気随

 カタン、と窓枠が揺れて綱吉は視線を上げた。
 握ったモップを肩に預け、澄み渡る空をガラス越しに見詰める。白い綿雲が気持ち良さそうに泳ぎ、風に流されて遠くへ旅立とうとしていた。
「……」
「口、開いてるぞ」
 右から左へ流れて行く雲の行方を目で追ってぼうっとしていたら、斜め前方から不意に声がした。
 慌てて唇を閉ざし、ばつが悪い顔をして声の主をねめつける。彼は涼しい表情で笑い、指に挟み持っていた煙草を咥えた。
 唇の中央部だけで器用に支え、両端は開き気味に。意地悪く笑っているシャマルに顔を赤くして憤慨し、綱吉は濡れたモップで床を叩いた。
「おいおい」
 薄汚れた繊維から水滴が飛び散り、シャマルは慌てて足を引っ込めた。被りはしなかったが、その可能性はあったわけで、狙ってやった綱吉は舌打ちし、煙草を灰皿に下ろしたシャマルは渋い顔をした。
 外は朗らかな陽気に包まれて、ぽかぽかと温かい。窓越しでも伝わってくる春の陽射しを浴びていたら、五分と経たず深い眠りに就けそうだ。
 しかし今現在、綱吉にその余裕は無い。放課後、見事にじゃんけんに負けて押し付けられた保健室の掃除が終わらないからだ。
「ちぇ」
「ったく。しっかり磨けよ」
「分かってますよー、だ」
 春という季節は、なんとなくだけれど、心が浮かれ調子になる。特別楽しいことなど何も無いのに、ウキウキして、気もそぞろに落ち着かなくなるのが、春というものだ。
 恐らく年度が変わり、環境が一変したからだろう。綱吉的には、クラスメイトの顔ぶれもたいして変化がなく、期待したほど面白い出来事にもめぐり合えていないのだが。
 むしろ、気落ちする出来事の連続のような気がする。内藤ロンシャンだとかいう、鬱陶しい、自分もマフィアだと公言して憚らない奴と知り合いになった所為かもしれない。
 本来は五人の班でやる掃除も、ひとり押し付けられてしまった。保健室はそもそも男子禁制、女子歓迎のシャマルが仕切っている場所なだけに、男子ばかりで入っても追い出されるのが関の山であるが。
 というわけで、班全員で仲良くじゃんけんし、一発で負けた綱吉が泥を被る結果となった。残りのメンバーは早々に帰宅したか、部活に出て、きっと今頃は世の春を謳歌しているに違いない。
 想像すると溜息しか出なくて、綱吉はモップをバケツに突っ込むとバシャバシャ言わせて汚れを雑に洗い流した。
 縁に押し当てて水分を削り、白い床を磨いていく。シャマルは興味を失ったようで、椅子を軋ませて本やら雑誌やら、書類で埋もれている机に向き直った。
 吸殻が山盛りの灰皿から細い煙が立ち上り、綱吉が動くたびに煽られて左右に波打った。掃除中なのだから窓を全開にしたかったのだが、風が入ると紙類が飛び散るからと言われてしまっては、無視するのも難しかった。
「きちんと整理しておかないからだよ」
 あんなにも机に山積みにしていては、肝心のときに何処にあるか分からなくなりはしないか。
 だがそういう綱吉も掃除は苦手な方で、部屋はゴミだらけで整理整頓が行き届いているとは言い難い。人のフリ見て我がフリ直せ、ということわざが思い浮かび、苦虫を噛み潰した顔をして、彼は滑りやすい床を上履きで踏みしめた。
 濡れた場所が天井から降り注ぐ光を反射し、乾いているところとの区別は一目瞭然だった。奥から開始して、ようやく終わりが見えてきたと額の汗を拭い、残る区画を眺めて唇を噛む。
「シャマル」
「んー?」
「邪魔」
 ベッドとベッドの間、及び下、治療スペースの大部分は磨き終えた。後は現在進行形で机に張り付いている、この部屋の主の足元だけだ。
 見れば煙草の灰がちらほらと零れ、床を汚している。部分的に焦げている箇所もあって、そのうち火事でも起こすのではないかと、乱雑に積まれた紙の束に、綱吉は渋い顔をした。
 燃えるものが多い上に、消毒用のアルコールもあるので、発火したら一瞬で丸焦げになりかねない。豚ならばいいが、シャマルだと不味そうだ。
 想像して眉間に皺を寄せた綱吉の内心を知らず、彼は灰皿の煙草を取ってふかし、無精髭を撫でて振り返った。
「ああ、此処はいいわ」
「良くないよ。汚れてる」
 煙を吐き、灰皿の上で短くなった煙草を叩いたシャマルの弁に、綱吉は頬を膨らませて口を尖らせた。
 掃除は不得手だし、嫌いだが、一度始めると徹底的にやらねば気がすまない。無論途中で飽きることもしばしばだが、目に付いた汚れは全て取り除いてしまわないと、すっきりしないのだ。
 露骨に拗ねた綱吉の荒っぽい物言いに、シャマルはよれよれの白衣を揺らして肩を竦めた。無数の塔が立った灰皿を片手に持ち、仕方なく立ち上がって場所を譲る。即座に綱吉はモップを走らせ、彼が座っていた椅子を退かせた。
 こびり付いてしまっているので、ひと拭きしただけでは綺麗にならない。何度もごしごしと擦り付けるが、そう簡単に焦げ痕が消せるわけもなく、クレンジング剤はあっただろうかと呟いていたら、シャマルに呆れられた。
「良い嫁になるぞ、お前」
「誰が」
 からかわれ、ムキになって反論してモップを操るが、体力を浪費しただけの徒労に終わった。悔しくて、涙まで滲んできて鼻を啜っていたら、後ろからシャマルの手が降ってきた。
 雑に髪の毛を掻き回して、離れていく。多分労らいと慰めの意味があったのだろうが、何のコメントもなかったので、馬鹿にされたような気持ちになった。
「むぅ」
「もう座っていいか」
 元から癖だらけだが、余計に乱された髪を手櫛で整え、綱吉が唸る。横を通り過ぎたシャマルは、空になった灰皿を振って無人の机を指差した。
「上、ちょっとは片付ければ」
「これが一番やりやすいんだよ」
 自分を棚に上げて、窓辺に設置された幅広の机の惨状に苦情を言えば、彼は呵々と笑って濡れたままの銀プレートを狭い空間に置いた。そのひとつがなければ、もうちょっと作業スペースが広くなって仕事もやりやすくなるだろうに、禁煙する気もないらしい。
 一日にひと箱以上は確実に吸っている彼は、本来病弱だ。様々な病気にかかりつつ、それを相殺させて生き長らえている彼は、自ら寿命を短くするようなことばかりしている。
 もっと自分を大事にすればいいのに。そんな事を思いながら、綱吉は役目を終えたモップをバケツに突っ込んだ。
「こら、また濡れんぞ」
「分かってるよ」
 勢い余って跳ねた水滴が、バケツの縁を越えて磨いたばかりの床に散った。自分でも失敗したと感じているのに、シャマルにまで言われて綱吉は機嫌を損ね、ぶっきらぼうに言い返して引き抜いたモップでそれを拭い取った。
 真っ黒に染まった水が、バケツの中で波打っている。彼はプラスチックの持ち手を起こして右手に持つと、外の水道に捨てに行こうと背筋を伸ばした。
「其処でいいんじゃないのか」
「ダメ。詰まるだろ」
 開けっ放しのドアから出て行こうとした彼の背中に、シャマルが呼びかける。振り返った綱吉は、彼が指差す方角に目も向けずに首を振った。
 保健室にも、水道はある。シャマルはその水でコーヒーを沸かすし、氷枕用の氷を作りもする。綱吉も手を洗ったり、使ったタオルを洗濯したりするのに使っていた。
 だから、ダメだ。そんな場所で、床を磨いたモップを洗い、汚水を流すなんて真似は出来ない。
 気持ちの問題以上に、保健室は衛生に留意すべき場所だという事を早口に訴え、綱吉は重いバケツを抱えて行ってしまった。
 十五歳以上も年下の子供に説教されてしまった。シャマルは苦笑して肩を竦め、面倒臭がりの癖にお節介で世話焼きな綱吉の赤い顔を思い出して、前髪を掻き毟った。
 程無くして綱吉は、空になったバケツと水気を切ったモップを抱えて帰って来た。シャマルも、新しい煙草に火をつけて、紫煙を燻らせながら明日が締め切りの書類に奮闘していた。
 所定の場所に掃除用具を片付け、綱吉は消毒薬の匂いが仄かに漂うベッド区画に足を向けた。
 モップで磨いた床はもう乾き、薄らと筋を残すのみになっていた。彼は合計四つ並んでいるそれらを避けて奥へ進み、眩しい光が差し込む窓をカーテンで覆っていった。
「別にいいぞ、しなくても」
「でも、なんか、気になる」
 陽射しを浴びて、室内に立ち込める埃がキラキラ舞うのが良く見えた。折角掃除したばかりなのに、換気が不十分で空気が汚れたままなのが悔しいらしい。現実を直視しないで済む方法が、陽光を物理的に遮ることだった。
 シャッ、とカーテンをレールに走らせて、外の景色さえもシャットアウトする。僅かに薄暗さが増した室内を見回し、ようやく満足がいったのか、彼は肩の力を抜いて腰に手を押し当てた。
 子供の顔で笑っている彼に嘆息し、シャマルは握っていたボールペンの尻で自分の顎を数回叩いた。
「まったく、良い嫁になるよ、お前は」
「だから……誰のだよ」
 先ほどと全く同じ会話が展開されて、綱吉は否定しようとして途中で言い換えた。どうせ茶化されると分かっているので、反論する気も起こらない。思いがけない綱吉の意趣返しに、シャマルは小さな目を僅かに見開き、視線を泳がせた。
 灰皿に添えられていた煙草が燻っている。吸われないまま灰が伸びて、重みに耐えかねて先から崩れていった。
「誰の、だろうな」
 答えに窮した彼の、唸るような声に綱吉はそっぽを向いた。
「あーあぁ、良い天気なのにな」
 ベッドの間を抜けて戻って来た綱吉が、これ見よがしに大きな声を出した。ゴミの山にも見える机に近付き、唯一カーテンが掛かっていない窓の手前で姿勢を右に傾ける。首を倒して側頭部を壁に押し当て、晴れ渡る空を大きな瞳に映し出した。
 シャマルはペンを置き、残り短い煙草に舌打ちして、それを灰皿に捻じ込んだ。
 太陽はこの時期最も高い位置を通り過ぎ、後は西に傾いて地平線に沈み行くのを待つばかり。ただ真冬の頃に比べれば、格段に日は高くなった。夜闇が町を飲み込むタイミングも、徐々に遅くなり始めている。
 半袖シャツ一枚でも暑くてならない、高温多湿の夏も、ぼんやりしているうちに到来してしまいそうだ。
 綱吉に倣って外を見やり、木立が揺れる様に目を細め、シャマルは火種を潰した煙草を指で弾いた。
 横目で睨んでくる綱吉の顔が怖い。伏流煙の弊害を頭に思い浮かべ、彼は胸元に伸ばそうとした手を机に戻した。
「んな目で見るな」
「どんな?」
「だから、……そんな目だ」
 息苦しさと遣り辛さを覚え、しどろもどろに告げると、綱吉は即座に切り返してきた。的確な表現が思い浮かばず、言葉に詰まってシャマルは脂性の髪を掻き乱し、椅子を揺らした。
 困っている彼を見るのは楽しくて、綱吉は内心してやったりと笑いながら、再び目を外に向けた。
 じきに、大型連休がやってくる。今のところまだ予定は無いが、早めに計画を立ててしまわないと、金銭面でのやりくりが辛い。学年が上がったので、毎月の小遣いも少額ながら増えたが、それでも微々たるものだ。
「どこか行きたいなあ」
 ぽつりと呟けば、煙草を我慢させられている腹いせにか、机の角を殴っていたシャマルが顔を上げた。
「どこに」
「んー、……どこか」
 曖昧な言葉を繰り返し、綱吉は壁に寄りかからせた右肩のすぐ前に左手を置いた。
 視線は絡まない。シャマルは物憂げにしている綱吉の横顔ばかりを眺め、頬杖をついた。
 休みがあり、時間があっても、金がなければ身動きは取れない。中学生の交通手段など、徒歩、自転車、バス、電車のどれかに限定される。免許を取れる年齢ではないので、車やバイクでの移動は運転手の存在が必要不可欠だ。
 故に行動範囲は、狭い。元々受身体質の彼は、周囲に引っ張られない限り自分から動こうとしないので、尚更だ。
「どこかって、だから何処だよ」
 結局耐え切れず、シャマルは白衣の下に着込んだスーツから煙草の箱を取り出した。何本か減っているのだろう、表面には指で潰された形跡があった。
 一緒に押し込んでいたライターを机に置き、彼は椅子から腰を浮かせた。綱吉が身を引いて壁から離れ、何をするのかと彼の行動を見守る。
シャマルは腕を伸ばし、半端に横に広がっていたカーテンを払って窓の鍵を外した。
 隙間から流れ込んできた風が彼の額を打ち、重石の無い書類が何枚か浮き上がって山を滑り落ちていった。
「シャマル」
「吸わせろ」
 掃除中は窓を開けるのを嫌がったのに、自分勝手すぎる。咎める視線を手で払い除け、彼は頬を膨らませた綱吉に短く言って、床に散った書類を拾い上げた。
 引き抜いた分厚い専門書を上に置き、飛んでいかないよう固定して箱の蓋を開ける。片手だけで一本引き抜いて咥えた彼に肩を落とし、綱吉は壁に背中を押し当てた。
「俺が肺癌になったら、シャマルの所為」
「んじゃ、俺が治してやるよ」
 天井を見上げたままボソッと言えば、ライターで煙草に火を灯した彼がなんでもないことのように言った。
 照れも臆面もなく、本気なのか冗談かの区別もつきづらい、淡々とした口調。真面目に受け答えしているようで、右から左に受け流しているだけの彼の態度は、実に面白くなかった。
「吸い過ぎ」
「そういうな」
「俺じゃ、シャマルが病気になっても治してあげられないんだから」
 脚は揃えて前に伸ばし、背中はぴったりと壁に押し当てる。両手を腿の前で結んで、頻りに指を弄り回した彼の言葉に、悠々と苦い煙草の味を愉しんでいたシャマルは動きを止めた。
 紫煙を吐くべく窄めていた口がその状態で固まり、見開かれた視線が時間をかけて伏せられる。棚引く白線は窓の隙間から訪ねて来た風に攫われ、霞みになって消えた。
 彼は机に左肘を衝き立て、広げた手に額を置いて項垂れた。
「あー、くそう」
 揚げ足を取ったつもりで、技を返されてしまった。一本背負いで投げ飛ばされた気分で、彼は乱暴に髪を掻き毟ると、吸い始めたばかりの煙草を灰皿に叩き付けた。
 完全に火が消えても何十回と先を捩じり、フィルターが破れて中身が溢れ出したところで手を離した。彼が急に怒り出した理由が分からないのか、窓辺の綱吉はきょとんとしていた。
 苛立ちを発散しきれず、シャマルは頭皮に爪を立てて歯軋りすると、心を落ち着かせようとして深呼吸を五度、立て続けに繰り返した。百面相している彼を物珍しげに眺め、そのうちにおかしさがこみ上げてきたのだろう、綱吉は相好を崩して力みの無い笑みを浮かべた。
「なにやってるのさ」
「ほっとけ」
「うん」
 からかいに声をかけると、不貞腐れた声が返される。このやり取りさえ楽しくて、彼はクスクス忍び笑いを零して目尻を下げた。
 さっきまでとは少し違う表情で外に目を向け、大きな琥珀の瞳を細める。差し込む日差しを受けて白い肌は艶を帯び、儚げな印象を見る側に与えた。
「外、あったかそうだな」
「なら、出ていきゃいいじゃねえか」
「居ちゃダメ?」
「掃除は終わったろ」
「そうなんだけどねー」
 ホームルームも終了しているので、後は教室に鞄を取りに行って家に帰るだけだ。しかし日々同じことの繰り返しで、少々飽きて来た。
 家に着けば五月蝿い子供らの相手をしなければならないし、小言の多い家庭教師に鞭打たれるのも分かっている。ならばちょっとでも長く学校に居残って、夕食までの待ち時間を減らしてから帰った方が、得ではないか。
 視線を逸らしたままの綱吉の言葉に、頷きつつも小首を傾げ、シャマルは役目を終えた灰皿を脇に退かした。
「つっても、此処に居たってすることなんか、何にもないだろ」
 保健室にはゲームも、テレビもない。ひとつしかない机はシャマルの私物で溢れ、綱吉が割り込める余地は無い。ついでに彼は保険医であって教師ではないので、綱吉に勉強を教えてやる義理もなく、尚且つまだ仕事中だ。
 手持ち無沙汰の綱吉が出来ることと言えば、保健室の整理整頓か、本来は具合が悪い生徒の為に貸し出されるベッドで惰眠を貪るくらい。
「邪魔?」
「ああ」
「……どうせ仕事なんて、真面目にやってないくせに」
「だからって、お前の相手をしてやる理由にはならないぞ」
 犬を追い払うように手首を振り、彼は綱吉を追い出しに掛かった。
 綱吉が居る限り、彼は保健室で煙草を吸えない。どうしても吸いたければ外に出て行くしかないが、それでは仕事を終えられない。だから最も効率よく事を片付けるには、綱吉の退場が必要不可欠だった。
 ところが彼は、邪険に扱われたのがよっぽど不服だったようで、大袈裟なくらいに頬を膨らませて反抗的に髭面の男を睨んだ。
「いいじゃん。禁煙しちゃいなよ」
「テメーは、何の権限があってそんな事言うか」
「シャマルには、長生きしてもらわなきゃ困るんだよ」
「なんでだよ」
「……なんでだと思ってる?」
 壁から背中を引き剥がし、拳を作って怒鳴った綱吉が、不意に声を潜めて静かに問うた。
 あまりの変化にシャマルは目を丸くし、探るような視線を投げつける彼から顔を逸らした。
 内心ドキリとしたのは、否めない。照れ臭そうに困った顔をして鼻の頭を掻き毟り、彼は答えを濁して首を振った。
「さあな」
 言わせたい綱吉の意図は分かるが、正直に吐露できるほどシャマルは出来た性格をしていない。どうしても年齢差――大人としてのプライドが邪魔をして、彼は拗ねる綱吉に肩を竦めた。
 綱吉は真剣に相手をする気が無いシャマルに舌を出すと、ゴンッ、と頭から壁にぶつかっていき、面白くないと床を蹴った。
「あーあぁ、どこか行きたいなあ」
「行けばいいじゃないか」
「ひとりじゃつまんないしなー」
 投げ出していた作成途中の書類を引き寄せ、ボールペンを転がしたシャマルが相槌を打ったが、無視された。
 綱吉の視線は感じるが、顔を上げると途端に逃げていく。彼が誰に向かって強請っているのかは自明で、延々このやり取りが続くのかと考えると溜息が出た。
「何処がいいんだ」
「んー、海とか、山とか、遊園地とか」
「ハヤトたちと行けばいいだろ」
「だって、みんなと行ったらお金かかるじゃん」
「嫌なら出歩かなきゃいいだろうが」
「えー、折角良い天気なんだから、外で遊びたい」
「近所の公園でも行ってこい」
「それじゃいつもと同じじゃないか」
 終わりの見えない押し問答に、シャマルは失敗したか、と内心渋い顔をした。下手に相手にすべきではなかったかと後悔するが、最早手遅れで、綱吉は肩でリズムを取りながら、徐々に自分が上位に回っていくのを察してほくそ笑んだ。
 頬杖ついたシャマルが、苦虫を噛み潰した顔で綱吉を見た。
「車出してよ、シャマル」
「なんで俺が」
「だって、持ってるだろ」
「そりゃ、持ってはいるが」
「乗っけてよ」
「だから、なんだって俺が」
「だって、シャマルの運転だったら交通費要らないし」
「ガソリン代払え、この野郎」
「えー、いたいけな中学生に支払わせるなんて、ひどーい」
 ワザとらしく腰を撓らせ、女性めいた動きと舌足らずな言いまわしで綱吉は上目遣いにシャマルを咎めた。
 狙ってやっているとしか思えないが、変に似合うから困りものだ。シャマルはぐっと息を呑み、殴り飛ばしてやりたい気持ちを堪えて肩を落とした。どっかり椅子に座り直し、癖毛を指に絡めて軽く引っ張る。
 苦々しい表情の彼に目を細め、綱吉は小さく舌を出した。
「ったく、今回だけだからな」
「わーい、やったー!」
 これで連休中の経費がひとつ浮いた。そう言って諸手を挙げて喜んだ綱吉の無邪気さに、シャマルはやれやれと肩を竦めた。
「んで、何処がいいんだ」
 散々渋ったくせに、腹を括ると彼の行動は早い。計画を練る時間は多いに越した事はなく、早速行き先の絞込みを開始しようとした彼に、綱吉は両手を掲げたまま停止した。
 言葉を詰まらせ、視線を泳がせる。
「おい」
「ん……どこでもいい」
「こら」
「だって、うん。シャマルの行きたいところでいい」
 自分から誘いはしたが、最初から目的地があったわけではないのだ。
 単なる思い付きから始まったので、何も決めていなかった。シャマルとしては、しつこくねだって来るから、どうしても行きたい場所があると思っていただけに拍子抜けだ。
 間抜けな顔を即座に引き締め、盛大に溜息をついてシュンとしている綱吉を軽く睨む。すると彼は益々萎縮して、壁際で小さくなった。
「お前な」
「だから、さ。シャマルが行きたい場所」
 そこに自分もついていく、と受身体質も甚だしい事を言って、彼は「ダメ?」と可愛らしく小首を傾がせた。
 小動物めいた仕草にシャマルは脱力し、額を覆った手の隙間から綱吉を盗み見た。
 彼が思いつきだけで言ったのなら、承諾の返事を撤回してもそう文句は言われないだろう。しかし一度は頷いたのだ、覆すのは大人としての沽券に関わる事態であり、シャマルは苛立たしげに奥歯を噛んだ。
「わかったよ、連れてってやるよ」
「本当?」
「ああ。けど、文句は言うなよ」
「うん!」
 吐き捨てるように言い、身を乗り出した綱吉に頷いて立ち上がる。椅子を遠くへ蹴り飛ばした彼は、白衣を揺らめかせながら机を回り込んだ。
 元気一杯に返事をした綱吉も、迫り来る彼の姿に驚き、戸惑いを表に出した。無言で近付く男の影が顔にかかり、無意識に身体は後退を試みたが、直ぐそこは壁。逃げ場が無いと知って、彼は伸びてきた手に頬を引き攣らせた。
「シャマル」
「黙ってろ」
 髪を撫でた大きな手が、後頭部を滑って首の後ろへ落ちた。肩を伝い、背中に流れて、腰を抱いて引き寄せられる。
 尻を弄る悪戯な指に悲鳴を飲み込み、綱吉は全身を強張らせた。
 華奢な体躯はあっさりと彼に抱え上げられて、運ばれる。足が地面につかない不安定さに怯えてスーツの襟を握り締め、綱吉は目を閉じて歯を食いしばった。
 ゆっくり数えて、十二秒。背中が何かに触れて、彼はベッドに横たえられたのだと知った。
「シャ……」
「黙ってろって言ったろ」
 顔に落ちる影が濃くなり、早口に叱られて綱吉はまた目を閉じた。瞼に吐息を感じ、喉を鳴らして唾を飲んだ瞬間にくちづけられた。
「ンっ」
 彼の吐く息が煙草臭い。嗽くらいしてからにしろ、と内心悪態をつくが実際に叫ぶのは無理で、緊張でコチコチになった綱吉は、唇を舐める舌の感触に身震いして心臓を跳ね上げた。
 宥めるように手が下りてきて、制服の上から左胸を撫でられる。意外に繊細な指使いをする彼に鼓動は速まる一方で、息苦しくて辛くなり、綱吉は涙目で首を振った。
 鼻で息をするのも、忘れていた。
 唇を解放されてやっと呼吸が再開されて、肺に流れ込む新鮮な空気に安堵していたら、顔に掛かる影が遠退いていった。
「シャマ、ル」
「連れて来てやったぞ」
「……え?」
「お前が来たがった場所だ」
 靴を履いたままベッドに横になる綱吉とは違い、シャマルは浅く縁に腰かけているだけ。上半身を捻って綱吉の方を向き、伸ばした右手を脇に突き立てて姿勢を支えていた。
 急激な視界と環境の変化に驚き、一瞬何のことだか分からなかった綱吉は、何度か瞬きを繰り返した。
 不敵な笑みを浮かべている男をまじまじと見詰め、脳内で会話を逆再生させる。何度かそれを繰り返した後、行き着いた答えに彼はボンッ、と頭を爆発させた。
 目を回し、両手で赤く染まった頬を引っ掻き回してひとり慌て始める。見事なまでの狼狽ぶりに、シャマルは声を立てて笑った。
「冗談だ」
 呵々と喉を鳴らし、小ぶりの鼻を抓んで彼は言った。
 顔の中心を引っ張られた綱吉は、吊り上げられる痛みに苦悶の表情を浮かべて動きを止めた。聞き間違いかと目を見開き、余裕たっぷりに涼しい顔をしている男を睨みつける。
 シャマルは口角を持ち上げて笑い、パッと手を離して綱吉を解放した。
 浮いていた頭がベッドに沈む。衝撃にくらくらして、綱吉はベッドから降りた彼を追うのが一歩遅れた。
「シャマル!」
「外行ってくるわ。帰る時はドアだけ閉めてってくれ」
 早々に歩き出し、手をヒラヒラ振った彼の背中に怒鳴りつける。
「待ってよ、シャマル。なんで」
 彼が綱吉を連れて行きたい場所が、此処ではないのか。だのに何故、自分を置いて立ち去ろうとするのか。
 連れて来たのなら、最後まで責任を取れ。そう叫ぶのに、彼の歩みは止まらなかった。
「ばーか。お前みたいなガキ、本気にするかよ」
「だったら、俺が、もっと、大人になったら、シャマルは――本気になってくれるの!?」
 背を向けたまま吐き捨てた男に尚も訴え、綱吉はベッドから身を乗り出した。姿勢を支えるのに使っていた右手が滑り、引きずられて上半身が傾ぐ。頭から床に転落しそうになって、ぎりぎり持ち堪えてベッドサイドにしがみついた。
 顔をあげれば彼が振り向いていて、綱吉の方に向けた右足を慌てて引っ込めていた。
「シャマル!」
 子供だから手を出さないと言うのなら、いつになれば大人として認めてもらえるのだろう。気持ちは本物なのに、真に受けてもらえないのが悔しくて、綱吉は嗚咽を飲んで唇を噛み締めた。
 泣き出しそうな少年の顔を見詰め、男は肺の中に溜め込んでいた二酸化炭素を吐き出した。煙草を咥える仕草をして、利き手が空っぽなのを思い出してぎゅっと握り締める。
 踵を軸にして身体を反転させ、彼は歩き出した――ドアの方へ。
「シャマル!」
「テメーが十年経っても俺を好きだっつうなら、考えてやるよ」
 その感情が幼さ故の、気の迷いかもしれない。父親の背中を重ねているだけかもしれないし、いずれもっと違う誰かに心を委ねる可能性だって否定しきれない。
 己の感情は押し殺し、男は開けっ放しのドアを潜って出て行った。

「シャマルの、馬鹿!」

 怒鳴り声をあげた綱吉に、彼はやれやれと肩を竦めた。
 両手を広げて首を振り、赤ら顔の青年をソファ越しに見下ろして溜息を零す。色素の薄い髪を揺らし、綱吉は無精髭の男を睨み返した。
「馬鹿、おおばか!」
「はいはい、馬鹿で結構」
 前方のテーブルには、合計五本の酒瓶が転がっていた。うち二本が既に空で、残りの四本もそれなりに量が減っていた。
 アイスペールの中身も空っぽで、解けた氷の残骸らしき水が溜まっていた。いったいいつから飲んでいたのかと時計を探し、頭の中で会う約束をしていた時間を思い出して彼は苦笑した。
 飛行機が天候不順で遅れたのだから、仕方がないではないか。そう手短に遅刻の理由を告げるが、それで納得するような相手なら、こんなにもべろんべろんに酔っ払ってはいないだろう。
 日頃から酒癖が悪いとの自覚があり、なるべく飲まないようにしている綱吉がこんなになっているのだから、嫌がらせ以外の何物でもない。
「だから、悪かったって」
「うそだ、絶対反省してなーい!」
 何度目か知れない謝罪を口にし、頭を下げるが聞いてもらえない。話にならない酩酊者の扱いに心底困り果て、どうしたものかとシャマルが視線を泳がせる。いっそ捨て置いて帰ってやろうかとさえ考えていたら、下からスーツを引っ張られた。
 目線だけ落とせば、ソファに深く腰掛けた青年が、とろん、と蕩ける目を向けた。
「帰っちゃダメ」
 何故分かったのだろう。
 ボンゴレ直系に顕れるという超直感は、こんなところにも発動するのか。心の中を盗み見られたシャマルは、内心冷や汗を掻きながら首を振り、では、と身を乗り出して綱吉の目を覗き込んだ。
 色付いた琥珀が妖しく輝き、目の前の男を映し出して細められる。
「なら、どうすりゃいい」
「んー……連れてって」
 囁くように問いかければ、綱吉はちょっとだけ迷う素振りをみせ、手を伸ばした。
 背凭れの向こうに居る男の首に絡め、背筋を伸ばす。鼻先を擽る酒臭い吐息に苦笑し、彼の腕を支えてやりながら、分かっていながらシャマルは小首を傾げた。
「何処に?」
 意地悪く笑む彼を軽く睨み、綱吉は唇を尖らせた後、蕩けそうな声で告げた。
「そりゃ、もちろん」
 中学生だった頃の無邪気な笑顔を浮かべ、
「シャマルの行きたいところに」

2009/04/06 脱稿