精霊火 第四夜(第二幕)

 ピシっ、と何かが罅割れる音が高く響く。
「来たか」
 山の中腹にひとり佇むディーノが、結界に走った亀裂とひずんでいく空間に舌打ちした。
 通常の人には見えないが、神格者たる彼の目には、その変化ははっきりと映し出されていた。
 山全体を覆っている油膜にも似た、虹色に変化を見せる薄い壁が、一箇所で引っ張られて膨張をしている。部分的に厚みを増して、侵入者を自動的に排除しようとする結界は、まるで石鹸水で作った泡が弾けるように、彼が見守る前で音を立て、数秒と経たず崩れ落ちた。
 虹の欠片が舞い散り、不可思議な彩を生み出してディーノの肩にも降り注ぐ。けれどこれを綺麗だと思っている余裕は、この瞬間を目にした全員が持ち得なかった。
 ディーノは心の動揺を抑え、静かに瞼を下ろし、虚空に意識を差し向けた。相手に悟られずに注意深く気配を飛ばし、真っ先に綱吉の現在地を探して奥歯をかみ締める。
 石段中腹を越えたところで彼は、足許を襲った激震に立っていられなくなり、両手を前に突っ張らせて四肢を支えていた。
「なに、なに?」
 地面が震えたと思ったが、どうにも感じが違う。彼は慌しく周囲を見回し、下方から骸が迫っていないのを確かめても安心できず、不安に胸を締め付けた。
 即座に起き上がり、今一度階下に目を凝らす。そうして接近する影がない事に今度こそ肩の力を抜き、乾いた唇を舐めて、いつ切ったのかも解らない傷の痛みに顔を顰めた。
 指で触れれば余計に痛みが増し、慌てて肘を引いて汗で湿った掌を腰に押し当てた。けれどそこも既に泥だらけで、汚れを拭い取るどころか範囲を広げてしまい、彼は苦い顔をして空から降る光の欠片に見入った。
「……結界、が」
 先ほどの地鳴りの意味を悟り、寒気を覚えて身を竦ませる。足音が聞こえた気がして、彼は下も見ずに慌てて石段に爪先を載せた。
 重い体を引きずり、上を目指す。奈々は無事なのか、雲雀は今どうなっているのか。置いてきてしまったフゥ太が今更に気になった。山本と獄寺の行方も知れない。京子とハルは大丈夫だろうか、村の様子は。
「燃えてる」
 ハッとして横を見て、綱吉は赤く染まる地平線に唖然となった。
 高い場所に来た所為で、余計にはっきりとその様が目に留まった。収穫間際の稲穂で黄金色に埋め尽くされていた並盛の里が、今や煉獄の炎に包まれて、何もかも灰になろうとしていた。
 無意識のうちに彼は遠くへ思いを飛ばしていた。そして耳が拾い上げた、本来は届くはずの無い村人の声を聞いてしまい、裏返った声で悲鳴を上げた。
 力が抜けて、山門が直ぐ其処に迫っているというのに動けない。膝が笑って、涙に濡れた目は瞬きを忘れて凍りついた。
 痛い。熱い。苦しい。死にたく無い。誰か水を。この子を助けて。怖い。怖い。怖い。死にたく無い、死にたく――
「いやだあ!」
 何十人という嘆きの声が、一斉に綱吉の脳裏で再生された。
 何故、どうしてこんなことになってしまったのか。何も解らないまま、ただ巻き込まれただけの村人が、罪もなく死んでいく。炎に焼かれ、或いは仲間と信じていた存在に打ちのめされ、儚い命を散らしていく。
 彼らは知らない。この騒動の意味を、理由を。
「俺が……ちがう、俺の所為じゃない。俺の、おれの所為じゃ」
「いいえ、君の為です」
 狼狽し、目が逸らせない村の変わり果てた姿に綱吉が否定の言葉を口走った。だけれど直ぐ間近で、骸の冷酷な宣告が下されて彼は硬直した。
 大粒の涙が頬を伝い落ちていく。拭い取る指は雲雀とは違っていて、皮膚再生の只中にあるからか凹凸激しく、熱を持って綱吉に不快感を齎した。
「っ!」
 咄嗟に両手を突き出して振り払い、綱吉は肩を丸めて身を庇いながら現れた男を睨みつけた。容易く気弱になる自分の心を戒め、大勢の命を狙った男の言葉など信じないと毅然とした態度で言い放つ。
 骸が笑った。
「なにがおかしい!」
「ああ、いいえ。どうです、綺麗だと思いませんか?」
 激高する綱吉をやんわりと窘め、彼は掌を上にして山裾に広がる盆地を示した。
 まるで彼の手の上で、村を飲み込もうとする炎が踊っているようにも映る。綱吉は目を見開き、そんなわけが無いと怒鳴り返した。
 唾さえ飛ばし、勢いのままに怒りを露にする彼に、骸は途端むっとして、へそを曲げた顔を作った。眉を僅かに吊り上げ、左右で色が異なる瞳に険を強める。言葉にはしないものの不愉快だといわんばかりの態度に、綱吉は負けるものかと奥歯を噛みしめた。
「僕は君を迎えに来たんですよ」
 骸が一段、階段を登る。綱吉は油断なく彼を睨みつけたまま、慎重に踵を持ち上げて、己もまたひとつ高い位置に体を移し変えた。
 山門まではあとわずか。山全体を覆う結界が破壊されたとはいえ、それは広範囲を防御するが故に強度も脆弱になってしまっていたからだ。此処から先は守るものの範囲が狭まっているため、相応に結界は強化されている。
 安全地域が近いと安心していた綱吉は、完全に忘れていた。以前、人の悪意に当てられて凶暴化したビアンキが、その沢田家の門を起点に発生する結界を破壊し、更には沢田家の血脈以外を拒むもう一段階上位の結界さえ潜り抜けた事実を。
「迎え? なに、それ。冗談じゃないよ、なんで、俺が」
「ああ、そういえば君は、まだあの男に縛られているのでしたね。折角君が思い残す事がないように、全てを燃やし尽くしてあげようというのに」
 昨日初めて顔を合わせた相手だ。そんな、知り合いとも呼べないような男に言われたところで、説得力などありはしない。そう声高に綱吉は叫ぶのに、骸は耳を貸す事無く自分に陶酔しているのか、やや大袈裟に両腕を広げて背後を彩る炎を包み込む仕草を取った。
 ぞっとする悪寒に襲われ、綱吉は二歩、急ぎ彼から離れた。
「クフフ。何処へ行こうというのです。君はもう、僕の腕の中に戻って来るより他ないというのに」
 まるで綱吉が過去、彼の腕に抱かれていたかのような骸の言い草に、綱吉は頬を片方引きつらせ、もう一段上に登ってから胸糞悪いと唾を吐いた。
 自分を抱き締めていいのは、雲雀だけだ。彼の腕の中が綱吉にとって最高の安らぎの場所であり、他の誰かで代用できるものではない。
 最愛の人を思い浮かべ、最後に視た血まみれで倒れ伏す姿に首を振る。手首にしっかりと絡みつく金色の鎖を確かめて、それが村に向かって一直線に伸びているのを目で追い、彼は最後にかぶりを振った。
「俺は、お前なんか知らない!」
 ありったけの声量で怒鳴り、綱吉は即座に方向転換を果たして瓦屋根のどっしりとした門目掛けて走った。
 中央の大扉は閉ざされているが、脇の通用門は開いたまま放置されていた。彼はその細い隙間に頭を低くして滑り込み、たいした意味は無いと知りながら扉を閉め、脇に立てかけてあった閂をはめ込もうとした。
 ただ直ぐそこにまで骸が迫っているかと思うと、焦りが生じ、手元を狂わせる。
「あいたっ」
 太い木材から飛び出ていた棘が右の中指に突き刺さり、綱吉は痛みに悲鳴を上げて両腕を横に広げた。掴んでいた閂は金具の上から飛び出し、彼の足元に落ちて一度だけ跳ねて止まった。
 門が影になり、視界は悪い。一瞬で見失ってしまった横木をどうしようか迷い、彼は地団太を踏んで慌てて袖を翻した。
 閂は諦め、一目散に駆け出す。
「ヒバリさん、ヒバリさん……ヒバリさん!」
 どうして助けに来てくれないのか、こんなにも呼んでいるのに。
 応答の無い伝心で、それでも必死に呼びかけを重ね、綱吉は灯りが消えて暗い自分の家を左右に見た。奈々はもう眠った後なのか、物音ひとつしなくて自分の心音ばかりが耳に痛い。
 カタカタと噛みあわない奥歯が擦れて音を立て、恐怖心が腹の奥底から這い上がって綱吉の足を掬う。もつれて転んだまま起き上がれなくて、襲って来た嘔吐感を堪えきれずに彼は胃の中身を吐き出した。
 しかし先ほど内容物はすべて吐いたばかりであり、涎と涙と鼻水とが混ざった黄色く濁った胃液が、乾いた地面を濡らしただけに終わった。
 それでも内臓は鳴動し、下から上へ突上げるように蠢いて彼を責めた。
「げほっ、げほっ……はっ、あぁぁぁ!」
 胸が焼ける痛みを発し、身体の内側から焦がされる。破裂寸前まで膨らんだ心臓が耳鳴りを呼び起こし、眩暈を引き連れて綱吉を暗がりへと誘い込んだ。
 苦しい。もう立てない。走れない。
「ヒバリさん。ヒバリさん、ヒバリさん、ヒバリさん」
 狂ったように名前を連呼し、綱吉は新たに流れた涙で頬を濡らした。
 早く。早く追いかけてきて。
 そう言ったではないか。約束したではないか。
 ずっと一緒に居ると、傍にいると。なにがあっても守ると、そう誓ったではないか。
 唇を噛み締めて彼はかぶりを振り、握り締めた拳で力任せに自分の腿を殴った。言う事を聞かない己の身体を叱り付け、禁足地の結界まで残り僅かな距離を睨み、萎縮する筋肉を鼓舞させた。
 荒い呼吸を繰り返し、気弱な自分を追い出して、綱吉は折れ曲がったままの膝を懸命に伸ばした。
 キィィィ……、と木の軋む音が、後ろから。
「っ!」
 前のめりの姿勢から崩れ、四つん這い状態になっていた綱吉がはっとして息を飲む。振り返った彼が見詰めた先には、赤黒い闇夜を背景に聳える瓦屋根の門が、さながら地獄への入り口の如く構えていた。
 恐怖心に苛まれ、あげそうになった悲鳴をすんでの所で堪える。血が滲むまで唇に牙をつきたてた彼は、着物が汚れるのも構わずに身体を反転させた。尻を地面に押し当て、両手両足を使ってじりじりと後退する。後には彼が這った浅い溝が残され、転がっていた小石に刺された右の掌がちくりと痛んだ。
 閂を嵌め損ねた通用口が、瞠目する彼の前でゆっくりと開かれようとしている。蝶番の錆びた音がこの距離でもはっきりと聞こえ、動きに合わせるように、天を焦がす鈍い鉛色の炎が揺れ動いた。
 声も出せず、カタカタと奥歯を鳴らして綱吉は心臓を竦ませた。来るな、そう切に願うけれど、祈りが届かないことを彼は直感的に悟っていた。
「ヒバリさん、ヒバリさん、ヒバリさん、ヒバリさん、ヒバリさん」
 最愛の人の名前を、身を守る呪文として繰り返し音に刻み、小刻みに震える身体を抱き締める。体内を駆け巡る血液は煮え滾っているに関わらず、寒くて仕方が無かった。
 腕をさすって摩擦熱を呼び起こす。このまま磨耗して、自分自身を消してしまえたら、あいつから逃げ切れるだろうか。そんな事をちらりと脳裏で思い浮かべ、綱吉はもっと距離を稼ごうと踵を踏ん張らせて曲げた膝を伸ばした。
 腰が後ろに押し出され、伸びきった脚を急ぎ胸元に戻す。同じ作業を三度終え、四度目に取り掛かろうとしたところで、ただ揺らぐだけだった木戸が少しずつ空間を広げた。
「ひっ――」
 蜻蛉が宙を泳ぐように、ただゆらゆらと前後に波打っていただけのそれが、明確な意思の下、開かれる。
 そこから姿を現すであろう男を脳裏に呼び起こし、綱吉は喉を引き攣らせた。頬が硬直し、閉じるのを忘れた瞼が限界ぎりぎりまで見開かれる。
 瞳孔も開いた彼が息を呑む中、カタン、と軽やかな音色をひとつ残し、戸は門に対し九十度のところで停止した。
 後に残るのは虚無、そして不気味なまでの静寂。
 誰もいない。
「……え」
 居ると思い込んでいた姿は何処にも見当たらず、綱吉は暗闇にぽっかり開いた戸口を呆然と見詰めた。目を凝らし、後ろに傾いていた上半身を乗り出して瞬きを連続させるものの、景色は全く変わらなかった。
 呆気に取られた綱吉が、無意識に乾いた唇を舐める。じわじわ広がる感情は、安堵だった。
 結界に阻まれて入れないに違いない。やっと諦めてくれたか。
 そんなわけがない、と頭の片隅で警句は発せられ続けるのに、緊張の極限から自らを解き放った彼は、目先の安心感に溺れてその警鐘を無視した。
 胸を撫で下ろし、ばくばくと喧しく鳴り響いていた心臓を宥める。良かった、と声にならない声で呟いた彼は、今頃になって掌の痛みを思い出して肘を引いた。
 砂まみれのそれを顔の前に掲げ、怪我がそれひとつきりではないのを見て肩を落とす。その先で。
 ピシっ、と何かに罅が入る音が高く、高く。
「…………」
 弛緩しきっていた綱吉の心を、打ち砕いた。
 ズドォォォォォォォォォ!!!!
 爆風、そして炸裂音。
「――――!」
 咄嗟に右腕で顔を庇った綱吉だが、前方から地上を舐めるようにして吹きぬけた暴風に煽られ、踏ん張るだけの体力を残していなかった華奢な体躯は呆気なく飛ばされた。
 直撃を受けた上半身が仰け反り、裏返って足が跳ね上がる。ひっくり返ったところをまた下から攫われて、彼は飛んできた無数の木片に全身を傷つけられ、もみくちゃにされながら背中から地面に落ちた。
 弾みはせず、押し流されて止まる。衝撃で目の前に星が散り、一瞬ではあったが意識を飛ばした綱吉は、二秒後に頭に直撃した木材によって意識を覚醒させた。仰向けの状態から身を起こし、濛々と立ち込める土煙に視線を向ける。
 聴覚が麻痺し、三半規管も狂った。頭がくらりと来て、起こしたばかりの身体がまた沈みそうになったのを耐え、左手でこめかみから頬の一帯を支えて乱れた呼吸を整える。埃っぽい空気に何度か咳き込み、緩やかに晴れていく闇色の風景に、一度は落ち着こうとしていた彼の心は騒然となった。
 慄き、恐怖し、綱吉は嫌々と首を振った。しゃがみ込んだまま後退しようとするが、未だ爆風に跳ね飛ばされた衝撃は抜けきらず、思う通りにならなかった。
 先ほど座っていた場所から、一瞬で二丈以上も移動していた。周辺には木っ端微塵に砕かれた木材が山積みになり、折れ曲がった金属や屋根瓦の残骸も紛れ込む。
 数分前までそれらが何処にあったのか、何を構成していたものか。浅い呼吸を繰り返して胸を抱き締めた綱吉は、信じ難い光景に涙を新たにし、いやだ、と掠れた声で呻いた。
 どうやればあんな風に、堂々と建っていた巨大な門を破壊できるのか。到底人間業とは思えぬ様をまざまざと見せ付けられ、綱吉は闇夜に散る虹色の、木っ端微塵に砕かれた結界の破片に慟哭した。
 薄れ行く煙の中に、あの男が立っている。六道骸、そう名乗った男が。
 綱吉を迎えに来たと嘯き、村を焼いた男が。
「来るなっ」
 どこかで火の手が上がる音がする。涙で滲む世界に慌しく視線を走らせた彼は、骸が歩く度にまるで花が咲くように、彼の足元から火の手が上がるのを見た。
 今や彼らの周囲には、燃えるに適した素材が無数に散乱している。更に此処沢田家は緑に囲まれ、奈々が眠っている母屋や綱吉たちの褥のある離れ、そして道場もまた、木造建築物だ。
 村を飲み込む炎は、まだ北側にある山の周囲にまでは届いていない。しかしこのままでは、安全と思われたこの屋敷が危険に晒されてしまう。
 蹲ったまま、綱吉は迫る骸の足元を凝視した。ぱっと鮮やかに咲く赤い花が、瞬時に禍々しい色に変容して綱吉の瞳を焦がす。
「いやだ、止めろ……止めて、御願いだからっ」
 声が震える。涙が止まらない。
 誰か助けて。お願い、早く。
 早く。
 誰か。
 手首を包む金の鎖が重い。実体の無いそれが、じゃらりと音を立てた気がした。
 綱吉と雲雀を繋ぐ、絆。しかしそれは、綱吉が雲雀の力を制御し、束縛する枷と同義だった。
 雲雀はまだ来ない。近付いてくる感じもしない。彼は苦戦している、綱吉を守る為に。
 彼が思うように戦えないのは、綱吉の所為だ。綱吉が彼の力を封じているからだ。
 矛盾している。守るべき存在に縛られ、雲雀は力の大半を行使できない。だけれど綱吉は、この鎖を手放そうとしなかった。
 自分の傲慢さが、雲雀を苦しめ傷つける。綱吉自身にも痛苦は返ってくる。無関係の人たちを大勢巻き込んで、それなのに綱吉はまだ、自分たちの関係に縋り、固執していた。
 雲雀に執着していた。
「いやだ……くるな、くるなぁ!」
「クフフ。何をそんなに怖がることがあるのです、僕と来れば、君は永遠の安寧を約束されるというのに」
「要らない。そんなもの、欲しくないっ」
 両手を広げ、典雅に振舞う骸の声を拒絶し、綱吉はずるずると後退した。
 骸の足が、門の柱だった太い木を踏み潰す。彼が触れた場所から火の手が舞い上がり、地を舐める。次々に炎の花が咲き、沢田の屋敷の庭が赤く染め上がる。
 息を吐くばかりで、吸う回数を極端に減らした綱吉は、何かに乗り上げて大仰に驚いた。
 臀部に遅れて手が触れたものは、吹き飛ばされた井戸の桶だった。軽かったお陰で破壊は免れたものの、釣瓶に繋がれていた縄は千切れて繊維を穴に残すのみとなっている。中は乾き、水の代わりに砂が入っていた。
 彼が触れたことで横にごろん、と転がったその形にホッと息を吐く。後ろを確認する余裕すら残されていなかったので、何にぶつかったのか分からなかった綱吉は、自分に危害を加えるものではなかったと知って胸を撫で下ろした。
 今日だけでどれだけ寿命が縮まったことか。軋む心臓を肉の上から撫で、苦い唾を飲んで綱吉はふらつく身体をどうにか起こした。
 直ぐに折れそうになる膝を奮い立たせ、苦痛に喘ぎながらも懸命に立ち上がる。
「おやおや」
「俺は……お前なんかと一緒にいかない。お前なんか、ヒバリさんが吹っ飛ばしてくれるに決まってるんだから」
「その彼は、ならどうして、君を助けに来ないのです?」
 色鮮やかな赤を背負い、骸が陰惨な笑顔を浮かべて綱吉に問うた。瞬間、その答を探し続けている綱吉が瞠目し、声を失って立ち尽くす。右膝が笑って、体重がそちらに傾いた。
 慌てて沈みかけた下半身を立て直し、重い頭をぐらぐらさせながらも踏ん張りを利かせて背筋を伸ばす。ただ動揺は目に見えて明らかで、不敵に笑う骸に綱吉は何も言い返すことが出来なかった。
 直ぐに追いつくと言っていたくせに、もうそれなりに時間が過ぎていながら雲雀は姿を現さない。助けに来ない。
 絶望の帳が綱吉の前に舞い降りて、彼の視界を曇らせる。わなわなと震える唇は色をなくし、溢れた涙は埃まみれの頬に白い筋を生み出した。
 呼吸の間隔が段々と短くなり、胸の鼓動は速くなる。心に打ち付けられた言葉の釘を抜き取るのは難しく、綱吉は弱々しく首を振り、緩く握った拳を両目の上に押し当てた。
 綱吉が骸の凶刃を弾き返せたのは、雲雀の守護が働いたからだ。彼が預けて行った鱗は、その時砕けてしまった。
 骸の放つ憎悪をまともに食らった龍の鱗は、四散して主のもとに帰る――祓い切れなかった悪意と共に。
 血を噴き、倒れる雲雀の姿が一瞬だけ見えた。封印の鎖が健在である以上、彼の命がまだ地上に留まっているのは疑いようの無い事実だけれど、手負いの彼が進路を塞ぐ敵を駆逐し、綱吉の救済に駆けつけられる可能性は、限りなく低い。
 それでも雲雀が嘘を言うわけがないと、綱吉は信じている。彼の言葉は絶対であり、覆されてはいけないのだ。
「来るよ、絶対。これから、これから来るんだ!」
「来ませんよ」
「ヒバリさんは来てくれる」
「来られませんよ」
 綱吉の懸命の声を軽くあしらい、揚げ足を取って骸は歩を進める。少しずつ狭まる彼との距離に、綱吉は鳴動する心臓を抱き締めて右の踵を浮かせた。
 ちりりと、首の後ろの産毛が熱に煽られる。炎はじわりじわり範囲を広げ、母屋に迫りつつあった。
 奈々が騒ぎに気付いて起き出してくる気配もない。ひょっとすれば既に避難を完了させているのかと、淡い期待を抱くものの、確証が得られない以上綱吉が安心するにはまだ早かった。
 沢田家の守護者であるリボーンは、いったいどこに行ったのか。こんなことになっているのに、顔さえ見せないあの気まぐれな赤ん坊にも怒りを覚え、綱吉は歯軋りして骸に気を吐いた。
「絶対に来る」
 体力は既に尽き、自身を支える意地も挫かれつつある。彼に残されたものは、最早雲雀への一途過ぎる思いだけだった。
「ヒバリさんは、ヒバリさんは、俺との約束は絶対破らない!」
 涙を振り払い、綱吉は叫んだ。
 姿勢を低くし、其処に転がったままだった桶を掴む。ろくに構えもせぬまま、彼はそれを骸目掛けて放り投げた。
 こんなもので彼を打ち倒せるとは流石に思わない。だけれど、綱吉自身が見せた初めての抵抗に、骸は僅かに驚きを露にした。
 避けるのは問題ない。だけれど彼が足を止めた瞬間、綱吉は搾り出した最後の力を使って地面を蹴った。身体を反転させ、あと少しのところまで来ていた結界石に向かって走り出す。
 奈々、獄寺たちの無事は祈るしかない。山に行けばきっとなんとかなると、根拠の無い希望に縋って彼はふたつ並ぶ石の間に張られた注連縄を飛び越えた。
 舞い上がった綱吉の耳に、キーン、というか細い糸が震えるような音が響く。それまで熱せられ、埃っぽかった空気が瞬時に冴え渡り、凛として引き締められた冷気が彼の肺胞を刺激した。
 急な変化に身体がおっかなびっくり反応して、着地と同時に彼はその場にしゃがみ込んだ。胸郭に両手を添えて咳き込み、唇を伝った生温い感触に驚いて指を這わす。
 鼻血が出ていた。
「うぅ」
 滴り落ちる赤い血液に眉根を寄せ、彼は嫌そうに唇を歪めた。既に見苦しさも限界の状態に陥っているというのに、これが一番格好悪く感じられて、綱吉は汚れた袖で構わず鼻の下を拭った。
 苔生す石段は暗い。しかしこの闇は、村を襲っている黒々しく嫌な気配とは、確実に趣が異なっていた。
 肩を大きく上下させ、一直線に伸びる細い道を見上げた綱吉は、今し方越えたばかりの境界線に身体ごと向き直った。
 一見なにもない空間に、常人の目には決して見えない薄い膜が張られている。いや、それを膜と表現するには少々語弊があろうが、兎も角綱吉が跨いだ注連縄のある地点を区切りとして、こちら側とあちら側では、世界は大きく違っていた。
 音を立てて息を吸い、吐き、綱吉は一気に押し寄せてきた疲れに押し潰され、ついに力尽きた。両足を投げ出し、ぐったりと背中を丸めて、汚れの所為で濁った汗を気持ち悪そうに振り払う。
 それまでとは明らかに違うひんやりとした空気に、こびり付いていた数多の悪意という穢れを祓い落として、彼は勝利を確信した笑みを口元に浮かべた。
 見下ろした先に佇む骸は、結界石の手前でじっと綱吉を見詰めていた。
 そこから先に立ち入れるのは、神格の持ち主か、もしくは土地に認められた血筋の人間だけ。獄寺も山本さえも立ち入ることが叶わなかった場所に、悪霊にも等しい憎悪の塊である骸が踏み込めるわけがない。
 そう、綱吉は疑いもせずに信じた。
 後はここでじっとして、雲雀が来るのを待つだけでいい。そのはずだった。
 だのに骸は、綱吉が嬉しそうにするのを、滑稽だと嗤い飛ばした。
「クフフ、クハハハハ。それで助かったとでも思っているのですか、君は。そんな事まで忘れてしまったのですか」
「な、に」
「残念です、本当に覚えていないのですね。僕も君と同じ、……蛤蜊本家の末裔だということを」
 不気味に、そして厳かに笑んだ骸の言葉に、綱吉は一瞬何を言われたのか理解出来ず、きょとんとしてしまった。