精霊火 第四夜(第一幕)

 子供たちは手を繋ぎ、夜の空を見上げていた。
「あー、ながれぼし」
 軒下の濡れ縁に並んで腰掛け、垂らした足を前後に当て所なく揺らす。頭上に広がる藍色の世界を眺めて目を凝らし、不意に右側の男の子が声高に叫んだ。
 右手を肩よりも高くまで持ち上げ、伸ばした人差し指で南の空の一角を指差す。けれど彼が言葉を発した時にはもう、光の尾を垂らした流星は燃え尽き、消えてしまっていた。
 隣に座る子の顔を見てから、指し示された方角に目をやったもう一人の男の子が、首を傾げて僅かに身を乗り出した。けれど何処を探しても、もう流れ星は見付からない。
「ないよ?」
「えー。ながれたもん!」
 嘘じゃないよ、本当だよ。そう言って、疑いの眼差しを向ける黒髪の男の子に懸命に訴えかけ、甘茶色の髪をした男の子は、元気良く跳ねた毛先をひょこひょこと揺らした。
 平らな縁台で座ったまま飛び跳ねる様は、まるで兎だ。最後には拗ねてしまった男の子の、愛らしい桃色の頬を小突き、黒髪の彼は優しい笑顔を浮かべた。
「信じるよ」
「ほんと?」
「うん」
「えへ。えへへ」
 君の言うことだから、嘘であったとしても全部信じる。そう言って彼は、嬉しそうに、それでいて照れ臭そうに微笑んだ男の子の頭を撫でて、露になった額にそっと触れるだけのくちづけをし、ぎゅっと小さな胸に閉じ込めて抱き締めた。
 ふたりはとても幸せそうに笑いあって、小鳥の戯れにも似たくちづけを、幼い姿に不釣合いなくらいにごく自然に、そうするのが当たり前のように、何度も繰り返した。
「流れ星が消える前に、三回願いごとを言えたら、叶うんだって」
 いつだったか、誰かがそんな事を言っていた気がする。おぼろげな記憶を引っ張りだした彼に、男の子はきらきらと、星よりも綺麗に輝く琥珀色の瞳を大きく見開かせた。
 袖を引き、顔を近づけて黒く澄んだ瞳を覗き込む。
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあ、おれ、おねがいごとする!」
 流れ星を探すのだと俄然意気込み、少年は鼻息荒く姿勢を正して、首が疲れるまで夜空を見上げ続けた。
 けれど、肝心の流れ星はいつまで待っても現れない。日は暮れて久しく、新月の夜は星明りだけが頼り。大人は既に布団に潜り込んで夢の中で、子供がふたりだけ、懸命に眠い目を擦っていた。
 我慢できなくてうつらうつらと舟を漕ぎ、首が落ちる震動で目を覚ましては、眠るものかと頭を振り、頬を叩いて自分を励まし続ける。仕草ひとつとっても可愛らしくてならず、楽しげに眺めていた黒髪の少年は、きらりと視界の片隅で瞬いた光の眩さに目を細め、首を巡らせた。
 一瞬の閃光が天頂に近い空を駆け抜けていった。
「流れ星」
「どこ?」
「あそこ。ほら、また流れた」
 天を流れる天の川の畔で、白銀の瞬きが幾つも、いくつも流れて行く。少年ふたりは驚きから興奮に頬を染め、刹那の輝きを放つ星が消える前に、心の中で願い事を繰り返した。
 だけれど、言い終えるよりも先に、星々は儚く散ってしまった。
「うう~~」
 どうしても最後の一回分を唱えられず、少年は大きな目を歪ませて真珠の粒の涙を浮かべた。拳を作り、自分の膝と、何故か隣に座る少年の肩まで叩いて、悔しさを露にする。
 上半身を揺さぶられ、黒髪の少年は少し困った顔をした。
「つなよし」
「むりだよ、さんかいもいえないよ!」
 癇癪を爆発させ、ついに本格的に泣き始めた綱吉に、雲雀は肩を竦め、上唇を噛み締めて必死に嗚咽を堪えている彼を招きよせた。震えている肩を抱き締め、頬に零れた涙を唇で掬い取り、背中を軽く叩いて宥める。
 綱吉は雲雀の袖を強く握り、彼の細い肩に額を埋めた。
「おねがいごと、かなわないの、そんなのやだ!」
 息を吸って鼻を啜り、やや濁った声で言う綱吉は、いったいどんな願いを流れ星に託そうとしたのだろう。こんなにも本気に取られると思っていなかった雲雀は困惑し、小首を傾げて自分に寄りかかる綱吉の腰に手を置いた。
 自分の方へ押し出すようにして、彼の体を持ち上げる。素早く向きを変えて歳の割に小柄な綱吉を膝に座らせた雲雀は、背中を柱に預けて涙顔を覗き込んだ。
「なに、お願いしたの?」
「う……」
 間近から見詰められ、鼻の頭を赤くした綱吉が躊躇する。喉に息を詰まらせてしゃくりをあげ、絶えず溢れる涙で頬を濡らして口をへの字に曲げた。
「つなよし?」
「ヒバリさんと、ずっと、いっしょにいられますように!」
 絶対に叶って欲しい願い事。一瞬の輝きに託した、幼心の切実な祈り。
 しつこく問いかける雲雀に怒鳴り返し、彼は大粒の涙を新たにしてぐじぐじと鼻を鳴らした。
 真っ赤に染まった顔は、星明りしかない縁側であってもよく分かる。潤んだ琥珀の瞳がじっと雲雀を見詰めて、彼の反応の無さに怒りを爆発させた。
 本格的に殴りかかられ、胸で衝撃を受け止めた雲雀ははたと我に返り、それから仄かに頬を赤く染め、同時に嬉しげに目尻を下げた。何を笑うところがあるのかと、一部始終を見ていた綱吉が泣き腫らして真っ赤にした目で彼を睨みつける。
 振り下ろされた彼の小さな丸い手を捕まえて、雲雀は愛おしくて仕方が無い少年を腕の中に閉じ込めた。
 四方八方に棘を伸ばす見た目に反し、柔らかな髪の毛に顔を埋めて温かな陽射しを思わせる匂いを吸い込む。今は夜なのに、ぽかぽか陽気の日向に立っている気持ちになって、雲雀は幸せを感じながら瞼を下ろした。
 最初は暴れ、抵抗した綱吉も、肌を通して伝わってくる彼の体温の心地よさに酔い痴れ、自分の頭を抱く雲雀の衿を握った。
「かなうよ」
 ふたりがひとつの影を縁側に薄く描き出し、数分が過ぎた頃。
 雲雀がぽつりと告げて、綱吉を抱く腕に力を込めた。
 息苦しさを覚えて首を振り、顔を上げた綱吉が至近距離の雲雀を下から覗きこむ。
「ヒバリさん?」
「君の願い、ちゃんと叶う。……ううん、叶えるよ」
 星に託すのではなく、自分が叶えてみせる。そう力強く言葉を紡ぎ、雲雀はきょとんとしている綱吉の、目尻に残っていた最後の涙を舌で攫った。
 触れて直ぐに離れた熱に綱吉が身震いし、浅く胸を上下させて穏やかな微笑みを浮かべている雲雀に見入る。嘘や冗談を言っている雰囲気は全くなくて、確信を持って言い切った彼に、綱吉は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
 優しい仕草で髪を梳かれ、半分隠れていた耳を弄られる。引っ張られる感覚に綱吉は眉間に皺を寄せ、右肩から雲雀にぶつかっていった。
「ヒバリさん?」
「だからね、つなよし」
 君と同じく、流れ星に三回言えなかった僕の願いを、君が叶えて欲しい。
 耳朶に息吹きかけて、そっと囁かれたことばに背筋がぞくりと粟立った。思わず首を引っ込めてしまった綱吉を笑い、雲雀が肩から背中に向かって、叩きながら手を下ろしていった。
「ヒバリさんの、おねがいごと?」
「そう」
「おれが?」
 自分自身を指差した綱吉の質問に頷き、雲雀は冴え冴えとした瞳で彼を見詰めた。滅多に見る機会のない、甘えるような、強請るような彼の目線に、綱吉は物怖じした様子で腰を揺らめかせ、胸の前で両手を結び合わせた。
 頻りに指を捏ね合わせて、落ち着き無く視線を泳がせる。おずおず雲雀を上目遣いに見上げ、
「おれにできること?」
 恐々問いかければ、雲雀は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「君にしか出来ないよ」
 どうか、叶えて欲しい。心の底から祈りを込めて、雲雀は結ばれた綱吉の両手に、手を重ねた。
 体温を分け与えて、額を小突き合わせて、吐息を掠め取る。通り過ぎて行った雲雀の熱に驚き、綱吉は琥珀を見開いた後にすぐ力の抜けた笑みを返した。
「なあに? ヒバリさんのおねがいごと」
「君と」
「おれと?」
「ずっと一緒にいたい」
 綱吉の願いと同じ。ふたり、ずっと、ずっと、一緒に。
 永久に。
 決して離れず、この手を握り締める。
 傍で。
 隣で。
 たとえこの生を終えたとしても。
 永遠に。
 とこしえに。
 囁かれたのは、愛のことば。
「叶えて」
 雲雀にしか出来ない。綱吉にしか出来ない。
 ふたり、思い違える事無く。
「かなえて」
 祈りを捧げよう。天上の神々にではなく、貴方に。他ならぬ自分自身に。
 綱吉は手を伸ばした。指が虚空を掻いた。
 衝撃が突き抜ける。音を立てて砕け散った青銀の輝きが、彼の目の前をきらきらと舞い散った。
 慟哭をあげ、雲雀が己の胸を掻き毟る。倒れ伏したその先の地面を己が敵の如く睨みつけ、呪詛を吐き、垣間見たひとりの男の残酷な笑みに怒り狂い、喉が引き裂かれんばかりの雄叫びを放った。
 永久に、ふたり。
 いつまでも離れる事無く。
 願いは、――哀しい。

 突如、前兆もなにもなく背を引き裂かれた雲雀は、全身を赤黒く血に染めて地面を掻き毟った。
 何が起きたのか、咄嗟に理解出来なかった残る四人が息を呑む。歯を覗かせて残忍な笑みを浮かべて佇むランチアだけが、ことの有様を知ってかぞっとする表情で雲雀を見下ろしていた。
「雲雀、どうした」
「大丈夫なのかよ、おい」
 山本と獄寺がそれぞれに彼を案じる声を発し、駆け寄ろうとして対峙する相手に道を塞がれる。行く手を阻まれ、ふたり同時に舌打ちして武器を構えた彼らは、横目で蹲る青年を気にしつつ、予断を許さない己の状況に意識を戻した。
 雲雀は荒く息を吐き、滲み出る脂汗の不快感と背中を襲う激痛を堪え、未だ信じ難いと脳裏に焼きついた人物像に喘いだ。
 いつの間に追い越されていたのか。雲雀が此処でもたもたしているうちに、あの男は別の経路を使って綱吉に追いついたのだ。しかも同時に見えた景色は、沢田家の敷地から遠く離れている。九十九折の石段を登るにさえ至らない、無限に広がる暗闇の真っ直中だった。
 いくら綱吉に体力が無いとはいえ、雲雀が彼を行かせた時間と家までの距離を考えれば、もう既に石段を通り過ぎ、結界を補佐する瓦屋根の山門を潜り抜けていても可笑しくない。そこから更に強化された、裏庭から通じる禁足地への境界線はすぐで、だからもう彼は、何事も起きていなければ、退避を終えて然るべき状況にある筈だった。
 何かあったと見て間違いない。彼が少し前に雲雀の封印を一瞬だけ緩め、解かねばならなかった事を考えれば、それは充分予想できた。
 綱吉の足を止めるなにか、卑怯な罠を仕掛けられたのか。雲雀はフゥ太が利用された事を知らないが、それに近い術が用いられたとは想像がついた。
 いかにもあの男らしい卑怯さで、虫唾が走ると同時に激しい怒りが彼の胸を支配する。
「霧め……っ」
 雲雀は歯軋りし、重みを増した己の体を奮い立たせた。動けば背中にぱっくり開いた傷口から、止め処なく血が溢れ出す。長着の元の色と混ざり合い、彼の全身は黒く染まった。
 ランチアが鎖をじゃらりと鳴らし、鉄球を構える。雲雀は完全に力が入らなくなった左腕を肩から垂らし、右手に残した拐を握り直した。血に濡れて滑り、緩めれば即座に指の間から滑り落ちてしまうだろうそれに最後の希望を託し、霞む視界で灼熱の翼を伸ばす男を睨んだ。
 ランチアの背には、今や天を焦がす炎を纏った右だけの巨大な翼が広がり、地平まで埋め尽くそうとしていた。
「小癪な真似を」
 紫紺の髪を揺らし、彼は朗々と、そして淡々と、言葉を発した。
 瞠目した綱吉は膝を折り、両手で自分の左胸を覆い隠して荒く息を吐いた。男の発する言葉は殆ど耳に入らず、自分の呼吸する音ばかりが脳の中で再生された。
 一瞬、雲雀の姿が視えた。綱吉に突き刺さるはずだった刃は、突如彼を包んだ青白い淡い光によって相殺され、粉々に砕け散った。お陰で骸の両手は皮膚が裂け、だらだらと鮮血を流して地面を汚している。
 けれどそれは、雲雀とてきっと同じ。ぶつかり合う力が同等であったが故に、互いを打ち消し合って術者双方に衝撃を与えた。綱吉は自動的に発動した雲雀の防御壁――あの時、くちづけの最中に与えられたお守りにより、心臓への一撃を回避した。けれど彼を守る為に、雲雀が持たせてくれた鱗は木っ端微塵になって消えてしまった。
 龍の鱗、それは雲雀の皮膚そのもの。肉体を構成する生きた結界。だからこそ、強固な障壁になり得たのだが。
「はっ、ははっ」
 呆然とする綱吉の前で、骸がにたりと顔を歪めて笑った。両手から滴り落ちる血の行方などまるで気にしないで、雲雀が仕組んだ結界に弾かれた分、開いていた距離を大股に詰めた。
 息を呑み、綱吉が膝立ちのまま後退する。恐怖に怯え、竦み、嫌々と駄々を捏ねる子供のように首を振って、勝手に溢れ出す涙を止められずに、彼は必死に息を吸って吐いた。
 逃げなければ。早く、一秒でも早く、此処から。
 あの男から。
 でも、いったい何処へ?
 この時の綱吉の脳内では、雲雀の言葉が猛烈な勢いで再生されていた。
 盛り上がった大地から突き落とされた時に、彼はなんと言っていたか。逃げろと。必ず追いつくから、今は逃げろと。
 だから綱吉は、足元から頭の先へ駆け抜けた悪寒に負けて、立ち上がると同時に走り出した。フゥ太のことは最早頭の片隅にも残っていない。彼は忠実なまでに、雲雀の言葉を実行に移した。
 誰も居ない方へと走る。来た道を戻り、雲雀と合流するという考えは、微塵も浮かばなかった。
「いやだ、来るな。来るなあ!」
 足がもつれて、度々転ぶ。追いかける骸は、必死に走る綱吉が面白いのか、無理に接近せずに、ある程度の距離を保った。つかず、離れず、綱吉が速度を上げれば心持ち早足で、彼が躓いて立ち上がるのに苦慮している時は非常にゆっくりと。
 頻繁に振り向いては、闇に見え隠れする骸に怒鳴り散らし、綱吉は垂れる鼻水を啜って喘ぎ、喉の奥で鳴き声を押し潰してひたすら逃げた。
 雲雀の名前を、何度も心の中で叫ぶ。助けてと、ふたり並んで歩いた道を今はひとり、両手を振り回して。
 だのに雲雀は、姿を見せてくれない。綱吉を助けに駆けつけてくれない。
 青い鱗が砕け散る寸前、背中から血飛沫を上げて倒れる彼の姿が見えた。ふたりを繋ぐ命の鎖は、まだ淡く輝いて綱吉の手首から伸びている。だから彼はまだ死んだわけではない、そう言い聞かせて綱吉は身の毛もよだつ最悪の結末を否定した。
 雲雀は来る。絶対に来てくれる。
「はっ、はあ、っく!」
 絡まった草に足を取られ、もんどりうった綱吉は両手を投げ出して顔から地面に倒れた。鼻呼吸が辛すぎて口を開けっ放しにしていたせいで、抉られた土が唇を越えて咥内に潜り込んできた。
 噛めばじゃり、と嫌な感触が広がる。唾に混ぜて吐き出して、肩を上下させた綱吉は、四つん這いから背後を窺った。
 骸が足を止め、彼が立ち上がるのを今か今かと待っていた。
 知らない。こんな男を、自分は知らない。
 だけれど魂が覚えている。本能があの男は危険だと警鐘を鳴らし、綱吉を萎縮させた。
 爪で地面を掻き、膝を起こして強く地面を蹴る。力みすぎて空回りし、また滑りそうになったのを踏ん張って堪え、やっと見え始めた山肌に沿って折り重なる石段に、彼は大きく息を吐いた。
「家……かあさんっ」
 あそこを登れば、住み慣れた自分の家だ。それに石段の手前からは、結界が並盛山全体を覆っている。そこに潜り込んでしまえば、きっともう大丈夫。
 根拠もなく綱吉は思い込み、残す力を振り絞って全速力で走った。
「おやおや、まだそんな元気が残っていたのですか」
 息せき切らして駆ける綱吉の背中が遠ざかり、骸は呆れ半分に呟いて肩を竦めた。
 先ほど、雲雀の小賢しい防御壁を相殺した際に両手に負った傷は、もう塞がり始めていた。
 今までひた隠しにして来た本性を、ようやくすべて曝け出すことが出来る。取り込んだ火烏の力をも利用して、彼は驚異的な治癒能力を発揮させ、ぼろぼろになった皮膚組織を信じがたい速度で再生していった。
 ランチアたちは梃子摺っているようだが、この調子ならば問題ない。あっさりと斃されてしまうかと思っていたが、存外に千種と犬も頑張っているようだと、彼は嘲笑を浮かべて炎が舐め広がる後方を気まぐれに振り返った。
 あのふたりが雲雀の足止めに役に立つとは、あまり考えていなかった。だから想像していた以上に、彼らは良くやってくれたと思う。
 後で褒めてやろう、もし生きていたなら。
 ランチアも、十二分に役目を果たしてくれた。願わくは雲雀をくびり殺してもらいたいところだが、あの憎らしい男をこの手で葬ってやるのもまた一興かと考え直す。だが彼に担わせた片翼は、憎悪に怒り狂い、既に暴走を開始している。制御するのは難しかろう。
「まあいいです。本命は、こちらですし」
 首を戻し、前を見据える。綱吉は石段を三段ばかり登ったところで立ち止まり、骸の様子を窺っていた。そして彼が自分を見たと分かると、急ぎ残りの段を駆け上っていった。
 石段は周囲に生える木々が邪魔をして、途中で地上からは見えなくなってしまった。
「仕方ありませんね」
 面倒なことはしたくないのだが、と骸は嘯き、乾いた地面を草履で踏みしめた。
 山の表面を覆う樹木は、日の光を浴びていれば鮮やかな緑色で目を楽しませてくれたろう。けれど今は南から迫る炎に彩られ、暗闇の中で陰影濃い影を作り出し、黒々と聳えて不気味さを煽っていた。
 見た目のおどろおどろしさに骸は小さく笑い、目尻を下げて楽しげに喉を鳴らした。こんなこけおどしが通用するとでも思っているのかと、彼はなんら躊躇する事無く、綱吉が最後の砦とした並盛山への一歩を踏み出した。