精霊火 第四夜(第六幕)

 絶叫し、獄寺は最後に残っていた三枚の呪符を立て続けに千種目掛けて放った。
 印を忘れ、発動の呪言を忘れられた呪符に、いったいなんの力があるだろう。顔の前に投げつけられた紙切れを鬱陶しそうに払い除け、千種はあらぬ方角に指が曲がった手を、蹲る獄寺に向かって伸ばした。
 虚ろな瞳がふたつ、獄寺を射抜く。恐怖に竦んだ彼は動けず、カチカチと奥歯を鳴らして小さく首を振った。
 まともに呼吸すら出来ず、胸が圧迫されて苦しい。右半身は熱く、左半身は冷たくて、心臓が真ん中で押し競饅頭状態で悲鳴を上げていた。
 はっ、と短い息を吐く。変色して黒ずんだ千種の手が、獄寺の顔を掴もうと蠢いた。
「……っ!」
 もう駄目だと、彼は咄嗟に頭上に無事な腕を掲げて距離を取ろうと腰を引いた。背中を地面すれすれまで仰け反らせ――刹那。
 耳の奥で何かが砕け散る音を聞いた。
 違う。
 頭の中に直接響く、否、心に。
 命そのものに。
 風に泣く鈴のような音が。
 瞠目し、彼は喉の奥で息を詰まらせた。千種が何かに煽られるかのように体を揺らめかせる。咄嗟に北を向いた獄寺の目の前で、遠く、空に突き出た虹の輝きがさらさらと砂の如く崩れ落ちていった。
 それが何を意味するのかも解らないほど、彼は愚鈍な男ではなかった。
「な、に」
 掠れる声で呟き、獄寺は瞳を泳がせた。雲雀の姿を探す、しかし見付からない。山本も、気付けば気配すら途絶えた。
 どくん、どくんと活動を弱めていた心臓が脈動を強めた。耳鳴りがして、動悸がして、彼は瞬きを忘れ、虚空に見入った。
 名高き霊山と謳われた並盛山の、結界が。
 獄寺や山本でさえ立ち入りを禁ずる、綱吉と雲雀だけが踏み込むのを許された結界が。
「十代目……?」
 雲雀は綱吉を逃がしたと言った。
 彼が逃げる先と言えば、ひとつしかない。
 この村で今最も安全とされるのは、燃え広がる炎からも遠く、人の出入りさえ厳しく制限されている並盛山の結界の中。だから獄寺も、そこに入り込みさえすれば綱吉は何があっても大丈夫と、漠然ながら考えていた。
 ところがその最後の砦たる結界までもが、こんな場所で千種相手に手間取っている間に、粉々に砕かれてしまった。
「あ、あ……」
 綱吉が危ない。
 だのに自分は此処で、いったい何をしているのか。
 視点を近くに戻せば、不安定な姿勢で立つ千種がいる。伸ばされた彼の腕を寸前で躱し、獄寺は重石を何十個とぶら下げた状態に等しい自分の体を懸命に操った。
 動きが鈍い千種から距離を取るのは簡単だったが、自分自身も負った傷の具合は酷い。本気で引き千切ってやりたい気持ちに駆られながら、獄寺は浅い呼吸を繰り返した。
 瞳は常に上下左右へ泳ぎ、状況打破の糸口を探し回る。手持ちの呪符、呪札は全て使い切ってしまった。触媒がなければ術の行使さえ危うい自分の非力さを呪い、彼は感覚の無い唇を噛み締めた。
「十代目が、危ないっていうのに俺は」
 彼の右腕になる目標があった。雲雀という存在の壁がどれほど高かろうとも、彼に出来ないことが出来る存在になって、綱吉を影ながら支えるのが夢だった。
 今、その守るべき存在が危機に瀕している。地面に這いつくばってでも、どんなに格好悪く見苦しくても、助けに行くのが右腕たる存在ではないのか。守るべき存在を失ってしまっては、やっと見つけた自分の存在意義も、居場所も、全部空っぽになってしまう。
 自分で壊してしまう。
 同じ過ちを、また繰り返してしまう。
「いやだ」
 失いたくない。
 喪いたくない。
 ここにいたい。
 ここで生きていたい。
 一緒に明日を見たい。
 綱吉の傍にいたい。
 その為なら、今までの自分でもなんでも、全部棄てて構わない。くれてやる。守れる力が手に入るのなら、なんだってやってやる。
「これ以上、俺から奪うな!」
 歯を食いしばる。吼える。涙を堪える。噛み砕く。
 風が吹く。
 熱波を吹き飛ばす嵐が、獄寺を中心に。
「……?」
 千種が変容した彼の気配に眉目を顰め、警戒を表に出して伸ばしかけた腕を引いた。逆手に握った針の先端で空を掻き、身構える。
「やっと覚醒したか? ……いや、ちと中途半端か」
 遠く、暗がりの中で黒く濡れた翼を畳んだ男が、不敵な笑みを浮かべて呟いた。足元に横たわる女は、意識が無いのか青白い顔色のまま静かに目を閉じている。
 獄寺は見守られているとも知らず、突如沸き起こった不可思議な感慨に瞬きを繰り返した。
 なにか、今、それまでずっと見えなかったものが、急に見えた気がした。近くにありすぎた所為で隠れてしまって、ずっと気付かなかった何かに、触れた気がした。
 右手を広げ、重い左腕を見る。空を握った手が、吸い寄せられるように赤黒く染まった左袖を取った。
「まだ残ってる」
 張り付いた二枚の布の隙間に指を差し入れ、ぺりぺりと乾きかけているそれを剥がす。混ざりこんでいた枯れ草に指を掬われつつ、蹲った彼は傷ついた腕を出来る限界まで持ち上げて、狭い袖口から右手を捻じ込んだ。
 札は使い切った。もう何も残っていないと思い込んでいた彼は、さして期待もせずに下部を漁り、そして。
 乾いた紙切れを探り当てた。
 指が触れた瞬間、またもや手が吸い寄せられたかのように、無意識にそれを握り締めていた。取り出して顔の前に掲げ、広げて見詰める。
 あんなにも激しいやり取りがあり、大量の出血をしているというのに、何故かは解らないが、その呪符だけは汚れひとつなく、綺麗な状態で彼の目の前に現れた。
「どうして」
 まるでこの瞬間を待っていたかのように出現したそれは、獄寺が記し、ディーノが属性を作り変えてしまったあの一枚だった。
 獄寺家の守護は南方、朱雀。即ち炎。
 しかしそこに記された紋様は、獄寺が用いるものとは形を異にした姿をしていた。
 風を体現する紋様に彼は目を瞬き、同時に浮かんだ金髪の青年に舌打ちした。折角上出来だったものを勝手に弄られた怒りまでも蘇り、腹立たしさに臍を噛んで呪符を握り締める。
 こんなものが出て来たところで、何の役に立つのか。今必要なのは、目の前にいるこの死をも恐れない敵を倒す力だ。
「……いや」
 投げ捨てようとして思い留まり、彼は改めて呪符を見た。
 これもまた、力だ。
 獄寺はふっと脳裏に浮かんだ逆転の発想を胸に落とし込み、右手を広げた。震えて悴んでいる指先に、微風を感じた。
 最早獄寺家、炎云々に拘っている場合ではない。使えるものはなんだって使う、たとえ道端に落ちている枯れ枝であっても。
 消えかけていた希望の光が、淡い輝きを抱いて灯される。このか細く、弱々しい炎を大きく膨らませるか、萎ませるかは、自分自身の心の持ちようだ。
「やってやるさ」
 見苦しくても、格好悪くても、情けなくても、一度決めた事はなんとしてもやりぬいてみせる。いつまでも他人との間に壁を作ったままでは、どれだけ時間を使っても絶対に自分の居場所は作れない。
 此処にいたい。
 此処に帰りたい。
 誰かに与えてもらうのを待つのではなく、自分自身の手で、殻を打ち壊して。
 綱吉の笑顔を思い浮かべる。それだけで胸の中が温かくなる。その彼の笑顔を、守る為なら。
 家柄だとか鬼だとか人だとか、そんな邪魔なものかなぐり捨てて、獄寺隼人という唯一無二の存在になってみせる。
 千種が動く。両手に刃を構え、最後の一撃を見舞おうと鈍重なそれまでからは考えられない速度で、地を蹴って獄寺に踊りかかった。
「っ」
 息を呑み、獄寺が右肩を引く。握り締めた符から不可思議な自信が溢れ出して、力強く彼の背中を押した。
 自分を使えと。
 これこそがお前本来の力だと告げて。
「言われなくとも」
 千種が迫る。
 獄寺が牙を剥く。
 西方守護の術など学んだ覚えは無い。けれど直感的に、彼は本能で理解した。
「嵐切!」
 脳裏に浮かんだ文言そのままを、彼は叫んだ。
 ぎりぎりまで千種を引きつけ、突き出された刃が眼球を狙って打ち込まれる直前を待ち、彼は。
 溜めに溜めた右手に宿る嵐を、渾身の力を振り絞って千種目掛けて叩き付けた。
「ぐっ――があぁ!」
 手首がうねり、引き千切られそうな衝撃が獄寺を襲う。凄まじい風圧をまともに顔面に浴びせられ、鋭い凶器と化した風がふたりの間を駆け巡った。切り裂かれ、新たな血が渦を巻いて景色を赤く鮮やかに染め上げる。
 腕が絞った雑巾のように形を変える。堪え切れなくて獄寺は肩を弾き、右腕を天高く突き出した。
「がっ!」
 直後、ふたりの間で圧縮されていた大気もまた弾け飛んだ。
「ぐあ!」
 全身を切り裂かれた千種の体躯が宙を舞う。右腕を乱切りにされた獄寺が頭から地面に落ちて仰向けに倒れる。視界が黒く霞み、絶え難い激痛に彼は獣に等しい声をあげた。
 四肢が痙攣し、体は勝手に地面を飛び跳ねた。何度も背中を叩きつけられ、制御の利かない肉体に彼は呻くことしか出来ない。
 千種はうつ伏せに倒れ、動かなかった。
 とぐろを巻いた凶風はしゅるりと彼らに別れを告げ、空へ掻き消えて跡形も残らない。呆然と見開かれた獄寺の目に入ったのは、雪のように散ったあの、白虎の紋を記した呪符の成れの果てだった。
「へ、へへ、へへへ……」
 痛い。死にそうな程に。
 けれど、何故だか笑いがこみ上げてきて仕方が無い。
「はは、あは、は……いてっ」
 両腕に感覚は残っていない。左足ももう、動かない。
 起き上がることさえ出来そうにない。
 それなのに。
「俺、……おれ、は。おれは……」
 胸に満ちる充足感、そして溢れ出した涙。鼻を啜り、頬を濡らし、彼は喘ぐように泣き続けた。
 

 微かな水の匂いが、風に乗って北の山肌をそっと撫でた。
 鼻腔を擽る微かな空気の変容から、ディーノは里で起きている騒乱の状況が変わり始めていると悟った。
 ふっ、と鼻白み、眼下に意識を戻す。淡い光を宿す鞭の先に、手首を絡め取られた骸の姿を見て、彼は顎をしゃくった。
 骸も同じものを感じ取った筈で、それが意味するところもこの男ならば瞬時に理解していると予測する。けれどディーノが思うほど、骸は悔しさを滲ませていなかった。
「冷たいんだな」
「そうですか?」
 苦難の旅を共にしてきた仲間が打ち負かされたというのに、彼の表情に大きな変化は見られない。素っ気無く問うたディーノに肩を竦めて笑みで返した骸は、いい加減指先が痺れてきた右手を揺らして、冴え冴えとした瞳を樹上の青年に投げ返した。
 口角を持ち上げた骸に、ディーノは怪訝に眉を寄せる。
「貴方には負けるかと思いますが」
 瞬間、言い放たれた言葉にディーノは明らかな狼狽を見せ、握り締める手綱を無意識に弛めてしまった。
 しまった、と思った時には既に遅く、拘束を解いた骸が逆に鞭の先端を掴んで思い切り引っ張る。綱引きの力比べになり、不安定な足場しか持ち合わせないディーノは、身を置く枝の上で前後に身体を大きく揺らした。
 転落という情けない真似は回避させるが、最悪骸を取り逃がしてしまうことになりかねない。彼は奥歯を噛み、この状況からどうやって骸を捕らえ直すか懸命に頭を働かせた。
 狡獪な男の言葉に簡単に惑わされているようでは、綱吉を守るなど不可能に近い。絶対に折れない心を維持できなければ、またあの日の繰り返しになってしまう。
 それだけは回避させなければならなくて、それが却って気負いとなり、彼本来の持ち味を殺してしまっていることに、ディーノは気付いていなかった。
 対する骸は感情の一切を殺した冷徹な表情を崩さず、途絶えた犬や千種の霊気にもまるで反応を示さない。興味が無いと言っても過言ではないくらいだった。
 手駒にするにはちょうど良かったから、ここまで連れ回して来たけれど、綱吉が手に入りさえすれば彼らも邪魔なだけだ。本当に欲しいのはひとりだけ、珍妙な仲間意識を抱く相手など、自分には必要ない。
 どうせ捨て置くつもりでいたのだから、自滅してくれたのであれば手間が省けたというもの。喉の奥で嘲り、骸は眇めた色違いの双眸でディーノを見上げた。
 右手を前に、左腕はやや後ろに。細くしなやかな鞭を両手で握り、地面に二本の足でしっかりと立つ自分の方が、状況的に幾許か有利だった。
 しかも今は、夜。ディーノが本来の輝きを――強さを発揮できるのは、太陽が空を駆けている昼の間のみ。その上彼は地上への悪影響を懸念して、リボーンによってその力の大半を封じられている。
 今の彼は、少し霊力が強い人間と大差なかった。
「くっ」
「いいのですか? 僕に手を出して」
 これから先は、我慢比べだ。骸は黒く塗り潰された記憶の箱を順番に開けて行き、ディーノの悔恨となっている場所を絶妙に衝いていく。奥歯を噛み締めて聞くまいとする健気な彼を嘲笑い、骸は遠い彼方となった過去に時間を飛ばした。
 神は人間に手を出してはならない。
 殺すことは無論、傷つける事も。
 地上に生ける動植物、数多の命に触れることは、本来彼らには許されていない。しかしいかに厳罰に処されると知っていても、禁を破る者はどの時代、どの世界においても、必ず存在する。
 ディーノは過去にいくつかの禁を犯した。しかし彼の隣で、彼よりももっと重罰に処された存在が居たお陰で、彼の罪は今まで見過ごされて来た。
「ああ。構わないさ」
 唇を噛み締め、ディーノは鞭を取る手に力を込めた。地上に立つ骸を吊り上げる勢いで、右手を胸元近くまで引き寄せる。思わぬ抵抗に、骸は左右色違いの瞳で驚きを表明し、潔く断言したディーノに冷笑を返した。
 そこまで憎まれているというのは、ある意味心地よかった。
「お前は、封印されていた火烏を解放し、その身に取り込んだ。人間としての領域を超えたお前を屠ることを、俺は厭わない」
 強大な怨嗟の炎を抱く火烏をふたつに割り、片方を己に、もう片方を強靭な肉体と精神を持ち合わせた人間に預ける。そうすることで火烏に魂を焼かれる危険を回避し、火烏の力そのものを弱めることにも成功した。表面上は以前と何も変わらず、火烏も表立つことがないので、懸命に天への造反者の行方を捜す神々の眷属の目も誤魔化せる。
 方々手を尽したディーノがどうしても火烏を――骸を見つけ出せなかった理由は、そこにある。
 火烏は、一度は地に堕とされたとはいえ、元はれっきとした神。地上を照らし、焦がし、焼き尽くしたその炎の強さが故に、疎まれ、貶められ、忘れ去られた哀れな鳥。
 見過ごす事は出来ない。火烏が解放された今、天候は狂い、大地に光と豊穣を齎すべき太陽は、あらゆる生物を焼き殺す凶器となって空を支配している。このまま放っておけば、地上は再び生きるものの無い、乾ききった世界に戻ってしまう。
「火烏の警戒を怠り、奪われてしまったのは俺の、許され難い失態だ。だから俺が、此処でお前を止めて、その責任を果たす。この俺が!」
 いずれにせよ、ディーノは骸に火烏強奪を許した罪で咎められる。どうせ処罰が下されると分かっているのなら、後悔をしない方向で自分を動かすのも必然といえた。
 強い決意を秘めた彼の言葉に、骸はけれど、嘲笑を止めなかった。
「出来ますか? 今の貴方に」