頓馬

「お腹、空いたな」
 無駄に広い空間にひとり、ぽつんと座り込んで、綱吉は呟いた。
 ハルと京子による家事ボイコットの余波は、覚悟していた以上に大きかった。
 洗濯物に、風呂の準備に炊事、食器の片付け云々。雑多な業務が非常に多く、そのどれもが慣れないお陰で、非常に効率が悪く作業は煩瑣になりがちだった。
 食事の用意ひとつにしても、肉は焼きすぎて固くなり、火加減ひとつの難しさを思い知らされた。
 そんな大変な作業を、ハルたちは文句も言わずに黙々とこなしてくれていたのだ。母親の有り難味と存在の大きさも改めて実感して、綱吉は両足首を掴んで背筋を伸ばすと、高い天井を仰いで長く息を吐いた。
 目を閉じ、深呼吸を数回繰り返して、ゆっくりと瞼を持ち上げる。景色は変わらない。細波立った心も、凪ぎを知らずに騒いでいる。
 落ち着かない。
 ぐぅぅ、と大きくなった自分の腹を撫でて慰めにして、今度は肩を丸めて姿勢を前に倒す。足を抱えて小さくなった彼の傍には、依然開ける勇気が持てずにいる匣があった。
 首を横倒しにして、仰々しい紋様が刻まれた掌サイズの匣を見詰める。それは十年後の自分から委ねられたこの未来を、大きく左右するはずのものだ。
 自分自身の事でありながら、未だにボンゴレ十代目こと沢田綱吉という男が、何を考え、何を望み、何を求めてこんな手の込んだ悪戯を仕向けたのかが分からない。――そう、悪戯だ。白蘭の行動も、乱暴な言い方だが、世界を巻き込んだ壮大な悪戯に思えてくる。
 遊びたいのだろう、なにもかもを巻き込んで。だから闘いを、何の躊躇もなくゲームの図式に当て込められるのだ。
 自分たちは盤上の駒、白蘭の企てに踊らされる哀れな人形。
「あー……やんなっちゃう」
 良いように振り回されている自分を想像して、綱吉は溜息と同時に大声で叫び、両手を広げた。
 頭を後ろへ倒し、上半身が傾ぐに任せて背中から床へと倒れこむ。全身を大の字に投げ出して、彼は左腕の肘に当たった匣を掴み取った。
 さっきからずっと、カタカタと小刻みに揺れている。ここから出せ、と言っているようでもあり、白蘭に恐怖して怯えているようにも感じられた。
 空腹感が募り、集中できない。目下彼が解決すべき問題は、ミルフィオーレとの決戦に勝利することではなく、いかにして波風立ったハルと京子との関係を修復するか、だった。
 皆も口には出さないが、苛立っている。腹が減っては戦が出来ぬ、という格言があるが、まさにその通りだった。
「お腹空いた~」
 腹の虫は鳴り止まない。正直すぎる自分の身体に呆れ果てながら、綱吉はごちゃごちゃとまとまらない頭を叱咤しようと、握った匣を額に押し当てた。
 微かに冷たい感触が心地よい。あれこれ考えすぎて知恵熱でも出ているのか、全体的に身体もだるさを訴えていた。
 先日の地下基地での死闘から、まだそう時間は過ぎていない。背中の傷は、表面上は癒えているが、内臓器官の一部に受けた損傷と、肋骨に入ったヒビはそのままだ。 
 日常生活においては何の不便も感じないが、戦闘となれば爆弾を抱えたままのようなものだ。だから少しでも栄養を沢山摂取して、身体を休ませてやる必要があった。
 ところが、此処に来て予期せぬ女子らの反乱ときた。
 世の中は何事もそう都合よく回らないと、身をもって実感した。
「みんなは、どうしてるかな」
 山本は待機、獄寺は了平とランボの指導。雲雀は、指輪継承戦の時のようにディーノがどこかに連れ回しているのだろう。クロームは女子側に回ってしまっているので、こちらもどうしているのかさっぱりだ。
 緩やかに内部分解を起こしている。このままでは、折角団結を見たボンゴレが崩壊しかねない。
「俺がもっと、しっかりしてればな」
 強いリーダーシップと、皆を守りぬけるだけの豪腕さを持ち合わせていたなら、こんなことにはならなかったのだろうか。ダメダメといわれ続けていた自分も、最近は少しマシになれたかと思っていたが、驕りだったらしい。
 後頭部を床に打ちつけて骨に響かせ、脳を揺らした綱吉は左手を額から落として匣を床に転がした。乱暴に扱われて、不服そうに大空のボックスがカタン、と音を立てる。目を閉じた綱吉は、見向きもしなかった。
 空腹が強すぎて、起き上がる気力も沸かない。芳しい焼きたてパンの匂いまで漂ってきて、ついに幻覚に襲われたかと、生唾を飲んで綱吉は鼻を鳴らした。
 クンクン、と獣のように小鼻を反応させ、匂いの源を探って頭を浮かせる。寝返りを打つ要領でうつ伏せに姿勢を作り変えた彼は、段々強くなる香りにうっとりし、我慢出来ずに閉ざしていた目を開いた。
 どん、と目の前にきつね色のパンが三つ、並んでいた。
「う、わ……」
 幻のはずなのに、妙に色艶がリアルだ。腹の虫が五月蝿く鳴き喚き、咥内に溢れた唾を唇に滲ませる。堪えきれず手を伸ばそうと横たえていた身体を持ち上げた綱吉は、そこで初めて、パンの向こう側に足があるのに気がついた。
 真っ白い大皿を前にしゃがみ込んでいた人物が、綱吉の視線を受けてにっこりと微笑んだ。
「お疲れ様です、沢田殿。お腹、空きませんか?」
 麦の穂色の髪を揺らし、バジルが言った。

 小麦粉とバターを混ぜ、酵母で発酵させて焼いた素朴なパンは、すきっ腹であったからという理由以上に、美味しかった。
 昨晩も今朝も、カップラーメンやカップ焼きそばといった、たまに食べるには良いが連日となると辛い食事しか口に出来なかったので、ふっくらと柔らかいパンを噛み千切る喜びは、涙まで溢れ出るくらいだった。
 大袈裟な表現ではあるが、兎も角美味しかった。
「ご馳走様でした!」
 みっつ全部をぺろりと平らげた綱吉が、甲高い音を響かせて両手を叩き合わせる。拝むポーズにも似ているその姿勢にバジルは苦笑し、どういたしまして、と控えめな笑みと共に告げた。
 指にこびり付いていたパンくずを皿に落とし、すっかり満たされた腹を撫でて綱吉は正座を崩した。楽な座り方を選んで腰を落として足を広げ、その間に両手を下ろす。
 バジルは蹴り飛ばされぬよう皿を引いて、傍らに置いた。
「他の皆さんには、内緒にしておいてくださいね」
「え、どうして?」
「少し失敗してしまって、今の三つしか作れなかったのです」
 皆、修行なりなんなりで出払った台所で、暇を持て余していたバジルが自分で作ったというパンは、余計な味付けがなにもされていなかった。
 誰かの手ほどきを受けて覚えたわけではなく、見よう見まね。昔は何度か作った事があったそうだが、最近は多忙を極めていた所為でレシピの記憶も所々抜け落ち、それで何個か膨らませられなかったのだそうだ。
 どうにか食べられるところまで仕上げたものの、数はさほど作れなかった。完成したパン三つに対し、守護者の人数はその上を行く。公平に分けるのは難しい。
 だから内緒だと、笑いながら人差し指を唇に押し当てた彼に、綱吉は丸い目を細めて頷いた。
「分かった。秘密だね」
 バジルは今回の女子反乱騒動には無関係なのに、巻き込んでしまった。迷惑をかけているのはこちらなのに、いらぬ気を遣わせてしまって、申し訳なく感じて綱吉は項垂れた。
「てか、俺、全部食べちゃった。バジル君の分まで」
「拙者は、作りながら失敗した分を抓んだので、平気です」
 つまみ食いをしながら作っていたので、焼きあがる頃には腹いっぱいになっていたと、屈託なく笑って彼は肩を揺らした。
 その笑顔に救われた気がして、綱吉は緊張を解いた。ホッとしたのが伝わったのか、バジルも目尻を下げて表情を和らげた。
 暫くふたりして、見詰め合ったままニコニコと笑顔を向け合う。だがそれも五分と持たず、先に視線を彷徨わせた綱吉は、結び合わせた手で自分の右太腿を叩き、頭を垂れて俯いた。
「ごめん」
 掠れる声でそう告げて、以後は黙り込む。沈痛な空気を鋭敏に感じ取ったバジルは、緩く首を振るだけに終わらせた。
「バジル君は、関係ないのに」
「そんなことは」
「俺が、ちゃんとできてないばっかりに」
 京子やハルに、これ以上迷惑をかけたくない。不安にさせたくない。
 ただでさえ怖い思いをさせているのに、不自由な生活を強いているのに、そこから更にどん底に突き落とすような真似はしたくなかった。いや、出来るわけがなかった。
 彼女らに、マフィア云々は関係ない。その上更に、人類の存亡だとかなんだとか、現実離れしすぎた話を押し付けるなんて。
 映画や漫画では見た事があるけれど、まさか自分がその境遇に放り出されるとは、綱吉だって考えてもなかった。ただのマフィアの抗争から、どうしたらそんな突拍子もないレベルに到達できるのか、未だに疑問を感じている。
 だが、これが紛れも無い、綱吉たちの前に横たわる現実だった。
 白蘭を撃破しない限り、未来はない。過去にも帰れない。だったらダメモトでやるだけなのに、そこに無関係の非戦闘員が絡むと、途端に意気地が無くなってしまう。
 怖い。
 彼女らを傷つけることも。
 真実を伝えることで、彼女らの自分たちを見る目が変わってしまうことも。
 ただ、言わないままでいるのが正しいとは、どうしても思えない。だから迷う。悩み、不安になる。
 現状に甘んじるのか、一歩踏み出すのか。どちらを選び取ったとしても、ふたりを傷つける事に変わりは無い。だから少しでもダメージの少ないように考えるのだが、結論は未だ欠片も見出せなかった。
 同じ場所をぐるぐる回っている。堂々巡りの、袋小路。
 いつまで経っても抜け出せず、修行にも身が入らない。自分が今、一番すべき事が分からない。
 両腕を顔の前で交差させ、綱吉は表情を隠したまま天を仰いだ。太陽は見えない、代わりに灯る人工の照明は、今の彼には眩し過ぎた。
「沢田殿は、皆さんが大好きなのですね」
 嘆き哀しみ、途方に暮れている綱吉を見詰め、やがてバジルはそんな事を口ずさんだ。
 どこか楽しげな声色に、綱吉は腕を下ろして彼を凝視した。どこをどう解釈すれば、その感想が出て来るのか。是非とも二百字以内で説明して欲しいと眦を強めれば、彼は肩を揺らして苦笑した。
「好きで、大切な人たちだからこそ、沢田殿は迷うのでしょう?」
「あ、ああ……うん」
 二百よりももっと少ない数で纏められてしまい、反論も出来なくて綱吉は頷き、押し黙った。
 余計な言葉で飾らない率直な意見に、勝手に頬が赤くなる。そういう事を面と向かって言う人が他にいないので、事実なのだが認めるのは悔しくてならず、また恥かしかった。
 もじもじと膝を閉じ、腿の間に両手を挟んで綱吉は落ち着きなく身を揺らした。バジルは微笑みを浮かべ、照れている彼を見守っている。顔に掛かる長い前髪を梳き上げて、頻りに上目遣いに睨んでくる目の前の存在に顔を綻ばせた。
「沢田殿は、お優しいから」
「なんだよ、それ」
「ひとりで抱え込んで、遠ざけようとなさる」
 最初は優しかった彼の顔が、最後はふっと、険しくなった。
 胸に突き刺さった何気ないひと言に、綱吉は息を呑んだ。穏やかな瞳が一瞬だけ鋭い光を放ち、他者を圧倒する。呼吸の方法さえ忘れて息苦しさに胸を掻き、綱吉は戸惑いに琥珀の瞳を揺らした。
 目線が泳ぐ。バジルを見返すことが出来なかった。
「違うよ。俺は、単に怖いだけで」
 重圧や責任に目を背け、逃げ出したいだけだ。楽になりたいから、その道を模索している。バジルは自分を買い被りすぎだと、綱吉は上擦った声で早口に捲くし立てた。
 焦っていると分かる彼の言い訳に耳を傾け、バジルは尚も首を振った。
「ではどうして、怖いのですか。逃げようと思えば、沢田殿おひとりだけなら、簡単でしょう」
「だって、俺だけ逃げたってどうしようもないだろう?」
「ですから沢田殿は、お優しい」
 最初に戻ってしまった。どうあってもそこに結論を持って行きたいらしいバジルに苛立ち、綱吉は拳を作って床を叩いた。置きっ放しにしていた匣がガタンと大きな音を立て、上向いていた面を横向けて転がった。
 怖いから逃げたい。けれど逃げたところで、道はふさがれている。後戻りも許されない。ならば進むしかない、其れが茨の道であると分かっていても。
 傷を負い、流血も避けようがないのだとしたら、少しでも出血量を減らす方法を探し出そう。後に続く人たちが不安を抱かずに済むように、暗がりに灯りを燈そう。
 逃れられないのだというのなら、そうするより他、ないではないか。
「沢田殿」
 そんな想いを抱くこと自体が、彼の心の根の優しさを物語っている。バジルは言葉少なに伝え、震えている彼の手に手をそっと重ね合わせた。
 握り締めると、流れ込む他者の体温が心地よいのだろう。綱吉は眉間の皺を減らし、頬の強張りを解いた。長く深い息を吐き出し、力なく首を振る。
 彼は優しい。そして、頑なだ。
「だって、全部俺の所為じゃないか」
 この時代の綱吉が白蘭を斃せなかったから、十年前の自分たちに白羽の矢が立った。成長を促すためだといって、戦う力の無い少女らをも巻き込んだ。
 不甲斐ない。十年経っても矢張り沢田綱吉はダメツナだ。
 救いようが無い大馬鹿者だ。
 バジルの手を振り払い、綱吉は両手で顔を覆った。唇を噛み締め、苦い味を咥内いっぱいに広げる。鼻の奥がツンと来て、彼は懸命に嗚咽を堪えた。
「沢田殿」
「嫌いだ、俺なんか」
 ひとりでは何も決められない、優柔不断。今の関係が壊れるのを怖がって、先に進むのを恐れる臆病者。
 自分が傷つくのは厭わないのに、目の前で仲間が倒れるところを見たくない。命を投げ打っても守りたいものがあるのに、自分の為に誰かが命を差し出すような真似は許せない。
 矛盾している、分かっている。
 大切なものふたつのうち、どちらか片方を選べと言われたら、躊躇する。どちらも同じくらい大切だから、決められない。出来るなら両方選びたいのに、周りはそれを許さない。
 この手に持てるものは、あまりにも少なくて。
 歩みを止めてはならないと理解はしても、心が追いつかない。納得できない。
 それを、優しいだなんて簡単な言葉で片付けて欲しくなかった。
 首を振り、項垂れる。緩く握った拳で床を打ち鳴らし、綱吉は膝を寄せて身体を丸めた。
「俺は、そんなんじゃない」
 固い骨に額を押し当て、そのまま首を振る。くぐもった声で告げて、バジルはしばし黙り込んだ。
「では、……そうですね。沢田殿は、――馬鹿ですね」
「んな!」
 数秒間を置いて考えこんで、さらりとそんな事を言う。優しいという評価から一転して蹴落とされて、綱吉は反射的に顔を上げて叫んだ。
 カラコロと喉を鳴らし、バジルが笑う。屈託無い少年の笑顔に、呆気なく殻から引っ張りだされた綱吉は唇を噛んだ。
 からかわれていたのだと悟り、泣きそうなところまで歪んでいた表情を険しくする。ねめつけて声を荒げ彼を非難する台詞を吐けば、バジルはそれでも柔和な笑みを崩す事無く、違うと首を振った。
「褒めているのですよ」
「嘘だ、馬鹿だって」
「ええ。沢田殿はどうしようもなく馬鹿正直で、真っ直ぐで、向こう見ずで、一途で、心配性で、――だからお優しい」
 またそこに戻った。どういう理屈を捏ねればそうなるのかさっぱり分からなくて、混乱する頭は鈍い痛みを訴えた。渋い顔で見詰めると、バジルはずい、と二十センチばかり距離を詰めてきた。
 彼の膝が、綱吉の爪先にぶつかる。蹴ってしまいそうになって、彼は慌てて足を倒して広げた。
 更にまた距離が縮まる。額を額で小突かれ、目の前に落ちた影と空を思わせる澄んだ青の瞳に、綱吉は息を止めた。
「沢田殿が皆さんを好きなように、守りたいと想うように、皆さんも――拙者も、沢田殿をお慕いしております」
「バジル君?」
「考えてもみてください、沢田殿」
 楽になる方法は、逃げ出す以外にも沢山あるのだ。
 誰かの後ろに回り込み、責任をなすりつけ、無視を決め込む。自分には関係ないと投げ出して、思考を放棄して、決定権を他人に押しつける。人が決めたことに従い、従順な犬になる。後は野となれ山となれ、の精神で見て見ぬふりをして、誰が傷つき倒れようとも知らぬ存ぜぬを貫き通す。
 だのに綱吉は、そういうずるいことに見向きもしない。自分なりの結論を掴もうと懸命に考えて、何もかもを背負おうとする。
「それは、簡単に出来ることではないのです」
「嘘だ。そんなの、当たり前じゃ」
「当たり前の事が出来ない人間も、大勢います」
 むしろ、当たり前だと考えない人間が多い。
 綱吉は特別なのではない。当たり前を当たり前と、ごく自然に受け止める凡庸さを持ち合わせていただけだ。
 だからこそ、彼の周りに人が集う。彼が絶対に裏切らないと分かるからこそ、誰もが彼に全幅の信頼を寄せるのだ。
「沢田殿はお優しい。そしてその優しさを、驕らない。誰にも出来ることではありません」
 目を閉じたバジルが、ひと言ひと言を丁寧に、ゆっくりと紡ぎあげていく。耳に快い音色に、綱吉は目を見張り、やがて伏した。握られた手が温かくて、伝わる心音が心地よかった。
 そんな風に考えたことなど、なかった。誰かに言われたことも。
 変な感じだった。胸の奥が温かくて、くすぐったい。冬の寒い日に急に走った後、足がむず痒くなるのに似ていた。
「バジル君は、俺のこと、過大評価しすぎだよ」
「そうでしょうか?」
 それだけ言うのが精一杯で、上唇を舐めた綱吉に、彼は目を細めて首を捻る。
 黙って頷き、綱吉はバジルの額を押し返した。しかし相手が一枚上手で、背筋を伸ばした彼に手を引かれ、綱吉は上半身を大きく前に傾がせた。
 ふたりして床に倒れこみ、バジルを下敷きにした綱吉は目を見開いて、真下で平然と笑っている彼を凝視した。伸びてきた手が、乱れた蜂蜜色の髪をかき回す。優しい手つきに、最初険しかった表情も直ぐに和らいだ。
 猫が甘えるように頬を寄せれば、そっと頭を抱き締められる。体温が、鼓動が近くなって、自分以外の存在に酷く安堵した。
 自分はひとりではないと、ひとりで突き進もうとしていたのを悔やみ、思った。
「沢田殿、忘れないでください」
 簡単に抱き締めて、胸に閉じ込めてしまえるくらいに小さいのに、大空は限りなく広い。
 誰よりも守られたいと願いながら、自分に出来る精一杯を偽りなく発揮して、そうやって綱吉は前に進んできた。なにもかもひとりで背負い込もうとして、傷ついて倒れても、自分の足で立ち上がって。
 彼は強い。だからこそ、危うい。
 持ちえる以上の力を時に発揮する彼は、命を削っているようにも映る。皆で最後に笑い合いたいと願っているのに、その輪の中心に彼が居ないのでは意味が無い。
 茨の道を切り開くのは、なにも彼の手ひとつだけでなくとも良いのだ。
 だがそれをいえば、彼は拒絶するだろう。
 まだ迷い、愁いでいる彼に答えを急がせてはいけない。
「拙者は、沢田殿が好きです」
「えっ」
「拙者だけではない。山本殿や獄寺殿や、ハル殿も、皆」
「あ、ああ……」
 唐突の告白に驚いて声を上擦らせた綱吉だったが、続けられた彼の言葉に、微妙にガッカリした様子で上げた顔を伏した。
 バジルの胸に突っ伏せば、彼の手が優しく髪を梳いてくれた。眠気を誘う仕草に、目を閉じれば欠伸が零れた。
 気付いたバジルが笑う。恥かしくて綱吉は赤い顔を彼にこすり付けた。
「くすぐったいです」
「うるさい」
 変なことを言う方が悪い。
 顔を下向けたまま言い、綱吉はバジルの腕を取った。押し退けると素直に従ってくれて、それで彼はやっと顔を上げた。
 僅かに身を乗り出して真上から覗き込むと、澄んだ青の瞳を細め、バジルは笑った。
「沢田殿は、沢田殿の信じる道を行ってください」
 たとえそれが茨の道でも、針の山でも。如何様な艱難辛苦が待ちうけようとも、自分が選び取った道を疑わなければ自ずと結果はついてくる。
 その行く先が見てみたい、出来るなら一番近い場所で。
「どこまでもついて行きます」
「……馬鹿じゃない?」
「そうですね。そう言っていただけると、嬉しいです」
 褒めていないのに、喜ばれてしまい、綱吉は複雑な表情で彼を見詰めた。
 バジルは笑っている、心から。眺めていると、拗ねてウジウジしている自分が格好悪く思えてきて、綱吉は身を引いた。座り直し、置きっ放しにしていた大空の匣を拾い上げる。
 さっきまでカタカタと五月蝿かったのに、今は妙に落ち着いて、静かだった。
 彼の心もまた、久方ぶりに和いでいた。
「馬鹿で結構、か」
「沢田殿?」
「なんでもない」
 決心はまだつかない。けれど、決めた時はきっと後悔しない。
 根拠は無いけれどそう思えて、綱吉は右手を握り締めた。

2009/06/14 脱稿