪くしてダイナマイトを取り出し、綱吉が慌てて彼を止めようとして、被害に遭う。
 お決まりのパターンを想像し、矢張り彼に体育は鬼門かと、綱吉は誰にも悟られぬよう溜息をついた。
 賑わいは深まり、校門は直ぐ其処に。門柱の手前に立っていた先生に挨拶をして敷地に入って、彼らは並んで玄関へ急いだ。
 喋りながらの登校はゆっくりで、気付けば授業開始までそう時間が残されていなかった。案の定隙間が多い傘立てに綱吉は手持ちの傘を押し込み、先に下駄箱に向かっていた獄寺を追いかけた。
 靴紐を解いて足を引き抜き、踵が踏み潰された上履きに履き替える。銀と灰色が混じった色の戸を閉めていると、頭上のスピーカーから予鈴がけたたましく鳴り響いた。
「うわ、まずい」
「急ぎましょう、十代目」
 のんびりしすぎた。周囲も一斉にざわめき、早口に言った獄寺に綱吉は頷いた。

 多種多様なおかずで飾られた弁当は、毎度ながら美味だった。
 母親が料理上手でよかったと思いつつ、綱吉は満腹になった腹を撫でた。向かいに座る獄寺も、コンビニエンスストアで買ったと分かるパンを頬張り、最後のひと欠片を口に放り込んだ。
 青と白のパッケージの牛乳で押し流し、満足げに息を吐く。空気が減って凹んだパックを握り潰し、他のゴミと一緒にしてビニールの袋に押し込んだ。
「曇ってきたな」
 ふたりよりも先に食事を終えていた山本の言葉に、弁当箱を片付けていた綱吉が顔を上げた。促されて窓の外に目を向け、陽射しが完全になくなっている空に僅かに目を見開いた。
 登校時は薄かった雲が、今はかなり厚みを増して並盛町に圧し掛かっていた。
「ほんとだ」
 昼休憩に入る直前は、まだ明るかったのに。
 食べるのに夢中で全然気付かなかった。いつの間に、と感嘆の声を漏らしつつ、綱吉は机の右側から鞄を引っ張り上げた。
 袋の口を縛った獄寺が、歯の隙間に潜り込んだヤキソバの残骸を気にして顔を顰める。唇は閉ざされているので見えないが、恐らく舌を動かして懸命に掻き出そうとしているのだろう。
 外を見ているより、獄寺を眺めている方がよっぽど面白い。それに、もし雨が降ったとしても自分には傘がある。
「変な顔」
「ふぬぁ! 言わないでください」
 人差し指で獄寺を指して笑った綱吉に、彼は顔を真っ赤に染めた。窓から視線を戻した山本も、空になった弁当箱に肘を立てて、ニヤニヤ笑いながら照れている彼を綱吉と一緒にからかい出す。
 そうすれば獄寺は耳まで赤くして、恥かしさも絶頂に達したのか、慌しく椅子を引いて立ち上がると、逃げるようにゴミ箱に向かって行った。道中にあった無人の机に腰をぶつけ、痛がる姿もまた、おかしい。
 綱吉は声を立てて笑ったが、途中でさすがに悪いかと思い直して表情を引き締めた。口を閉めた鞄を机のフックに戻し、頬杖ついて窓に目を向ける。
「降るかな」
「五分五分じゃねえ?」
 何気なく呟けば、聞いていた山本が相槌を打った。彼も椅子の背凭れに寄りかかり、綱吉と同じ方角に目を向けていた。
 他にも何人か、雲行きを気にして表情を翳らせている存在があった。賑わう教室の中でも、話題は自然と天気の行方に集中した。
「降られたら、困るな」
 手ぶらになって戻って来た獄寺が座るのを待ち、山本がぽつりと零す。彼は野球部に所属しているので、グラウンドが使えないと筋トレ中心のメニューしか出来ないのが面白くないのだ。体育館はバスケットボール部やバレーボール部、剣道部といったところが占有しているので、肩身が狭い思いをさせられる、という理由もあるだろう。
 唇を尖らせて不満顔の親友に苦笑し、綱吉はちらりと獄寺を窺った。
 まだ少し機嫌が悪そうだが、真っ赤だった肌の色は落ち着いていた。ちょっとからかいすぎたと心の中で舌を出して反省し、綱吉は昼休みの残り時間を気にして教室前方に視線を投げた。
 午後からの授業は億劫だ。面倒な体育は終わったが、まだ数学と英語が残っている。
 適度に運動をした後にお腹一杯食べたので、眠い。欠伸を噛み殺していると、伝染ったのか山本まで手を広げて口に翳した。
「昼からちょっと寝るかな」
 そんな軽口を叩いて目尻を擦る彼を笑うと、また獄寺の顔が一段と不機嫌さを増した。
「ちっ。そんなだからテストで赤点なんか取るんだ、この野球馬鹿」
「……ごめん」
「あ、いいえ。決して十代目の事を言ったのでは!」
 舌打ちして露骨に顔を顰めた獄寺に、万年クラス最下位の点数を記録する綱吉は膝に手を置いて小さくなった。しゅん、と項垂れた彼に獄寺は慌て、両手を振り回して懸命にフォローを入れる。
 勿論綱吉の落ち込みはわざとで、動揺激しい彼に堪えきれずプッと噴出し、そこで獄寺も綱吉にからかわれたのだと気が付いた。
「十代目、酷いです」
「あはは、ごめん、ごめん。だって獄寺君ってば、……ほら、チャイム鳴ったよ」
 綱吉の言うこと、やる事に常に真面目に反応する彼で遊ぶのは、実に楽しい。悪いとは思うのだが、あんまりにも反応が面白いので、ついつい悪戯を仕掛けてしまう。
 また真っ赤になって怒鳴った彼に笑いながら謝罪し、綱吉は手を振って彼を追い払う仕草を取った。
 先に立ち上がった山本が、使っていた机を動かして綺麗に整列させる。邪魔だと足を蹴られ、獄寺も仕方なく椅子ごと移動を果たした。
 程無く五時間目が始まって、先生の声と黒板がチョークを削る音ばかりが耳に響く。そこに不協和音が混じり始めたのは、授業終了の鐘が鳴るほんの数分前だった。
「あ」
 首を撫でたひんやりとした風に、綱吉は落ちかけていた瞼を開いて左を見た。
 大半の生徒が猫背に机にしがみついている中、綱吉の頭だけがひとつはみ出て浮き上がる。教壇に立つ教諭は黒板に向いており、今のところ誰一人、綱吉の態度の変化に気付く人は居なかった。
 彼は誰よりも大きい目を丸くし、一列挟んだ先にある窓に落ちた雫に息を呑んだ。
「降って来た」
 照明が灯る教室は明るいが、一枚ガラスを隔てた先はどんよりと暗く沈み、厚い雲に覆われて太陽は遠くに消え去っていた。
 隣の席の女子が気付き、綱吉が左に首を向けているのを怪訝にしてから目を泳がせる。彼が立てた細波は、次第に速度を上げて教室全体に広がった。
「うわ、雨だ」
「ほんとだー」
 窓に近い席にいた生徒が口々に言い、額を寄せて冷たいガラスの向こうを覗き込む。最初は疎らだった水滴も、時間を経るごとに数を増して勢いを強めていった。
 こうなるともう授業そっちのけで、先生も呆れ顔だ。
「お前ら、此処テストに出すからなー」
「はーい」
 脅し文句への返事は揃っていたが、皆、気もそぞろだった。
 六十パーセントの確率も、なかなか侮り難い。奈々の予感は見事的中したわけで、綱吉は内心ドキドキしながら、母の配慮に初めて感謝した。
 六時間目に突入した辺りから本降りになり、授業終了と共に山本は悲壮感を丸出しにして教室を出て行った。反して綱吉は、持って来た傘が無駄にならずに済んだとホクホクだ。
「十代目、帰りましょう」
「うん」
 午後から雨が降った日は大抵、綱吉は傘を持ち合わせていなくて悲惨な思いをさせられた。しかし、今日は違う。
 登校時の光景を思い出して、彼はしたり顔で笑った。
 玄関の傘立ては、半分も埋まっていなかった。折り畳み傘を鞄に入れている生徒もそれなりに居ただろうが、置き傘すらない生徒も多かろう。
 これまでは綱吉は、軒下で途方に暮れる中、自慢げに手持ちの傘を広げて去っていく学生を何十人も見送って来た。けれど今日はその立場が逆転する。性格が悪いと言われようが、胸がスッとするのは否定できない。
「獄寺君は、傘は?」
「え?」
 荷物をまとめ、机まで迎えに来た獄寺を伴って歩き出した綱吉は、ふと隣を行く彼の所持品が気になって問いかけた。
 見たところ、獄寺は朝と同じく鞄ひとつだ。体操着はまた置いて帰るらしい、男子ひとり暮らしだから洗濯も面倒なのだろう。
 下から覗きこんできた綱吉に、彼は裏返った声で半歩後退した。弁当箱がない分、綱吉よりも薄い鞄を前後に揺らし、ワザとらしく視線を逸らして頬を引っ掻く。実に分かり易い態度に、綱吉は肩を落とした。
「ふぅん」
「いえ、決してその、十代目にご苦労をかけるつもりでは」
 持っていないのなら、そう言えば良いのに。
 朝の段階で綱吉が傘を持って来ていると知っていた彼は、綱吉と一緒に帰ればおこぼれに預かれると期待していたようだ。
 頬を染めて照れ笑いで誤魔化そうとする彼をジト目で睨み、直後肩を揺らして笑って、手間の掛かる彼を肘で突いた。避けようとした獄寺が肩から壁にぶつかり、痛がって実に白々しい悲鳴を上げる。それをまた綱吉が笑って、獄寺も堪えきれずに相好を崩した。
 雨が降っているとどうしても気分は沈みがちになるが、獄寺といると不思議とそう感じない。彼の持ち前の明るさや、真っ直ぐな気持ちが、綱吉に覆い被さる暗雲を払い除けてくれているようだった。
「あーあぁ、雨か」
「どうすんだよ、俺、傘なんて持ってねーぞ」
 正面玄関に近付くにつれ、そういう声があちこちから聞こえて来た。
 いつもなら綱吉も、彼らと同じように愚痴を零し、何故隠れてしまったのかと、太陽に対して無茶な文句を言う側にいた。
「母さんに感謝しないとな」
「十代目のお母様は、凄いですね」
 奈々の言葉に従って良かったと頷き、獄寺も同意する。身内が褒められるのは照れるが嬉しくて、綱吉は満面の笑みを彼に向けた。
 学年、クラス別で分けられた下駄箱の、自分の名前が貼られた扉を開けて靴を取り出す。開けっ放しの正面玄関からは、庇や地面を打つ水音が絶えず流れ込んできた。気温が下がっているのだろう、肌を擽る風は冷たい。
「結構降ってるな」
「なあ、この傘って誰の?」
「いいんじゃねー?」
 上履きを脱いで通学用の靴に履き替え、屈んで解けていた紐を結ぶ。鞄と体操服の入った袋、荷物が他の生徒よりも多い綱吉は、次々に来ては去っていく彼らに蹴り飛ばされぬよう配慮せねばならず、元々の愚鈍さも手伝い、なかなか蝶々結びが作れなかった。
 ようやく満足が行く結び目が出来て、脱げないのを確かめて身を起こす。獄寺はとっくに準備を終えており、スノコを降りて傘立ての横で待っていた。
「ごめん」
「いえいえ」
 手間取った事を詫び、綱吉はコンクリートの床で爪先を叩いて靴を足に馴染ませた。しとしと降る雨音に耳を傾け、灰色に滲んだ外の景色に目をやって溜息をつく。
 帰路に着く生徒でごった返す正門には、無数の傘の花が咲いていた。
 意外に、置き傘をしている生徒は多いようだ。鞄やタオルを頭に載せて濡れて帰る生徒はあまりおらず、綱吉はホッとしながら銀色のスチール製の傘立てに手を伸ばした。
 しかし。
「あれ?」
 其処に残されている傘の本数は、綱吉が覚えているのよりも少なかった。
 朝、確かに自分は此処に傘を入れた。紺色で、柄は白い。スナップが着いた紐で一周させて、小さくまとまった状態で隙間に押し込んだ。間違いない。
 それなのに、どうしてだろう。残っている傘は、いずれも女子のものと分かる可愛らしい色柄のものばかりだった。
「十代目?」
 綱吉は半端なところで手を止め、指を泳がせた。彼の様子が可笑しいことには獄寺も直ぐに気付いて、どうかしたのかと後ろから声をかけてくる。だが彼には聞こえていなかった。
 琥珀色の瞳を左右に走らせ、隣の傘立てに間違えて差したかと下駄箱を移動する。しかしそこにも、彼が今朝奈々から渡された傘は無かった。反対側も確かめるが、結果は同じ。
「ない」
「え?」
「俺の傘、無い」
 声を震わせ、綱吉は色の悪くなった唇を戦慄かせた。
 横から覗き込んできた獄寺が、綱吉のあまりの狼狽振りに驚いて目を見張る。背筋をスッと伸ばした彼は、雨のカーテンに覆われた外を睨み、先ほど聞きかじった他クラスの生徒の会話を思い返した。
 綱吉が靴紐を結んでいる時、傘が無い男子生徒が数人、この傘立てを漁っていた。
「十代目、名前は書いていましたか」
「ううん」
「じゃあ、やっぱりあいつらか」
 その時はまさかこんなことになるとは思っておらず、獄寺は無記名の傘を見つけて引っ張りだした彼らを無視した。知っていたなら止めたのに、みすみす行かせてしまった。
 人の持ち物を勝手に拝借していった連中に腹が立ち、獄寺は握り拳で其処にあった下駄箱を殴った。
 凄い音がして、居合わせた生徒らが一斉に彼を見る。シーン、と静まり返った空気に身震いし、綱吉は鞄を抱き締めて慌てた。
「ご、獄寺君」
「捕まえて、取り返してきます」
「え、ええ?」
「十代目は此処で待っていてください。直ぐ戻りますので」
「ちょっと待ってよ!」
 幸いにも、綱吉の傘を盗んでいった連中の顔は覚えている。不良を気取っているが、獄寺からしたら馬鹿がはしゃいでいるだけの集団だ。
 自分は山本や雲雀ほど腕力に自信があるわけではないが、得意のダイナマイトを駆使すれば三人程度なら蹴散らすのも可能だ。マフィア界でもトップに位置するボンゴレの次期首魁の右腕になろうとしている人間が、そこいらの雑魚に負けるわけにはいかない。
 いきり立った彼に、綱吉は青い顔をした。
 外に飛び出そうとした獄寺の腕を取り、引きとめる。前に出掛かった身体を封じられて、彼は牙を剥いた。
「十代目、止めないでください」
「止めるに決まってるだろ!」
 怒鳴った獄寺以上に声を張り上げ、綱吉は彼を睨みつけた。
 大声の応酬に、場に居合わせた人々は迷惑そうにしながら出て行った。自分達の現在地を思い出して先に我に返った綱吉が、気まずげに舌打ちして獄寺の袖を引いた。
 圧倒されて魂が抜けかけていた獄寺もハッとして、唇を噛み締めている綱吉を下に見た。
「十代目」
「いいよ、もう。名前書いてなかった俺が悪いんだし」
 自業自得だと自虐的な台詞を吐き、綱吉は顔を背けた。
 獄寺は追いかけて取り返してくると言ったが、盗んでいった男子生徒がどの方角に進んだか、どうやって知るつもりだったのだろう。並盛町は広い、この雨の中で探し出すなんて不可能だ。
 懇々と道理を諭す綱吉に、獄寺の勢いも徐々に萎んでいく。他ならぬ綱吉の説教だ、耳を貸さないわけにはいかず、彼は叱られた犬のようにしょんぼりと項垂れた。
 きっと耳が三角だったなら、ぺたん、と頭に張り付くくらいに倒れていたに違いない。想像したら可笑しくて、綱吉は神妙すぎる彼を笑った。
「ですが、どうするんです、十代目」
 置き傘は、無い。獄寺も同じだ。
 職員室に行けば、長い間放置されていた所有者不明の傘を貸してくれるかもしれないが、本数には限りがある。既に無くなってしまっていると思ってよかろう。
 打つ手無しで、綱吉は獄寺の上目遣いの問いかけに黙り込んだ。
「……むぅ」
 最初は力強かった綱吉の瞳も、気勢を弱めて伏せられた。
「どうしよう、か」
 最後にぽつりと零した彼に答えられず、獄寺は銀髪を掻き毟って天を仰いだ。
 ダイナマイトで雨雲を吹き飛ばせてしまえたら、どんなに良いだろう。役立たずの武器をブレザーの上から撫で、彼は首を振った。
 落ち込んでいたところで、始まらない。雨脚弱まる気配の無い曇天に目を向け、獄寺は乾いた唇を舐めた。
「十代目」
「うん?」
「その、なんていうか。十代目のご自宅より、俺ん家のがまだ少し、近い、ですよね」
 獄寺は親元を離れ、アパートでひとり暮らしをしている。通学に便利だからと、比較的学校から近い場所に住んでいるのは、綱吉も承知している。今更確認するまでもないことで、何故そんな話をするのかと、綱吉は不思議そうに小首を傾げた。
 獄寺はきょとんとしている彼を前に横を向き、長い前髪を掻き上げた。心持ち頬を朱色に染め、チラチラと横目で窺っては視線を逸らす。
 周囲のざわめきは遠ざかり、波が引いたように玄関は静かだった。
「獄寺君?」
「ええと、その。ですから、ですね」
 物分りの悪い綱吉が、しどろもどろになっている獄寺に手を伸ばした。彼はそれを反射的に捕まえ、力いっぱい握り締めた。
 骨が軋むような痛みと、鼓膜を突き破った大声に、綱吉が吃驚して目を見開いた。呆気に取られる彼を正面から見つめ、赤い顔の獄寺が荒い息を吐いて、飲み込んだ。
「俺ん家なら、傘も、タオルも、全部揃ってますから」
 真っ直ぐ沢田家に帰るより、遠回りになってしまうかもしれないけれど。
 獄寺のアパートを経由して傘を借りて帰る方が、濡れる時間も距離も、短くて済む。
 物分りの悪い綱吉はぽかんとして、早口に捲くし立てた後に肩で息をする獄寺を見返し、続いて握られた自分の手に視線を向けた。
 重なり合った肌を初めて意識して、直後。
 ボンッ、と頭の火山を爆発させた。
「十代目」
「や、いや、あの、えっと、その、ぅあの」
「いや……ですか?」
「ぜんっぜん!」
 不安げに声を潜めた獄寺が、顔を寄せて目を覗き込んでくる。涼やかな、日本人とは違う色の瞳の艶にドキリとして、綱吉は裏返った声で叫んだ。
 あからさまに挙動不審だったのだが、獄寺は一秒置いて、嬉しそうに破顔した。
 どんなに茶化しても、からかっても、彼はいつだって綱吉に対して真剣で、真面目で、真っ直ぐだ。だから綱吉はいつも、受け流したり、避けたりして、巧く躱しているのだけれど。
 ――不意打ちだ。
 時々真正面から食らってしまって、自分でも吃驚するくらいに上手に立ち回れなくなってしまうから、困る。
 心底嬉しそうにする彼に苦笑し、綱吉は引っ張られて足を前に出した。多分今の獄寺は、自分が綱吉の手を握っていることさえ、忘れているに違いない。
「……まあ、いっか」
 気がついた時の彼の慌てぶりも、なかなか見応えがありそうだ。
 ひとり呟き、綱吉は急かす獄寺の笑顔に、照れ臭そうに目を細めた。

2009/06/21 脱稿