沈酔

 カコーン、と手桶が岩にぶつかる音が間延びした音を響かせて消えていく。
「ぷはー」
 身を沈めれば溢れる程のたっぷりのお湯に肩まで浸かり、じんわり広がる温かさについ声が出て、綱吉は気持ち良さそうに天を仰いだ。
 一面の暗闇が軒先に広がっている。シンと静まり返った空気は凛と冷えており、それが余計に、露天風呂の心地よさを引き出していた。
 波打つ水面に両手を差し入れ、横に並べた掌を椀の代わりにして湯を掬う。思い切り顔面に叩きつければ、肌を刺す熱の感触もまた堪らなかった。
「やっぱ、温泉は日本に限るよなー」
 人里離れた山奥の、一軒宿。都会の喧騒を遠く離れ、深い緑と溶け残った雪が同席する景観は、見事と表現するより他に言葉が見付からない。頭上を照らす裸電球の灯りは柔らかで、星明りは眩く綱吉の目を楽しませた。
 低い竹垣の向こうは、幾重にも重なり合った山並みが広がっている。視界を遮る無粋な建物は無く、此処は桃源郷かと、ついつい鼻歌が零れた。
 太陽は西の山の影に隠れて久しく、鮮やかな夕焼けの名残も殆ど消え去った。虫の声さえ聞こえぬ闇は穏やかで、優しく綱吉を包み込んだ。
 体の節々に行き渡る温かさに目を閉じ、至福の時間を堪能する。スケジュール的にかなり無理をさせられたが、来て正解だったと幾度も頷いた彼は、不意に背後から吹いた冷たい風に首筋を擽られ、ひゃっ、と悲鳴を上げた。
「ツナ」
 岩で囲まれた露天風呂の中で飛びあがり、鼻の位置まで湯に沈んだ綱吉を呼んで脱衣所からリボーンが顔を出す。長風呂を楽しんでいる綱吉を探してぐるりと広い屋外の浴室を見回した彼は、赤い顔を隠して湯船でぶくぶく泡を噴いている綱吉を見つけ、何をしているのかと肩を竦めた。
 この十年ですっかり伸びた彼の身長は、いつしか綱吉を追い越して軽く見下ろせる高さになってしまった。年上の面目が立たないと綱吉は至って不満だったが、当のリボーンはやっと元のサイズに戻ったと嬉しがり、幼い頃の仕返しか、時々気まぐれに人を抱き枕にしてくれた。
 いつも被っている鍔広の帽子は無く、綱吉に負けず劣らずの癖毛を盛大に爆発させている。ただその髪型も、綱吉とは違って、彼が持つワイルドさ、精悍さを際立たせるのに役立っているものだから、不平不満も募る。
 着ているものは、宿に到着した時から変わらないツイードの背広だ。三つボタンのシングルで、彼の細身をより強調していた。
 黒と白のモノトーンカラーで統一されており、どこの葬式屋だと言いたくもなるが、それが昔から彼が貫いてきたスタイルなのだから仕方が無い。ガラスの戸口に凭れ掛かり、耳まで湯に浸かっている綱吉を眺める視線は何処かいやらしい。
「逆上せるぞ」
「うっさい」
「いい加減出ろ。それとも、俺と仲良く背中でも流しあいっこがしたいか」
「今すぐ上がるから其処を退け!」
 不敵に笑って口角を歪めた彼の物言いに、綱吉は勢い良く立ち上がって伸ばした右手でリボーンを指差した。しかし彼は腕組みを解いただけで、視線は綱吉の顔より低い位置で固定されていた。
 何を――というよりも、何処を見ているのかに三秒遅れで気付いた綱吉は、ハッとすると同時に水柱をあげ、湯の中に舞い戻った。
 カラカラと声を立てて笑うリボーンを、前屈みの姿勢で悔しげに睨みつける。
「二十四にもなって、貧相だな」
「ほっとけ、このスケベ!」
 手近にあった桶を掴んで投げつけるが、その前にリボーンは戸を閉めて屋内に退避してしまった。
 曇りガラスに映った影が遠退き、静寂が舞い戻る。ひとり取り残され、恥かしさが徐々に湯に溶けて消えてなくなるのを待ち、綱吉はリボーンの忠告を無視して、逆上せあがる寸前でやっと湯船から足を引きぬいた。
 脱衣所も無人で、冷え切った空気が少し痛い。急ぎ水気を拭き取って置かれていた浴衣に袖を通し、素足で扉一枚隔てられた和室へ戻れば、中央に置かれた座卓には既に夕食の支度が整えられていた。
 先ほどリボーンが呼びに来た理由は、これだったのだ。教えてくれればよかったのにと、綱吉は既に片側に座して杯を煽っている男を恨めしげにねめつけた。
「どうした、座らないのか」
「風呂、入らないのか?」
「お前が背中を流してくれるならな」
「……せめて、浴衣に着替えるとかしろよ。なんか、変」
「そうか?」
 今はジャケットを脱ぎ、黒のスラックスにペイズリー柄のベスト姿で座布団に胡坐をかいている黒髪の男は、頬を膨らませて苦情を並べ立てる綱吉に平然と切り返し、空になった杯を置いた。
 薄青の陶器製の徳利を右手に持ち、自分で酒を注ごうとする。それを見て、向かい側に座ろうとしていた綱吉は慌てて腕を伸ばし、彼を制した。
「なんだ」
「運気が逃げるだろ」
 折角いい気分で酒を飲もうとしていたところに水を差され、リボーンが不満顔を向ける。即座に言い返し、綱吉は彼の手から徳利を奪い取って胸に抱え込んだ。
 料理は、綱吉がまだ入浴中だったのを考慮してか、鍋物にはまだ火が入っていなかった。刺身等が中心に並べられており、皿盛りの半分近くがリボーンによって消費されていた。
「それに大体、お前、まだ未成ね……って、聞けよ!」
「汗だけ流してくる。俺が戻る前に酔い潰れるなよ」
 平然と飲んでいたので忘れていたが、リボーンはまだ飲酒を許された年齢に達していない。たとえ外見年齢は綱吉を追い越しているとしても、見過ごせるものではない。
 声を荒げた綱吉だったが、リボーンは無視して立ち上がった。興醒めだと欠伸を零し、ベストのボタンを外しながら歩いて行ってしまう。
 またも取り残された綱吉は、中身の少ない徳利を揺らし、面白く無さそうに唇を尖らせた。
 折角苦労してもぎ取った休暇、及び日本への一時帰国。日頃の疲れを癒し、仕事も忘れてのんびりしようと思って来たのに、アテが外れてしまった。
「ちぇー」
 相手をして貰えない事程、つまらないものはない。綱吉は今日をとても楽しみにしていたが、リボーンはそうでなかったのかと思えば、余計に。
 徳利の中の酒が、ちゃぷん、と音を立てる。横目で見た彼は、渋々座布団に腰掛けて青磁のお猪口を左手に掲げた。
 簡単に体を洗い、サッと湯を流すだけに済ませたリボーンが慣れない浴衣で部屋に戻った時、綱吉は煮え立つ鍋の中から湯豆腐を掬い上げていた。
 見れば刺身の皿は空っぽで、畳には寸胴の徳利が三本ばかり寝転がっている。振り向いた彼の顔は見事に赤く染まり、大粒の瞳に覇気は無く、しまりの無い口元には珍妙な笑みが浮かんでいた。
「おい……」
「リボーン、おっそい」
「お前は俺の言ったことを聞いてなかったのか」
「ん、なにー?」
 機嫌よく椀に箸を衝き立て、柔らかな豆腐を半分に切った綱吉が分かっていない様子で小首を傾げる。湯気立てる豆腐を息吹きかけて冷まし、口いっぱいに頬張る姿は、とても二十台半ばには見えなかった。
 浴衣も随分着崩れて、胡坐をかく足は太股まで丸見えだった。
 自分が場を離れている十分少々の間に、いったい何があったのか。想像するまでもなく、額に手を当ててリボーンは己の迂闊さを呪った。
 箸を置いた綱吉が、その手で徳利を持ち上げる。だらしない笑みを浮かべて杯に注ごうとするのを見て慌てて止めると、彼は琥珀の瞳を大きく広げて真一文字に唇を引き結び、リボーンを睨みつけた。
「運気が逃げるんじゃなかったのか」
「いいんだよー、っだ」
 いったい何処の五歳児か。駄々を捏ねて腕を振り回した綱吉に呆れ果て、リボーンはまだ残量の多い徳利を顔の横で揺らし、嘆息した。
 自分が真面目に相手をしてやらなかったから拗ねてこの有様だというのは、過去の事例から判断するに、ほぼ間違いない。宿に至るまでの道程での、彼の嬉しそうな姿を思い出して、リボーンは無人の座布団を掴み、綱吉の横に移動させた。
「注いでやるから、怒るな」
 そっぽを向いている彼の頭を撫でて言い聞かせ、どっかり腰を据える。ほら、と先ほど奪った徳利を指で弾いて音を鳴らせば、綱吉は途端にパッと表情を輝かせて振り向いた。
 普段もこれくらいに反応が素直だったなら良かったのに。酒酔いのお陰というのが少々癪だが、満面の笑顔を浮かべている綱吉に自分も笑みで返し、リボーンは両手で差し出された杯に溢れる寸前まで透明な酒を注いでやった。
 綱吉は行儀良く正座をして、何故か一礼の末に杯を煽る。あまり目立たない小さな喉仏が上下に揺れて、ひと息で飲み干した赤ら顔はとても幸せそうだ。
 イタリアに拠点を移してから数年が経ち、アルコールを飲む機会もそれなりに多いけれど、彼がこんなにもリラックスしている姿は、随分と久しぶりのような気がした。それもこれも此処が日本で、一緒に居るのがリボーンだけ、という環境の成せる業だろう。
 無邪気に喜ぶ彼の頬を擽り、自分も夕食を再開させようとリボーンは伸びをして自分の杯と箸を取った。即座に綱吉が徳利を抱え、酌をする準備に取り掛かる。
「飯も食えよ」
「食べてるよ」
「あと、飲みすぎだ」
「そんな事は断じてない!」
 そういう奴ほど酔っ払っているのだが、敢えて口には出さずリボーンは綱吉の酌を受け、心地よい温さの酒を喉に流し込んだ。
 綱吉が日本の温泉宿に行きたいと言い出したのは突然で、周囲は一様に驚いた。温泉施設ならばイタリアの、シチリアにだってある。わざわざ時間のかかる東洋の島国まで出向く必要など無いと、誰もが反対した。
 ただイタリアの温泉は基本的に、日本のように入浴を楽しむ場所ではない。大雑把に言ってしまえば、医者の診断書が必要な健康療養施設だ。
 入浴時には水着を着用するような温泉など、ただの温水プール。そう主張して止まず、ついに彼は本当にスケジュールを開けるべく行動を開始してしまった。
 彼が意固地になると誰の意見も耳に貸さないのは、長年行動を共にしている面々は皆知っている。仕方なく獄寺達も綱吉に協力を申し出たが、残念な事に宿はふたりまでしか泊まれないと知って、泣く泣く同行を諦めていた。
 当時のやり取りを思い返し、こみ上げた笑いを零すと、煮えた白菜を齧っていた綱吉が下から見上げる目線を送って来た。
「ふぁに?」
 口の中に物がある時は喋るな、と教わらなかったのだろうか。咀嚼しながら呂律の回りきらぬ発音で問うた彼に肩を竦め、リボーンは湿っている綱吉の髪の毛をわしゃわしゃと掻き回した。
 頬袋を満杯にして、首を窄めて上からの圧力を堪えた彼は、よく噛み砕きもせぬまま白菜を飲み込み、案の定喉に詰まらせて苦しそうに喘いだ。噎せて何度も胸を叩く様を尻目に、リボーンも並べられた大量の料理に箸を伸ばし、端から片付けていく。
 後で食べようと思っていたものを横から攫われ、涙目を拭った綱吉が鼻を膨らませて大声を張り上げた。
「名前でも書いとけ」
 こういうものは早い者勝ちだと言い切り、リボーンは話の矛先をずらそうと徳利を手に取った。
 即座に綱吉が杯を持ち、注がれる液体に目を細める。くいっ、と飲み干してから今度は自分が徳利を構え、早く、と急かして膝立ちになった。
 腰帯が緩み、撓んだ浴衣が右肩からずり落ちる。赤みを帯びた肌が露になって、危うくリボーンは口の中にあったものを噴き出してしまうところだった。
「あ、っと、やば」
 胸元が大きく広がり、スースーすると綱吉が慌てて波打った浴衣を掻き集めた。急いで身繕いを整えようとするが、適度にアルコールが回っている影響だろう、なかなか思うようにいかない。
 帯の下から布を引っ張るが、元から結びが甘かったのか、今度はその帯が弛み始めた。
 益々目も当てられない状況になっていく綱吉を前に、リボーンは始末に終えないと額を手で覆った。
「ツナ」
「ん? ――あいだっ」
 これをわざとやっているのだとしたら、名演技だと褒めてやらなければ。
 あられもない格好の彼を呼び、動きが止まったタイミングを狙ってその細い肩を突き飛ばす。座布団を越えて香りも良い畳に押し倒し、反射的に起き上がろうとした綱吉にリボーンが覆い被さった。
 邪魔になる座布団を膝で払い除け、ついでに綱吉の脚の間に潜り込んで前のめりに屈みこむ。
 無理矢理塞いだ唇から奪い取った呼気は、上質の酒の匂いがした。
「んっ、んむっ……って、こら!」
「五月蝿い。誘ったのはお前だ」
「馬鹿、そン――」
 じたばた暴れ、リボーンを押し退けようと綱吉が抵抗する。だがさほど強くない酒をハイスペースで飲み明かしたのが災いして、全く腕に力が入らない。せいぜい爪で引っ掻くのが関の山だ。
 悔し紛れに睨みつけると、不敵な笑みを浮かべてリボーンは目尻を下げた。
「観念しろ。どうせ誰も来ない」
「この……どスケベ!」
 一日でひと組しか客を取らない宿を選んだのは、他でもない綱吉だ。囁きながらさりげなく太股に手を這わした彼の腹筋を膝で蹴り上げ、綱吉は怒鳴った。
 素早く腰を退いて避けたリボーンが、引っ込められる直前に彼の足首を捕まえてにやりと笑う。
 その不敵な、それでいて心底楽しげな笑みに、一瞬で酔いが冷めた綱吉は温い汗を背中に浮かべ、捲れ上がる浴衣を懸命に両手で押さえつけた。そうやって下半身にばかり注意力が集中している彼を嘲り、がら空きになった上半身にリボーンが顔を寄せる。
 下から唇を舐めた彼は、最後にニコリと悪びれもせずに言った。
「安心しろ。男はみんな、スケベだ」

2009/01/31 脱稿