麗らかに

 藤原の家の周辺には、未だ手付かずの自然がそこかしこに残っていた。
 無論、完全に人の手が入っていないわけではない。森も、間伐をして枝打ちをしてやらねば、すぐに荒れてしまう。
 ありのままの自然というものは、難しい。一定間隔で地面に根を下ろす、樹齢五十年にも満たない、まだ細く若い木々を前に、夏目はふとそんな事を考えた。
「先生、あんまり遠くに行くなよ」
「うるさーい」
 色が濃く、軟らかい地面を一歩ずつ踏みしめながら、遠ざかっていく丸い背中を追いかける。ずんぐりむっくりの体格の割に、動きが俊敏な白地に朱と朽葉色の紋様が入った規格外サイズの猫は、夏目の呼びかけにぞんざいな返事をし、振り返りもせずに走って行った。
 招き猫を依り代としている妖怪だから、人の言葉を解するし、喋りもする。夏目が思うよりもずっと長く、遠い時間を過ごして来た長く白い毛に覆われた妖怪は、本来の名を斑といい、仮初の猫の姿の時は人によって様々な名前で呼ばれていた。
 大抵は、どこかに「ニャン」が入っている。ニャンコ先生だったり、ニャンゴロウだったり、ニャンキチだったり。
「ニャンニャン先生、てのもあったな」
 同じ学校に通う、夏目ほどではないけれど、妖怪の気配を感じ取ってしまう友人を思い出し、夏目は短く息を吐いて肩を上下させた。
 軟弱な地面を行くのは、思う以上に体力を消耗する。よく走れるな、と四足の獣の姿を探して視線を巡らせ、彼は額に浮いた汗を拭った。
 見上げれば高い位置に枝が茂り、緑葉が日の光を拡散していた。ダイヤモンドの奇跡を描く輝きに目を細め、手を翳して直射日光を避ける。枝打ちされているお陰か樹木はどれも真っ直ぐ、誇らしげに胸を張って聳えていた。
 野を駆け回るニャンコ先生、もとい斑を追いかけていたら、こんな場所に迷い込んでしまった。手入れが行き届いている樹林は、誰かしらに管理されている証拠だ。
 山の所有者に見付かっては怒られるかと、後から気付いて戦々恐々となったが、看板も仕切りもなかったのだから仕方が無いと、今は開き直りの境地に達していた。
「おーい、先生」
 ひょこひょこ動いていた三角形の耳が、いつの間にか見えない。
 上向けていた首を戻した夏目は、爪先立ちになって背伸びをし、腹の底から声を出して斑を呼んだ。けれど返事は無く、あれ程言ったに関わらず勝手な事ばかりする潰れ饅頭に舌打ちした。
 そもそも斑は、夏目の用心棒ではなかったのか。
 祖母レイコの遺品である友人帳は、彼女が打ち負かした妖怪の名を記し集めた帳簿だ。
 名前とは即ち、妖怪の魂にも匹敵するほど重要なもの。それを奪われてしまった妖は、友人帳を持つ者に名を呼ばれた場合、即座に応じねばならない。どんなに無理のある要求であっても、決して逆らう事は出来ないのだ。
 故に、これを知る妖怪は友人帳を求めて止まない。自分より遥かに強い者でさえ、容易に従えてしまえるからだろう。
 だから孫である夏目は、様々な妖怪に四六時中狙われている。
 悪用されれば大変なことになる友人帳を守るには、人間である夏目はあまりにも非力だ。だから彼が偶然封印を破いた事で解放された斑が、夏目死後の友人帳の継承を条件に、用心棒として彼を守ってくれて――いるはずなのだが。
 昨今の白饅頭を見ていると、どうにもこの約束は果たされていない気がする。
「先生、せんせーい」
 大声を張り上げ、夏目は繰り返し斑に呼びかけた。
 歩みを止めず、油断すると足を取られて滑る地面に苦心しながら、木々の間を小走りに駆け抜ける。春先のまだ穏やかな気候が幸いだが、湿度が高いのか、首の裏にもじっとりと温い汗が浮かんだ。
 夏目をひとりにするなど、本来はあるまじきことだ。いつ、どこで、どんな妖怪に襲われるかどうかも分からないというのに。これでは狙ってくださいといわんばかりで、彼はギッと奥歯を噛み締めて苛立ちを紛らわせると、拳を硬く握って何も無い空中を殴り飛ばした。
 本人を見つけたら、それこそ力いっぱい殴ってやる。心に決め、夏目は緩やかになった傾斜にホッと息を吐いて頭上を仰いだ。
 空が――
「うっ」
 突然、それまで薄かった光が強烈な速度で彼に襲い掛かった。
 咄嗟に目を閉じ、両手で顔を庇って視界を塞ぐ。それでも一瞬で網膜を焼いた光は防ぎきれず、彼はチカチカする目を瞼の上から擦り、顎の力を抜いて口で息をした。
 いったい何事か。
 目の前が開けて、それまで遮られていた青空が見えたかと思ったら、鏡に反射した光が夏目を襲ったのだ。
「鏡……?」
 そんなものが、こんな山の中にあるわけがない。
 自分の考えを自分で否定し、夏目はそろりと腕を下ろした。
 瞼を下ろしたまま目尻に力を込め、凝り固まった付近の筋肉を解してひとつ深く息を吐く。気持ちを鎮めて落ち着かせ、心臓を撫でてから、彼はようやく目を見開いた。
 優しい風が頬を撫でる。色素の薄い髪を掻き回して去っていたその風がやってきた方角に――即ち夏目の前方に、見事なまでに輝く鏡があった。
 否、池だ。
 一呼吸置き、夏目はハッとして目を瞬いた。
 さほど大きくは無いが、小さくも無い。上を見れば、太陽が高い位置で燦々と輝いていた。
「こんなところに」
 細波が岸に寄せては返す以外、水面は静かだった。樹林と水辺までは距離があり、若緑の草が一面を覆っている。所々にすみれ色の花が顔を覗かせて、蜜を集める蝶々の姿も見えた。
 水面を遮るものはなく、お陰で空がそっくりそのまま地表に引越ししていた。感心したように夏目は微笑み、岸に続く緩い傾斜を下り始めた。
「なーつめ!」
「どわっ」
 色鮮やかな景色に気持ちを和らげていたところに、唐突に背後から耳慣れた声が響いた。
 直後にどんっ、と背中と首の一帯に衝撃が走り、圧し掛かる重みも加わって、夏目はもんどりうってその場に倒れこんだ。
 顔面を強打したが、草がクッションになってくれたのでさほど痛くない。ただ依然人の背中に鎮座し、ゴロゴロと本物の猫のように喉を鳴らしている存在は、非常に重かった。
 中年太り、メタボリックシンドローム、といった単語が手を取り合って夏目の脳内で駆けずり回る。彼は拳を握るとぐっと腹に力を入れ、予備動作も無しに胸を反らせた。
「ぬおお」
 両腕を地面に突き立てて背筋をピンと張った彼の後ろを、ごろん、ごろんと何かが転がり落ちていく。振り返って確かめるまでもなく、膝を起こした夏目は、鈍い痛みを発するおでこを撫でながら若草の上に腰を落とした。
「いてて」
 見れば右掌から血が出ている。恐らく身体を起こす時、小石が突き刺さったのだろう。
 出血量はたいした事ないが、怪我をした事実になにより吃驚して、彼は腹を上にしてひっくり返っている白い巨大な猫、のような生き物に険のある視線を投げた。
「先生」
 行方を見失っていた斑を、いつの間にか追い越していたらしい。一帯今まで何処をうろついていたのかと、短い脚をじたばたさせている奇怪な生物につれない目を向け、夏目は髪に絡まっていた緑の葉を払い落とした。
 斑は裏返ってしまっている身体を自力で戻そうと、必死に足掻いていた。けれど甲羅を背負った亀の如く、左右に揺れるものの、一回転するところまではなかなか辿り着けない。ふぬー、だの、ふんがー、だの、色々な鼻息が聞こえてきたが、夏目は当面、それらを無視した。
 痛い思いをさせられた罰だ。せいぜい苦しんで、悔しがれば良い。
 服にも紛れ込んでいた草を抓んで落とし、彼は胡坐を組むと頬杖をついて遠くを眺めた。
 心地よい風が気まぐれに吹き抜け、水と緑の匂いを運んでくれる。陽射しは強すぎず、弱すぎずで、そこは日向ぼっこをするのに実に快適な環境だった。
「うーん」
 両腕を真っ直ぐ頭上に掲げて伸びをして、肩の骨を鳴らした彼は気持ちよさげに声を出して姿勢を崩した。脚を前方に投げ出し、上半身はやや後ろへ傾ける。両手をつっかえ棒代わりにして倒れぬよう支えれば、目の前に広がるのは澄み渡る青空だ。
 隣では、未だに天地が逆になっている斑が、足掻き疲れたのかフーフー言っていた。
「夏目」
「良い天気だな」
「なつめー」
「気持ちいいなー」
「なーつーめー」
「昼寝にはもってこいだなあ」
「なつめさまー」
「なんだ、先生」
 実に白々しく無視を貫いた末、尊称が付けられた途端にコロッと態度を変えて、夏目は彼に顔を向けた。
 猫の額に皺を寄せ、吊り目になった斑が悔しげにふがふが言った。どう考えても体のサイズにそぐわない短い四肢をじたばたさせて、頭から湯気を噴きつつ懸命に裏返ろうと試みるものの、何十回目か分からない挑戦は無駄に終わった。
 見る間に萎びていく彼に目を細め、夏目は笑った。
「頼む、起こしてくれ」
「なんだって?」
「起こしてください、夏目様」
「はいはい」
 無礼な命令口調はさらりと受け流した彼に、斑は観念した様子でしゅんとしながら言った。
 力の抜けた足を放り出し、でっぷりとした腹を出して緑香る草の上に横たわる。最初は苦しげだった呼吸も徐々に落ち着き、夏目は彼の真っ白い肌を撫でると、丸みを帯びた背中に手を差しのべた。
 さほど力を入れなくても、掌で押し上げるようにすれば、彼は自らの体型を利用してコロン、と横に転がった。
「ふぅ」
 ようやく獣としての体勢に戻り、彼は皺くちゃだった緋色の紋を伸ばしてホッと息を吐いた。
「まったく、酷い目に遭った」
「それは俺の台詞だ」
 どこぞの誰かが背後からタックルなど仕掛けてくるから、こういう事になるのだ。
 事の発端を忘れている斑の頭を小突き、夏目は膝を寄せてそこに腕を置いた。
 清々しい風に目を閉じ、聞こえて来た細波立つ音に耳を傾ける。鳥が餌を求めて翼を広げ、接近する捕食者から魚が逃げたのか、何も無いところで新たな水紋が生まれた。
 向こうの方では、倒れた木の先が水面に突き刺さっている。その周辺に土が集まり、ちょっとした島が形成されていた。
 特別見るものも無い、ありふれた――けれど滅多に見るのも叶わない、優しい場所だ。
「いいな、此処」
 深呼吸を繰り返し、夏目がぽつりと呟く。真横で丸い身体を平たくさせていた斑も、小さな尻尾を上機嫌に揺らして、細い目をより細めた。
 こんな場所が近くにあるとは、知らなかった。
 誰かが個人所有する山かもしれないが、出来るならまたこっそり潜り込んでみたい。特に何をするでもなく、ぼうっと空や水面を眺めているだけなら、見つかってもそれ程怒られないのではなかろうか。
 楽観論を口ずさみ、傍らの斑の頭を撫でる。こちらも適度な柔らかさと温かさが、とても心地よかった。
 ぴしゃん、とまた水が跳ねる。いつぞや会った人魚を思い出して、此処にも居るのだろうかと興味惹かれて夏目は身を乗り出した。
「なあ、先生。この池って、なにかいるかな」
「ぬ?」
「ほら、人魚とか」
 ぴくん、と耳を尖らせた斑の反応に、夏目は自然早口になった。
 人を捕って食うような妖怪は御免だが、今のところそういう危険な気配は感じない。友好的な妖怪なら、知り合いになるのも悪くないと顔を綻ばせた夏目に対し、斑は表情を険しくして四足を踏ん張らせた。
 恐らく通常の猫であれば、全身の毛を逆立てる、という表現がぴったり来るのだろう。ただ招き猫を依り代としている彼なので、どちらかと言えば水風船を膨らませたみたいに、丸みを誇張しているだけだった。
「先生?」
「夏目!」
 いったいどうしたのか。
 態度を急変させた斑に戸惑い、夏目が座ったまま尻込みする。躙り寄ってくる獣の威嚇に表情を強張らせていると、さながら小型のライオンが如く吼えた彼は、一直線に波穏やかな池を指差した。
「あれは沼だ!」
 びしっ、という効果音も聞こえるくらいの勢いで、無い指を立てた彼の怒号が、麗らかな春の日差しに融けて行く。
 ちゅんちゅん、と鳴く鳥の声に歌いだしたくなって、夏目は遠くを眺めた。
 そしてたっぷり十秒かけて我に返り、
「……は?」
 彼は裏返った声で首を傾げた。
 夏目は、目の前の池に何か居るだろうか、と聞いたはずだ。
 しかし斑は、危険な奴が潜んでいるから近付くな、と言うのではなく。
「はい?」
 池ではなく、沼だ、と。
 反対側にも首を倒した彼の間抜け顔に、斑のこめかみに青筋が立った。燃え盛る炎を背景に、握り拳を震わせて大いなる怒りを表現している。
 愛嬌たっぷりの見た目の所為で、あまり怖くないのがとても残念だった。
「いや、池だろ」
「沼だ!」
「いやいや、池だって」
「沼だと言ったら、沼だ!」
 冷静に言い返せば、斑は声を荒げて叫んだ。笑いながら否定すれば、鼻息荒くして人に突っかかってくる。
 後ろ足だけで立ち上がって殴りかかろうとした彼の額を片手で押さえ込み、彼の短い手が届くより遠くに留め置きながら、夏目はまたも水面に走った小さな水柱に肩を竦めた。
 会話が成立しない。長い溜息をつき、夏目は憤慨している猫を後ろへ弾いた。
 またひっくり返された彼だが、何十回目かの正直で、今度は無事自力で反転に成功した。
 右膝を立て、左足は横倒しにし、呆れ顔で頬杖をついた夏目は、まだ怒り心頭の彼に嘆息し、じゃあ、と残る左手を持ち上げた。
「池と沼の違いって、なんだよ」
 人差し指を残して指を畳み、凪いだ水面を指差して問う。
 途端、四肢を突っ張らせていた彼は、ビクゥ! と全身を波立たせた。
 尻尾の先まで毛羽立ったのを見て、夏目が肩を落とす。
「それみろ」
 知らないくせに、偉そうな口を叩くな。
 心底呆れ果て、肘を戻して言った彼に、斑はうんうん唸って悔しげに地面を殴りつけた。
 八つ当たりも甚だしく、ひとり百面相している彼に歯を見せて笑って、夏目はまた足を投げ出した。ぽかぽか陽気を全身に浴びて、植物とは反対に、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出す。
 今日はこのまま、此処で日暮れ前まで過ごそうか。そんな事をぼんやり考えていたら、
「か……」
 下から声が聞こえた。
「ん?」
「河童がいるかどうかだ!」
「うわぁっ」
 呻くような声だったので、斑が腹でも痛いのかと思って下を向けば、白い巨躯が急に飛び跳ねた。
 あまりの唐突さに夏目は素っ頓狂な声をあげ、仰け反って彼を避けた。
 急上昇した心拍数に胸が苦しく、心臓を服の上から撫でて、肩で息をする。滲み出た汗が気持ち悪く、口を大きく開いて冷たい空気を吸い込んでいたら、仁王立ちした斑が夏目の前に立ちはだかり、またもビシッと池を指差した。
 そして大声で喚く。
「沼には河童がおる!」
「……はあ?」
 今度こそ夏目は目を丸くし、二本足で立つ珍妙な生物を憐れんだ表情で見詰めた。
 笑おうにも、巧く行かない。片方だけ口端が持ち上がる、引き攣り笑いしか出来なくて、頬をヒクヒクさせていたら、顔を真っ赤にした斑が夏目の顎に頭突きを仕掛けてきた。
 避ける暇もなく直撃を食らい、背中から倒れた彼は、胸に乗りかかる巨大生物の首根っこを捕まえて放り投げた。
 ヒリヒリする顔を撫で、涙が出そうになるのを堪える。くるくる回転しながら着地した斑を睨みつけ、夏目は急ぎ身を起こした。
「いって……何するんだ、先生」
「へっへーんだ。私を馬鹿にした報いだ」
「馬鹿にしたくもなるだろ。なんだよ、河童って。そんなの、いるわけないだろ」
「居るわ。居るんじゃい!」
「何処にだよ!」
 無茶苦茶な道理を振り翳し、一歩も譲ろうとしない斑に怒鳴り返して、夏目は揺らぐ水面を指差した。僅かに遅れてそちらに首を向け、停止する。
 四足の獣も同じ方角に目を遣り、一瞬だけ夏目と同じ顔をした。ただ彼は、直後にニヤリと口を歪め、したり顔で笑った。
「……沼、か」
「ああ、沼だ」
「そうか。沼か」
「そのとーり!」
 力をなくした腕を垂らした夏目を軽快に笑い飛ばし、斑は自信満々に胸を張った。
 悔しいが認めるしかないのだろうか。空は相変わらずの快晴だが、どんより曇った雨雲をひとり背負った夏目は、悲壮感たっぷりに首を振り、現実を見たくなくて額を手で覆い隠した。
 彼らの前では。
「カパァ?」
 いつだったか、炎天下の道路で干乾びていた河童が水面から頭を出し、岸辺で項垂れる夏目に不思議そうな顔をした。

2009/03/26 脱稿