精霊火 第四夜(第七幕)

「出来るさ」
「いいえ、無理です」
 断言した彼に向かってきっぱりと否定の言葉を下し、骸はそれまで固く握っていた両手を突如ぱっと放した。
 広げられた指の隙間から、しゅるしゅると蛇の如く音を残して鞭がすり抜けていく。前触れもなく下からの重圧を消されたディーノは、釣り糸を切られた漁師のように後ろ向きにつんのめり、おっとっと、と片足で枝の上を飛んで左肩から幹にぶつかっていった。
 衝撃で意識が一瞬だけ他所へ向き、骸を見失う。しまった、と撓りながら戻って来た鞭を受け止めた彼は、瞬きの刹那、右から聞こえてきた木々のざわめきに咄嗟に身を低くした。
 旋風の直後、ザザッと音を立てて緑の葉が大量に舞い散り、彼の視界を埋め尽くす。横一閃された銀の光に彼は自分の判断が正しかったと知り、音を立てて地面へ崩れ落ちた大木を下に見て肝を冷やした。
 樹齢二百年を軽く越えるはずの樹木の、辛うじて残された枝に留まり、ディーノは真向かいに根を下ろす木の中ほどを睨みつけた。
 狙いを外した事を悔しがる様子もなく、三叉の槍を手にした骸がにこやかな笑顔で手を振っていた。
 避けるのが少しでも遅ければ、ディーノの首は彼が今立っている木と同じ命運を辿っていた。躊躇もなく、正確に一撃を見舞ってきた彼のおぞましさに、肌が粟立った。
「危ないな」
 斜めになった切り口に手を押し当て、上半分を失った木に憐れみの言葉を投げかける。巻き込んですまないと心の中で謝罪して、ディーノは折り畳んで握っていた鞭の先端を開放した。
「貴方を相手に、手加減をしては失礼でしょうから」
 遠慮は一切挟まないと明言し、骸もまた切っ先鋭い槍をディーノに向けて構えた。
 彼は羽織る緋色の打掛を左手でそっと撫で、肩からずり落ちないようにと肉厚の布を持ち上げた。明らかに動くのに邪魔になると分かっていながら、外そうとしない。己に不利な条件を上乗せしている彼の愚行を骸は嗤ったが、ディーノは気に留めなかった。
「俺が本気を出したら、お前に悪いだろ」
 揚げ足を取り、言い返した彼に骸が僅かに表情を変える。どうやら少しは気に障ったようで、初めて見せた彼の人間らしい拗ねた顔に、ディーノは少なからず感情を残しているようだと何故か安堵した。
 彼にとって人間とは、庇護すべき存在だった。たとえ邪悪な心に支配されているとしても、出来るものならば救ってやりたいと願わずにいられない。
「甘く見ないで頂きたいですね」
「みてないさ」
 一瞬だけ露にした不機嫌さを即座に掻き消し、冷たい声で骸が告げる。右目に手をやった彼は、自分で視界の半分を覆い隠して不敵な笑みを浮かべた。
 眉を顰めるディーノの前で、槍の柄を足場に使っている木の枝に叩きつける。
 カッ、と固い音が周囲に轟いた。
「……なんだ」
 瞬間、ぐらりと大地が歪んで蠢いた気がして、身を低くしたディーノが左手で足場にしていた木を握り締めた。太い枝から伸びる細い枝が親指に触れ、ちくりと痛んだ。
 棘でもあったのかと細めた目を下向けて、彼は瞬時に飛びあがり地上へ降り立った。
 左親指の腹にはふたつ、鋭い穴。
「なんだ、これ」
 今まで自分が居た場所を見上げた彼の背に、ぞぞぞ、と寒気が駆け抜けた。いったいいつの間に、どこから沸いて出て来たというのか。切り裂かれて頭部を失った巨木の胴体に、何十、何百という蛇が絡みつき、ちろちろと赤い舌を伸ばしていた。
 ディーノを獲物と見定め、無数の瞳が爛々と輝く。しかも蛇に取り付かれた樹木は、それ一本だけではなかった。
「クハハ。どうですか、蛇の檻に入れられた気分は」
 骸の嘲笑がなければ、気が動転したままだったかもしれない。四方を数え切れないほどの蛇に囲まれるのは、彼に聞かれるまでもなくおぞましいという他、表現のしようが無かった。
 圧迫感に苛まれ、背中に冷たい汗を流してディーノは臍を噛んだ。
 こんな獣に食い破られてやるほど、自分は優しくない。骸を屠ると決めたのだ、今更蛇の一匹や二匹、百匹や千匹の命を気にしてなどいられるものか。
「小癪な真似を」
 腹の底から声を出し、彼は鞭を構え骸が佇む巨木目掛け一気に振り抜いた。
 空を裂き、鋭い音を響かせてそれは彼の足元を直撃した。けれど寸前で骸は回避行動に移っており、手応えの無いまま鞭はディーノの元へ舞い戻った。続けて、背後から彼に踊りかかる蛇の大群を横薙ぎに払い除ける。
 ヒュッ、と乾いた音が耳を打った。
 胴体を引き裂かれた蛇は、輪郭を二重三重にだぶらせて後、ふっと大気に溶けて消えた。
「な――っ」
 命を潰したという感触が伝わってこない。目を見開いたディーノは、またも反対側から襲って来た蛇を薙ぎ払い、同じ現象を引き起こして消えたそれらに頭を混乱させた。
 指を噛まれた痛みは本物。
 だのに鞭の一打を食らった蛇は幻。
 一部だけが本物なのか、それともこの痛みすらも幻か。
「クフフ。いいえ、全て本物ですよ」
「そんなわけ、が!」
 次々に足場を変えて移動する骸を追いかけ、ディーノは自分の足に絡みついた蛇を思い切り踏み潰した。しかし手応えはまた無くて、あると思っていて実は無かった段差を踏み抜いた衝撃に、足の裏が痺れた。
 膝まで登って来た痛みに悶絶し、続いて反対の脛に突き刺さる痛みに身を仰け反らせる。噛まれたと判断した瞬間に彼はそれを鞭で叩き潰したが、またもや感触は届く寸前で消えて、腐葉土が覆う山の斜面を削っただけに終わった。
「どうですか、畜生道に堕ちた気分は」
「畜生道……?」
 癪に障る嗤い声で言われ、ディーノが不可解な言い回しの骸に片眉を持ち上げた。鞭を回転させて迫る蛇の大群を駆逐したディーノは、痛みを誤魔化して地を蹴り、涼しげに佇む骸に一閃を仕向けた。
 緋色の衣が裾を躍らせる。空振りした彼は今し方まで骸が居たはずの枝に着地し、捲れ上がった打掛を抑えて視線を周囲に走らせた。
 と。
「うわっ」
 情けなく裏返った声を出して、ディーノは天を仰いで地面へ落下した。
 急に足場がぐにゃりと曲がり、崩れ落ちたのだ。
 咄嗟に掴むものを探して左手を伸ばすが、ついさっきまであったはずの樹木がまるで見当たらない。それどころか自分が今いる場所が分からなくなって、彼は水を掻くように頭上に伸ばした両手を動かした。
 暗闇に堕ちていく。眼下遥かには、赤く煮え滾る超高熱の溶岩――
「そんなわけがあるか!」
 視界に飛び込んでくる情報を否定し、ディーノは叫んだ。
 鞭を撓らせ、何も無い空間目掛けて放つ。空色の瞳に力を込めて唇に牙を立て、蛇に噛まれたのとは明らかに異なる痛みに己を奮い立たせる。
「幻覚に神を躍らせられるとでも思ったか」
 目にも留まらぬ高速で空を奔った鞭が、確かな手応えをディーノに伝える。浅い。舌打ちした彼は即座に姿勢を立て直し、高く飛びあがった。
 緋色の打掛を翼の如く広げ、頬に朱色の傷を作った骸に殴りかかる。
「うおぉぉぉぉぉぉ!」
「ちっ」
 野獣の咆哮を上げた彼に口惜しげに睨み、骸は受け流すのは不可能と読んで後ろへ跳躍した。ディーノの拳が無人となった樹木を粉砕し、続けざまに鞭を唸らせて中空にあって無防備な男を狙った。
 背中に控えさせていた三叉槍を繰り出し、それを囮にして絡め取らせる。流れすぎていた身体をディーノの引っ張る力で相殺させ、低い体勢で着地した骸が今度は前に飛び出した。
 眼前に迫った彼の姿に、虚を衝かれたディーノの反応が鈍る。鞭に封じられた槍を反転させ、撓みを引き寄せた骸は、鉄の冠を被せた柄の先をディーノの喉仏目掛けて突き出した。
 緩急つけて身体を前後に揺さぶられ、姿勢を崩したディーノが慌てて地面を手で叩いた。
 指先だけで素早く印を刻み、大地に助力を要請する。太陽の運行を――つまりは空にまつわる眷属しか持たない彼にとって、地は相反する属性であるものの、霊域は反発することなく彼に手を貸してくれた。
 山を穢す悪意を放逐せよと、四角く切り出された壁を作り出してディーノを守る盾を創り出す。
 突如現れた茶色い防壁に骸は忌々しげに顔を歪め、届かなかった槍を取り戻して右の踵を軸に身体を返した。背を向けられたディーノが反射的に鞭を握る手に力を込める。
 武器が三叉槍に絡め取られたままだったのをすっかり忘れていた彼は、大きく振りかぶった骸に見事吊り上げられた。
「ぬあっ」
 ぐん、と耳元で空気が唸り、吹っ飛ばされたディーノが空中で回転して足から着地を果たす。折角捕まえていたのに振り解かれてしまい、詰めが甘かったと自省を促して、ディーノは肩からずり落ちた打掛を被り直した。
「なかなか」
 若干息を乱した骸が、乾いた左頬の傷を撫でて嘯いた。
「お前も」
 鞭を手元に戻し、服装の乱れを軽く整え終えたディーノが立ち上がる。
 神気の大半をリボーンに封じられ、術もろくに使えない。然るに体術に頼るほか無いのだが、戦い慣れた感のある骸の相手はなかなか骨が折れた。しかも山本などとは違い、合間に幻術を挟んで相手を翻弄するのを忘れないところが、実にいやらしい。
 油断ならない相手だと認めるしかない。今も、嘗ての彼も。
「俺が憎いか」
 深く息を吐き、呼吸を整えたディーノがふと、ずっと気になっていた事を口にした。
 前触れもなかった質問に、骸が紫紺の髪を掻き上げて皮肉そうに唇を歪めた。
「当然でしょう」
「そうか」
「ええ。けれど、貴方よりもよっぽど」
 あの男が憎らしい。
 言葉に発せられなかった語尾を脳内で想像し、身の毛もよだつ悪寒に襲われてディーノは全身に鳥肌を立てた。
 瞠目した彼が、誰を思い出しているのかを理解して、骸は掌を空に向けた。まるで差し伸べるかのような腕の動きに、ディーノが瞳だけを動かした。
「貴方も、そうではないのですか?」
 朗々と響く声で問われ、ディーノは咄嗟に答えられなかった。
 ちがう、と否定すべきなのにそのひと言が出てこないのは、骸の指摘通りの部分が確かに己の中に存在するからだ。
 求めても、手に入らなかった人。その最愛の人が愛した男。出来るものならば二人の間に潜りこみたかった、取って代わりたかった――奪い取ってしまいたかった。
 けれど出来なかった。
 あのふたりを繋ぐ強い絆の前に、ディーノは無力だった。打ちひしがれるしかなかった。
 何故先に出会えなかったのだろうと、過ぎた時をどれだけ悔いたことか。恨んだことか。
 人間という種の寿命の短さと儚さに、何度涙を流したことか。
 いつかまた会えると、輪廻の巡り合わせを信じて待ち続ける時の虚しさに心砕かれようとしていた頃、山深く人里離れた場所で人間を拾った。まだひとりで歩くのもままならぬ幼子を、あの男があの子から与えられたのと同じ名で呼んだのは、他に思いつかなかったという理由だけではない。
 生き写しだった。
 黒い髪も、黒い目も、鋭い眼光も、ふてぶてしい性格も、なにもかもが。
 よもやあの子の瓜二つの綱吉に懸想し、心を攫っていくところまで同じだとは思いもしなかった。
 あの子が好きだ。
 あの子と同じ魂の匂いを持つ綱吉が、好きだ。
 だから組み敷いた、手に入れようとした。
 泣かせたかったわけじゃない、怖がらせたかったわけじゃない。
 最初から分かっていたことだ、綱吉の心には雲雀しか居ないことくらい。
 それでも止められなかったのは、間違いなく自分の弱さだ。
 雲雀に負けたくないという対抗意識が根底にあったのも、認めるしかない。飼い犬に手を噛まれた気分で、拾って育ててやった恩を忘れて、という無茶な八つ当たりめいた感情を抱きさえした。
 恭弥がいなくなれば、綱吉の心は自分に向くだろうか。
 一瞬でも考えなかったといえば、嘘になる。
 駄目なのだ、自分は。あのふたりを前にしたら、冷静でいられなくなる。いつもの自分が掻き消えて、醜悪な心が曝け出されてしまう。
 神という立場を忘れ、感情のままに動く、ただの獣に等しく堕ちてしまう。
「憎いのでしょう?」
 骸の声が高く、低く、夜の闇に溶けていく。ディーノの信念とも言うべき根幹を揺さぶる甘言に、彼は目を見開いたまま前髪を掻き毟った。引っ張られた頭皮が鈍い痛みを発し、動悸を引き起こす己を落ち着かせようとして彼は乾いた唇を舐めた。
 瞳が泳ぎ、視界が霞む。苦悶の表情を浮かべたディーノを見下ろし、骸は嫣然と微笑んだ。
「あの男を、殺したいのでしょう?」
 それは神として、犯してはならない最大の禁忌。
 自分が代わりにやってやるから、見逃せとでも言うのか。
 導き出され――或いは誘導されて辿り着いた結論に戦慄を覚え、愕然となったディーノは、鞭の柄に巻きつけた皮革が肉に食い込むまで、強く握り締めた。
 雲雀を、綱吉を奪われようとしているのに、このまま何もせずにただ見ていろと、つまりはそういう。
「俺を見くびるな!」
 叫び、ディーノは渾身の力を込めて骸に向かって鞭を振り抜いた。
 唸り声と共に空を真っ二つに切り裂き、襲い掛かる。しかし動きの大きいそれを躱すのは容易で、骸は拍子抜けだと肩を竦めて腰を低く落とし、頭上を薙いだ鞭を避けると同時に前に飛び出した。
 懐に入ってさえしまえば、中距離攻撃を中心とするディーノは、近接攻撃を主体とする骸の槍を防ぐ術がない。先ほどは大地の英霊を味方につけた彼だが、充分過ぎる程精神に揺さぶりを掛けた今ならそれも難しかろう。
 三叉の槍を構え、不敵な笑みを口元に浮かべた骸が一直線にディーノに突進する。胸元をがら空きにした彼は一瞬たじろいでより隙を大きくし、緋色の打掛の裾を宙に躍らせた。
 その右手には、鞭の柄は無かった。
「なに――」
 一瞬にして左手に柄を持ち替えた彼の右手に、弧を描いて鞭が巻き戻される。反動を利用して作られた輪の真ん中へ三叉が吸い寄せられ、その向こうにはしたり顔のディーノが。
 咄嗟に腕を引き戻そうとするが、僅かに遅い。
 骸が接近戦に持ち込むようにわざと大振りをして、隙を作ってみせた。まんまと騙された骸の槍は二重に鞭に絡め取られ、あと数寸でディーノの眉間に到達するというところで停止した。
 鋭い音を響かせ、ディーノが勢い乗った鞭の先端を掴み取る。右腕を上に、左手を下に。両手で武器を引き絞ったディーノを眼前に睨みつけ、骸は口惜しげに唇を噛んだ。
「俺を誰だと思ってんだ」
 武官として神族の末席に名を連ねる存在が、そう易々と地面に這い蹲るわけがなかろう。揶揄する彼の言葉に骸は槍を掴む力を強め、懸命に奪い返そうと抗うが、小刻みに震えるばかりでまるで思い通りにならなかった。
 我慢比べに再度突入したこの状況は、決して骸が望むものではない。あれ程に惑わせたというのに、ディーノの瞳は輝きを取り戻し、確固たる信念を滲ませていた。
「くっ」
 紫紺の髪を揺らし、抵抗を続ける骸が低く呻く。対峙するディーノは怒気を押し殺した冷たい目で彼を見詰め、一時でも彼の言葉に心揺さぶられた自分を恥じた。
「俺に、お前と同じになれと言うのなら、無駄だ」
 愛しい者が手に入らなかったからと騒ぎ、暴れ、奪い取ろうとしたその愚行は、決して許されるものではない。どれだけ求めて、望んでも、夜の空を照らす星に手が届かないように、どんなに心が欲しても自由にならないものはある。
 暴力で思い通りに物事を動かそうという、そういう考え方が、なによりディーノは気に入らない。
「お前の好きなようにはさせない。ツナも、恭弥も、奪わせたりはしない!」
 額がぶつかり合う近さで骸に向かって怒鳴り、ディーノは歯を食いしばって鞭による拘束を強めた。
 魂さえも粉々に打ち砕いて、二度と立ち上がれないようにしてやる。ふたりを守れるのなら、神の位など今すぐにでもかなぐり捨ててやる。
 あの時見ている事しか出来なかった償いを、今こそ果たそう。
 眼光鋭いディーノの決意を間近に感じ取り、骸は焦りを滲ませて頬を引きつらせた。
 たとえ能力の大部分を封じられているとはいえ、相手は曲りなりにも神。対抗し得る火烏の力は、不用意に解放すれば逆にこちらが取って食われる危険性を秘めている。現に今、ランチアの精神は禍津日神に奪われつつあった。
 迷いが生じ、骸の意識が錯雑する。みし、と嫌な音がしてずれていた焦点を正せば、鞭が巻き付けられた槍に罅が入っていた。
「そこまでして庇う相手ですか、あの男は」
 ディーノの本気を悟り、ならばと話の矛先を僅かに脇道に逸らす。このお人よしの男をどうすれば突き崩せるか、素早く頭の中で計算式を組み立てた骸の瞳が、妖しく輝いた。
「守るさ。恭弥は俺の息子だからな」
 山の中、餓えて今にも死にそうなところを拾い、神饌を与え、育てた。人間の赤子を抱いた経験など、一度きりしかない。なにもかもが手探りで、てんやわんやで、大騒ぎだった。
 人の言葉を教えてやれず、人としての生き方を導いてもやれなかった駄目な親でしかないが、愛情は注いだつもりだ。今の雲雀にはそれが鬱陶しいようだが、あそこまで無事に大きく育ってくれたことを、素直に嬉しいと感じている。
 子供を守るのが、親の責務だ。庇って何が悪い。
「クフフ……どうやら気付いていないようですね。いいえ、気付きたくないだけですか」
「何が言いたい」
「あの男が、本当にただの人間だとお思いですか!」
 勝ち誇った顔で笑い、骸が唐突に大声を張り上げた。
 ぐん、と首を伸ばして前に乗り出した彼に虚を衝かれ、ディーノが僅かにたじろいだ。
「っ――」
 瞬間、細かな罅に全面を覆われていた三叉の槍がついに砕けた。
 飛び散った無数の破片が塵と化し、ディーノの視界を銀に染め上げる。きらきらと輝くそれに視力を奪い取られ、吸い込んだ粉塵が呼吸器官を阻害する。咄嗟に右手で払い除けようとした矢先、こだまする骸の声が脳天に響いた。
 倒れ、砕かれた樹木の隙間。開けた夜空を仰ぎ見て、忽然と行方をくらました骸にディーノは地団太を踏んだ。
「くそっ。待ちやがれ」
 最後の最後で詰めを誤った自分に苛立ち、罵声を上げてディーノは鞭を片手に纏めた。この場を去ったとはいえ、まだそう遠くには行っていないはず。直ぐに追えば、捕まえるのも難しくはなかろう。
 落ち着け、と自分に言い聞かせてディーノは深呼吸を二度繰り返した。吸い込んだ槍の欠片に毒が仕込まれていた形跡はなく、五体満足なのを確かめてから前方の闇を見据える。
 綱吉は苔生す石段を駆け上って逃げた。となれば、彼の行き先はこの先にある身を清め、穢れを祓う水場の可能性が高い。
「間に合えよ」
 是が非でも綱吉は守り抜いてみせる。ちらりと骸が言い放った台詞が脳裏に過ぎるが、今は考えている時間さえ惜しいと、彼は意図的に片隅へ追い払った。
 その後頭部を。
 にゅっと現れた巨大な撥が。
「……へ?」
 急な暗がりが足元に落ちて、駆け出そうとしていたディーノは首から上だけで背後を振り返った。
 そこに本来あるべきものは、豊かな緑に彩られた霊山に根付く木々。しかし彼が目に出来たのは、それら一切を覆い隠すほどの特大サイズの撥、いや、形状からすれば杓文字だった。
 鈍重な動きで振り下ろされるそれを前に、ディーノが硬直する。逃げなければと思うのに、にわかに沸き起こった恐怖心に圧倒されて、全く動くことが出来なかった。
「ひっ、ひぎゃぁぁぁぁぁ!」
 骸に対峙していた時からは考えられない裏返った悲鳴をあげ、ディーノは敢え無くリボーンの繰り出した鉄槌に撃沈した。
 

 息が切れる。
 心臓が破裂しそうだ。
 足が重い。
 どうして。
 どうして、どうして。
 どうしてこんなことになってしまったの。
「はっ、は……っんぐ、あが!」
 荒い呼吸を繰り返し、綱吉は懸命に足を前に運び続けた。今にも折れそうな膝を懸命に奮い立たせ、兎に角此処から一歩でも遠くに離れるのだと、そればかりを心に命じ続ける。
 立ち眩みがして右に身体が傾ぎ、苔に足を取られて横倒しに草むらに倒れこむ。既に何度転んだか解らない全身は傷だらけの痣まみれで、汚れきった肌は白い部分がどこにも残っていないほどだった。
 鼻に入った草の痛みに顔を顰め、唾を吐く。じんわりと上腕部に広がる熱に綱吉は首を振り、涙を堪えて乱暴に目尻を擦った。
「ヒバリさん、どこ」
 骸に捕まって、もう駄目だと思った瞬間に何かが起きた。いきなり拘束が緩んで、振り返って確認する暇も惜しくてそのまま逃げてきてしまったけれど、助けてくれた気配は雲雀ではなかった。
 見に覚えのある背中が脳裏を過ぎり、綱吉は寒さに震えて自分を抱き締めた。
「ディーノさん」
 自分を押し倒し、組み敷き、唇を奪い、身体さえ求めてきた男への恐怖心は未だ拭えない。あんな真似をしておいて、ぬけぬけと現れた彼へ微かな怒りも感じている。だけれど、やはりどうしても嫌いになれなかった。
 彼が怖い。でも、助けてくれた。
 相反する感情の鬩ぎあいに奥歯を噛み、綱吉は足の裏に張り付いた小石を払って起き上がった。
 水音がする、それも小川のせせらぎとは違う激しいものが。
「…………」
 意識しないうちに、禊の泉まで来ていたらしい。一本道なので当然といえば当然だが、よく知る場所に辿り着いた安堵に綱吉は肩の力を抜いた。
 石段の下に目を凝らし、誰も追ってきていないことにほっと息を吐く。だが開けた視界の中ほどに走る赤黒い陽炎を見て、彼は頬に流れる涙の筋を新たにした。
「村が」
 黒と、禍々しい赤が混ざり合い、踊っている。広範囲に及ぶ炎は、今や村全体を飲み込み、焦土に作り変えようとしていた。
 山本や獄寺、置いてきてしまったフゥ太が心配だ。了平たちも無事だろうか、消火活動が進んでいる風にはとても思えない。
「ヒバリさん、どこ。ヒバリさん、ヒバリさん!」
 彼の気配を感じない。今状況がどうなっているのかがさっぱり分からなくて、ひとり此処に居ていいのかどうかの判別さえつかず、綱吉は不安に駆られて叫んだ。無論返事はなく、声はシンと静まり返った森に反響しながら消えていくばかり。
 嫌々と首を振り、綱吉は残る石段を急ぎ駆け上がった。自分の心臓の音よりも、岩場を流れ落ちる滝が水面を砕く音が大きく聞こえるようになった。
 禊場は、昼間に訪ねて来た時となんら変わる事無く存在していた。
 村を襲う未曾有の大火も、操られた村人が放つ悪意も、守護する結界が破壊された事実さえも、なにひとつ自分には関わりあいないといわんばかりに、冷たい顔をして水は流れ続けていた。
 瀑布激しい滝壺付近と違い、綱吉が歩み寄った水辺の波は穏やかだ。水紋を刻む水面は黒々としており、夜空を映し出して僅かに赤みを帯びていた。
「う……」
 その流れを目にして爪先に冷気を感じ取り、綱吉はがくんと膝を折って蹲った。両手を細波立てる水に突き立て、掬い取って頭に浴びせかける。涙を洗い流し、泥汚れを落として、熱に狂った体を冷まさんとして、彼は這いずって下半身も泉に浸した。
 肩まで水に潜り、己の体を小さくまとめて抱き締める。
 このまま水に溶けて消えてしまいたかった。自分が村に居たことで、此処に産まれてきた所為で、多くの無関係の人々を巻き込んでしまった現実が、重い枷となって彼に圧し掛かった。
 違うと言いたい。否定したい。
 こんなのは嘘だと叫びたかった。
 雲雀は自分を好きだといってくれた。綱吉が好きだと言ってくれた。
 綱吉も雲雀が好きだ。綱吉が、雲雀を好きでいるのだ。
 だからあんな男は知らない。骸なんて知らない。
「いや、いや……たすけて。ヒバリさん、ヒバリさん、助けて。たすけてよ!」
 此処から連れ出して。此処から救い出して。今すぐ抱き締めて、くちづけて、好きだと囁いて欲しい。
 早く。早く来て。
 壊れてしまう。自分で自分が分からなくなって、綱吉は綱吉ではなくなってしまう。
「ヒバリさん、ヒバリさん。どこ、どこにいるの。俺は此処に居る、此処に居るよ!」
 水を掻き回し、飛沫を散らし、綱吉は手応えの無い水面を叩いて叫んだ。虚空に吸い寄せられた声は滝の音に掻き消され、空にさえ届かない。胸元まで泉に浸かり、彼は呆然と天を仰いだ。
 月も星も見えないのに、こんなにも夜空が明るい事実が怖くて仕方が無かった。
 両手で顔を覆い、涙を零す。とうに枯れてもおかしくないのに、身体中の水分が涙に変換されてしまったのか、溢れて止まらなかった。
 喉が潰れるまで雲雀を呼んで、叫んで、自分は此処だと訴えかける。左手首を握って額に押し当て、ふたりを繋ぐ鎖に思いを叩き込む。
 ちりん、と鈴が鳴るような微かな音が、不意に綱吉の脳裏に浮かび上がった。
「――!」
 はっ、と息を詰まらせて綱吉は瞠目し、左胸に両手を押し当てて周囲を見回した。慌しく水飛沫を撒き散らし、細い明りに照らされた森に目を凝らす。
 もうひとつ、また音が。
「ヒバリさん!」
 甲高い声で叫び、綱吉は押し潰されそうな心臓を宥めてその人の姿を探した。
『つなよし』
「ヒバリさんっ」
 頭の中に直接聞こえた声に、彼がまだ遠く離れた場所にいるのだと綱吉は即座に理解した。
 右手で右の耳を塞ぎ、水中で左手を握り締める。拳を胸に置いた彼は、いつも以上に掠れて聞こえる雲雀の音声が、単純にふたりの間にある物理的な距離の所為だと思い込もうとした。
 同時に見えた景色を、彼は否定した。
 目を見張り、瞬きもなしに涙を流し、喘いで、こんなのは嘘だと現実を拒絶した。
 燃え盛る炎、折れた膝。血まみれの四肢に、赤黒く変色した肌。辛そうな呼吸、苦痛を訴える肉体。感覚までもがはっきりと綱吉に流れて来て、全身を蝕む悪寒に彼は悲鳴を上げた。
 直後、雲雀は綱吉に伝わる情報の一部を遮断した。
 普段は意図的に排除している部分までもが、伝心で綱吉に届いてしまった。それだけ彼に余裕が無い証拠で、綱吉は炎の中に見えた男の姿に慄然とした。
 黒い鉄球を片手に軽々と操り、雲雀を蹂躙している男。満身創痍の彼に容赦なく一撃を浴びせるその背には、禍々しい焔の片翼が広がっていた。
 どくん。
 心臓が大きく跳ねて、綱吉は息苦しさに吐き気を覚え盛大に咳込んだ。胃の中にはもう何も残っておらず、胃液さえも出尽くした。しかしもっと奥の、体の中にあるもの全部を吐き出してしまいたくて、彼は喉を掻き毟って水面に幾つもの水柱を築き上げた。
 ぜいぜいと浅い呼吸を繰り返し、涙で霞む視界に雲雀を見る。二重写しの景色で、男が笑った。
「クフフ……」
「――っ!」
 嘲笑う骸の姿に、綱吉は丸めていた背中を後ろへと反らした。
 足が滑り、水の中に倒れこむ。溺れそうになって足掻いた彼を眺め、骸は楽しげに目を細めた。
『つなよし』
 雲雀の声が弱い。今にも千切れてしまいそうな細い糸に必死に縋って、綱吉は雲雀を呼んだ。
 片手で拐を握った雲雀が、ランチアの放つ鉄球を寸前で弾き返す。立ち上がる力さえろくに残っていない彼は、矢張り綱吉の目を通して見た骸の姿に歯軋りした。
 男の行動を予測できず、彼をひとりにしてしまったことを激しく悔やむ。しかしあの場では、あれが最善の処置だった。
 自分がふたり居たなら良かったのに。人の殻をかなぐり捨てて、今すぐ綱吉の元へ駆けつけられたらいいのに。
『ヒバリさん、ヒバリさん、ヒバリさん!』
 綱吉が必死に呼んでいる。早く来て、助けてと、痛々しい声が頭の中を駆け巡る。
 雲雀は滑る拐を握り直し、肩で息をしながらランチアを、その背後にある狂乱の翼ごと睨みつけた。
「綱吉、聞くんだ」
 落ち着くように諭し、自分も極力平静を装って話しかける。視界が霞み、このままでは敗北の二文字が自分に叩きつけられるのは確実だった。
 綱吉を守れず、村を守れないようでは、自分が此処に在る意味がない。力ならばあるのに、封じられたまま、抵抗らしい抵抗も出来ないで朽ち果てるのは本意ではなかった。
 骸が綱吉に迫る。泉の水は霊力を秘め、邪を弾く。いくら人間とはいえ、火烏の影響を過分に受けている骸のことだから、泉の中にいれば多少の時間を稼げると雲雀は判断した。
 もっとも、嘗て自ら望んで地獄へ堕ちて行った男の事だから、霊水に身を焼かれるくらい、どうとも思わない可能性は高い。火烏の力を使えば肉体の再生も容易だろうから、綱吉を手に入れる為ならばどんな手段に出るか、分かったものではなかった。
 焦りを滲ませ、雲雀は業火に焼かれた鉄球を躱して右腕に力を込めた。
 青白い燐光を発した拐を振りかぶり、仁王の如き男に飛びかかる。
 顔の前で鎖を引き伸ばし、盾の代わりにしてランチアが易々と雲雀の一撃を封じ込めた。しかし見越していた雲雀は持ち上げるだけで精一杯の足を、骨が折れるのも構わずに目の前の男の横っ面に叩き込んだ。
 めき、と嫌な音が体内を駆け抜け、雲雀の顔が苦悶に歪む。だのにランチアは平然として、ありえない方向を向いた雲雀の脚を掴むと、おもむろに彼を背後に放った。
「ぐがっ」
 手は放さない。振り回された雲雀は直後目の前に星を見て、初めて自分が地面に叩きつけられたと知った。
 みしみしと肋骨が軋み、脊椎を伝った衝撃が脳を揺さぶる。息が詰まり、目の前が白く染まった直後に真っ暗闇に沈んだ。
「ヒバリさん!」
 一瞬途切れた彼の視界と、流れてきた体が粉々に砕かれる痛み。この何十倍もの苦痛を、今雲雀はひとりで受け止めている。
 綱吉は己を抱き締めながら叫び、楽しげに笑っている男を信じられない目で見た。
 どうしてこんなことが出来るのか。何故そんな風に笑っていられるのか。
 人が死んでいるのだ、傷ついているのだ。苦しんで、哀しんで、こんなにも辛い思いをしているのに、この男は笑っている。楽しくて仕方が無いと、醜悪な笑みを浮かべている。
 悪寒が走り、綱吉は水の中で後退した。距離を取って、滝つぼへと近付く。
 泉の水深は、奥の岩場に近付くほどに深い。今はまだ足がつくけれど、そのうち綱吉の背丈よりも深さがある場所に行き当たる。なにより彼は、泳げなかった。
 自分が行ける限界まで下がり、急に足場が消えて頭の先まで水に沈んだ綱吉は、慌てて両手を広げて身体を浮かせた。水を吸って重くなった髪の毛が顔に張り付き、視界が歪む。骸がまだ水辺に佇んだままでいるのに安堵するが、彼があそこに居続ける限り、綱吉は此処から動くのも叶わなかった。
 冷たい霊水は綱吉を守ると同時に、彼の体温を奪っていく。骸が痺れを切らすのが先か、綱吉の体力が尽きるのが先か。
 雲雀の救援が叶わない今、残された頼みの綱はディーノだけれど、彼の気配も周囲には感じられない。結界が破られた現在、山本や獄寺も此処まで上がって来られるはずだが、あのふたりが駆けつけてくる様子も無かった。
 完全な手詰まり。綱吉は足元から迫りあがってきた寒気に全身を竦ませた。
『つなよし』
「ヒバリさん!」
『綱吉、聞いて』
「早く来て、嫌だ。助けて!」
『つなよし、落ち着くんだ。僕は行けない。だから君が、……君がやるんだ』
 泣き叫ぶ綱吉の頭を意識化で撫でてやり、雲雀は言った。
 伝心の会話は、骸には聞こえない。綱吉の叫ぶ声ばかりが滝の水流に紛れて響く中で、ふっと変化した空気に、彼は笑みを形作ったまま眉根を寄せた。
 それまで怯え、震えるだけだった綱吉の様子がおかしい。見開いた琥珀の目を虚空に投げたまま、瞬きさえせず、青紫に変色した唇を戦慄かせ、彼は息を呑んだ。
「え……」
 何を言われたのか即座に理解出来ず、綱吉は呆然と掠れた声を零した。
『戦うんだ、君が』
 はっきりと聞こえた雲雀の言葉に、彼は尚更狼狽し、両手で頭を抱えこんだ。
「なんで」
 出来るわけがない。
 綱吉には戦う力なんかない。体力も人並み以下で、視る力しか持たず、術はからきし駄目で、発動さえしない。格闘術は基本だけは教え込まれたけれど、女子にすら負ける腕力しか持ち合わせていない。
 そんな自分が、どうやって村人を操り、結界を破壊し、おぞましい火烏をも従えている男を打ち負かせるというのか。
 無謀すぎる雲雀の提案に反発し、綱吉はかぶりを振った。
 そうじゃない、と声が続く。
「無理だよ、出来ない。できっこないよ!」
『出来るよ、綱吉。君なら』
「いやだ!」
 穏やかに話しかける雲雀の声を拒絶し、綱吉は唇を噛み締めた。雲雀がこんな事を言うなんて、彼もまたよっぽどのところまで追い詰められているとしか考えられない。
 だけれど本当は、分かっている。
 そうするべきなのだという事くらい。
 そうするのが最良だという事くらい。
 綱吉だって、本当は解っている。
 知っている。
『つなよし』
 このままでは共倒れになってしまう。村も、仲間も、家族も守れないで、ふたり朽ちていくのが望みなのか。
 語気を強めた彼に涙を流し、綱吉は身体を丸めた。泉に潜り、砂に覆われた水底を蹴って雑念を取り払う。溢れて止まらない涙を懸命に堪え、彼は次第に追い詰められていく雲雀の無事を祈った。
 もう他に術が残されていない。迷う時間すら許されない。
 決めなくてはいけない。
 自分ひとりの我が儘を貫いて、全てを灰にするか。
 それとも。

……帰って来る?
来るよ。 
ほんとに?
本当に。 
約束? 
約束する。 
俺のことは? 
好きだよ。 
ヒバリさん。 
なに?

 
 綱吉は背筋を伸ばした。
 しゃんと胸を張って、水の中から起き上がる。二本の足で大地を踏みしめて立ち、瞼を閉ざした状態で骸に向き合った。
 それまでの肉食獣に追われて怯える草食獣の気配は薄れ、最早感じられない。毅然とした態度を見せた綱吉に、骸は幾許かの違和感を抱いて顔を顰めた。
「ありがとう」
 胸の中に宿る暖かな光に謝意を述べ、綱吉は濡れた頬を振り払い、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
 雫を滴らせる前髪の向こうに骸を見て、左手を下ろした綱吉は肘を真っ直ぐに伸ばし、前に突き出した。緩く握った拳を向けられ、骸が何をしでかすつもりかと首を捻る。
 だが綱吉の目には、殆ど彼の姿は入っていなかった。
 唇を噛み締め、嗚咽を漏らし、悔しさに打ちひしがれながら、それでも雲雀を不安にさせまいと押し潰されそうな恐怖に耐える。胸が苦しくて、張り裂けそうで、壊れそうな心を奮い立たせて、綱吉は目尻に滲んだ涙を弾き飛ばした。
 睨み殺す勢いで、骸を射抜く。
「おれは、俺は!」
 右腕を掲げ、綱吉は力を込めた左手に伸ばす。瞬間、黄金色の輝きが彼を包み込んだ。
「っ」
 突然の出来事に骸の目が眩み、直視できずに額に手を翳した。視界を制限させ、顔を背けて気配だけで綱吉を追いかける。
 周囲を取り巻く霊気が渦を巻く。強大な何かが迫り来る感覚に、骸は総毛立った。
 綱吉が歯を食いしばる。それまで蛟を雲雀に封印し、今は龍の力を封じ込める目的で、雲雀に預けて来た彼本来の力。あまりに大きすぎるが故に、幼い綱吉では抱えきれずに心臓に莫大な負担を強いていたその力。
 雲雀から龍の宝珠を与えられ、彼の補助を受けて少しずつ強度を回復させてきた今の彼ならば、きっと。
 耐えられる。
 手首に絡みつく金色の鎖に手を伸ばす。指で触れる。質量も無いはずのそれの、しっかりとした温かさを感じ取る。雲雀の鼓動を受け止める。
 彼との絆を、繋がりを。
 封印を。
「俺は、お前を――絶対に許さない!」
 絶叫し、綱吉は右肩を振り上げた。
 金色の輝きが弾け飛ぶ。
 渦巻く霊気が大爆発を起こし、綱吉の姿は光の中に消えた。

2009/02/22 脱稿
2009/03/21 一部修正