常しなえの

 たったひとつ、巣に残されてしまった、小さな卵。
 薄情な親鳥に見捨てられた哀れな子として、生きているかどうかも分からないのに温めたのは、置き去りにされてしまったこの卵に、両親の居ない自分自身を重ね合わせていたからだ。
 よもや産まれて来たものが愛らしい雛鳥などではなく、人の形に似て非なるもの――妖怪の類とは夢にも思わなかったわけだが。
 日増しに大きさを増していく卵に、違和感を覚えなかったわけではない。しかし一度拾った命を捨てるのは、心安くなかった。
 潰さぬよう慎重に、注意深く、猫の姿を仮初にする斑の手――手というよりは腹だが――も借りて、日々を過ごす。やがて充分に育ったのだろう、内側から殻を破いて姿を見せたのは、掌にも乗る大きさの、小さな人の子だった。
 否、人であるわけがない。その証拠に、頭には小さいながらも一対の角があった。
 辰未という妖怪、だという。卵より出て最初に見たものの姿を真似て、その庇護に預かり成長するという不可思議な生態をしたそれは、夏目を最初に目にしたために人に似た形を成したらしい。
 真似る先が招き猫を模した斑でなかったのを、心より感謝した。あんなふてぶてしい顔をしたものが大小ふたつ揃うのは、少々神経に障る。
 湯浴みをさせ、身体を冷やすからとタオルで水気を拭ってやり、次に困ったのは衣服だ。まさか裸で捨て置くわけにもいかないし、かといって掌サイズのこの子に夏目の服を着せるのは無理がある。
 一時凌ぎとしてハンカチを何枚か重ね合わせ、簡単に縫って止めただけのものを着せてみたが、さすが男の裁縫とでも言うべきか、ちょっと動くと簡単に解け、バラバラになってしまった。
「参ったな、これは」
 今もまた、下に履かせていたものが脱げてしまい、畳の上に転がっていた。
 胡坐を崩して手を伸ばし、拾い上げた夏目が困った顔で呻くように呟く。眉間に皺が寄り、そろそろ癖になってしまいそうだった。
「どした、夏目」
「いや、それが……先生、何やってんだ」
 思案気味に呟き、視線を浮かせた夏目は直ぐ右側まで来ていた斑を見て、呆れ半分に溜息を零した。
 幼き辰未の子、タマを背中に乗せた斑が、お馬さんよろしく四本の足で部屋を歩き回っている最中だった。丸みを帯びた胴体の、首と背の接合部に小さな妖怪は腰を下ろし、きゃっきゃと楽しそうに笑っていた。
 無論、下に履いていたものは夏目の手の中にあるので、あまり宜しい格好とは言い難かった。
 辛うじて上に羽織らせているものが無事なので、外見はそう悪くはない。ただ一枚捲ってみたらどうであるかは想像に難くなく、ほら、と夏目が手に下ものを見せてやったところ、斑もようやく気付いたようで、「ぎゃっ」と悲鳴を上げて後ろ足だけで立ち上がった。
 当然、金太郎が如く背中に乗っていたタマはバランスを崩し、可愛らしい悲鳴をあげてコロコロと転がっていった。頭から落ちたので心配だったが、夏目が見守る前で何事もなかったかのように起き上がり、自分を見詰める目に気付いて嬉しそうに顔をほころばせた。
 どこも怪我はしていないようで、安心する。と同時に、狼藉を働いた斑に怒りが湧いて、彼は握り拳を作ると、届かない背中に懸命に手を伸ばしていた潰れ饅頭を殴り飛ばした。
「なにをするか貴様!」
「タマが怪我をしたら、どうする気だったんだ」
「喧しいわ! それを言うなら、素っ裸で背中に乗られた私はどうなる!」
 ごろんごろん、と見苦しく転がった斑が青筋を立てて怒鳴り、夏目も負けじと大声を張り上げた。間に立たされたタマはよく分かっていない様子で、にこにこしながら様子を眺めている。
 上は着ているのだから素っ裸ではない、と揚げ足を取った夏目に、斑は同じようなものだと叫び、襤褸布をまとっているに等しい幼い辰未をビシッと指差した。
「ならばさっさと、この貧しい身なりをどうにかしろ!」
 矢のように鋭い声が深く胸に突き刺さり、夏目は唸って黙り込んだ。悔しいが、反論できない。ひとり歯を食いしばって屈辱に耐えながら、彼は勝ち誇った顔をする斑を恨めしげに睨みつけた。
 卵から産まれたということで、名前はタマ。色々と迷っていたのに、斑がそう呼ぶものですっかり覚えてしまったらしい。夏目も、呼びやすさからいつの間にか馴染んでしまった。
 食事は、人のそれと同じもので事足りた。塔子が用意してくれた日々の食事を、毎日ちょっとずつ拝借して、与えている。
 本当はもっと沢山の量を、ちゃんとした形で出してやりたいのだが、まさか角の生えた小人を育てているとはいえない。そうでなくとも大食漢の斑の食事まで世話してもらっているのだ、贅沢を言えるわけがなかった。
 そんなわけなので、タマの衣服も塔子を頼れない。彼女の手に掛かれば、ちょちょいのちょい、で簡単に作れてしまえそうな気がするのだが。
「何に着せるのか聞かれたら、答えられないからなあ」
 こめかみの鈍痛を堪え、夏目は深々と溜息をついた。
 生活の基盤は衣食住の三つに例えることが出来るが、タマの場合、食住のふたつはなんとかなるものの、衣の部分に多大なる欠損が出ていた。
 夏目も裁縫は家庭科で一応習っているし、靴下の穴あきくらいなら繕えるが、服を最初から作るのは流石に無理だ。
 寸法を測り、型紙を起こして、布を裁断し、組み合わせて縫っていく。服一着を作るにも多数の行程を経なければならず、想像するだけで気が遠くなった。
「なにかあるだろう。ほれ、人形の」
 困り果てているのは、斑も一緒だ。
 さっきと同じようなことがまた起きるのを、心底嫌がっている様子が窺える。苦悶する夏目に代替案を提示したところからも、必死具合が垣間見えた。
「別にいいだろ。先生だって、素っ裸なんだから」
「私には毛があるぞ!」
 それは本性を現した時だけではないのか。
 狐のようであり、狼のようでもある、白い毛並みの獣の姿を思い浮かべ、夏目は現在目の前にいる招き猫の姿をした斑に白い目を向けた。
 手を伸ばして触れれば、つやつやして、つるつるしている。当然だろう、斑が依り代としているこの猫は、元は幸運招来を願う置物だ。髭の変わりに緋色の紋と、後頭部から背中にかけて二色の模様が走っているが、どこにも毛など生えていない。
 夏目の、人を馬鹿にする顔を見て、斑が憤慨してぷんすかと煙を吐いた。なにやらごちゃごちゃ騒ぎ出すが、夏目は真面目に相手をせず、四肢を振り回して暴れまわる彼を真似して、その場で飛び跳ねてはしゃいでいたタマの頭をそっと撫でた。
 そういうところは、覚えて欲しくない。低い声で諭し、彼はきょとんとするタマを招きよせて膝に抱いた。
「しっかし、どうするかなあ」
 斑が言ったように、人形の服を買い与えるのが一番良さそうだ。幼稚園や小学生くらいの女児が遊ぶような人形の服ならば、種類も豊富だろう。
 ただ。
「う……」
 実際そう思い、タマを斑に任せて買い物に出た彼だったのだが、そういったものを扱っている店の、あまりにファンシーで少女趣味な外見に、早々に尻込みしてしまった。
 デパートなどの玩具売り場ならば、まだいくらか救いがあったろう。しかしちょっと行けば長閑な田園地帯が広がる田舎町で、大型ショッピングセンターの存在を期待するだけ無駄と言うもの。販売している店があるだけマシ、と思うべきで、贅沢を言っている余裕が無いのも分かっている。
 だが。
「これは、……いや、諦めるのはまだ早い」
 ピンクや水色といった華やかな飾りつけが成された店は、商店街の一角にあって少々浮いてしまっていた。一応此処の前に玩具屋にも寄ってみたのだが、人形本体は販売されていたものの、彼が欲している着替え類は並べられていなかった。
 店の主人に聞いて此処を教えて貰ったのだが、その時の店主は実に変な顔をしていた。
 妹へのプレゼントを探している、とでも前置きしておくべきだった。何の目的があって、高校生男子が人形の服だけを買い求めたがるか、勘繰られたに違いない。
 下手をすれば変態に思われた可能性もある。侮蔑を含んだ視線を思い出して夏目は頭を抱え、愛らしさを全面に押し出すファンシーグッズ専門店を指の隙間から眺めた。
 その入り口前に立って、かれこれ五分近くが経過している。入るか、入らざるべきか。後ろを通り過ぎる人の目も気になって仕方が無い。
 店の人に不審がられた時の言い訳を懸命に考え、あらゆる状況に対応出来るようにシミュレートを繰り返す。だらだらと冷たい脂汗が全身から溢れ出し、心臓はさっきから喧しく騒ぎ立ててならなかった。
 耳鳴りに舌打ちし、必死に自分に言い聞かせる。夏目はなんら後ろ暗い理由から、人形の服を買い求めるわけではない。正当な理由があって、決して変な目的で入手を試みているわけではない、と。
「――よし」
 おおよそ百通りのパターンを計算して、夏目は気合の声を吐いて力強く拳を握った。
 いざ、目的を果たさん。勢い勇み、自動ドアへの第一歩を踏み出す。
「あれ、夏目じゃん」
「なにしてんだー?」
 その背中に、非常に耳慣れた、呑気極まりない声が降りかかった。
「……え゛」
「おーい、どうしたー」
 咄嗟に返事が出来ず、夏目は前に出した足を地面に突き立てると同時に、油が切れたブリキの玩具のようにギギギ、と首を回した。道の向こう側で、西村と北本がふたり仲良く肩を並べて立っていた。
 手を振る西村の大声に、通りすがりの人も何事かと一斉に夏目を注視する。合計十個以上の目で見詰められて彼は慄き、脂汗の量を増やして背筋を粟立てた。
「いや、あ、あの」
 なにも後ろめたいことは無いと分かっているのに、動揺が表に出てしまう。よりによってこんなところで、このタイミングですれ違わなくても良いではないか。あまりにも意地悪すぎる運命の神様を心の中で声高に罵り、夏目は立ち止まったふたりから後退した。
 返事もせず、挙動不審に青い顔をして距離を取ろうとする彼に、西村が首を傾げ、北本は夏目を案ずる言葉を紡いで手を伸ばした。
 近付こうとしている。それが分かる仕草に大袈裟なまでに反応し、夏目は咄嗟に踵を返した。
「なんでもなーい!」
 顔を真っ赤にし、叫ぶと同時に走り出す。
「うん……?」
「なんだぁ?」
 取り残されたふたりはきょとんとし、首を傾げながら互いの顔を見合わせた。

 そんなわけで、ファンシーショップで人形の服を購入、という方法は残念ながら失敗に終わった。
 店に入るまでであんなにも神経を磨耗するのだから、中に入った途端過労死してしまうかもしれない。そんな突拍子も無い事を考えながら汗を拭い、夏目は帰り着いた藤原の家でぐったりと倒れこんだ。
 斑を連れていかなくて正解だった。今は上機嫌にタマと遊んでいるメタボリックシンドロームな猫を眺め、横にしていた身体を縦に戻しながら夏目は思った。
「しっかし。どうするかなあ」
 心底参ってしまった。
 タマのズボンは、簡単に繕ってはみたものの、このままではいずれ同じことを繰り返すことになりかねない。腰はゴムでなく紐を利用して固定しているので、結び目が緩めばそれだけでストンと落ちてしまうのも、問題だ。
 この先大きくなれば、外を散歩することもあるだろう。部屋の中だけで育てられるとは、夏目も考えていない。出来るなら様々な場所に出向き、経験させてやりたいと考えている。綺麗なもの、珍しいもの、優しい景色を沢山見せてやりたいし、面白いもの、不思議なものにも触れさせてやりたい。
 その為にも、迂闊に動けば破れてしまうような服を着せてはおけない。こんなにも悩まされるとは思っていなくて、途方に暮れながら彼は夕闇に近付こうとしている空を眺めた。
「手先が器用な人が居ればなあ」
 妖怪の子供の服が欲しいのだと相談できる、身なりも良い知り合いはいないものだろうか。
 一瞬名取の顔が浮かんだが、忙しい彼のことだ、頼んで直ぐに飛んで来てくれると思うのは、調子が良すぎる。
 となれば妖怪の案件なのだから、妖怪に頼むのが筋とも言えるが、そんな都合良い知り合いが居るわけが――
「どうしたんだい、辛気臭い顔をして。折角レイコに似た顔が台無しだ」
「うわぁ!」
 ぼんやり物思いに耽っていた夏目の眼前に、逆さまの顔がにゅっと伸びたのを見て、彼は素っ頓狂な声をあげて座ったまま仰け反り、倒れた。
 急に騒ぎ出した夏目に驚き、隅の方でタマと睨めっこをしていた斑が肩を竦める。カラコロと喉を鳴らした婀娜な女性は、厚みのある唇を意地悪く歪め、腰を抜かした夏目を笑い飛ばした。
 藤の花と蝶をあしらった柄物に、上から下に向かって色が薄くなっていく紫のコートを羽織り、手にはいつもの煙管を握っている。それをちょい、と持ち上げて肉厚の唇で挟み、薄い煙を吐く様はなんとも艶やかだ。
 前髪で片目が隠れ、もう片目を眇めて畳に蹲る夏目を悠然と見下ろすヒノエは、夏目の背後から音もなく忍び寄り、腰を曲げて彼の顔を覗き込んだのだった。
 種を明かせばなんて事はなく、彼はドドド、と怒涛の勢いで喧しく駆け巡っていた心臓を宥め、長い息を吐いた。
「吃驚させないでくれ」
「一応呼んだんだけどね」
 返事をしなかったお前が悪いと言われ、だったら不法侵入はどうなんだと言い返し、夏目は人の机に断りなく座った彼女を睨みつけた。
 ヒノエは嫣然と微笑みを浮かべ、油断している方が悪いと事も無げに言い放った。
 確かに夏目はぼんやりしていたし、斑はタマの相手に夢中で全く外に意識を向けていなかった。今ならこの子を奪おうとする不届きな輩は、なんの苦労もなく目的を達せられたに違いない。
 思い出したらドッと疲れが押し寄せて、夏目はがっくり項垂れた。
「ああ、もう……」
 どこもかしこも、巧く回らない。生活のリズムが崩され、慢性的な睡眠不足も祟っている。ヒノエの言うことももっともであり、警戒を怠った自分を戒めて、彼は緩く握った拳で自分の額を何度も叩いた。
 そうして、彼女が寝転がった斑の上に圧し掛かるものに吃驚仰天している姿を見つけて、首を捻った。
「ヒノエ?」
「おやまあ、こいつはまた」
 何に驚いているのかと怪訝にしていたら、彼女は吸おうとしていた煙管を脇へやり、幾許か裏返った声で呟いた。
 目線の先にはタマが居る。闖入者に怯えもせず、まるで気にする様子もなく斑の尻尾を掴んで上下に揺らしていた。斑も、これくらいの悪戯ならばどうという事はないのだろう、流石に一日中遊びにつきあっていたからか、こちらも疲れた様子で欠伸を零している。
 ヒノエの来訪に気付いてはいるが、喋るのも億劫なのか、無視を決め込んでいた。
「知ってるのか」
 夏目は膝で立ち、這うようにそちらへ寄った。ヒノエは煙管の火種を落として消すと、長い管をコートの袖から中に仕舞いこんだ。一応、小さな妖怪に配慮してくれたらしい。
 そういう些細な気遣いが嬉しくて、夏目は頬を緩めた。と同時に、ウェーブがかった髪を簪ふたつで結い上げている彼女を上から下まで眺め、急にぽん、と手を叩いた。
「いるじゃないか!」
 唐突に大声を出した彼に、部屋にいた全員が吃驚して目を丸くした。斑の背中を滑り台にしていたタマまでもが、前触れも無い夏目の大音響に怯え、小さな身体を斑の丸みの向こうに隠してしまった。
 怪訝がるヒノエがこげ茶色の座卓の上で腰を捻り、勢い良く立ち上がった夏目を見上げて眉間に皺を寄せた。
 なんとなく嫌な予感を覚え、彼女はふいっと視線を逸らし、窓の方を向いた。雰囲気からは、不味い時に訪ねてしまったと後悔している様子が窺えた。だが切羽詰っている夏目にとって、彼女はまさしく救いの神に他ならない。
「ヒノエ、頼みがあるんだ」
 帰ってしまう前に、と意気込み、夏目は両手を広げて早口に捲くし立てると、腹を出して寝転がっている斑を押し退け、隠れていたタマを抱きかかえた。
 辰未という種の珍しさが手伝い、ヒノエもついついそちらに目を遣った。愛らしい顔立ちに、純真無垢な瞳が夕焼けを浴びる彼女の顔をじっと見詰めている。顔の前まで突き出されて、危うく手を伸ばすところだったヒノエは寸前でハッとした。
「な、なんだい。薮から棒に」
 出しかけた手を引っ込め、顔を反らして腕組みをして行動を制御した彼女がぶっきらぼうに言い放つ。夏目は彼女の足元に腰を落とすと、曲げた膝にタマを立たせ、万歳するようにと指で細い腕を押した。
 ワケが分からぬまま従ってくれたタマに微笑みかけ、瞬きひとつで真剣な眼差しを作り出し、ヒノエを射抜く。
「ヒノエ、タマに……この子に、その、服を仕立ててくれないか」
「……はい?」
「頼む。このままじゃ、可哀想過ぎる」
 言葉で説明するよりも、実際に見てもらう方が早い。至極真面目な顔をして、おおよそその表情にそぐわない内容を告げた夏目にヒノエは目を丸くし、続けて緩められたタマの腰紐がもたらした結末に、彼女は唖然とし、言葉もなく沈黙した。
 生温い空気が部屋に沈殿していく。
「くしゅっ」
 重苦しい流れを断ち切ったのは、素肌を晒すことになったタマのくしゃみだった。
 それで我に返り、夏目は急ぎずり落ちたものを引き上げて紐で結んで留めてやる。甲斐甲斐しく世話を焼いているが、どうにも不器用で覚束ない。それでも出来る限り面倒をみようとする夏目の態度に、ヒノエも何度か瞬きを連続させた後、煙管を咥えようとして手の中が空っぽなのを思い出した。
 不可思議なものを見る目をし、向こうの方で忘れ去られた斑の不貞腐れた姿に笑みを浮かべる。
「確かに、惨めだねえ」
「だろう?」
「惨めなのはお前の方だ、馬鹿者」
「なんだと!」
 しみじみと呟かれたヒノエの感想に大声で同意したら、斑の茶々が入って夏目は拳を作った。
 そんな事を言われる謂れは無いのに、何が面白かったのかヒノエは声を立てて笑った。真似をしてタマまでもが腹を抱えて笑う仕草を取る。そんな笑い方、いったい誰に教わったのかと思い返し、自分かもしれないと考えて夏目はがっくり項垂れた。
 ひとり落ち込んでいると、何かが袖を引っ張った。見ればタマが構って欲しそうに両手を伸ばし、懸命に背伸びをして夏目の肘にしがみついていた。
「甘えん坊だな」
 必死な姿に笑みを零し、険しかった表情を解いて夏目が手を差し伸べる。掌に乗り込んだタマは嬉しそうに目を細め、夏目の顔に頬を寄せて小さな声で笑った。
 こんなにも愛らしいのに、辰未の親は子を育てない。そういう種なのだと言われればそれまでだが、どうにも腑に落ちないのは夏目が人間だから、だろうか。
「育てる気かい」
「悪いか」
「いいや、お前らしい」
 身を乗り出して膝に肘を立てたヒノエの問いに、ムッとした声で言い返す。すると彼女はまた高笑いをひとつして、パンパン、と両手を二度叩き合わせた。
 どうしたのかと夏目がきょとんとする前で、胸を反らせてなにやら悪巧みをした顔を作る。腰に手を当てて踏ん反り返っている姿に嫌な予感を覚え、夏目は座ったまま後退を試みた。
「その態度を改めないと、その子の服を用意立ててやらないよ」
「っ!」
 言い放たれた言葉に過敏に反応し、夏目は畳に正座をすると、仰々しいまでに居住まいを正した。この際土下座でもなんでもしてやろうと、場の勢いだけで決心している彼に苦笑し、ヒノエは妖艶な口元を歪めて簪を挿した髪を撫でた。
 これで悩んでいた最後の案件がクリアとなる。期待に胸膨らませた夏目はタマを撫で、良かったな、とまるきり分かっていない相手に向かって頻りに話しかけた。
 部屋の片隅では、ヒノエの性格を良く知る斑が呆れた顔をして丸くなっていた。時折眠そうに欠伸を零して伸びをし、三角の耳をひょこひょこ動かしては髭の代わりの朱の紋様を前脚で擦る。どうなっても自分は知らないぞ、という主張であるが、タマをあやすのに夢中になっている夏目は、当然気付くわけがなかった。
「さて、じゃあ夏目。御代を頂こうか」
「へ?」
「当たり前だよ。タダなわけがないだろう?」
 世の中とはそういうものだ、無償の好意などありはしない。
 座卓から立ち上がったヒノエが、今日に限って異様に物々しく、巨大に見える。幻覚だが背後にトグロ巻く蛇の姿まで見えて、夏目は竦みあがり、食われてはなるものかとタマを背中に隠した。
「ヒノエ?」
「さあ、夏目。覚悟をお決め」
 畳に膝をつき、しゃがみ込んだ彼女の両手が空気を掻き回し、妖しく蠢く。前髪に隠れがちの瞳は爛々と輝き、捕食されるのを待つ草食動物になった気分で夏目は怯え、首を振った。
 代金を払えと言うが、では彼女はいったい何を欲しているのか。妖怪相手に人間社会の貨幣を渡しても意味などなく、生き胆でも抜かれるのかと想像して彼は鳥肌を立てた。
「そんなわけがなかろう」
 心の声を盗み取った斑が、呆れ半分に呟くが、夏目の耳には届かない。そうこうしている間もヒノエはにじり寄ってきて、迂闊に後退すればタマを潰してしまいかねず、動けない彼は恐怖に耐え切れ無くなって咄嗟に目を閉じた。
 その頬を、ヒノエの手が優しく撫でていく。
「え……」
 続けて鼻腔を擽った甘く、爽やかな匂い。肌を擽る柔らかな髪。人の目にはおおよそ映らぬ存在でありながら、夏目にはしっかりと感じ取ることが出来るぬくもり、その確かさ。
 抱きすくめられたのだと知り、夏目は強張りの理由を取り替えて目を瞬いた。
「ヒノエ」
「あー、もう。なんでレイコとそっくりなのに、男なんだろうねえ」
「……悪かったな」
 そういえば彼女は、祖母であるレイコにぞっこんだった。
 すっかり忘れていた事実を思い出し、夏目はそっと溜息をついた。初めて会った時も、彼女にレイコと間違えてられて、襲われたのだった。そして今でも、好きあらば抱きつこうとする。
 最近は大人しかったから、油断していた。緩みきっている自分を叱り、夏目はか細い腕に抱えられて、半分だけ持ち上げていた瞼を下ろした。
 抱き締められる程度で代価が払えるのであれば、安いものだ。其処から変な事をしてくるようなら、問答無用で殴り飛ばすところではあるが、過去度々人の寝込みを襲おうとしたヒノエの事だ、流石に弁えているのか何もしてこなかった。
 香でも焚き付けているのか、彼女の着物や髪からは良い香りがする。時折気まぐれに背を撫でさすり、叩く手のリズムが心地よい。
 抱き締められる体温も。
 過去数えるほどしか経験した事の無いぬくもりが、此処にある。無意識に夏目は身動ぎ、低い位置から手を差し伸べた。
「おやおや」
 耳元でヒノエの笑う声がする。人をからかう色合いを感じ取り、恥かしさから顔を上げられず、夏目は目を閉じたまま彼女に寄りかかり、藤色のコートを握り締めた。
 静かになった夏目の後ろで、タマが羨ましそうにヒノエを見上げた。指を咥える幼い姿に彼女は相好を崩し、おいでと手招いて白い絹の手を差し出した。
 パッと表情を輝かせ、タマがそこに飛び移る。視線を巡らせたヒノエは、隅の方でひとり拗ねている斑にも呼びかけたが、彼はぷいっと声に出してそっぽを向いてしまった。
 カラコロと喉を鳴らして笑い、顔が良く見えるようにタマを高い位置まで連れて行く。動くと、抱えていた夏目の身体がずるり、と傾いた。
 慌ててもう片手で支え、胸に抱きこむ。
「おやまあ」
 いったいどうしたのかと覗き込めば、彼は目を閉じ、すやすやと眠っていた。
 一瞬の早業だった。予兆も何もなく、呆れざるを得ない。
「緊張の糸が切れたんだろう」
「斑」
「寝かせてやれ。最近あまり眠れていないようだったのでな」
「おやおや。随分とお優しいことで」
 無邪気に、子供の顔をして眠る人の姿を眺め、人ではないものが会話を交わす。動かない夏目を気にして彼を叩こうとしたタマを制し、ヒノエは静かにするよう唇に指を立てた。
 真似をしたタマが、良く出来たとヒノエに褒められて照れ臭そうに両手で頭を庇った。
「辰未なぞ、直ぐに大きくなろうに」
「仕方なかろう、それが夏目だ」
 辰未の成長は早い。今日着られたものが、明日には袖すら通らなくなることもあるだろう。教えてやるのが親切とヒノエは言うが、教えてやらぬも親心だと斑は笑った。
 安心しきった表情で畳に転がる夏目の、色の薄い髪を梳き、ヒノエは彼から離れようとしないタマを小突いた。
「この髪の色ならば、白に蘇芳の重ね色目が映えるだろうかね。柳襲も良さそうだ」
 夏目が仕立てた粗末な、けれど愛着があるのだろ、脱ごうとしない着物を模した衣をなぞり、ヒノエは想像を巡らせて楽しげに呟いた。
 タマは不思議そうに彼女の指から顔を見上げ、やおら夏目に向き直った。すやすやと心地よさそうに眠っている彼の頬を、ヒノエがそうしたようにそっと撫で、寄り掛かる。
 むず痒かったのか、夏目は少しだけ眉間に皺を寄せた。しかし目覚めず、直ぐに強張りも解けてまた深い夢の中へ堕ちていった。
「この子にも」
「ん?」
「揃いを仕立ててやりたいところだが、人間に、妖の衣は、どうだろうね」
 同じく夏目の肩に触れ、ひと撫でして手を引っ込めたヒノエが何気なく呟く。耳を立てた斑は、今の台詞は聞かなかったものとして処理し、興味ないと言わんばかりに大きく欠伸をした。
 日が暮れる。夕飯の支度が出来たと塔子が夏目を呼ぶまで、まだ少し時間がある。
「私の周りは、物好きばかりだ」
 ぶっきらぼうに言い捨てた斑の丸い背中を眺め、ヒノエは殊更楽しげに笑った。
 気が付けばタマも、夏目に寄り添う格好で横になり、目を閉じて寝息を立てていた。
 その顔は、ふたり揃ってとても、とても、幸せそうだった。

2009/04/18 脱稿