きらきら、きらきら。
きらきら、と。
震動を感じ、山本は虚ろな目を北に向けた。
揺り動かされて意識を浮上させた獄寺が、伏した顔を持ち上げて視線を遠くに投げる。
集められるだけの桶や甕を抱えて消火活動に奔走していた了平は、誰かの泣き声を聞いた気がして振り返った。
神社にいた角を持つ少年は怖気づいたかのように下を向き、勝気そうな三つ編みの少女に頭を叩かれて涙を零した。
黒い翼を畳み、男は腰に吊るした酒瓶を逆向けて、中身が残っていないことを残念がって肩を竦めた。
長い髪をした女が、だるそうにしながら背中を太い木の幹に寄りかからせた。
リボーンの結界の中で、奈々は目を閉じ両手を合わせた。
彼方を見詰める小麦色の髪の少年を眺め、家光は燃え盛る焚き火を思い切り掻き回した。
ディーノは右腕で顔を庇い、吹き飛ばされないように肩幅に広げた足を踏ん張らせた。
リボーンが、とてもとても満足そうに笑った。
「やっとだな」
その呟きは、誰の耳にも届かなかった。
「ぬ、ぅ……?」
動きを止めた雲雀を前に、ランチアは気配の変化を察知して警戒を露にした。
鉄球を繋ぐ鎖を引き寄せ、胸の前で真っ直ぐに構え持つ。けれど雲雀は彼に襲い掛かるような真似はせず、ただ静かに、穏やかに、その場に佇み続けた。
きらきら、きらきら、きらきら
きらきら、きらきら
眩い光が、雲雀の周囲で軽やかに踊り、舞う。
蛍火のように儚くて、蝋燭の炎よりも優しくて、太陽よりも温かくて。
並盛を焦がす禍々しい焔とは比べ物にならないほどに、鮮やかな。
とても綺麗な、綺麗な、光が。
雲雀を中心に、渦を巻く。
「なん、だ?」
肘で身体を起こし、獄寺が目を瞬く。
「……ツナ?」
呆然と山本が呟く。
両手を広げた雲雀が、漂う光を押し上げるように腕を動かした。
刹那。
ズ――――ドォォォゥォォォォォ!!
雲雀を取り巻いていた光が一斉に、砕け散った。
湧き上がった雲はゆっくりと熱風に押し出され、薄れ消えていく。
ピシピシと空気が爆ぜる音が断続的に響き、黄金色の光と入れ替わりに青紫の炎が雲雀を淡く包み込む。
浮かび上がっては弾ける静電気に囲われ、雲雀はそれまで傷口を庇って丸めていた背中をすっと伸ばした。灼熱の片翼を背負う男を見据えたまま、おもむろに傷ついて動かなかったはずの左手を持ち上げる。
ぼろぼろと崩れていく土の欠片に、黒く変色した皮膚が混じる。その下から現れた鱗は、薄紫の燐光を発して碧く輝いていた。
天を向いた指先を、軽く前方に揺らす。瞬間、遥か後方に落ちて先端が地面に埋まっていた拐が、彼と同じ輝きを発してぐらりと揺れた。
突き刺さった部分を軸とし、前後左右にまるで踊っているかの如く回転を開始する。溝の入り口を大きく広げたそれは、糸が結ばれて操られているわけでもなしに、自ずと宙に浮き上がった。
ひゅっ。
風が奔る。
雲雀が振り返り見る事無く、広げられた彼の手の中に、傷ひとつ無い蒼い拐は吸い寄せられた。
ぐっと力を込めて握り締めれば、失われていた肉体の一部の再臨に、喜びが心に満ち溢れていくのが分かる。右手にも同じ、自身の鱗より創り出された拐を構え、雲雀は不遜な笑みを浮かべてランチアを見据えた。
胸の前で両腕を交差させ、湧き上がる桔梗色の炎に身を焦がす。煽られた黒髪が浮き上がり、鋭き眼光を放つ瞳が露になった。
ぞわぞわと大地が騒ぎ始める。蠢く。彼が一歩を踏み出した瞬間、地表は抉られて無数の土塊が砕け散った。
「終わらせるよ」
片翼の男が、突如出現した圧倒的な神気を前に、初めてたじろいだ。
不遜な笑みを浮かべ、雲雀が拐を打ち鳴らす。
「この姿でいられるのも、そう長くは無いんでね」
人としての形を少しずつ崩しながら、彼は。
駆けた。
巨大な水柱が立ち上る。滝を逆流した霊水が岩肌を削って砕けた。一瞬現れた泉の底が、二秒後には再び視界から掻き消される。白い煙が周囲を圧巻し、視界を塞がれた骸は咄嗟に両腕で顔を庇った。
吹き荒れる爆風に煽られ、飛ばされそうになるのを懸命に堪えて奥歯を噛み締める。なにが起きたのか直ぐには分からず、だけれど確かに感じた雲雀の霊気に、彼は最初、ランチアが倒されたのかと錯覚した。
素早く探りを入れて、彼がまだ健在なのだと知る。しかも雲雀もその場に留まったままだ。ではいったい、今のは。
瞳を焼かれ、目を開けても世界は濁ったままで、全身を叩く細かな水の粒子に彼は右目を手で覆った。
逆さを向いていた後ろ髪が少しだけ元気を失い、萎びた草のように垂れ下がる。首を振って水気を飛ばし、首に絡みつく霊水に舌打ちをした彼は、緩やかに晴れていく泉に目を凝らし、そして我を疑った。
「な――」
居ない。
さっきまで確かにそこに立ち、骸に怯え続けていた少年が、どこにも。
「どこへ」
「こっちだ」
視線を巡らせ、必死に姿を探す。無意識の呟きに応じる声は、彼の背後から発せられた。
振り向き様の横っ面を――
「かはっ!」
思い切り殴り飛ばされ、骸の体が地を滑った。
空中で半回転し、伸ばした右腕を収めた綱吉が音もなく着地を果たす。二本の溝を刻んで水辺ぎりぎりのところでどうにか止まった骸を見て、僅かに浅かったかと彼は握り拳を顔の前で揺らした。
左手で右手首を支え、具合を確かめる。どうにも脳内で意識する動きと、実際の身体の動きとが合致しない。命令を下すより早く、本能的に肉体が反応している状態だった。
「身体が、……軽い」
その場で何度か飛び跳ね、膝を曲げた綱吉が感慨深く呟く。フゥ太を助けようとして力の一部を解放した時との違いに、彼自身が一番驚いていた。
ろくに学んでこなかった術を無理に使おうとしたから、無理が生じたのだ。慣れないことをするのではなく、毎日飽きもせずに眺めていた雲雀とリボーンの組み手を思い出して、彼らの動きを真似た方が、遥かに滑らかに、肢体は反応してくれた。
「たしか、――こう」
雲雀のような武器は持ち合わせていないけれど、腕を拐だと想像すれば、なんとかなりそうだ。見よう見まねの構えを取り、綱吉は腫れ上がった頬を撫でた骸を正面に睨んだ。
全身から力が漲ってくる。不可思議な高揚感に包まれ、綱吉は己の中に欠けていたものが、今ようやく自分に戻って来た事を実感した。
身体の隅々まで力が行き渡り、感覚が一点に集中する。脳裏に思い描くだけで四肢は滑らかに彼の意思を反映し、動いた。
「いったい……」
脇腹を押さえて立つ骸が、直後に右に重心を崩した。あまりにも唐突過ぎる綱吉の変貌に驚き、理解が追いつかない。
弱々しく震え、怯えて逃げ惑っていただけの綱吉からの反撃を、彼は全く想定していなかった。
信じ難い光景に目を見張り、やがて彼はくくく、と喉を鳴らして笑い始めた。
「クフフ……クハハハ」
「なにがおかしい」
奇怪なものを見る目つきで綱吉が彼に視線を投げる。骸は片膝を折れる寸前で留めて立ち、右手で顔半分を覆って肩を小刻みに震わせていた。
左手は宙を泳ぎ、時折空を掻き毟るかのように握っては広げられる。血塗れた指先は乾き、赤黒く変色して下からは早々に新しい皮膚が隆起して、傷ついた部分を押し退けていた。
雲雀に匹敵する再生能力に、綱吉が油断なく構えを取る。腰を僅かに沈め、右腕を前に突き出して左は腰の横に、脇は締めて体を一本の線になるように。
剣呑な顔をして睨む綱吉をなおも笑い、骸は闇に溶ける紫紺の髪をぞんざいに掻き上げた。露になった色違いの瞳が、妖しげな輝きを放って綱吉を射抜いた。
なにかがそこに、見えた。
「――っ」
「遅い!」
不穏なものを背中に感じ取り、視覚がそれを捕らえるより早く、綱吉は咄嗟の判断で右に走った。
しかし鋭い声が直後に後方から聞こえ、瞬いた目を今し方まで骸が居た方向に向ける。
「ぐあぁっ」
焼けるような痛みを肩に感じ、綱吉は仰け反って地面にもんどりうって倒れこんだ。
ずざざざ、と砂を削って地表を滑り、うつ伏せになった身体を裏返す。途端に右肩に激痛が走り、彼は苦悶の表情を浮かべてのた打ち回った。
切り裂かれた肩を左手で庇い、目尻から溢れ出た涙でこめかみを汚して奥歯を噛み締める。鼻から呼吸が出来なくて喉をひくつかせ、綱吉は自分を上回る速度で移動を果たした男を闇の中に睨みつけた。
身の丈ほどの棒を手にした骸が、その先端から滴る赤い液体にうっとりと目を細めている。切り裂かれた着物の端切れが引っかかるのは、三本に枝分かれした鋭い刃だった。
三叉の槍を引き寄せた骸が、鮮血を纏った銀の切っ先に舌を這わせた。最早何の役目も果たさない布切れを唇で咥えて千切り、そこに付着する綱吉の血液もろともに口の中へ招き入れる。
上下する喉仏の動きまでつぶさに見てしまい、綱吉は凄まじい悪寒に襲われて悲鳴をあげた。
「クフフ……」
「気持ち悪いこと、するな」
「どうしてです? これほどに美味な甘露は、この世に他にありはしないというのに」
鳥肌を立てた腕をさすり、ずきずきと断続的な痛みを放つ右肩を庇って、綱吉は腰を引き気味に立ち上がった。
骸が持つ槍は、中心の一本が長く、他の二本は僅かに外向きに角度を持って聳えている。綱吉の肩を裂いたのは中央の刃だけで、肉を抉られたわけではないのがまだ幸いだった。
長着の右袖がだらん、とぶら下がる。水分を吸って重くなった肌着が素肌に張り付いて、綱吉は気持ち悪さを堪えながら邪魔になるだけの袖を襦袢もろとも引き千切った。
四角い布を足元に投げ捨て、軽くなった腕を曲げて、伸ばし、関節の動きや神経に異常が無いのを確かめる。
痛いが、痛くない。雲雀はもっと苦しい思いをしたはずだ。これくらい、我慢出来なくてどうする。
「くっそ……」
反応速度に意識が追いつかないのが、辛い。取り戻したばかりの力は未だ綱吉に馴染まず、振り回されている感覚が強い。直前で骸の攻撃に勘付いていながら、完全に躱せなかったのが何よりの証拠だった。
口惜しげに唇を噛み、右拳に力を込める。未だ恍惚に浸っている男は、戦闘態勢に入った彼に直ぐに気付いて不機嫌に顔を顰めた。
邪魔をするなとでも言いたげな視線に、綱吉は左手を真横に薙ぎ払った。
村を焼き、罪無き村人を狂わせ、多くの犠牲者を産んだ。その動機が、綱吉ひとりを望む彼の思いにあるのだとしたら、彼を粉砕して村を助けるのもまた、綱吉の務めだ。
一刻も早く骸を叩き潰し、雲雀の元へ駆けつけ、村を焼く炎を消し止めて人々を救い出す。決意を新たにした彼の目に迷いは無く、淡く輝く琥珀の艶を眺めた骸は、満足げに頷いて槍を引いた。
綱吉と同じく構えを取り、対峙する。彼は相変わらずなにを考えているのか読み取り難い表情をしており、警戒を怠る事無く、綱吉は拳に込める力を強く意識した。
間合いは骸の槍の方が遥かに長く、自分に不利なのは否めない。しかし懐にさえ入り込んでしまえれば、大振りしか出来ない彼には対処の術が無いはずだ。
素足の裏面を地面に擦りつけ、踵を細かく左右に揺らし、綱吉は呼吸を整えて肩の痛みを頭から追い出した。
ぼっ、と右拳に宿る光が――淡い橙色の、日の出の太陽を思わせる艶の炎が、大きく陽炎を伴ってゆらゆらと揺らめいた。
「しっ――!」
噛み締めた歯の隙間から息を吐き、綱吉は地面を蹴り飛ばして自分の体を宙に走らせた。
振り出された綱吉の拳を、骸は斜めに持った槍の長い柄で易々と受け止めて踏み止まった。押し切れぬと悟った綱吉は即座に拳を軸にして跳び上がり、中空で体を反転させる。爪先から砂埃を撒き散らし、仰け反った状態から踵を骸の頭目掛けて叩きつけた。
空振り。身を沈めた骸が低い体勢のまま横に跳んで逃げ、地面で骨を砕く寸前だった綱吉はその右足を無理矢理捻って後ろへと流した。左膝を折ってそこに重心を移し変える。着地と同時に左手をも衝き立て、体重の全てをそのニ点に委ねた。
「ぐ……ぬあぁ!」
最後に左側頭を大地に擦りつけ、腹の奥から声を絞り出した綱吉は宙に残った右足を真っ直ぐに伸ばした。
踵落としを避けた骸の踝目掛け、脛を叩き込む。
足を掬われ、骸がもんどりうった。と同時に、左肘が崩れた綱吉の体が吹っ飛んだ。
「いだ!」
顔面から落ちて、弾んで裏返ってようやく止まる。右肩の痛みが再発して、ぶつけたばかりの鼻を両手で押さえ込んだ綱吉は身悶えた。指先にぬるっとした感触がして、赤黒い鼻血が唇に染み込んでいった。
しかし息つく暇も無く、ぞわっとする悪寒に襲われ、歯を食いしばって体を左に転がした。
霊水の泉を離れ、斜面がすぐ其処に迫る。背丈の異なる下草が擦れ合う音にはっとする暇もなく、今し方まで自分が居た場所に突き立てられた銀の槍に、綱吉は冷や汗を流した。
「くぅ」
「逃しませんよ」
腸を直接撫でられる、そんな薄気味悪さに綱吉は呻いた。
素早く立ち上がって距離を取ろうとするが、地面に突き刺さった刃をぞんざいに引き抜いた骸がぴたりと追走して、なかなか引き離せない。左足を踏ん張らせて前に流れる体を押し留め、急展開で進行方向を変更するが、それさえも読まれていた。
「この!」
痺れを切らし、綱吉が吼える。右足で踏み込むと同時に、炎を灯した拳を骸の顔面に叩きつける。
ぐらりと視界が揺れ、骸の姿越しに向こう側の樹林が透けて見えた。
「なっ」
「こちらですよ」
手応えが全く無い事に驚いていると、耳元で囁く声が響く。首筋を撫でる悪寒に腰を捻って肘鉄を打ち込むが、後ろから両足を揃って蹴り上げられて綱吉の視界が下から上へ一気に流れた。
後頭部に衝撃、間を置かず背面全体に冷たい地面の感触が。
「ぐっ」
喉の奥で声を潰した綱吉の顔に影が落ちて、瞼越しに僅かな光の変化を感じ取った彼は、咄嗟に右腕を顔の前に翳した。
来る。
そう全神経が叫んだ刹那、彼は何も見えない空間を横殴りに払い除けた。
今度こそ拳に反動が来て、綱吉は押し退ける勢いを利用して自身の身体をも右に弾いた。
「なにを」
「でやあぁぁ!」
目を閉じたままで槍を掬われ、狙いが大きく反れた骸が声を上擦らせる。真下に居た綱吉が直後彼の足を蹴り飛ばして起き上がり、体勢を崩した彼は避ける暇を与えられずに綱吉の一撃を顎に食らった。
吹っ飛ばされ、禊の泉間際でふらつく足を支えた彼に、瞬時に移動を果たした綱吉のニ発目が。
腹部を直撃した衝撃が脊髄にまで抜きぬけ、背中を丸めた骸が綱吉に寄りかかる。叩き込んだ拳を即座に引いた彼は後ろへ下がって避け、仰々しく苦痛に顔を歪めた男を睨んだ。
膝を沈め、骸の足を払う。だが、浅い。
「小癪な!」
素足の爪先にチリッとした痛みを覚えただけで、踵で半円を地に刻んだ綱吉目掛け骸が叫んだ。
槍で串刺しにせんと上段に構え、一直線に突き立てる。けれど動きは大きく、避けるのは容易かった。
「甘いですよ」
真後ろに退き、乱れた裾から白い脚を覗かせた綱吉ににたりと骸が笑いかけた。
「悪あがきを」
「それは君の方でしょうに」
ヴン、と羽虫が耳元で飛びまわる音が聞こえ、綱吉が顔を顰める。見上げる骸の表情にはふてぶてしさが残り、余裕をも感じさせて綱吉を苛立たせた。
体術だけならば同等か、綱吉が僅かに上回っている。蓄積する苦痛や疲労も、今のニ発を足して同列まで来ているだろうに、息を切らしているのは綱吉ばかりだ。
あれだけ力いっぱい殴られたに関わらず骸は平然としていて、澄ました目つきで綱吉を見詰めている。不遜に歪んだ口元は笑みを形取り、そんな態度を見せられる側としては神経に障ってならなかった。
まだ何か隠し手があるのか。焦燥感に駆られ、綱吉は腰を落としこんだままじり、と後退した。
一瞬だけ後方に意識が向き、骸から視線が逸れる。だから綱吉は、彼の隻眼に浮かび上がった漢数字にまるで気付かなかった。
「拙い」
遠巻きに見ていたディーノが鋭い声を発するが、その警告もまた綱吉の耳には届かなかった。
傍らのリボーンが険しい表情をして、周囲の変化に慄く綱吉を睨んだ。
「な、なに?」
うろたえた声を出し、綱吉は突如足首に絡みついたにゅるりとした感触に悲鳴をあげた。
ぬるぬるした鱗が肌を擽り、まとわり着いて離れない。艶めかしく動き回るそれは、綱吉の水を吸って張り付く襦袢の内側に潜り込み、頭を擡げて布地を捲くった。
鋭い牙で端を咥え、顔を出した巨大な蛇と至近距離で目が合った綱吉は完全に裏返った声をあげ、嫌だ、と叫んで振り払おうと腕を伸ばした。
しかし思うところまで肘が伸びない。何かが手首を掴み、彼が前屈みになろうとするのを邪魔していた。
さっきまでなかった拘束に、焦りを増幅させた綱吉が堪えきれずに振り返る。そして鼻の頭を舐めた生温いものに目を見開き、恐怖に頬を引きつらせた。
また、蛇。しかも胴回りが人の腕ほどありそうな巨大な。
「ひ……いやああぁ!」
気が動転し、綱吉は甲高い声で泣き叫んだ。振り払おうにも、両腕ともに蛇が絡み付いて彼の動きを阻害している。肩が後ろに引っ張られ、見たくなくて目を閉じて顔を背ける中、自然と胸も反り返った。
太股にまとわり着いていた蛇は下帯の上から綱吉の太股にちろちろと赤い舌を這わせて擽り、どこから現れたのか四匹目の蛇が綱吉の衿から胸元に入り込んで脇腹を舐めた。
身を捩って逃れようと足掻くが、背中で腕をひとつに結ばれた上に、生温い感触が気持ち悪くて膝が笑い、脚に力が入らない。
「や……だ、どこ触っ……んっ」
全身に悪寒が走り、腰が抜けて地面にへたり込む。逃げようと足掻くけれど、力が入らなくて思うように動けず、そうこうしている間に太股の際どい部分を掠めた蛇の鱗に、綱吉は身を竦ませた。
胸を大きく反らし、喉の奥で息を止めて声を堪える。噛み締めた奥歯が痛む。浮き上がった涙はどうしようもなかった。
「や……やだ、いや、や、あぁ……」
拒絶の言葉を吐き出すが、声は震えて酷く弱々しい。敏感な部分を擽る生温い感触に背筋がぞくりと粟立ち、綱吉は違う、と懸命にかぶりを振って沸き起こった感覚を否定した。
雲雀の優しい、時に荒々しい手つきとは明らかに異なる。ディーノに組み敷かれた時の動きとも、まるで違う。
触れられるのであれば自分はなんでもいいのかと、そんな風にさえ思ってしまう。綱吉は固く目を閉ざし、血の気が引くまで唇を噛んだ。
流れる涙を拭うつもりか、蛇が舌を伸ばしてくる。薄く開いた瞼の先に爬虫類の鱗に覆われた顔が見えて、恐怖に身を竦ませた彼は距離を取ろうと反対側に首を倒した。
けれど、ちろちろと伸縮する舌は離れていかない。鼻先を擽る生暖かい感触に悲鳴をあげ、腰を捻った綱吉は、一緒に膝を浮かせた所為で姿勢を維持できずに左肩から地面へと倒れこんだ。
懐に潜り込んだ蛇の鼻先が胸飾りを掠め、奔った電流に綱吉が身じろぐ。袖の無い右前身頃が頭を擡げた蛇によって掬い取られ、露になった白い肌に散る無数の赤い痕に、骸は露骨に顔を顰めて唇を尖らせた。
太股に絡む蛇が長着の裾を捲り上げ、柔らかそうな太股をも彼の目に晒す。四肢を暴かれるのに綱吉は必死に抵抗してみせるが、両腕の自由が利かない以上、出来ることは限られていた。
懐に入った蛇の頭が、臍の周辺を動き回る。背筋が粟立ち、跳ね上がった踵が地面を何度も叩いた。
寒気がして、全身に鳥肌が立つ。ただ気持ちが悪くて、吐き気さえ覚えるのに、綱吉は堪えることしか出来ない。
こんな風に触られるのは嫌だった。雲雀以外の誰かに、好き勝手されるのは我慢ならない。ディーノでさえ心が拒絶したというのに、こんな爬虫類にいいようにされるのは苦痛の極みだった。
「いや、だ」
声が掠れる。唇を噛んで抗い、綱吉はぬるっと太股を滑った感触が向かう先を想像し、悲鳴をあげた。
「ひぅ……ひゃ、や!」
生温い感触が背中から首に登ってきて、身悶えながら綱吉は体をひっくり返した。背中を下にして地面との間に蛇を挟み、体重を掛けて押し潰す。しかししゅぽん、と膨らんだ座布団から空気が抜けるみたいに、急に感触がなくなって、彼は目を瞬いた。
「おやおや、いけませんね」
存在を気取らせもせずに綱吉に近付き、身体に張り付いた蛇たちに違和感を初めて覚える。一瞬息を止めて瞠目した彼を眺め、骸は眇めた右目に手を添えたまま口端を持ち上げて笑った。
小さな子を叱る口調で囁き、五歩ばかりあった綱吉との距離を早足で詰める。一方の綱吉は今自分に起こった変化を懸命に頭の中で再生させて、しっくり来ないこの状況に両手を握り締めた。
仰け反り、腰に回った両手と背中の間に空間を作り出す。足と頭で肢体を支え背面を浮かせた彼は、蛇が絡んでいるはずのその自分の両手首目掛け、思い切り体重を乗せて脚を投げ出した。
余計な力が加わってしまい、後頭部を痛打するが構わない。骸の足が尚速まる。綱吉は瞬時に掻き消えた拘束に息つく暇も無く、踊りかかってきた骸の手を弾き飛ばした。
「俺に、触るなぁ!」
未だ生々しく残る蛇の這いずり回る感触を振り払い、綱吉は彼に覚えた恐怖もなにもかも含めて、罵声に出して吐き出した。
萎縮しきっていた霊気が綱吉の怒りに引きずられて爆発し、空気を圧倒して骸を押し返す。避ける間も無く正面から受け止めるしかなかった彼の身体は、急転した風圧に数秒間は耐えたものの、最終的には押し切られて爪先が宙に浮いた。
「ぐ――」
掻き乱される前髪の下から闇にも似た濃藍の瞳をむき出しにするが、綱吉の暴力的なまでの霊力に圧倒され、幻術が間に合わない。
彼の後方に控えるのは、綱吉や雲雀が禊に利用する霊泉だ。並盛山の神気をたっぷりと含んだ冷たい水に満ち満ちたそこに落とされた場合、憎悪に身を焦がし生きながらにして地獄を巡ってきた彼の魂がどうなるか。
天への憤怒を炎と滾らせる火烏をその内に宿す肉体が、どうなるか。
想像に難くない――――
「ぐが……ぬ、くぬぅぐぐ……」
「嫌いだ、お前なんか。お前の所為でみんな、みんな無茶苦茶になっちゃったんだ。村も、祭も、ヒバリさんも……俺だって。全部、全部お前の所為だ。お前なんか嫌いだ、だいっきらいだ!」
踏み止まろうと全身の力を振り絞る骸に向かって怒鳴りつけ、綱吉は赤く泣き腫らした瞳を骸に向けた。
消えてしまえばいい。
壊れてしまえばいい。
いなくなればいい。
こんな最低な奴、自分の前から今すぐいなくなってしまえ。
絶対に許さない。
こいつが来なければ、自分たちは今でも平和に、静かに暮らしていけたのだ。本当なら綱吉は、今頃の時間なら、雲雀の腕に抱かれて心地よい眠りに就いている筈だった。
骸が村に来たりしなければ、誰も傷つかなかった。綱吉がこんなにも辛い思いをする必要だって無かった。
何も変わらずに済んだ。誰も苦しまなくて済んだ。
要らない。
六道骸なんて人間は、必要ない。この世からいなくなってしまえばいい。
死んでしまったって構わない。
構わない。
「……」
泣き叫ぶ綱吉の声に、リボーンが眉根を寄せる。ディーノは吹き荒ぶ凄まじい霊気の嵐に自分を保つのが精一杯で、平然としていられるリボーンを憎らしげに睨み、乱されて額を叩く前髪を押さえて歯を食いしばった。
渦の中心に立つ綱吉の形相が、怒りに彩られる。
憎しみに包まれる。
リボーンの表情が一段と険しさを増した。
骸が、満足げに口元を緩めて全身の力を抜いた。
ふわり、浮き上がる。宙に投げ出され、後方へ弾け跳ぶ。
――つなよし!
激憤に駆られた綱吉はこの時、ただただ骸への怒りに心を支配され、霊泉に身を沈める彼の姿に嘲笑さえ浮かべていた。
「っ!」
我に返ったのは、脳裏を打った雲雀の叱責する声。はっと息を詰まらせて瞠目した彼は、瞬時に大量放出し続けた霊気を沈めて肩を震わせた。両手を広げ、悴んだ時のように自由に動かない指に慌てて首を振った。
今、自分はなにを思った。なにを願った。
なにを望んだ。なにを求めた。
なにを見て、笑った……?
「ひっ」
喉を引きつらせ、綱吉は両肩を抱いた。ぎゅっと縮こまった心臓が、どくどくと高速で回転する。目に映るものの輪郭が二重、三重にぶれて景色が霞み、着乱れたままの格好にもまるで意識が向かない。
彼は今し方、己の中に沸き起こった負の感情に恐怖し、怯え、立ち尽くした。
たとえ一瞬だったとしても、他人の不幸を強く願った。骸の死を望み、彼が朽ち果てる姿を想像して、いい気味だと嘲り笑った。
骸と同じだ。燃え盛る炎に包まれた村を綺麗だと言って笑った骸と、今の綱吉は同じだった。
「違う……ちがう!」
否定の言葉を吐き連ね、綱吉はかぶりを振って涙を堪えた。頭を抱き、背中を丸めて膝を折る。胃液さえ残っていない体内から空気だけを吐き出し、彼は喉が張り裂けんばかりに雲雀の名前を呼んだ。
けれど返答は無い。
一瞬聞こえた声が、また遠くなってしまった。
濃い雲が空一面を覆い尽くし、月明かりさえ届かない。震える唇で無音を刻んだ綱吉は、半ば呆然と立ち尽くした。
「流されやがって」
リボーンが忌々しげに呟き、盛大に舌打ちする。聞いていたディーノがむっとした表情を作ったが、それよりも綱吉の崩れ方が気になって問い詰める気は起こさなかった。
木々の間から身を乗り出し、今すぐ駆け寄って抱き締めてやりたい気持ちを押し殺す。噛み締めた奥歯の隙間から呻くような声を漏らした彼は、足元から不意に何かが迫る感覚に襲われて右足を跳ね上げた。
何も無い。けれど、確かに。
なにかが。
「む」
リボーンも気付き、大きな団栗のような眼を険しくさせた。
「来るぞ」
「え?」
「伏せてろ。あぶねーぞ」
「おい、リボー……どわっ」
状況を瞬時に読み取ったリボーンの言葉に、理解が追いつかないディーノが困惑の声を零した。しかし仔細を聞くより早く、地面が急激に、沈んだ。
ドンッ、と内臓を抉るような衝撃が走り、上下に激しく揺さぶられて彼は咄嗟に近くの木にしがみついた。
膝を折って蹲り、頭を低くして身体が流されるのを防ぐ。視線を素早く左右に泳がせたディーノは、この現象が地殻変動などではなく、霊的な要因によって引き起こされたものだと知って顔を青褪めさせた。
凄まじい霊気がとぐろを巻き、この場に特殊な磁場を発生させている。並盛山に秘められた、もともと此の地に在った高密度の霊気をも飲み込み、大地を震撼させるなにかが目覚めようとしている。
綱吉が引き起こした爆発などとは比べ物にならないほどの――
「うっ」
足元が隆起して身体が吹き飛ばされる感覚がして、慌てて下を向くが山の斜面自体には何の変化も及んでいない。二本の足はしっかりと地に根を下ろしているのに、不安定さが付きまとって心の中が細波だっている。こんな山間の中でありながら、大津波に飲み込まれて押し流されてしまいそうな不吉な予感が沸き起こり、ディーノは焦りを表情に滲ませた。
ふと気がつけば、隣にいたリボーンの姿が無い。どこへ、と綱吉に目を向けるが彼は依然両手で頭を抱え込み、背中を丸めて小さくなって震えていた。
たとえ一瞬でも憎しみに囚われ、怒りに狂った自分が許せず、認められず、自己否定を繰り返して。このままでは綱吉の心が壊れてしまう、粉々に砕けて二度と元に戻らない。
「ツナ……!」
今一度周囲を見回し、リボーンが居ないのを確かめたディーノはついに膝を起こし、立ち上がった。リボーンの戒めも無視して、感情が赴くままに綱吉に駆け寄るべく緋色の打掛を握りしめる。
だが。
「っあ」
直後にまたさっきと同じ衝撃が彼の足元を突上げて、前ばかりを気にして居たディーノは派手にその場でひっくり返った。受身さえ取れずに背中から落ち、痛打した腰に息を詰まらせて苦痛に表情を歪める。
ぼこぼこと釜で湯が沸く音が聞こえた。彼らの目の前で霊泉が高熱に踊り、無数の気泡が生まれては弾け跳ぶ。禍々しい瘴気を撒き散らし、水分を蒸発させて赤黒い湯気を立ち上らせる。
「なに……」
綱吉に吹き飛ばされた骸が沈んだ場所を中心に、泉の水位が低下していく。変化に気付いた彼は両手指の隙間から光景を見やり、怯えた形相で慄き叫んだ。
「なに、なに!」
混乱の極みに達し、自分を保つのもやっとの状態の彼に、地獄の毒煙がひたひたと迫る。不気味な霧が周囲に立ち込めて視界を著しく阻害し、綱吉は自分に腕を伸ばす形の無い悪意を懸命に拳で振り払った。
逃げ出したい衝動に突き動かされ、足は勝手に後退する。けれど結界を破壊されたこの山の中で、いったいどこに安全な場所があるというのか。
追い縋る瘴気が触れた箇所が焼けるように痛み、綱吉は咄嗟に霊気を拳に集めて目の前に展開するそれを焼き払った。けれど動揺が酷すぎて巧く操れず、凝縮された橙色の霊気によって、自分自身の皮膚が今度は熱を生んだ。
熱い。
痛い。
苦しい。
骸を殴った拳は赤く腫れ、所々擦り切れて血が滲んでいた。人を殴ることが、こんなに自分にまで痛みが返って来ることなのだと、まざまざと思い知らされた。
今まで自分は、この痛みを雲雀ひとりに押し付けてきたのだ。彼にどれだけ甘えてきたのか、彼にどれだけ迷惑をかけて来たのかと考えると、涙が止まらない。
自分は存在してはいけない人間だったのだろうか。自分が此処に居ることで、大勢の人を傷つけて、苦しめてしまっていたのだろうか。
雲雀を縛りつけ、山本を迷わせた。
村が焼かれたのも、村人が襲われたのも、全部。
骸の言うように、綱吉の――綱吉に繋がる魂の所為だとしたら。
「いや……あ、あぁぁぁ……」
これ以上皆を苦しめるくらいなら、骸と一緒に逝った方がいいのか。
雲雀と離れたくない。彼の傍に居たい。だけれど彼にとって、自分の存在が重石になっていたのもまた、確かだ。
綱吉が気付かなかっただけで、みんな、実は綱吉を疎ましく思っていたのだろうか。術のひとつも使えず、ただ無駄に視得るだけの、体力も平均以下で頭の回転も悪く、愚鈍で、面倒ばかりかけてくる子を、鬱陶しいと感じていたのだろうか。
みんな優しいから言葉にはしないだけで、本当は嫌われていたのだろうか。失敗して、迷惑をかけた時、いやな顔ひとつせずに笑って許してくれていたのも、心の中では正反対の表情を作っていたのだろうか。
解らない、考えたこともなかった。
ただ今なら、思い当たる節がいくらでも出てきてしまう。悪い方へ、いやな方へ気持ちが向かっていく。考えたくないのに、見たくないのに、皆が冷たい目をして自分を見下している光景が浮かんで離れない。
「いや……だぁ!」
伸ばした手が虚空を掻く。泉の中央で水蒸気が爆発し、高熱の雨が一斉に周囲に拡散した。逆流した滝が蒸発し、霧と化して世界を濁らせる。綱吉の指先から、淡い色の光がふっと逃げていった。
目を見張る。涙で霞んだ景色に、空がいっぱいに映し出された。
後退しすぎていた。斜めに傾いた綱吉の体は、赤黒い闇に包まれる山の斜面へ呆気ないほど簡単に吸い込まれていった。