「え――?」
蛤蜊家。その言葉が意味するところを即座に思い出せず、綱吉は間抜けに口を開いた状態で骸を見返した。
燃え盛る炎の音が迫る。果たして結界は、現実の炎をも防ぎきれるのだろうか。試した過去がない危機に思い至り、骸が巻き起こす暗雲を直視したくなくて、綱吉はそちらにばかり気を向けた。
嫌な予感が背中を走り、冷たい汗が全身から噴き出す。静まったばかりの呼吸がまた荒くなって、彼は定まらない思考に臍を噛んだ。
蛤蜊家。
燃える屋敷の記憶。
貫かれた心臓。
一度途絶えた並盛の神事。
笑いかける綱吉の知らないディーノ。
雲雀に似た面持ちの、雲雀ではない青年の影。
そして。
もうひとり。
あの頃の自分たちは、全部で四人だった――
目を見張る。綱吉は頭の奥底で蠢く、自分以外の誰かの記憶に恐怖し、悲鳴を上げた。
「来るな……来るな!」
「つれないことを言わないでください。僕と君は、あんなにも心通じ合った仲だったではありませんか」
「ちがう。違う、ちがうっ」
泣き叫び、彼は骸の言葉を必死に否定する。だけれど魂に刻まれた記憶の欠片が、骸の言っている事が正しいと綱吉に教えていた。
それは自分ではない。けれどいつかの自分とぴったり重なり合って、綱吉を一層混乱させた。
薄暗い半地下の牢屋、何重にも張り巡らされた結界。手さえ握り合うのは叶わなかったけれど、言葉を交わす事なら出来た。同じ年頃の子供が近くに居なかったので、偶然からその存在を知った時はひたすら嬉しかった。
才能があるのに産まれた日が悪かっただけで疎まれて、日の光を浴びるのさえ許されない。一生をこの狭く暗い場所で過ごさなければならないのを哀れに思い、子供心に救い出してやろうと必死になりもした。
色々な話をした。どうやっても巧く出来なかった術が、彼には簡単に出来てしまうのが悔しかった。
負けたくなかった、懸命に努力した。きっとそこから出してあげるからと、そう誓って、いつしか一緒に成長しあう仲になった。
楽しかった。幸せだった。
知らなかった。その無知がどれだけ彼を傷つけたかに、まるで気付かなかった。
「……っ」
声も無く涙を零し、綱吉が骸を見る。無自覚に知らない誰かの名前を呼んで、彼が満面の笑みを浮かべる様に激しい畏怖を抱く。
骸が右足を先に踏み出す。綱吉は尻餅をついたまま、身を引いた。
そんなわけがない、そんなはずがない。どれだけ否定の言葉を頭で埋め尽くしても、現実はいとも容易く綱吉を裏切った。
蛤蜊家の直系には、ふたつの流れが存在しているといわれていた。
初代は、その短い一生でひとりしか子を成さなかった。それも二代目に座を譲り、隠棲した後のことで、これが沢田家の血脈となって今も粛々と受け継がれている。
現在蛤蜊家を支配している家系は、二代目を襲名した、初代の従兄筋を祖としていた。
元を辿れば同じ人間に行き着くとはいえ、初代の血をより濃く継承しているのは、沢田家の方。だが初代は、自らが得た数多の権利の一切を従兄へ譲り、並盛に引き篭もった後は、蛤蜊家に不干渉の一念を貫いた。
蛤蜊家の基盤となった退魔師の家系は、初代とその従兄を残し、ある事件により全滅していた。
そこから一族を立て直し、統率されていなかった退魔師の組織化に成功し、異能力者の保護に奔走した初代は、苦心の末に作り上げた一大勢力を、呆気ないほど簡単に、当時各地を放浪していたことで一族大虐殺の憂き目を回避した従兄に譲り渡してしまった。
蛤蜊家の血脈は、故にこのふたりから再び始まった。
その筈だった――表向きは。
もうひとり。
蛤蜊家最大の恥とされ、その歴史からも抹消された男が、各地に種を残して後、生きたまま地獄へ堕ちていった事実を知る者は少ない。
地上の残った数多の種は、実力主義を貫いた蛤蜊家二代目の時代に導入された特殊暗殺部隊が、悉く潰していった。ただ当然、全てを駆逐することは叶わなかった。
「舞い戻ってきましたよ、約束通り。輪廻の果てから」
骸が妖しく微笑む。力を持った言葉は、綱吉の耳から入り込んで彼の身体を束縛した。
もう動けない。圧倒的な恐怖に支配され、綱吉は骸の足が最後の砦を易々と乗り越え、こちら側に踏み込む様を呆然と眺めるしかなかった。
耳元で空気に亀裂が入る、ピシピシと目に見えない冷気がぶつかり合う音がする。地震でもないのに大地が揺れる感覚が身を襲う。骸の右足が、禁足地に触れた。
山が、震撼した。
「――――!」
綱吉は咄嗟に両手で頭を庇い、背中を丸めて小さくなった。
それまで、堅牢な、破られたとしても一部分が綻ぶ程度でしかなかった、何百年と並盛山の霊域を守り続けていた結界が、音もなく、静かに、はらはらと、桜の花が散るが如く、ゆっくりと砕けて行った。
衝撃は来ない。それが余計に、差し迫る危険の大きさを物語っていた。
綱吉の目の前で、虹色の雪が降り注ぐ。ふたりの間できらきらを輝くそれは、あまりにもこの場に似つかわしくない美しさだった。
言葉も出ない彼に嫣然と微笑みかけ、骸は左足で結界石を踏み倒した。張られていた注連縄が千切れ、紙垂が風に舞い、綱吉を守る壁は跡形も無く消え去った。
最早安全な場所など、この世の何処にも在りはしなかった。
「嗚呼、これで」
感極まった声をあげ、骸が手を差し出す。
「君は、僕の――」
蹲ったまま動けない綱吉の腕を掴んで引っぱり上げ、恐怖に竦む彼の泣き顔を高く掲げた骸は、とても満足した様子で、左右で色が異なる瞳を細めた。空いた手で綱吉の顎を取り、自分を見るように無理矢理視線を固定させ、震える彼の唇に指を這わせる。
僅かに残る鼻血の跡を拭ってやり、柔らかな肉を愛おしんで撫でる。綱吉は何かを言おうとしたが、口を開いた瞬間爪を立てて抉られて、噛み付くことさえ出来なかった。
「うっ……」
逃げて、追い詰められて、捕まって。
それでもまだ、雲雀は来てくれない。
こんなにも待っているのに、ちゃんと約束したのに。
哀しくて、悔しくて、切なくて。透明な涙で睫を濡らした綱吉は、雲雀の為に零したそれを骸の舌が攫っていく嫌悪感に打ち震え、堪えきれずに甲高い声で悲鳴を上げた。
「いやあぁあぁぁぁぁ!」
首を窄め、必死に抵抗して肩を振り回す。だけれど彼の力では束縛を解くに到底足りず、大人しく従わない彼に舌打ちした骸は、恍惚としていたのを害されたと腹を立て、綱吉に向かって左手を振り上げた。
それを。
空気を切り裂き、何処かから飛んできた光の螺旋が。
「ぬ――」
「うあっ」
しゅるり、音もなく骸の右腕を絡め取った。
斜めに引っ張られ、骸の拘束が緩む。上からの圧力から解放された綱吉は、真下に身を沈めて石段で強かに腰を打った。
仄明るく輝く光の軌跡は、闇に包まれる樹木の影に消えて出所が見えない。しかし思い当たる節がある骸は、忌々しげに光が続く方角を睨みつけた。
一方の綱吉は落下の衝撃に身悶えつつ、囚われていた左腕を庇って胸に抱えこんだ。骸が別の何かに気を取られていると知ると、即座に右腕をつっかえ棒にして体を起こした。
ほうほうの体で石段に挑み、滑りやすい苔に足を取られながら、暗闇を駆け上っていく。
速度は非常にゆっくりだったが、濃い闇に飲み込まれて彼の姿は直ぐに見えなくなった。
横目で追いかけた骸が、綱吉を見失う原因となった存在に露骨に嫌悪を表明した。ぐっと肘に力を入れ、頑強な鞭に抗う。
「出てきたらどうですか、跳ね馬」
挑発的に呼びかければ、間を置かずに冴え渡る空気が揺らめき、蛍火が木々の隙間を縫って彼の目に明らかになった。
日の光の下では鮮やかな、瞳を焼かんばかりの強い輝きを放つディーノの金髪も、この夜闇の中ではくすみ、威力を半減させていた。しかしそれでも尚、高貴な彩は依然健在だった。
寸足らずの長着に、緋色の打掛を肩に羽織る。太い木の枝に悠然と立ち、右手に握る鞭を左手で補佐する彼は、骸にも負けず劣らずの強い眼力で、憎らしい相手を睥睨していた。
「お久しぶりです。いいのですか、僕は人間ですよ」
神族が地上に介入するのは禁止されている。ましてや、人間を屠るようなことがあれば、神力は奪われ、封じられ、放逐されることにもなるだろう。
言葉の裏にそう揶揄し、骸は鞭に捕らえられている己の手を揺らした。早く外せとの意思表示であるが、ディーノは険しい表情を崩さず、逆に束縛を強めて鞭に力を込めた。
ぎりっ、と肉体を構築する繊維が軋む音がして、骸は眉間に皺を寄せた。
「悪いが、昔のようにはいかない」
「ほう?」
「約束したんだ」
興味深そうに相槌を打った骸に、ディーノは余裕を装って笑みを浮かべた。
誓った、二度と同じ過ちは繰り返さないと。
約束した、その笑顔を守ると。
故に、今自分がすべき事は。
「お前は此処で、俺が滅する!」
神の力など、この男からあの子を守り通せるのなら、いくらでもくれてやる。棄ててやる。
数百年の時を越えて迷いを吹っ切った声で叫び、ディーノは不敵に笑む骸に牙を剥いた。
雲雀の身に起きた異変の原因を、彼らは知る由も無かった。
ただ赤黒い血を、間欠泉が如く噴出させた彼がゆっくり倒れ行く様を、呆然と見送ることしか出来なかった。
駆け寄ろうとした山本の行く末を犬が、獄寺の前には千種がそれぞれ立ち塞がる。誰もが手負いの獣だった。しかしこの場から退くという考えは、ひとりとして頭の中にありはしなかった。
「邪魔すんなっての」
「お前は俺の獲物だびょん」
鞘に収めたままの玄の太刀を隙無く構え、山本が道を阻む犬を注視する。唐獅子を思わせる髪に、顔の中心を真一文字に横切る古傷。爛々と輝く瞳は獰猛な野獣に等しく、口から覗く牙にはだらだらと涎が絡み、滴り落ちていた。
鋭い爪と、強靭な足腰。あれに噛まれたら痛いだろうな、とどこか他人事のように考えて、山本はひと通りの観察を終わらせた。
ふぅ、と疲れた様子で息を吐き、足を肩幅に広げて腰を若干落とした。
左半身を僅かに後ろへと。右手に柄を持ち、左手で鞘を押さえた彼は、いつでも抜けるように構えを取って、瞑目の後、瞼を持ち上げた。
其処にはもう、平素のお調子者を気取る彼の姿は無い。冷徹なまでに研ぎ澄まされた刃を思わせる眼光に、犬は楽しそうに、甲高い、人の気に障る声で笑った。
「そーこなくっちゃなあ」
大きく身を仰け反らせ、無防備に胸元を広げた彼に山本は眉を寄せた。攻めてきてください、と言わんばかりの態度が気に食わず、何かあると読んで注意深く呼吸を揃える。右足を前に少しだけ動かし、滲み出た汗がこめかみを伝う様を薄気味悪く感じながら、乾いた唇に舌を這わせた。
何を考えているのか、この男は。広場での芸を見る限り、獣の物真似を主体に戦うに間違いないようだが――
頭の中でいくつかの可能性を抽出し、ぐるぐると掻き混ぜて答を捜し求める山本を前にして、犬は不意に、ぐん、と後ろに倒していた体を前に沈めた。頭を低くし、隆起する肩甲骨を晒して膝を外向きに広げる。踵を浮かせ、爪先だけで体躯を支えた男からは、体温が急上昇しているのか、赤銅色に染まった肌から灰色の湯気が立ち上った。
「なんだ」
警戒を強め、山本が右の眉を持ち上げる。
「変幻、大猩々」
犬がぼそり、口の中でその言葉を呟いた。
「っ!」
刹那。
山本の前に巨大な黒い影が出現し、反応する暇さえ与えずに彼の横っ面を殴り飛ばした。
刀を抜いて受け流すどころではない。目で追うことさえ出来なかった彼の体は地面に叩きつけられ、半回転した後に第ニ撃を避けて自ら後ろへと跳んだ。
躱した直後、それまで彼が蹲っていた場所が風圧で抉り取られ、巨大な穴が姿を現した。飛び散った土くれが容赦なく山本を襲い、顔の前で両手を交差させて直撃を回避した彼は、着地の寸前に見えた犬の姿に目を見張った。
勢いに乗った身体を地面に滑らせ、柔らかな黒土に溝を二本刻んだ山本が息を呑む。
犬の姿は、それまでの彼から大きく変容し、上半身の筋肉は二倍、否、三倍にまで膨張していた。
首は肩に埋もれて同化し、元のままの頭部がいやに小さく映る。腹部より上の肉体を超強化した姿は、人間の領域を遥かに凌駕し、ひと言で説明するならば、異形のそれに等しかった。
呆気に取られた山本を愉快に見下ろし、骨格さえも変化させた犬が、丸太のように太くなった腕を高く持ち上げる。
「やべっ」
我に返った山本が、ぼんやりしていた自分を叱って急ぎ右に走った。
左後方からまた地面が抉り取られる爆音が轟く。鼓膜を破らんばかりのそれに舌打ちし、あれは反則だと、彼は丹田に意識を集めて高く跳び上がった。
鞘から刀身を抜かぬまま、上段に玄太刀を構えて振りぬく。
あの大きさならば、動きは鈍重に違いない。素早く背後に回り込んだ山本の一撃を、しかし犬は目にも留まらぬ速さで呆気なく躱した。
「あれ?」
空振りした両手に手応えは当然なく、ひゅっ、という乾いた音を残して消えた幻に山本は目を瞬いた。
「変幻、豹」
遅れて届いた犬の声、そして首筋を撫でた生温い空気に、山本は咄嗟に、振り向き様に顔の前で玄太刀を縦に掲げた。
ガッ、と衝撃が両手首から肘、肩に伝わって、人を押し潰そうとする力を、歯を食いしばって堪える。本能が感じ取った危険信号に従ったのが功を奏し、彼は眼前まで迫っていた踵からの一撃を打ち返した。
右手が痺れ、荒く息を吐いた山本は左手一本で刀を握り、中空でくるりと一回転して着地した犬を睨みつけた。
先ほどとはまた違う姿だ。今度は下半身のみを強化し、太股は三倍の容積を持って、膝から下は柔軟な獣の腱を構築していた。
あの脚で蹴り飛ばされたら、さぞや痛かろう。自分の直感を信じて良かったと冷や汗を流し、彼はあまりにも常識外れすぎる目の前の男に呆れ果てた。
今までにも色々な人間、及び人外と接してきたけれど、これはその中でも格段に珍妙な存在だ。確かに人間なのに、よくよく探ってみれば霊気に獣のそれが混ざりこんでいる。その特性を表に引っ張りだすことで肉体を変化させ、能力を発揮するといったところか。
高い霊力、ならびに獣に飲まれない強靭な精神が必要と思われた。こんな人間がいるのかと驚嘆すると同時に、敵に回すと確かに厄介だと、山本は滲み出る汗を拭って唾を吐いた。
腕の痺れは回復しつつあり、握っては広げ、感覚が戻っているのを確かめる。ちらりと横に目を向ければ、あちらも苦戦しているのか、獄寺が放っていると思しき紅蓮の影がぼっ、ぼっ、と現れては消えた。
雲雀の姿も探してみるが、逃げ回っている間に距離が出来てしまったのか、暗がりに紛れて分からなかった。
「あいつが、あんなになるなんてな」
雲雀の強さは、悔しいが認めるしかない。一度だけ彼を追い詰めたことがあるが、それは雲雀の中に封じられていた蛟の抵抗で彼が弱っている時だった。しかも山本は、最終的には彼に最後の一撃を叩き込めなかった。
闇よりも深く、光よりも鋭い彼の瞳に恐怖し、彼の中に存在する底知れぬ力に畏怖し、動けなかった。
綱吉の為と言いながら、彼を危険に晒した。その悔恨は、今も山本の中に深く根を下ろしている。
自分は彼らに赦された。しかし犯した罪自体が消えるわけではなく、己がしでかした過ちは一生背負って行かねばならない。その為にも彼は、此処でこの男達を食い止めなければならなかった。
二度と綱吉を危ない目に遭わせてはならない。あの子の命が危険に晒される事があってはならない。
「守るさ」
誓ったのだ、自分に。綱吉を、そして綱吉が最も大切に想う相手である雲雀をも、守り通せるだけの力を手に入れるのだと。
絶対に負けられない。強い意志を込めて眼前の異形を睨みつけた山本に、何が可笑しいのか犬は呵々と高い声で笑った。
「よわっちぃ人間なんざ、相手にしたってつまんねーからよ。抜けよ。そんでもって、ぐっちゃぐちゃに踏み潰してやるびょん」
気に障る語尾は、彼の癖なのだろう。安っぽい挑発を口にした犬が、鋭く尖らせた爪を持つ手で山本を招き、掛かって来いと誘いをかけてくる。
そうやって彼らは、罪も無い人々を殺めて来たのか。
背後に迫る火の手は弱まる気配を一向に見せず、豊かに実った穂をあっという間に灰に変えてしまった。父親の無事を一瞬だけ気にして、彼ならば難なく切り抜けてしまうだろうから案じる必要はないと、自分に言い聞かせる。
今何を押しても優先すべきは、目の前の敵を駆逐して、村を襲う脅威を取り払うことだ。
山本は二度、肩を上下させて呼吸を整えた。一方的に嬲られる趣味はなくて、そろそろ本気で相手になってやろうと、彼は薄い唇を舐めて不敵な笑みを浮かべた。