遠く、遥か眼下に葬送の長い列が続いている。
一列を成した村人の面持ちはいずれも重く、暗く沈み、明日への希望さえ抱けずに、ただ己の足元ばかりを見据えていた。
破壊された門を背に立ち、薄く棚引く煙の行く先を追って顔を上げた山本は、憎らしいくらいに晴れ渡る秋の空を睨んで小さく首を振った。
「ちょっと前は、あれが祭りの列だったのにな」
「獄寺」
からん、と木片の石畳を転がる音がして、振り向けば獄寺が山積みのまま放置されている瓦礫を乗り越え、近付いてくるところだった。
墨色の胴衣に同色の野袴を身に着け、邪魔になる袖は襷で縛って両腕はむき出しにしている。指先までが真っ黒に染まっているのは、この壊れた門の片付けの最中だからだ。
山本もまた、彼と似たり寄ったりの格好をしていた。
千種や犬によって負わされた傷は、完全に癒えていた。いや、癒されたと言うのが正解だろう。
あの日、あの夜。
空を舞う龍によって地上に降った慈雨は、傷ついた村人の身体にも染み渡り、致命傷になり得た怪我さえも悉く消し去ってしまった。ただ、既に事切れていた人間には効果が無くて、故に被災者が皆無だったわけではない。
焼け焦げた大地に、崩れ落ちた家屋。収穫前の稲田はほぼ全滅で、この冬をどうやって越すかが最たる難題として並盛村の行く末に横たわっている。
家を失った人への補償さえも、どこに求めればいいのか解らない。
旅芸人の四人は、夜が明ける前に揃って姿を消した。今や村人の殆どが、あの大火の犯人は彼らだと決め付けている。その事実は、獄寺も山本も否定しない。
では彼らは、いったい何処へ行ってしまったのか。そもそもなぜ、一介の旅芸人でしかない彼らが村を襲ったのか。詳しい事情と顛末は、恐らく村人は永遠に知ることはないだろう。
主犯格である六道骸の身柄は、ディーノ預かりとなった。残る三名は、霊水の雨を浴びて他の村人同様傷を癒し、気力を取り戻して逃げ遂せようとしたところを、闖入者によって捕縛され、そのまま連行されてしまった。
その手際のよさと、雲雀を苦戦させたあのランチアさえも、易々と打ちのめしてしまった実力。獄寺も山本も、本物を目の当たりにするのは初めてであったが、存在は耳にしていただけに、男等の正体は直ぐに見抜く事が出来た。
退魔師筆頭格の蛤蜊家専属の、特殊暗殺部隊。切れ者の実力者ばかりを集め、蛤蜊家に歯向かう退魔師崩れや規約違反者を討伐するのを目的として結成された戦闘特化集団の一員だ。現れたのはふたりで、長い銀髪の青年と、目元まで覆う金髪の青年だった。
彼らは有無を言わせず、間に割り込んだ山本や獄寺さえも一蹴して、三人を連れ去った。その後、千種たちがどうなったかは、一切知らされていない。蛤蜊家からも、何の連絡もない。
或いは、彼らは知っていたのだろうか。六道骸が退魔師殺しの首謀者であり、綱吉を狙っていたという事実を。此処並盛が襲われ、無関係な人々が巻き込まれる可能性があるという事も。
知っていながら看過し、全てが終わった頃にのこのこと現れて、美味しいところだけを攫っていく。漁夫の利を得た彼らを責めるつもりはないが、あれから数日が過ぎた今も釈然としなくて、山本は握った拳で何も無い空中を殴り飛ばした。
「ツナは」
「御山の結界の修復に回ってらっしゃる」
「そっか」
あの夜を境に、夏は終わりを告げ、駆け足で秋がやって来た。暑さは和らぎ、風は少し冷たくなった。
そして、綱吉は笑わなくなった。
誰の胸にもぽっかりと穴が開いてしまった。家族を、友人を亡くした人は勿論のこと、獄寺や山本、なにより綱吉の胸にも。
人がひとり居なくなるだけで、こんなにも身の回りのことが変わってしまうのかと、嫌になるくらいに驚かされた。いつも何気なく見過ごしていたことが、実はあの男の日課に支えられていたと気付くのにも、そう時間はかからなかった。
自分が後継者を買って出ようとしても、つい面倒になって次の日には忘れてしまう。庭木の剪定も、壊れた桶や樽の修繕も、道場の床磨きも。毎日の水汲み、畑の害虫駆除と雑草抜きや間引き、並盛神社への寄進の受付等など。
挙げればそれこそきりがないくらいで、それを彼がひとりで、平然とやってのけていたのかと思うと、今更ながらにその偉大さと、存在の重さを痛感させられた。
嫌いだ、いなくなってしまえばいい。そう思った日もある。憎々しく思い、彼の邪魔をして手痛いしっぺ返しを食らったことも、一度や二度ではない。
十代目の右腕になる、綱吉は俺が守ると、偉そうな事を言ってはいたが、いざその日が来てみると、己の存在はあまりにも小さくて、愚かしくてならなかった。自分たちは彼の足元にも及ばなかったのだと教えられて、萎縮するばかりだ。
「なんだかな」
村の景色は一変し、元に戻るには相当の時間がかかりそうだった。
葬送の列はゆっくりと北西へ進んで行く。風は無く、気候は嫌になるくらい穏やかだ。
「俺、十代目になんと声をかければいいのか」
「そんなの、俺だってわかんねーよ」
綱吉は過去に手放した力を取り戻し、綱吉によって地上に縛られていた雲雀は、天空の彼方へと消え去った。以来、村に戻らない。
あの綱吉が、望んで雲雀を解放するとは思えない。あの雲雀が、綱吉を置き去りにしていなくなるわけがない。
だのに現実は、その真逆を行く。
綱吉は多くを語ろうとしない。彼が思い出す事で一層深く傷つくのを恐れて、山本たちも何も聞かなかった。
これまでと同じように、朝目覚め、食事をして、片付けや神事に勤しみ、鍛錬を積み、陽が暮れる頃に食事をして、寝床に就く。代わり映えのしない普遍的な日常なのに、たったひとり足りないだけで、こうも世界から色は消えてしまうものなのか。
「なんか、……つまんねぇな」
張り合う相手がいなくて、面白くない。ぼそりと獄寺が零し、足元の小石を蹴り飛ばした。
瓦礫が幅を利かせる中を舞い上がったそれは、弧を描いて空を走り、枯れ枝の目立つ樹林に消えていった。
「そうだな」
相槌を打ち、山本もまた転がっていた掌大の木片を握って手の中で遊ばせた。そしてやおら、振りかぶって遠く目掛けて放り投げる。
小石よりも遠くに飛んでいったそれの行方を追いかけて背伸びをした山本は、幾許か気分がすっきりしたと腰に手をあて、胸を反らして溜飲を下げた。
「勝ち逃げされるってのは、癪だよなあ」
雲雀から直接後を任された山本であるけれど、残念ながら願い下げだと首を振った。
出来ると思っているのか、そんな大役。とてもではないが荷が重過ぎて勤まらないと、落ち込んでいる綱吉を思い返して彼は乾いた唇を舐めた。
譲られた椅子になど座りたくない。その場所は、奪い取ってこそ価値があるのだから。
だったら、今自分に出来ることはなんだ。
「なあ、獄寺」
空高く、鳶が風に乗って滑るように東を目指して飛んでいく。葬送の列は山の陰に入ってしまい、もう見えない。
「ん?」
「後で組み手に付き合ってくれねーか。身体が鈍っちまう」
今までは雲雀が、彼の相手を務めていた。ディーノも何処かに去ってしまった今、山本と真剣勝負が出来る相手は獄寺くらいしか残されていない。
にこやかな笑顔で振り向きざまに言われ、獄寺は一瞬嫌そうに顔を顰めた。
肉弾戦を不得手とし、中距離攻撃に特化している獄寺は、接近戦専門の山本と模擬実戦をやったところで、殆ど勝負にならない。距離が取れれば獄寺が有利だが、懐に入られた途端一気に形勢が逆転する。
千種相手に苦戦を強いられたのを思い出し、苦いものを舌に感じた彼は、数秒の逡巡の末、険しい目つきで山本を睨んだ。
「いいぜ。相手になってやる」
苦手だからと避けて通っていたら、いつまで経っても苦手なまま。それでは駄目なのだ。
綱吉を守るには、もっと、今よりもっと強くならなければ。
自分たちは弱い。世間知らずで、実戦経験に乏しく、不測の事態に即座に対応出来る技量も持ち合わせていない。息がっていても、結局はまだ十四になったばかりの子供でしかない。
強くなりたい。
強く在りたい。
雲雀に負けないくらい――彼の足を引っ張らないくらいの、力が欲しい。
いつもなら断る申し出に頷き返し、獄寺は後方の山を仰ぎ見た。緑濃い並盛山の周囲で、虹色の光がきらきらと舞っている。
「そんじゃあ、いっちょまあ、気合い入れてやりますか」
彼と同じものを見上げて微笑んだ山本は、中断していた片付け作業に戻るべく、わざとらしい大声をあげた。
「よっ」
薄く赤く色付いた葉が宿主であった枝に別れを告げ、手を振りながら地上へと舞い落ちる。頬を撫でる風の気配を感じて視線を右に泳がせた綱吉は、瞬きにも満たない短時間のうちに、去り行く葉の向こう側に現れた青年に目を見張り、緊張で身を硬くした。
目の醒めるような鮮やかな金髪に、茶系色の多い中で非常に目立つ緋色の打掛。透き通るように白い肌をして、瞳は秋の空を思わせる淡い蒼。
涼やかな笑みを口元に浮かべ、旧知の仲の友人に送ると同じ挨拶を向けた青年に、綱吉はいぶかしみ、微かな恐怖と共に尻込みした。
前を向いたまま後退しようと踵を浮かせ、警戒感を露にしている彼を見て、ディーノは顔の横に掲げていた手を下ろした。斜めになっている打掛の衿を緩く握り、困ったような、哀しげな、感情が読み取りきれない曖昧な表情を浮かべた。
「……すまなかった」
まだちゃんと謝っていなかったのを思い出し、気まずげに目を逸らして短く呟く。
風に攫われてしまいそうなくらいにか細い、掠れた声からは、数多の後悔が滲み出ていた。己の身を抱いて逃げの体勢に入っていた綱吉は、自分を見ようとしないディーノの、心底辛そうな横顔を探るようにじっと見詰めた。
時折こちらの様子を窺って瞳だけを動かしては、目が合いそうになると寸前で元に戻してしまう。綱吉の反応に怯え、怖がっている雰囲気が感じられて、まるで叱られるのを待っている子供みたいだと、彼は心の中だけで嘆息した。
ディーノは何百年という、数え切れない程の歳月を過ごして来ているはずなのに、たった十四年しか生きていない綱吉よりも小さく見えて、不思議だった。それだけ彼の想いが強く、大きく、深い――本物だったのだろうと、今なら分かる気がした。
「俺は、……あの人じゃないよ」
「分かってる」
気持ちをすり替えて、自分を身代わりにしようとしていたのなら、許せない。俯いた綱吉の言葉に、ディーノは低い声で返し、顔を上げた。
「分かってる。お前と、あいつとは全然、違う」
「うん」
「俺は、お前が好きだよ」
「あの人は?」
「好きだよ。あいつも、お前も。……都合よすぎるかな」
一歩前に出たディーノのことばに、綱吉は静かに首を横に振った。
過去に大切だった人との記憶は、思い出は、想いは、簡単に消えたりはしない。綱吉だってそうだ。納得が行かなくて、まだ踏ん切りがつかなくて、気持ちの整理がついていない。
ディーノは、ひとりの人を好きになって、大切に思うようになって、失う悲しみを知って、今のディーノになったのだ。ディーノの中にある想い自体を否定してしまっては、彼の存在そのものを否定することになってしまう。
「俺も、ひどいこと言ったよね」
ごめんなさいと、そう呟けば、ディーノが表情を消して首を振った。
「お前は何も悪くないさ」
「けど」
「あいつも、お前が違う存在だってちゃんと分かっていれば、良かったのにな」
そうすればこんなことにはならなかったのだ。
ディーノの言う「あいつ」が誰を指すのか、綱吉は即座に理解し、コクンと頷いた。
彼と同じように、綱吉を別の存在にすり替え、置き換え、身代わりに求めた哀れな男が居た。二百年近い昔の妄執に囚われ、己を見失い、道を踏み外した馬鹿な奴がいた。
「あいつ、は?」
「死んではない。二度とお前に会うこともないだろ」
恐る恐る問いかけた綱吉に、ディーノは木々の間から覗く狭い空を見上げて言った。
打掛の内側で肘を広げ、丸めた拳を縹色の帯に押し当てる。木蘭色の長着が視界に広がって、開き気味の衿元から覗く鍛えられた骨格に、綱吉は此処に居ない人を思い浮かべ、臍を噛んだ。
骸のことを教えられているはずなのに、違う人の事を言われた気がして、哀しくなる。唇を咥内に巻き込んで牙を立てた彼の変化をつぶさに感じ取り、ディーノは垂れ下がり気味の目を眇めた。
聞けばいいのに、聞かないのだ、この子は。
雲雀がどうなったか。今どこにいて、何をして、どんな風に過ごしているのか。元気でいるか、誰かと喧嘩をして騒動を起こしていないか。退屈していないか、ちゃんと食べているのか。
自分を思い出してくれているのか。
気になることは山ほどあるだろうに、言えば止まらなくなってしまうと分かっているから、敢えて口に出さない。話題に出そうともしない。苦しいだろうに、辛いだろうに、他人に気持ちをぶつけて発奮させずに、自分の中だけで片付けようとして。
肩を小刻みに震わせる綱吉を見詰め、ディーノは再び空を仰いだ。白い雲が青い空を、西から東へ渡っていくところだった。
「結界、安定してきたな」
わざとらしく話題を逸らし、ディーノが言ったのは、陽射しが遮られる瞬間に虹色の輝きが天を走ったからだ。
骸によって徹底的に破壊された、並盛山の結界。頂上付近の、最も厳重に守られた場所はどうにか無事だったけれど、山全体を覆っていた二重の結界は悉く打ち破られてしまった。
リボーンがその夜のうちに、簡易的に補修してくれたので、大事には至らなかったけれど、そのままでは不安定だし、リボーンも身動きが取れない。結界の強化、再構築は急務で、綱吉は日々その作業に追われていた。
並盛山の霊力に惹かれて集まっていた魑魅魍魎は、山に近付く前に火烏の炎に焼かれてその大半が滅していた。もっともそれは偶然がもたらしたものであり、彼がそうしようとして、事を起こしたのではないのは明白だ。それに、雑魚妖怪や邪霊などよりも、火烏が撒き散らした瘴気の方が、よっぽど山に悪影響を与えてくれている。
そちらは雲雀の招いた慈雨によって大半が洗い流され、浄化された後だが、洞窟や岩場の隙間に潜り込んでしまった分はまだ消えていないので、当分綱吉は忙しい。
「リボーンも、手伝ってくれてるから」
自分ひとりではこうはいかなかったと、まだまだ術の扱いは不慣れなのを認め、綱吉は照れ臭そうに頭を掻いた。
目を凝らせば、きらきらと目映い光が綱吉の周囲を舞っている。滲み出た不可視の霊力に陽光が当たって、跳ね返っているのだ。
妖が見えない人でも、今の綱吉に会えば、彼が妙に輝いているように感じられるだろう。かつて、綱吉がまだ神童と呼ばれていた頃のように。
両手の前で指を絡め、もじもじと弄り回す綱吉が、柔らかく吹きぬけていく風に襟足を擽られて身を捩った。右手を首に回し、四方八方を向いて跳ねている髪の毛を押さえ込む。
「凄かったんだな、ヒバリさんって」
ぽつりと呟き、彼は手をそのままに下を向いた。
「結界って、凄く難しいんですね。しかも山全体にだから、大変だし。俺なんか、全然駄目で、リボーンに叱られてばっかり。でもヒバリさんは、ひとりでやってたんだよね。なんでもないことみたいに、誰にでも出来るみたいに、簡単にやってのけてた。結界だけじゃないよ。神社のお仕事、俺、なにがなんだかさっぱりわかんなくて、凄く困った。誰に聞いて良いのかちっとも分かんなくて、村の人だって大変なのに、いっぱい迷惑かけちゃった。俺、馬鹿だから、頭悪いから、なに言われてるのかもさっぱり分かんなくて、何回も聞き返して、そしたら、ヒバリさんは何処に行ったんだって聞かれて、答えられなかった。ヒバリさんが居れば分かるのにって言われて、そうですねって頷いて、でもヒバリさんはもういなくて。居なくて。ずっと探してるのに、探してもどこにもいないんだ!」
喋っているうちに感情が昂ぶったのか、拳を震わせた綱吉がぼろぼろと大粒の涙を零して素足の爪先を濡らし始めた。噛み締めた唇から漏れる声は喉を引き裂かんばかりの嗚咽で、聞くものの魂を揺さぶる慟哭にディーノは瞳を伏し、項垂れた。
堪えきれなくなった感情が堰を壊し、溢れ出して止まらない。両手で顔を覆った綱吉は必死に泣くまいと首を振るけれど、悲鳴をあげる心はとうに限界に達しようとしていた。
「いない……いないんだ。どこを探しても、ヒバリさんが見付からない」
冷たいままの布団、ディーノがひっくり返したまま片付けられてもいない箪笥。薄く埃が積もっていく座卓、棚から出されることのない雲雀専用の膳。
薪の減りは早いのに、補充がされないので近いうちに底をついてしまう。骸が結界と一緒に壊した門の片付けは、いつまで経っても終わる気配がない。
終わらせられなかった祭の儀式、それを今後どうするかの集まりで、綱吉は年寄りから手際の悪さを責められた。家光が、雲雀が居てくれたなら、という言葉を何度も聞かされた。死者の弔いにも奔走させられ、休む暇がない。
こうして深い森の中でひとり、雲雀の足跡を辿りながら過ごす時が、唯一の安らぎだった。
だけれどそれさえ、ディーノの来訪で崩れてしまった。
「ヒバリさんに会いたい、会いたい。だけどどんなに探しても、見付からないんだ。居ないんだ。呼んでるのに、応えてくれない。俺の声が、ヒバリさんに届かない。ヒバリさんの声が聞こえない。約束したのに。帰って来るって、ずっと俺の傍に居るって、約束したのに!」
かぶりを振った綱吉が涙ながらに訴えても、ディーノは答えてやれない。申し訳なさそうに唇を噛み、他所を向いて無言を貫くばかりだ。
小さい頃から一緒だった。綱吉が泣けば抱き締めてくれて、綱吉が笑えば嬉しそうに微笑んでくれた。綱吉が転べば手を差し伸べて、綱吉が遅れれば立ち止まって振り返る。いつだって、どこに行く時だって、雲雀は綱吉の隣に居た。
離れていても心は繋がっていた。呼びかければ声は返ってきた。綱吉の中には雲雀が居て、雲雀の中には綱吉がいる。それが当たり前で、なんの疑問も抱くことなく、永遠にこの関係が続くものだと信じていた。
心の中が空っぽになってしまった。
「いやだ、やだ……やだよ。こんなの、やだ」
小さい子供が駄々を捏ねるみたいに首を振り、綱吉はしゃくりをあげて泣きじゃくった。
雲雀に会いたい。それさえ叶えば他に何も要らないのに、祈りは届かない。
「ヒバリさんに会いたい。会いたいよ。御願いだから返して。ヒバリさんを返して!」
「……悪い」
「謝らないでよ!」
小声で謝罪を繰り返すディーノに癇癪をぶつけ、綱吉は涙で潤んだ琥珀をいっぱいに広げて彼を睨んだ。
肩を突っ張らせ、両腕は真下に向けて長着を握り締める。太股の位置で布が皺を刻み、その分持ち上がった裾から、あちこち歩き回っていたからだろう、擦り傷と土汚れの目立つ白い臑が顔を覗かせた。
華奢で、脆弱で、簡単に折れてしまいそうな脚だ。それと同じくらい、綱吉の心も痩せ細り、ぽきりと真ん中で砕ける寸前まで来ていた。
今の今まで彼が気丈に振舞ってこられたのは、山を守り、里を守る御役目があったからに他ならない。
「すまない」
「そんな言葉、いらない」
口だけの謝罪なら、欲しくない。そんなことばを貰ったところで、状況は何も変わらないのだ。
ただの八つ当たりだというのは、本人だって分かっている。ディーノが綱吉に対して負い目を感じて、強く咎めないと分かっているから、彼の優しさに甘えているだけだ。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、綱吉は長着の袖で乱雑に拭った。朽葉色の布が水気を吸って色を濃くして、少しだけ重くなった袂が頼りなく揺れ動く。後から、後から溢れて止まらない涙をついに諦め、綱吉は顎を前に突き出して上唇を噛み、浅い呼吸を繰り返して木漏れ日から逃げた。
後ろへふらつき、倒れそうになった彼の身体を支えたのは、其処に生えていたまだ数年の若い木だった。
「ツナ」
反射的に手を伸ばして、触れる直前で思い留まったディーノは腕を戻した。肩から木にぶつかり、斜めになった姿勢を右手で押し返して真っ直ぐに戻した綱吉が、ざらついた表皮の幹に額を押し当てて表情を彼から隠した。
日に透かせば黄金色にも見える髪も、日陰に立っている所為か今はくすんで見えた。
「馬鹿ツナ、此処に居たか」
「リボーン」
一頻りディーノに当り散らしたからか、急に生命力を減退させた綱吉に眉を寄せていたディーノは、不意に斜め上から降って来た第三者の声に驚き、半歩後退した。
がさがさと木の葉を掻き分けて現れた黄色い頭巾の赤ん坊が、ふたりの丁度中間に着地してちらりとディーノを見る。しかし直ぐに興味を失い、若木に凭れかかって苦しそうにしている綱吉の脛を蹴った。
「おい、リボーン」
「分かってんだろうな、明日の魂鎮の儀。ちゃんと禊は済ませておけよ」
乱暴な彼に険しい声をあげたディーノだったが、無視して続けられたリボーンの言葉に彼は目を見開き、表情から色を消した。
顔色を悪くした綱吉が足元を見て、厳しい表情をしている赤ん坊に力なく頷いた。分かった、と音にはせずに、唇の動きだけで承諾の旨を告げる。
魂鎮の儀とは、精霊会の最後を締めくくる、地上に跋扈する魑魅魍魎や行く先に迷う哀れな魂を清め、鎮め、導く大切な儀式だ。骸の一件で本来予定していた日に執り行うことが出来なくなった為、日を改めるという話は聞き及んでいた。
だが、今の綱吉の状態を見る限り、とてもではないが最後まで遣り通せるとは思えない。
「待て、リボーン。それって延期出来ないのか」
綱吉の呼吸が荒く、肌は血の気を失って優れない。あの晩を境にして、彼は一気に痩せ細った。
「これ以上先送りにすれば、地上への影響が出てくる。そうでなくとも、瘴気がまだ残っている所為で、山はうるせーことになってんだ。まとめて浄化しちまわねーと」
「そりゃ、分かるけど」
「ツナ、出来るな」
しつこく食い下がるディーノを一蹴し、リボーンは項垂れたままでいる綱吉に言った。
「うん」
今度はしっかりと声に出して頷いた彼の顔色は、依然悪いままだ。やつれていると表現するのが、最も的確だろう。
彼の返事を受けてリボーンは険しかった表情をいくらか緩め、そうか、と相槌を打って愛用の頭巾を目深に被り直した。裾からはみ出る黒髪が棘のようで、何故か突き刺されそうな恐怖心を抱いたディーノは、無意識に彼から距離を取った。
「じゃあ、俺、禊小屋に籠もるから」
奈々たちにはそう伝えてくれとリボーンに依頼し、綱吉は身を預けていた木を両手で押した。無論深く根を下ろす木が倒れるはずが無く、綱吉の華奢な体が反対側に泳ぐ。歩き出した彼を目で追ったディーノは、リボーンが音もなく煙となって消えるのを視界の隅で捕らえると同時に、手を伸ばした。
今度こそ綱吉を捕まえて、振り向かせる。
「ツナ、お前」
涙が残る琥珀の瞳からは、霊気を殆ど感じない。
いや、瞳だけではない。綱吉の周囲に漂う光の粒子は、本来彼が持つべき量に遠く及ばず、握り締めた手首は枯れ枝に等しい細さしかなかった。
生命を維持するための霊気――神気が、絶対的に足りていない。
「お前、食ってないのか」
それは、今までは雲雀が、綱吉に与えて来たもの。蛟を封印した際に雲雀と魂の一部が混ざり合い、人としての存在が変容してしまった綱吉は、以後彼と同様に、食物から栄養分を摂取することが出来なくなった。
日常生活で一切ものを口にしないというのは、周囲からは奇異な目の対象になるのと、家光不在の際に奈々がひとりきりで食事をせねばならなくなる為、綱吉も雲雀も、囲炉裏を囲んで一日二回、箸を持つ習慣を持っている。だが幾ら食べたところで、彼らの身体に養分は全く行き渡らない。
彼らに必要なのは、大気中に満ちる霊気。密度が濃く、純度が高く、より清涼な神気だった。
幸いにも並盛山には神気が溢れていた。雲雀はそれを集めて一旦自分に取り込み、自力で確保できない綱吉に分け与えることで、彼の心臓の動きを助けていた。
雲雀が、綱吉の封印によって蛟を押さえ込み、龍となって以後は人の姿を保っていたように、綱吉は雲雀の補助があって初めて生き長らえることが出来ていた。ふたりは運命共同体であり、どちらかが欠けても存在できない状況にあった。
だが今は、綱吉は雲雀に委ねていた力を取り戻した。自力で神気を集めるのも、造作ない筈だった。
「ツナ」
「……いいんだ」
遠くを向いたまま振り向かない綱吉に痺れを切らし、ディーノが手に力を込めて彼を引っ張る。だが綱吉は予想外の抵抗を見せ、奥歯を噛み締めて呻くようにことばを発した。
びくともしない彼の後姿に、ディーノが苦々しい表情を作った。
「いいんだ。いらない」
「ツナ」
「いらないんだ!」
まさか方法が解らないとでも言うのか。その可能性を真っ先に疑ったディーノに、綱吉は苛立ちを爆発させて怒鳴った。
新しい涙を頬に零し、敵意をむき出しにして振り返り、睨みつける。だけれどその敵意自体も、ディーノにではなく、自分自身に向けているように思われた。
雲雀を失った理由は、自分の弱さだ。綱吉の未熟さと雲雀の過信、先々まで状況を見通す判断力の欠如、その他諸々の、数多の条件が悪い方向に重なり合った故に導き出された答え。
リボーンにも言われた、こうなるのは当然の帰結だったのだと。
だから悔しい。守りたいものを守れず、失いたくなかったものを手放した。残ったのは、空っぽの両手。満たされない心。行き場の無い想い。
綱吉の目の前にあるのは、星の瞬きさえ見えない深淵の闇だ。
「いらない……こんなの、いらない。欲しくない。ヒバリさんが居なきゃ、俺が此処に居る意味なんてどこにもない!」
「ツナ、まさかお前っ」
「ヒバリさんが居ないなら、俺なんか要らない!」
一番怖かったことが、現実になってしまった。
いずれ綱吉は命の灯明を燃やし尽くし、命を散らすだろう。死とは誰にでも均等に訪れるものであり、それ自体に逆らうつもりはなかった。
嫌だったのは、恐れていたのは、雲雀に置いていかれることだ。彼を喪い、ひとり世界に取り残される。まさに今のこの状況が、なにより綱吉は怖かった。
泣きじゃくる彼に胸を衝かれ、ディーノはたたらを踏んで後ろに下がった。指の力が抜けて、隙間からするりと細枝の腕が逃げていく。
「ツナ」
里は守り抜いた。並盛山も平静を取り戻そうとしている。あとは中断していた儀式を無事に終わらせるだけ。
それが綱吉に課せられた、最後の御役目。
「ツナ」
くどいくらいにディーノが彼を呼ぶ。綱吉はもう返事をしなかった。
両手で顔を覆い、これ以上泣き顔を見せたくなくて背中を向けて、駆け出す。樹木が生い茂る森の中、彼の小さな姿は直ぐに見えなくなってしまった。
何も掴めなかった手を見詰め、ディーノは己に苦笑した。金髪を掻き上げて、こみ上げてくる笑いを堪えて身を震わせる。腹を抱え、最後に自分の顔を爪立てて掻き毟った。
「んだよ。……やっぱ、同じじゃねえか」
綱吉の世界は、雲雀を中心に回っている。雲雀がいなければ、綱吉の世界は壊れたままだ。
「ちぇー」
悔しげに呟き、彼は空を仰いだ。
眩しく澄み渡る大空では、憎らしいくらい白い雲が気持ち良さそうに泳いでいた。
良かったのか?
なにが。
いいのか。
ああ。……いいんだ。
そうか。
ああ。
そうか。
俺が守るって決めたのは、あいつの笑顔だ。だから、……これでいいんだ。
いいんだな。
いいさ。
なら、俺から言うことはなにもねーな。
ありがとな、リボーン。
暗闇に、赤々と炎が滾る。
唸り声をあげる篝火に照らされる石舞台の上に、ひとりの少年が佇んでいた。
不意を衝いてこみ上げる涙を堪え、唇を噛んで気丈な面持ちで虚空を見据える。薪の爆ぜる音だけが周囲に響き渡る以外は、虫の声すら遠い。
四方を囲うのは、細く編まれた注連縄。垂が等間隔で並び、風もない夜なのに目に見えない何かを感じ取ってか、そよそよと揺れていた。
少年は白い衣に緋色の裳、素足。右手には緑濃い葉をいっぱいにつけた榊の枝が握られ、内側に隠された銀の鈴が、彼が動く度にしゃんしゃん、と乾いた音を響かせた。
ひんやりと冷えた空気は容赦なく薄着の彼を襲うが、まるで意に介する様子もなく、少年は大きな琥珀の瞳を閉ざした。胸を反らして深く息を吸い、後ろに倒した首を前に戻すと同時に吐き出す。その仕草を三度繰り返し、最後に深々と頭を垂れた彼が次に瞼を持ち上げた時、一切の迷いは振り払われ、奥に秘めた強い意志が前面に押し出された。
引き結ばれた唇には薄く紅が入り、化粧も施されているのか、元から色白の肌がこの暗闇の中でいっそう引き立てられていた。
それまで静まり返っていた周辺の空気が、彼の纏う気配の変化を感じ取ってか、ざわざわと騒ぎ始めた。それは何かに急き立てられるように、小さな石舞台を取り囲んで渦を巻いていく。
「……――」
少年は声に出さず、何かをひとつ呟いた。唇が刻んだことばは誰にも知られることなく闇に溶け、消えた。
彼は左に握る榊を高く掲げ、窄めた唇からひとつ息を吐いた。勢いに載せて真下へと振り下ろし、高らかと鈴の音を響かせる。
大気がざわめく。またひとつ、鈴の声にあわせて渦が大きく蠢いた。
炎が揺らぎ、細波が大波へと切り替わるのにそう時間は掛からない。依然風はないまま、垂は揺れ続ける。それらが結ばれた注連縄はぴくりともしない。少年は右に左に石舞台の上を軽やかな足取りで舞い踊り、鈴の音を周囲に振り撒いた。
やがて、どこからか光が現れる。
ぼんやりした儚いものから、蛍火の如き明滅を繰り返すもの、蝋燭の明りにも似た眩いものや、星の瞬きにも届かないか細いものまで。
光は渦巻く大気に乗り、高く天を目指して登っていく。鈴の音に呼応して、光の量は少しずつ増えていく。
少年は額に汗を滲ませ、一心不乱に祈り続けた。
どうか、どうか、安らかに。
どうか、どうか、穏やかに。
どうか。
どうか。
「……っ」
こみ上げる涙に耐えて、つんと来る鼻の奥に口を開けて喘ぎ息を吸う。肺に刺さる冷気が痛くてならず、途切れかかる集中力を取り戻そうと彼はかぶりを振った。
光は今や渦そのものと化し、石舞台を囲んで空へ一直線に駆けていく。地上からもこの光は見えるはずだ。これが終わらない限り、並盛の精霊会は終わりを迎えない。
「っ――」
ついに堪えきれない涙が一粒、綱吉の頬を伝った。唇を噛んで肉体的な痛みで誤魔化そうとしても、もう止まらなかった。
心を乱してはいけない。舞に迷いが生じれば、導き手を失った数多の魂が道にはぐれてしまう。
舞を中断させてはいけない。足の運びを止めてはいけない。手の動きを惑わせてはいけない。頬を拭うのさえ叶わない。
声を殺し、唇を噛み締める。目を閉じていても、幼い頃から馴染んでいる舞は体が覚えている。寸分の狂いも許されぬ中、溢れて止まらない涙を零しながら、綱吉は自分に与えられた仕事をやり遂げることに集中した。
それでも、瞼の裏に浮かぶ人の姿は消えてくれない。
「……っ」
声をあげて泣きたかった。あの人の名を呼びたかった。
本当なら、舞には笛が伴うはずだった。本来は沢田家の――蛤蜊家初代の血を引く人間以外は立ち入れないこの神域に、唯一足を踏み込むのを許された人の奏でる笛が、綱吉を支えてくれるはずだった。
けれど周囲に響くのは、綱吉が振るう鈴と、篝火が爆ぜる音ばかり。
耳を裂く静寂を耐え、ぐっと腹に力を込めた綱吉が榊を握る手を右から左へ流した。しゃん、と緑の葉に含ませた鈴の音が、綱吉の心とは正反対の澄んだ色彩で駆けて行った。
「……ぅ」
息が苦しくて、彼は呻いた。
噛み締め過ぎた唇から滲む血が苦い。
全身を突き刺す冷たい風が、舞の足捌きを鈍らせる。
沈黙する闇に、赤々と照る炎。舞台の上に在る彼を包んで天へ続く光は、その中心で舞う彼すらも、遠くへ連れ去ってしまおうとしていた。
微かに。
遠く、微かに。
笛の音が。
「!」
息を呑み、綱吉が顔を上げる。しかし目の前に広がるのは、篝火に囲われた狭い石舞台以外は、己を中心として渦巻く光と、その果てに続くとこしえの闇ばかり。
轟々と吹き荒ぶ風の音に掻き消され、聞こえたはずの笛の奏はもう耳に届かない。
あまりにも強く彼を想うばかりに、ついに幻聴まで発生してしまったか。幾らか自嘲気味の笑みを零し、綱吉はかぶりを振って舞いに集中すべく、意識を切り替えようと試みた。
だけれど、また。
どこかから、綱吉の動きに合わせて静かに、厳かな笛の音が奏でられている。
「…………」
そんなわけがない。
あの人のわけがない。
必死に否定しようとするのに、心臓が締め付けられる。疼きが止まらない。涙で世界が霞み、綱吉はふらついた足元にはっと息を吐いた。
もうじき、あの一瞬が訪れる。
過去幾度と無く失敗を繰り返し、一度として巧く舞えた例のない、複雑な足捌きが強いられる瞬間が。
昨年、一昨年と、いずれも転んで舞を中断させてしまい、リボーンの手を煩わせてしまった。しこたま怒られて、反省して、沢山練習をしたけれど、どうしても此処の部分だけが上手に出来なくて、思い悩んでいた。
ディーノの顔が浮かんだ。ただ、彼に見せてもらった手本は、途中から全く見ていなかった所為でよく覚えていない。
家光はどうやっていただろう。自分なりに、思うまま、感じるままに舞えばいいと言ってくれたのは、誰だったか。どうせ下手なのだから、上手に誤魔化そうとするのではなく、精一杯やれる事をやればいいと、そう頭を撫でてくれたのは誰の手だったか。
「……っ」
新しい涙で頬を濡らし、綱吉はその一瞬に身構えた。深く息を吸い、冷たい空気を肺の奥深くに溜め込んで意識を尖らせる。
やってやる。最後まで無事遣り通して、雲雀に褒めてもらうのだ。
彼方から響く笛の音が、綱吉の背中を押した。
そう、その調子。そこはもう少し機敏に。大丈夫、出来るよ。安心していい、ちゃんと見てるから。
奏でられる曲調が、優しい声でそう告げている気がした。涙を堪えて右足に力を込め、綱吉は幾度と無く同じ失敗を繰り返して来た一瞬に切ない祈りを込めた。
出来る。
出来るから。
だから、本当に出来たら、褒めて。
前みたいに、いつもみたいに、頑張ったねと言って。くしゃくしゃに髪の毛を掻き回して、少し痛いくらいに頭を撫でて。
良く出来ましたと、手を叩いて。
おめでとうと、抱き締めて欲しい。
「ヒバリさん……っ」
我慢出来ずにその名を叫び、綱吉は足をもつれさせた。集中力が途切れ、あっ、と思う間もなく彼の手が宙を泳ぐ。
ひと際甲高い鈴の音が綱吉の前方に広がり、涙が弾け飛ぶことで視界が開けた。
赤く燃え盛る篝火の影。ぽっと浮かび上がるのは夕焼け後に空を覆う、優しく深い、夜の彩。
目を見張り、綱吉は反射的に左足を前に繰り出した。踏み止まり、大きく傾いた体を支えて背筋を伸ばす。右手が自然と空を薙ぎ、追随する左手が高らかに鈴を鳴らした。
くるりと体が反転した所為で、視界は再び光の粒子に満たされた。
調子を刻む足にあわせ、笛の演奏が続く。もう幻聴だなんて思わない。綱吉は息を詰まらせ、高鳴る胸を懸命に押し留めながら、生まれて初めて乗り越えられた壁に歓喜し、表情を綻ばせた。
沈みきっていた気持ちが浮上していく。萎みきっていた希望が膨らんでいく。
悲壮感に満ち溢れていた気配は掻き消え、春の陽だまりを思わせる笑顔がいっぱいに広がった。
鈴が鳴り、綱吉の足が調子を刻む。笛の音が後押しし、彼を高く舞い上がらせる。
やがて最後のひと粒まで光は空へと昇り、音もなくすっと消えた。
後にはただ、清浄なる沈黙だけが。
ゆるり腕を下ろし、肩で息をした綱吉が激しく脈打つ心臓を宥める。全身から汗が滲み、呼吸は荒く乱れて少しも落ち着かなかった。
どどど、と耳元に轟く心音に唾を飲み、息を止めて恐怖心を堪える。ここで振り返って、一面の闇だけが広がっていた場合、自分はきっと狂ってしまう。だから確かめるのが怖い。
怖くてしかたがないのに。
「おかえり、とは言ってくれないの?」
囁く声は確かに、鼓膜を打って綱吉の胸に直接響き渡った。
枯れ果てても良いくらいに流した涙が、またひとつ。けれどそれは、この数日間で彼が零したどの涙よりも澄んで、綺麗だった。
「……っ」
振り返る。横笛を胸元で握る彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべて綱吉を見詰めていた。
どうしてと、そう綱吉の唇は音にならないことばを刻んだ。
もう二度と会えないと思っていた。自分の元に戻ってこないものと思っていた。
綱吉は顔を、一瞬で湧き出た涙と鼻水でみっともないくらいにぐしゃぐしゃにして、唇を噛み締めた。これでは笑いたいのか、泣きたいのか、どちらなのか判別がつかなくて、彼は少し困った風に表情を綻ばせた。
「約束、したろう?」
手を差し出し、意地悪く告げる。
「……ばかぁ!」
もっと沢山、色々と、言いたいことはあったのに、綱吉の口を衝いて出たのはそんなひとことで。
それでもおいで、と囁いた彼は嬉しそうに笑ってくれて。
綱吉は。
その人の名前を。
この世で最も愛しい人の名を。
叫んだ。
2009/04/18 脱稿