眠りたまふ

 いつもより一時間早く、学校が終わってしまった。
 なんでも先生方の会議があるそうで、部活も監督者がいないので一斉に休止だという。今の今まで知らなかった夏目は、取り出そうとしていた六時間目の教科書を右手に、喜び勇んで帰り支度をする同級生を眺めてぽかんとしてしまった。
 そういえば確かに、昨日のホームルームで先生がそんな事を言っていた気がする。長話だったので、どうせたいした話題など無いと高を括り、ぼうっとしていたのが災いした。持ってくるだけ損をした気分で、取り出した教科書を乱暴に鞄に戻した彼は、口々に別れの挨拶をするクラスメイトからかなり遅れて廊下に出た。
 早々に帰宅するようにとの校内放送に背中を押され、急ぎ校舎を出て正門を潜る。予定外の出来事に呆気に取られ、夏目は最後に一度だけ、本当に六時間目の授業は無いのかを確認すべく、振り返った。
 グラウンドには人気がなく、校舎もすっかり静まり返っている。どうやらよっぽど生徒らに聞かれたくない議題らしいと、会議の内容を想像しながら彼は肩を竦めた。
 それにしても、急に出来てしまったこの時間を、いったいどうやって過ごそうか。
 夏目本人が今さっきまで知らなかったのだから、当然ながら塔子もこのことは知らない。こんな早い時間に帰っては、吃驚させてしまいかねない。
「どうするかなあ」
 真っ直ぐ帰るのも勿体無い気がする。折角自由な時間が手に入ったのだから、その辺をぶらぶらと、普段使わない道を通って帰るのも悪くないかもしれない。どうせ家に帰っても宿題くらいしかすることが無いし、なによりあの招き猫を依り代にしている、ふてぶてしいにも程がある妖怪の相手をしてやらねばならない。
 時として邪魔だが、一緒に居ると和む。すっかり妖との共同生活にも慣れてしまったが、お陰でひとりきりの時間というものにも、とんと縁遠くなってしまった。
「そうだな、久しぶりに」
 吐く息は白く濁らなくなった。暖かな春の陽射しに、夏目は淡い笑みを浮かべた。
 日頃使っている、世話になっている藤原夫妻の家へは遠回りになる道を選び、彼は歩き出した。鞄を右脇腹に抱えて、学校前のなだらかな斜面をゆっくりと下っていく。
 西村や北本も、とっくに帰路に着いてしまっていた。もっとも、置いていかれた事をとやかく言うつもりはない。彼らにだって、彼らなりの都合があるのだから。
 アスファルトで舗装された道も、少し行けば砂利道に変わる。もっと行けば、田畑が左右を埋めて細い土の畦道に切り替わった。
 冬の間寒さに耐えた植物も、日増しに緑を濃くし、背丈を伸ばしている。もっと、もっと、と日光を欲しがって、懸命に両手を伸ばしている姿があちこちで見受けられた。
 この季節にだけ現れるレンゲの花畑の間を抜け、土起こしが始まった畑を左に見て、柔らかい地面の感触を靴底に感じながらのんびりと進む。地上を走る影を追って顔を上げれば、西の空へ駆ける鳥の姿が小さく見えた。
 たまにはこういうのも、悪くない。
 夏目は祖母レイコの遺品である、数多の妖怪の名を記した友人帳を引き継いで以降、様々な妖怪に狙われる日が続いていた。
 用心棒である斑を引き連れず、ひとりこうやってあちこち歩き回るのは、危険を伴う行為だと、頭では分かっている。だけれど、これでも彼は一応年頃の男子であり、人の道理など分からぬ妖と四六時中共に過ごすのもまた、疲れるのだ。
 こんな事を言えば、斑は不本意な顔をするだろう。警戒心に欠ける奴など手に負えない、と今度こそ見切りをつけられてしまうかもしれない。
「それは、寂しいな」
 騒々しい生活にもようやく慣れて来たところだ。静か過ぎる――自分に話しかける存在の無い日常を思い返し、苦笑しようとして夏目は失敗した。
 自分自身に肩を竦め、住宅街に戻って来た彼は固い地面に爪先を置き、踵を下ろした。
 幅広の道路には、人通りがあった。買い物に行く人、学校帰りの小学生、疲れた風情のスーツの男性は営業活動の途中だろうか。
 どこかの家で飼われている犬が吼えている、頭上を仰げば電線に雀が数羽、仲良く並んで日向ぼっこに興じていた。道と家々を遮る塀の上を、三毛猫が欠伸を噛み殺して通り過ぎていく。
 長閑な、どこにでもある光景だ。退屈で、見飽きるほど毎日繰り返される日常のひとコマだというのに、それでも心が満たされ、幸せな気分になって、夏目は心持ち速度を上げた。
 やはり遠回りして正解だった。そう思い、向かいから来る人の影を避けて右にずれる。
「あ」
 同時に足元ばかり見ていた視線を持ち上げて、夏目はそのまま左に首を回した。
 すれ違ったのは、乳母車だった。赤ん坊の小さな手が、青色の台座部分からはみ出ている。押しているのは母親と思しき若い女性で、夏目の視線を感じたのか振り返り、笑顔で会釈をして去って行った。
 赤ん坊の顔は見えなかったが、着せられていた服の色からして男の子と予想し、彼は無意識に歩調を緩めて立ち止まった。
 女性は時折前屈みになって上から乳母車を覗き込み、なにやら話しかけている。次第に遠くなる楽しげな光景に見入り、ふとした瞬間彼はハッと我に返って慌てた。
 ぼんやりしていた。落としそうになっていた鞄を急いで胸に抱え込み、特別悪い事をしたわけでもないのに駆け足でそこを離れる。猫くらいしか夏目を見ていた瞳は無かったというのに、気恥ずかしさが募り、彼は目に付いた角を曲がって更に数分間、走り続けた。
 そのうち息が切れて呼吸が苦しくなり、手近な塀に右腕を預けて高まった動悸を鎮めようと汗を拭った。襟のホックを外して胸元を広げ、空気の通り道を作って熱を帯びた身体を冷やす。
 涼しい春の風にホッとして、夏目は鞄を握る手を緩めた。
 それは悴んだように緊張で強張っていた。細かく震える指先を見詰め、ぎゅっと握り締めて首を振る。
 幼い頃から親戚中をたらい回しにされていた彼には、母親に抱かれた記憶すら残っていなかった。どんな顔をして、どんな声をして、どんな人だったのかも知らない。同様に父親に関する思い出も、ひとつとして持ち合わせていなかった。
 知っているのは、祖母の名前がレイコということくらい。妖を視る目は彼女譲りで、そのお陰で夏目は随分と苦労をさせられた。
 責めるつもりはない。持って産まれる力を選ぶことなど不可能だと、一応はわきまえている。
 ただ、時々思うことはあった。もし普通の子供に産まれていれば、今頃普通にどこかで幸せに、家族と一緒に過ごせていただろうか、と。
 そうして思いを巡らせて、結局辿り着く先にいたのは塔子と滋の姿だった。間抜け顔の斑も、ちゃんといる。
 彼らの輪の中で笑っている自分は楽に想像できるのに、顔も知らない両親と並んでいる自分は、どうしても描き出せなかった。
「えっと、ここは」
 肩で息を整え、夏目は顔を上げた。適当に走って来たので、方角も何も考えていなかったのを今頃実感して、帰り道を探して視線を泳がせた。
 アスファルトの道は間もなく途切れ、小高い丘のようなものがその先に続いていた。
 まだ芽吹いたばかりの、背の低い雑草が一面を覆っている。シロツメクサの群生を足元に見て、彼は額に残っていた最後の汗を拭い、鞄を左手に持ち替えて歩き出した。
 住宅地を一望できる斜面の終わりに、背の高い木が立っていた。
「へえ……」
 ごつごつした幹に手を伸ばし、触れると仄かに温かい。濃い緑色の葉が生い茂り、木漏れ日が燦々と降り注ぐ。日陰なのに随分と明るくて、まだ高い位置にある太陽を探し、彼は振り返った。
 背中を太く逞しい幹に預け、樹皮の感触が残る右手を掲げる。瞳に直接入ろうとする陽射しを避け、彼は土の上にどっしりと根を張り巡らせた木の足元に腰を落とした。
 心地よい春の風が優しく頬を撫でて通り過ぎていく。町の喧騒も此処にいると遠い彼方で、夏目はしゃがんだまま背筋を伸ばし、快さげに目を閉じた。
「いいな、此処」
 鞄は脇に下ろし、膝に置いた。中に友人帳が入っているので、万が一盗まれては困るとしっかり両手の指を引っ掛けて握り、後頭部を幹に押し当てる。
 空は青い。視界は緑と光に溢れ、風は限りなく透明だ。
「ああ、そっか」
 あの時、彼女は乳母車を押しながら、子守唄を歌っていたのだ。
 優しい声で、愛しいわが子の為に。
 聞こえたわけではない。だのに何故だかそう思えてならず、夏目は耳に残るメロディーを心の中で口ずさみ、目を閉じた。

 ねんねんころりよ
 おころりよ
 坊やはよいこだ
 ねんねしな

 歌が聞こえる。
 優しい、とても優しい声で歌っている。
 女の人だ。
 塔子さん?
 いいや、違う。
 だけれど僕は、この声を知っている。
 知っているのに、誰なのかが思い出せない。
 どうしてだろう。
 どうして忘れてしまったのだろう。
 どうして、あんなにも遠くに――

「夏目君?」
 揺り動かされ、ハッとした。
 伸ばした右腕がぼやけた視界の中心にある。木漏れ日を掴むように虚空を握り締めて、夏目は肩を引いた。
 いつの間にか姿勢は斜めを通り越して横になっており、しっかり膝に抱いていたはずの鞄は右の腰骨に引っかかる形で、半分以上が地面に落ちていた。
 地面から隆起した根に頭を預ける形で寝転がっている自分を知り、慌てて肘を立てて身を起こす。投げ出していた足を引いて背中を浮かせると、手伝おうとしてか横から細い腕が伸びてきた。
「大丈夫?」
「タキ」
 心配そうに顔を覗き込んできたのは、他ならぬ多軌だった。
 同じ学校に通う、同い年の少女だ。紺のセーラー服を着ているので、学校帰りなのだろう。もしかしたら夏目同様、暇を持て余してあちこち歩き回っている途中だったのか。
 よもやこんなところで会うとは思わず、驚きを隠さずに夏目は彼女の名を呼んだ。
「よかった」
「え?」
「ううん、なんでもない」
 眠りが浅かったからだろう、寝起きであるが頭は比較的はっきりしている。綺麗な発音をしてみせた夏目に、斜め前で膝を折って座っていた彼女は目を細め、笑った。
 何がそんなに嬉しいのか分からず、小首を傾げて夏目は鞄を引き寄せた。中身が無事であるのを確認して、自分の身体にも特に異変が無いかどうか調べてから、ズボンに張り付いていた緑の草を払い落とした。
 木に近付いた多軌も、背中に付着していた分を抓んで落とすのを手伝ってくれた。見えないところだけに助かって、有難うと言えば、彼女は少し吃驚したように目を丸くした。
「なに?」
「あ、ううん」
 取ってつけたように慌てて首を振る彼女を怪訝に見やり、夏目は数秒考え込んだ。眉間に皺を寄せて、記憶に残っているよりも少し低くなっている太陽に目を細める。
「あのさ、ひょっとして……魘されてたとか?」
「え? ああ、まさか。どっちかっていうと、その逆」
 嫌な夢を見た覚えは無いのだけれど、一応思いついたので聞いてみると、彼女は即座に首を振った。一緒に両手も顔の横で揺らし、膝に下ろして囁く。
 ただ眠っているにしては、とても静かだった。掠れる、殆ど声になっていない呟きを辛うじて耳で拾って、夏目は彼女が何故最初、心の底から安堵した表情を浮かべたのか、その理由を知った。
 不安にさせてしまったらしい。道草途中の昼寝の功罪に、彼は軽く落ち込んで目を逸らした。
 物憂げな夏目の横顔に、思うところがあったのだろう。多軌は急いでまたも首を振り、気落ちする彼を慰めるべくやや乱暴に人の肩を叩いた。それから、振り向いた夏目の頬にやおら指を添えた。
「え……」
「ついてる」
 いきなりだったのでドキッとしていたら、目を細めた多軌が笑いながら緑の草を見せてくれた。
 小さな、草の破片だ。どこかから風に流されて飛んできたのだろう、彼女の指先が通り過ぎて行った場所を撫で、夏目は微笑んだ。
 また妙なところに張り付いたものだ。この位置ではまるで、
「なんだか、涙みたいだね」
 不意に多軌が言って、掌に置いたそれに息を吹きかけた。
 ふっ、と一瞬の溜めを挟んで草の切れ端が空を舞い、飛んでいく。
「タキ」
「ん?」
「いや、……起こしてくれてありがとう」
 優しい笑顔を浮かべている彼女を眺め、夏目は言いかけた言葉を飲み込んだ。
 まさか彼女が自分と同じ事を感じたとは思わず、何故だか妙に照れ臭い。
「うん」
 夏目の礼に目尻を下げ、多軌はスカートの草を払い落とした。立ち上がる彼女に数秒遅れ、夏目も一時の寝床を提供してくれた木に謝辞を述べて立ち上がった。
 とても良い夢を見た。
 内容までははっきり覚えていないけれど、泣きたくなるくらいに幸せな、温かい夢を見たのだ。
「帰ろうか。タキは、この辺?」
「ううん。ちょっと遠回り」
「そっか。俺も、そんな感じ」
 身なりを整え、制服のホックは外したまま、夏目は彼女と肩を並べて歩き出した。
 ひとりの時間も、たまには良い。
 けれど、ふたり、三人、もっと沢山の人と過ごす時間も、決して嫌いではない。
 そんな事を、暮れ行く西の空に思いながら。

2009/03/05 脱稿