精霊火 第四夜(第四幕)

 今日の、それもつい先ほど手にしたばかりの太刀を実戦投入するのは、少々勇気が要る。けれど渡された時から、まるで自分の体の一部が舞い戻ってきたような錯覚を抱くほど、彼はこの玄太刀との相性の良さを感じ取っていた。
 今や腕の一部と化し、違和感ない。再度身を低くして構えを取った山本は、切っ先鋭い視線を犬に投げ放った。
「そういう台詞、穏やかじゃねーな」
 だが、嫌いではない。
 不遜な態度で山本は花弁を模した鍔に左親指を押し当て、肌に張り付く感触を確かめて瞼を閉ざした。
 研ぎ澄まされていく彼の気配に向け、犬が吼えた。
「変幻、犀」
 短く吐き捨て、己の中に眠る数多の猛獣の魂を呼び寄せる。解放を求めて表層に溢れ出すその中からひとつを選び取り、強固な意志の下に制圧し、屈服させ、同化し、使役する。
 下半身の強化を解いた犬に現れた変化は、角の具現化だった。鋭い一角を額に顕現させて、狂乱に満ち満ちた瞳を山本へ撃ち放つ。他者を圧倒させ、嬲り殺すのを躊躇しない荒ぶる野獣を前に、山本は己を信じて太刀の柄を右に握った。
 柄巻きの細かい感触を指の腹に馴染ませ、汗を吸わせて肉体の一部と作りかえる。呼吸は次第に間隔を広げ、波を作らない平坦なものに切り替わった。
 心臓の音が耳を打つ。ぴんと張り詰めた空気は、まるで透明な鏡のようだった。
 緊張が全身を締め上げ、それに勝る期待が身体中に溢れていくのが分かる。こんな風に命を賭けた真剣勝負が出来ることを、心の中に宿る武士としての父の血が、喜んでいる。
「は――っ」
 深く吸った息を溜め、一気に吐き出す。草履の裏で地面を蹴った彼の親指に押し出された玄い刀身が、握られた柄の先に続いて鮮やかに姿を現した。
「しゃっ!」
 短い声を発し、犬が四肢を大地に投げ出した。完全に獣と化した肉体を行使し、山本を一刺しにしようと突進を開始する。
 真横から薙ぎ払われた一撃を額に隆起した角で弾き返いた犬の喉元が無防備に晒され、山本がすかさず腰帯から引き抜いた鞘を逆手に持って下から掬い上げるようにして放った。しかし中空で器用に姿勢を後ろへ倒した彼は、山本の第二撃をも回避して地面に逆立ちし、すぐさま後ろ向きになった身体を反転させた。
 斜めに体勢が崩れたまま地面を蹴り飛ばし、
「変幻、獅子!」
 鋭い角を瞬時に引っ込め、今度はぱっくり開いた口から覗く牙を巨大化させた。
「くっ」
 自由自在に身体の構造を変化させる犬の攻撃は、正直言って読みづらい。どれだけ隠し玉を抱えているのかまるで不明で、山本に間合いを取らせぬように巧妙に動き回る。そのうち体力が尽きるかと思いきや、元気が有り余る犬は少しも鈍る様子が無かった。
 繰り出された牙を躱し、鞘で頭部への打撃を狙うが、またしても空振り。彼は忌々しげに舌打ちし、勝ち誇った顔で高笑いをしている犬に、今度は自分から切り込んで行った。
 鞘を帯に押し込み、下段から構えて突撃する。しかし目を見張る跳躍力を披露した犬に難なく回避されて、代わりに落下の勢いを利用した蹴りを左上腕に食らわされた。
 骨の髄にまで響く衝撃に、息が詰まる。
「ぐぁ!」
「弱えぇ、弱えぇぞ」
 今まで対峙してきたどの敵とも違う攻撃に、山本は良いように翻弄されていた。彼が犬の次の手を読みきれないのとは裏腹に、彼の馬鹿正直すぎる真っ直ぐな太刀筋を見抜くのは、犬にとって赤子の手を捻るよりも簡単だった。
 喉を鳴らして笑う犬の声が、熱せられて渦巻く空に吸い込まれていく。返す手で引き裂かれた左太股の痛みに集中を乱され、脂汗を滲ませた山本は、口惜しげに痺れが抜け切らない左腕を打刀の柄で殴りつけた。
 負ければ即ち死、そうなればもう誰も守れない。自分に決意が足りなかったかと彼は奥歯を噛み締め、犬に向かって玄き艶を放つ切っ先を突き出した。
 雲雀をあそこまで追い込むだけのことあって、実力者だと悔しいが認めよう。だが自分が太刀打ちできる相手でも無かったと、素直に負けを承服出来るほど自分は可愛い性格をしていない。
「最後まで、足掻かせてもらう」
「ひゃーっひゃっひゃ。いいぜ、そういう目、潰し甲斐があるってもんだ」
 あの小さい人間は、簡単に引き裂けそうでつまらなかった。愉しげに嗤う犬が言った言葉に、山本の眉がぴくりと動いた。
「……誰だって?」
「あのちっせーのは、骸しゃまの獲物だけどな。飽きて要らなくなったら俺が貰って、兎みたいに逃げ回るのを追い掛け回して、遊んでやるんだ」
 底冷えのする声を発した山本の怒りを知らず、犬は雲雀によってこの場から逃がされた綱吉を揶揄して喉を鳴らした。
 想像して涎を垂らし、音を立てて啜り、飲み込む。顎の周囲を撫で拭う仕草に、彼が今どのような光景を思い浮かべているのか、犬を良く知らぬ山本でも楽に予想はついた。
 彼が肉食獣だとすれば、綱吉は戦う術を持たない草食獣に等しい。追い回され、追い詰められ、逃げ道を封じられた後に四肢を粉砕され、喉を掻っ切られる。温かい血を流して冷たくなっていく綱吉の姿が瞼に浮かんで、山本は瞠目した。
 周囲に立ち込める数多の音が消え失せ、胸の内に沸き起こった強い感情とは裏腹に、彼の心は凪いで行った。
 静かに。
 閑かに。
「うん?」
 愉快だと高笑いを繰り返していた犬が、目の前に呆然と立ち尽くす山本の異変に気付き、眦を持ち上げた。
 だらんと垂れ下がった両腕、右に握った玄い打刀の切っ先は地面に接する間際のところをゆらゆらと、蒼い雫を滴らせて漂っていた。
 俯き加減の彼の表情は全く見えず、闇に溶けてしまったかのように虚ろに映る。それが犬には、絶望に堕ちた彼が勝負を諦めたという風に見えた。
 溢れ出る唾液で顎を濡らし、鋭い牙をちらつかせて彼は嗤った。その喉を引き裂いて、噴き出る赤い血で存分に喉の渇きを癒してやろう。他の連中も直ぐに後を追わせてやるから安心するといい。そんな事を口に出して嘲り、犬は残虐な瞳を輝かせた。
「変幻」
 両肩を大きく広げ、鉤爪の腕を胸の前で叩き合わせる。圧搾された空気が弾ける音が夜空に轟き、狼の遠吠えが高く響き渡った。
「くたばるっびょん!」
 人殺しの欲望を昂ぶらせ、爆発させて瞬発力に作りかえる。瞬きの時間も与えずに動かない山本の眼前に移動を果たした犬は、けれどあまりにも大人しすぎる彼の様子に、直前で違和感を募らせた。
 ぴりぴりと尖る気配が、何故か右側から。
「残念、はずれだ」
 振りかぶった右の爪、切り裂かれた山本の姿が三つに分かれて崩れ落ちた。夏の日に浮かぶ陽炎の如く揺らぎ、そして消え去る。手応えは皆無、爪の間に残されたのは温かな肉片などではなく、冷たい――雨の雫。
 玄い闇より現れた山本が、犬の右腕を叩き落さんと打刀を振り下ろした。
「ちぃぃっ!」
「逃がすかよ」
 流れ行く大気に乗り、一直線に大気を切り裂いた山本が着地と同時に後方へ逃げた犬を追った。
 刃に伝う赤い水滴は空中から溢れ出る雨粒で洗い落とし、蒸発させて霧の壁を作り出して彼の行く手を阻む。道に迷わせ、方向感覚を失った犬が立ち止まったところを、山本は躊躇なく一閃した。
 鹿の柔軟さで地面を蹴り飛ばした犬が、間合いを広げて四つ足で地面に溝を刻む。泥を被った足を振って土くれを落とした彼は、唐突に動きに鋭さを増した山本に内心焦りつつも、強敵を前にして高揚する心を抑えきれずに頬を緩ませた。
 無造作に打刀を握った山本が、それを袈裟懸けに切り下ろす。ふたつに裂けた空間の境界線から水滴があふれ出し、乾ききった大地を湿らせた。
 玄き水が、山本の周囲を埋め尽くす――
「けっ。上等じゃねーか」
「ツナに手ぇ、出してみろ」
 高らかと吼える犬の声を無視し、山本は地鳴りを伴う低い声を発した。
 他者を圧倒する強く濃い霊圧を感じ取り、犬が一瞬怯む。肉体の表層を覆う皮膚が一斉にビリッと来て、顔面に散った飛沫を避けて彼は咄嗟に瞼を閉ざした。
 腕を掲げて十字に交差させ、刹那にも満たない時間、彼は山本に無防備な姿を晒した。
 ひゅっ、と風が奔る。頬を撫でた生温い湿った空気の変化を鋭敏に感じ取った犬は、本能的に身を仰け反らせて姿勢を低く崩した。
「しっ!」
 僅かに逃げ遅れた右腕に熱が生じ、苦痛に顔を歪めて犬は体を強引に裏返した。腹這いに地面に倒れこみ、鮮血を散らす腕を無視してもう一度体を弾ませる。再度仰向けに切り替わった体勢で膝を曲げた彼は、全身を発条にして鞭のように撓らせ、刀を左から右に振り抜いた山本の顔面目掛けて揃えた両足の裏を叩き込んだ。
 左腕だけで己の身体を空中に押し出した犬の脚を咄嗟に払い除けた山本だが、その動きをあらかじめ想定していた犬が即座に膝を広げ、山本の袖を足の指で抓み取る。握る力自体は弱いが、器用に布の襞を絡め取られて山本は左腕の自由を奪われ、ふたりもろとももみくちゃになって地面に倒れ込んだ。
 人の着物を引き千切った犬がまた距離を取り、斬られた右腕を庇って呼吸荒く闇に汗を光らせる。腰に挿した鞘が落下の際に跳ね上がり、鳩尾を打った山本は噎せて暫く立ち上がれなかった。
 接近してきたかと思えば、直ぐに離れる。間合いをこちらから詰めても、巧く逃げられる。
 埒が明かないと、山本は口に入った土を唾に絡めて吐き捨てた。
『お前の太刀筋はどれも素直すぎるんだ。性格なんだろうけど、まっすぐ過ぎて読みやすい』
 いつかのディーノの言葉が脳裏に蘇る。
 実戦には向かないと言われたようなものだ。それを証拠に、彼に鍛錬をつけてもらった時も、一撃として見舞うこと叶わなかった。
 隙を突き、不意打ちを狙っても、簡単に躱されてしまった。
 当てられなければ、どんなに強力な術や技を持っていても、意味は無い。相手を倒せなければ、強さなどなんの役にも立たない。
 太股の傷が今頃になってズキズキと痛む。出血が酷く、熱が出てきているのか、頭の中に靄が掛かったようで思考が分散し、まとまらなくなり始めていた。
 犬の動きは速い、そして法則性が無い。捕らえ切れない。
『感情に流されるな。心が乱れれば、即ち剣筋も乱れる。』
 父は言った。相手が太刀筋を読んでも避けられない速度で自分が動け、と。
 いいや、違う。
「あるじゃねーか。あいつの動きを止める方法」
 全身で息をして、山本は汗で滑る玄太刀を握り締めた。
 闇夜を焦がす炎が乱舞する。刀身が放つ不可思議な玄い水のお陰で多少は涼しいが、それも限定的だ。流血は動く度に量を増やし、痛みは時間が経つに連れて命を脅かす。
 それでも、彼はやると決めた以上、誓いを覆すわけにいかなかった。
 綱吉に害悪を成すものは、排除する。それは絶対だ。
「来いよ。俺のことぐちゃぐちゃに踏み潰すんじゃなかったのかよ」
 自分に向けられた挑発をそのまま投げ返し、山本は不敵に笑った。頬の筋肉を引き攣らせての、無理ある表情だったが、見通しの悪いこの場ではそれで充分だった。
 ぎょろっとした眼を蠢かせ、犬が憎々しげに山本に牙を剥く。生意気な事を言うその喉仏を今すぐに切り裂いてやると吼え、彼もまた斬られた場所から生じる熱を誤魔化して鋭い爪を彼に差し向けた。
 互いに息は上がり、吐き出す呼気は白く濁る。熱いのに寒気が走って、山本は自分の置かれた状況を冷静に見下ろしてひっそりと笑った。
 何をこんなにも躍起になっているのかと、自分自身に呆れてものがいえない。結果を知れば、綱吉はきっと喜ばないと分かっている。むしろ彼を哀しませることになろう。
 それでもここで逃げ出さないのは、男としての意地だ。
 山本は右半身を後ろに引き、胸を大きく上下させて深呼吸を三度繰り返した。
 次で最後だと決める。これで終わらなければ、体力負けする自分が圧倒的に不利だ。
 だらだらと流れる汗が鬱陶しく、土にまみれた身体は長着の生地が肌に絡まって気持ちが悪い。
 全部終わったら、風呂に入りたい。そんな些細な幸せを思い浮かべ、山本は犬に対して直線になるように姿勢を取った。
 顔の前に掲げた玄い刃を撓らせ、細かく震動する刀身から水滴を宙に散らす。視線の高さ、そこで右肘を引いて左手は添えるのみ、刀もまた正面から見ればただの点となるよう、水平に。
 刺突の構えを取った彼に、犬も隙なく四肢を踏ん張らせた。
「変幻」
 勝負はすれ違うその一瞬で決すると見定め、彼は山本の太刀筋よりも速く、そして凶暴な牙を持つ獣を選択した。
 緊張が走り、圧縮された空気が破裂する音が轟く。
 遠く、否、近くで爆音が轟いた。
「「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」」
 ふたり同時に吼え、地を蹴った。
 山本の打刀は正確に、ただ一点を狙って揺るがない。犬の眉間、その少し上。脳天を串刺しにせんとして、彼は駆った。
 実直すぎる、真っ直ぐな眼光。迷いが無い故にその一撃さえ躱せば勝機はこちらに傾くと読み、犬は心の中でしたり顔を作った。
 ぎりぎりまで引きつけ、直前で回避する。山本の捨て身の攻撃は、敢え無く敗れ去るだろう。ぎらついた瞳で獲物へ狙いを定め、犬は後ろ足の反動を利用して彼に踊りかかった。
 野狼の口を大きく開き、一度喰らいつけば引き千切るまで放さない牙を剥く。標的は、山本の利き腕。
 二度と刀を握れないように、その筋を断ち切ってやらんと欲し――
「がぁぁぁ!」
 迷い無く突き出された切っ先を想定通り回避した犬は、こちらもまた計画通りに山本の右小手に喰らいついた。渾身の力を込めて噛み付き、肉を抉り、骨を砕く。鮮血が彼の咥内に流れ込み、鉄錆びた生臭い味が彼の喉を大いに潤した。
 だのに。
「へっ」
 山本は勝ち誇って恍惚としていた犬を見下し、痩せ我慢の笑みを浮かべた。
 激痛を堪え、青白い顔をして、それでもなお、彼は。
「腕の一本くらい、くれてやる。けどな」
 刺突に移る仕草の最中の一瞬で右から左へ持ち替えた打刀を掲げ、真っ直ぐ天に向かって衝き立てた。
 罠――!
 鈍く輝く玄い光を双眸に映し出し、犬は何故こうも簡単に山本の懐に入れたかを今ようやく、理解した。
「ぬぐっ、ふぐぬぅぐ!」
 逃げなければ。一秒でも早く山本から離れなくては。
 本能が危険を探知し、けたたましい警告を発して犬の頭の中で鐘を鳴らす。だがやっと捕まえた相手をみすみす逃す山本ではなく、あらん限りの力を振り絞り、右腕の筋肉の繊維を引き締めた。
 新たな血が噴出する。激痛が山本の意識をかき回す。けれど彼は、意地と根性だけで己を固持し続けた。
 深く食い込んだ犬の牙が、却って彼の動きを阻害した。筋肉組織に絡め取られ、縛られて、どんなに足掻いても、暴れても抜けてくれない。下顎が外れるくらいに喘ぐが叶わない。山本の強い決意が、彼の逃げに入ろうとする意識を遥かに上回っていた。
 犬の抵抗を受け、傷口は確実に広がっていく。神経を抉られ、指先の感覚が遠退くのが分かる。夥しい出血が山本のみならず、犬の顔を真っ赤に染めた。
 彼は深く長い息を吐いた。
「けどな……ツナにだけは絶対、手出しはさせねえ!」
 思い浮かぶは、あの子の笑顔。
 祈りを込め、想いを込め。
 山本は左腕を真っ直ぐ、右腕にかぶりつく存在目掛けて振り下ろした。
 完全無防備な犬の脳天を、黒光りする金属製の柄頭で叩き落す。
「ぐぎぁああぁぁぁぁ!」
 瞬間、凄まじい痛みが彼自身の右腕にも襲い掛かった。
 首をカクリと落として白目を剥いた犬が、割れた額から鮮血を噴出させて身を仰け反らせた。ぽっかり空いた口から覗く牙は何本か先端が欠けており、咥内は赤黒く濡れて血の海と化していた。
 後頭部から音を立てて地面に倒れ込み、四肢を痙攣させた後完全に沈黙する。彼が意識を失ったと同時に、支配されていた獣の魂も呪縛を解かれたのか、その姿はもともとの、人としてのそれに戻った。
 力の抜けた左手から玄い打刀を落とし、山本もまた、脱力感に苛まれてその場で膝を折った。
「っう……いってえ」
 太股と、右腕の傷。どちらも血は止まらず、煮え滾る湯を浴びせられたかのように各所が熱い。頭の中でがんがんと寺の鐘が鳴り響き、混濁する意識が様々な記憶を呼び覚ましては消していく。息を吸うだけでも苦痛に見舞われ、彼は背中を丸めると空になった左手で右腕を抱え込んだ。
 額を地面に擦りつけ、尺取虫のように身を小さくする。
 肩を窄めて奥歯を噛み締め、次第に強まる痛みに相反して薄れ行く意識を懸命に繋ぎ留め、脂汗に吸い付く泥を払い除けもせずに彼は彼方へと目を凝らした。
 霞む視界の果てに、天をも焦がす灼熱の炎の壁が見える。南にも、北にも。
 村は無事か。父は――友は。
 なにより、綱吉は。
「くっそぉ」
 血を流しすぎた。賭けには勝ったが、挑んだ勝負自体が無謀だったと、心の中に残っていたまだ冷静な自分が笑った。
 懸命に足掻き、立ち上がろうとするが、濡れた手は小刻みに震えて支えにもならなかった。
 今度は肩から崩れ落ち、ぼんやりと靄が降りた世界で、山本は他とは明らかに違う炎の爆ぜる瞬間を見た。地面に横たわりながら、それが誰の仕業かを想像して苦笑する。
「悪りぃ。あと、任せた……」
 悔しいが、どうやら起き上がれそうにない。素直に肉体の限界を認め、山本は身体が求める通り瞼を下ろし、世界を闇に閉ざした。