向夏

 コンコン、と外から窓を叩く軽い音に、リボーンは顔を上げた。
 読み広げていた雑誌を閉じて脇に置き、ゆっくり立ち上がる。傍のテーブルには飲み終えたコーヒーカップと、食べ終えたケーキの皿が並んでいた。
 ポテトチップスの袋に頭を突っ込んでいたレオンが、傍で人が動く気配に長い尻尾をピンと伸ばし、口をもそもそさせながら器用に後退した。大きな丸い目をくるん、と回転させて、テーブルの横を通り過ぎていく主人を追いかける。
 しかし彼はテーブルの上の住人であり、当然ながら道は途中で絶えて断崖絶壁が姿を現した。直角の崖に右前脚を滑らせ、慌てて緑色のカメレオンはテーブル中央まで引っ込んだ。
 そんな小動物の動きなど露知らず、リボーンは小さな足を交互に動かして壁際に寄ると、めいっぱい背伸びをした。窓枠に両手の指を引っ掛け、爪先で床を蹴って飛びあがる。
 そう広くは無いレールの左側によじ登って、彼は閉まっているガラス戸越しに外を見た。器用にバランスを取って、右手を窓の鍵に持って行く。
 此処は二階で、直ぐ外はベランダだ。戸を叩く存在など、空を自由に飛びまわれる鳥くらいしか居ないはずだった。
 しかし、鳥の名前を苗字に持つ青年は別らしい。風に靡く黒髪の存在をその場に見出し、リボーンは肩を竦めた。
 真下から現れた赤ん坊の姿に驚き、一瞬だけ目を丸くした彼は、すぐさま気持ちを切り替えて表情を消した。急かすように軽く握った拳で二度、窓を叩く。
「しつけーぞ」
 こちらは別に、彼を出迎えてやる義理はないのだ。あまり五月蝿いと鍵を外してやらないぞ、とガラス越しに胸を張って言い、聞こえた青年が唇を尖らせる様を笑って、リボーンは灰色の突起を下に押した。
 施錠を外した瞬間、黄色いおしゃぶりの赤ん坊は窓枠から飛び降りた。彼が壁の向こうに消えた刹那、待ちきれなかった雲雀がガラッ、と勢い良く窓を開けた。リボーンがあと一秒動くのが遅ければ、彼は勢い良く滑ってきた窓に轢かれていただろう。
 そうまでして中に入りたかったのかと、薄曇の空を振り返ってリボーンが意味深に笑った。雨宿りが必要な空模様でもないのに、物好きとしか言いようがない。
 不敵な笑みを足元に見て、雲雀はムッと顔を顰めた。靴を履いたまま一メートルほどの高さがある壁を乗り越え、窓枠を跨いで右の爪先を先に室内に下ろす。まだ体半分が窓の上、外にある状態で彼は、部屋にリボーン以外の人の姿が無いかを探して視線を巡らせた。
「あの子は?」
「良く見ろ」
 一周しただけでは見つけられず、不在なのかと雲雀は残る左足も室内に入れてリボーンに問うた。彼は突然の闖入者を無視してポテトチップスを貪っているレオンを抓み、ぷっくりと膨らんだ腹を小突いていた。
 顎でしゃくられて、赤子の視線が向かう先を見る。ゴミや雑誌や衣服が散乱する汚い部屋の中央にあるテーブルと、ベッドとの隙間に、何か大きなものが転がっていた。
 細長い。最初は抱き枕かなにかかと思ったが、違う。
「なんてところで」
 いくら季節が初夏に至り、半袖で過ごすのになんの抵抗もなくなった時期であるとはいえ、直ぐそこにベッドがあるのに、何を好んで床で寝転がることがあるだろう。
 白地に青と緑の幾何学模様が入ったシャツと、七分丈のズボン。裾から覗く細い脚は雪のような白さで、靴下は履いていなかった。
 その格好で寒くはないのだろうかと思って遠巻きに眺めていると、案の定蜂蜜色の髪をした少年はもぞりと肩を丸め、膝を寄せて小さくなった。
 しかしなにぶん、スペースが狭い。折り曲げようとした膝は途中でテーブルの脚に引っかかり、そこより先に進まなかった。夢の中で懸命に抗っているのだろう、腿でガンガンと何度も叩いてテーブルを押し退けようともしている。
 そのテーブルには、小一時間前までケーキが飾られていた皿が、ふたつ。生クリームがこびりついたフォークが、今し方綱吉が起こした振動の所為で縁から落ちて、甲高い音をひとつ響かせた。
 傍には飲みかけで放置され、すっかり冷めてしまったココア。白地に虹のイラストが入った大きなカップの中身は、こちらも綱吉がテーブルを蹴ったお陰で水面で細かく波立っていた。
「満腹になった途端に寝るなんて、まるで赤ん坊だな」
 左腕を枕にして呑気に寝こけている綱吉を見下ろし、その赤ん坊であるリボーンが笑って言った。
「君に言われたらお終いだね」
 内心では同感だと思いながらも、表面的には綱吉を庇うような言葉を返して、雲雀は前に踏み出そうとして、靴底の砂利がフローリングを削る感触に爪先を浮かせた。
 いつもは口喧しく、玄関から入れ、部屋に入るなら靴を脱げ、と怒鳴ってくる存在が眠ってしまっているので、今の今まですっかり忘れていた。
 何か物足りないと思っていたが、これだったらしい。いっそこのままで居てやろうかと思ったが、後でばれた時の説教も面倒なので、雲雀は自分から靴を脱ぎ、左右を踵で揃えた。
 置き場所を探して視線を巡らせ、本棚の最下段にはみ出ている新聞紙を見つける。綱吉はいつも、それを広げて窓の下に敷いて、雲雀から預かった革靴を置いていた。
 彼を倣うことにして、雲雀は使い古されてすっかり色がくすんでしまっている新聞紙を引っ張りだした。
 日付を見れば、かなり前のものだ。雨の日も、晴れの日も関係なく使用しているので、所々に水を吸った痕が残っている。だから表面は、当然ながら皺くちゃだった。
 何度も広げては畳まれ、濡らされ、汚されて、端の方はどこかで引っ掛けたのか破れている。そろそろ交換しても良かろうに、これを使い続ける理由はなんだろう。
「ああ、そうか」
 雲雀は遠い過去の出来事となった第一面の記事を読んで、これが、雲雀が初めて綱吉を訪ねてこの家にやって来た日の新聞だというのを思い出した。
 その前にも一度、リボーンに呼び出されて訪ねて来ているが、その時は色々とどたばたしており、簡易下足置き場の出番は無かった。
 あれとは全く別の日に、突然窓から現れた雲雀に吃驚仰天した綱吉が、靴のままの雲雀に二度驚いて階下へ新聞紙を取りに走った。その日の新聞が、これだ。
 ズボラな性格をしている彼の事だから、単に面倒臭くて交換していないだけかもしれない。いや、そちらの可能性の方が大いにありうるだろう。けれど、たとえそうであったとしても、記念日的なものが今も残されているというのは、少なからず嬉しいし、照れ臭い。
 我知らず笑みを浮かべていた雲雀を見上げ、リボーンはやれやれと肩を竦めた。
「それで、今日は何の用だ」
「特に無いよ」
 ただ近くを通り掛かったから、様子を覗きにきただけだ。
 事も無げに言い返した雲雀の、その好事者な理由に嘆息して首を振り、赤ん坊は胸元にぶら下げた黄色いおしゃぶりを揺らした。
「起こすか」
 干乾びた新聞紙を床に広げ靴を置いた雲雀は、ついでとばかりに羽織っていた学生服を外した。縦に半分に折り畳んで袖を揃え、今度は横に半分に折れるよう、今は誰も座っていない椅子の背凭れに引っ掛ける。
「いいよ、折角寝てるんだし」
 わざわざ訪ねて来たのに、当の綱吉は昼寝中。これが他の人間だったなら、雲雀は激高して、頭部目掛けてトンファーを叩き込んでいたかもしれない。
 人間とは、胸に抱く感情ひとつでこうも変わるものなのか。リボーンが日本に来た直後にリサーチした雲雀恭弥という人物は、凶暴にして凶悪、冷酷非道で人間性の欠片も無い、と評されていたというのに。
 もっとも、現時点でも彼はその性格を崩していない。あくまでも、沢田綱吉という個人に対してだけ、角が丸くなっただけだ。
 雲雀は黒い靴下でフローリングを踏みしめると、極力足音を響かせぬよう注意しながら綱吉の居る方へ歩み寄った。テーブルを中心に正方形のカーペットが敷かれていて、そこに入ってしまえば忍び足になる必要は無い。歩幅を大胆なものに切り替え、彼は綱吉の足元からベッド脇へ移動を果たした。
 散々飲み物や食べ物を零してきているからか、カーペットも部分、部分で色が随分と違っている。黒く染まっているのは、コーヒーを零した痕だ。縁取りの毛足は長いのに、ベッド側の一画だけは踏み潰され続けた影響で、すっかり萎びてしまっている。
 綱吉はそのテーブルとベッドに挟まれた、幅が五十センチにも満たない隙間に身体を横たえ、眠っていた。
 ベッドに腰を下ろすと、全身像は実によく見えた。膝と背中を出来る限り丸めて、猫のように指先もくるん、と折り畳んでいる。幸せそうな寝顔をしているが、いったいどんな夢を見ているのだろう。
「風邪引いても知らないよ」
 起きないのを承知で話しかけると、
「だったら、布団でもなんでも被せてやれ」
 綱吉ではなく、リボーンから合いの手が返され、頬杖ついていた雲雀は視線を横へ流した。
 テーブルの向かい側で、使い終えた食器を、自分の分だけひとつに重ねてまとめていた彼から、ぐるりと壁伝いに進んで、再び綱吉へと。そこから更に上に転じ、雲雀は左手を伸ばして皺だらけのシーツを撫でた。
 彼が座っている分の重みを受けて凹んだ敷布団からスタートして、壁際へと。指先が見つけ出し、手繰り寄せたのは、朝方綱吉が蹴り飛ばしてそのままと思われるタオルケットだった。
 肌色に近い、薄いベージュだ。肌触りは優しく、柔らかい。
 雲雀は端を掴んで引っ張り、横に広げた。余った布地が膝で弛み、折り重なって無数の襞が生まれた。
「後は任せるぞ」
 お邪魔虫は退散すると言い放ち、リボーンはコップを真ん中に置いた皿を両手で持ち上げた。
 動きの邪魔にならぬよう、レオンが肩の上から彼の首の後ろへと這って移動する。緑色の胴体がするりと背面に消えるのを何とはなしに眺め、雲雀は掲げていたタオルケットを下ろした。
「別に気にしなくてもいいのに」
「俺が気にするんだ」
「そう? 僕は、赤ん坊、君も好きだよ」
「そういう事は、冗談でもツナの前では言わねー方がいいぞ」
 むにゃむにゃと口を動かし、気持ち良さそうに寝入っている少年を見下ろし、リボーンは肩を竦めた。
 落ちそうになったレオンが、前脚で必死に彼の襟にしがみつく。顔の表情は全く変わっていないが、焦っている雰囲気は伝わってきて、可哀想に思えた雲雀は仕方なく手を払う仕草をして、リボーンに出て行くよう促した。
 鼻で笑い、赤ん坊が戸を開けて廊下へと消える。ドアはレオンが振り向き様に尻尾を変形させて、しっかりと閉じていった。
 急に部屋がシン、と静まり返り、開けっ放しの窓から吹き込む風に頬を撫でられた雲雀は、沈黙するドアから視線を逸らした。
 膝に集めたタオルケットを握っては落とし、足元に転がっている部屋の主の寝顔を覗き込む。腰を曲げて前のめりに近付けば、気配を感じたのか綱吉はもぞりと動き、小ぶりの鼻を膨らませた。
 薄く開いた唇が、寝息と一緒に何か言葉を吐き出す。しかし音として拾い上げる事が出来なくて、雲雀は彼との距離を詰めようと身体を伸ばした。
 ベッドの端ぎりぎりに座り、左手で縁を掴んで落下予防として、背筋のみならず首も、限界まで伸ばして近付こうとする。けれど彼の身長にも限界があった。
 覗き込むのは出来るが、吐息を掬い取れる距離まで接近するのは難しくて、雲雀は仕方なく一旦立ち上がり、タオルケットもその場に残してテーブルを回り込んだ。
 反対側、即ち綱吉の頭がある方へ出向いて膝を折る。足で踏んでしまいかねないので、ベッドには座らない。
 床に蹲った雲雀の前で、綱吉は蜂蜜色の髪に盛大な寝癖を作り、幸せそうに頬を緩めていた。
 楽しい夢を見ているのだと、それだけで分かる。目を閉じたままだが、満面の笑みを浮かべていた。
「その夢に僕は居る?」
 手を伸ばし、慎重に髪を梳いて癖を直してやる。戯れの問いかけに返事はなくて、
「んん……おなか、いっぱい……」
 代わりに夢の内容を想像させる呟きが、綱吉の唇からこぼれ落ちた。
 さっきから口がモグモグしっ放しなのは、なにかを食べている夢だから、らしい。雲雀は背筋を伸ばしてテーブルの上を確かめ、それもある意味仕方が無いかと苦笑した。
 ケーキの残骸に、もう殆ど残っていないポテトチップス、山盛りのクッキーに食べかけのチョコレートスナック。よくぞこれだけ、甘いものを食べられるものだ。
 ココアが残るマグカップを取って揺らし、元に戻した雲雀は感心しつつ綱吉の顔を見詰めた。夕食が食べられなくなるのでは、と心配になって、残り時間を知ろうと壁に吊るされた丸時計を仰ぐ。
「牛になるよ」
 丸々とした頬を小突き、思わず彼は呟いた。
 食べて直ぐ横になると、牛になる。いつ、誰が言いだしたかは知らないが、世に広まっている格言を引き合いに出して、一瞬考えてから彼は訂正を加えた。
「……豚かな?」
 本人が聞いたら憤慨しそうだが、確かに牛よりも豚の方が、綱吉には似合う。
 小柄で華奢で、同年代の女子が聞けば卒倒しそうなくらい、体重も軽い。
 握れば折れそうな細腕をしている。だのに、瞳の奥に強い意志の炎が宿る時、彼の拳は鉄をも砕く強靭さを手に入れる。
 あれを心の、命の力だというのなら、鮮やかなオレンジ色の炎は彼の魂の輝きそのものだ。暗い夜の闇を取り払い、空に、大地に光を届ける太陽の輝きに他ならない。
「やっぱり、豚じゃかわいそうだね」
 動物に例えるなら、もっと小さな生き物が良い。膨らんだ紅色の頬は、食べ物を溜め込む頬袋を持つげっ歯類がぴったりだ。
 想像して、可笑しくてつい笑みが零れて、雲雀は寝入ったまま全く起きない綱吉の耳朶を擽った。触られて、ピクリと動いた綱吉が途端に首を竦める。嫌々と首を振って雲雀の手から逃げて、益々小さく、丸くなってしまった。
 脚を引き寄せようにも、テーブルが邪魔をしているので叶わない。だからか、彼は頭を胸元に寄せてテーブルの下へ潜り込んだ。
 それでは目覚めた時、起き上がろうとした瞬間に頭をぶつけてしまう。八十センチ四方ほどの正方形の上には、食器や食べ物以外にも漫画雑誌が山積みされており、かなり重そうだ。
 寝起きとは何かと油断しているタイミングであるし、迂闊なところが多々見受けられる綱吉のことだから、まず間違いなく雲雀の想像通りの事になるだろう。しかもマグカップには、まだ中身がたっぷりと残されている。
 ひっくり返すような事になれば、大変だ。カーペットの染みがもうひとつ増える上に、並べて置かれている漫画本も恐らくは悲惨なことになるだろう。
 ならば片付けてやれ、と言われそうだが、そこまでしてやる義理は無い。どうしたものかと逡巡し、雲雀はテーブル下からはみ出ている綱吉の後れ毛を引っ張った。
 これしきで起きるなら、綱吉はもうとっくに目覚めている。雲雀相手に狸寝入りが出来るほど肝が据わっているわけでもないので、本当に眠っているのは間違いないだろう。
 芳しい反応を得られないのに少しだけ不満を顔に出し、浮かせていた踵を下ろして、雲雀は斜め前に突き出した膝に頬杖をついた。
「どうしようかな」
 寒そうなのは相変わらずだが、このまま寝かせておけば大惨事が引き起こされるのは疑う余地が無い。だから此処に寝かせたままタオルケットを被せてやるのは、非常に危険だ。
 しかし、かといって何も被せてやらないまま放置も、かわいそうだ。
 むき出しの足を、時折互いにこすり付けているところから、足元から冷えているのは間違いない。陽射しは少なく、窓も開けっ放しなので室内気温はさほど高くない。
 リボーンにも言ったように、折角気持ち良さそうに眠っているのを起こすのも、可哀想だから出来ない。とすれば、選択肢は自ずと限られてくる。
「沢田綱吉」
 一応、念の為と肩に手を置いて揺すってみるが、綱吉は左を下にしていた姿勢を仰向けに作り変えただけに終わった。唇を閉じたまま、聞き取れない言語を発している。この瞬間だけ人外の生き物に成り代わった彼に肩を竦め、雲雀は上向いた小さな鼻を抓んだ。
「ふが」
 息が出来なくなり、苦しさから呻いて、彼は色艶の良い唇をぱっくりと開いた。
 舌を蠢かせて酸素を掻き集め、喘ぐように息継ぎを繰り返す。抓まれているのも痛いらしく、首を振りつつ喉を反らして後頭部をカーペットに押し付けた。
 いじらしい抵抗に笑みを浮かべ、雲雀は意地悪を止めて手を離した。途端にホッとした顔をして、綱吉がまたスースーと綺麗な寝息を零す。ただ雲雀の次の攻撃を嫌がってか、ベッドに対して背中を向けてしまった。
 これでは顔が見えない。不満を増大させ、雲雀は唸った。
「つなよし」
 折角訪ねて来たのに、顔もまともに見る事無く帰るのは悔しいではないか。本当は声ももっと聞きたいし、あの艶やかな琥珀の瞳が自分の姿を映し出す様も眺めたいのに。
 雲雀に見詰められて赤くなって、恥かしそうにもじもじする様など、どれだけ眺めていても厭きない。
 ひとり百面相が得意な綱吉は、本当にコロコロと表情が変わって、面白い。眠っている間でさえ、頻繁に顔の筋肉は動いている。それが、テーブル下に潜り込まれては、見たいのに見えない。
 反対側から覗き込む手段もあるが、それには雲雀まで寝転ぶ必要があって、かなり行儀が悪い。それに、此処はいつ誰がやってくるかも分からない沢田家の一室。綱吉の顔見たさに横になっている姿を他人に見られでもしたら、風紀委員長雲雀恭弥も形無しだ。
 今更そんな事を気にしたところで、既に手遅れだとリボーンが聞けば言うだろう。しかしそれなりにプライドが高い彼にとっては、死活問題に等しい。
 背筋を伸ばして天井を仰ぎ見て、雲雀は下半身だけ外にはみ出ている綱吉に手を伸ばした。
 頭隠して尻隠さず、そんな言葉が思い浮かぶ。目線も自然とそちらに流れ、小ぶりながら形の良い臀部を思わず触りたくなった。
 指が蠢き、空気を掻きむしる。しかし触れる寸前で我に返り、理性でどうにか欲望を押さえ込んで、彼は右手首を左手で握り締めた。力を込めて引き剥がし、特に運動をしたわけでもないのに息が切れて汗を滴らせる己に首を振った。
「何を考えているんだ、僕は」
 汗に湿った前髪を掻き上げて視界を広げ、数秒前の自分自身の行動に恥じ入る。
 それもこれも、こんなにも無防備に眠っている綱吉が悪いのだ。こちらの感情の在り処を、この子だって知っているというのに。
「起きなよ、綱吉」
 寝顔を眺めることしか出来ないのは、蛇の生殺しに等しい。乱れた呼吸を整え、心臓を宥めながら雲雀はテーブルに両手を置き、縁を握り締めた。
 腹に力を込めて膝を起こし、上に大量の品物が陳列されているテーブルを、今の形を崩さぬよう横に押し出す。下にいる綱吉には当たらないように注意しながら、カーペットの中央から位置をずらして彼を白日の下に晒した。
 天井の照明を浴びて、眩しかったらしい。梅干を食べた後のように顔を皺くちゃにして、綱吉は右腕を持ち上げて額に翳した。
 起きたわけではなく、無意識下での行動らしい。どこまで寝汚いのかと半ば呆れ、雲雀はテーブルを下ろして綱吉の背中すぐ手前にしゃがみ直した。
 両手を伸ばし、カーペットとの隙間に指先を滑らせる。掌が柔らかく温かな肌に、布越しに触れた。
「寝る子は育つと言うけれど」
 あまり育ちすぎて欲しくない、と寝転がっていた彼を縦に抱き上げて、雲雀はぽつりと呟いた。
 できるならずっとこの体格のまま、成長期なので多少身長は伸びるだろうが、是非とも自分より小さいままでいて欲しい。でないと、抱き上げるのに苦労するようになると考えて、雲雀は笑った。
「僕が大きくなればいいだけか」
 すぅすぅ言っている綱吉を胸に抱え、蜂蜜色の髪を撫でる。ずっと左を下にしていたからだろう、そちら側の毛先が中ほどで折れ曲がり、いつもと違う形を作っていた。
 両手はだらしなく垂れ下がり、雲雀の膝を叩く。彼は中学二年生の男子にしては軽い綱吉の脇から両腕を背中に回し、左右をしっかりと結び合わせた。
「君は、どこまで大きくなるのかな」
 将来が楽しみだと笑い、雲雀は両足を踏ん張らせて綱吉ごと身を起こした。
 すぐさま腰を捻って後ろにあるベッドに倒れこむ。当然抱きかかえた綱吉も彼の上に落ちて、押し潰される圧迫感に雲雀はしばし苦悶した。
 それでも手は放さず、だらしなく眠っている愛し子を引きずり上げて、全身をベッドのスプリングへ投げ出す。斜めに敷布団を横断していたタオルケットに背中を預け、彼はそこでようやく、結び合わせた両手を解いた。
「んむ……ぅ」
 いきなりドスンバタンとされたので、流石の綱吉も意識レベルが上昇したらしい。眉間に皺を寄せて唇をへの字に曲げて、不快感を表情に出す。だが瞼は依然硬く閉ざされたままで、雲雀が望む琥珀色の瞳は現れなかった。
 至近距離からその様を眺め、雲雀は嘆息した。
「どうしたものかな、本当に」
 柔らかい頬に指を這わせ、擽るが反応は芳しくない。もう一度鼻を抓んで引っ張って、豚の顔になったのを笑い、額に額を押し当てる。
 健やかな吐息が聞こえて来て、仕方が無いと彼は肩を竦めた。
「いいよ、付き合うよ」
 こうなれば、意地でも起きている綱吉を拝まなければ気が済まない。
 ならば起きるまで待ってやろう、と決め込んで、雲雀は踏みつけていたタオルケットを引きぬき、半分を綱吉に、残り半分を自分に被せた。足元の弛みは足指で抓んで引っ張り、綱吉の素肌を完全に隠してやる。
 シングルベッドにふたり並ぶのは少し手狭で、雲雀は枕を上に追い払うと、無防備に眠っている綱吉の頬に顔を寄せた。
「さっさと起きないと、咬み殺すよ」
 桃のように瑞々しい肌に軽く牙を立て、かぶりつく仕草だけをして、最後にキスを。
 それでも矢張り起きない綱吉の図太さに目尻を下げ、彼もまた目を閉じた。
 果たして目覚めた時、綱吉はどんな顔を見せてくれるだろう。想像して、楽しみだと雲雀は笑った。

2009/05/25 脱稿