不知火

「ん……」
 ごろん、と寝返りを打った際に被っていた毛布の端が捲れ、隠れていた綱吉の細い肩が露になった。
 首元を覆う布がなくなり、暖められた空気が逃げていく。入れ替わりにひんやりとした冷気が肌を撫で、奪い取られた体温に彼は身動ぎ、目を閉じたまま顔を顰めた。
 無意識に動いた手が、ずれてしまった毛布を探して宙を泳ぐ。しかし視覚を遮ったまま、尚且つ意識は深く沈んだ中とあっては、そう簡単に願いが叶えられることはない。
 やがて力尽きた指先はぽとん、と胸元に落ち、眉間に皺を寄せた彼は鼻をむずがらせた。
 鼻腔が詰まっている所為で気道が確保できず、引き結んでいた唇を開いて喘ぐように酸素を肺に送り込む。冷え切った夜気に喉を焼かれ、彼は最後に小さなくしゃみを起こし、身を丸めてベッドで小さくなった。
 カーテンが引かれた窓の向こうは澄み渡る夜空が広がるが、新月に近いために天から差し込む光は乏しい。地上の光を反射する雲が少ないので闇は濃く、ただ薄汚れた大気が邪魔をして星明りは疎らだった。
「さむ、い」
 吐く息み紛れ込んだ掠れた呟きが零れ落ち、唇を噛み締めた綱吉が険しくしていた表情を緩めていく。硬直した肩を敷布団に沈め、反対側に寝返りを打って仰向けになった彼は、一緒に持ち上がった右腕を額に預けて体内に沈殿していた二酸化炭素をまとめて吐き出した。
 うすらぼんやりとしていた視界が、少しずつ晴れていく。濃かった霧が消え去る様にも似た変化に、二度の瞬きを経て彼は疲れた様子で腕を下ろした。
「寒い」
 今度は幾分はっきりと響く声で呟き、胸元に圧し掛かる綿入りの冬用布団の表面を撫でる。眠っている最中に蹴り飛ばしたのか、薄緑色の毛布よりもずり下がり、彼の上半身を庇うには丈が足りていなかった。
 これでは寒いのも当然で、変な時間に目が醒めてしまったと、弛緩する頬が笑みを模る中、彼はぼんやりと天井を見上げた。
 耳を澄ませばリボーンの寝息が聞こえて来た。今何時だろうかと首を巡らせるが、視界は闇に圧迫されてゼロに等しい。手探りで頭上の目覚まし時計を探って引き寄せるものの、盤面を照らす明りさえ無いこの状況下では、当然ながらコチコチと針が進む音しか確認できなかった。
 そうだった、と全くの無駄な行為に彼は嘆息し、布団の中で背筋を伸ばした。足元で波打っていた掛け布団の裾を蹴り上げ、下がってしまっている分を引っ張り上げて肩までしっかりと被り直す。一緒に毛布で首をしっかりと保護し、もう一眠りしようと目を閉じた。
 夜明けの一番鶏が啼くまで、まだ相当時間がある。正確な現在時刻は分からなくても、眠りを欲する身体はそう告げていた。
「ねむ~」
 夢は見ていなかったように思うが、折角気持ちよく寝ていたのを寒気に邪魔されてしまった。冬はこれがあるから嫌なのだと、夏は夏で暑さに目が醒めることがあるのに棚に上げ、綱吉は嘆息した。
 欠伸を噛み殺し、両手を胸の上で重ねて寝入る体勢に入る。
 就寝前まで暖房を入れていたのに、たった数時間で熱は掻き消えてしまった。だが一晩中空調を入れるのは電気代が掛かりすぎると、奈々が許してくれないのだ。
 心地よさげに眠っているリボーンを気にして、瞼を閉じたまま瞳を右に泳がせる。ハンモックで寒くないのかと危惧するが、不思議なことに彼は一度眠ると朝になるまで絶対に起きない。以前、綱吉は夜中に襲った地震に飛び起きたことがあるのだが、彼はぶらぶら左右に揺られながらも鼻ちょうちんを膨らませ続けていた。
 その神経の太さが羨ましい。当時を思い出し、あきれ返った気持ちも蘇って、綱吉は鼻で笑って口元を緩めた。
「……」
 それから一分が経過し、間もなく三分が過ぎ去った。
 こんな夜更けに道を行く人もおらず、外から聞こえる音はない。静まり返った室内には、リボーンの、すぴー、むにゃむにゃ、という寝言が厳かに響き渡るばかりだ。
 眉間に再び深い皺を刻み、苦しげに唇を歪めた綱吉が右に寝返りを打ち、弾みで持ち上がった掛け布団の端を握り締めた。
 彼は闇の中で瞬きし、琥珀色をした大粒の瞳で目の前の暗がりを睨みつけた。
 忌々しげに舌打ちし、今度は左に向き直る。捲れた布団から背中が覗いて、下敷きになった左腕を抜き取る最中、持ち上がった分の布団が肩からずり落ちた。
「くそっ」
 悪態をつき、舞い戻った寒気に身を震わせて膝を軽く曲げる。胎児のポーズをとった彼は布団に額を押し付け、奥歯を強く噛み締めた。
 体は疲れている。昨日もランボの暴走と、リボーンの無茶に振り回され、死ぬ気弾を額に打たれてトランクス一枚で学校を走り回らされたばかりだ。死ぬ気状態ではあまり寒さを感じないものの、額の炎が消えた瞬間に興奮状態も鎮まるので、当たり前だが、寒くて仕方が無い。
 ビアンキが着替えを持ってきてくれたからいいものの、彼女を見た獄寺はいつもの発作を起こして昏倒してしまった。しかもそこへ、リボーンが来ていると聞きつけた雲雀まで乱入して来て、折角収まった騒動がまた再発してしまった。
 リボーンと雲雀はドンパチを開始し、ビアンキが泡を噴いている獄寺を介抱しようとして余計に悪化させ、ランボは反省を見せずに逃げ出す始末。
 どんどん悪くなる状況に途方に暮れて、家に帰った後は早々に寝床に入ったのだが、それが良くなかったのだろうか。
 昼間の腹立たしい出来事を振り返り、溜息を零した綱吉はもう一度寝返りを打って仰向けに寝そべった。横に広げた両手で枕を抱き締め、顔を埋める。だがそんな事をしても息苦しいだけで、彼は直ぐに胸を反らし、頭を浮かせた。
「ぷはっ」
 危うく窒息するところだったと、自分でやったくせに冷や汗を拭い、完全に消え失せてしまった眠気に苛立って身を起こす。ベッドで三角座りを取った彼は、寄せた布団の上に肘を置いて前髪を掻き毟った。
「眠れないや」
 動けば動くほど、睡魔は笑い声を立てて逃げていく。薄らとしか見えない自分の輪郭に目を凝らし、丸い瞳を平らにした彼は、どうしたものかと天を仰いで依然呑気に寝入っている赤ん坊に舌打ちした。
 自分がこんなにも苦しんでいるのに、なんてお気楽な奴だろう。ほぼ八つ当たりの感想を述べて拳を作り、空中を殴る仕草を取って彼は大の字に寝転がった。
 時計の針が動く音さえも神経に障る。目覚ましと壁に吊るした丸時計の両方が、少しずつずれたタイミングで動くので、二重に響く音はただでさえささくれ立っている彼の心を刺激した。
 特に目覚まし時計が枕元にあるので、距離の近さから必要以上に大きく響いて聞こえる。投げつけて壊してやりたい気分に駆られて、思いとどまり、綱吉は長い息を吐いて左頬を枕に沈めた。
「ねむれない……」
 体は確実に眠りを求めているのに、意識は冴えて憚らない。そのギャップに苦しめられ、辛そうに顔を顰めた彼は、羊を四十七匹まで数えたところで諦め、布団を跳ね飛ばして起き上がった。
 腹筋に力を入れて荒々しくベッドの上で飛びあがり、騒音と共に床に降り立つ。ひんやりしたフローリングの感触が即座に足の裏に広がって、沈殿する冷えた空気がズボンの裾から流れ込んできた。
 咄嗟に両腕で体を抱き、内股気味に膝を寄せて竦みあがる。鳥肌立って全身がびりびりして、背筋を凍らせた彼は矢張り布団を出たのは失敗だったかと後ろを振り返り、おぼろげに見える部屋の景色に肩を落とした。
 電気を点けたいところだが、そうするとリボーンが起きてしまう。今の騒音だけでも充分迷惑なのだが、それは気にせず、彼は闇色に染まった室内をぐるりと見回して床に触れる面を減らそうと踵を持ち上げた。爪先立ちになり、長年この部屋で過ごしている記憶だけを頼りに出入り口である扉を目指して歩き出す。
 途中で放置していた鞄を蹴り飛ばし、テーブルの角に脛をぶつけた。見えないものに触れた恐怖と痛みに心臓が都度悲鳴をあげ、体内を巡る血液は速度を増して熱を発した。
 このままでは逆に永眠してしまいそうで、慎重にドアノブを回して静かに廊下に出た彼は、部屋よりも幾分明るい空間にホッと胸を撫で下ろした。
 ドアは完全に締め切らず、数センチの隙間を残して階段へ向かう。廊下が明るかったのは、玄関の常夜灯の光が弱々しくも周囲を照らしているからだった。
 足を踏み外して転がり落ちる心配から解放され、それでも普段以上に気を使って一歩ずつゆっくりと降りていく。壁際に据え付けられた手摺りは木製だからか、触れてみると床ほど冷えていなかった。
 生唾を飲み込んで最後の一段を降り、淡い光が踊る玄関の前でユーターンする。ぞくぞくっと来た寒気に内臓を縮こませた彼は、不意に覚えた尿意に腰を揺らし、僅かに早足で先ずトイレに向かった。
 スイッチを入れた瞬間に狭いスペースが光に溢れ、急激な明度の変化に慄いて身を硬くする。反射的に閉じた瞼を持ち上げる頃にはどうにか目は慣れたが、瞳の奥に焼きついた眩さは暫く残り、綱吉の視界を泳ぎ続けた。
 小用を済ませて手を洗い、タオルで水気を軽く拭った後にまたやって来た寒気を堪えながら廊下に出る。
「……っしゅ」
 上着の一枚でも引っ掛けて来ればよかったと後悔しても遅く、小さなくしゃみをひとつして鼻の下を擦り、綱吉は肩で息をしてぼうっとした明るさで照らされる玄関先を眺めた。
 外に出るつもりは一切無くて、即座に視線を返し台所の入り口に吊るされた暖簾に目を向ける。喉に感じた違和感は、風邪の兆候だろうか。息を吸うとざりざりとした感触が通り抜けて行き、あまり目立たない喉仏を撫でて綱吉は唸った。
 単に乾燥しているだけかもしれない。判別がつかなくて彼は小首を傾げ、水でも飲もうと決めて暖簾を押し退けた。
 ひんやりとした空気が渦巻く室内には、日頃はあまり気にならない冷蔵庫の稼動するモーター音が低く響き渡り、不気味な様相を呈していた。
 綱吉は第一歩で足踏みし、急ぎ壁にあるスイッチを探した。指先に硬い感触を覚え、堪えて押せば天井のライトが二度明滅し、三度目に灯った状態で停止した。
 急激に明るくなった所為で眩暈がして、額をもう片手で押さえて瞳を庇う。後ろにぐらついた身体を踏ん張って支え、肩を壁に擦りつけた彼は、瞬きを繰り返して瞳を慣らし、最後に胸元を撫でて全身の強張りを解いた。
「水、水っと」
 住み慣れた自分の家なのに、真夜中というだけで見知らぬ場所に思えるから不思議だ。内心感じた焦りを誤魔化すように大きめの声で呟き、綱吉はいそいそと流し台前へと移動した。
 左側にある水きり台で、逆さまに並べられたコップをひとつ手に取る。上下をひっくり返して蛇口の下へ持って行き、栓を捻れば簡単に冷えた水が銀色の筒から溢れ出した。
 透明なコップに半分程注ぎ、栓を閉めて垂れ下がる水滴を避けて腕を引く。天井の明りを反射する水面はきらきらと輝き、今は見えない月を映し出しているかのようだった。
「……」
 熱くも無いのに息を吹きかけ、一瞬だけ白く曇ったガラスに口を寄せる。そのまま手首を捻ってコップを傾けようとした彼だけれど、眇めた目が見た磨りガラスの向こうの闇に動きを止め、飛沫を唇に数滴散らしただけに終わらせた。
 流し台とコンロの間にある調理スペースにコップを下ろし、力の抜けた腕を脇に垂れ下げて格別なところはなにも無い窓に見入る。これが夏場なら虫の一匹も張り付いていただろうが、白っぽく靄がかる硝子に照明が反射する以外、際立つ物は見当たらない。
 ただ、なんとなく。
 不可思議なものを感じずにいられなかった。
「変なの」
 自分に対してそんな感想を述べ、綱吉はざわめく胸の内を慰めようとパジャマの上から心臓の位置を撫でた。そしてやおら手を返し、置き去りにしていたコップを握ってひと息に水を煽った。
 喉を鳴らして飲み干し、ビールを飲む中年親父のようにぷはーっと息を吐く。濡れた口元を雑に拭い、彼は険しい表情で唇を噛んだ。
 思い浮かべてしまったのだ、あの男の顔を。
 帰る家があり、待っていてくれる家族が居て、温かな食事が保証され、気の合う友人と心行くまで談笑出来る環境。当たり前のようにそれらを享受する綱吉とは到底相容れぬ、想像を遥かに上回る境遇に置かれてしまっている人物を。
 同情はしない、彼によって大勢の仲間が傷つけられた。
 しかし彼なしでは潜り抜けられなかった窮地があったのも、事実だ。
 複雑な表情を浮かべ、綱吉はグラスに残る水滴を見詰めた。反射する光は鋭く、眩しく、生温い日常生活に浸っている綱吉を責めているようにも見えた。
「あいつは」
 同胞を救う為に自ら囚われの身となり、自由を奪われ、能力も封じられて、深く暗い、冷たい場所にたったひとり閉じ込められている男。最早己の意思で好きな時に、好きな場所へ、自分の足で歩いて行くことさえ叶わない。
 同情ではない。憐憫でもない。
 綱吉が六道骸に対して抱くのは、痛みの共有だ。
 彼が起こした事件は、大勢を巻き込んでその命さえも奪ってきた。罪は償われなければならない、だから彼が牢獄に収監されるのも当然の帰結だった。しかしそうなった発端に綱吉は深く関わり、直接その場を見てしまった。
 ならば自分が倒されていればよかったのかと問われれば答えはノーで、だから綱吉が彼に出来るのは、時折こうやって彼を思い出し、胸を抉る痛みを堪えることくらいだった。
 喉が乾いても、即座に水が飲めるのかどうかも解らない。彼の願いは聞き入れられない可能性が高くて、綱吉は自分の事ではないに関わらず酷く落ち込んだ。
「ん」
 薄いガラスのコップを爪で弾くと、澄んだ音が短く響く。彼はそれを再度手に握ると、蛇口下に据えて栓を捻った。
 注がれた水を揺らし、零れないように注意しながら踵を返して台所を出る。電気を消すと途端に暗闇が落ちてきて、綱吉の世界を黒く塗り潰した。
 蛍光灯の明りに慣れてしまった所為か、玄関の常夜灯の光がとても薄く感じられてならない。彼は見えづらい足元を気にして下を向き、階段は手摺りと素足の感触を頼りに進んだ。
 開けっ放しにしておいたドアを開け、自室に戻る。冷えた空気は相変わらずで、リボーンの寝息にも変化は無かった。
 人の気も知らないで呑気に寝こけている赤子に苦笑し、綱吉はグラスを持ったまま微かな光を頼りにベッドを素通りし、窓辺へと寄った。
 レールからぶら下がる布が、綱吉の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。その繊細な踊りに目を細めた彼は、体温で少し温くなった水を傍らの勉強机に置き、静かにカーテンを引いた。
 星明りも遠い深い紺に染まった空が、ガラス越しに綱吉の前に広がった。
「お前の髪の色だな」
「瞳もどうぞ、お忘れなく」
 左右で色の異なる双眸を持つ男がベッドの上で悠然と脚を組んで腰掛け、綱吉の呟きに合いの手を返した。
 外から侵入した形跡はない。玄関の鍵を掛け忘れるほど、奈々もおっちょこちょいではない。まさしく霧の如く現れた男に背を向けたまま肩を竦め、綱吉は遠い彼方で瞬く小さな星の輝きに目を細めた。
 なんとなくだが、彼が訪ねてくるような気はしていた。いや、もしかしたら綱吉が彼を思い出したが為に、彼を喚び出してしまったのかもしれない。
 綱吉は術者ではなくて、彼のような幻覚を操る技量は持ち合わせていない。だからそういう発想をすること自体馬鹿げているのだが、この男は何かと規格外で、常識が通用しないから困る。
 他にも大勢、非常識の極みにある面々を知っているが、その中でもこの男は格別だ。自分の狭い良識の範囲だけで考えると、痛い目を見るのは分かっている。
「散歩?」
「そんなところですか。君の声が聞こえた気がしたので」
 問えば、頬杖を着いた骸が即座に言葉を返した。
 嗚呼、矢張り自分が彼を招いてしまったらしい。こんな月の無い夜はひと際闇が深くて、気を抜くと飲み込まれそうになるから注意していたつもりだったのに。
 密かに嘆息した綱吉の迂闊さを笑い、骸は喉を鳴らした。
「呼んだ覚えはないんだけど」
「ですが、僕を思い浮かべたでしょう?」
 確信を持って紡がれる言葉に二度目の嘆息を零した綱吉は、冷え切った窓ガラスに指を添え、息を吹きかけて周囲を曇らせた。
 キュッ、と滑らせて線を描く。但し特に意味のある形を記すことはない、ただの暇潰しだ。
「相合傘ではないのですか」
「……なんでまた」
「窓に書くとしたら、それが定石でしょう」
「ああ、そうですか。はいはい」
 真面目に受け答えしてやろうとした自分が馬鹿だった。盛大に肩を落として投げやりな返事をし、綱吉は既に薄れて消えてしまった指の辿った跡を捜して瞳を上向けた。
 どこまでも続く、深い闇。空は大気に満ちていると分かっているけれど、今彼の眼に映し出される景色は、果てしない水底に沈んでいくイメージに近かった。
 それは今現在、幻なのか実体なのか分からない男を背後に置いているが故に抱く、幻という錯覚かもしれない。
「それで」
 透明な硝子に吐息を吹きかけ、先程走らせた線が微かに浮き上がる様を見下ろし、綱吉は話を戻そうと矛先を彼に向けた。
 だが、いったい自分たちは何を語りあおうとしていたのだろう。
「はい」
「用事は?」
 分からぬまま問うた綱吉に、骸はしばしの間沈黙した。腕組みでもしているのか衣擦れの音が聞こえたが、声はなかなか返ってこなかった。
 痺れを切らし、綱吉が振り向いて腰を窓枠に預ける。アルミサッシの冷たい感触が布越しに感じられて、窓を覆っていた冷えた空気が首筋をさらりと撫でていった。
 浮き足立つ寒さに身を震わせ、闇を背景に鎮座する青年を睨み付ける。彼は顎に丸めた指を置き、眉目を顰めていた。
「おいってば」
「用事があるのは、君の方ではないですか」
 眇めた瞳を向ける彼に呼びかければ、今度は直ぐに言葉が飛んできた。ちょっとだけ意外そうに、上がり気味のトーンで呟かれ、綱吉は面食らって目を瞬かせた。
 何を言うのか、この男は。用なんてあるわけがない。そもそも、呼んでさえいないのに。
 見当違いな内容を口ずさんだ彼を小馬鹿にする態度で首を振り、綱吉は前髪を掻き上げた。だが人をじっと見つめる男の視線は揺るがない。
 確信を抱いている瞳の強さにたじろいで、綱吉は唇を噛み、後ろに傾けていた重心を戻した。
 二本の足で床に立ち、緩く握っていた拳を解いて前に突き出す。
「無いって。大体、なんでお前に、俺が」
「では」
 軽い焦りを覚えて早口になった綱吉を諭し、骸は酷くゆっくりと言葉を連ねた。両肘を立てて膝に置き、重ね合わせた手の甲に鼻筋を埋め、露出色違いの瞳を細めてしっとりと微笑む。
 内心を見透かすような彼の言葉に、綱吉はぐっと息を呑んだ。
「では何故、……僕を思い出したりしたのです」
 それは即ち、骸に会いたいと、そういう意味ではないのか。
 言葉尻に含みを持たせた彼の口調に、違うと首を振ろうとした綱吉だったが、直前で思い留まり力無く項垂れた。
 再度窓に腰を預け、踵を浮かせて背中を硝子に押し当てる。喉を仰け反らせて後頭部の髪を透明な壁で潰した彼は、返答に迷って視線を泳がせ、胸元で結んだ両手をこねまわした。
「別に、会いたかったとか、……そんなんじゃない」
 ただ彼を思い浮かべたのは本当で、それがきっかけで彼が此処にいるのであれば、済まなかったと詫びるべきだろう。幻術ひとつを扱うにしても、体力を消耗する。自在に動き回る事が叶わない彼を、こんな風に簡単に呼びだして良いものではない。
 素直な謝罪と反省を見せた彼に、骸は何故かムッと表情を険しくした。
 なにか間違えただろうか。尖った彼の気配に綱吉は首を戻し、右に倒した。
「そこはお世辞でも、会いたかったと言うべきではありませんか」
「なんで?」
 急に語気を強めた彼に、本気で分かっていない素振りで綱吉は聞き返した。すると骸は両手を解き、右を上にしてベッドの上で脚を組んだ。それから再度頬杖を作り直し、ふて腐れた様子で綱吉から目を逸らす。
 あからさまに拗ねた態度に、益々訳が分からないと綱吉は苦虫を噛み潰した顔をした。
 どうなのだろう、考えてもみなかった。
 言われてみればそんな気もしてきて、綱吉は肩を竦めてから傍らにある机を見た。
 細い明かりを受け、木目に細い光が滲んでいる。水に色があるわけではないが、澄んだ輝きがグラスを通して雫の形を作り出していた。
 結び合わせた両手で右の太股を軽く叩き、綱吉は少し考えてからまだそっぽを向いている骸に視線を向けた。
「うん……」
 続けて天井を仰ぎ、真下に首を倒す。自分自身の影のせいで、両手の向こうにある両足の輪郭はおぼろげだった。
 骸はまだ綱吉を見ない。気に入らないのなら出ていけばいいのに、動く気配は微塵もなかった。
 冴えた彼の横顔をしばらく眺めた後、そういえばこんな風に彼をじっと見つめた過去があっただろうかと思い至った。
「ん、ない」
「はい?」
「なんでもない」
 つい声に出てしまい、久方ぶりに反応した骸が綱吉を振り返った。
 つれない態度ですげなく扱った綱吉がまたしても気に入らなかったようで、彼は露骨に唇を尖らせて頬杖を崩した。
 背中を丸め、ベッドの角で折れ曲がっている膝に上半身をのし掛からせる。
「寝るなよ」
 自分の寝床が奪われる危機感に口走った綱吉を睨み、つーんとよそ向いた彼はまるで子供だ。
 綱吉に会いたいが為に、人をダシにするような奴だ。
「お前が、どうしてるかなって思ったのは、本当だよ」
 呵々と喉を鳴らして笑い、綱吉は左手を伸ばして机の角を爪で叩いた。
 リボーンの寝息は、今は遠い。確かにこの部屋に存在しているはずなのに、骸の幻術であろうか、あの小生意気な寝言さえ一切耳に届かなかった。
 骸が身じろいだ気がした。しかし綱吉は彼に目を向けず、更に指を伸ばして温くなったグラスを小突いた。
 向こう側へ少しだけ移動を果たしたコップを今度は引き寄せて、手のひらで包み込む。握りしめると微かに残る冷たさがじんじんと広がった。
「綱吉君」
「お前は、喉が渇いても水さえ好きなように飲めないんだなって、そう思った。だから」
 たどたどしく言葉を紡ぎ、綱吉は薄い縁取りを親指でなぞった。両手で抱き込んで胸元から下ろす。
 差し出された骸は一瞬驚いた顔をして綱吉を見返し、両者を交互に見つめた末に乗り出しかけた身を引っ込めた。
 そんな風に動いてしまった自分に嫌悪感を抱いている様子で、綱吉は正直になれない彼に苦笑をこぼした。
「これ、お前に」
「君という人は、本当に」
 二杯目はお前に。そう告げた綱吉に向かって盛大な溜息をこぼし、骸は額を覆う前髪をかき揚げた。
 眇められた左右の瞳が、鋭く綱吉を射抜く。一瞬どきりとさせられ、咄嗟に反応出来なくて、綱吉は狼狽気味に肘を揺らした。
 立ち上がった骸が、ゆっくりと綱吉に近づく。ひたひたと迫る影は暗がりを抜け出し、窓辺に佇む綱吉を覆った。
「む……」
「そんなだから、君は周りにつけ込まれるのです」
 人を馬鹿にし、哀れむ声で囁いて、彼は綱吉の両手ごとグラスを包み込んだ。
 ほの温かな熱が肌を伝い、驚かされる。表情が顔に出ていたらしく、間近から見据える骸は密やかに笑った。
「冷たいと思っていましたか」
「あ、いや」
 図星をさされ、言いにくそうに綱吉が口ごもる。しかし彼は気に留める事無く微笑んで、綱吉の手ごとグラスを掲げた。
 彼の右目に、透明な光が反射する。妖しく、けれど綺麗な輝きを放つ様に綱吉が見ほれているうちに、クスリと声を漏らした彼はグラスを傾け、その水を口に運んだ。
 喉仏が二度上下して、一瞬ですべてを飲み干した彼は、濡れた縁をなぞって下向きに押した。
 促されるままに肩の力を抜いて腕を下ろした綱吉へ、身を乗り出す。
「ん……」
 触れた唇は冷たかった。
 けれど重なり合った場所から流れ込んできた水は、信じられないくらいに熱くて、焦げ付きそうだった。
「これは、夢です」
 離れ、雫を滴らせた綱吉の唇を舐めた彼がそんなことを囁く。
 まるで呪文のように、水と一緒に綱吉に染み込む言葉に彼は首を振った。が、骸は指を立てて綱吉の鼻を小突き、聞き分けのない彼を叱って母親のように言い聞かせた。
「夢です。だから君は、忘れなさい」
 繰り返し告げ、やがて半分まどろみに沈んで瞼を下ろした綱吉が頷くのを見届けた彼は、よい子だと癖だらけの頭を撫でてにこりと微笑んだ。
 ベッドにいくよう指示すれば、素直にしたがって眼を擦ってそちらへ向かう。骸が座っていた場所からあがりこみ、捲れあがっていた布団を引っ張って横になった。
 間もなく穏やかな寝息が聞こえるようになり、手元に残ったグラスを机において、彼は自嘲気味な笑みを浮かべた。
 ハンモックに向き直り、毛布の隙間から銃口を覗かせる赤ん坊を見上げて表情を引き締める。
「これで文句はないでしょう」
「今夜のところは、見逃してやる」
「それは、どうも」
 この呪われた赤ん坊が、誰よりも綱吉を大切にしているのは骸とて知っている。下手な事をすれば、牢獄に幽閉どころの騒ぎではない。
 挑戦的な眼差しを投げつけ、骸は右手を横に薙いだ。
 その周辺の空気がすうっと色を薄くし、煙にも似た霧が立ちこめる。次第に範囲を広げるそれに包まれ、男は特徴的な笑い声をその場に残し姿を消した。
 気配が完全に消滅するのを待ち、リボーンが拳銃を収める。盗み見たベッドの上では、なにも知らぬ綱吉が、幸せな夢でも見ているのか枕を抱いて笑っていた。

 翌朝。
「うーん」
「どした、ツナ」
「いや、なんでこんなところにコップがあるんだろうって」
 目を覚まし、もそもそとベッドを抜け出した綱吉は机に残されていた中身のないグラスを顔の前で揺らし、首を傾げて呟いた。
 リボーンは彼に背を向けたまま、畳んだ布団を撫でて埃を散らし、一瞬だけ動きを止めて沈黙を保った。
 綱吉はまだ自問しているようで、不思議そうにコップの底を見上げている。自分で持って来た事実は、完全に彼の記憶から抜け落ちていた。
 約束は守られたらしい。密かに安堵の息を漏らした赤ん坊は、緑色のカメレオンを肩に乗せて出口へ向かうべく歩きだした。
「寝ぼけてたんじゃねーのか」
「いくら何でも、それはないんじゃ、ない、かなあ……?」
 断言された綱吉は苦笑し、思い出せない昨晩の自分を振り返って、グラスの底に残るわずかな水滴に目を細めた。
 窓から差し込む朝の光を反射し、キラリとまぶしく輝く。後ろからはリボーンがドアを閉める音が響き、ひとりになった彼は頭の隅に覚えた引っかかりに眉目をしかめた。
 なにかがあった気がする。
 そう、夢を見た。
 彼に会う夢を。
「骸……?」
 ぽつりと呟いた綱吉に応えるかのように、一滴だけ残る水が形を崩し、霧となって消えた。

2009/06/08 脱稿