楼蘭

 その場所を訪ねた時、あまりにも記憶にある景色と瓜二つで驚かされた。
 いや、そもそも同じ場所なのだから、この表現はおかしかろう。そう、十年経っても並盛町の沢田家は、相変わらず同じ場所に、同じ姿のまま佇んでいた。
 勿論、違っている部分は探せばいくらでもある。庭に植えられていた木の背丈が伸びて、花壇の配置も変わっていた。斜め向かいの家の表札が取り替えられて、二軒隣は立て替えられていた。
 門扉はペンキが塗り直されていた。郵便受けも、以前と違っている。庭先の物干し竿は本数が減って、カーテンは初めて見る色と柄だった。
 だけれど、表札に記された「沢田」という二文字と、陽射しを受けて穏やかに微笑む外観は、あの頃のままだ。十年が過ぎているとは、教えられていなければとても思えない。
「……うちだ」
 感慨深く呟き、綱吉は今し方自分が通り抜けた門扉を振り返った。すぐ脇の郵便受けを覗き込み、蓋を開ける。途端、長期間の家人の不在を教えるかの如く、ガサガサと音を立てて沢山のチラシが雪崩を起こした。
 伸びた芝生に山を成したそれらを見下ろし、彼は苦笑の末膝を折った。一枚ずつ拾い、処分に困って胸に抱えたまま右往左往する。
 アジトに持って帰るわけにもいくまい、自分が此処を訪ねているのは、リボーンにさえ言っていないのだから。彼は数秒悩み、結局元通りになるよう郵便受けに押し込んで蓋をした。
「母さん」
 小さな木の取っ手に左手を置き、その上に額を押し当てる。瞼を閉ざせば優しい奈々の笑顔が浮かび、消えていった。
 家光とふたり、イタリア旅行に出向いて以後の行方は、依然として不明だ。生きていてさえくれればいい、家光と一緒なのだからきっと大丈夫。心に強く念じ、父親を信じて彼はかぶりを振って顔を上げた。
 門を閉め、玄関へと向かう。一段高くなっているポーチを跨いで登り、玄関を開けようとドアノブに手を伸ばしかけたところで、
「あ、そっか」
 鍵が無い事を思い出し、綱吉は慌てて肘を引っ込めた。
 十年後世界へ飛ばされた時、彼は自分の部屋にいた。靴さえ履いていなかった彼が、自宅の鍵をポケットに押し込んでいるわけがなかった。
「えっと」
 その事実を知りながら、それでも彼は自分のズボンを叩いた。持ち物が先日手に入れたばかりの大空属性の匣とイクスグローブくらいなのはご愛嬌で、不自然な膨らみを胸の辺りで確かめてから、彼は折角登ったばかりのポーチを折り、建物に添って裏手に回り込んだ。
 物干し竿の前を行き過ぎ、隣家と敷地を区切るブロック塀と家屋の間の狭い空間に身を滑らせる。そこから更に少し進んだところに、小さな狸の置物があった。
「変わってないかな」
 自信なさげに呟いて、綱吉は蹲った。陶器の置物に手を伸ばし、頭部に張り付いていた枯葉を払い除けた後、おもむろに鷲掴みにして右に捻る。
 指先にカチリと微かな震動が伝わり、狸の頭は見事胴体から分離を果たした。
「あった」
 中を覗き込めば空洞で、底に銀色に光るものがあった。手を入れて探り、取り出して顔の前に掲げて眺める。鍵は、十年前と少し形状が違っていた。
「む……」
 唇を尖らせて表情を曇らせ、綱吉は狸の首を戻して立ち上がった。手に入れた自分の知らない鍵を握り、玄関へ駆け足で戻って鍵穴に差し込む。緊張の一瞬、息を呑んで右に回せば、予想外に呆気なく、錠は外れた。
 十年経ってもセキュリティ部門はさほど進化していなかったのか。銀色の鍵を引き抜き、綱吉はノブを力強く握ってドアを引いた。手応えがさほどないままに、十年ぶりの――実際は一ヶ月程度ぶりの――我が家へ、彼は足を踏み込んだ。
 シンと静まり返った内部に、涙が出そうになった。
「……た」
 ただいま、と言いたかったのに、最初の一音で鼻が詰まった。吐き出そうとしていた息は喉に引っかかり、そこから先に進まない。
 代わりに嗚咽が漏れて、照明の灯らない薄暗い内部に、彼は瞠目した。
 空気は埃っぽく、少し湿っていた。
 背中でドアが閉まる音を聞き、それで我に返る。ハッとした彼は外からの光を遮断したこげ茶色のドアを見上げ、頬に伝った温かなものに目を見張った。
 人の気配はしない。誰かが最近、訪ねた感じもまるでしなかった。
「ただ、い――」
『おかえり、ツナ。遅かったわね、どこまで行ってたの』
 袖で雑に涙を拭い、鼻を鳴らして息を整えてもう一度やり直そうと試みる。間取りもなにも変わっていない、目に馴染んだ景色に向かって叫ぼうとして、半透明な幻を其処に見て彼はまた、呼吸を忘れて立ちつくした。
 台所の暖簾を押し上げ、エプロンをした奈々が姿を表す。そして綱吉を見て微笑み、消えた。
 彼女がいた場所に今度はランボが駆けて来て、追いかけるイーピンが続いて現れる。綱吉はどたばたと喧しい足音に表情を綻ばせようとして、失敗した。
 静まり返った空間、生活の息吹が途絶えた一軒屋。
 綱吉は靴を脱いだ。自分の家のはずなのに、初めて訪ねる他人の家のような錯覚を覚え、薄汚れたスニーカーを行儀良く揃えて端に並べてしまう。
 玄関マットも、知らない柄だ。靴箱の上の花瓶は空っぽだった。扉を開けて中を覗いてみると、子供達の靴でぎゅうぎゅう詰めだったのが嘘のように、隙間だらけでスカスカだった。
「俺の、……ないや」
 簡単に見回して、彼は戸を閉めた。
 乾いた音が一度だけ響き、直ぐに消える。余韻は頭の中にだけ残されて、彼はふらふらと、冷えた廊下を進んだ。
 階段横を素通りし、先ずは台所へ。色の抜けた古めかしい暖簾を押し上げて中に入れば、フライパン片手に菜箸を握った奈々が、綱吉に気付いて振り向いた。
『ごめんねー、もうちょっと待って』
「うん、分かった」
 返事をして、はたと我に返る。誰も居ない空間を前にして数秒呆然とし、綱吉は握った拳を震わせて唇を噛んだ。
 子供たちの騒ぎ声が聞こえる気がするのに、瞬きをして息を吐くと、もう聞こえない。幻惑に囚われた気分になって、彼は五月蝿く足音を響かせてリビングに繋がる戸を引いた。
 炬燵が置かれ、ビアンキが座っている。長い脚を反対側まで突き出して、読んでいた雑誌から顔を上げた。
 まだ少女の面影を微かに残す顔で、
『残念、満員よ』
 はみ出した自分の足を揺らし、悪戯っぽく笑ってみせる。隣にはリボーンがいて、蜜柑を剥きながらテレビを相手に皮肉な笑みを浮かべていた。
 それも、瞬きをひとつする間に掻き消えて、霧散した。
「あああ……」
 待ってくれ。そう叫んで手を伸ばすのに、届かない。綱吉の指先が触れる直前に景色は一瞬で切り替わり、何の変哲も無いリビングの、埃が積もったテーブルが彼の行く手を阻んだ。
 行き場を失った右手が、力なく戻される。服の上から左胸に爪を立て、彼は俯いて新たに浮かんだ涙を頬に流した。
「っ」
 どうして来てしまったのだろう、ひとり誰にも告げずに。
 来なければ良かった、誰も居ないことは分かっていた筈なのに。
「母さん!」
 京子とハルを外に連れて行くその護衛の最中、ふと過ぎった自宅を見たいという願い。ビアンキに言われなければ、思いもしなかったに違いない。
 少女らを獄寺、山本たちに預け、忘れ物をしたという言い訳でひとりだけ集団を離れた。単独行動は避けるようにきつく言われているし、浅はかな行動だとは自覚している。けれど一度気になり始めると止まらなくて、ちょっとだけでも、という欲求は時間を経るごとに増して止められなかった。
「母さん、父さん!」
 台所を経由して廊下に出て、声の限り叫ぶ。奈々を、家光を呼んで彼はボロボロと涙を零した。
 返事は無い。動くものもない。
 広いこの家で、限りなく綱吉はひとりぼっちだった。
 反響して消えていく己の声に絶望し、彼は琥珀の瞳を濡らして膝を折った。
 床板は冷たく、此処にも薄ら埃が積もっていた。奈々は清潔好きで、まめに掃除もしていたから、彼女がいる時は家がこんな状況になることなんてなかった。
 それだけ長期間、彼女が此処に帰って居ない証拠だ。その事実を改めて思い知らされ、彼は声を殺して泣き崩れた。
「嫌だ。いやだ……母さん、かあさん!」
 返事をして欲しい。誰か、誰でもいい。自分を此処から連れ出してくれ。
 涙の痕を廊下に刻み、小さな池を幾つも作り出すが彼の肩を叩く人などいるわけもなく。早く戻らなければ仲間に余計な心配を掛けると分かっていながらも、綱吉は自力で立ち上がることが出来なかった。
 地に響く慟哭に、何度も床を拳で殴る。悔しいのか、哀しいのか、寂しいのかも解らないまま、彼はただの子供に帰り、泣き続けた。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。平和に、のんびりと、優しい家族に囲まれて、静かに暮らしていただけなのに。
 どこで歯車が狂ったのだろう、何故狂わされてしまったのだろう。大好きな人と一緒に、穏やかで平凡な、退屈だけれどとても幸せな時間を過ごしていたかっただけなのに。
「やだ、嫌だ……帰してよ。俺を、元の時間に帰してよ!」
 あと九日足らずで、また戦いが始まる。終わると思って信じていたものがただの前哨戦でしかなくて、しかもあんなに苦しんだのに、まだその何倍も辛い思いをしなければならないのかと考えると、気が狂いそうだった。
 本当は戦いたくなどない。どんなに憎い相手でも、殴り合いの勝負をする以外の道はあるはずだと、まだ心のどこかで思っている。
 綱吉はゆらりと体を揺らめかせ、上半身を起こした。涙で滲む景色に呆然と見入り、鼻を啜って口で息をして、手の甲で雑に目元を拭った。
 首を振り、濡れた両手で頬を叩く。ぱしん、と痛い音が響いて、もうひとつ流れた涙を今度は袖に吸わせて彼は立ちあがった。
「うぁ」
 しかし足がもつれ、右に体が流れた。ふらついて階段を支える壁に肩をぶつけ、その流れで上を見る。窓の配置の所為か、この周辺だけは他に比べて僅かながら明るかった。
 二階は、奈々と家光の寝室。そして。
「俺の部屋」
 どうなっているのだろう。
 リボーンにはあまり未来の情報を手に入れるべきではないと言われ、調べるのも止められていた。しかし好奇心が勝り、家庭教師の忠言も忘れて、彼は頼りない足取りで壁伝いに進み、階段に一歩を踏み出した。
 靴下の裏で感触を確かめながら、一段ずつゆっくり登っていく。時間をかけ、駆け出したい気持ちを懸命に押し殺し、高まる鼓動に胸を弾ませ、此処に来て初めて興奮に頬を染めて、彼は到達した二階の角を曲がった。
 覚えのある配置、何ひとつ十年前と変わらない光景。
「俺の、部屋」
 上擦った声で呟き、綱吉は弾む心臓を撫でて呼吸を整えた。
 十年後の自分の姿などなにひとつ思い浮かばない。どんな生活を送っていたか、さっぱり不明だ。だからこそ興味がある、知りたいと彼は強く願った。
 深呼吸を二回、そして足を前へ。階下と同じく埃が目立つ廊下を足音忍ばせて歩み、沈黙する扉の前で立ち止まる。
「…………」
 ごくりと喉を鳴らして唾を飲み、
「――えいっ」
 気合の声と共に、ドアノブを回した。
 開かれた空間に頭から飛び込み、閉ざした瞼を恐る恐る持ち上げる。社会人として成熟した生活を送る場を想像していた彼は、しかし思いに反してがらんどうの、隙間だらけの室内に声を失った。
 玄関の靴箱を思い出す。部屋の中には、家具らしい家具は残されていなかった。
「え……?」
 茫然自失とし、綱吉は半開きのドアに体を挟まれた。背中からぶつかってきた戸板に押し出される格好で、力の入らない足を前に繰り出す。じゃり、という感触がして、下を向けばどこから紛れ込んだのか砂が散っていた。
 机があった場所には大き目の棚、ベッドがあった場所には段ボール。テレビがあった位置には何も無く、窓のカーテンさえ取り払われて外が丸見えだった。
 これはどういう事か。状況が理解出来ず、綱吉は大きな目を限界まで広げ、動悸の激しさから眩暈を起こし、閉まりきっていなかったドアに向かって後退した。
 膝が笑い、ドアが後ろへ揺らぐと同時にカクン、と折れた。今度は後頭部をドアに殴られるが、痛みを感じている精神的余裕すらなかった。
「なん、で?」
 掠れる声で自問するが、答えは得られない。十年前には綱吉の私室だった場所が、物置と化している。その事実だけが、残酷に彼の前に広がっていた。
 腰をぺたんと落として座り込み、日が差し込んでいるので明るく、温かい空気に触れて綱吉は涙を新たにした。最早泣き声を張り上げる気力さえなく、逆に乾いた笑いが腹の底から迫りあがってきた。
「は、はは……はは」
 右手で蜂蜜色の髪の毛を掻き毟り、抑揚乏しいままにただ、笑う。それしか、今の彼に出来ることはなかった。
 マフィアの十代目を継いだ沢田綱吉が、いつまでも実家である此処を拠点にしているわけがない。少し考えれば分かることだ。だけれどその判断力が今の綱吉には欠けていて、彼はたださめざめと涙を流した。
 その後いったいどうしたのか、気がつけば彼は玄関に戻っていて、脚を三角に折り畳んで膝を抱き、座っていた。いつ部屋を出て、どうやって階段を降りて来たかも、記憶にない。
 涙は枯れて、もう流れない。瞼を開けているのも億劫で、目を閉じて額は膝頭に預けて背中を丸めていた。
 鼻をずくずく鳴らして上がり框に座り込み、ジッとしてさっきから指先一本動かそうとしない。自分が石になってしまった錯覚すら胸に抱いて、彼は頭の片隅で笑った。
 いい加減アジトに戻らなければ、本格的に仲間が心配する。ただでさえ疲れている彼らを、これ以上酷使するのは正直言って心苦しい。
 分かっている、こんなところにひとりでいるのが危険だという事は。
 いくら周囲に敵の反応がなくなったとはいえ、相手はあの白蘭だ、油断できない。そうでなくともこんな精神状態では、綱吉はろくに戦えない。
 息苦しさから俯いたまま首を振り、持ち上げた瞼の向こうに自分の脚を見て彼は下唇をきつく噛み締めた。
 こんなところで待っていても、奈々が帰って来る保証はない。むしろ帰ってこない可能性のほうがずっと高いのも、理解している。それでも動けない、立ちあがれない。
 アジトに帰りたくない。
 だってここは、――ここが、綱吉の帰る場所なのだから。
 綱吉が帰りたい場所なのだから。
「うっ……」
 だのに彼のベッドも、机も、テレビも、箪笥も、何もかもが消え失せていた。綱吉の居場所は此処に無かった。
 帰るのだと決めていた場所にはもう、綱吉の居るべき場所が失われていた。
「やだよ」
 こんなのは嘘だ。悪い冗談だ。そう言えたなら、どんなにか幸せだったろうか。
「母さん、父さん!」
 掌をぎゅっと握り締め、皮膚に食い込む爪の痛みで此処が現実だと思い知らされる。とっくに尽きたと思っていた涙はまたじんわりと目尻に浮かび、顔を歪めた彼は慌てて両手で目元を覆い隠した。
 ガシャン、と何かがぶつかり合う音が響く。
「っ!」
 彼は腰を上げた。
 それは門を開ける音。誰かが帰って来た、他ならぬ証拠だ。
 こんなタイミングで、ありえない。しかし奇跡は起こるべくして起きるものだと、弾んだ心が彼を後押しした。
 彼は目を輝かせ、喜びを全面に押し出して笑みを作った。沈みきっていた鼓動を跳ね上げ、靴も履かずに玄関に降りる。鍵をかけていなかったドアを全力で押し開き、外へと飛び出した。
「かっ――」
「でねー、聞いてよ」
「はいはい、後でね」
 大声で叫ぼうとして、出鼻を挫く格好で聞こえて来た女性と少女の会話。それは綱吉の前方ではなく、左方向から流れてきた。
 何気ない日常に些細な幸せを得る、少し前までの綱吉が繰り返していたのと同じ光景が、そこにあった。たった塀一枚で遮られた向こう側には、綱吉が最早どれだけ望んでも手に入らない生き方がある。伸ばした手は虚しく空を掻き、彼の胸元に戻された。
 俯き、ドアに右手を残したまま項垂れる。崩れていく体はどうしようもなく、綱吉は更なる絶望の縁に追い遣られ、自力で這い上がるのを諦めようとしていた。
 十年という歳月を思う。泣く為に此処に来たのではないのに、それしかする事が無い。
「帰りたいよ」
 あの頃へ。あの時間へ。
 まだ無邪気に笑い合っていられた頃の自分へ。
 ドアを閉め、そこに背中を預ける。尻が冷たかったが、感覚は麻痺して直ぐに分からなくなった。
 ガタゴトという物音が聞こえたが、それもきっと隣家の立てたものだと決め込む。顔を上げる気にすらなれず、期待するだけ無駄だと彼は自嘲気味に口元を歪めて笑った。
「ねえ」
 幻聴まで聞こえて、いよいよ自分はお終いかと彼は喉をクッと鳴らした。
 これは雲雀の声だ。そういえば彼は群れるのを嫌い、ふらっと何処かへ消えてしまったが、十年後の世界に戸惑っていやしないだろうか。案外彼のことだから、どんな状況でも巧くやっていけるかもしれないが。
 原始人の世界に放り込まれても、平然としていそうな彼を想像したら可笑しくて、声を立てて笑おうとして失敗する。ただ肩は震えて、また声が降って来た。
「寝てるの?」
「起きてますよー」
 この幻聴は、どうやら今まで聞いた中でも上級なものに入るらしい。ワケが解らない思考で納得し、綱吉は今度こそケラケラと笑って顔を上げた。
 そしてそこに、二本の脚を見た。
 黒いスラックス、その上には白いシャツ。黒い学生服を羽織り、腕の通らない袖には臙脂色の腕章。記される文字は、風紀の二文字。
 冴え冴えとした黒い瞳が、影になっていてもはっきりと見て取れる。艶やかな黒髪は少し長めで、前髪が額の中心に寄っている。不機嫌に歪められた唇は鮮やかな紅色で、整った鼻梁が彼の端正な顔立ちをより強調していた。
 しゃがんでいる綱吉に覆い被さるように、左手を玄関のドアに寄せて真下を覗き込んでいる。学生服の裾が綱吉の髪に擦れた。裏地の緋色は、まるで夕焼けのようだった。
「……え?」
「うん、起きてるね。それなのに僕を無視するなんて、良い度胸だね、君」
「はい?」
 状況の理解が追いつかない。目を丸くし、素っ頓狂な声を出して、綱吉はこれ以上下がれないと知りながら、後退を試みて肩をドアに押し当てた。
 前方は雲雀に塞がれ、左右に逃げようにも此処は狭い玄関。後ろへは、ドアを開ければ行けないことも無いが、今開けると寄り掛かっている雲雀もバランスを崩して綱吉の上に落ちてくるだろう。
「あれ?」
「聞いてるの?」
「ってか、なんでヒバリさんが?」
 どの道突破口は用意されていない。逆境に追い込まれた故の開き直りの精神が、却って綱吉を冷静にさせた。
 降って沸いた疑問を口にすれば、雲雀の唇が益々への字に曲がった。機嫌の悪さを隠さない彼を指差して、綱吉はアジトに一緒に戻らなかった彼の行方を思い出そうとし、草壁を探して視線を泳がせた。
 だが第三者の影はなく、此処には綱吉と雲雀だけ。
 問いかけには長い時間返事が無く、雲雀は考え込む様子で眉間に皺を寄せた。人差し指を引っ込めて手を握り、膝に下ろした綱吉がおや? と心の中で首を傾げる。やがて彼は、上を向き続けるのに疲れた綱吉の首の動きに合わせ、ドアから手を離し、ストン、と腰を落とした。
 完全にしゃがみ込まず、尻は宙に浮かせて座る。視線の高さが揃って、綱吉はホッとしつつ、間近から覗き込んでくる黒い瞳に心臓を高鳴らせた。
「ヒバリさん?」
「知らない顔ばっかりだった」
「――え?」
 探るような目を向けて、ぽつりと呟かれる。その音の小ささに綱吉は戸惑い、僅かに背中を浮かせて身を乗り出した。
 いつも自信満々で、威圧的な態度を崩さない雲雀が、今日はいやに小さく感じられた。
 黒水晶の双眸がまっすぐに綱吉を射抜き、離さない。瞬きもできなくて息をのんだ彼は、宙を泳いだ雲雀の手が迷いがちに伸ばされるのも、無言で見送った。
 額を覆う前髪をくしゃりとかき回され、反射的に首を引っ込める。しかし雲雀は構わず、まるでここに居る綱吉を確かめているかのように、髪を梳き、耳朶をくすぐり、頬を撫でた。
 乾いてカサついた肌の感触に、おそるおそる綱吉は伏した瞼を持ち上げた。
 先ほどと全く同じ視線を浴びせられ、なぜか今度は急に気恥ずかしさを覚えて、彼は首を横向けた。
 そのせいで雲雀の手も離れて行った。遠ざかる体温を惜しいと、頭の片隅で考えながら、彼は踵も玄関に下ろした目の前の存在に見入った。
 雲雀は靴を履いたままだった。
「ヒバリさん、は」
「ねえ、ここって、どこ」
「はい?」
「並盛なのに、僕の並盛じゃない」
 三角になった膝に手を置き、不機嫌な声で呟く。なにをいわれたのかすぐに理解できず、目を丸くした綱吉は、ややしてから「ああ」と頷いた。
 彼の反応を見た雲雀が、眉間に皺寄せてまたも唇を尖らせた。睨みつけられて綱吉は慌て、違うのだと弁解した後、今日これまでの出来事を急ぎ逆再生させた。
 十年後のこの時間に飛ばされた綱吉が会った雲雀は、立派に成長し、大人としての風格を滲ませた雲雀恭弥だった。随所に中学生だった頃の雰囲気を漂わせながらも、年長者として、中学生の綱吉たちを導き育てる役目を果たしてくれた。
 その彼が、十年前の――つまり、今目の前にいる雲雀恭弥と入れ替わったのは、つい先日の事。綱吉はその場に居合わせてはいないものの、彼の混乱ぶりは容易に想像がついた。
 突然戦場に放り出されたのだ、驚かないわけがない。しかもその戦地が、十年後の並盛町と来たものだから、彼の戸惑いも至極当然といえた。
 ろくな説明も受けず、彼は群れ立つのを嫌って綱吉たちから離れた。その後丸一日、どこでなにをしていたのか。
「中学校も、知らない奴らばっかりだし。知らないビルがいっぱい建ってるし」
 どうやら、自分のテリトリーを一通り歩いて回ったらしい。
 光景が思い浮かび、綱吉は苦笑した。
 雲雀は唇を尖らせて、この半日の出来事を振り返っているのか、不機嫌に輪をかけた顔をした。綱吉が肩を震わせていると知ると、こめかみに青筋を立てて右手を伸ばした。
「あいでっ。てててて!」
「なに笑ってるの」
 鼻の頭を摘まれて、綱吉は彼につり上げられて涙を目尻に滲ませた。
 思い切り引っ張られ、痛みに目の前が白くなる。反して心が安堵を覚えたのは、珍しく気弱な様子を見せた雲雀が、普段の彼に戻ったのがうれしかったからだ。
「痛い! いひゃいれすヒバリしゃん!」
 両手で彼の手首をつかみ、引きはがそうとするが余計に引っ張られて、このままでは鼻がピノキオになってしまう。
 悲壮な結末を想像して涙ながらに訴えた彼に、雲雀はある程度気が済んだのか、ふん、と鼻を鳴らして手を離した。
 赤鼻のトナカイと化した綱吉が、痛みに顔を伏して爪の跡を指でなぞった。
 もうちょっと手加減をしてくれてもいいのに、と恨みがましく雲雀を見上げるが、彼が本気だったならとっくに綱吉は気絶している。トンファーさえ取り出す余裕がない彼を改めて見つめ、綱吉はどこまで状況が理解できているか分からない雲雀に肩を竦めた。
「えっと……つまり、ですね。今ヒバリさんがいる並盛は十年後でして」
「僕は君のつまらない冗談を聞きに来たんじゃないんだけど」
 ともかく第一前提として、ここが未来であると改めて教えておく必要がある。言葉を探して説明を開始した綱吉だったが、初っぱなでいきなり躓いてしまった。
 今度はしっかりトンファーを取り出した雲雀に喉を圧迫され、ドアに押し戻された綱吉は、即座に降参のポーズを作って頬をひきつらせた。
 雲雀がなんと言おうと、ここが十年後の未来だというのは疑いようのない真実だ。だからどうあっても、信じてもらわなければならない。
 嘘でも冗談でもないと、どうすれば理解してもらえるのだろう。惑い揺れる綱吉の瞳は、しかし雲雀から一度も逸れる事無く、彼を見つめ続けた。
 逃げない彼の視線に、雲雀も感じ取るものがあったのか。やがて彼は右手に握ったトンファーをおろし、綱吉を解放した。
 ほっと息を吐いた綱吉は、力の抜けた体を前に流して雲雀の袖に両手を下ろした。
 これまで散々緊張を強いられる生活をしていただけに、その脱力感も甚だしい。心底疲れた雰囲気を露わにする彼を見下ろし、はねのけようとした手を持て余した雲雀は、結局どうする事も出来ずにトンファーも手放した。
 カラン、と雲雀の手を離れた武器が玄関に落ちる。銀色の凶器を視界の隅に置き、綱吉はどうしてか分からぬまま、微笑んだ。
「信じられないかもしれないですけど、本当なんです。ここは十年後で、それで」
 奇想天外な計画に巻き込まれ、望まない戦いに巻き込まれてしまったのだと、綱吉は舌足らずに告げた。
 最初から説明するには、時間が必要だ。了平でさえ、理解させるのに五時間以上かかったのだから、理路整然と物事を語るのが苦手な彼が、忍耐力に欠ける雲雀を相手に事細かに語れるわけがなかった。
 せめて獄寺が居てくれたなら。自分勝手な理由で仲間をまいて来たというのに、同じく身勝手な思いから頼りにしている自分が嫌になって、綱吉は続けるべき言葉を見いだせず、黙り込んだ。
 その複雑な表情にどう思ったのか。雲雀も妙な茶々を入れず、辛抱強く彼の次を待った。
 白いシャツを握る手に力がこもる。増えていく皺の数をざっと数え、雲雀は沈痛な面もちの綱吉を静かに見下ろした。
 数々の辛い記憶を一気に振り返り、ヒートオーバーしたのだろう。渦巻き模様が琥珀の瞳に浮かんでいる気がして、雲雀は緩く首を振った。
「誰もいなかった」
 ぽつりとこぼし、雲雀は小刻みに震える綱吉の細い手首を見下ろした。
 体型はほとんど変わっていない。それなのに、行方不明になってから再会するまでの短い期間で、綱吉の気配は別人の如く変容していた。
 誰がこんな風に彼を作り替えたのか。誰が彼を、こんなにも強くしたのか。
 自覚せぬまま悔しさを滲ませ、雲雀は吐き捨てるように言った。
「僕の知っている奴は、ひとりもいなかった」
 それはそうだろう。つい言いかけて、綱吉は鋭い雲雀の視線を浴びせられて口を噤んだ。
 草壁のように外見にさして変化がなかった存在ならまだしも、十年経てば人間はいろいろと変わる。面影が残っていたとしても、咄嗟の判断で見分けがつかなくても無理はない。
 困惑を色に出し、瞳を泳がせた雲雀を見上げ、綱吉は下唇を噛んだ。
「ですから、今は十年後で……」
「知ってる人間は誰もいなかった」
「ヒバリさん?」
「君しか」
 綱吉が手の力を緩めようとしたのを、雲雀は許さなかった。逆に彼の手が綱吉の袖をつかみ、引き寄せた。
 上半身をほんの少しだけ前に傾がせた綱吉の耳に、うつむいたままの雲雀の声が響いた。
「君しか居なかった」
 ミルフィオーレが綱吉たちに係わり合いのあった人物を狙っている、という話は聞かされている。もしかしたらその中に、雲雀の家族もいたかもしれない。
 彼の両親の話など、一度も耳にした事が無かったから、考えもしなかった。十年後の雲雀も自分から触れようとしなかったので、綱吉はなにひとつ、考えなかった。
 この時間に来た直後から獄寺と一緒で、ラル・ミルチに導かれ、山本に保護された自分はまだ幸せだったのだ。
 幾ら彼がひとりふらっと、集団行動を嫌って出て行ってしまったからとはいえ、彼がそういう性格なのは分かりきっていた。止められなかったのは綱吉の落ち度だし、草壁に協力して彼を見つけ出す努力をもっとすべきだった。
 状況説明もろくに受けず、右も左も分からない状態で、知り合いさえなく、お金だって使えるかどうか分からない世界に放り出されたのだ。中学校の話が出たので、恐らく足を向けたのだろうが、この様子では応接室を使えたかどうかも怪しい。
 彼は昨晩、どこで夜風を凌いだのだろう。
「ヒバリさん」
 彼の言葉が胸に突き刺さる。思えばこの雲雀は、自分の――風紀財団のアジトの場所さえ知らないのだ。
「ヒバリさん、ねえ、帰りましょう」
 兎も角彼を、アジトまで連れていこう。そう考え、綱吉は彼の手を取った。それを即座にひっくり返され、逆に握り締められた。
 骨が軋むくらい、強い力を込められる。折れてしまいそうな勢いに臆し、綱吉は頬を強張らせて慌てて肩を引こうとした。しかし彼は許さず、爪さえ立てて綱吉を束縛した。
 痛みに顔を顰め、綱吉は嫌がってかぶりを振った。だのに雲雀はちっとも緩めようとせず、身体を揺らした彼をドアに押し付け、その細い肩に額を置いた。
 顔を見せまいとしながらも、綱吉と――自分が知る存在と離れるのを拒んで、自身以外の体温を欲しがっている。そんな感じがして、綱吉は息を呑んだ。
「何処に帰るって?」
「それは」
「君の家は此処だろう」
「――っ」
 綱吉は既に「帰って」来ている。現在地を思い出させられ、綱吉は瞠目し、言葉も無く雲雀の後頭部を呆然と見詰めた。
 彼の言う通りだ。そしてその事実を、ひとりで居る時も綱吉は痛切に感じていた。
 家は十年前と変わらず此処にあるのに、綱吉の居場所だけが綺麗に取り払われていた。物置と化した二階の部屋を前に、否応なしに飛び越えてしまった時間の長さを自覚させられた。
 雲雀の手が綱吉の上腕を取った。思い切り握られるが、最早肉体的な痛みは殆ど感じない。ただキリキリと締め上げられた心臓が、心が痛かった。
 無自覚の涙が頬を濡らす。もう泣き飽きたのに、まだ足りないというのか。唇を噛んで嗚咽を堪えた彼の肩から顔を上げ、雲雀は身を引いた。
 入れ替わりに綱吉の首が前に垂れ落ちる。弱々しい指先が雲雀の学生服を捕まえて、遠くなる彼を引きとめた。何に対してか首を振り、嫌だと殆ど音になっていない声で呟いて、吸った息で喉を擦る。
 本当は大声を張り上げてわんわん泣きじゃくりたいだろうに、雲雀の前だからか、必死に我慢している様子が窺えた。何度も肩を上下させて鼻を啜る彼の姿に、雲雀は自分の膝に戻っていた右手を見やり、持ち上げようか迷って結局止めた。
「君の部屋」
「っ」
「表札は沢田だった。でも、君の部屋は無かった」
「……俺、十年後は、別の場所で生活してたみたいですから」
 不自然に部屋の床にあった砂利を思い出す。多分彼は、いつかのように綱吉の部屋の窓から内部に侵入したのだ。もしかしたら昨晩も、綱吉を、或いはリボーンを頼り、此処に来たのかもしれない。
 ところが探し人の姿は無く、家は静まり返り、挙句綱吉の部屋からは一切の家具が引き払われていた。当の綱吉があれ程ショックを受けたのだから、雲雀も相応に驚いた筈。
 十年後の自分自身を、どこか他人事のように語り、綱吉は無理矢理の笑顔を泣き顔に挟み込んだ。
 きっとイタリアで、ボンゴレ十代目として忙しくしていたのだ。部屋を片付けたのは、二度と戻らないという強い意志の表れだったのだろうか。その辺は、自分の事だけれど良く分からない。
「ね、ヒバリさん。戻りましょう、みんなのところ」
「嫌だね。僕は帰るよ」
「だからそれは、今は無理なんです」
 百蘭から皆を、この世界さえも守る為に、綱吉たちは十年後に呼ばれた。成長し、更に強くなった守護者達でさえ太刀打ち出来なかった相手に、果たして勝てるのか。ホログラムで見た敵の姿とその非常識なまでの強さ、残酷さを思い返し、綱吉は聞き分けの無い雲雀に懸命に言い聞かせた。
 だが彼は頬を膨らませ、子供のように拗ねて「帰る」の一点張りだった。
 自然と涙も止まり、困り果てた綱吉は右の親指を噛んで、焦れた顔で膨れ面の雲雀に肩を落とした。
「どうして無理なの」
「ヒバリさん、人の話はちゃんと全部、最後まで聞いてください」
 現場には彼も居たのに、殆ど耳に入っていなかったのか。興味の無い事にはとことん関心を持たない彼の天邪鬼な性格に溜息を零し、前髪を掻き毟った綱吉は言葉を探し、視線を泳がせた。
 その間もずっと、雲雀は黙って綱吉を見詰め続ける。正面から浴びせられる圧迫感に落ち着かず、今度は唇を爪で引っ掻いた彼は、上目遣いに相手を窺って、思いの外近くにあった黒い双眸に慌てて目を逸らした。
「つまり、ですね。十年後の未来がヤバイことになってて、それで十年前の俺たちに助けを求めてきた人が居て、ですね。それで詰まるところ」
「あの白いのをぶっ飛ばせば良いんだっけ」
「しろ? ……ああ、はい」
 過程の一切をすっ飛ばした簡潔すぎる綱吉の説明に、雲雀は記憶の片隅に残っていた人物像を脳内に引っ張りだした。一瞬誰を指しての表現か分からなかった綱吉は、確かに白かった、とホログラムで見た百蘭の映像を同じく瞼の裏に思い浮かべ、頷いた。
「彼を倒せば、帰れるの?」
「です」
 入江正一が仲間に加わった今、彼に頼めば或いは、今すぐ元の時間に帰るのも可能だろう。しかし切実な彼の願いを無視し、自分勝手な思いひとつで全てを投げ出すことも、もう出来ない。
 それにこの時間は、いずれ自分達が通る未来。
 少しでも自分達の明日が、平和で、心休まるものであって欲しい。
 皆を守りたい。仲間と一緒に歳を重ねたい。大切な人と共に過ごしたい。
 生きていたい。
「俺も、死にたく無い」
「沢田?」
「……いえ、なんでもないです」
 中学生の雲雀は、十年後に綱吉が銃弾で倒れる未来を知らない。敢えて教えることもなかろう、綱吉は首を振り、腰を浮かせて雲雀に擦り寄った。
 避けずに胸で受け止めた雲雀が、その軽さに驚く。
「沢田」
「ヒバリさん、俺も帰りたい」
 左右に泳いだ両手の行き先に困り、雲雀はハリネズミのような髪の毛の綱吉を見下ろして呼んだ。その声を邪魔して、雲雀の白いシャツを握り締めた綱吉が苦しそうに呟いた。
 元の時間に帰りたい。奈々が笑顔で出迎えてくれる、綱吉がまだこの家で日々を営んでいた時間に帰りたい。
 地下の、空が見えないアジトではなく、窓から青空が臨める、狭くて汚くて、でも一番安らげる自分の部屋に帰りたい。
「帰りたいです」
「なら、帰ろう」
 空を掻いた雲雀の手が、細かく震える綱吉の背に落ちる。腕ごと抱き締めると、伸び上がった綱吉の額が雲雀の肩を擦った。膝が雲雀の脚の間に落ちて、ふたりの間にあった空間が一気に狭まる。
 指に絡めたシャツの皺を増やし、綱吉は鼻を大きく啜った。
「あいつら全部倒して、さっさと僕の並盛に帰るよ」
 あっさりと、とても簡単なことのように雲雀が言った。
 現実はそう容易くなく、優しくもなく、冷酷で残忍だけれど、彼が言うと根拠も無いのに大丈夫と思えるから不思議だった。
 雲雀がいてくれれば平気、きっと勝てる。彼ほど心強い存在を、綱吉は他に知らない。
 恐怖に怯えて竦んでいた心が、じんわりと雲雀の熱に解かされて和らいでいく。不謹慎にもとても幸せな気分になって、綱吉は表情を綻ばせ、滅多に無い彼の腕の中という環境を存分に楽しんだ。
 雲雀からは太陽の匂いがする。鼻を襟に押し当てて息を吸うと、何故か唐突に彼は身を捩り、綱吉を引き剥がした。
「ヒバリさん?」
「……もういいよ」
 きょとんとしている綱吉に脱力してか、彼は投げやりに言って赤くなった顔を他所向けた。
 一瞬だけ気まずい空気が流れ、綱吉は彼の機嫌を損ねることをやっただろうかと考えるが、特に思い当たる節に行き当たらずに首を傾げるばかり。雲雀は苛々を自分の中だけで処理し、最後に大きな溜息をついて黒髪を掻き上げた。
 額を露にすると、十年後の彼の面影が顕著になった。
 同じ人なのだから当然なのだが、改めて認識を強め、綱吉は気の抜けた笑顔を浮かべた。
「沢田」
「ヒバリさん、帰りましょうね」
 十年後の自分も、雲雀に対して今のような安らぎと、心強さを感じていたのだろうか。だからボンゴレ十代目は風紀財団を頼り、秘密裏に計画を練り、実行に移したのか。
 未来の自分自身のことなのに、よく解らない。でも、そうだったら良いと今は思う。
 雲雀の膝に手を置き、身を乗り出した綱吉の言葉に、彼は僅かに動揺を表立たせてから直ぐに表情を引き締めた。彼らしい、どことなく意地悪で不敵な笑みを浮かべ、綱吉の額を小突き返す。
「言われなくても」
 痛がる小さいが大きな存在を見下ろし、彼は胸を反らせた。
「連れて帰ってあげるよ」
 自信満々に言い放たれた言葉に、綱吉は目を見開き、続けて心からの笑顔を浮かべた。

2009/02/26 脱稿