誤謬

「あー、もう!」
 転び落ちそうになった階段の手摺りにしがみつき、綱吉は脱げ掛けた上履きを下に見て露骨に悪態をついた。
 踵を踏み潰してスリッパ状態にしたのは自分自身なのに、それは棚に上げて、狭い段差の角を滑った元凶を睨みつける。踊り場を回り込んで直ぐだったので、落ちたら怪我をするだけでは済まなかったかもしれない。咄嗟に手摺りを掴めたのは奇跡に近く、一気に跳ね上がった心臓を宥めて彼は深く息を吐いた。
 肩に担いでいた鞄は肘まで落ち、ぶらぶらと当て所なく揺れている。空っぽの弁当箱以外はたいした荷物も入っていないが、何故かそれなりに重いのが不思議だった。
 伸びきった右足を慎重に引っ込め、左に重心を寄せて立つ。廊下の窓から斜めに差し込む夕日に臍を噛んだ彼は、五分もしないうちに脱ぐと分かっている上履きと足の隙間に指を差し入れた。
 踵部分を起こし、形を整えて足を下ろす。反対側も同じ事をして、爪先を立てて具合を確かめれば、サイズはぴったりのはずなのに少し窮屈に感じられた。
「ちぇ」
 ゴム製の靴底は滑り止め機能が強化されているが、踵が浮くようでは効果が無い。分かってはいるのだが、遅刻ぎりぎりの時間に登校するのが日常茶飯事の為、綱吉には靴を履く、というたった数秒でさえ貴重だった。だからついついズボラをしてしまい、結果この有様。
 階段転落の危機は何もこの限りではなく、過去幾度か繰り返されている。都度反省して、数日は改めるのだが、一週間もすればすっかり忘れて元通り。そしてまた同じ失敗を繰り返す。
 学習しないのだな、とリボーンに呆れられるが、性格なのだから仕方が無いと、当の綱吉は諦めを通り越して開き直っていた。
 鞄を担ぎ直し、斜めになったネクタイを調えて深呼吸をひとつ。人気の無い廊下は静かで、誰かに見られなくて良かったと胸を撫で下ろし、彼は気持ちを切り替えて階段を降り始めた。
 今度はゆっくりと、間違っても駆け下りる真似はしない。
 時間をかけて平らな廊下に身を落ち着けて、ホッと息を吐いて顔を上げる。顔に浴びた西日は眩しく、鮮やかな朱色だった。
「早く帰ろ」
 下校時間はとっくに過ぎて、部活動で居残っていた生徒も疎らだ。
 自分に言い聞かせるように呟き、綱吉は下駄箱のある正面玄関に向かって歩き出した。静まり返った空間に、自分の呼吸する音ばかりが耳に届く。照明の電気は消され、窓からの自然光だけが頼りだった。
 それも両側が壁になれば途絶え、周囲が一気に暗くなる。急激な明度の変化に彼は顔を顰め、何度か瞬きを繰り返して瞳孔の大きさを調整した。
 日が沈むのが少しずつ遅くなっているのを感じる。夏場とは比べ物にならないものの、冬至の頃を思えば空はまだまだ明るい。お陰で帰り道の闇にビクビクしなくて済むようになった。だからといって、補習授業が長引くのは遠慮願いたいところだが。
 説教が長い教諭の顔を思い出し、綱吉は疲れたと肩を回して床を蹴った。
 夕焼けが西の空一面に広がっているとはいえ、太陽が沈み始めてから夜闇が町を覆い隠すのにそう時間は掛からない。早く帰るに越した事は無く、彼は背筋を伸ばすと心持ち早足で、静まり返った廊下を急いだ。
「あれ」
 そうしてまだ照明が残されている区画に出て、自分に宛がわれた靴箱に向かおうとした彼だったけれど、居並ぶ下足入れの棚の隙間に見覚えのある人影を見つけ、反射的に足を止めていた。
 瞬間、左に向けた視線を慌てて戻し、彼は素早く下駄箱の陰に隠れて息を止めた。
 そこには人がひとり、立っていた。黒の学生服を肩から羽織り、左袖には臙脂色の腕章を。艶やかな黒髪に、惚れ惚れとする整った容姿をしていながら、内面のどす黒さは人の想像を軽く凌駕する。極悪非道、傲岸不遜の看板を背負い、此処並盛中学を支配している実力者、その名を雲雀恭弥という。
 付け足すなら、今現在爪先立ちで下駄箱の側面に鞄ごと背中を押し付けている沢田綱吉の、恐らくは――恋人。
 断言出来ないのは、未だ綱吉が彼から「好き」のひと言を貰ったことが無いからだ。
 一方的に人を束縛し、好き勝手振り回しているのは雲雀の方なのに、肝心の彼の心は憶測の域を出ないから、始末が悪い。その上、ならば自分はどうなのかと己の心に問いかければ、綱吉本人も首を傾げざるを得ないから、これもまた困る。
 嫌いではない。しかし、好きかと聞かれても即答出来ない。
 長い時間をかけて息を吐き、音もなく踵を下ろした綱吉はこの瞬間、上履きをきちんと履いていて良かったと心の底から思った。
 付き合っているのだから――恋人同士の関係にあるのだから、隠れる必要など何処にもありはしない。むしろ一緒に帰るチャンスではないかと、拍動を強めた心臓を宥め、気を取り直して彼は右手をぐっと握り締めた。
 声をかけて、勇気を出して誘ってみよう。思えば彼との逢瀬はいつだって応接室限定で、並んで歩いた経験は殆どなかった。
 意識した瞬間、胸の高鳴りが止まらない。破裂しそうな鼓動が耳に痛く、自然と頬が火照って顔が赤くなるのが分かる。
 けれど彼は群れるのを嫌うから、断られるかもしれない。その可能性は非常に高くて、やっぱりやめておこう、と弱気になりかけた瞬間、パタン、と下駄箱の閉まる音がした。
 ハッとして、物陰から雲雀を盗み見る。さっき彼は下足入れの扉を開け、中を覗きこんだ状態で停止していた。視線は靴箱の中に固定されており、この段階で彼はまだ綱吉に気付いた様子が無かった。
 再度確認した時、雲雀の手には何かが握られていた。
 照明に背を向けている為、雲雀の顔は影になって表情が良く見えない。綱吉は息を殺し、手にしたものを見詰めていると思しき雲雀を窺った。
「なんだろ」
 小声で疑問を呟き、頬を冷たい靴箱に押し付ける。この距離からだと、どう足掻いてもはっきり見えない。だが、表裏を確かめるべく手首を捻った雲雀の動作から、手紙だというのは推察できた。
 下駄箱に、手紙。
 綱吉の小さな心臓が、ドキン、と大きな音を立てた。
 外に漏れてしまうのではないかと怖くなり、綱吉は慌てて左胸を手で押さえた。即座に首を戻し、今し方自分が見た光景を頭の中で再生させる。
 雲雀の下駄箱に入っていたのは、封筒。中身など当然分かるわけがないが、通常考えられるものは――
「そんな」
 ドドド、と怒涛の勢いで全身に血液が駆け巡っている。綱吉は目を疑い、あまりに五月蝿い心音に堪えきれず両耳を塞いだ。生温い唾を飲み、奥歯を噛み締める。
 雲雀はその性格の凶悪さ故に、大勢から怖がられ、嫌われている。しかし見目麗しいのは確かで、女子の間でもそのワイルドさが格好良いと評する声がちらほらと聞かれた。
 彼自身はあまり他人に興味が無い様子で、むしろ綱吉に執着するのが不思議なくらいだった。さして強くもなく、貧弱で、頭も悪くて、なにより彼と同じ――男相手に。
 膝が笑って、力が入らない。綱吉は重力に引っ張られるまま、ずるずると下駄箱に添って身を沈めた。
 斜めになった背中に鞄が引っかかり、弛んだ制服の襟が顔の下半分を覆い隠す。血の気の引いた唇を震わせ、彼は長い黒髪の女性と並んで歩く雲雀の後姿を想像した。
 少なくとも綱吉と並ぶより、ずっと絵になる光景だった。
 鼻の奥がツンとする。息が苦しくて、綱吉は涙を堪えて喘いだ。
 カツン、という音がして、呆けていた頭を急ぎ持ち上げ、彼は低い位置から顔を出した。綱吉に背を向けた雲雀が、外に向かって歩いて行く。その手には先ほどの封筒と、中から取り出したと見られる便箋が握られていた。
「え――」
 彼の性格からして、てっきり無視するとばかり思っていた。だが綱吉の予想を裏切り、雲雀は黒のローファーでコンクリートを削り外へ出ていった。正門へは向かわず、即座に左に曲がって綱吉の視界から姿を消す。
急いで壁に手を押し当てて立ち上がり、彼は下駄箱の陰から出た。誰も居なくなった正面玄関を呆然と見詰め、ハッと息を呑む。
 綱吉は即座に自分の下足入れに走り、騒音を撒き散らして靴を履き替えた。草臥れたスニーカーに爪先を押し込んで、解けかけている靴紐もそのままに、転げるように校舎を飛び出す。そうして雲雀が消えた方角に首を向け、不安げに瞳を揺らした。
 行き先などまるで想像がつかない、だがこういう場合は大抵、人も滅多に来ない校舎裏と決まっている。綱吉は中学校の大まかな配置図を頭に浮かべ、走った。
「どこ。どこ……いたっ」
 嘘だと思いたい、何かの間違いだと思いたい。けれどこれまでのはっきりしない雲雀の態度が、綱吉の不安を増幅させた。
 息せき切らせ、肩を上下させてやっと追いついた背中に息を弾ませる。特別校舎棟の角を曲がろうとしている姿を見つけ、綱吉は上気した頬を膨らませた。
 足音を立てないように注意深く近付く。盗み聞きは良くないと分かっていても、どうしても止められなかった。
「やあ、待たせてしまったね」
 地面を擦った左足が、小石を撥ねて停止した。聞こえて来た雲雀の声に、校舎の壁に張り付いて立っていた綱吉は硬直した。
 心持ち嬉しそうな、笑っている雲雀の顔が即座に浮かび上がる。自分にだって滅多にそんな声を聞かせないくせに、彼はあの手紙の主には心を許しているとでも言うのか。
 瞳を泳がせ、綱吉は指先を痙攣させた。もうそれ以上進めなくて、荒い呼吸を繰り返して耳に意識を集中させる。
 いったい誰なのだろう、相手の声は聞こえない。
「まさか君から声をかけてくれるなんてね」
 喉を鳴らし、雲雀が笑う。瞬間、ゾッとする寒気に襲われて綱吉は呼吸を止めた。血の気が引き、青褪めた顔で落ち着き無く琥珀の瞳を動かす。校舎裏の殺風景な空間は、綱吉の心を孤独にした。
 ふらりと前に体を傾がせ、倒れそうになったのをすんでで堪える。踏み出した左足を見詰める綱吉の耳に、更にもうひと言、雲雀の声が響いた。
「嬉しいよ」
 目の前が歪む。世界が歪む。
 限界まで見開かれた綱吉の瞳に、透明な涙が滲んだ。
 雲雀は自分を好きではなかったのか。それとも、綱吉が逐一大袈裟に反応するのが面白いから、からかって遊んでいただけなのか。本当に好きな人は別に居て、綱吉は本命を手に入れるまでの間繋ぎだったのか。
「そんな」
 声が掠れる、音になっているかどうかさえ分からなくて彼はかぶりを振った。
 涙が止まらない。泣きたくないのに、後から後から溢れて来る。
 嗚咽を噛み殺し、綱吉は熱を帯びた頬を両手で覆った。悔しくて、哀しくて、寂しくて、切なくて、心臓が張り裂けそうなくらいに痛くて、苦しい。
「君とは一度、ゆっくり楽しみたいと思ってたんだ」
 雲雀の声は続いている。聞きたくなくて、綱吉は鼻を大きく啜って口から息を吐いた。
「いや、だ」
 寒気を訴える体を抱き締め、震える声で呟く。噛み締めすぎた唇は感覚が遠くなって、瞼を閉じれば浮かぶのは知らない誰かと楽しげに笑う雲雀の姿。
 手を繋いで、肩を並べて、綱吉を置いて行ってしまう。どんなに手を伸ばしても、走って追いかけても、距離は開く一方で届かない。
「そんなの、やだ」
 今になって気付くなんて、どうかしている。いつの間にかこんなにも、雲雀の事が好きになっていたなんて。
 気付いてしまった以上、彼が自分を捨てて違う誰かを選ぶのは耐えられない。
「やだ……」
 魂が震える。短くも長い人生の中で一番恐ろしい出来事を前に、堪えきれず綱吉は隠れていた建物の影から身を躍らせた。
 許さない、雲雀を誘惑するなんて。あの人は自分の、自分だけのものだ。
 渡さない。譲らない。絶対に。
 だから――
「ヒバリさんに手を出すなっ!」
 声を張り上げ、綱吉は其処に居る男達に吼えた。
「……はぁ?」
 唐突に沸いて出た彼の姿に、雲雀を取り囲んでいた十人ばかりの男子生徒は、一様に変な顔をした。
 トンファーを構えていた雲雀もまた、急に横から飛び出して来た綱吉に目を丸くしていた。
「つなよし?」
「え?」
 きょとんとしたまま名を呼ばれ、綱吉もまた予想していたのと随分違う状況に困惑し、内股気味に立ちつくした。
 校舎裏にいたのは黒髪の美少女でもなければ、婀娜な女性でもない。特にガラが悪いと評判の、風紀委員に敵対する不良集団だった。
「あ、あれ?」
 挙動不審に首を振り、助けを求めて綱吉が雲雀を見る。しかし見られた方も、まさか彼が乱入してくるとは思っておらず、唖然とした表情を浮かべるばかり。
 両者が答えに窮する中、先に我に返ったのは不良グループの先頭に居た男だった。
 警察沙汰の事件を起こして停学処分を受け、最近復学したばかりの男が凄みを利かせ、雲雀ではなく綱吉に向かい、邪魔をするなと声を荒げる。免疫の無い綱吉は途端に竦みあがり、雲雀が素早く動いて彼を背中に庇った。
「なにしてるの、君」
 ちらりと後ろを窺い見て、問うのも忘れない。早口に聞かれ、綱吉は答えに困って涙の止まった瞳を泳がせた。
 勝手に勘違いをして、先走ったとは恥かしくて言えない。口篭もった彼に雲雀は肩を竦め、嘆息した。
「まあ、いいよ。先に掃除を済ませる」

「それで?」
 ものの見事に不良たちを五分で地面に沈め終えた雲雀は、腰を抜かして立てなくなった綱吉を抱えて応接室に戻った。
 ソファに座らせ、テーブルを挟んで向かい側に腰を下ろす。綱吉は揃えた膝をもじもじさせて、説明を求める雲雀を上目遣いに見詰めた。
「えっと……」
「不良退治に参加しようとした、ってわけじゃなさそうだったけど?」
 飛び出した直後の綱吉の反応、及び雲雀が格闘している最中に頭を抱えてしゃがみ込んでいたところからして、彼が雲雀に味方して乱戦に混ざろうとしていたのではないと容易に想像出来る。ならばいったい、どういう理由があって、あんな危険な場に割り込んできたのか。
 厳しい口調の雲雀に、綱吉は頻りに手を弄って視線を泳がせる。言うのは恥かしいが、言わなければ解放して貰えそうにもなくて、既に日が沈んで暗くなっている空を窓越しに見やり、背中を丸めた。
「だから、その。ヒバリさん、が。手紙を」
「手紙?」
「靴箱の」
「ああ、果たし状ね」
 不良たちが雲雀を呼び出すのに使った古典的な方法を、遠目かつ暗い中で見た綱吉は、勝手にそれをラブレターだと決めつけた。誤解して、勘違いしたまま突っ走った結果は、言うまでも無い。
 言葉少なな説明を独自に解釈し、雲雀は最後、呆れたと深い溜息を吐いた。
「僕が他の女に気を許すなんて、本気でそう思ったの?」
「だって! だって……」
 ソファに深く背中を預けた雲雀が前髪を掻き上げて聞き返すが、そもそも彼が煮え切らない態度を見せるから、綱吉だって不安になるのだ。握り拳を胸の前で上下に振り、懸命に訴えて綱吉は琥珀を涙で濡らした。
 下を向き、膝を抱えて踵をソファに押し上げる。丸くなった彼に、雲雀はもうひとつ溜息を零して立ちあがった。
 足音を響かせてテーブルを回り込み、狭い空間に体を捻じ込んで膝を折る。綱吉を下から見上げる姿勢を作り、彼は両手を伸ばした。
 迫る気配に綱吉が視線を浮かせる。耳ごと柔らかな蜂蜜色の髪を包み込んだ雲雀は、緩い力で彼の顔を上げさせた。
 至近距離で自分を見詰める黒水晶の瞳は、微かに笑みを湛えていた。
「ヒバリさ……ンっ」
 何故笑うのか。問おうと口を開いた瞬間、綱吉の目の前は瞼を開いたままに関わらず真っ暗になった。
 吐き出そうとしていた空気が咥内に戻って来て、耳朶を包んでいた手が頬に滑り落ちてくる。まだ残る涙の跡を拭い取り、雲雀は惚けている綱吉に淡く微笑んだ。
 自分の身に何が起きたのか、未だ理解が追いつかなくて綱吉は呆然と雲雀の、とても近い場所にある冴えた瞳を見詰めた。
「え……?」
「まだ不安?」
 キスを。
 したのだと。
 雲雀の低い声を聞いてやっと気付いて、綱吉はその場で飛びあがった。
「ひゃ、う、わ、ひぇ!」
 一瞬過ぎて、わけが分からなかった。ぐるぐると目を回して動揺を表現する彼の素っ頓狂な声を聞き、雲雀はまた笑って目尻に残る涙の雫を舐め取った。
 柔らかい生暖かな感触に背筋を粟立て、綱吉はまだ頬に残る雲雀の手を握り返した。
「綱吉」
 名前を呼ぶ声が優しい。彼が自分を呼ぶ時はいつもこの声だったと思い出して、綱吉は赤い顔を伏した。
 胸の中が熱い。心臓が今にも破れてしまいそうなくらい、ドキドキと五月蠅くて仕方がなかった。
「……も、いっかい」
「うん?」
「キス」
 蚊の鳴くような声でそう強請れば、ちゃんと聞き取った雲雀は嬉しげに相好を崩した。
 人生二度目のくちづけは、少し涙の味がして、しょっぱくて、甘かった。

2009/01/26 脱稿