至理

 白蘭との決戦の、その前哨戦だったとも言える戦いが終わってから、数日が過ぎた。
 これが終われば元の時間に帰れるのだという、安直な考えが否定されてからも、数日。より激しく、辛い戦いが控えていると知らされてからも、同じだけの日数が過ぎたことになる。
 そしてそこから幾らかを引けば、ろくな食事にもありつけず、修行にも身が入らないで無駄に過ごした日数が弾き出される。
 京子とハルを代表とした女性陣の家事全般のボイコットが開始されて、二日目。自分たちの事くらいは自分達だけで何とかしようと決めてからも、二日目。
「うー……」
 与えられたひとり部屋のベッドに寝転がり、綱吉は半端に残ってしまった疲れを持て余して、喉の奥で唸った。
 枕元のデジタル時計を見れば、午前六時台後半を指し示している。日常ならばまだ彼は夢の中で、たとえ一度目が醒めたとしても再び布団に潜り込み、二度寝を楽しむに充分な時間だった。
 ところが、今日に限っていくら瞼を閉じても、ちっとも眠気は降りてこなかった。
 原因は分かっている。腹と背中がくっつきそうな空腹感と、この先を思うと憂鬱で仕方が無い現状への愁いだ。
 お陰でなかなか寝付けなかった。寝入る前に見た時計で、覚えている限り一番遅い時間が午前二時過ぎだったので、四時間ちょっとしか休めなかった計算になる。その短時間の間も、何度か目覚めているに等しい状態がやって来たので、熟睡出来たとはとても言いがたい。
「参ったな」
 先だっての戦闘の疲れは、未だ抜けきらない。傷を癒し、体力を回復させ、次に備える大事な時期だというのに、精神的に追い詰められているようでは、とてもではないが勝てる戦いにも勝てない。
 だが、その責任を京子やハルに押し付ける事も出来ない。
 彼女らの主張は、理解出来る。理解出来るからこそ、余計に何も出来ない自分が腹立たしい。
 こんなにも巻き込んでいるのに、未だなにも知らせぬままでいるのはフェアではない。だが教えれば、彼女らまで後ろ暗い闇の世界に引きずり込んでしまうことになる。
 ふたりには、笑っていて欲しい。太陽の下で、明るい空に見守られながら、幸せに生きて欲しい。
 こうなると、京子に初な感情を抱いた自分がそもそもの元凶にさえ思えてくるから、余計に気が詰まる。
 両腕を顔の前で交差させ、その重みに喘ぎながら綱吉は口呼吸を幾度か繰り返した末、身を起こした。
 固いベッドから足を下ろして立ち上がり、皺の寄ったシャツの裾を引っ張って出ていた腹を隠す。布の上から撫でてもはっきり分かる凹み具合に苦笑して肩を竦め、彼は乾いた唇を舐めて歩き出した。
 踵を踏み潰した靴をサンダルのようにして爪先に引っ掛け、膝丈のハーフパンツ姿で扉を潜る。後ろでドアが自動的に閉まる音を聞き流し、綱吉は本能に従って食堂を目指した。
 京子たちが綱吉ら男子に反旗を翻し、家事をしなくなってから、台所は別々になった。使用時間帯が、ではない。このアジトには万が一に備えてか、別場所にも簡易キッチンが設けられていた。
 メインは男子に譲り、女子は現在そちらで自分たちの料理を作っている。流石にランドリーはひとつきりなので、こちらは時間帯を区切り、女子が洗濯中はドアに札が掛けられて、もれなく男子は立ち入り禁止だ。
 今までは汚れ物を籠に入れておいておくだけで、翌日には綺麗にアイロンも当てられた状態で戻されていたのに、今は同じ事をしても置き去りにされたままだ。そうして自分たちは、下着類さえも彼女らの手に委ねていたのだと思い知って、とても恥かしくなった。
 家にいた頃は、奈々が全てやってくれていた。食事も、洗濯も、掃除も、布団を干すのだって、全部。なにもかも。
 自分たちがいかに子供だったかに気付く。親の有り難味と、その偉大さにも。
「お腹すいたな」
 鳴き続ける腹の虫を宥め、綱吉はぺたぺたと足音を響かせながら静まり返った廊下を進んだ。エレベータに乗って階層を移動し、すっかり見慣れた景色を通り抜ける。照明は、まだ本格的な活動時間帯に入っていないからか、足元を照らす程度に絞られていた。
 明るいが、暗い。歩き回るには問題がないのだけれど、足元に伸びる陰影は濃く、まるで奈落の底への入り口がぽっかり開いて、綱吉が落ちるのを待っているように感じられた。
 深呼吸を二度繰り返し、落ち着くよう自分自身を叱咤して、彼は心臓に押し当てていた手を下ろした。拳を緩く握り、繰り出す一歩にいちいち力を込めて、大股に目的地へと急ぐ。
 ようやく辿り着いた台所の前ばかりは他よりも幾らか明るくて、綱吉は露骨にホッとした顔をした。
 時間にしてたった五分足らずの移動だ。だのに全身からはドッと汗が噴き出て、肩で息をしなければならないほど、彼は疲弊していた。
 京子とすれ違った時の反応が怖い。無視されるのが辛い。嫌われるのはもっと嫌だ。
 もし、怖がられでもしたら――
 想像して寒気がして、綱吉は大慌てで首を振った。鳥肌立った全身を抱き締めて、ドアの前に立つ。真っ先に想像するのは奈々の背中で、次に思い浮かぶのが、女子が仲良く並んで朝食の支度に勤しんでいる姿だ。
 だが、今はそのどちらも見付からない。
 沈黙するキッチンに覚悟を決めて、綱吉は自動ドアが探知するよう左の爪先を浮かせて前に出した。
 ヒュッ、と風が鳴る。
 ボハンっ! と直後、ありえない爆音が轟いた。
「ひぃ!」
 思わず身を固くして悲鳴を上げた綱吉の視界には、灰色の煙が濛々と立ち込めていた。
 いったい此処はどこの戦場なのかと、流れ落ちた冷たい汗に背筋を震わせ、彼は煙の奥に目を凝らした。
 少しずつ晴れていく景色から、内部が間違いなくボンゴレの地下基地の台所だと把握する。棚や流し台などの配置は、記憶にあるそのままだった。但しテーブルだけが、爆発の余波か覚えている場所から少し右にずれていた。
「なんなんだ……?」
 まさかランボが悪戯を仕掛け、誰かが入ると爆発するように設定してあったのか。
 あの幼子にそんな器用さは無いと即座に否定するが、他に思い当たる節が無い。ジャンニーニが何か失敗したのかと考えを改め、煙に咳き込んで綱吉は背中を丸めた。目にも入って、少し痛い。
 自然と浮いた涙を目尻に溜め、身を低くした彼の前方で何かが動いた。
 まだ完全に消えきらない煙に、シルエットだけが浮かんでいる。
 人の形をしているそれに、思わずハルか誰かかと期待して、綱吉はにじり寄ったテーブルから頭を出した。向こうも、煙が外に流れて行くのと咳き込む声から、誰かが室内に入って来たのを感じ取っていたらしい。皆が食事に使う大きなテーブルを挟んで、丁度反対側から、ひょっこり首から上を覗かせた。
 クリアになる視界に、ややくすんだ銀が踊る。
「あ」
 目を見開いた綱吉は、覚えのある髪色に思わず声を出した。
「え」
 あちらも、そこにいるのが綱吉と悟って、かなり驚いた様子で頬を引き攣らせた。
 換気扇に吸い込まれて、徐々に煙が消えてなくなる。少し焦げ臭い台所にしゃがみ込み、ふたりは互いに不思議そうに小首を傾げあった。
 その間、数秒。
 十秒が過ぎようかとした頃になって、不意に獄寺が動いた。
「す、すすすす、すみません十代目!」
 テーブルを押して仰け反り、そのまま後ろも向かずに後退して壁に背中からぶつかっていった。両手は高く掲げ、前に振り下ろす。土下座のポーズを取って小さくなり、頭を下げる彼に、綱吉はハッと我に返って肩を竦めた。
「あの、さ。俺、まだなにも言ってないじゃない」
 それなのに、何を突然、謝ることがあるのだろう。
 突拍子も無い行動に出た彼に苦笑し、綱吉はテーブルに両手を置いて立ち上がった。一旦は顔を上げた獄寺だったが、綱吉が右から回り込んで近付こうとしていると知るとまた額が床に着くまで頭を下げ、恐縮しきりで謝罪を繰り返した。
 いい加減にして欲しいと前に立って呆れ果て、腰に手を置いて綱吉は嘆息した。それから、まだ鼻腔に残る焦げ臭さに顔を顰め、右手にあるキッチンに視線を向ける。
 それを見た瞬間、獄寺が何故こうも謝り続けるのかが即座に理解出来た。
「ジャンニーニに頼むしかないね」
 頬を若干引き攣らせた綱吉の言葉に、またも大声で謝罪の言葉を連ね、獄寺は平伏した。
 再び彼を見下ろした綱吉が、いい加減止めるよう促しても聞こうとしない。恐らく心の底から申し訳ないと思っているのだろう、そして怯えている。綱吉に嫌われるのではないかと考えて、未来に絶望している。
「ああ……」
 つい先ほどまでの自分と同じだ。
 京子やハルに嫌われる、恐れられるのを怖がって、立ち行かなくなっている自分に獄寺が重なる。
「獄寺君、気にしなくて良いよ。俺も一緒に謝るから」
「十代目」
「レンジ、今日はもう駄目だね」
 乾いた声で笑い、目線を上向けた獄寺に笑いかける。綱吉の前方では、扉が吹っ飛んで無惨な姿を晒している電子レンジが、依然ぷすぷすと真っ黒い煙を立てていた。
 何かを焼こうとしたのだろう。それが、どういう理屈かは分からないが、爆発したのだ。
「なに作ろうとしたのさ」
「いや、あの……卵を、ちょっと」
「……そう」
 なんとなくではあるが、想像がついた。
 考えてみれば、獄寺は料理が、超がつくほど下手だった。山本の実家である寿司屋でアルバイトをした時に、食器ひとつ満足に洗うことが出来なかったのを思い出して綱吉が肩を落とす。
 散乱する割れた食器や、食材だったであろう黒こげの炭が床一面に散らばる様を見せられて、気落ちしない方が可笑しい。
 朝食云々の前に、これを片付けなければどうにもならない。癖についた前髪をくしゃりと掻き回し、綱吉は足元に落ちていた、炭化した何かを抓み上げた。
 親指と人差し指で持ち、少し力を加えると呆気なく粉々になる。皮膚の表面にザラッとした感触と、黒い点々だけが残されて、残りは散らばって床に沈んだ。他と交じり合い、どれがどれだか分からない。
「朝ごはん、作りたかったの?」
「えっと、まあ、はい」
 そんなところです、と言いにくそうに両手を重ね合わせ、獄寺は頷いた。
 冷蔵庫を開けてみると、昨晩はまだ沢山あった卵が半分以下に減っていた。牛乳や、食パンの類も。流し台横の作業場には、封が切られた小麦粉の袋と使用済みのボゥルや泡だて器も並べられていた。レンジ爆発の被害を免れた部分も、大半が粉まみれで酷い状態になっていた。
 随分早くから、獄寺は此処に居たらしい。
 残り僅かの牛乳パックを片手に冷蔵庫を閉め、綱吉が振り返る。一応立ち上がった獄寺ではあるが、顔は依然伏されたまま、時々様子を窺って視線が上下を往復していた。
 食材の減り方から察するに、獄寺が作っていたのはひとり分の量ではない。
「俺達の分も、作ろうとしてた?」
 試しに聞くと、返事はなかったが、代わりにビクッと獄寺の肩が大袈裟に震えたので、綱吉の勘は恐らく正しい。
 女子の反乱により未曾有の危機に陥った男子側を救うべく、ひとりでどうにかしようとして失敗した――そんなところだろう。
 だからあんなにも、人の顔を見るなり謝罪してきたのだ。
 けれどどうして、急に思い立ったのだろう。獄寺はひとり暮らしをしていたけれど、彼の食生活はジャンクフード一択で、手料理を口にするのは沢田家を訪ねて来た時くらいだ。手先は器用なくせに、料理は姉と違って大の苦手で、彼の部屋の冷蔵庫には水とパンくらいしか入っていなかったのに。
 綱吉がじっと見詰める中、獄寺は照れ臭そうに頬を引っ掻き、深く爪を立てすぎて悲鳴を上げた。気まずげに苦笑し、転がっていた椅子を起こして汚れを払い落とす。
「どうぞ」
「いいよ」
 座るよう促されて、綱吉は首を振った。
 割れているガラスを避けて進み、棚の戸を開けてコップを手に取る。牛乳の残り全てを注いで煽れば、すきっ腹に冷たい水分が染み渡って軽く痛んだ。
 幸い食器棚の中身は全て無事だった。破壊されたのは電子レンジと、中に入っていたものだけらしい。それでも、浪費された食料はかなりの量に及ぶわけだが。
 ただ、一概に彼を責めることも出来なかった。
「ありがとうね」
「十代目?」
「みんなが起きてくる前に、片付けちゃわないと」
「……すみません」
 建物自体が頑丈だったお陰で、外への被害も一切無い。爆音を聞きつけて誰かが駆けつける、ということもなかった。
 コップの中身を最後の一滴まで飲み干し、唇を拭った綱吉が何気なく呟く。そんなひとことにも反応して、獄寺はしゅんとして項垂れた。
 花が萎れてしまったかのようだ。元気の無い銀髪が頼りなく揺れているのを眺め、綱吉は空になったパックをゴミ箱に捨て、用済みとなったコップを流し台に置くついでに彼の前まで戻った。
 近付くと、彼自身も少々焦げ臭い。
「髪、こげちゃってるよ」
 こめかみの辺りから垂れ下がる銀糸の先端が、何本かチリチリに縮れてしまっている。そこだけパーマを当てたようになっており、綱吉が手を伸ばして抓んで引っ張ると、流石に獄寺も顔を上げざるを得なかった。
 酷く不安げな瞳が綱吉を映し、すぐさま伏せられる。首を横向けられて、折角持ち上げた彼の髪も奪い返されてしまった。
 行き場の無くなった右手を背中に回し、綱吉は臆病に震えている彼から半歩下がった。
「獄寺君」
 呼びかけても、返事は無い。二度目に名を紡いで、やっと掠れるくらいの返答が得られた。
「すみません、十代目。すぐ片付けますので」
「俺も手伝うって」
「いえ。これは、自分の責任ですから」
 勝手に動いて、勝手に失敗して。全部獄寺の独りよがりなのに、最後の後始末だけ、関係ない綱吉の手を煩わせるのは心苦しい。胸元に手を押し当てて切々と訴える彼の声に、綱吉は何故だかとても寂しくなった。
 理屈は分かる。けれど、現場に居合わせてしまった以上、「分かりました、後はお願いします」と言って、彼に任せて部屋に引き返すことなど出来ない。
 食事に苦慮しているのは、綱吉も同じだ。獄寺が誰よりも早起きして、この難関を打破しようと努力してくれた心意気を、認めたい。感謝している。レンジを壊してしまったのは結果論であって、自発的に事を起こそうとした彼を先ず褒めるべきだと綱吉は思う。
 だのに獄寺は、頑なに綱吉の気持ちを受け取ろうとしない。
 心が交わらない。それが哀しい。
「獄寺君」
「十代目は、どうぞ座って待っていてください。直ぐに朝食の用意を」
 無理のある笑顔を作り、獄寺は掴んだ椅子を押し出した。脚が床を削る音がガタゴトと喧しく響き、綱吉は唇を噛んだ。
 握った拳でテーブルを殴り、負けないくらいの大きな音を立てて獄寺を驚かせる。彼はひとつ鼻を鳴らすと、林檎のように赤らんだ頬を膨らませて流し台の方へ歩いていった。
 しゃがみ、真下にある観音開きの戸を開ける。確か此処にあったはず、と暗い内部を窺って、ハルが前に言っていた記憶を頼りに雑巾を見つけた綱吉は、それを湿らせて思い切り捩じった。
 水分を含んだ布を広げて、怒り顔で振り向けば、呆然と立ち尽くす獄寺の姿が見えた。
「ひとりより、ふたりのが絶対に速い」
「ですが」
「でももへったくれもない!」
 ここまで言っても尚、ひとりで背負い込もうとする彼に痺れを切らし、綱吉は大声で怒鳴った。
 耳がキーンとしたのだろう、獄寺が仰け反って顔を顰める。右手を顔の横に押し当てて眉間に皺を寄せた彼を睨みつけ、肩で息をした綱吉は水分を含んだ雑巾を思い切り、彼目掛けて投げつけた。
 パシン、と水滴が散って良い音がする。至近距離で受け止めて、多少は痛かったらしい。獄寺は大きく鼻を啜った綱吉に戸惑いの目を向け、赤くなった手で握る雑巾に視線を落とした。
 濡れた手で頬を擦った綱吉が、箒を探して部屋中を歩き回った。掃除機が片付けられている場所さえ、勝手が分からないので検討がつかない。
 巧く物事が回らないのが腹立たしいのに、その原因が自分にもあると分かっているから、誰にも怒れない。獄寺への八つ当たりも、最後は自己嫌悪に直結して綱吉を憂鬱にさせた。
 振り返れば獄寺は、未だ雑巾片手に立ち尽くしていた。
「獄寺君」
 呼びかけて、弾かれたように彼は顔を上げた。瞬きを数回連続させて、自分の前にいるのが誰であるかを思い出す。
「十代目」
「掃除機、探してくる」
「いえ、ですからこれは自分が」
「だから!」
 綱吉の手を煩わせるまでのことではないと、相変わらず頑固に主張する彼に怒りを爆発させ、綱吉は足を踏み鳴らした。
 けたたましい騒音に、前傾姿勢だった獄寺の背筋が伸びた。無意識なのだろうが右手を胸元にやっていたので、彼のシャツは雑巾の湿り気が移って少し色が変わってしまっている。だがそれを笑う気には、どうしてもなれなかった。
 自分で気付いてばつが悪い顔をし、獄寺が右を向く。
「あのさ、獄寺君。何度も言うけど」
「すみません。俺が、不甲斐ないばかりに」
「今はそういう事を言ってるんじゃなくて」
「同じです。俺がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったんです」
 女子の反乱を思いとどまらせられるくらいに、弁論の才が長けていたなら。
 綱吉が修行に専念できるように、家事全般に精通していたなら。
 それ以上に、さっさとこんな不便な時代とはおさらば出来るくらいに、白蘭を打ちのめすくらいの圧倒的火力と強さを持っていたならば。
 たら、れば、を言い出していたら、それこそきりが無い。成し遂げられなかった過去の可能性を持ち出して論議するのは、時間の無駄だ。頭の良い獄寺だから、それもちゃんと分かっているだろうに。
 悶々とした時間の中で生じた後ろ向きの思考は、駄目だと分かっていてもなかなか止められない。綱吉もネガティブな性格をしているので、その辺は良く分かる。
 だからこそ、振り払って欲しかった。
 伸ばした手を掴んで欲しかった。
「獄寺君はさ、ひとりでなんでも出来るって思ってる?」
 前だってそうだ。ボンゴレリング争奪戦の最中、ベルフェゴールとの嵐の守護者対決で、彼は命を投げ打ってまで勝とうとした。勝って、それで終わらせるつもりでいた。
 綱吉が望んでいたのは、そんなものではないのに。
 あれだけ言って、まだ分からないのか。折角綱吉が持ち得なかった明晰な頭脳を所有しているのに、こういうところばかりはとことん知恵が働かない。
 またも床を蹴り飛ばし、綱吉は力任せに頭を掻き毟った。最後に深く溜息をついて、狼狽している獄寺を鋭く射抜く。ビクリと大仰に肩を震わせた彼は、逃げ場を探して視線を泳がせ、結局どこにもいけないと悟って大人しくなった。
 両手で雑巾を絞るように握り締め、弱々しく首を振る。
「そんなつもりは」
「無い、なんて言わせないよ」
 掠れる声で反論しようとする彼を制し、綱吉は語気を強めた。両手を腰に据えて肩幅に足を広げる。仁王立ちする彼に戸惑いの目を向けて、獄寺は整理のつかない気持ちを懸命に奮い立たせた。
 弱かった瞳に光が戻る。
「ですから、何度も申し上げている通り、これは俺が勝手にやったことです。俺が最後まで責任を取らずして、どうしろと言うんですか」
「だから、それが勝手だって言ってるんだ」
「十代目に、俺の行動をとやかく言われる謂れはありません。俺の好きにさせてください」
「君の好きにさせたら、それこそ限度がないだろう!」
 幼い頃に家を飛び出し、以後は誰の力に頼る事無くひとりで生きて来た彼には、何を言っても無駄なのかもしれない。だけれど、ひとつだけはどうしても分かってもらいたかった。
 もう彼は己ひとりの為だけの、獄寺隼人ではないのだ。
 罵声を上げた綱吉の勢いに圧倒され、獄寺が目を瞬く。綱吉は奥歯を噛み締め、時間をかけて全身の力を抜いた。
 深呼吸を三度、ゆっくりと繰り返す。
「俺、今から酷いこと言うよ」
「十代目?」
「獄寺君の事、傷つける事、言うから」
 前もって断りを入れたのだからと、綱吉は拳を固くして琥珀の瞳の険を強めた。獄寺もまたなにを言われるのかといぶかしみ、怪訝にしながら深く息を吐いた。
 握り締めた手で自分の太腿を叩き、己を鼓舞して、綱吉は緊張を呼気と共に外へ追い出した。
「あのさ。……獄寺君がひとりで頑張っても、なにも、変わらないよ」
「っ」
「馬鹿じゃない? なんでそういう事もわかんないかな。君が強ければ簡単に白蘭に勝てるとか思ってる? 料理上手だったら俺達が喜ぶとでも思った? 君ひとりに責任を押し付けて、それで俺が満足すると本気で思ってる!?」
 喋っている間にどんどん感情が昂ぶっていくのが分かる。言葉を連ねるのが辛くなる。心が引き裂かれそうで、痛くて仕方が無い。
 喉がからからに渇く。心臓が悲鳴を上げている。指先が痺れて、足がこむら返りを起こしそうだった。
 獄寺が息を呑む。瞬きを忘れた瞳が綱吉を映し出す。顔を背けたがる彼を死ぬ気で睨みつけ、綱吉は彼の逃亡を許さなかった。
「君ひとりが居ても、何も変わらないよ」
「十代目」
 心理的に人が追い詰められた時、逃げ道は大きく分けてふたつある。全ての責任を自分ひとりで抱き込んで、ひたすらに己を責めること。もうひとつが、自分の責任を何もかも投げ出して、ひたすら他所に原因があると糾弾して己を守ることに固執すること。
 誰も自分ひとりが悪いとは思いたくない。けれど誰かを責めるくらいなら、自分に非があると認めてしまう方が楽だと、綱吉は思う。
 荒く息を繰り返し、綱吉が目尻に浮いた涙を指で弾いて臼歯を軋ませる。顎の骨が鳴り、潤んだ琥珀に映る姿に臆したのか、獄寺は身を捩った。
「十代目は、俺は……必要ない、と」
「そうは言ってない」
「言ってるじゃないですか。今、そう仰ったじゃないですか」
「違う。最後まで聞け!」
 結論を先走りたがる彼を怒声で黙らせ、綱吉は怒り肩を落として額を手で覆った。鼻呼吸が辛くなって、唇を開閉させて酸素を肺に送り届ける。舌に広がる苦さが全身に広がって、少しでも薄めたくて彼は何度も唾を呼び、飲み込んだ。
 圧倒された獄寺が半歩下がり、壁に行き当たって後ろを向いた。広げた掌を押し当て、踵で蹴り飛ばす。
 浮き上がった爪先が椅子を蹴り、小さな音が響いた。
 びくりとしたのは、何故か綱吉だった。
 驚いた獄寺が身を乗り出せば、彼は肩を引き距離を作った。曲げた肘を脇腹に押し当て、牽制か右手を左右に振って近付くなと警告を発する。
「十代目」
「君が居ても、君一人が頑張っても、何も変わらない。変えられない。でも、君はひとりじゃないんだ」
 両手で頬を引っ掻き、綱吉が動揺を必死に押し留めながら告げる。手首から先に顔の大半が隠されて、表情が見えない。また半歩後退した彼を追い、手を伸ばした獄寺だったが、触れる直前で弾かれて乾いた音が響いた。
 お互いに吃驚して、綱吉が目を見開く。似た表情をする相手を見詰めて、先に動いたのも綱吉だった。
 噛み締めすぎて色が濃くなった唇を開き、かぶりを振る。
「君にとって、じゃあ、俺は何。友達じゃなかったの。仲間じゃなかったの? どうして一緒にやろうと言ってくれないのさ。俺達は共同体で、俺と君はボンゴレの……家族じゃなかったのかよ!」
 他に言葉が思いつかなかった。いっぱいに溜めた涙を頬に伝わせ、力の限り叫んだ綱吉に、獄寺が懸命に手を伸ばす。またも弾かれるが挫けずに追いかけ、仰け反った綱吉の肩をぎりぎりで掴み取った。
 骨の窪みに指を引っ掛け、力任せに引っ張る。逃げの体勢を崩されて、たたらを踏んだ綱吉は斜めに身体を傾がせた。
「う、わ……っ」
 悲鳴を飲み込み、両手をバタつかせて暴れまわる。左手の甲が固いものを殴り飛ばしたが、何を殴ったのかを確認する暇もなく彼は傾いたまま柔らかなものに包まれた。
 温かい。
 あと少し、苦しい。
「十代目」
 耳元に響く、獄寺の声。鼓膜を震わせる低音に心臓がドキリと跳ねて、そこでやっと、綱吉は倒れる寸前で獄寺に受け止められたのだと気付いた。
 助けられたことに感謝したいが、そもそも転びそうになったきっかけも、彼だ。礼を言うのに躊躇して、綱吉は放してくれるよう彼の腕を取って揺らした。しかし叶わない。締め付けは益々強固になり、あばら骨が圧迫されて綱吉は呻いた。
「獄寺君、苦しい」
「すみません、十代目。俺も、十代目を怒らせることをします」
「もうしてる!」
 怒鳴り返すが、相も変わらず聞き入れられない。最初は拳で胸を叩けたが、次第にその隙間さえ埋められてしまい、後頭部に添えられた手は綱吉の視界を大いに制限した。
 顔を上げようとするのに、封じ込められて出来ない。尚も抵抗を示せば、彼は喉を鳴らして笑った。
「すみません、見ないでください。俺、今、変な顔してます」
「へん……?」
「すみません。にやけてます。すっげー、嬉しくて」
 心の底から喜んでいると分かる声が響く。抱き締めてくる腕は少し乱暴だけれど、温かくて嫌な気はしない。
「嬉しい?」
「はい。十代目が、こんなにも俺のことを思ってくれていると分かったので」
「そんなんじゃ、ないんだけど」
「そうなんですか?」
「……もういいよ」
 聞き返せば、臆面もなく言い放たれる。聞いている方が恥かしくなって、綱吉は途中で拗ねて会話を一方的に打ち切った。
 握り締めた彼のシャツも、皺だらけだ。少し汗臭いのは、昨日のものを今日も着ているからだろうか。いかにも男ばかりの生活を思わせて、おかしくて仕方が無い。
 喉を鳴らして笑うと、獄寺は綱吉を抱えたまま身を揺すった。
「十代目、お願いしてもいいですか」
「なにを?」
「片付け、……一緒にしましょう。それで、朝飯、作りましょう」
 早くしないと、山本や了平が起きてきてしまう。言われて思い出して、綱吉は顔を赤くして獄寺を突き飛ばした。
 拘束は呆気なく解けて、バックステップで勢いを半減させた獄寺が目を細めて笑った。
「あっれー。うわ、なんだこれ」
「お前達、これはどういう事だ」
「うわ、もう来た!」
 閉まっていたドアが開く。中に入って来た山本と了平が、荒れ放題のキッチンに目を剥いて大声を張り上げた。
 振り向いた綱吉が慌てて叫び、獄寺は床に落とした雑巾を拾って山本目掛けて放り投げた。反射的に受け取った彼が怪訝にする中、親指を立てる。
「片付けんぞ、手伝え」
「って、なんで俺が」
 台所にいたのは綱吉と獄寺で、この惨状を引き起こしたのはふたりのうちのどちらかだというのは、山本にも分かった。それなのにいきなり手伝えと言われて、驚きと怒りを隠さない彼に、獄寺は全く悪びれる事無く胸を張った。
「決まってんだろ。俺らは、ボンゴレの、十代目のファミリーなんだからな!」
 自信満々で言い切った彼にちらりと横目で見られ、綱吉はほんの少し申し訳なくなって、山本に向かって両手を合わせた。

2009/06/02 脱稿