時雨れける

 春先の雨は冷たい。
「ただいま」
 このひと言がごく自然に口から出て来るようになったのも、つい最近の事だ。少し前までは、言うのにニ、三秒の準備が必要で、玄関前で身なりを整えてから咳払いをして、という非常にまどろっこしい手順を踏んでいたというのに。
 時間が経つのは早い、環境に慣れるのも。人間とは思う以上にしぶとく、図太い生き物だと思い知らされて、夏目は湿っぽい空気を払って右手を伸ばした。
 曇りガラスの戸を左に滑らせ、乾きかけていた灰色のコンクリートに新しい足跡を刻む。綺麗に整頓された上がり口には普段無い雑巾が置かれ、胸の高さまである靴箱の上には、清潔なタオルも用意されていた。
 相変わらず塔子は手際が良いと感心しつつ、夏目は腰を捻って開けっ放しの戸を閉めた。軽く肩から腕を撫でて制服に落ちた水気を払い、湿った前髪を掻き上げて小さく息を吐く。
 いつもなら、食事の支度中でも揚げ物をしている時等以外は、塔子は台所から顔を出して夏目を迎えてくれた。白い割烹着が似合う笑顔の優しい女性は、けれど今日に限って姿を現さない。靴を脱ごうと踵をもぞもぞさせて、夏目は首を傾げて奥へ続く廊下に注意を向けた。
 人の気配はするから、留守というわけではなかろう。いくら田舎とはいえ、鍵を開けっぱなしのまま出かけるような無用心さも、塔子は持ち合わせていない。
 右から先に靴を脱ぎ、上がり框を踏んで夏目は靴箱のタオルを取った。濡れた制服の表面をサッと撫でて額にも柔らかい布を押し当て、首を一周させて膝を折る。脱いだばかりの靴を揃えて端に並べてから、汚してしまったタオルを持って、彼は階段の横を素通りした。
 半開きのままだった戸口から台所兼食堂を覗き込むが、電気は点いているものの、人の姿は無かった。
「おかしいな」
 塔子は何処へいったのだろう。声に出して呟き、夏目は鞄を自分の為に用意された椅子に預け、学生服の襟を緩めて洗面所へ向かった。
 手洗い、嗽を済ませて、玄関から持ってきたタオルは汚れ物入れになっている籠に放り込む。風呂場の支度も何もされておらず、開け放たれた窓からは絶えず雨音が流れ込み、冷たい風が夏目の首を撫でた。
「そういや、先生も見ないな」
 指の腹を擦り合わせて残っていた水分を肌に馴染ませ、台所へと戻る。だが依然塔子の姿は無く、鞄から空の弁当箱を抜いてテーブルに残し、彼は二階に続く階段をゆっくりと登った。
 トン、と軽い、自分以外のものが動く音が聞こえた。
「うん?」
 上に誰かいるのか。考えられるのは斑だが、それにしても少し妙な気がする。
 夏目は上を向き、眉目を顰めて残りの段を慎重に進んだ。自分に、と宛がわれた南向きの部屋の障子を開けるが中はがらんどうで、予想が外れたのに彼は幾許か驚き、首を傾げたまま後ろを振り返った。
 よくよく見れば廊下の両側に並ぶ障子戸のひとつに、動く影があった。
「塔子さん?」
 畳に正座し、猫姿の斑を前に巻尺を手にしている。日頃は塔子と滋の寝室に使われている座敷を覗いた夏目は、じたばたと暴れる斑に悪戦苦闘している彼女を見て、力の抜けた声でその名を呼んだ。
 今の今までそこに夏目がいると知らなかった彼女は、突如現れたに等しい彼に目を丸くし、一緒に顔を赤くした。
「あら、やだ。貴志君ってば、帰ってたのね」
「何してるんですか、その……先生?」
 照れ臭そうに目尻を下げ、塔子は左手を口元にやって顔の下半分を隠した。
 お陰で斑を畳に押さえつけていたものが無くなり、腹這いでじたばたしていた彼は即座に彼女の前から逃げ出した。夏目の脚を盾にして、フー、と猫らしく唸っている彼の強い警戒心に、夏目はきょとんとしたまま答えを求めて塔子を見やる。だが彼女は恥かしそうに笑うばかりで、右手に握っていた巻尺も急ぎ割烹着のポケットに押し込んでしまった。
 塔子は食事を作ってくれる人、との認識のもと、斑も彼女には懐いていた。そして彼女も、間違っても動物に危害を加えるような人ではない。
 いったい自分が居ない間に何が起こっていたのか、さっぱり検討がつかなくて夏目は走り去った斑を追い、塔子には頭を下げて部屋に戻った。
 小雨降りしきる空は暗く、この時間から照明が必要だった。紐を引いて蛍光灯を眩く点灯させた夏目は、冷えた窓辺に駆け寄って丸くなっている斑に、小さく溜息をついた。
「先生?」
「なんだ、あの女は。けしからん、実にけしからん」
 呼びかけると、ついに堪忍袋の緒が切れたのか。彼は短い前脚で頻りに窓枠を叩き、こめかみに青筋を立てて怒りを爆発させた。
 まだ其処に塔子がいるので、声自体は小さい。しかしかなり憤慨しているのが態度から伝わって、夏目は学生服のボタンを外して脱ぎ、着替える間ずっと彼の愚痴を聞かされ続けた。
 曰く、塔子は斑の胴回りを計っていたらしい。
「……あー」
「なんだその、やっぱり、という顔は」
「いやだって、先生ちょっと、なんていうか、うん」
 太りすぎだから、と皆まで言わず、夏目は曖昧に言葉を濁した。
 室内着に袖を通し、襟を整えた彼を、斑は低い位置から睨んだ。しかしその招き猫独特の緊張感に欠ける目元や口元の所為で、どうしても笑いが先に立つ。夏目は塔子がそうしていたように左手で顔を覆い、座布団を引き寄せて窓際の座卓前に腰を下ろした。
 いくら口を隠しても、目が笑って肩が震えているので直ぐに分かる。斑はいよいよ怒り心頭で、どたん、ばたん、と飛び跳ねて最後に夏目の膝に頭から突っ込んできた。
「いてっ」
「ふん、どうだ参ったか」
 膝頭を強打して、夏目は胡坐を崩して前のめりに背中を丸めた。踏ん反り返った斑は偉そうに鼻息ひとつ吐き、狸のようなでっぷりとした腹を自慢げに叩いた。
 だからそういうところが、メタボリックを疑われる要因なのだ、とは心の中で呟くだけに留め、骨に響いた痛みを堪えて夏目は彼の額を指で弾いた。
 後ろ足二本だけで立っていた彼は、たったそれだけでも呆気なくバランスを崩し、背中から仰向けに倒れて畳に転がった。
「ふぬー、ふがががー! おのれ夏目、取って食ってやる!」
「はいはい、分かった、分かった」
 短い四肢を暴れさせるが、真ん丸い身体が邪魔をして、なかなか上下を逆転させられない。高貴な妖怪を自負するくせに、とてもそうは思えない見苦しい様に呆れて肩を竦め、夏目は降り止まない雨を窓越しに眺めた。
 右肘を座卓に預け、そちらに体重を傾けて灰色の空を軒の向こうに見上げる。もう少し気温が低ければ雪になるのだろうが、今のところそのような気配は見受けられなかった。
 この調子では、明日も雨かもしれない。
「散歩に行けないな、先生」
「ふがっ」
 地面は濡れ、土はぬかるみ、水溜りも沢山。本来の姿ならばまだしも、招き猫を媒介とした真ん丸い姿では、地上までの距離が近すぎて、雨の日は非常に歩き難かろう。
 やっとのことで仰向けに戻って四肢を踏ん張らせた彼は、夏目の何気ない言葉にまたも憤慨し、頭から湯気を立てて眦を吊り上げた。
「くそう、おのれ。雨の愚か者め!」
 日がな一日家の中に居ては退屈で、面白みに欠ける。外に出る楽しみを奪われた彼の憤りが全く解らないわけでもなく、夏目は頬杖をつき、窓を濡らす雨の雫に見入った。
 とはいえ、お天道様の気まぐれに怒っても仕方が無い。彼は溜息の末、早々に課題を片付けてしまおうと、暇を持て余す斑を他所に、通学鞄を引き寄せて中から教科書を取り出した。

 雨の朝が三日目を迎え、そろそろ太陽が恋しいと空を見上げる機会が増えた。同時に曇天をその目に確かめ、肩を竦めて背中を丸めるのも日課となった。
 濡れた靴に跳ねた泥を嫌い、足首を振って夏目は門を潜った。
 黒い蝙蝠傘にトントンとリズム良く雨が落ち、布の表面を滑った雫が傘の縁で幾つも踊っていた。重そうに身を揺らした後、両手をぱっと離して落ちて、待つのはぬかるんだ地面との結婚式。ならばこの傘が立てる音は、彼らを祝福するファンファーレか何かか。
 柄を握る右手に角度を持たせ、視線を持ち上げる。こんな時間から玄関に灯った照明は薄らぼんやりと黄色い光を放ち、彼を出迎えてくれた。
 玄関前の庇の下に入り、雨を凌いで傘を下ろす。布に張り付いていた水滴は一斉に先端に集まり、ぼたぼたと垂れて乾いていたコンクリートの一画を濡らした。
 軽く水気を飛ばしてから傘立てに押し込み、自由になった右手で玄関の戸を開ける。靴跡を刻んで敷居を跨げば、程無くして塔子が上機嫌に姿を現した。
「おかえりなさい、貴志君」
「ただいま帰りました」
 料理の途中だったのだろう、割烹着の裾で手を拭い、にこにこと柔らかく微笑む彼女に、つい夏目の表情も綻んだ。
 靴を脱いで揃え、鞄から弁当箱を取り出して彼女に差し出す。美味しかったと言えば、塔子は益々目尻を下げて、明日も期待していてくれとコロコロと喉を鳴らして言った。
 中身は空っぽの弁当箱は、揺らせば倒れた仕切りが内壁にぶつかってカタカタと音を立てた。
「あれ、塔子さん。その手」
「あら、うふふ。ばれちゃった」
 軽やかな音楽を楽しんでいた彼女の右手に、小さな引っかき傷があった。それも三本、長さは三センチほど。
 この傷跡には覚えがあり、夏目は眉目を顰めて唇を噛んだ。
「先生め」
 取っ組み合いの喧嘩を何度と無く繰り返している相手を思い出し、彼は拳を固く握り締めた。自分に爪を立てるのはまだ良いが、よりによって塔子に怪我をさせるとは。実に許し難い。
 怒りを隠そうともしない夏目を見上げ、塔子は穏やかではない空気を肌で感じて、頬に当てていた手を下にずらした。表情から笑みを消し、慌てて取り繕うように言葉を繰り出す。
「違うのよ、貴志君。私がね、ちょっと、ニャンキチ君を怒らせちゃったのが悪いの」
「けど」
「だからね、貴志君。お願いがあるの」
 部屋に駆け出そうとしていた彼の袖を引き、塔子が両手を顔の前で叩き合わせた。神様に拝むようなポーズをとられ、出鼻を挫かれた夏目が目を丸くする。
 首を傾けて手の横から顔を出した彼女は、悪戯を試みる少女の笑顔で、こっちに来るように、と再度彼を引っ張った。
 

「先生」
 数分後、塔子から解放された夏目は階段を登って障子を横に滑らせた。正面に見えた窓の外は相変わらずの雨模様で、分厚い雲が遠くの山まで続いていた。
 薄暗い室内の端にちょこん、と丸くなった存在は、夏目の呼びかけに右の耳を持ち上げたが、反応はそれだけ。入り口に背中を向けて座布団に蹲り、いつもひょこひょこ動いている尻尾も、今日は随分大人しかった。
「ニャンコ先生?」
「聞こえとるわ」
 眠っているのかと思ってもう一度呼べば、不貞腐れた声がやっと返って来た。それにほっとして、夏目は敷居を越えて戸を閉めた。鞄と一緒に持って来たものを箪笥の横に置き、まずは湿って重い学生服を脱いだ。
 下に着込んだ白のカッターシャツはそのままに、ズボンだけはスウェットのものに交換する。濡れているので制服の上下は箪笥にしまわず、ハンガーに吊るして半開きの戸の上辺に引っ掛けた。
 袖のボタンを外して二重に折り返し、彼は襟元のボタンもひとつ外してそこに指を入れる。息苦しさから解放され、彼は人心地ついた様子で肩を竦めた。
 ブレザーではないので、ネクタイが無いのがありがたい。毎朝きっちり結んでいる滋を思い出し、首が絞まるのは嫌だな、と夏目は喉仏を撫でて自分の座布団を座卓の下から引っ張りだした。
 斜めに傾いた鞄と箪笥の間にあったものを反対の手で掴み、反対側の角で丸くなっている斑に近付く。白い肌に薄い朱と灰鼠色のラインが走る元招き猫は、四本の脚を胴の下に隠して首を窄め、狸寝入りを決め込んでいた。
 この頭に蜜柑を置いたら、鏡餅の完成だ。心の中で想像し、夏目は堪えきれずに肩を震わせて笑った。
 次の正月は神棚に飾ってやろうか、いやいや重みに耐え切れずに神棚が壊れてしまう。ひとり声を殺して喉を引き攣らせている彼の気配に、不信感を抱いた斑は怒り顔で振り向いた。
 そこへすかさず、両手を伸ばした夏目が持っていたものを斑の頭目掛けて捻じ込んだ。
「むががっ」
「それ、っと、……く、この」
 当然ながら斑は抵抗し、爪を立てて夏目のむき出しの手首を引っ掻いた。体を裏返して背中を座布団に押し付け、後ろ足も使って懸命に夏目を追い払おうと足掻く。
 だが夏目とて、負けていない。
 どたばたと騒音を立て、部屋中の埃を撒き散らし、挙句敷かれていた座布団まで天井近くまで投げ飛ばし、斑は顔に被せられたものを取り除こうと躍起になった。夏目はそれを良しとせず、顔が大きすぎてなかなか通り抜けてくれない筒状の布を握って広げ、全体重を使って斑を畳に押し潰した。
「ふごっ、ぐぬぁ」
「ちっ、先生ってば、顔でかすぎるんだよ」
「なぬふぉぉ!」
 舌打ちして言い放った夏目に文句を言おうとするが、鼻に掛かる布が呼吸を阻害してままならない。四肢を突っ張らせて逃げようと抗う彼を力でねじ伏せながら、夏目は塔子の怪我の理由を理解した。
 確かにこの作業は、女の細腕では辛かろう。
「こら、暴れるな」
 仰向けからうつ伏せに姿勢を作り変え、這い蹲ってでも逃げようとする斑の真ん丸い尻尾を掴み、引き戻す。べちょっ、と顔面から畳に激突させられた彼の聞き苦しい苦情は右の耳から左の耳へ受け流し、夏目はやっと頭部を抜けて首に到達した布を、今度は胴体部分に通した。
 四つある穴にそれぞれ足を通してやり、毛羽立っている尻尾まで覆い隠して、ようやく完成。トータルで十分以上格闘させられたわけで、終わった頃には良い汗を掻いたと、いやに清々しい気分になった。
「よっし、出来た」
 額を拭い、息を吐いた夏目が目の前の珍妙な物体を改めて見詰める。そこにいるのは間違いなく、斑だった。
 数百年、或いは千年の時を刻む、高貴なる獣の妖怪だった。
 美しい白い毛並み、巨大な体躯に長い尾、空さえ翔る強靭な四肢に、眩き光を放つ額の紋様。あらゆるものを食い千切り、噛み砕く牙を持ち、甚大な知識を持ち合わせる誇り高き存在だ。
 それが、今や。
「ぶっ」
 耐え切れず、夏目は顔を赤くして吹き出した。
 小刻みに肩を震わせ、口を開くとまた吹いてしまうのが分かっているからか、懸命に鼻で息をしている。頬は空気を含んで大きく膨らみ、右手で出入り口を塞いでひた隠しにしようとしているものの、瞳は明らかに笑っていた。
 ムスッとした顔で、斑がまたも丸くなる。ぷんすか怒っているのは明らかで、それが尚更おかしくて、夏目は堪えきれずに腹を抱えて笑い出した。
「ぶはっ、はははっ、はは! なに、先生。なに、それ」
 投げ出した両足で太鼓の如く畳を蹴り、右手の拳も膝に叩きつけて全身を痙攣させる。息が苦しいのか体を前に、後ろに倒して方を上下させ、一秒とじっとしていなかった。
 大きく口を開けている彼から飛び出すのは、面白くて仕方が無いと分かる笑い声ばかり。それが余計に斑の機嫌を損ね、彼の顔を不機嫌に歪めさせた。
「うるさい、この……黙らんか!」
「はっ、はは、ははっ。ダメだ、面白すぎる」
 最終的に呼吸困難に陥って畳に横倒しになった夏目の頭を肉球で叩き、斑はその鋭利な爪で彼の頬を引き裂いた。
 ガリッ、と肉が抉られる痛みに悶絶し、やっと夏目は笑い止み、顔を顰めて身を起こした。手で触れると血が僅かながら滲んで、ひりひりと痛んだ。
「先生」
「ふーんだ」
 咎める口調で呼びかけるが、斑は白い尻尾を揺らしてそっぽを向いた。お陰で顔の輪郭を縁取る白いレースがひらひら揺れて、丸っこい胴体を包む薄水色のビニール生地が軽やかに踊った。
 そのあまりの愛らしさに、一度は引っ込んだ失笑がまた戻って来てしまった。
「ぶっ」
「笑うな!」
「だって……先生、それ」
 着せたのは夏目なのに、すっかり忘れて彼は斑を指差してまた肩から畳に寝転がった。膝を曲げて背中を丸め、ひーひー言いながら喉を引き攣らせて涙を呑む。
 こんなに笑ったのは何年ぶりだろうか。息も絶え絶えの夏目は横向きに、下からのアングルで可愛らしいフリル付きの雨合羽を着込んだ斑を見上げてまた頬を緩めた。
 先日、塔子が彼の胴回りを測っていたのはこれの為だったのだ。長引く雨の所為で自由に外を出歩けない斑を愁い、思い悩んだ末に彼女が編み出した打開策が、つまりは猫に雨合羽を着せるというアイデアだった。
 しかしその辺の猫とは比べ物にならない、ふくよかな体格をしている斑なので、とてもではないが市販の猫用グッズでは対応しきれない。だからこれは彼女の手縫いだった、少しでも雨がしみこまないよう隙間を減らし、丁寧に作られている。
 顔部分を包む愛らしい花をあしらったレースの飾りは、過分に余計なお世話だったが。
 いや、恐らく世間一般の目からすれば、これは可愛いのだ。実際、全体的に丸みを帯びた体格の斑を、多軌はひたすら褒めちぎっていた。
 だが夏目は、残念なことに彼の本性を知っている。本来の、雄々しい獣の姿も知ってしまっている。
 だからこそ、ギャップが面白すぎてならないのだ。
 頬の痛みを気にしつつ起き上がり、夏目は座布団に胡坐を組み直した。未だしゃっくりのように笑いが不意にこみ上げてくるが、多少は目が慣れたのか、免疫がついたのか、最初よりは随分と落ち着いた。
「……ふっ」
「だから、笑うなと言っておろうが!」
「いや、けどさあ」
 是非とも彼の、今のこの姿を、他の誰かに見せてやりたい。ヒノエは夏目と同じく腹を抱えて笑い転げるだろう、反対に紅峰は失神するかもしれない。多軌はきっと、いつもと同じで可愛いと叫んで抱き締める。田沼は多分、怪訝にした後で困ったようにこっちを見るに違いない。
 それもこれも全部、斑が招き猫なんていうものに封じられてしまったのが悪いのだ。
「そうだ、折角だから外に行ってみないか」
「ぬなっ」
 まだ雨は降っているが、レインコートを着ているのだ、問題なかろう。
 手を叩き合わせた夏目の提案に、斑はぎょっとしてその場で飛びあがった。
「馬鹿を言うな。誰が行くか!」
「先生の為を思って、塔子さんが作ってくれたんだ。使わないと悪いだろ」
「貴様、普段と言うことが違っているぞ」
 夏目は塔子の親切をどう受け止めるか、毎回戸惑っているというのに、矛先が斑に向いていると分かると、途端豪胆になる。鋭い彼の指摘に、しかし夏目はにっこりと無邪気に微笑み、立ち上がって逃げようとする斑の尻尾を鷲掴みにした。
 頭を下にして吊り上げられ、じたばた暴れるが、いかんせん手足が短すぎて夏目まで届かない。ここで本性を明らかにしたら、塔子お手製の雨合羽が破れてしまうので、それも出来ない。
「くそぉぉぉー! 覚えておれよ、夏目!」
「はいはい、分かった、分かった」
 にっちもさっちもいかない。彼は夏目の楽しげな笑い声を聞きながら、花柄レースの帽子を被って雨のようにさめざめと涙を零したのだった。

2009/02/24 脱稿