精霊火 第四夜(第五幕)

 神経質に割れた眼鏡を押し上げる千種を睨み、獄寺は素早く左右に視線を這わせた。
 山本は遠くに引き離され、雲雀は地面に崩れ落ちたまま動かない。まだ死んでは居ないはずだが、危険な状態であるのは間違いなかった。
 雲雀の傍には、広場の舞台でその怪力ぶりを衆人に見せ付けた男が、巨大な鉄球を繋いだ鎖を握り、佇んでいる。その背には、現実のものなのかただの見せ掛けか、あまり想像したくはないが凄まじい熱量と霊力を放つ翼がとぐろを巻いていた。
 あんなものを前に長時間過ごす気には、とてもなれない。おぞましいまでの邪念を織り交ぜた炎は、見ているだけでも人の心を挫き、蝕み、食らい尽くす威力を持ち合わせていた。
 正直言って、気分が悪い。吐き気がする。
 出来るものなら今すぐ此処から立ち去りたい。
 しかしそう出来ない理由が、獄寺にはあった。
「くっそ。めんどくせぇ」
 許されるものならば綱吉を追って、北に聳える並盛山に駆け込みたいところではあるが、あの状態の雲雀を置き去りにするのは心苦しい。なにより雲雀を見捨てて来たと、綱吉に糾弾されるのは避けなければならない。
 本音としては、雲雀が倒されるのは嬉しい。しかしそれで綱吉が泣くところは見たくない。
 目の前には、投擲を得意とする根暗そうな男がひとり。中距離から遠距離攻撃が主体との判断に、獄寺は舌打ちした。
 それは自分が最も有利に事を運ぶ間合いでもある。微妙なやりにくさを覚え、咥内の唾を飲み込んだ彼に、千種は至極つまらなさそうに首を振った。
「めんどい。……さっさと終わらせる」
「それは俺の台詞だ」
 一秒でも早くこの男を撃退し、雲雀を連れて綱吉を追いかけるのだ。山本は、恐らく大丈夫だろう。男ふたりを引きずっていくには、自分の体力では無理がありすぎる。
 雲雀に恩を売っておくのは悪くない計画だと思う。あのいけ好かない奴に、一泡食わせてやるのはさぞや気持ちが良かろう。
 獄寺は注意深く千種の動向を探りながら、左右の袖の重みを確かめた。
 記憶に残っている分よりも、若干軽くなっている。どこで放り投げたのだろうかと記憶を手繰るが、広場に居た筈の自分が山中でビアンキに殴られるまでの経過が、まるで思い出せなかった。
 旅芸人一座の各人の特徴から、ふと胸に沸き起こった疑念を山本にぶつけている最中に舞が始まり、そちらに気を取られて以後、異父姉の脇腹を貫く直前まで、夢でも見ていたかのような状態だった。
 うっすら覚えている気もするが、のんびり振り返っている余裕がない。
「もうひとりは、何処行ったんだ」
 分かるのは、あの舞に何か仕掛けられていたという事。ビアンキに抱いた憎しみ以外のなにものでもない感情は、日常生活の中では決して表に顔を出さない小さなわだかまりでしかなかった。
 そこを刺激され、増幅させるなにかが、舞に仕込まれていた。自分はむざむざその罠に引っかかってしまった。
 未熟者と己を謗るのは簡単だが、過去を悔いたところで前には進めない。旅芸人の連中がこれまでの度重なる退魔師殺害の首謀者であるのならば、この場に居ない最後のひとり――あの能面の人物が狙うのは、矢張りこの場には居ない退魔師見習いの綱吉以外、考えられない。
 何が目的なのかは知らないし、興味もないが、綱吉に危害が及ぼうとしているのは雲雀の言動からしても明白。
「とっとと終わらせるぜ」
 獄寺は吼え、左袖の内側に右手を差し入れた。
 底部に常時隠し持っている呪札の束を握り、引き抜く。
 その瞬間。
「うっ」
 ひゅっ、と風を裂いて何かが彼を襲った。
 音だけが耳元を通り過ぎ、僅かに遅れて熱が右頬を奔る。滲み出た赤い血が頬を伝い、丸みを帯びた顔の表面を撫でて彼の喉を濡らした。
「次は当てる」
 脇を広げて左に腰を軽く捻った状態で停止した獄寺に、千種が冷たく、抑揚に乏しい声で言い放った。
 彼は先ほどとまるで姿勢を変えず、動いた気配すら微塵と感じさせない。そのくせ、獄寺の頬に生まれた疼く痛みは、紛れも無い本物だった。
 いつ投げたのか、まるで見えなかった。
 唖然として言葉を失った彼に目を眇め、千種が見えづらいのか何度も眼鏡を直す仕草を取る。余裕綽々としている風にも思わせる態度に、獄寺ははっと我に返って頬の傷を手でなぞった。
 赤い血がべっとりと指の腹に張り付き、爪の隙間にまで流れてくる。だが彼の利き腕は、既に赤く染まっていた。
 ビアンキは無事だろうか。
「く――」
 いくら生粋の鬼とはいえ、あの出血量で無事でいられるとは考え難い。一刻一秒と早く終わらせて、綱吉の無事を確認して、そして彼女を探しに行こう。心の中で誓いを増やし、彼は唇を噛んで痛みを堪えた。
 多少の怪我など、最早気にしていられない。
「火炎……ぐわ!」
 右手の中に潜ませていた、握り潰した呪札を掌と親指だけで広げ、空中に解き放つ。しかし解放の文言をすべて紡ぎ終える前に、札自体が勝手に炸裂して獄寺に襲い掛かった。
 顔面にかかる火の粉を避け、後退した彼は何事かと目を見開いた。
 離れた場所に立つ千種が、今度は投げ終えたと分かる姿勢を維持した状態で彼を見詰めていた。何かを挟んでいた閉じた千種の指先と、己の足元に散った呪札の残骸を見比べ、そこに残る赤く変色した轍の鏃を暗がりから選別した獄寺は、一寸四方もない小さな札さえも射抜いた彼の技量に脱帽し、臍を噛んだ。
 発動前に起爆させて、無効化させられた。正確に狙い通り貫くだけではなく、千種本人にも退魔師としての技量が、多少なりとも備わっているのは、最早疑いようのない事実だ。
 決して相手を甘く見ていたわけではない。だが見抜けなかったのは自分自身の失態で、獄寺は次の手に移るのにしばし躊躇した。
 その姿を、千種が鼻で笑う。
「面白くない」
 雲雀とやり合っていた時の方が、よっぽど緊迫していた。
 彼は何をするにしても迷いを挟まず、人の予測を上回る動きを見せて千種と犬を追い詰めた。ランチアが来なければ一方的に敗退させられていたのは確実で、だからこそ獄寺の弱さには落胆させられた。
 犬が相手をしている大きい奴の方が余程、実力者だったのではなかろうか。あちらを引き当てておけばよかったと遠くに目を凝らし、千種は手首に巻きつけた革帯から素早く、針のように細く鋭い鏃を引き抜いた。
 札の接近さえ許さなければ、獄寺は取るに足らない相手。ただ雲雀を相手にした際に鏃を大量消費しているので、残量だけは常に気にして置かなければならない。
 拾って再利用、という方法もあるにはあるのだが、この暗闇では何処に落ちたかまで覚えておくのは難しい。
「くっそ。どうする」
 千種が思案に暮れている最中も、獄寺は打開策を模索して悩み、舌打ちして悪態を付いた。
 簡単に考えていたが、よくよく思い出してみれば、千種たちは獄寺などよりよっぽど経験を積んでいる、手練の退魔師を何人も屠って来ているのだ。未だ見習いから脱出出来ていない彼が、まともにぶつかったところで敵うわけがない。
 実力差を思い知らされて、焦りが生じる。時間が経つに連れて状況は不利になっていくというのに、不用意に動けば自分が針山にされてしまう。
 抜き取った札はあと二枚。左袖はまだ充分な重みを残しているが、手に取れなければただの紙切れと同じだ。
「どうする……」
 同じ飛び道具とはいえ、直接相手を殺傷する能力がある刃と、起爆させなければ何の意味も持たない札とでは、効率からしても雲泥の差だ。せめてもっと接近出来ればと考えても、先ほど自分から退がってしまった所為で距離は開くばかり。
 唇を舐め、ざらつく感触に舌打ちして唾と一緒に土を吐き捨てる。
 今の獄寺では、千種が放つ鏃を躱すのは不可能に等しい。盾に使えそうなものはないかと、昼並みに明るさを持つ夜空の下で周囲を見回すが、そう都合よく事が運ぶなんて、ありはしなかった。
 千種が右小手を縦に構え、すっと伸ばした指を顔の横に掲げた。
「ちいっ」
 手が直角に振り下ろされる寸前、獄寺は軌道を見極めて急ぎ左へ走った。
 背中で空気が切り裂かれる音がする。足を交互に動かしながら、右手を急ぎ左袖口に突っ込んで中身を掻き回した彼は、袂の内側でばらばらになっているそれを無造作に掴み、引き抜いた。
「うが!」
 左脛に突き刺さる痛みを覚え、もんどりうった彼の身体が空中で前転した。背中から落ちて天を仰いだ獄寺は、いったい何が起こったのか分からずに目を回し、時間差で襲って来た痺れに左足を引き攣らせた。
 弁慶の泣き所に何かが突き刺さっている。どくどくと流れ出る血の勢いに喉の奥で悲鳴を上げた彼は、左斜め前方で位置を変える事無く突っ立っている、千種の冷たい目に背筋を震わせた。
「次は右」
「させっかよ!」
 まずは動きを封じ込めて、最後に止めを刺すつもりなのだろう。
 感情の篭もらない声で告げられ、獄寺は牙を剥いた。
 手にした十枚以上ある呪札を親指、人差し指の二本で縦に挟み持つ。厚みのあるそれの腹を前に突き出し、左手を肘に添えた彼は、
「爆閃!」
 怒号とともに最も掌に近い一枚を起爆させた。
 衝撃が腕を直線で伝い、肘を抜けて肩が外れそうになる。奥歯を噛み締めて堪えるが反動をまともに食らった獄寺の身体は後ろに流され、逆に連鎖反応で次々に起爆した札が、速度を倍々に増大させて千種に襲い掛かった。
「――」
 目の前に迫る眩い赤の輝きに、千種は咄嗟に両袖の内側から左右四本ずつ鏃を引き抜いて、それを投げ放った。
 一本では対処しきれないが、合計八つを同時に浴びせれば、すべてを防ぎきれずとも多少は威力を軽減できるはず。彼の狙いは違わず、先のやり取りそのままに、鏃に込められた微かな霊気に反応した呪札が、こちらも連鎖反応を引き起こして両者の中間地点で大爆発を引き起こした。
 爆風が吹き荒れ、新たに生じた熱がふたりに襲い掛かる。
「ちっ!」
 届かなかったかと立ち込める噴煙を払い除けた獄寺に、千種は不遜な態度で若干低い位置に居る彼を鼻白んだ。
 しかし。
 五本の指を広げ、掌を下向けに腕を伸ばしきった彼の姿を見て、千種は微かな違和感を覚えた。なにかが迫る気配がして、短く息を吐き、赤く焼ける空を仰ぐ。
 落ちて来るものがある。ゆっくりと――否、もう直ぐそこに。
「ぐっ!」
 ドドドド、という唸り声を上げ、発動寸前の呪札が合計四つ、千種に踊りかかった。
 咄嗟に身を丸めて両腕で顔を庇うが、間に合わない。宙に肢体を泳がせて業火を纏った札を避けるが、立て続けに襲い来る全てを防ぐのは不可能だった。
 目の前で炸裂した火炎が瞳を焼く光を放ち、視界が奪われて世界が白く染まる。直後に訪れた闇の静寂の中、左脇腹に発生した激痛に彼は大きく顔を歪めた。
 弾け飛ぶ炎に嬲られ、右肩から地面に落ちる。弾んだ反動で体が裏返り、なだらかな傾斜を形成する畦に半分程沈んだところでようやく止まる。膝が路傍の石に乗り上げ、ごつごつした感触ながら冷たいのが救いだった。
「はぁ、はっ……どうだ、この野郎」
 足に負った傷を庇って立つ獄寺が、荒く息を吐いて肩を上下に揺らした。
 最初に繰り出した呪札による連続攻撃は、千種の意識を集中させるための囮だった。
 本命は直後空に放った四枚の呪符で、大量の呪札を消費させられたけれど、注意を惹き付ける役目は十二分に果たしてくれた。
 呪符は数が少なく、発動させるにも少々時間が必要だけれど、速度も破壊力も呪札の数倍上を行く。それを連続して食らったのだから、どれだけ頑丈な人間であろうともひとたまりも無いはずだった。
 逆転勝利を確信し、獄寺は小さく握り拳を作った。これでやっと綱吉を追いかけられると意気込み、鼻息荒くして視線を左に流す。先に山本の姿を探すが見つけられず、ならばと雲雀の行く末を気にした彼は、北方面に腰を捻った。
「……え」
 トスッ、となにかが肩に突き刺さる。
 そして彼は、前のめりに倒れた。
「ぐ……う、があああぁぁああ!」
 突如襲い掛かってきた、左脛の傷の痛みなど吹き飛ぶ激痛に、彼は喉が引き裂かれんばかりの声を上げた。
 顔の前に落ちた両手で地面を掻き毟り、必死に腕を回して左肩に触れる。痛みが分散している所為で発生源が解らず、長着の上から手探りで傷口を探し出す。溢れ出す血に滑りながら、指先がようやく見つけ出したのは、深々と肉に突き刺さる細い刃だった。
 研ぎ澄まされた怜悧な凶器が誰の手から放たれたのか。柔らかな赤土にまみれた獄寺は懸命に首を擡げ、地面すれすれから彼方に目を凝らした。
 何か毒でも塗られていたのか、視界が急激に霞んで意識が遠くなる。このままでは危険だと本能が察知し、彼は掴んだ針のように細い刃を、指の皮が切り裂かれるのも構わずに握り締めた。
 力任せに引き抜き、投げ捨てる。自分の血で染まったそれは、弾む事無く闇に紛れて消えた。
「かっ、は、んぐっ」
 傷口を塞いでいたものが取り除かれ、出血量が目に見えて増加したのが分かった。獄寺は歯を食いしばって堪え、感覚が遠くなる左半身を引きずり、右肘で身体を支えた。
 同じ地点に留まるのは、危険。呼吸が乱れ、視界が濁る中、彼は必死に這いずって血だまりを泳いだ。
「なん、で……」
 呪符は目標に命中した。四枚とも本来の役目通りに発動した。全弾命中したはずだ。
 それなのに、どうして立っていられるのか。
 薄ぼんやりと暗闇に浮かび上がる赤い影を睨み、獄寺は自然と湧き出た涙で頬の傷を洗った。
 非常識な強さを持つ雲雀の同類が、そう何人も居てたまるものか。恐らく直前で回避するか、衝撃を軽減する対処を取られた所為で当たりが浅かったに違いない。そう自分に言い聞かせ、彼は血塗れて布が張り付いた左袖を手繰った。
 残る呪札も、符も、あとわずか。そしてその数少ない呪札は、悉く己の流した血液に染められていた。
「くっ」
 薄い紙が互いに張り付き、震える指ではなかなかはがれない。多少汚れた程度ならば問題ないのだが、流石に此処まで濡れてしまったものを使った過去はなくて、獄寺は苛立つ自分を宥めて地面に掌を押し当てた。
 触れた枯れ草で血を拭い取り、砂に吸わせて払い落とす。左肩の感覚は既に絶えて、喉を擦る熱に喘ぎながら彼は畦の傍らに立つ千種を見詰めた。
 手応えは感じた、倒したという確証があった。それなのにどうして、あの男は平然と立っていられるのか。
 村を焼く炎に照らされる千種の姿は、ずたずたに切り裂かれた襤褸布を纏い、体の各所からどす黒い血を滴らせていた。焦げた着物から覗く素肌もまた黒く、火傷が酷いのは一目瞭然だった。死に瀕し、水を求めて彷徨う亡者の出で立ちと相違なかった。
 だのに彼は、無造作にむき出しになった腕の革帯から残すところ僅かになった刃を抜き取り、地面に半身を伏す獄寺に狙いを定めている。
 瞳は虚ろで、意識が宿っているかどうかさえ判然としない。
「本当に人間かよ」
 ひょっとして、自分以外にも鬼の血を継いだ人間が社会に紛れ込んでいたのだろうか。そんな事を思い浮かべ、獄寺は自分に迫る鏃に向かって、右腕だけで札を投げ放った。
 中空で衝突した両者が爆発し、お互いに木っ端微塵になって掻き消える。視界を塞ぐ爆煙に隠れて第ニ波が来るのを警戒していたが、あちらも余力が無いのだろう、それはなかった。
 健康な状態だとなんとも思わないが、左半分の自由が利かないというのは思いの外不便だ。振り翳した腕から札を放つだけでも息が上がり、骨が軋んで筋肉が悲鳴をあげている。四肢が砕けてばらばらになってしまいそうだった。
「くそぉ、いってぇ……」
 血まみれだった雲雀を思い出す。あの男はこんな激痛をひとりで耐えていたのかと、一瞬尊敬の念さえ抱きそうになってしまった。
 気を抜けば簡単に意識が攫っていかれそうで、己をひたすら鼓舞しながら奥歯を噛み締める。身体を縦にふたつに切り分けて、傷ついた左側を放り投げてしまいたい気分にもさせられた。
 乾燥した空気がぴりぴりと肌に突き刺さり、吹き荒れる熱風が傷口を苛めてくる。最早他に気を向ける余裕などなく、自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされて、獄寺は潰れそうな肺に酸素を送り込んだ。
 咥内はからからに渇いている。渦巻く炎の煽りが、地獄の底から響く死者の怨念に聞こえてならない。耳を塞ぎたくて、目を閉じて現実を否定したくて、獄寺は腹の奥からつきあげてくる恐怖を堪え、音を立てて鼻を啜った。
「この……さっさとくたばりやがれってんだ」
 我武者羅に、無計画に、彼は手元にあった呪札を千種目掛けて投げ放った。
「爆!」
 片手で印を結び、起爆させる。左半身の自由が利かない所為で狙いが逸れるものの方が多かったが、立ち尽くす千種の直ぐ近くでどれもが爆発し、熱と風とを伴って彼に襲い掛かった。
 左から、右から煽られ、揺れる柳の枝の如く千種の身体はありえない方向に曲がり、歪んだ。
「は、は……これで、どうだ」
 手持ちの札を使いきり、肩で息をした獄寺が微かな笑いを浮かべて息を吸った。喉の手前で形の無い塊が引っかかり、ざらりとした感触がして気分が悪い。体内で暴れまわる熱が鬱陶しくてならず、涼しい風でも吹きやしないかと、彼は天を臨んで首を振った。
 爆煙が次第に晴れていく。今度こそ倒した筈だと、彼は固唾を飲んでその様を見詰めた。
 そうして、彼は瞠目する。
「んな、馬鹿なこと」
 直撃はさせられなかったが、爆風による衝撃は人の身体を芯から揺さぶる。倒れて然るべきだ。
 否、この場合、倒れないほうが可笑しい。
「しまっ」
 ぎょろりと見開かれた千種の瞳が、呆気に取られる獄寺を捉えた。反射的に彼は右腕を突っ張らせて強引に体を裏返し、緩い坂を転がるようにして滑り落ちた。引っ込めた首の直ぐ上を、冷たい空気が流れて闇に吸い込まれていった。
 あと半秒反応が遅ければ、眉間を貫かれて一巻の終わりだった。肝を冷やし、肘で姿勢を支えて後ろを振り返る。高低差が出来た所為で千種の姿を直ぐに見出せず、行き過ぎたかと焦り、彼は右膝を立てて上体を起こした。
 左腕をだらりとぶら下げ、右手には残り三枚まで数を減らした呪符を握り締める。掌に感じる炎の気配は、獄寺の一族の誇りだった。
 負けるわけにはいかないのだ、綱吉の為にも。自分の為にも。
 この身に宿る力を証明出来なければ、自分は人にも、鬼にもなれない。
 中途半端で、いい加減な、どっちつかずの存在にしかなれない。
 それは、絶対に嫌だ。
 認められたい。
 認めさせたい。
 自分は此処に必要な存在なのだと、受け入れて欲しい。
 自分の存在を欲して欲しい。
 だのに絶望が、暗く重く彼の前に圧し掛かる。
「なんで……」
 よろよろと、今にも倒れそうなのに崩れず、千種が獄寺の視界に現れる。先ほどよりもずっと襤褸雑巾になっているのに、瞳の色に生気は感じられないのに、彼は決して倒れなかった。
 絶句し、獄寺は蹲ったまま後退しようとして失敗した。動かない左足は邪魔なだけで、思い通りにならないのが腹立たしかった。
 ずるりと血塗れた草の上で滑り、地面で胸を打った獄寺が噎せて咳き込む。轟々と吹き荒れる炎の嵐が耳朶を打ち、悔し涙に顔を濡らした彼は、暗がりの中で動く千種がぼとりと大量の血塊を落とす様を見て呆然となった。
 瞳だけを動かした彼は、まるで痛みを感じていないのか、ぎこちない動きで関節を折り曲げると、反対の手首に巻かれた皮帯に指を這わせた。
 何かを引っ張りだして、逆手に握る。そして彼はやおら、躊躇なくそれを頚部に突き刺した。
「っ!」
 見るからに痛そうで、自分がされたわけでもないのに獄寺は身震いした。体は熱いのに寒気がして、鳥肌を立てた首を撫でてやる。軽く押して、緊張を解きほぐして、彼は。
 千種があんな状態でも動ける理由を、理解した。
 自分の脛及び肩を貫いたものと、今千種が自分に刺したものは、同じ針状に加工した細く鋭い刃だ。それを人体に無数に存在する壺に正確に刺せば、或いは。
 あのような芸当も、可能かもしれない。
 脂汗を額に滲ませ、獄寺は思い当たった可能性に生唾を飲んだ。たとえ出来たとしても、多少なりとも苦痛は感じるはずだ。自分自身が壊れるかもしれないというのに、何の迷いもなく、己を傀儡にして操るなど。
 狂気の沙汰としか言いようがない。
「なんでだ」
 胸が詰まり、呼吸が苦しい。喘ぎながら獄寺は呟き、迫り来る千種に問うた。
 空虚な瞳が、下方にいる獄寺を見詰める。だが今度は彼も動かず、果敢に挑む形で千種を睨みつけた。
「なんで、そこまでする。お前、このままじゃ死ぬぞ」
「構わない」
「なんで!」
「それが骸様の望みなら」
 淡々と、抑揚に乏しい声で、ただ微かな感情を残しつつ、千種は告げた。
 初めて聞く名に、獄寺は眉を寄せた。それがあの舞を舞っていた者の名前だと解釈し、千種の次の言葉を待つ。けれど彼はそれ以上語ろうとせず、明確な答えはついに得られなかった。
 分かったのは千種がその、骸という人物に対して絶対的な――盲目的な忠誠を誓っているという事だけ。
 たとえ人を殺めても、憎まれても、それでも尚。たったひとりの為に、命さえも投げ出す覚悟で。
 後に何も残らないとしても。
 連想した獄寺の背に、凄まじい悪寒が走った。身の毛がよだち、呼吸が止まる。見開いた瞳は赤い闇と、赤く染まる千種とを同時に映し出した。
 眼鏡は粉砕されたのか、吹き飛ばされたのか、彼の顔には残っていない。ぱっくり裂けた唇からはどくどくと血が溢れ、彼の喉を濡らしていた。
 放っておけば勝手に死ぬ、そう思われた。いくら針で苦痛を誤魔化そうとも、肉体の限界は止められない。直視に耐えない姿に、獄寺はおぞましいものを感じて首を振った。
「来るな……」
 勝てる気がしない。そもそも千種と獄寺とでは、戦いに挑む心構えからして違う。
 誰かの為、綱吉の為だと言い訳をしても、結局彼は自分が満足したいが為に術を繰るのだから。
「来るなつってんだ!」