校舎の最奥に近い階段は少し埃っぽく、窓から斜めに射す光の中で塵がくるくると踊っていた。
人通りは滅多に無い場所なのに、何故か床には砂が大量に積もっている。それらは裾の広がった箒をひとつ掃く度に高く舞い上がり、綱吉は鼻腔に飛び込んだ埃に小さく咳込んだ。
此処は外に近いから、上履きのまま裏庭に出た生徒達の靴の裏に付着したものが落ちたと思われる。そして教室からも離れているから、監督の目も届きにくく、真面目に掃除をしようという生徒が少ない、というのも理由に挙げてよかろう。
押し付けられた当番を真剣に片付けようとしている綱吉が、少数派なのだ。俯いて溜息を零し、肩を落とした彼は、踊り場から残り僅かとなった段差を見下ろし、気を取り直すべく首を振った。
さっさと終わらせて帰ろう。足元に出来上がった埃の山の先端を箒で小突き、塵取りを探して視線を巡らせる。
「あ、上だ」
三階から地上までの道程は長かった。踊り場に着く度にゴミを塵取りにまとめていたので、ひとつ上の階に残したままだったと思い出し、彼は慌てて綺麗にしたばかりの階段を駆け上った。そうして来た道を慌しく戻り、膝を曲げて屈んだ姿勢で、重くなった塵取りを更に重くしていく。
最中で勢い余り、顔面に埃のシャワーを浴びせられて激しく咳込んだ彼は、箒を持つ手で咄嗟に目を庇い、首を横向けた。
「けほっ、げふっ」
苦虫を噛み潰した顔をして、涙で目尻を濡らす。今日は最初から最後まで散々だったと嘆息し、綱吉は袖で顔を拭って立ちあがろうとした。振り向き、気乗りしない掃除を再開しようと使い古された箒を抱き締めて、途端に身を竦ませる。
廊下の角から姿を現した黒髪の青年の姿が、今まさに進行方向を転換して、綱吉の立つ階段の踊り場に爪先を向けようとしていた。
緊張から内股気味に膝をぶつけ合った綱吉に気付いた向こうも、どこか意味深な表情を浮かべて視線の先を持ち上げた。
「ヒ――」
「雲雀君!」
斜めに目線が交錯する。思わぬ偶然に歓喜して声を張り上げようとした綱吉だったが、唐突に横から割り込んで来た甲高い声に、雲雀は足を止め、綱吉は反射的に腰を落として階段の片隅にしゃがみ込んだ。
「雲雀君、待って」
上の踊り場で綱吉が隠れているとも知らず、一段目に踏み出そうとしていた雲雀に駆け寄ったのは、ひとりの女子生徒だった。肩で切り揃えた髪をふんわりとカールさせ、目鼻立ちも整ったその人に綱吉は見覚えがあった。
並盛中学でも美人として知られる、三年生だ。
最上級生の男子の人気をほぼ独占しているとも揶揄される美少女が、何ゆえに雲雀を呼び止めるのか。手摺りの影から身を乗り出し、こっそりと様子を窺う綱吉の前で、興奮気味に頬を上気させた彼女は、胸に大事に抱き締めていたものを雲雀に差し出した。
否、押し付けた。
「これ、読んで欲しいの!」
「っ」
大声と共に手紙を握らせ、瞬時に踵を返して駆けて行く。現れてから十秒と経っていない、あまりにも素早い行動に、さしもの雲雀も咄嗟に反応が出来なかったらしい。やや呆然と、去り行く背中から手元へ視線を転じた。
それからゆっくりと、未だしゃがみ込んで身体半分を隠している綱吉を仰ぎ見る。
彼が渡されたものは、恐らくは俗にラブレターと呼ばれる代物だ。人様の告白シーンを目の当たりにするのは初めてで、自分の事のように胸が高鳴って仕方が無い綱吉は、寒気を覚えて箒の柄を額に押し当ててガタガタと奥歯を鳴らした。
雲雀を振り返る余裕もなく、たった今目の前で展開された情景を何度も繰り返し、脳内で再生させては巻き戻す。全身から血の気が引き、嫌な汗が背中に滲んだ。
学校でも指折りの美少女と、容姿だけなら他の追随を許さない雲雀恭弥。なんとお似合いなのだろうと、ふたり並んだ姿に綱吉は悲鳴をあげそうになった。
「つなよし」
「ひぃっ!」
小さく丸くなっている彼を下に見て、踊り場直ぐ手前まで到達した雲雀が名前を呼ぶ。完全に意識を他所に向けていた綱吉は全身を毛羽立て、しゃがんだまま竦みあがった。
若干の怯えを含んで恐々持ち上げられた視線が、雲雀に向けられた。
「掃除?」
「は、はい……」
「そう。じゃあついでにこれも、捨てておいて」
あれから一分と過ぎていないのに、雲雀の対応は酷く淡白だった。
か細い声で頷いた綱吉に、面倒臭そうに彼が突きつけたのは、先ほど渡されたばかりの手紙だった。薄い桜色の封筒に、可愛らしい字で雲雀の名前が記されている。裏にはあの女生徒の名前が。
目の前でひらひらと揺らされ、綱吉が濡れた目を驚愕に見開く。封は開けられてもいなかった。
「え」
中身を確かめもせず廃棄するというのか。なけなしの勇気を振り絞った彼女の告白を踏み躙る彼に、綱吉は唖然とし、言葉を失った。
早くと急かされるが、応じられるわけもなくて首を振る。だのに雲雀は、不機嫌な顔をして唇を尖らせると、あろう事か今度は綱吉の目の前で、ピンク色の封筒を横に持ち、指を掛けた。
真ん中で二つに引き千切ろうとしている気配を察し、綱吉は飛びあがってその手を押さえ込んだ。
「ヒバリさん、だっ、駄目です!」
「どうして」
「だって、これ、あの人の!」
思いの丈を切々と綴ったであろう手紙を、読みもせずに無碍にあしらおうとしている。あまりにも冷酷な雲雀に、綱吉は我を忘れて叫んだ。
頭の中がぐるぐるしている。冷静さを欠いた彼は、目まぐるしく駆け巡る思考に理性が追いつかぬまま、雲雀の手に縋った。
美男美女、良いことではないか。雲雀の隣に並ぶには少し派手過ぎる気もするが、そういう相手ほど案外巧くやっていけるかもしれない。
最初は彼の暴力的な行動に戸惑うだろうが、裏側にある物事に対する真剣さや、誠実さを知れば、もっともっと彼の事を好きになるに違いない。雲雀は、本当は優しいのだ。ちょっと粗暴なところがあるけれど、慣れてしまえば問題ない。
きっと似合いのカップルになる。
「凄いじゃないですか、あの人って美人だって評判だし。知らなかったな、彼女、ヒバリさんの事が好きだったんだ」
声が上擦る。自分が何を言っているのか段々と分からなくなって、綱吉は視線を下向かせ、左手で癖だらけの頭を掻き回した。
心臓の音が五月蝿い。雲雀の顔を見られない。脂汗が気持ち悪い。吐き気がする。涙が出そうだ。喉がからからに渇いている。息が苦しい。
だのに、早口を並べ立てる舌は止まらない。
「お似合いじゃないですか。羨ましいな、あんな綺麗な人に好かれるなんて。俺の、ことなんか、だから、気にしなくて良いですよ。やっぱり、ヒバリさんにはあんな人の方が相応しいですよ」
ね? と、そう言って同意を求めて、綱吉は顔を上げた。
悔しげで、哀しげで、怒った顔が――手を振り上げていた。
「っ」
目を見張る。次の瞬間、乾いた音がひとつ、人気の無い階段に響き渡った。
頬を打たれたのだと理解するのには少し時間が必要で、遅れてやって来た痛みに綱吉は呆然とし、勝手に横にずれた視界に見入った。
無機質な灰色の壁だ。誰かが蹴った靴跡が薄く残る以外に模様もなにもない、味気ない学校の。
「君は」
怒気を孕んだ、けれど爆発させるのを懸命に押し留めようとしているのが伝わる声が鼓膜を震わせる。雲雀にしては珍しい、浪打つ感情を滾らせる低音に綱吉は瞬きを忘れ、左手を頬に添えた。
ひんやりした指先が熱を奪っていく。息を吐くと、自然と涙が溢れた。
「ヒバ……」
「君は、僕を侮辱するつもりか!」
どうしてと。叩かれた理由が分からなくて驚愕に打ちひしがれる綱吉に追い討ちをかけ、雲雀の怒号が周辺に轟いた。
全身のあらゆる神経がビリビリと震え、息が出来ない。
怒っている、雲雀が。今までにないくらいに、激しく。
彼は日頃から不機嫌そうにしているが、実はあまり怒らない。学校内の巡回で真剣な表情をしている事が多いから、そんな風に見えてしまうだけだ。
不良や校則違反の生徒を狩るのは純粋に楽しんでいるが、それ以外では感情を表に出すのを極力控え、他人に内面を悟らせようとしない。だからこんな風に、あからさまに怒りを滲ませる彼は非常に珍しかった。
「ヒバリ、さん」
「誰に向かって言ってるの。本気で言ってるなら許さないよ」
呆気に取られる綱吉を睨み、雲雀は拳を硬くする。愛用の武器に手を伸ばしもせず、肩を怒らせている彼に、綱吉は目を見張った。
怒っていると同時に、とても、そう。
彼は哀しんでいるように見えた。
「ヒバリさん」
「言いなよ。僕の恋人は誰か、此処で僕に言ってみろ!」
平手で自分の胸を叩き、力んだ声で綱吉に怒鳴りつける。激高する彼の姿に声も出ず、綱吉はまだ痛みを残す頬から腕を下ろした。
今にも零れ落ちそうな琥珀の瞳を限界まで広げ、荒く肩を上下させている彼を見詰めた末に視線を伏す。弱々しく首を振った綱吉に、雲雀は我を忘れかけた自分を恥じてか右に視線を流した。
「でも、俺は、男で」
「知ってる」
「頭も悪いし」
「それも知ってる」
「運動オンチだし、全然強くないし。愚図で、鈍間で、ダメダメの、ダメツナだし」
「全部知ってる」
「俺みたいなのが、ヒバリさんと釣り合うわけないじゃないですか」
パチン、と。
また硬い音が響いた。
両の頬を挟まれ、無理矢理上向かされる。問答無用で視線を重ねられ、綱吉は嫌がって首を振った。しかし人の顔を押し潰す心積もりで力を込めて来る彼を振り解けず、凹んだ頬の間に唇が突き出た格好になってしまった。
そのくの字に尖った先端に、雲雀の吐息が降りかかる。避ける暇も、目を閉じる余裕も無く、触れるだけのくちづけが落ちた。
わざと音を立てて雲雀が離れていく。瞬間、堰を切った涙で視界を歪め、綱吉は自分を束縛する雲雀の手首を掴み、思い切り爪を立てた。
「そんな事、誰が決めたの」
まだ怒っている早口に、どうしてだか涙が止まらなかった。
「それとも、嫌なの。君が、僕を」
「ちがっ」
「なら」
「俺だってヒバリさん盗られるのやだ!」
あの女生徒と雲雀が付き合う未来を想像して、鳥肌が立った。心臓が止まりそうだった。
嫉妬した。あんな風に堂々と雲雀に並ぼうとする彼女が、心底憎らしく思えた。
認めたくなかった。こんなに汚い心を抱えている自分を、否定したかった。知られたくなかった。雲雀を独占したいと、誰にも渡したくないという感情が、自分を醜い生き物に変えてしまうようで、怖かった。
冷静でなどいられなくて、自分でもワケが解らないまま口走った。
雲雀を怒らせたのは綱吉だ。綱吉が彼を、そう意図しないままに――傷つけた。
ハッとして、息を飲む。瞠目した先に見出した雲雀は奥歯を噛み締め、辛そうで、苦しげな顔をしていた。
「だったら、言いなよ。僕の恋人が誰か」
でないとこの手は離さない、そう無言で告げる雲雀の視線が突き刺さる。
胸が熱くて、頭の中が真っ白になりそうだった。心臓がけたたましい速度で駆け回る。瞬きをする一瞬でさえ、雲雀から目を逸らしたくなかった。
全身が焼け焦げてしまいそうで、痛くて、こそばゆくて、あの女生徒には悪いけれど、嬉しさがこみ上げてきた。
「……おれ」
彼が怒った理由が、じんわりと心の中に広がっていく。
甘酸っぱい感情に、無意識に笑みが零れた。
「ヒバリさんが好きなのは、俺」
改めて声に出すのは気恥ずかしくて堪らないのに、今こう囁ける瞬間が、どうしようもなく幸せだった。
「分かってるなら、……いいよ」
頬を薄紅に染めた雲雀が、ふいっと視線を外してぶっきらぼうに言う。
感情をむき出しにして怒鳴ったのが、今更恥かしくなったらしい。仄かに色付く首筋を見上げ、綱吉は忍び笑いを浮かべた。
足元に落ちて埃を被っていた封筒を拾い、表面を軽く撫でて汚れを落とす。大事にそれをポケットにしまった彼に、雲雀は怪訝な顔をして姿勢を戻した。
「これ、返して来ます」
「綱吉」
「あとね、……ヒバリさんには好きな人がいるから諦めてください、って言ってくる!」
「綱吉!」
言うが早いか階段を駆け上って行った彼の背中に向かい、一秒後我に返った雲雀は叫んで手を伸ばした。しかし届かず、指先は虚しく空を掴んだ。
そんな事をしたら、明日以降の雲雀の立場はどうなるのか。今まで積み重ねてきた鬼の風紀委員長という体裁が一気に崩れ落ち行く様を想像し、天を仰ぐ。
そして二秒後に首を振り、天真爛漫に笑っている恋人を思い浮かべて肩を竦めた。
泣かせるのは本意ではない。あの子にはずっと、いつだって笑っていて欲しい。
その願いが叶うのなら、答えはひとつ。
「まあ、いいけどね」
艶やかな黒髪を掻き上げ、雲雀は置き去りにされた箒の先を蹴り飛ばした。
2009/01/28 脱稿