散りぬれば

 昼休みも後半に入り、弁当も食べ終えて優雅なひと時を過ごしていた頃だ。
「夏目」
 教室の後部扉、廊下とを繋ぐ出入り口の前で、田沼がやや控えめな声で彼を呼んだ。
「うん?」
 西本と雑談に興じていた夏目は、思いがけない友人からの呼び出しに小首を傾げ、立ち上がった。ほぼ腹這い状態で机に寄りかかっていた西本も、どうしたのかと首から上だけを巡らせて夏目の行方を追いかける。
 外から戻って来る者、出て行こうとする者でごった返す戸口で遠慮がちに立っていた田沼は、伸び気味の後れ毛を掻き上げて背中に隠していたものを夏目に差し出した。
「なに、これ」
 反射的に受け取ってしまったが、事情がさっぱり読み取れず、夏目は首を傾げた。
 渡されたのは、箱だった。おおよそで二十センチ四方の、厚みは五センチばかりある、それなりに頑丈な造りをした箱だ。包装紙は無いが、蓋の色合いは非常に上品で、見た瞬間構えてしまうくらいの高級感が滲み出ていた。
 きょとんとしたまま目を丸くした彼に、田沼が肩を竦めて笑った。
「檀家さんに貰ったんだけど、うちじゃ食べ切れなくてさ」
「はあ……」
 そういえば彼の家は、寺だった。住職を務める彼の父親は、妖怪は見えないものの、何故かこれを祓う力だけは持ち合わせていた。
 一方の田沼は、幼少より僅かばかり妖怪の気配を感じ取れ、尚且つ妖気に当てられると体調を悪くする体質の持ち主だった。
 そんな彼が、妖怪がそこかしこに生息するこの町に越して来たのだ、当初はかなり戸惑ったに違いない。息子の具合を案じた父親が、見えぬからと適当にあちこちを祓って回って、心地よい住処を追われた妖怪たちが夏目に泣き付いたのが、彼と知り合うきっかけだった。
 でなければ、クラスが違うから、卒業するまで言葉を交わす事無く過ごしたかもしれない。
 改めて手に持った箱を眺め、夏目は分かったような、分からなかったような返事をした。試しに両手で握ったまま横に振ると、カサカサと乾いた音が小さく聞こえた。
「夏目は、甘いものは平気だったかな」
「ああ。嫌いじゃない」
「なら良かった。半端な数で悪いんだけど」
 譲ってくれた人の前で蓋を開けて中身を見るのは失礼な気がして、夏目はなかなか内容物を問えなかった。しかし田沼の口ぶりから、食べ物であるのは疑いようがない。それも甘いものだという。
 饅頭か何かだろうと予想をつけて、夏目は感謝の気持ちをこめて丁寧に礼を言った。
 クラスにも大勢友人はいるだろうに、わざわざ自分を選び、訪ねて来てくれたのが嬉しい。彼が他のクラスメイトとは違い、夏目をひとつの特別枠に据えてくれているのが、はっきりと感じられた。
 用事は済んだと、田沼は早々に手を振って教室へ戻ってしまった。次が移動教室らしく、準備を済ませてしまわないといけないからと、早口に言い訳を述べて去っていく。
 取り残された夏目は、雑多に賑わう教室の片隅で、今一度立派な身なりの箱を見下ろした。
 席で待ち惚けている西本を思い出し、踵を返す。既に身を起こしていた彼は、夏目が着席するのも待たず、興味津々に深藍の箱を覗き込んだ。
「なんだ?」
「さあ。でも食べ物だって」
「へー」
 床を擦って椅子を鳴らした夏目が、彼の問いに曖昧に応じて居住まいを正した。ひとつの机を挟んで向かい側に居る西本が、食べ物と聞いた途端に目を輝かせた。
 田沼は、塔子や滋、後は恐らくニャンコ先生もとい斑も含めて、彼らと食べろと譲ってくれたのだろう。しかし今のこの状況では、西本の魔の手から逃れるのは相当難しいと思われた。
 苦笑し、夏目は恐る恐る縁を指で押し上げた。
 底が僅かに持ち上がり、蓋が身と分離した瞬間にストン、と真下へ抜け落ちた。
「お~」
 蓋に視界の大半が覆われていた夏目より先に、中を覗きこんだ西本が歓声を上げた。瞳の輝きが明度を増し、是非とも自分にもおこぼれを、と目で訴えかけてくる。
 口以上にものを言う視線に乾いた笑みで返し、夏目は裏返した蓋を身の横に添えた。
 現れたのは、色鮮やかな和菓子だった。
 饅頭を予想していた夏目は、予想に反して雅やかな形状をした菓子に目を丸くした。中に餡子が詰められているところからすれば、饅頭という区別もあながち間違いではなかろうが、飾り付けは非常に美しく、眺めているとつい溜息が出るほどだった。
 掌にすっぽり包み込めるサイズであるが、ひとつひとつ、丁寧に手作りされているのが分かる。細かな細工にうっとりと見惚れ、夏目はしばし言葉を失った。
 京都、という地名が頭に浮かんだ。箱を持ち上げて底を下から覗き込むが、店名などの記載は一切無い。蓋も同様だった。
「すっげー。高そー」
 美味しそう、よりも先にそちらの感想を口ずさみ、西村は期待の眼差しを夏目に向けた。
 愛らしい花を模った和菓子は、全て色、形が違っている。数は全部で四個。
「喧嘩になりそうだな」
 ひとつは自分、ひとつを西村に譲るとして、残るは二個だ。片方を塔子に進呈するとして、残りは一個のみ。滋は甘いものは平気だったろうか。
 記憶を辿るが、あの人が甘味を食しているシーンがなかなか思い出せない。代わりに夏目の部屋を半分不法占拠している、ふてぶてしいまでの丸く太った猫、もとい妖怪が脳裏に浮かんだ。
 本性は狼か狐を思わせる、尾が長く白い毛の妖怪だが、人間社会に対応して生活する為に、普段は招き猫を依り代としている斑は、実に年寄り臭い思考をしていながら、甘いものにも目が無い。きっとこの和菓子を見せたら、ひとつ残らず食べつくしてしまうだろう。
「……どれにする?」
 見られた以上、分けてやらないのは殺生だ。夏目は生唾を飲んだ西村に向け、和菓子の箱を僅かに傾けた。
「いいのか?」
 そんな目で見詰められては、嫌だとは言えないだろうに。椅子の上で飛び跳ねた彼に笑って頷き、夏目は残り三個となった見目麗しい和菓子を前に、思案気味に眉を寄せた。
 西村が甘い和菓子を頬張る中、チャイムが鳴り響く。午後の授業の開始だ。
「熱いお茶が欲しいな」
「それは流石に、用意してないな」
 人の席を勝手に借用していた彼が、慌てて立ち上がって呟いた。口を開いた瞬間に中身が零れそうになり、大急ぎで両手でバツの字を作るのがおかしい。
 苦笑混じりの相槌を返し、夏目は藍色の蓋を取って箱に被せた。
 傾けないように持って帰るのに、苦労しそうだ。出来るなら綺麗な形のまま、塔子に見せて喜ばせてやりたいのだが。
「食べるのが勿体無いな」
 蓋の表面を撫で、呟く。
 鞄に入れるわけにもいかないので、引き出しの中身を片側に寄せて、出来上がった隙間に箱押し込む。潰れてしまわないか冷や冷やしたが、どうにかぎりぎりのところできちんと収まってくれた。
 帰り道は、手に抱えていくしかあるまい。教科書類を鞄に入れたら、それだけでいっぱいになってしまうからだ。
 道中転ばないようにだけ注意するとして、残る問題は残数と食べる人数の差だ。
 日頃世話になっている感謝の気持ちをこめて、塔子には絶対渡したい。滋にも、できるなら。
 とすれば外れるのは、自分か、斑か。
「……先生に取られるのは、悔しいな」
 歴史の講義を聞きながら、夏目は顔の横でシャープペンシルを揺らした。指二本で抓み持ち、くるり、と回転させる。
 すっぽ抜けて飛んでいく寸前で掴み取り、握って、彼は紙面に一本線を引いた。
「よし」
 消された「ニャンコ先生」の文字に、満面の笑みを浮かべる。
 目尻を下げて表情を綻ばせ、結論が出たところで授業に集中しようと、彼は欠伸を咬み殺した。

 すっかり歩き慣れた道を、心持ち軽やかな足取りで急ぐ。西の地平線を目指して下降を続ける太陽の光を背中に浴びて、夏目は自分の影を懸命に追いかけた。
 遊び帰りの小学生が数人、甲高い声ではしゃぎながら駆け抜けていく。仲がよさげなあのふたりは、きっと幼馴染か何かだろう。
 自分にもそういう人が居ればよかったのに、と思うのは今更だ。居候先を点々としていた夏目は、どうしても誰かと親しくなる前に、別れがやってきてしまう。それ以上に、誰も彼もが彼を気味悪がって、深入りしようとしなかった。
 腫れ物に触るという表現がまさにぴったり来る。
 だから今の、理解を示してくれる存在や、友人があるこの環境は非常に居心地が良く、ありがたかった。
 と同時に、切なくなる。
 夏目が慕う人の中には、妖怪が見える彼の力を知らない人も居る。塔子や、滋のような。
 それはつまり、本当の自分を未だ彼らの前に曝け出していないという事。騙している、と言うのは少し乱暴だが、それに準じているのは本人も認めていた。
 けれど言えない。言いたくない。知られたくない。
 この力の所為でこれまでに過ごした時間の大半を、暗闇の中で過ごさなければならなかった自分としては、彼らの態度が百八十度変わってしまうのが、なによりも怖かった。
 ここは居心地が良い。
 良すぎて、甘えてしまう。
「喜んで、くれるかな……」
 胸を反らして空を仰ぎ、夕暮れの風を浴びながら夏目はぽつりと呟いた。
 六時間目が終わる頃、昼食を食べてから三時間と経過していないというのに空腹に見舞われて、彼はつい、田沼から貰った和菓子を抓んでしまった。食べるところをばっちりと西村に目撃されてしまい、大声でからかわれて、あの時は死ぬほど恥ずかしかった。
 お前だって昼休みが終わる直前に慌てて食べて、喉を詰まらせていたではないか。言い返せば聞いていたクラスメイトからドッと笑いが溢れて、ふたりして冷や汗を流したのは言うまでも無い。
 そしてぼさっとしている間に、後ろから忍び寄っていた北本の手がひょいっと伸びた。
 止める暇もなく、愛らしい梅を模った和菓子は彼の口の中へ。残り二個のうちの片割れを盗まれて、夏目は珍しく激しく憤慨したのだった。
 人間相手には日頃から温厚な夏目が声を荒げて怒る姿に、北本も反省頻りだった。何度も両手を合わせて頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返す。食べてしまったものはもう戻らないし、そもそも和菓子も田沼から譲られたものだったので、最終的に夏目は彼を許した。
 菓子ひとつで絶交するのも馬鹿らしかったし、西村まで一緒になって謝るものだから、途中からはまるで自分こそが悪者のような気分だった。
 後から冷静に考えると、何故あそこまで怒り心頭になったのかが分からない。大切に食べようとしていたものを横から攫っていかれた哀しみよりも、同年代の同性と喧嘩が出来るという喜びに、勢いが余ったと思う方が正しい気がした。
 それにしても、菓子は残りひとつだ。
「塔子さんに、だよな」
 この際、滋には涙を呑んでもらおう。毎日食事の準備に洗濯、掃除、買い物と、文句ひとつ言わずに家事を任されてくれている彼女に、日頃の感謝を込めて贈ろう。
 藍色の箱を大事に胸に抱え、夏目は決心を新たに藤原の家の門を潜った。
 玄関の鍵はかかっていない。ガラスの引き戸を左に滑らせ、照明が消えて若干薄暗い屋内に目を凝らす。
「ただいま、帰りました」
 奥に居るだろう塔子に向かって、大声で告げる。しかし返事は、三十秒ばかり待ってみたものの、無かった。
「あれ」
 不在だろうか。
 施錠されていなかったのだからそんなわけが無いと、今し方開けたばかりの玄関を振り返って夏目は首を傾げた。レールの上を滑らせて隙間風が入らないようきちんと閉めて、靴を脱いで上がりこむ。泥で汚れた表面を軽く払って向きを直して左右揃え、彼は鞄から弁当箱を取り出した。
 今日も美味しかった。礼を言って、一緒に和菓子も渡そう。大きい箱にひとつだけ、ちょこん、と残っているのは若干滑稽で惨めだが、あの和菓子の可愛らしさはその点を差し引いても余りある。
 きっと高価なものに違いない。明日、田沼にも、改めて御礼を言わなければ。
 色々な事を取り留めなく考えながら、夏目は廊下を踏みしめて台所の戸に手を掛けた。物音がするので、きっと塔子は中に居るに違いない。夕食の準備に没頭して、呼び声が聞こえなかっただけだろう。
 楽観的な思考で、彼は戸を滑らせた。
「塔子さ――」
「きゃあぁぁ! 駄目、貴志君!」
 ただいま、と言おうとした夏目の鼓膜を突き破り、真正面に居た塔子が甲高い悲鳴を上げた。反対側の壁に背中を押し当てて震え上がっている彼女に真っ先に目が行って、叫ばれた夏目は一瞬凍りついた。
 その彼の足元を、素早く何かが駆け抜けていく。小さい、全長二十センチ程度の生き物。
 鼠だ。
「えっ」
「あああ。待ちなさい、こら!」
 慌てて右足を浮かせるが、その頃にはもう灰色の鼠は遠い彼方だ。
 怪しい気配は一切感じなかったので、妖怪の類ではなく、正真正銘ただの鼠だ。塔子は戸口で惚けている夏目を押し退けると、悔しそうに唇を噛み締めて地団太を踏んだ。
 どうやら台所に出た粗忽者を、戸を閉めて閉じ込めていたらしい。ところが何も知らない夏目が、外から帰ってきて不用意に開けてしまった、と。
「まったく。今日こそ捕まえてやるわ」
 白い割烹着の袖を捲くり、絶句している夏目の存在を軽く無視して彼女は声を荒げた。今までにない彼女の意気込みに圧倒され、夏目も次の行動に移れない。
 鼠と戦う武器を探しに、塔子は廊下を駆けて行った。鞄と菓子箱を胸にした夏目は、彼女へ伸ばしかけた手を途中で止め、宙ぶらりんに揺らした。
 あの口ぶりからして、鼠が出たのは今日が初めてではなさそうだ。
 弁当箱と、藍色の箱と。ふたつを同時に見詰めて、既に誰の姿も無い廊下の暗がりに肩を落とす。
「台所に置いておくのは、危ないか、な」
 あの鋭い歯で箱に穴を開けて、鼠が食べてしまうかもしれない。そう思うと、彼女が不在の今、和菓子を置いて場を離れるのは少し怖い。
 彼は迷った末に弁当の包みだけを、無人となった台所のテーブルに置いた。ガスの火は消えており、換気扇の唸る音だけが耳に響く。遠く、塔子の鼠を探す声が風に乗って聞こえた。
 彼女はひょっとして、夏目が学校に行っている間も、ああやって食卓を荒らす生き物と格闘しているのだろうか。
「先生はなにやってんだよ」
 この家には猫がいるのに、と愚痴を言いかけて、夏目は口を噤んだ。
 あれを猫と言って良いのだろうか、確かに見てくれは招き猫なので間違いではないのだけれど。
「前に入られたこと、あるしなあ」
 以前、辰未の雛を保護した際に、その子を狙って襲って来た妖怪があった。それが鼠に化けて、家に侵入してきたのだ。
 あの時も斑はろくすっぽ反応出来ず、みすみすタマを危険な目に遭わせることとなった。だからあの真ん丸い饅頭を潰したような妖怪は、あまり当てにできない。
 がっくり肩を落として溜息を零し、夏目は鞄を抱え直した。軽い箱を手に、台所を出て階段を登る。
 宛がわれた部屋に入ると、冷たい空気が頬を撫でた。窓が全開になっており、西日が斜めに伸びて畳に影を作っていた。
「先生?」
 箱の中身を教えろと斑に騒がれるのを覚悟していた夏目は、思いもよらず彼が不在なのに驚いて目を丸くした。
 呼びかけるが、返事は無い。廊下よりは明るいが、照明が灯っていた台所よりは暗い室内を見回し、彼は深く嘆息した。
 心配をして損した気分だった。あれこれ言い訳を考え、最悪殴り飛ばして黙らせることも考えていただけに、全てが杞憂に終わってドッと疲れが押し寄せてきた。
 額を抱えて項垂れ、彼は畳の縁を踏まぬよう敷居を跨いだ。廊下から鼠が入ってこないのを確かめて戸を閉め、窓辺に寄る。
 鞄を足元に、菓子箱は机に置いて、彼は重みから解放された両腕を真上に伸ばした。
 背筋を後ろへ反らし、骨を鳴らして肩を回す。凝り固まった筋肉を解きほぐして、彼は全開だった窓を半分だけ閉めた。
 学生服のボタンを上から順に外して、室内着に着替える。ラフな格好をして、制服は明日も使うからとハンガーにかけてしまい、彼は夕焼けで赤みを帯びた室内に目を向けた。
 斑は何処へ行ったのだろう。
「隠しておかないとな」
 居ないのならば、それはそれで好都合だ。鼠にも猫にも見つけられない場所を探し、彼は改めて箱を手に狭い部屋の中を歩き回った。
 押入れの下段は半分、斑に占領されている。いったいどこから手に入れてきたのか、酒やつまみの類が無秩序に押し込められていた。上段は布団や、季節が合わないので着ない服を入れたケースが占領している。
 布団の間に詰めておこうかと最初は思ったが、重みで潰れてしまっては元も子もない。上に乗せておくだけでは心もとなく、天井から潜り込んだ鼠に発見される危険性もある。
 ならば、と背後を振り返った夏目は反対側へ大股に歩み寄った。
 学生服等をしまっている衣装ケースの扉を開けて、半歩下がる。全体像を視界に入れて、彼は顎を撫でた。
「うーん」
 此処も、微妙に危険だ。
 斑が勝手に開けることもあるだろう、なにより自分が隠した事を忘れてしまいそうだ。
「どうしたもんかな」
 案外難しいものだ。
 他人に知られてはいけないが、自分自身も思い出せないようでは困る。だからと言って、忘れないように隠し場所を紙に書き記すのは本末転倒。銀行の暗証番号のようだと肩を竦め、彼は箱を机に戻した。座布団を引っ張りだして胡坐を組み、陽射しを受けて色濃く艶めいている蓋を撫でる。
 両手を添えて持ち上げて開けると、教室で見たそのままの形で和菓子が顔を出した。
 九等分された台紙の真ん中に、寂しげに咲いている。薄紅色の生地の真ん中に、ちょこん、と緑色の飾りが添えられており、眺めているだけでほっこりとした気分になった。
 ただ矢張り、ひとつきりなのはちょっと殺風景だ。
 何かを詰めてやりたいところだが、下手に手を加えると変になってしまいそうだと己を戒める。一瞬だけ、今此処でこっそり食べてしまおうかとも考えて、慌てて彼は首を振った。
「だめだ、駄目だ」
 自分に言い聞かせ、夏目は傾けぬよう注意深く蓋を閉めた。底を支えて掲げ持ち、部屋をもう一周して机に戻る。
 山並みに太陽が重なり、室内の暗さが増す。散々迷ってまだ結論が出せず、夏目が肩を落とした時。
「ふいー」
「うわわっ」
 酔っ払ったような声を出し、真後ろで引き戸が開いた。
 危うく持っていたものをすっ飛ばしてしまうところで、お手玉の要領で彼は箱を空中に躍らせた。心臓が口から飛び出しそうになり、懸命に飲み込んで上半身を机に覆い被らせる。
 鼓動が一気に速度を増し、ドドド、と頭の中で喧しく泣き喚く。冷や汗が全身から噴き出して、この一瞬だけで確実に寿命が数日分縮んだ。
「帰ったぞー」
 一方、ノックも無しに入って来た斑は、夏目の動揺など全く知らぬ顔で右前脚を持ち上げて振った。赤ら顔で、千鳥足。間違いなく、昼間から外で飲んできた証拠だ。
 妖怪とは、かくも呑気な生き物なのか。いや、そもそも常人の目に映らぬ彼らを生物として認識してよいものなのだろうか。
 そんな事を僅か一秒の間に考えながら、夏目は机に突っ伏したまま右手を脇に伸ばし、そこに置いてあった鞄を掴んで引っ張り上げた。
 箱の上に、斑から見えないように重ねておいて、身を起こす。
「先生、何処行ってたんだよ」
「ん~? んん~?」
 焦りを必死に噛み殺し、悟らせないように、いつもよりも大きい声で問いかける。しかし心配無用で、酔っ払っている斑は右に、左に、よたよたしながら、有頂天に目尻を下げて口元をだらしなく綻ばせた。
 いきなり思い出し笑いを開始して、ぐふふ、と気持ち悪い声を出す。
 頬を引き攣らせた夏目が見守る中、彼は教えない、ともったいぶった口調で告げ、腹を上にして畳に寝転がった。五秒と経たず、鼻ちょうちんが膨らんで寝息が聞こえるようになった。
「なんなんだ……」
 目まぐるしい斑の変化に呆れ果て、押し寄せてきた疲れに肩を落として夏目は項垂れた。
 垂れ下がった髪を掻き上げ、咄嗟に鞄で隠した箱を確かめる。重みで潰れていないか不安だったが、外装が頑丈だったお陰で無傷だった。
 安堵の表情を浮かべ、彼は退かしたばかりの鞄をじっと見詰めた。箱に被せると、丁度良い具合に全体が覆われて見えない。反対側は辞書でそれとなく囲っておけば、パッと見た感じでは夏目がズボラして片づけをサボっているだけにしか映らない。
「こうしておこう」
 これなばら、夏目自身が忘れることもない。
 やっと安心して隠せる場所が見付かったと胸を撫で下ろし、夏目は座布団から腰を浮かせた。斑は残り僅かとなった日向で、ぐぅぐぅいびきをかいている。時々後ろ足がピクリと動き、四肢を投げ出している様がなんとも滑稽だ。
 是非多軌にこの醜態を見せてやりたい。手元にカメラが無いのが、非常に残念だ。
 見ているだけで笑えてくる斑の痴態に目を細めて嘆息し、階下から聞こえた塔子の声に彼は大声で応じた。鼠退治は終わったのだろうか。
 今なら菓子箱を持って降りても全く問題ないのに、隠すのに満足してしまって、そこまで頭が回らない。夏目はわざと寝転がる斑の上を跨いで通り過ぎ、開けっ放しの障子戸から廊下に出た。もう一度塔子に返事をすると、階段下に顔を出した彼女は、鼠を追い込んだので捕まえてくれ、と懇願してきた。
 苦笑が漏れる。そういえば彼女は、台所でも鼠と対峙しながらも、捕獲にまでは踏み込めずにいたのだった。
「今行きます」
 戸を閉めて、音響かせて階段を駆け下りる。最後の二段を飛び降りると、塔子は明らかにホッとした顔をして、男の子が居てくれてよかったと微笑んだ。
 微妙に複雑な気分になったが、頼られるのは嬉しい。朗らかな笑みを返し、夏目は彼女に続いて風呂場へと向かった。

 その日は朝からなにかと騒々しかった。
 塔子に渡そうと思っていた菓子の存在を、風呂上り後に思い出した夏目は、もう夜も遅いという事で翌日にしようと決めた。
 しかしあろう事か酔っ払った斑が、寝返りを打った際に目覚まし時計を転がしてくれて、その衝撃でセットしてあったタイマーが解除されてしまった。お陰でぐっすり眠った夏目は予定時刻を軽くオーバーしてからの起床となり、階下からの呼びかけがあと十分遅ければ遅刻確定だった。
 右に向かって跳ねた前髪を指で抓み、櫛を通す暇もなかった今朝の自分を振り返って、彼は廊下で溜息をついた。
「どうかしたのか、夏目」
 しかもその瞬間を、向こうから歩いてきた田沼に見られてしまい、すれ違い様に声を掛けられた。
 無用な心配をかけてしまったことを申し訳ないと感じつつ、首を振ってなんでもない、と夏目は笑った。そして、通り過ぎようとした彼の顔をじっと見て、首を傾げる。
「なに」
 まじまじと見詰められて、田沼は怪訝に眉根を寄せた。
「いや。あれ、俺、田沼に何か言わないといけないんじゃなかったっけ」
「?」
 なにか、とても大事な事を忘れているのではないか。ふと胸を過ぎった一抹の不安に視線を伏し、夏目は口元に手をやって唇を引っ掻いた。
 冷や汗が首筋を伝い、嫌な予感に囚われる。いきなり顔色を悪くした彼に田沼もぎょっとして、大丈夫かと手を伸ばしてきた。
「あ!」
「わっ」
 彼の指先が、色の薄い夏目の前髪に触れる直前。
 唐突に思い出して、彼は大声を張り上げた。
 目の前にいた田沼が吃驚仰天し、後ろに仰け反ってたたらを踏んだ。夏目はそんな彼を視界に入れつつも、どうすることも出来ず、広げた両手を震わせて顔を青褪めさせた。
「不味い。すっかり忘れてた」
 布団を畳み、押入れに仕舞う余裕さえなかった。学生服に着替えて、鞄を引っつかんで部屋を飛び出すので精一杯だった。
 つまり。
 塔子に渡そうと思っていた和菓子の箱は、机の上にそのままだ。
「やばい。どうしよう。絶対に先生に見つかって食べられる……」
 この世の終わりかと言わんばかりの悲壮感を漂わせ、夏目はひとり絶望に打ちひしがれて廊下で慄いた。
 周囲の奇異な視線の注目を浴びているというのに、まるで気に留めない。田沼でさえ話しかけるのを躊躇する動揺ぶりで、彼はダラダラと脂汗を流し、最後は戸惑っている田沼に向かって「どうしよう」と縋る目を向けた。
「いや、夏目……お前が大丈夫か?」
 昨日の菓子の礼を言うのが先だと思うのに、言葉が出て来ず夏目は唇を震わせた。
 それから後は何をするにおいても集中できず、授業も大半が右の耳から左の耳にすり抜けて行った。
 一秒でも早く帰りたい。六時間目にはついに貧乏ゆすりまで開始した彼は、終業のチャイムが鳴ると同時に、ホームルームが残っているのも忘れて教室を飛び出した。
 後ろから西本が引き止めんと叫んだが、耳を貸さない。鞄ひとつを手に校舎を出て、正門を一直線に駆け抜けた。
 どうして忘れていたのだろう。何故思い出さなかったのだろう。
 あの食いしん坊の斑が、甘い菓子を前にして黙っているわけがないのに。
「俺の馬鹿!」
 こんな日に限って、どうして寝坊などしたのか。文明の利器に頼りすぎだと、タイマーを止めた斑ではなく自分自身に憤慨しながら、夏目は全速力で藤原の邸宅を目指して走った。
 住宅地を抜け、広々とした一軒家が軒を並べる地域に突入し、見慣れた家屋が顔を出す。背中に温かな陽射しを浴びて、最後の力を振り絞った彼は猛スピードで玄関の戸を開け、靴を脱ぎ捨てた。
「ただいま帰りました!」
 開口一番叫び、奥から塔子が出て来るのを待たずに階段へ直行する。二段飛ばしで駆け上り、彼は必死の形相で障子戸を右に押し流した。
 内部は朝、学校に出る直前とは打って変わって、綺麗に片付けられていた。
 恐らく塔子だろう、布団は畳んで部屋の端に積み上げられていた。枕がちょん、と最上部に飾られており、シーツの白さから、形状はまるで巨大な鏡餅だ。
 窓は、今日は閉まっていた。ガラス越しに陽光が、呼吸も荒い夏目とは対照的に穏やかに差し込んでいる。斑はその日向の真ん中に陣取り、ぬくぬくと真ん丸い身体を温めていた。
 騒々しく戸を開けた彼をちらりと見た後、大きな欠伸をして人に尻を向ける。朝っぱらは二日酔いで呻いていたが、回復したらしい。
 鞄を握り締め、夏目は額から鼻筋に汗を滴らせて息を整えた。苦しい心臓を宥めて唾を飲み、部屋の奥へ視線を走らせる。窓から、右手に。塔子も流石に座卓周辺の散らばり具合は放置で、転がり落ちた辞書が床で仰向けに寝そべっていた。
 肝心の藍色の箱は――
「ない」
 その場にボトリ、鞄を落として彼は唸った。
 何度も瞬きを繰り返し、目を擦り、時間差で見直してみるが、机の上に置いていた箱は綺麗さっぱり、姿を消していた。
 足早に近付き、両手を座卓に突き立てる。目に見えないようにまやかしが仕掛けられているのではと疑ったが、手探りでも矢張り、見つけることは不可能だった。
 引き出しを開け、机の下を覗き込み、箪笥を開けて吊っている服を剥ぎ取って中を空っぽにしても、無い。
 襖を開けて押入れを覗き込む。畳まれていた布団をひっくり返し広げるが、どこを探しても目当てのものは出てこなかった。
 ゴミ箱も空っぽだ。
「ない……ない。なんでだ。何処に行ったんだ、どうしてないんだよ」
 声に焦りを滲ませ、夏目は呻いた。脂汗が全身から噴き出して、学生服が暑くて仕方が無い。ホックを外して襟を広げ、呼吸を幾らか楽にして彼は両手で顔を覆った。
 指の隙間から覗く景色に、渋柿色の座布団が見える。否、それは真ん丸い生き物の背中だ。
 どたばたと部屋を荒らし回る夏目を他所に、スースーと寝息を立てて目を閉じている。慌てふためく彼を完全に無視して、我関せずの姿勢を貫いている。
 明らかに、怪しい。
 いつもの斑なら、何があったか小うるさく聞いてくる。それがないのは、夏目にバレては困ることがあるからだ。
「先生」
 調べる前から結論を出し、夏目はこめかみに青筋を立てて両手を握り締めた。
 拳を戦慄かせ、足を踏み鳴らし、悠々自適に座布団で丸くなっている存在に近付く。凄まじい殺気とでも言うのか、兎も角普通ではない気配を敏感に受け止め、斑の額がピクリと動いた。
 忍び寄る不穏な空気に、彼はもそもそ動いて目を開けた。低い位置から、仁王立ちの夏目を怪訝に見上げる。
「なんだ、夏目。帰っておったのか」
「先生……しらばっくれるのもいい加減にしろよ」
 いつもなら、この時間夏目はまだ下校の途中だ。今日はホームルームもすっ飛ばし、全速力で走って帰ってきたので、時間はまだ早い。太陽も、地平線にさほど接近していない。
 のっそり起き上がった斑のふてぶてしい態度に腹を立て、夏目は右足で彼の寝転がる座布団を蹴り飛ばした。
「ふぎゃ!」
 聞き苦しい悲鳴をあげ、巨大な猫饅頭が頭から畳に沈む。そのまま一回転して仰向けに戻った彼は、夏目のいきなりの暴挙に血管を浮き上がらせて前脚で畳の縁をバシバシと叩いた。
「何をするか、貴様は!」
「そっちこそ、なに人の大切なもの、勝手に食べてんだよ。あれはな、塔子さんに渡そうと残してあったんだぞ」
「はぁ? 何を言っておるのか、さっぱり分からんぞ」
 握り拳を振り回し、怒りを爆発させる夏目の怒号に、シラを切るつもりか斑はそう言い返した。
「分からないわけがないだろ。机の上にあったの、知ってるだろ。青い箱の事だよ」
 生意気な斑に憤慨し、夏目が後ろの机を指差す。今はテキスト類が雑多に積み上げられているだけだが、その中央部には確かに、何かが置かれていたと分かる隙間があった。
 彼の言葉に斑は一瞬視線を逸らし、上向けた。
「……はて」
「しらばっくれるなよ。先生が食べたんだろ」
「だーかーら、知らんと言っておろうが!」
 どうだったかを思い出そうとした彼の思考を遮り、夏目が苛立ちのままに声を張り上げる。負けじと斑もボリュームを大きくして叫び、夏目に向かって飛び跳ねた。
 体当たりを躱し、歯軋りをした彼は握り拳を思い切り斑の脳天に叩き込んだ。星を散らした招き猫が、巨大なタンコブから煙を棚引かせて畳に沈み込む。
 目を渦巻き模様にした斑の醜態に、夏目は怒らせた肩を上下させて息を吐いた。
「ったく。あー、くっそー……」
 大人しく非を認めておけば、痛い目に遭わずに済んだのだ。額の汗を拭い、気絶している斑を睥睨して、彼は乱れた学生服の襟を直した。
「あらあら、どうしたの?」
 騒ぎ声は階下にも、当然ながら響いていた。階段をリズムよく登って来た塔子が、何があったかを気にして開けっ放しの戸口から室内を覗き込む。危うく夏目の鞄を踏みそうになって、飛び退いた彼女を見た瞬間、夏目は非常に申し訳ない気持ちに陥った。
 折角田沼が、塔子や滋たちにも、と分けてくれたというのに、結局、過分に世話になっている彼女に手渡す事が出来なかった。これをどう詫びればいいのだろう、言葉が何も思い浮かばず、彼は黙りこくって唇を噛んだ。
 意識を取り戻した斑が、きゅぅ、と鳴いて畳にへばりつく。小さな鏡餅状態になっている彼を見下ろし、口元に手をやった塔子は驚いた顔をして目を丸くした。
「どうしたのー、貴志君」
「いえ。先生が勝手に、俺の、机の」
「あっ。あら、あら」
 間延びした声でおっとりと塔子が問う。夏目はどうにか呼吸を落ち着かせ、ドクドク言う心臓を撫でて苛立ちを懸命に誤魔化した。
 足元で萎れている斑を憎々しげに睨む。しかし皆まで言う前に、急に塔子が慌て始めた。
 両手で口元を覆い、足をバタつかせる。頬を赤く染めて目線を右往左往させて、何故か前向きのまま後退して夏目と距離を取った。
 敷居を跨いで廊下に戻った彼女の態度に、夏目はきょとんと首を傾げた。塔子は恥かしいのかじたばたとその場でひとり暴れ、最後にごめんなさい、と急に頭を下げた。
 礼儀正しく、深々と。
「え?」
「ごめんなさい、貴志君。そこにあったお菓子、あんまりにもおいしそうだったから、つい」
 そこ、と言いながら彼女は部屋の奥を指差した。
 照れ隠しでおほほ、と上品に笑いながら、顔の前で頻りに手を揺らす。なんとか巧い言い訳を探そうとして、見付からずに誤魔化す方向で行こうとしているのが窺えた。
 絶句し、夏目は零れ落ちんばかりに目を見開いた。
「はい?」
「本当、ごめんなさい」
 塔子が正直に自分の犯行を認め、そそくさと逃げていった。
 出かかった夏目の手が、虚しく空を切る。
 足元では斑が、大きなタンコブを頭に残したまま夏目を見上げていた。
「えー……と」
「なーつーめー?」
 これはつまり、どういう事だろう。
 嫌な汗がダラダラと背中を流れる。にやりと不敵に笑った斑が、ファイティングポーズを作って構えた。
「いや、これはだから、その――ごめんってば、先生!」
「問答無用!」
 濡れ衣を着せられた斑が、夏目の制止も聞かずに彼に飛びかかった。顔面に張り付き、仕返しだと爪を立てて思い切り引っ掻いてやる。
 台所に退避した塔子は、聞こえて来た夏目の悲壮な叫びに肩を竦め、悪戯っぽく舌を出した。

2009/05/23 脱稿