真如

 その日、沢田綱吉が目を覚ましてから最初にやったことは、壁に吊るしていたカレンダーを一枚捲ることだった。
 役目を終えた三月分を丸めてゴミ箱に捨てて、パジャマのまま部屋を出て階段を降りる。台所で作業中の母親に声をかけて後、洗面所で顔を洗って口を濯ぎ、無駄と知りつつ髪を梳いて、再び台所へと。
 時計の針は八時過ぎを指し示していたが、遅刻する云々と騒ぎもしない。奈々も特に気にする様子もなく、愛息子の為の朝食を次々テーブルに並べて行った。
「いただきます」
 両手を合わせて一礼し、ひとりきりの食事を開始した彼は、ちらりと壁時計を見上げて後ろを振り向いた。
 先にトースターに突っ込まれていた食パンが、ベルの音と共に狐色の頭を出した。左手でそれを引き抜き、右手でジャムを引き寄せた彼は、いつも騒がしい子供達を探して視線を泳がせた。
 不思議そうにしている彼を笑い、手を拭いていた奈々が、ふふ、と意地悪く微笑んだ。
「春は曙、って言うじゃない?」
「……なんだ、まだ寝てるのか」
「誰かさんの寝坊癖が伝染ったのかもしれないわね」
 皮肉を口ずさんだ奈々を恨めしげに見やり、綱吉はイチゴジャムの蓋を開けてその手でスプーンを探した。見つけ出した銀食器を使ってたっぷりと掬い取り、焼きたてのトースト表面に塗りこんでいく。
 香ばしい匂いは食欲をそそり、咥内は唾で溢れた。白と黄色のコントラストも美しい目玉焼きに、瑞々しいサラダも加わって、沢田家の食卓は今日も色鮮やかに飾り立てられていた。
 天井からの照明を浴び、つやつやと輝く美味しそうなジャムをうっとりと眺め、綱吉は満面の笑みを浮かべた。
 何はともあれ、静かに食事が出来るのは非常にありがたい。いつもは子供達に邪魔されて、隙あらば人の分まで奪い取ろうとしてくるだけに。
「ふふ」
 奈々の意味深な笑みも深く気に留めず、彼は芳しいトーストに齧り付こうと口を開けた。
 外は穏やかな日差しが燦々と降り注ぎ、春の陽気が心地よい。今日は何をして過ごそうか、色々と計画を練っていた彼の背後で。
 唐突に。
「ぎゃはははは、ランボさん登場!」
 まだ眠っている筈の五歳児の大声が響き渡った。
「――え?」
「いっただきー」
 まるで予想していなかった展開に目を見開き、呆気に取られた綱吉の注意が削がれる。すかさず駆け込んできたランボが下からジャンプして、綱吉の手にあった焼きたてのトーストを奪い取っていった。
 自分に何が起きたのか咄嗟に理解出来なかった彼は、空っぽになった右手を何度か開閉させ、目を白黒させた。
「うふふ」
「へ? え、あー!」
 楽しそうに奈々が笑う様にきょとんとし、今になってやっとランボの存在を認識して彼は叫んだ。だが一歩遅く、牛柄模様の服で全身を包んだ幼子は、綱吉に巻けず劣らずの大口を開けて、人の朝食に牙を突きたてた。
 半分ほど噛み千切り、もごもごと咀嚼して飲み込む。取り返そうとした綱吉の手を掻い潜って逃げて、テーブルの下から反対側に回り込んだ彼に、綱吉は拳を振り上げた。
「ランボ!」
「これは~、ツナが食べると病気になちゃうからー、ランボさんが食べてあげているのだ!」
「そんな、嘘つくな」
 ガハハハ、と高らかに笑って、彼は残りのトーストを口に押し込んだ。止める暇もなかった早業に綱吉も怒り心頭で、近づいて来たら一発殴ってやる気構えを作った。そうして彼の意識は完全にテーブルから逸れて、他にもぐもぐ言っている子供達が居るのになかなか気付けなかった。
 ハッとした時にはもう、さっきまで空だった椅子は全て埋まり、綱吉の為と用意された朝食は、リボーン、イーピン、フゥ太たちによって、綺麗さっぱり片付けられてしまっていた。
「え、なに。なに、これ」
「ツナ兄ぃが病気になっちゃったら困るから、僕達で食べてあげたよ」
 事態が飲み込めず、おろおろする綱吉に向かって、指についたドレッシングを舐めたフゥ太が無邪気に言った。
 ランボと違って悪気が一切感じられない純粋無垢な笑顔を前にすると、何故だか怒っている自分が悪い事をしている気分になり、綱吉は打ちひしがれて笑っている奈々を仰いだ。
 食後のエスプレッソを楽しんでいたリボーンが肩を竦め、情けない教え子にふっ、と鼻を鳴らした。
「オメーが病気になったら困るからな」
「リボーンまで、そんな事」
 見事に話を合わせる彼らに脱力し、綱吉は項垂れて額をテーブルに押し当てた。
 見え透いた嘘を貫き通す彼らは、いったい何を考えているのか。注意すべき奈々は我関せずの構えを取っている。否、そもそも彼女も、最初に嘘をついた。
 皆がタッグを組み、計画的に綱吉を騙したとしか考えられない。いったい何が目的で、と空腹に喘いで泣き顔を作った彼に、奈々は温めた牛乳を差し出して小さく舌を出した。
 横へと流れた彼女の視線は、壁に飾られたカレンダーに注がれている。同じものを目にして、四月という単語を脳に送り込んだ彼は、白い液体に息を吹きかけ、途中で噎せた。
「けほっ、まさか」
「やっとか」
 唾を吐いてしまい、口元を拭った綱吉が嫌な予感に視線を泳がせた。
 隣の席にいたリボーンが、鈍感すぎる彼を鼻で笑い飛ばす。自分にも温かいミルクを、と声を上げたランボ達に応えていた奈々が、今度は肩を揺らして目を細めた。
 今日は四月の初日。
 エイプリルフール。
「そんなぁぁぁ」
 一年に一度、悪気の無い嘘ならついても許される、そんな日。
 すっかり頭から抜け落ちていた綱吉は、明らかに悪意がある子供達の行動にも怒る気力をなくし、辛うじて残っていたサラダをもそもそと胃袋に押し込んだのだった。

 朝食は、ちゃんと奈々がひとり分確保してくれていたので、完全に食いっぱぐれたわけではない。
 しかし気分的に落ち込んでいた為、味を楽しむ事は出来なかった。
「情けねーな、ツナ」
「五月蝿いな。もう、みんなして、俺のこと苛めて」
 奈々まで悪巧みに参加すると、誰が想像できるだろう。疑いもしなかったと、母親の手酷い悪戯に肩を落とし、彼は午前十時にして空腹を訴える腹を撫でた。
 いつもと変わり無い量を食べたはずなのに、ちっとも満腹になれなかった。気分も乗らず、折角の春休みで終始フリータイムというのに、ゲームをしていてもまるで楽しくない。
 ゲームオーバーの文字をでかでかと表示するテレビを切り、ゲーム本体のリセットボタンを押して電源もオフにした彼は、深々と溜息をついてハンモックでまったりしているリボーンを睨みつけた。
 なんとか逆襲してやりたいところだけれど、そもそも彼に口で敵うわけがない。向こうも警戒しているので、下準備もなしに吐いた嘘で騙せる可能性は低いと思われた。
 正直なところ、悔しい。
「ちぇ」
 コントローラーのコードを纏めてゲーム機の上に置き、綱吉は悪態をついて立ち上がった。リボーンが見守る中、窓辺の机に近付いて椅子を引く。
「勉強でもするかな」
「嘘だな」
「……そうだよ」
 何気なくボソリと呟いた途端、頭に鋭い声が落ちてきて、綱吉は唇を噛んだ。
 一瞬だけ本気で宿題をやろうか考えていたのに、リボーンに言われた所為でまたやる気が逃げて行った。
 ここで我慢して椅子に座ってテキストを広げていれば、ある意味彼に意趣返しで来たかもしれないのだが、そこまで頭が回らない綱吉は不貞腐れた顔で引いたばかりの椅子を戻し、そこにあった財布をポケットに押し込んだ。
 唇を尖らせて露骨なまでに拗ねて、荒々しい足取りで部屋を出ようと踵を返す。
「何処行くんだ」
「いいだろ、どこでも」
 質問にぶっきらぼうな返事をして、彼は乱暴にドアを開けると閉めもせずに廊下に出た。
 ひんやりした空気が、カッカしていた頭を冷やすには丁度良かった。全体的に火照っていた体も、時間が経つにつれて静まっていく。
 自分よりもずっと年下の子供に、言いように騙されたのが悔しいというよりも、恥かしいだけだ。八つ当たりをぶつけてしまったドアをちらりと盗み見て、一応反省の色を浮かべた彼は、コソコソと逃げるように一階へ降りて玄関に向かった。
「お出かけ?」
「うん」
 洗濯物がいっぱいに詰まった籠を抱え、洗面所から出て来た奈々には頷いて返し、靴に爪先を押し込む。話し声を聞きつけた子供らが、遊びに行くのかと期待の眼差しを向けて来たが、彼は手で追い払う仕草を取り、何も言わずにドアを開けた。
 口々に不満を訴える小さな子供達を置き去りに、晴れ渡る空の下へと繰り出す。目的地は特に決めていない、ただ昼食までそう時間も残されていないので、遠くへ行くのは難しそうだ。
「どうしようかな」
 気晴らしにその辺をぶらぶらするくらいしか、思いつかない。約束をしていないのでいきなり獄寺を訪ねるのも失礼だろうし、山本は野球部の練習中だろう。京子やハルは、正直分からない。
 ランボたちと一緒なら、公園で遊ぶのも悪くないのだが、家に置いてきてしまった。嘘をつかれたその仕返しで無視したのだが、大人気なかったかと今頃後悔して、綱吉は後ろを振り向いた。
 他の住宅に隠れ、屋根すらもう見えない。背伸びをしてもそれは変わらず、挙動不審に背後を窺っていた彼の横を、自転車が勢い良く駆け抜けて行った。
 危うく跳ね飛ばされるところで、巻き上がった埃を避けて顔を顰めた彼は、遠ざかっていく見知らぬ人の背中に悪態をつき、落ちていた小石を蹴った。
「なんなんだよ」
 折角気持ちよく晴れて、暖かいのに、今日という日のスタートが悪かった所為で、なにもかもが嫌な方向に向かって動いている気がしてならない。胃がむかむかして、彼は「27」の数字のロゴが入ったトレーナーを握り締めた。
 エイプリルフールなのだからと、そう割り切ってしまえば良い。分かっているが、釈然としなくて、気がついたら溜息ばかり零している自分が居た。
 どこかに、スカッとするような出来事が転がっていないだろうか。見上げた空の青さに目を細め、綱吉は緩く首を振って歩き出した。
 背筋を伸ばし、爽やかな春風を胸いっぱいに吸い込んで深呼吸を。心持ち早足気味に町内をうろついているうちに、鬱々としていたものは汗と一緒に流れ、少しずつ消えていった。
 目の前にコンビニエンスストアが現れた頃には、多少心にゆとりも戻って来た。
「何か買って帰ろうかな」
 財布の中身は心細いが、チョコレートのひとつくらいなら問題なかろう。ズボンの後ろポケットを撫でて厚みを確認し、彼は小走りに横断歩道を渡った。
 対岸につく頃に青いランプが点滅を開始して、危なかったと息を吐く。心地よい風に前髪を躍らせ、彼は客の少ない店の自動ドアを潜り抜けた。
 優しいメロディーがスピーカーから流れる内部には、店員がふたり。ひとりがレジに立ち、ひとりがおにぎりの陳列に勤しんでいた。
 立ち読みをしているお客がふたり、肩身狭そうに外に向かって立っている。南向きのガラスから差し込む眩い光に目を細め、綱吉はレジ前で曲がって菓子類が並べられた棚を目指した。
「あ、これって新しい奴だ」
 幼子が好みそうな駄菓子系の隣には、箱入りの菓子が窮屈そうに詰め込まれていた。値段を書いたプレートのうちいくつかに、色鮮やかなポップが張り付いている。新発売、の文字が躍る様に、綱吉は思わず唾を飲んだ。
 誇張しすぎではないかと思えるくらいに、凝りに凝ったパッケージが並んでいる。どれもこれも美味しそうで、片っ端から手に取ってレジに持って生きたい気持ちに駆られた。
 しかし、財布の中身には制限がある。今月の小遣いをまだ貰っていないので、手持ちはスズメの涙だ。
「む、う。どれにしようかな」
 春らしい明るい色合いの箱を小突き、眉間に皺を寄せて真剣に悩む彼の姿は、ある意味滑稽だ。しかし本人にとっては一大事であり、たっぷり五分は考え抜いた末、棒状のクッキー生地にチョコレートをコーティングした、オーソドックスなものをひと箱選んで棚から引き抜いた。
 なんだかんだ言って、新発売の期間限定品には地雷が多い。なけなしの金を使ったものがあまり美味しくなかったら哀しいので、無難に飽きの来ないものを選択した彼は、意気揚々とそれをレジに持って行った。
 袋に入れてもらい、清算を済ませて外へと。立ち読み客は三人に増えていて、昼食の購入に来たと思しき人が、綱吉と入れ替わりに店に入っていった。
「もうそんな時間か」
 振り返って店内の時計を読み取り、駆け足で通り過ぎて行った時間を思って綱吉は腹を撫でた。
 意識すると、空腹感が強まる。今日の昼食のメニューは、なんだろうか。
 一瞬、朝の騙くらかされた記憶が脳裏を過ぎるが、ぶんぶん頭を振り回して追い出し、彼は手にした袋を顔の高さまで持ち上げて、沸きあがろうとする怒りを堪えた。
「これは、あいつらには、やらないぞ」
 それくらいの嫌がらせは、許されるはずだ。いっそ、先に中身は全部食べてしまい、空箱だけ持ち帰って、分けてやるとの名目で与えてみようか。
 なかなかの妙案ではないか。泣いて悔しがるランボの姿が楽に想像出来て、綱吉は肩を揺らして笑った。
「よーし、そうと決まれば」
 昼食前におやつはあまり宜しく無いが、むくむくと沸き起こる悪戯心は止められない。歩きながら食べるのは行儀悪いので、どこかゆっくり、座って過ごせる場所を探して綱吉は視線を巡らせた。
 この近くに公園は無かったろうかと頭の中に並盛町の地図を描き出し、綱吉は裏道に当たる細い筋に爪先を向けた。
 そして。
「あ……」
 向こうから歩いてくる人の姿に、息を止めた。
 黒の学生服を羽織り、腕の通らない袖には臙脂色の腕章が。綱吉に負けず劣らず華奢な体格をしていながら、信じ難い強さで並盛中学の頂点に君臨する人物が、ゆったりとした足取りでこちらに向かっていた。
 長めの前髪が左右に揺れて、瞬きひとつの間に彼は綱吉を知覚した。距離は五メートル以上あったが目が合ったと分かり、綱吉はカッと頬を赤くして慌ててビニール袋を背中に隠した。
 学校は休みなので、この時間に私服でうろついていても、何ら問題は無いはずだ。しかし雲雀は、事ある毎に難癖をつけて来るので、油断ならない。
 そこは背の高い塀に左右囲まれた、人通りも少ない道だった。幅もそう広くなくて、軽自動車くらいしか通り抜けられない。よもやこんなところで遭遇するとは夢にも思わず、綱吉は袋をガサガサ言わせながら、どう対処するかで迷い、視線を泳がせた。
 そうしている間も、雲雀の歩みは緩まない。足音は響かないが、近付いてくる気配に竦み、彼は奥歯を噛み締めた。
「――やあ」
 お互い、知らない間柄ではない。綱吉をマフィアの後継者にする、と豪語するリボーンが、雲雀をファミリーに入れたがった事から起きた騒動で、双方ともに強く、相手の印象を残すことになった。
 血生臭い話しか聞かなかった雲雀が、色々な顔を持つ、自分たちとそう違わない感情ある人間であると知る、足がかりにもなった。
 伸びのある低音で挨拶を送られ、綱吉は背筋を真っ直ぐ伸ばした。
「こ、ここ、こっ……こんっ」
 こんにちは、と言いたかったのだが、喉に息がつかえて巧く発音できない。馬鹿みたいに緊張している自分が恥かしくて、両耳から湯気を吐いた彼に、雲雀は細く切れ長の目を眇めた。
 どうやら彼は、笑ったらしかった。分かりづらい微妙な表情の変化にまた心臓が縮まって、息苦しさに喘いで綱吉は半歩後退した。
 そこにあった電信柱に手が当たり、握っていたビニール袋がひとつ大きな音を立てた。
 雲雀の注意もそちらに向いて、僅かに姿勢を横に傾ける。覗き込んだ彼から隠すように手を動かすが、完全に見えなくするのは至難の業だった。
「買い物帰り?」
 最初の段階で「こんにちは」と返せていたなら、そこで会話は終わっていただろうに。質問を投げてきた雲雀にビクリと震え、綱吉は一瞬の躊躇を挟んで頷いた。
 見た感じ、雲雀の機嫌は良さそうだ。いきなり殴られるという事は無いという直感を信じ、浮かせていた踵を下ろして俯き加減だった顔を持ち上げる。
 陽光を斜めに浴びた雲雀の姿に、綱吉は頬に走る朱の色を強めた。
「お昼ごはん?」
「あ、いいえ。……お菓子を」
 時間的に彼がそう思うのも、無理は無い。袋の種類から近くのコンビニエンスストア帰りだと察した彼の言葉に首を振り、綱吉はさっきまで強固に隠そうとしていたものを前に出した。
 袋の持ち手を広げ、中身を彼に見せる。覗き込んだ雲雀は、嗚呼、と相槌を打って目を細めた。
「昼前なのに?」
 痛いところをつかれ、綱吉はぐっと喉に息を詰まらせた。真一文字に唇を引き結び、反論を懸命に考えている彼をまた笑って、雲雀は背筋を伸ばして腰に手を添えた。
「別に、今直ぐ食べようってわけじゃ」
 さっきまでは、そうするつもりでいたのだが。
 ぶつぶつと小声で言い訳がましく呟いた綱吉が、袋の口を閉じて右足を蹴り上げた。爪先は雲雀の足の手前で止まり、戻っていく。薄汚れたスニーカーを見下ろして、彼は居心地悪げに身を揺らした。
 どうにも落ち着かないのは、雲雀との距離が近いからだ。
 彼の身体が壁となり、影が綱吉に被さっている。やたらと五月蝿い心臓の音が彼にまで聞こえてしまいそうで、綱吉はこの後どうしようかで迷い、袋の上から菓子箱を握り締めた。
 誰か通り掛らないだろうか。
 助けを求めるように雲雀の両脇に目を走らせるが、片側は塀で、残る狭い路地は依然他に人影はなかった。
 風が吹いて首を撫でるのでさえ、大仰なくらいにビクビクしてしまう。いったい自分はどうなってしまったのかと、鳴り止まない鼓動と息苦しさに彼は目を回し、浅い呼吸を繰り返した。
「なら、三時のおやつだね」
「……はい」
 しっとりと響く声に、頭の中がぼうっとする。思考を奪い取られて、綱吉は掠れた声で頷き返した。
 喉を鳴らして笑う雲雀を見るのが辛い。だけれど、目に焼き付けておかなければいけないような気がして、逸らせない。
「ヒバリさん、は」
「うん?」
 震えているのを隠し、小声で呼びかける。聞こえづらかったのか、ほんの少し身を乗り出した彼に、綱吉はたどたどしく問いかけた。
「今から、その……お昼?」
「ああ、そうだね。それも良いか」
 狭まった空間に内心悲鳴を上げた綱吉を知らず、雲雀は言われて思い出したかのように声のトーンを僅かに上げた。
 顎を撫でて考えながら、ゆっくりと前のめりだった姿勢を戻す。目の前に明るさが戻って、綱吉はホッとしつつも、どこか残念に思っている自分に気がついてハッとした。
 遠くにやっていた視線を戻した雲雀が、一人で百面相をしている綱吉に首をかしげた。
「沢田?」
「はい!?」
 呼ばれて素っ頓狂な声を出し、二秒後に我に返って綱吉は顔を赤くした。
 特に用があって呼んだのではない雲雀は、カーッと耳まで真っ赤になった彼に堪えきれず噴き出した。恥かしそうにじたばたと両手を振り回す綱吉に、落ち着くよう促して腕を伸ばす。
 手を広げ、癖だらけの髪を押し潰すように撫でた。
「……っ」
「へえ、意外に柔らかい」
 もっと針のように尖って、硬いのかと思っていた。
 そう感想を述べた彼だけれど、硬直していた綱吉は聞いていなかった。今自分の身に降りかかっている出来事がにわかには信じられず、琥珀色の目を丸くし、心臓も呼吸も止めてしまった。
 冷血漢として知られる雲雀の手は、温かかった。血の通った人間なのだと認識を強めると同時に、くしゃくしゃに髪を掻き回す指の動きが存外に優しいと知る。
 細められた眼差しの穏やかさに、思考回路はショートした。
「うあ、あの、あ……うぅ」
「早く帰りなよ」
 口を開いてもまともな日本語は出てこず、真っ白になった頭は変な音ばかりを紡いだ。
 熱が出ているかもしれない。雲雀の支えがなくなってくらくらする体を電信柱に押し付け、コンクリートの冷たさにホッとしていたら、目の前からはそんな台詞が降って来た。
 それで我に返り、瞬きをして自分を取り戻した彼は、歩き去ろうとしている雲雀に向かって発作的に手を伸ばした。
 揺れる学生服の裾を掴み、引っ張られて気付いた雲雀が振り返る。それで綱吉も、自分が何をしたのかを理解して慌てて指を解いた。
「なに」
「いや、あの、これは、なんでも」
 深く考え無しの行動に自分でも戸惑い、驚きが隠せない。火照った顔を上向けて怪訝にしている雲雀に首を振ろうとした彼だが、直前で思い留まり、白いビニール袋を握り締めた。
 もう片手で、先ほどまで雲雀の手があった場所を探り、日の光を浴びて蜂蜜色に透ける髪を掻き毟る。
「その、ヒバリさんて、お昼ごはんとか……やっぱり」
 並盛中学校の風紀委員長として、日頃から何かと忙しい彼は、食事の時間さえ惜しんで業務に励んでいる。だから雲雀は、片手で、簡易に栄養が補給出来る携帯食を重用していた。
 成長期に必要な栄養素はそれで確保できているかもしれないが、食事は皆で仲良く、テーブルを囲んで食べるものと思っている綱吉には、雲雀の食事風景が非常に味気なく、寂しいものに感じられた。
 二ヶ月ほど前に知り、その一ヵ月後に返礼の意味合いでリクエストされたハンバーグを作って、彼に差し入れた綱吉だけれど、その後どうなっているかは知らない。きっと改善されていないのだろうと窺い見ると、雲雀は切れ長の目を丸くし、気まずそうに視線を逸らした。
 思った通りだ。
 相変わらず彼は昼食――もしかしたら他の食事も、手抜きの栄養補助食品で済ませているらしい。表情から読み取って、悔しいような、切ないような気持ちになって、綱吉は唇を尖らせた。
 口元を左手で覆った雲雀は、指摘されて最初は動揺したものの、直ぐに自分を取り戻して綱吉を見下ろした。
「なら、作ってくれるの?」
「へ?」
「前みたいに」
 二週間と少し前、ハルの家の台所を借りて作ったハンバーグ。食べ易いようにパンに挟んで、付け合せのサラダと一緒にランチボックスに押し込んで、綱吉は応接室の彼まで届けた。
 バレンタインの日にチョコレート味の携帯食を貰って、そのお返しだった。それ以上の意味は、まったく無い。
 だのにその日見た雲雀の、嬉しそうな笑顔に胸は高鳴った。自分でも信じられないくらいに顔が熱くて、ジッとしていられなくて、逃げるように立ち去ったのを覚えている。
 思い出してカッとなった綱吉に微笑みかけ、雲雀は両手を腰に当てて迫った。
「どうなの?」
 顔が近付いて、呼気が鼻に掛かる。肌を擽る感触に鳥肌が立って、綱吉はヒッ、と頬を引き攣らせた。
「ど、どど、どう……って、そんな、無理。無理ですって」
 ドギマギしてしまい、呂律が回らない。早口に叫んでかぶりを振って、雲雀から距離を取ろうとしたが、電信柱がまたも彼の邪魔をした。
 ホワイトデーは、作るとあらかじめ決めておいたから出来たのだ。いきなり言われて、ハイ分かりました、と返せるわけがない。
 それなのに雲雀は益々顔を近づけて、至近距離から綱吉を覗きこんできた。大粒の琥珀に端正な顔立ちがいっぱいに映し出され、逃げることも出来ない彼は奥歯を噛み鳴らした。
 息が掛かる。彼が声を発する度に動く唇に目が行って、綱吉は唾と一緒に息を飲んだ。
「どうして?」
「だ、だって、俺、料理なんて。それに、美味しくなんか……」
「美味しかったけど?」
「そん――」
 嘘だ、と叫ぼうとして綱吉は上唇を掠めた風に目を見開いた。
 あまりにも彼との距離が近すぎて、身を乗り出したら触れてしまう。咄嗟に肩を引いて電柱にぶつけた綱吉は、穏やかに微笑んでいる雲雀を前に、爆発寸前まで膨らんだ心臓を掻き毟った。
 胸が痛い。呼吸が苦しい。
 此処から逃げ出したいのに、足が動かない。
「ねえ、作ってよ。お腹が空いたな」
 雲雀はゆっくりと、聞いた事も無い甘えた声で綱吉にねだった。
 右手を上げて電信柱の高い位置に押し当て、綱吉を狭い空間に閉じ込める。軽く曲げた膝で人を牽制し、左手も上向かせて、返事が出来ずにいる綱吉の顎を抓んだ。
 視線が自分に向くように固定して、目を細める。
「そんな、俺のなんかより、よっぽど」
 料理に不慣れな綱吉が作るよりも、コンビニエンスストアで売っているものの方が、ずっと美味しいではないか。
 そう掠れる声で反論しても、雲雀は首を横に振って嫌がった。温かい手料理が良いと突っぱね、耳を貸そうとしなかった。
 雲雀がこんな我が儘を言うなんて、知らなかった。新しい彼の一面に触れて、胸が疼く。そこまで言うのなら、また彼に何か差し入れても良いかと思えてしまって、けれど今日いきなりは矢張り無理で、綱吉は丸めた右手を心臓の上に置いた。
「じゃ、あ……うちに。母さんの」
 ひとり分くらいなら、なんとかなる筈だ。料理上手な彼女のことだから、頼めば冷蔵庫にあるもので、何か作ってくれるに違いない。
 妙案だと曇っていた表情を明るくした綱吉だったが、雲雀は唇を尖らせて不満を露にした。
 喜んでくれると思って言ったのに、正反対の顔をされて綱吉は戸惑った。手料理が食べたいというから提案したに関わらず、雲雀はまたも嫌がって首を横に振った。
「そんな」
 では、どうしろと言うのか。
 混乱した綱吉は視線を伏し、眉間に皺寄せて考え込んだ。
「作ってくれないんだ」
「だから、うちに来れば母さんのが」
「君の家は騒々しいから」
「……ああ」
 そういうことか、と群れるのを嫌う彼の性質を思い出し、ならば納得だと綱吉は頷いた。
 小さな子供が多い沢田家は、確かに騒がしい。朝から晩まで、必ずどこかでどたばたと物音が響いている。静かなのは彼らが眠っている時くらいで、雲雀が嫌がるのも当然だった。
 奈々の料理が不満なのではないと分かって、ホッとした彼は胸を撫で下ろした。良かったと呟いてはにかむ様をじっと見下ろし、雲雀は一旦下ろしていた左手を浮かせた。
 肩を撫でられ、綱吉の目がそちらに向く。その隙に身を屈めた彼は、綱吉に被る影を濃くして反対の肩に寄りかかった。
「――え」
「ダメ。喋ってたらまたお腹が空いた」
 触れ合った肌と、頬を掠めた彼の黒髪に驚いて、綱吉が反射的に押し返そうと手を動かす。しかし耳に響いたくぐもった声に全身が硬直し、それ以上動けなくなってしまった。
 半端なところで停止した指先が宙を掻き、掴むものを求めて泳いだ。爪が引っ掻いたものを手繰り寄せると、それは雲雀の着ている白いシャツで、握ってから気付いた綱吉は慌てて振り解き、ビニール袋と一緒にして背中に回した。
 散々握り締めた影響で、折角買った菓子の箱はボコボコに凹んでいた。
「ひ、ひば、り、さん?」
「沢田、お腹が空いた」
「そんっ」
 回りきらぬ舌で名前を呼べば、雲雀は顔を伏したまま僅かに身じろいだ。聞こえた台詞に綱吉は全身を粟立たせ、どうしていいか分からず、箱を持つ手に力をこめた。
 ペキ、と表面が凹む感触に目を瞬き、存在自体を忘れかけていた菓子を思い出す。今はこれしか持ち合わせていないから、と差し出そうとしたが、電柱から降りてきた彼の手に封じられて叶わなかった。
 今の状況を的確に表現するとしたら、そう。
 抱き締められている――
「ヒバリさん」
「沢田、ケーキが良いな。食べたい、作って」
「はいぃ?」
 締め付けは緩いのに、振り解けない。凍りついた綱吉が裏返った声を出したら、笑っているのか、雲雀は急に掌を返した内容を口にした。
 今までは手料理が良いと言い張っていたのに、急に話が変わった。頭の天辺から声を響かせた綱吉に、本格的に雲雀は笑って身を起こした。
 悪戯が決まって嬉しがっている。今日という日を思い出して、綱吉はカーッと顔を赤く染めた。
「う、――嘘!」
「ケーキ。来月の五日」
「知りませんっ」
 来月の五日といえば、こどもの日だ。ゴールデンウィークの長期休暇の真っ只中に、どうしてケーキなぞ焼かねばならないのか、さっぱり理解出来ずに綱吉は怒りを爆発させた。
 鼻息荒く叫んで、楽しげに笑っている雲雀の肩を突き飛ばす。それくらいで彼はふらつかなくて、力の差を見せ付けられて綱吉は頬を膨らませた。
「作ってくれないんだ」
 拗ねた彼の表情に目を細め、雲雀は少し哀しげに言った。そんな顔をしても騙されないと意気込み、綱吉は力いっぱい睨みつけて、念で雲雀を押し返した。
 すると益々、彼は寂しそうにするものだから、自分が悪者にされてしまったようで、落ち着かなかった。
「……五月五日?」
「そう」
「こどもの日」
「うん」
 上目遣いに問うと、雲雀は淡々と頷いた。切なげに見詰める彼の表情を脳裏に焼きつけ、綱吉は唇を噛んだ。
 今日一日だけで、頭の中の雲雀恭弥というアルバムがいっぱいに埋まってしまいそうだった。
 確認して、綱吉はその日を心に刻み込んだ。こどもの日にケーキだなんて、ランボみたいな我が儘を言う。その甘える先が自分であるのが照れ臭く、また嬉しくもあって、胸に湧いたわくわく感に彼は頬を緩めた。
 綱吉の表情の変化を見守っていた雲雀は、彼の顔が綻ぶ様に少し驚き、心臓を締め付けていた緊張を解いた。
 仕方が無いな、と言わんばかりに顔を上げて微笑んだ少年を前にして、脈がいつもよりちょっとだけ速くなるのが分かった。トクン、と鳴った胸の鼓動が外にまで響いてしまいそうで、息が詰まった。
「美味しくなくても、文句言わないでくださいよ」
 念押しする彼のはにかむ姿に、胸がざわめく。優しく色付く琥珀の瞳に、眩暈がした。
「沢田」
 髪を撫でた時の反応が、あまりにも愛おしかったから、つい出来心で抱き締めた。触れた肌は柔らかくて、温かくて、とても小さかった。
 コロコロと変わる表情が楽しいので、もっと色々な顔が見たくてちょっかいを出すのを止められない。つい苛めてしまう。
 彼にだけは我が儘になっている自分が、此処に居る。
「まだあるんですか?」
「お腹が空いた」
 まずいと分かっている。けれど制御が出来なくて、雲雀は綱吉に向かって、いい加減聞き飽きたであろう台詞を繰り返した。
 今までのやり取りを、エイプリルフールの一環として受け止めていた綱吉は、再び紡がれた彼の言葉に変な顔をした。急に変容した気配に警戒し、背中を電柱に押し当てる。
 逃げ場のない彼を更に隅に追い詰めて、雲雀は手を伸ばし、僅かに怯えている彼の肩を掴んだ。
「ヒバリさん?」
「ねえ、沢田。お腹が空いたんだ」
「だって、それは嘘……で」
 ぐっと顔を近づけ、綺麗な宝石を覗き込んで告げる。たどたどしく返された言葉を眼差しで否定し、雲雀は弱々しく首を振った綱吉の頬に右手を添えた。
 平日の昼間の為か、場所柄もあって人はまるで通らない。塀と柱の間に追い遣られた綱吉は、今日初めて目の前の男を怖いと感じ、締め付けるような痛みを放つ心臓を両手で抱え込んだ。
「ヒバリさん、放して」
「沢田、食べさせて」
 会話がかみ合わない。圧迫感から悲鳴を上げそうになり、綱吉は彼が頬を撫でるのに首を竦めた。
 親指が顎に落ち、そこから上向きに転じる。柔らかな肉を押し上げる感触に閉じていた目を開き、綱吉は怖いくらいに真剣な眼差しをする雲雀に息を呑んだ。
 なにを食べると言うのだろう。彼は何が欲しいのだろう。
 頭に白い靄がかかり、綱吉は考えるのを止めた。雲雀の指はそっと、彼の下唇を左から右に向かってなぞり、真ん中に戻って上唇と一緒に押さえ込んだ。
「ヒ――」
 言葉を封じられて、呼吸するのもままならない。瞳を限界まで下向けて彼の反り返る指先を視野に入れ、何をされるのか分からない恐怖に綱吉は身を震わせた。
 雲雀の顔が近付く。影が濃くなり、焦点がぶれて輪郭が滲んだ。
「沢田」
 繰り返される彼の声が、全身に染み渡る。手に力が入らなくて、抱えていたビニール袋が滑り落ちた。
「ねえ、沢田。君を――食べさせて」
 囁かれる、熱い吐息。指越しに唇に触れた呼気に身体中の血液が沸騰して、綱吉の思考は破裂した。
 見開いた瞳に映る雲雀の顔は、冗談を言っているものとは到底思えなかった。熱を帯びて潤み、艶を増して綱吉を射抜いている。
 見詰められて、綱吉の心臓は壊れてしまった。
「た……」
「食べたい、君を」
 それがどういう意味で発せられているのか、分からない綱吉ではない。
 しかしまさかあの、雲雀恭弥から告げられるとは夢にさえ思っておらず、彼は瞠目した。
 引付を起こした指先が反り返って痛みを発し、ぶつかり合った膝が硬い音を響かせる。肌に触れる湿り気を伴う熱に、奥歯がカタカタと鳴った。
 雲雀がそんな事を言うなんて。ただ、これまでの彼の我が儘ぶりを冷静に思い返せば、確かに随所に見え隠れしていた。そして綱吉は、彼の身勝手さに怒りながらも、彼から向けられる感情を心地よいと感じていた。
 意識していなかった。
 いや、敢えて考えないようにしていたのかもしれない。
 必死になってハンバーグのレシピを読み漁り、何度も失敗しながら、懸命に肉を捏ねていた自分が蘇る。馬鹿らしいと思いつつも、止めようと思わなかったのはどうしてか。ダメツナが作った料理が予想外に美味しかったと言わせたくて、彼を驚かせてやろうと躍起になったのは、何故か。
 ぐちゃぐちゃに混ざり合った記憶が、ひとつの結論を導き出す。
 情欲を孕んだ雲雀の視線は、一直線に綱吉に向いている。顔も、頭の中も、心さえも熱くて、溶けてしまいそうだった。
 スッと雲雀の指が遠退く。圧迫感が薄れ、綱吉は薄く唇を開いた。
 息を吐き、雲雀のそれと混ぜて飲み込む。空気は何の味もしない筈なのに、妙に甘く感じられた。
「さわだ」
「っ!」
 狂おしげに名前を呼ばれて、全身が心臓になっていた綱吉は堪えきれず、目を閉じた。
 瞼を下ろし、視界を闇に染める。それでも焼き付けた雲雀の顔はくっきりと見えて、綱吉は緊張に胸を高鳴らせた。
 されど。
 どれだけ待っても、その瞬間はやって来なかった。
「…………?」
 ドキドキ言う鼓動は次第に勢いを弱め、平常値に近付いて綱吉に事の異常さを教えた。どうしたのだろうかと怪訝に感じ、彼は小首を傾げて右の瞼だけを半ばまで持ち上げた。
 雲雀は左手で顔の下半分を覆い隠し、赤い顔を影の濃さで誤魔化していた。
「ヒバリさん?」
「……っは。冗談だよ」
 息を吐いて笑い、彼は言った。伸ばされた綱吉の手を叩き落とし、乱暴に黒髪を掻き毟る。
 耳に入って来た言葉に目を見開き、綱吉は唖然と口を開いた。
「え――」
「エイプリルフールだよ、今日は」
 宙を泳いだ雲雀の目が、己の足元に向けられた。綱吉を見ようともせず吐き捨て、本気になった綱吉を笑い飛ばす。
 どことなく苦しげな表情をされても、綱吉には彼の内心を読み取る術が無い。耳に入る音、彼が今言ったことだけが情報の全てで、からかわれたのだと解釈するのにそう時間はかからなかった。
「うそ……?」
 蚊の鳴くような声で問うが、雲雀は返事をしてくれなかった。その事実に慄然として、彼は空っぽの両手を握り締め、小刻みに震わせた。
 今朝方の子供達の悪戯よりも、はるかに質が悪い。なにひとつ疑わなかった綱吉は、膝から崩れて行きそうな身体を懸命に支え、長く忘れていた呼吸を再開させて口を閉じた。
「そうだよ。まさか、本気にし――」
「ウソ?」
 荒っぽく言い切ろうとした雲雀が、途中で言葉を切る。彼は琥珀の瞳にいっぱいの涙を浮かべている綱吉に絶句し、顔を青褪めさせた。
 色を悪くした綱吉の唇が、酷く頼りなげに音を紡ぐ。雲雀本人が否定しているのに信じられなくて、信じたくなくて、彼は嫌々と首を振り、堰を切った涙を頬に流してしゃくりを上げた。
 ぐずっと鼻を鳴らし、奥歯を噛み締めて、懸命に泣き声を押し殺す。だけれど堪えは効かず、彼はトレーナーの裾を握り締めて肩を怒らせ、目の前の男に怒鳴りつけた。
「馬鹿!」
 気勢に圧倒され、雲雀は目を丸くした。
「馬鹿……なんで、馬鹿! 俺が、これじゃ俺が、なんで、俺だけ、期待したみたっ……」
 吐く息を喉に詰まらせた彼はかぶりを振り、両手を目尻に押し当てて強く擦った。赤い顔をもっと赤くして、嗚咽を噛み殺し、涙で沢山の川を作って雲雀の前でわんわん泣きじゃくった。
 指先を痙攣させた雲雀が、何かを言おうとして口を閉じた。瞬きを忘れて目の前で起きている出来事を凝視し、胸を衝く言葉に全身を粉々に砕いていく。
「ひどい、よ。ヒバリさんのこっ、おれ、ヒバリさんがス――」
 そうして綱吉も、勢い任せに吐き捨てようとした台詞を途中で止め、唇を窄めた状態で停止した。
 今自分が、何を言おうとしていたか。
 意識せぬまま叫ぼうとしていた単語を脳内に描き出し、彼は濡れた目で雲雀を見た。
 右手を持ち上げた雲雀が、呆気に取られた彼の肩を掴む。
「やっ!」
 反射的に跳ね返し、叩き落して綱吉は踵を返した。落とした菓子を袋ごと踏みつけて、存在すら忘れて逃げ出す。
 駆け出した彼を追い、雲雀は踵を軸に反転した。
「沢田!」
 綱吉が目を閉じた瞬間、我に返った。自分が何をしようとしているのかを冷静に、客観的に見て、慌てた。
 なによりも綱吉が嫌がらなかったことに驚いた。自分も彼も男なのは確認するまでもなくて、それなのに気持ち悪がりもせずに顔を赤くして緊張に身を硬くしている姿に、心が逸った。
 同時に、冷や水を浴びせられて頭は冴えていった。
 自分の中にある、綱吉に対する感情の名前を初めて認識し、動揺が駆け巡る。そんなわけが無いと急いで否定して、認めたくなくて、嘘で誤魔化した。
 笑って受け流されると思っていた。だのに、泣かれた。
 泣かせた。
 傷つけた。
「沢田!」
 手を伸ばし、捕まえる。細い腕だ、握れば折れそうなくらいに。
 抵抗を容易に封じ込め、引き寄せる。抗った彼の身体を強引にねじ伏せ、雲雀は綱吉を胸に閉じ込めた。
 強く抱き締めて、暴れる彼の首に額を埋める。
「はなしっ――」
「好きだ」
 綱吉が言いかけて、途中で止めてしまったことば。
 早口に告げて、ちゃんと言えているかどうか不安になって、雲雀はもう一度繰り返した。束縛を嫌がった綱吉の肩がピクリと震えて、抵抗が弱まり、やがて完全に沈黙した。
「うそ、だ」
「嘘じゃない」
「うそだよ、嘘だ!」
 代わって飛び出した彼の荒い語気に、雲雀は即座に否定して、それをまた否定された。
 首を振り、また逃げ出そうと暴れる彼を抱く腕に力をこめるが、それを上回る底力を発揮されて雲雀は臍を噛んだ。振り解かれた腕を宙に走らせ、もう一度綱吉を捕まえる。持ち上がっていた彼の左手を取って斜め下に引っ張り、バランスを崩したところを狙って反対の肩を前に押し出す。
 くるん、と回転した彼の身体を塀に押し付け、雲雀は綱吉に覆い被さった。
 暗さを増した視界に、綱吉が怯えて目を閉じる。奥歯を噛み締めて殴られるのも覚悟した彼は、固く引き結んだ唇を撫でる柔らかい熱に竦み、全身に鳥肌を立てた。
「んン――」
 目を開いても、視界は真っ暗だった。
 さらりと軽い何かが触れる感触が額を掠めていく。吹いた風に頬を擽られ、焦点を合わせようと涙に滲む瞳を細めた綱吉は、次第にクリアになっていく視界の真ん中に雲雀の顔を見つけ、不思議な気分になった。
 なにがどうして、こうなっているのだろう。
 塀に縫い付けられた手が熱い。伝わってくる雲雀の体温に、火傷しそうだった。
 ゆっくりと身を引いた雲雀の唇は、鮮やかに赤く色付いていた。たいした運動もしていないのに肩で息をして、綱吉に万歳のポーズをさせたまま硬直している。握られた指の関節が痛くて、綱吉は身を捩った。
 意外にもすんなり解放されて、綱吉は自由を取り戻した手でトレーナーを握った。裾を伸ばし、丸め、最後に恐る恐る自分の口に触れる。
 さっきとは感触が違う。見上げた先の雲雀は、苦々しい顔をしていた。
「……好きだ」
 腹の底から搾り出した声で、彼が言う。綱吉は思い出せない感触を手繰り寄せながら、黙って聞いていた。
「好きだ、沢田」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だよ」
 雲雀が口を開けば、綱吉が否定する。堂々巡りの押し問答だった。
 段々と語気が荒くなる彼に応戦し、綱吉も肩を怒らせて目尻を吊り上げた。止まっていた涙がぶり返して、強すぎる感情の波に飲み込まれた彼は握り拳を振り回し、身を乗り出した。
「だってヒバリさんが、そう言ったんだ!」
 今日はエイプリルフール。全ては嘘で塗り固められた、紛い物の感情。
 雲雀を前に胸が高鳴ったのも、心臓がドキドキして五月蝿かったのも、恥かしくて顔が赤くなったのも、全身が熱くなったのも、全部。
 今日という日が創り出した幻でしかない。
「ヒバリさんの言うことなんか、もう信じない!」
 信じられない。
 信じたくない。
 もう何が嘘で、どれが本当なのかが分からなかった。
 また騙されるのかと思うと怖くて、哀しくて、切なくて、引き裂かれそうなくらいに胸が痛かった。
 だから信じない。こんなに苦くて辛い思いをするくらいなら、なにもかも嘘だと決め付けてしまった方がはるかに楽だ。
 涙に潤む琥珀の眼差しに雲雀は唇を噛み、拭ってやろうとして手を伸ばした。けれど触れる直前で顔を背けられて、拒絶されてしまってそれ以上先に進めない。
 彼は悔しげに顔を歪め、握り締めた拳を自分の胸に押し当てた。
「なら、……どうすれば君は、信じるの」
 変に誤魔化そうとした自分が、全て悪いのだ。大きすぎる感情に負けて、下手に誤魔化そうとしたばかりに、綱吉を深く傷つけてしまった。
 己の愚かさを悔やむと同時に、二の轍を踏まないにはどうすれば良いのかを考える。低い声での問いかけに、綱吉は鼻を大きく啜り、つらそうにしている雲雀を見詰めた。
 雲雀専用のアルバムに、記憶の写真がまた一枚増えた。
 懸命に綱吉に訴えかける黒い瞳が、嘗て無いほど気弱に揺れている。声に出すのもやっとの彼から伝わってくる熱が、チリチリと胸を焦がした。
「……言って」
 深く息を吸い、吐き出すのに合わせて綱吉は言った。
 聞こえなかった雲雀が、顔を上げた。
「沢田」
「言って」
 塀に両手を押し当て、上半身を前に突き出した綱吉が繰り返す。なにを、と聞き返そうとした雲雀は、一寸の間を挟んで嗚呼、と頷いた。
「好きだよ」
「もう一回」
「好きだ」
「もっと」
「君が好きだよ」
「足りない」
「沢田が好きだ」
「明日も」
「え?」
 照れもせず、綱吉が欲しがるたびに雲雀が告げる。感情を込めて、丁寧に舌に音を転がした彼は、唐突に声のトーンを高くした綱吉に驚き、小首を傾げた。
 更に身を乗り出した彼は、塀から引き剥がした手で雲雀の学生服を握った。
「明日も。明後日も、明々後日も。その次も、そのまた次も」
「沢田」
「ずっと……毎日言ってくれなきゃ、信じない!」
 雲雀の袖を引く。前屈みになった彼にぶつかる勢いで綱吉は頭を出した。人に聞かれるとか、そういう余計なことは一切考えずに怒鳴り、涙目で睨みつける。
 浴びせられた罵声に雲雀はきょとんとし、林檎に負けないくらいに頬を真っ赤にしている彼を瞬きの末に見下ろして。

「分かった」

 笑った。

2009/03/29 脱稿