蒼黒

 インフルエンザの流行が漸く終息し始めた頃、今度は花粉症でマスクをする人が増えた。
 往来を行き交う猫背の人の姿を眺め、雲雀は目に見えない細かな粒子を想像して肩を竦めた。
 幸いにも自分には症状が出ていないけれど、あれは突然来るというから考えるだけで寒気がする。春らしい陽気に恵まれた空を仰ぎ、彼は羽織る学生服の上から肩を撫でた。
 土曜日なので相応に交通量は多い。季節柄、車で郊外へ遊びに行く家族もかなりの数に上ると思われた。
 澄み渡る青に浮かぶ白い雲の行方を追い、雲雀は硬いアスファルトを蹴った。時刻は昼食にはまだ早い、午前十一時を少し回ったばかりだが、頭上高くに登った太陽から降り注ぐ日光は熱を持ち、歩いているだけで額には薄ら汗が滲んだ。
 拠点とする中学校を出て、商店街や駅前をひと回りした後、彼の足は自然と住宅地に向いた。大通りを越えると車はぐっと減り、学校が休みだからだろう、子供達のはしゃぐ声が大きく響くようになった。
 公園では年寄りが日向ぼっこに興じ、小さな子供を連れた主婦が楽しげに雑談している。ジョギング中の男性とすれ違い、散歩中の犬を睨みつけて、目的地があるようには思えない足取りで彼は道を突き進んだ。
 そうして、不意に彼は立ち止まった。
 後ろから来た自転車が、ベルを鳴らして彼を追い越す。重そうな丸い体躯で二輪に跨った女性を見送り、雲雀は灰色のブロック塀越しに、どこにでもありそうな凡庸な一軒家を仰ぎ見た。
 やや草臥れた感じのする屋根に、全体的に落ち着いた色合いの壁。庭先に置かれた物干し竿には大量の洗濯物が吊るされ、片隅の花壇には、蕾を膨らませたチューリップが風を浴びて揺れていた。
 庭に面するリビングの窓にはカーテンが引かれ、屋内の様子までは解らない。雲雀は上向けた視線を手元に戻し、門柱に埋め込まれた表札を指でなぞった。
 沢田。
 現在この家で共同生活を送るメンバーで、その名前を持つ人物は半数以下だ。父親が長期不在で、母子ふたり家族だったはずなのだが、いつの間にか同居人が増えて、今や大家族と言って遜色が無い。
 一人っ子なのにすっかり兄役が板についてしまった、数少ない沢田姓の持ち主のひとりは、在宅だろうか。
 雲雀は腕を下ろすと同時にまた顔を上げ、ベランダが邪魔で上半分しか見えない二階の窓に目を眇めた。
 行ってみれば分かる。あれこれ悩むのは性に合わず、彼は気持ちを固めると周囲をぐるりと見回した。
 道に自分以外の姿がないのを確かめ、門を開けて庭に入る。呼び鈴を鳴らす、という考えは頭の中に無かった。
 玄関へは向かわずに、手前で右に曲がって庭の隅へ。花壇に咲く花を避けてブロック塀に足を掛けた彼は、両手も使って器用に、羽織った学生服を落とさぬよう注意しながら、家と壁の間をするりと登って行った。
 ロッククライマーも真っ青な素早さでベランダに降り立ち、手についた埃や砂利を叩き落して身なりを整える。
「……さて、ね」
 ガラにもなく緊張している。無意識の行動から自覚して、彼はワザとらしく声を大きくして呟いた。
 肩を竦めて苦笑し、室外機を避けて窓に歩み寄る。換気の為か、冬場は長く閉ざされていたガラス戸は横に開かれ、白いカーテンが風を受けて軽やかなダンスを踊っていた。
 中に、人の気配は――
「ちゃおっす、雲雀」
「赤ん坊」
 部屋の主を探すべく窓の前に立った雲雀に、思いがけず中から先に声が掛けられた。
 特徴的な声の、黒スーツの人物は、ベランダ側に立つ雲雀を正面から眺め、部屋の中心に置かれたテーブルを前に座っていた。
 雑誌を広げ、優雅にコーヒーを啜っている。幅広の帽子の鍔に緑色のカメレオンを乗せ、リボーンは呆気に取られている雲雀に皮肉な笑みを浮かべてから視線を紙面に戻した。
 室内は他に誰もおらず、ベッドは寝て起きた時そのままの状態で放置されていた。床には無数にゴミが転がり、机から大きく外れた場所に椅子があった。背凭れに制服が、ぞんざいに引っ掛けられている。あれでは皺になってしまうと、雲雀は僅かに眉目を顰めた。
 何故自分の来訪が分かったのかについては、問い詰めるまでもなかろう。雲雀が自分よりも強いと認めた相手はそう多くなくて、その限られた人物のうちのひとりが、他ならぬリボーンだ。
「あの子は?」
「ツナならいねーぞ」
 中に入ろうかで迷い、雲雀は中途半端に窓枠に腰を下ろした。爪先は外に向けたまま、腰を捻って上半身だけを屋内に差し向ける。
 即答されて、彼の表情は益々翳った。
「いない?」
「ああ」
 再確認しても答えは同じで、リボーンは座椅子に深く腰掛けたまま、雲雀を見ようともしなかった。
 そんなに面白い記事でも載っているのかと、身を乗り出して窺うが、距離がある上に文字が小さいのでさっぱり見えない。面白くないと唇を尖らせ、彼は窓ガラスの細い側面に背中を預け、綺麗に晴れた空に顔を向けた。
「何処行ったの」
 さっきから喧しく鳴いているのは、百舌鳥だ。声はすれど姿は見えない鳥を探し、雲雀は極力感情を押し殺した声で再度問うた。
 ページを捲る乾いた音が、小さく彼の耳を打つ。
「ハルのところだ」
「ハル?」
 またも即座に切り返されたリボーンの言葉に小首を傾げ、誰のことだろうかと雲雀は眉目を顰めた。
 並盛中学校で綱吉と頻繁につるんでいるメンバーに、そんな名前の生徒は居ない。とすれば学外の知り合い、とまで思考を巡らせ、緑中学の制服の女子の姿が彼の脳裏に浮かんだ。
 黒髪を高い位置で結わえた少女だ。
「そう」
「なんだ。ツナに用か?」
 今日と言う日に、女子の家に遊びに行く。その意味を考えた瞬間、胸の中に言い表し難い苛立ちが沸き起こった。
 顔を外向けていて良かったと思いながら、リボーンからの問いかけに彼は頷こうとして、やめた。否定も肯定もせず、答えは虚空に放り投げた。
 約束をしたわけではない、ただ一方的に押し付けただけ。忘れられている可能性は、充分考えられた。なにせ週末の、授業の無い日にまで補習で呼び出されるような頭の持ち主だから。
 ただ今週に入ってから、顔を合わせる度に妙に慌てた様子で、落ち着かない素振りを見せられたものだから、僅かばかり期待してしまったのも、嘘ではない。
「思わせぶりな事をしておいて」
「雲雀?」
「なんでもないよ。邪魔したね」
 顎を撫でて口元を覆い、誰にも聞こえないよう独白して雲雀は窓枠から降りた。ベランダに二本足で立ち、リボーンに背を向けたままひらひらと手を振って別れを告げる。
 綱吉が居ない以上、ここに留まり続ける理由は無い。探そうにも、緑中の子の家は知らないし、なによりそこまで必死になりたくなかった。
 なによりも、予想外にショックを受け、悔しがっている自分を認めたくなかった。
 登る時に通ったコースは使わず、ベランダの柵を乗り越えて直接庭に飛び降りる。着地と同時に腰を深く沈めて衝撃を受け流し、空気を受けて膨らんだ学生服を押さえて、彼は振り向きもせずに開けっ放しの門扉から外へ出た。
 沢田家を訪ねてから、ものの五分と経過していない。慌しい彼に苦笑し、部屋にひとり残るリボーンは肩を竦めた。
「ねえ、リボーン、いる?」
「いるぞ」
 背後のドアがノックされ、婀娜な色合いも濃い女性が彼を呼んだ。返事をするとすぐさまノブが回され、ドアが開かれる。入って来たビアンキは、真っ先に誰か他にいなかったかと彼に問うたが、黄色いおしゃぶりを首にぶら下げた赤ん坊は意味深に笑うだけに済ませた。
 怪しげな彼の反応を気にする様子もなく、ビアンキは散らかるゴミを爪先で蹴り飛ばすと、朝早くから騒々しく家を飛び出して行った部屋の主を思い出してか、柔和な笑みを浮かべた。
「それにしても、ツナったら、酷いわよね」
「うん?」
「折角手伝ってあげようと思ったのに」
 膝を折ってリボーンの小さな背中にしな垂れかかった彼女の言葉に、僅かに反応してリボーンは肩眉を持ち上げた。
 紙を一枚捲り、広告だらけと知って直ぐに次へ移る。
「ああ」
 彼の頭の中では、昨日綱吉が彼女に相談していた内容が再生されていた。そこに加えて、先ほどの雲雀の反応。
「なるほどな」
 そういう事か、とひとり納得顔で頷いた彼の呟きは、レオンだけが聞いていた。

 並盛町内を巡回する気も起きず、雲雀は真っ直ぐに中学校へ戻った。時計の針は正午に到達する手前で、応接室に戻るなり、律儀な風紀委員が昼食はどうするのかと伺いを立てに来た。
「いらない」
「しかし、それでは」
「要らない」
 二度同じ単語を繰り返し、問答無用で下がらせる。何か言いたげにしていた風紀委員も、強固に主張されては退くしかなかった。
 静かになった応接室のソファにひとり座り、胸ポケットをまさぐる。どうせ一食抜いたところで、直ぐに飢え死にするわけではない。それにいざとなれば、これがある。
 取り出したアルミ包装紙の携帯食を顔の前に翳し、それで天井から降り注ぐ人工照明の光を遮る。一ヶ月前に綱吉に押し付けたものと全く同じものだ、違うのは製造年月日くらいだろう。
 さして美味くもないが、値段も手頃で、持ち運びに便利だから使っている。包装を破れば片手で食べられるので、特に忙しい時等は重宝していた――味気なさは否めないが。
「……どうせね」
 最初から分かりきっていたことだとそれを額に押し当て、雲雀は授業も無いのに鳴り響くチャイムに耳を傾けた。
 窓を閉めていても、運動部の掛け声が聞こえてくる。換気扇の回る低い音が、少し神経に障った。
「開けよう」
 閉め切った部屋に引き篭もっていると、どんどん暗い方向に思考が傾いてしまう。彼は気持ちを切り替えようと呟き、ソファに預けていた背中を浮かせて立ち上がった。
 数歩の距離を大股に詰め、鍵を外して窓を左に滑らせる。カーテンも一緒に左に纏めると、南の空に陣取る太陽の光がいっぱいに室内に流れ込んできた。
 これでは照明も不要かもしれない。ただ反対側にまで足を向ける気にはなれず、彼は壁に寄りかかって外の景色を眺め、そっと溜息を零した。
 どうやら、思っていた以上に落ち込んでいるらしい。
 よもやこんな気持ちに陥るなど、夢にも思わなかった。自嘲気味に口元を歪めて笑った彼は、くしゃりと前髪を掻き毟って後ろへ梳き流し、仕事でもして気を紛らわせようと目の前にある机ににじり寄った。
 椅子には座らず、行儀悪く重い机に直接座って、風に飛ばされようとしていた書類を手に取る。涼しい春の空気を横顔に感じながら、長い脚を組んで彼は暫くの間書面に没頭した。
 無意識に爪で机を叩いて音を立て、ホッチキスで角を留めた紙を捲っていく。乾いた唇を舐めて問題点を整理しながら、最後の一枚に到達した時、彼は自分が奏でるのとは明らかに違う、コンコン、という音に顔を上げた。
 窓に向かって斜めに座ったまま、振り向く。小首を傾げていると、また同じ音が響いた。
 誰か来たようだ。彼は集中を乱されて幾らか不機嫌になりながら、壁に吊るした時計を見上げた。
「二時か」
 思った以上に時間が過ぎている、空腹だったのもすっかり忘れていた。彼は書類に分銅を載せると床に降り、どうせ風紀委員の誰かだろうと予想しながらドアに歩み寄った。
 板一枚を隔てた向こうは見えない。中からの返事を待っているのか、遠慮がちのノックはもう聞こえなかった。
「誰?」
 入ってくればいいのに。
 首を撫でた温い風に襟足を躍らせて、彼は先に部屋の電気を消した。自然光だけで充分だと思っていたが、蛍光灯を消した途端目の前が薄暗くなり、彼は失敗したかと舌打ちした。
 ただ、消したものを直ぐ点灯させる気にもならない。下唇を噛んで悔しさを打ち消し、彼は沈黙する銀色のノブを掴んで乱暴に捻った。
 肘を引き、手前に招く。
「だ――」
「うわっ……と。良かった、いた」
 こんな時間に自分を訪ねて来るなんて、よほどの暇人か、よっぽどの物好きだ。
 苛立ちを隠しもせず、棘のある口調で誰何の声をあげようとした雲雀の目の前に、眩い陽だまりの色がいっぱいに広がった。
 嬉しげな弾んだ声は、明るい。大きな琥珀色の瞳はキラキラと輝いていて、兎のように飛び跳ねた小さな存在に、雲雀は絶句した。
「さわ……だ?」
「よかったー。返事がないから、外に行っちゃってるのかと思った」
 喉に巧く空気が回らず、声が掠れた。聞こえなかったらしい綱吉が、一方的に捲くし立ててホッとした様子で息を吐く。左胸に左手を添えた彼は、残る手で白い紙袋を抱えていた。
 どうして彼が、此処にいるのだろう。
 彼は朝から友人――仲の良い少女の家に、遊びに行っていたのではなかったのか。
「沢田?」
 リボーンが嘘を教えるとは思えず、雲雀は混乱する頭を抱えて彼の名を呼んだ。綱吉は大粒の瞳を細めて微笑むと、両手で紙袋を抱き直して戸惑っている雲雀から半歩距離を置いた。
 探るような目を向けて、袋の表面をそっと撫でる。
「ああ、そうだ。その、ヒバリさん、は……お昼って、もう食べちゃいました、よね?」
 時計の針が指し示していた現在時刻を思い出す。昼食を摂るに適した時間は、とっくに通り過ぎた後だ。
 恐る恐るの質問に、雲雀は目を細めた。訝しげにしながら綱吉を改めて観察し、ニセモノではないのを確かめて視線を伏す。問いかけの意図が理解できぬまま、彼は首を横に振った。
 瞬間、どこか自信なさげだった綱吉の表情がパッと花開いた。
「ほんとに?」
「うん」
 興奮に頬を紅色に染め、鮮やかな琥珀が艶を増す。重ねて聞いてきた彼の笑顔に圧倒されつつ頷くと、彼はまたも「良かった」と声に出して呟き、心の底から安堵した様子で肩の力を抜いた。
 ひとりで百面相している彼に眉目を顰め、雲雀は握ったままだったドアノブから手を離した。後ろの窓からは相変わらず春の風が流れ込み、部活動の掛け声が遠い世界のもののように響いた。
 相好を崩した綱吉が、雲雀の見守る前でガサゴソと抱えていた袋を鳴らした。折り曲げていた口を伸ばして広げ、中から何かを取り出す。
 それは籐編みの四角い箱だった、しっかりと蓋がされているので、中身は解らない。
 彼は空っぽになった紙袋の柄を小手に通してぶら下げ、両手で箱の底を支えた。心持ち赤い顔をして、そわそわと膝を擦り合わせて頻りに人の顔を窺い見る。
 なんだろうか、と思っていると、
「じゃあ、あの、これ」
 どうぞ、と言って差し出された。
「え」
「お昼ごはん……には遅いかもしれないですけど」
 恥かしげに告げ、彼は早く受け取れ、とばかりに雲雀の胸に箱を押し当てた。
 シャツの上から腹部を圧迫され、雲雀は止めさせようと反射的に箱に手を添えた。瞬間、綱吉が両手を広げてしまって、落とすわけにもいかず、彼は仕方なくずっしり来る重みのあるそれを引き取った。
 微かに、食べ物の匂いがした。
 それも、比較的馴染みが深く、雲雀が好物のひとつに上げているものの匂いだ。
 まさか、と彼は喉を鳴らして無意識に沸いた唾を飲み込んだ。底を支えている五本の指のうち、親指を上向けて爪の先で蓋を押し上げる。開けようとしていると知り、慌てたのは綱吉だった。
「え、あっ、待って。中で」
「これって」
「ダメです、此処であけないで!」
 大声を張り上げた彼を無視し、止めようとして伸びてきた手も振り払って、雲雀は左手で浮いた蓋を掴んで外した。右手と胸で箱を抱え、顔を出した中身に目を瞬かせる。
 耳の先まで赤く染めた綱吉が、用済みの紙袋を握りつぶした。
「ハンバーガー?」
 焦げ目のついた丸いパンに挟まれたレタスと、まだ温かいハンバーグ。真ん中には形が崩れないよう赤色のプラスチック製の楊枝が突き刺さり、添え物としてか、ポテトサラダらしきものが片隅に鎮座していた。
 大きめのものがふたつ、仲良く肩を並べて詰め込まれている。仄かに湯気立つそれは、まだ出来上がってからそう時間が経っていないように思われた。
「や……、もう! だからダメだって言ったのに」
 胸の前で指を突き合わせ、若干目を潤ませた綱吉が雲雀に向かって文句を言い連ねた。
 一方の雲雀は、あまりのことに驚いて声さえ出ない。呆然と箱の内容物を見下ろし、どういうことか理由の説明を求めて綱吉に首を傾げた。
 途端、彼は両手を握り締めて怒鳴った。
「だって、ヒバリさんが作れって!」
 先月。まるまる一ヶ月前。
 二月十四日。
 補習授業の帰り、空腹を訴える彼に雲雀が渡した、チョコレート味の携帯食。お返しは一ヵ月後でいいと、雲雀は彼に言った。
 ハンバーグが良いなとも、言った。
 しかし昼飯時を前に訪ねた沢田家に、綱吉はいなかった。朝から女友達の家に出向いていると聞いて、忘れ去られたものだと思い込んでいた。
「え。もしかしてヒバリさん、うちに行ったんですか?」
「うん」
 くしゃくしゃになった袋を広げ、皺を伸ばした綱吉が彼のストレートな返事に口篭もった。
 蓋を閉めた彼を上目遣いに見やった後、説明に困って髪の毛を掻き毟り、靴底で廊下をこね回して実に落ち着きが無い。
 雲雀が黙って返事を待つのを受け、最後に彼は深く溜息をついた。
「だって、うち……ビアンキいるから」
「誰?」
「ビアンキに手伝わせたら、全部毒になっちゃうんだもんなー」
 雲雀の合いの手には返事せず、遠くを見て彼は肩を落とした。
 母である奈々に頼むのはどうにも気恥ずかしく、仕方なく料理上手を自負しているビアンキにハンバーグのレシピを問うたところ、手伝ってやるというありがたくも非常に迷惑な言葉を頂いてしまった。
 まさか金属さえ溶かすほどの凶悪な毒食品を、雲雀に食べさせるわけにはいかない。しかし彼女がいる以上、沢田家の台所を使うのも難しい。
 だから綱吉は、ハルに相談して彼女の家の台所を借りた。ついでに手を貸してもらい、ただハンバーグを焼くよりも、パンで挟んだほうが食べ易くてよいのではないか、という助言も貰った。
 何度か失敗し、雑談も交えてだったので考えていたよりも時間が掛かってしまい、昼食時を過ぎてしまったのは、完全な綱吉の手落ちだ。
「……へえ」
「味は、あんまり期待しないでください」
「してないよ」
「そう言われると、ちょっと、というか、かなり傷つくんですけど」
 さらりと切り返され、綱吉が頬を膨らませる。露骨に拗ねてみせた彼に、雲雀はやっと笑った。
 目尻を下げて柔らかな表情を浮かべた雲雀に、綱吉が目を丸くした。零れ落ちそうなくらいに琥珀を広げ、ぽかんと間抜けな顔をする。ただそれも数秒の出来事で、瞬きを二度繰り返した彼は、刹那、ボンッと頭の火山を爆発させた。
 耳から勢いよく湯気を噴き、雲雀を驚かせる。
「沢田?」
「ひえ、あっ、ひゃあぁぁ!」
 大丈夫かと心配になり、手を伸ばして頬に触れる。指の背で撫でてやると、彼は裏返った、素っ頓狂な声を上げて雲雀から飛びずさった。
 首まで色鮮やかな朱色に染めて、雲雀が今触れた場所を両手で押さえ込む。瞬きを忘れた瞳は、自分自身の行動に戸惑っている感じが滲み出ていた。
 行き場を失った手を緩く握り、雲雀は笑った。
 じっと見詰めていた視線が外れたのを受け、綱吉が爪先立ちになっていた足を揃えた。
「わらっ、な……うあぁ! 失礼します!」
 目を細めて肩を震わせる雲雀に最後は憤り、拳を振り翳して彼は怒鳴った。付近一帯に轟く大声を張り上げ、くるりと身体を反転させると踵を返した。最初はゆっくりと、途中から堪えきれず駆け足に。
 何故か涙が出て、彼は鼻を啜った。悔しげに唇を噛み締め、シャツの袖をその上に押し当てる。
 身体中が熱かった。顔から火が出るかと思った。
 あんなにも嬉しそうにされるなんて、思わなかった。
「あー、もう。なんなんだよ、どうしちゃったんだよ、俺!」
 自暴自棄に叫び、綱吉は校舎を駆け出した。一目散に正門を抜け、片付けもせずに出てきてしまったハルの家に向かって猛ダッシュで仕掛ける。
 応接室の窓から煙を巻き上げ走る彼を見送り、雲雀は満足げに微笑み、焦げ目が多いハンバーガーに齧り付いた。

2009/03/12 脱稿