白黒

 枝の先で小さく、丸くなっていた蕾は、日を追うごとに少しずつ膨らんでいった。
 もうじき桜が咲くだろうか。硬く閉じた萼の隙間から覗く薄紅の花弁を眺め、雲雀はそっと息を吐いた。
 開花宣言が出ても、満開になるにはまだ暫くかかりそうだ。しかし日増しに暖かさを増す風に、確かな春の足取りが感じられた。
 二週間の春休みは、短くも、長い。進級ぎりぎりの成績だったあの子には、この休み期間中に少しでも復習を頑張ってもらわなければならない。彼のお陰で並盛中学校全体の平均点が下がってしまうのは、正直なところ、あまり嬉しくなかった。
「無理だろうけどね」
 集中力に乏しく、飽きっぽい性格をしているので、期待するだけ無駄とは思っている。しかし落第でもされて、こちらが先に卒業を迎えてしまっては、一緒にいられる時間が減ってしまう。
 考えを巡らせてムッと表情を険しくし、雲雀は唇を尖らせた。
 それは大層面白くない。矢張りなんとしてでも平均点アップを目指してもらわなければ。
 分かりづらい百面相の末に速度を上げた彼は、大股にアスファルトを蹴って住宅地を突き進んだ。
 すっかり通い慣れてしまった道を、早足で歩き、一軒の住宅の前で停止する。築十数年になるだろう庭付き一戸建ての外観は、両隣の住宅と殆ど変わらない。
 猫の額よりは幾分広い庭に、物干し竿が三つ並んでいる。そのどれにも大量の洗濯物が、所狭しと並べられて風に揺れていた。反対側に目を転じれば、ポットに植えられた春咲きの植物が、開花を心待ちに首を長くしている。南の空から降り注ぐ陽光をいっぱいに浴びて、緑は目に鮮やかだ。
「開いてる、ね」
 そこから更に上を向いて、雲雀はぽつりと呟いた。
 ベランダで下半分が隠れてしまっている二階の窓から、白いカーテンがはためいているのが見えた。
 あんなにも無防備に開けっ放しにして、中に人が居ないわけがない。でなければ防犯意識が皆無の証拠で、叱ってやらねばならないと嘆息し、雲雀は閉まっていた門扉を押した。
 何の抵抗もなく内側に開かれたその隙間を潜り抜け、年を越した枯れ色の芝生を踏みしめる。誰かに見咎められることなく不法侵入を果たした彼は、すぐさま庭の端へ近付き、垂直に切り立つ家の外壁を見上げた。
 軒先から伸びる茶色い配水管を前にして、反対側のブロック塀を蹴り飛ばす。腕を目一杯伸ばして直径十センチはあろう配管を掴み、彼はひょいひょい、と実に軽快に壁を登っていった。
 最後の難関であるベランダの手摺りも軽々と乗り越え、しっかりとした足場に身を移し変える。埃を被った室外機を避けて、肩に羽織る学生服のずれを直し、雲雀は白いカーテンがそよぐ窓に静かに歩み寄った。
 何の約束もしていないけれど、来るなとは言われていないので、構わないだろう。風紀委員の仕事の合間に出来た時間、暇潰しにこの家を訪ねるのは、何も今回が初めてではない。
 さて、今日はどんな反応が飛び出すか。
 毎回彼が見せるオーバーリアクションが楽しくて、玄関からではなく、こうやって窓からの来訪を続けているのだと知ったら、彼はどんな顔をするだろう。
 思い浮かべて笑みを零し、雲雀は透明なガラス窓に手を添えて、視界を邪魔するカーテンを横に追い払った。
「やあ、あか――」
「ちょ、ディーノさん。また!」
 お決まりになっている挨拶をしようとした瞬間、雲雀の顔面に綱吉の大声が飛んだ。しかもそれは、訪ね来た雲雀に向けて発せられたものではなかった。
 自分も、綱吉ではなく黄色いおしゃぶりをぶら下げた赤ん坊をダシにしているのだから、あまり人の事を言えない雲雀であるが、スコーン、とバットで頭を殴られた気分になって、彼はその場でよろめいた。
 しかも押し退けたカーテンの裾で、本当に鼻先を殴られてしまい、ダメージは計り知れない。
「な……」
「ん?」
 間違いなく、綱吉は中にいる。しかも日頃この部屋で、彼と共に過ごしている赤ん坊とは違う人物と一緒だ。
 覚えのある名前と、目に付いて仕方が無い鮮やかな金髪の青年像に、雲雀は折れかけた膝を奮い立たせて窓枠を握り締めた。
 反対の手で打たれた鼻と口元を覆い隠し、室内を不穏極まりない目で睨みつける。窓のほぼ真正面に置かれた小さなテーブルを前に、蜂蜜色の髪をした少年が、四つん這いになって男に寄りかかっていた。
「へ?」
 さしもの綱吉も、禍々しいばかりの気配に気付いて首を傾けた。床に這わせた自分の手元から視線を持ち上げ、ベランダに立っている雲雀を見出して大きな目を一層大きく、丸くした。
 表情が瞬時に引き攣り、真っ青になって唇を戦慄かせる。咄嗟に起き上がろうとしたのだろう、身を仰け反らせたところでバランスを崩した。
「あっ」
「つ――」
「っと、あぶね」
 両手を頭上に振り上げた綱吉が、膝立ちの状態でワタワタと暴れた。このままでは真後ろに倒れかねず、慌てて窓から身を乗り出した雲雀の前で、呑気に座っていた青年――ディーノがすかさず彼に手を差し伸べた。
 背中に腕を通し、自分の方へ綱吉を倒す。胸で小さな身体を受け止め、そのまま両手で抱きこんだ。
 雲雀の中で、ぶちん、と何かの糸が一本切れた。
「なにしてっ」
「たく、あぶねーな、ツナ。大丈夫か?」
 反射的に怒鳴りつけようとした雲雀を遮り、ディーノが飄々とした態度で綱吉の肩を押した。転ばぬよう慎重に床に座らせ、彼が頷くのを待ってにこやかに微笑む。春の陽射しを思わせる朗らかな表情は、雲雀が決して真似できない類のものだった。
 どこか不思議そうに自分の胸を撫でた綱吉も、つられてふにゃりと気の抜けた笑顔を浮かべた。両手で窓枠を掴み、そこから前に出られない雲雀は、完全に蚊帳の外だった。
「……で、お前は何やってんだ?」
「あ、そうだ。ヒバリさん、ってだから靴はやめてぇぇぇ!」
 部屋にリボーンはいない、然るに綱吉はディーノふたりきり。
 果たして今まで何をやっていたのか、仲睦まじい彼らにこめかみをヒクつかせ、雲雀は右足を高く掲げると、土足のまま綱吉の部屋にあがりこもうとした。
 悲鳴をあげ、綱吉がディーノの前から飛び出した。両手を突き出して駆け寄り、肩で息をして頼むから靴は脱いでから入るよう、過去何度となく繰り返した押し問答を今日もまた、踏襲する。
 ただいつもと違うのは、
「なんだ、恭弥。行儀わりーな」
 雲雀を笑う男がいる、という事だ。
「うるさいね」
 綱吉に叱られる雲雀がおかしいのだろう、腹を抱えて笑っているディーノ目掛け、雲雀は脱ぎたての革靴を放り投げた。人を指差していた彼は、周囲に部下が居ないのもあり、見事顎に直撃を食らってもんどりうって倒れた。
 おまけで、跳ね上がった靴が裏返って顔の上に落ちた。
「ちょっと、ヒバリさん。ディーノさん!」
 止める暇もなかった一瞬の出来事に、綱吉は最初咎める声をあげ、即座に身体を反転させた。
 片足立ちの雲雀をそこに置き去りにし、テーブルの向こう側でヒクヒクしている男の枕元に膝を突いてしゃがみ込む。被っている靴を払い除けて心配そうに上からディーノを上から覗き込み、暫くしてホッとした様子で肩の強張りを解いた。
 片方だけ残った靴を持て余し、雲雀は面白くなさそうに目の前で展開する光景に唇を尖らせた。
「いってー……」
 ぶつけた頭を左手で、赤くなった顔を右手で同時にさすり、ディーノがのっそり身を起こす。背中を丸めて大柄な身体を小さくし、わざとか、無意識か、そこにいる綱吉に甘えるかの如く、彼の方に姿勢を傾けた。
 綱吉もまた、頼ってくる彼の頭を優しく撫でて、雲雀を睨んできた。
「ヒバリさん、いきなり酷いですよ」
「ふん」
 あくまでディーノの肩を持つ生意気な彼をねめつけ、雲雀はそっぽを向いた。
 まだ痛がっているディーノを残して戻って来た綱吉は、雲雀から残る靴を横から奪い取ると、自分が拾ったものと合わせて窓の外に並べた。
「赤ん坊は?」
「リボーンなら、ちょっと前に買い物に行きましたよ」
 窓に寄りかかる綱吉を横に、室内をぐるりと見回した雲雀は、空っぽのハンモックを最後に見て問うた。
 姿勢を戻した綱吉が、差し込む日差しを遮るべくカーテンを引く。室内照明のスイッチは入っていたが、僅かに部屋は薄暗くなった。
 それでもなお、ディーノの髪は真昼の太陽のように輝いている。キラキラという効果音がいかにも似合いそうな青年を睥睨し、雲雀は綱吉を振り返った。
「それで、アレはなに」
 先ほどの仕返しではないが、やっとこ痛みから回復したディーノを指差す。綱吉の手がすかさずそれを押し潰し、溜息だけを残してテーブルへ歩いていった。
 仕方なく雲雀も後ろに続き、途中で方向転換して綱吉の寝床であるベッドに腰を落とした。
「ディーノさんは、俺が春休みだからって、わざわざ遊びに来てくれたんです」
 早口に、若干いつもの綱吉よりも荒っぽい口調で手短に説明した彼は、膝を折って座り、そのまま前屈みになった。最初に見かけた時のように四つん這いになり、ディーノの膝元へ手を伸ばす。思わず右の眉を持ち上げた雲雀を他所に、彼は何かを抓んで姿勢を戻した。
 なにかと思えば、それはクッキーの食い滓だった。
 良く見れば、テーブルにも同じものが皿に盛られて置かれていた。ディーノがクッキーを抓み、零し、見かねた綱吉が拾おうとしたところに、雲雀がタイミング悪く訪ねて来て現場を目撃した――そういう事だろう。
 ひとりで勝手に、色々と想像してしまった自分が恥かしくなり、雲雀はベッド上で脚を組むと自己嫌悪に陥った。片手で額を覆い、俯いて表情を隠して綱吉たちに背を向ける。一方、落ち込んでいる彼を知らず、綱吉は床に散らばったクッキーの粉を集められるだけ集め、ゴミ箱の上で手を叩き合わせた。
「ヒバリさんは、コーヒー、冷たいのと熱いのとどっちですか?」
「いつもの」
「はーい」
 膝丈のカーゴパンツの皺を伸ばし、立ち上がった綱吉がまだ下を向いている雲雀にごく自然に問いかける。テーブルに肘をついたディーノが、新しいクッキーを頬張りながら、ふたりの慣れたやり取りに首を傾げた。
 伸びのある声で返事をして、綱吉が脇を通り抜けていく。瞳だけを上向け、ドアが閉まるのを背中で聞いたディーノは、またしてもボロボロと滓を零しながら、食べるか、と雲雀に皿を差し出した。
 だが雲雀は返事をせず、他所向いたままだ。反応がないのを特に気にする様子もなく、ディーノは手についたチョコチップを舐めて冷めたコーヒーに手を伸ばした。
 綱吉の通う学校が春休みに突入し、昼間でも自由な時間が増えたと聞いて、飛行機に乗って遠路遥々やって来たのは昨日のことだ。
 沢山のお土産を抱え、沢山のお菓子を持ち込んで、リボーンもさりげなく追い出して、部屋でふたりきりの時間を楽しんでいたというのに、思いがけない邪魔が入った。
 ディーノは雲雀が嫌いではない、むしろ気に入っていると言っても過言ではない。
 ただひとつ、綱吉に関わる事項以外は。
「あんまりツナに迷惑かけてんじゃねーぞ」
「そっちこそ」
 食べ滓を撒き散らし、部屋を汚しているような奴に言われたくない。
 素っ気無く言い返し、雲雀は頬杖を付くと視界の範囲外にディーノを追い出した。しかし彼が食べている音は、否応なしに耳に届く。神経に障る不快極まりない騒音に、彼は苛々と人差し指で自分の顎を何度も叩いた。
 嫌なタイミングで来てしまった。しかし綱吉が彼とふたりだけの時間を過ごすという、危険極まりない行動を邪魔できたのは、むしろ喜ばしい事かもしれない。
 深く息を吐いて背筋を伸ばした雲雀は、両脚を揃えて綱吉が階段を登ってくるのを待った。
 朝方、彼が起きた時そのままの乱れたベッド。ちっとも片付いていない部屋、ゴミだらけの床に積み上げられた無数の漫画雑誌。到底勉強に集中出来るとは思えない環境に、明らかに彼に迷惑をかけている男。
 綱吉に言うべき小言が増えたと心の中で指折り数え、雲雀はドアが開くのに合わせて視線を持ち上げた。
「お待たせしました」
 藤色のパーカーの紐を揺らし、こげ茶色の丸盆を両手で抱えた綱吉が、狭い隙間に身体を捻じ込ませて言った。四方八方に跳ねた髪が、彼が動く度にリズムを刻んで楽しげに揺れ動いていた。
 出て行った時の逆のコースを辿ってテーブル前でしゃがみ、持って来たものを下ろす。盆にはコーヒーカップがふたつと、透明なガラスコップがひとつ並べられていた。
「ツナ?」
「えーっと、……ヒバリさんのはこっち」
 数が多いとディーノが怪訝にする前で、綱吉は外見が全く同じコップをしばし睨みつけた。立てた人差し指を唇に乗せ、数秒考え込んだ後、右側を持って立ち上がった。
 近付いてくる彼に目をやり、雲雀が手を差し出す。渡されたコップは暖かく、芳しい匂いが鼻腔いっぱいに広がった。
「もうひとつのは、ディーノさんの。お砂糖、先に入れてあります」
「ああ」
 なるほど、と揺れる黒い水面を覗き込み、ディーノは納得した様子で頷いた。
 盆に残っていた方を、飲み干して空になったコップと入れ替える。まだ熱い液体を音立てて啜ると、確かに綱吉の言う通り、ほんのりとした甘みが舌の上に残った。
 縁に残った水分を舐め取り、彼はちらりと山盛りのゴミ箱を見た。最上部には先ほど綱吉が捨てたクッキーの他に、スティックシュガーの残骸が丸めた状態で放置されている。テーブルには、使われなかった一回分のミルクが。
「ふーん……」
 オレンジジュースの入ったコップを手に、床に敷いた絨毯ではなくベッドに座った綱吉と、その隣に居る雲雀とを一緒くたに視界に入れ、ディーノは小声で呟いて苦いコーヒーで口の中を漱いだ。
 この家に居候中のリボーンがコーヒーに五月蝿いので、マシンは本格的な輸入物だ。綱吉もいつの間にか覚えたらしく、ちゃんと豆から淹れたものを出してくれる。香りは申し分なく、苦味も悪くない。
 次からは自分も、砂糖を入れずに飲もうと決め、ディーノは聞かずとも耳に入ってくる中学生の会話に意識を集中させた。
「ヒバリさんは、お仕事良いんですか?」
「誰かさんみたいに、後で慌てるなんて事はないから、安心しなよ」
「……へえ、誰かさん。誰だろ」
「さあ、誰だろうね」
 ずずず、とストローからジュースを啜った綱吉が、ワザとらしく視線を泳がせて反対の壁を向く。雲雀は涼しい顔で左手に持ったカップを揺らし、香りを強めてから白い陶器に唇を寄せた。
 静かに二口ほど飲み、ホッとした様子で息を吐く。その頃には綱吉も横向けた首を戻し、僅かに赤みを帯びた頬を膨らませて両手でグラスを包み込んだ。
 足元に向けられていた彼の視線が持ち上がり、途中でディーノと目が合った。バチッ、と電流が走り、何故か吃驚されてしまう。ベッドの上で座ったまま飛び跳ねた彼の態度には、ディーノも驚いた。
「ツナ?」
「あ、や、えと……ディーノさんは、いつまで日本に?」
 挙動不審にもぞもぞ動き、琥珀の瞳が宙を泳ぐ。取ってつけたような質問を投げられ、我に返ったディーノは乗り出した上半身を戻してカップをテーブルに置いた。
 自由になった手で鼻筋を撫で、特にスケジュールは決めていないと告げる。
 綱吉が望むのなら、多少遠出しても構わないと思っての事だったのだが、
「暇人」
 横から割り込んだ雲雀に言われ、ぷつん、とディーノの頭で糸が一本切れた。
「へえぇ、そういうお前こそ随分暇そうじゃねーか」
「社会人の癖に、仕事もせずにふらふらしている人に言われたくないね。自分ひとりでなにも出来ないくせに、偉そうに大人風吹かせないでくれる?」
 負け惜しみで言い返せば、それを上回る嫌味でぴしゃりと黙らされてしまった。
 間に立たされた綱吉が、一気に険悪ムードを漂わせるふたりにおろおろしている。どちらに味方すべきか迷っている彼を見上げ、ディーノは握った拳を膝に叩き付けた。
「恭弥こそ、大人の苦労を知りもしないで好き勝手言ってくれるじゃねーか」
「生憎と、僕は立派に地域社会に貢献してるけどね。親の財産食い潰すしか能がない人と、一緒にしないで欲しいよ」
 風紀委員の活動が、果たして雲雀の言う地域への貢献に当たるのかどうかを考え、綱吉は少し遠い目をした。だが論議に気を吐くふたりは気付かず、立ち上がったディーノは右手で空を薙いで整った鼻梁を悔しげに歪めた。
 ここで雲雀に手を上げれば、口で敵わないから暴力に訴えた、と綱吉に思われかねない。実際、余裕綽々としている雲雀はそれを狙っていた。綱吉の前でディーノを言い負かし、彼は情けない大人だと綱吉に認識させるのが目的だった。
「ざーんねんでした。俺も家業継いで、これでもしっかり働いてんだよ」
 休暇は労働者の当然の権利だと胸を張り、ディーノは鼻息荒くまくし立てた。
 働くときは真剣に、しかし休む時は仕事を忘れて心から楽しむ。そうやって充実した日々を送るのが、イタリア人の気質だと彼は宣言した。聞いていた綱吉は思わずなるほど、と頷きそうになったが、右を上に脚を組んだ雲雀は、頬杖ついて欠伸をかみ殺した。
「日本に来ておいて、外国の風習を威張り散らすなんて、みっともないね」
 郷に入っては郷に従え、という言葉を知っているかと冷淡に告げられ、ぐうの音も出ずに拳を震わせたディーノに、綱吉は苦笑した。
 この場合、どっちもどっちなのではなかろうか。そろそろ仲裁に入らないと、部屋が惨劇に見舞われてしまいそうで彼は頬を引き攣らせた。
 出来るならば喧嘩は外でやってもらいたいが、ご近所迷惑にもなるだろうし、どうしたものか。
 迷いつつ、喧々囂々、段々低レベルになっていく罵りあいに嘆息し、綱吉は先に歯型が残るストローを口に入れた。氷が溶けて温くなったジュースを啜り、頭上で延々続く口論を無視して飲み干したコップをテーブルに戻した。
 雲雀は飲み終えたカップを左手に握ったまま、熱弁に拍車をかけていた。今それを取り上げたらば、彼らの注意が一斉に自分に向くだろう。
 どっちが正しいかと聞かれても、答えられない。どちらかに肩入れしたら、もう片方が拗ねるのは明白だった。
 そうなれば後のフォローが大変なので、出来るならば喧嘩両成敗で終わってもらいたい。欲を言えば自分を巻き込まないで、自分に関わらないところで続きをやって貰えたら、どんなにか楽か。
 何度目か知れない溜息の末、綱吉は背中を丸めた。フッと、視界が、姿勢を変えた以外の理由で僅かに暗くなる。
「ん――?」
 目線を持ち上げれば、全力疾走した後のように肩で息をしたディーノが、ぐずぐずと鼻を鳴らして立っていた。
 二十歳を越えているくせに、五歳児のランボ並みに涙目になって、泣き出す寸前まで顔を歪めていた。折角の美形が台無しの、実に情けなく格好悪い彼の姿に吃驚仰天し、綱吉がベッドの上で身を仰け反らせる。
「ディーノさ……」
「ツナー! 恭弥が苛めるー!」
「ぶわっ」
 いったいどうしてしまったのか。さっきまでの勢いが綺麗さっぱり消え失せており、うろたえた綱吉が彼に手を伸ばす。
 その腕を掻い潜り、唐突に叫んでディーノは綱吉に泣きついた。
 いい年をしているくせにわんわん喚き散らし、涙を綱吉の服に押し当てて鼻を啜る。危うく押し倒されるところだったのを堪え、足元に跪いた彼の頭を胸に置き、綱吉はさっぱり状況が解らないと隣の人を見た。
 こめかみに青筋を立てた雲雀が、憤怒の炎を滾らせて物凄い形相で人を睨んでいた。
「ひっ」
「ツナ、聞いてくれよ。恭弥の奴ひでーよ、あんまりだ。俺ってそんなに頼りないか? ダメ人間か? 格好悪いか?」
 雲雀の顔つきに心臓を縮こませていたら、胸元に取り縋るディーノが早口に詰問してきた。慌ててそちらに意識を向けると、今度は真横で凶悪なオーラを感じ取り、背中に冷や汗が流れた。
 どうやら予想していた中でも、最悪な状況に巻き込まれてしまったらしい。計り知れない雲雀の怒りを肌に感じながら、かと言ってディーノを放り出すことも出来ず、綱吉は引き攣り笑いを浮かべて肩を落とした。
「なあ、ツナ。俺って、おれって……」
 聞き流していたふたりの口喧嘩は、思った以上にレベルが低かったらしい。べそをかいているディーノの言葉の端々から、雲雀が彼に言った内容を推測して横目で当人を見やる。雲雀は依然不機嫌を隠そうともせず、綱吉の膝に擦り寄る男を睨みつけていた。
「もー。そんな事ないですよ」
 確かに部下と一緒に居ないディーノは、綱吉を上回るダメ人間だ。食べ物は零すし、飲み物もひっくり返すし、階段は落ちるし、何もないところでいきなり転ぶし。
 ちょっと目を離すととんでもない状況に陥っていたりするので、気苦労が耐えない。ただ、彼持ち前の明るさと愛嬌の良さが人を和ませるので、彼を嫌いだと思うことはなかった。
 ランボのような、手の掛かる弟がひとり増えたつもりでいる、とまでは流石に口に出さず、綱吉は艶やかな彼の金髪を丁寧に手で梳いてやった。
 思いつく限りの慰めの言葉を並べ立て、彼が一秒でも早く泣きやんでくれるのを待つ。但し綱吉はこの時、少しだけ首を横向けたディーノが、雲雀に向かってしたり顔で笑ったのを知らない。
 舌を出した彼に雲雀が憤慨し、綱吉の枕を殴り飛ばしてディーノに拳を振り上げようとしたのだが、気付いた綱吉がすかさず庇うので、行き場を失った怒りは結局、綱吉の寝台に、八つ当たりという形でぶつけられた。
「く……っ」
「ヒバリさんも、言いすぎです。これでも一応、ディーノさんは年上なんだから、敬わないと」
「尊敬できない相手をどうやって敬えって?」
「また、そういう事言う」
 悪態を取り続ける雲雀に呆れつつ、綱吉は太腿に額をこすりつけるディーノの頭を撫でた。腰にがっちり回された両腕は、別段今に始まったわけではないので殊更気にしない。
 ディーノの過剰なまでのスキンシップにも、かなり耐性がついていた。
 だけれど。
「ツナ、あー、もう。やっぱり俺のこと分かってくれんの、ツナだけだぜ!」
 感極まったディーノが叫び、両手を挙げてがばっと抱きついてきたのには、目を丸くした。
 雲雀が嘗てない間抜け顔をしているのが、一瞬だけ見えた。後は天井と、覆い被さるディーノの影。後頭部に感じた衝撃は柔らかく、今度こそベッドに押し倒されたのだと気付いた時にはもう、簡単に起き上がれないよう真上にディーノが圧し掛かっていた。
 ぎゅっと抱き締められて、正直重い。押し退けようにも両腕ごとしっかり拘束されていて、身を捩ると余計にディーノは体重を被せてきた。
「なにをしてるの……」
「ディーノさん、重い!」
 不穏な気配を強めた雲雀の低い声を掻き消し、綱吉が甲高い声で叫ぶ。だがニ方向から一斉に非難されても、彼はちっとも耳を貸さなかった。
「ツナー、やっぱツナは良い奴だな。可愛いなー、かわいいな~」
 頬擦りしてきた彼の感想は、少しも嬉しくない。これでも一応男で、それは褒め言葉ではないと怒鳴りつけるが、ディーノは相変わらずだった。
 左足をベッドに乗せた雲雀が、地獄の鬼も逃げ出す顔でディーノの後頭部を睨んでいる。トンファーで粉砕してしまうのではないかという気迫に背筋を凍らせ、綱吉はどうにかディーノの下から脱出しようともがいた。
 肩を殴り、頭を叩き、離れてくれるよう何度も頼み込む。しかし都度、彼はてんで見当違いの単語――つまりは可愛いだの、愛しいだの、そういう雲雀の神経を逆撫でするような――を繰り返した。
 会話がかみ合わず、諦めの境地に差し掛かって、綱吉は彼の肩を押し返すのを止めた。
「ツーナ」
「っ!」
 抵抗が緩んだ瞬間、ディーノが頭を浮かせた。頬を寄せるだけだった彼の顔を正面に見て、綱吉が喉を引き攣らせる。
 見ていた雲雀は、全身が雷で貫かれたような衝撃を浴びせられて硬直した。
「ツナはほんと可愛いなー、食べちまいてぇ」
 目尻を下げただらしない顔で呟き、彼は綱吉の丸い頬にちゅ、と軽い音を立ててキスをした。
 ふっくらと柔らかな肌の感触を楽しみ、こめかみにももうひとつくちづけを落とす。見る間に綱吉の顔が紅潮し、大粒の瞳が限界まで広げられ、ディーノの肩に乗る両手がふるふると震え出すのにも、彼は気に留めようとしなかった。
 ぶっつん、と今度こそ堪忍袋の緒を切り、雲雀が怒髪天の勢いでトンファーを抜き取る。振りかぶり、上機嫌に綱吉に襲い掛かる男を徹底的に打ちのめそうとして――
「ば……ばかーっ!!」
 大声で叫んだ綱吉が、ディーノの巨体を吹っ飛ばす様に凍りついた。
 ベッドから落ち、尻餅をついたディーノが背中をテーブルの角にぶつけて星を散らした。
 一瞬飛びそうになった意識は痛みで直ぐに引き戻され、尾てい骨に直撃した衝撃に苦悶の表情を浮かべる。奥歯を噛み締めて堪え、彼は一段高くなった場所で膝立ちになっている綱吉に涙目を向けた。
「なっ……にすんだよ、ツナ」
「なにって、なにって……ディーノさんこそ、何するんですか!」
 喋る途中で息を吐いたディーノの苦情に、綱吉は真っ赤になって反論した。
 両拳を胸の目で頻りに上下させ、林檎よりも赤く色付いた顔を右往左往させる。よっぽど恥かしかったのか、眩い琥珀の瞳に涙さえ浮かべていた。
 雲雀は未だ呆気に取られたまま、トンファーを頭上高くに掲げた状態で停止していた。その彼を横目で窺い、綱吉はディーノにキスされた場所に手を添え、袖でごしごしと擦り始めた。
「なにって……キス」
「いうなぁ!」
 いつも挨拶でやっているのに、何故こんなにも狼狽しているのだろうか。
 不思議でならないディーノの淡々とした回答に、彼は益々頭から湯気を吐き、そこにあった目覚まし時計を投げ放った。
 狙いを定めもしなかったので、それはてんで方向違いの場所に飛んでいく。赤い時計の行方を追って回した首を戻し、ディーノは本気で泣き出すところまできている綱吉に焦りを抱いた。
「ツナ」
 今日だって玄関で、出迎えてくれた彼の頬にキスをした。少し背が伸びたという彼を確かめるべく、抱き締めもした。一緒にお菓子を食べて、寄りかかってきた綱吉を膝に座らせもした。
 あの時は、彼は抵抗しなかった。ちょっと照れ臭そうではあったが、ごく当たり前にディーノを受け入れていた。
 それなのに、この差はなんだ。
 息せき切らせて肩を上下させている綱吉を呆然と見上げ、ディーノはふと、トンファーを下ろして構えを解いた雲雀を見た。
 玄関のキスの時、綱吉以外に奈々がいた。ランボにイーピン、リボーンも一緒だった。
 あの時と違いがあるとすれば、それは。
 雲雀から視線を戻し、ディーノは乾いた唇を手でなぞった。目の前では綱吉が、涙を堪えて歯を食いしばっている。
「えーっと……ひょっとしなくても、お前ら?」
「ばか! もう知らない!」
 まさかな、と半分疑いの気持ちを残しつつ問えば、返答とはとてもいえない罵声を浴びせられてディーノは仰け反った。
 肘をテーブルにぶつけ、電流が走って身悶える。綱吉はそんな彼を睨み下ろすと、雲雀を盗み見た後、大慌てでベッドを飛び降りた。どたばたと足音を喧しく響かせ、ドアを開けると部屋を出て行ってしまった。
 ぶらぶら揺れる戸を眺め、雲雀は綱吉に向けた笑顔をそのままに肩を揺らした。
 喉を鳴らして笑い、まだ床にしゃがみ込んだまま惚けているディーノを見下ろす。
「んだよ」
「べつに?」
 言葉とは裏腹の、勝ち誇った顔を向けられ、ディーノは悲壮感を漂わせてがっくり肩を落とした。

2009/03/21 脱稿
2009/10/10 一部修正