紡がれし

 学校から帰るなり、玄関で塔子に手渡された袋。それは最近駅前に出来た、この地域にしては珍しい若者向けの衣料品店のロゴが入ったものだった。
 都会の喧騒とは程遠いこの地域に暮らす少年少女らも、流行に敏感であろうとして、日々努力を惜しまない。とはいえ、近隣にお洒落なお店はそう多くなく、通信販売などの限られた手法を用いない限りは、気軽に手に入れるのも難しい。ところがその環境を打破してくれるかもしれない店が出来たとあって、西村や北本も、しきりに話題にしていた。
 もっとも、世の中はそう都合よく事が運ばない。洒落た品というものは、当然ながら相応の対価が必要だ。アルバイトをしていない貧乏学生の、月に定額、親から与えられる小遣いだけでは、到底欲しいものに手が届かない。シャツ一枚買うにも、数週間は買い食いを我慢せねばならない計算だった。
 それに夏目は、あまり身なりを気にした事がない。食わせてもらえる、住まわせてもらっている、挙句学校にまで通わせてもらっている。この恵まれた環境の中で、これ以上何を望めというのか。贅沢が過ぎる。
 だから遠巻きに、実際の購入者はかなり少なそうな、どの時間も満員御礼の店を眺めこそすれ、ドアを潜って中に入った事はなかった。
 何度か誘われたが、興味も無いのに出向くのは店側にも失礼だろう。ただ店名を巧みに利用したロゴは特徴があって、印象深かったので覚えていた。
「あの」
 その袋を唐突に差し出され、靴も脱いでいなかった夏目は面食らった。驚いて、咄嗟に他の言葉が出てこない。
 塔子はにこにこといつもの優しい笑顔を浮かべ、早く受け取るよう、彼にせっついた。
 胸に押し当てられて、仕方なく鞄と一緒に抱え込む。がさがさ言う袋の中身は柔らかいので、入っているのは布製品だろう――服飾品を扱う店なのだから、当然なのだが。
 押し潰されて空気を吐き出した袋の口が僅かに開き、入っているものがちらりと見えた。薄いベージュの、感じからして上着か、シャツか。戸惑いを全面に押し出した夏目は視線を上げ、上がり口にいる彼女を見詰めて小首を傾げた。
「塔子さん、これ」
「この前、貴志君が言ってたでしょう、最近出来たお店。今日前を通り掛かったら、ちょうど貴志君によさそうなのがあったから」
 つい買ってしまったのだと、塔子は屈託なく笑って両手を胸の前で叩き合わせた。
 高い音がひとつ響き、彼女の楽しげな声に掻き消される。夏目は一瞬己の耳を疑い、慌てて袋を下ろして中身を広げようとした。
 だが先手を打った塔子に止められ、部屋に行ってから見るように言われた。うふふ、と悪戯を仕掛けた少女のような笑顔に嫌とは言えず、夏目は奥から顔を出した丸い猫と目が合ったこともあって、仕方なく彼女に従った。
 靴を右から脱いで揃え、上がり框を蹴って階段へ向かう。真後ろを、自分のものとは重さが違う足音がついてきた。
 障子戸を右に滑らせ、敷居を跨いで畳の匂いがする部屋へ入る。朝、学校に出向く時開けておいた窓は、塔子の仕業だろう、閉まっていた。
 カーテンの隙間から差し込む西日は柔らかい。夏目は薄暗い室内に照明を入れるか、自然光に頼るかで一瞬迷い、鞄を置くついでに窓辺へ寄った。彼が動いた所為で風も無いのに揺れた布の端を掴み、一気に左へ跳ね飛ばす。シャッ、と鋭い音がレールを走り、赤焼けた空が前方に広がった。
「夏目、なんだそれは」
 彼が開けた障子戸の隙間から紛れ込んだ真ん丸い姿の猫――斑が、夏目が脇に抱え持っているものを指差して言った。
 淡い色使いの景色に見入っていた彼は、後ろから響いた声にハッとして振り返り、下を向いて緩慢に頷いた。袋を左手に持ち替え、鞄に並べる形で下ろす。そのまま彼は一旦出入り口に戻り、開けっ放しの戸を閉めた。
 学生服のボタンを上から順に外して、箪笥の戸を開けてハンガーに吊るして片付ける。スラックスも脱ぎ、過ごすのに楽な格好に着替えてから、彼はようやく斑の質問の答えを探ろうと、座布団に腰を下ろした。
「塔子さんがくれたんだ」
「食い物か」
「違う」
 鞄を退かし、銀色の袋を引き寄せて膝に載せる。動かすと固いビニールの折れ曲がる音がして、斑がふんふん、と鼻を鳴らしながら興味津々に夏目の太腿に前脚を引っ掛けた。
 彼を邪魔だと思いつつも、目の前の好奇心を優先させて好きにさせ、夏目は広げた口に手を入れた。そっと中に納められていたものを取り出すが、部屋に運ぶ際にぞんざいに扱ったからか、綺麗に折り畳まれていたそれは若干形が崩れていた。
 とはいえ、素材自体が悪くなったわけではない。慎重に袖を広げ、肩の部分を抓んで顔の前に掲げてみる。
 春用のジャケットだった。色合いは先ほど見た通りで、穏やかで柔らかい印象を人に抱かせた。
 所々に施された刺繍が、派手になりすぎない程度にアクセントとして添えられていた。肌触りも良く、縫製は大量生産の粗悪品とは比べ物にならないくらい、しっかりしていた。
「なんだ、つまらん」
 だが斑は見た途端興味を失い、そっぽを向いて離れていった。当然だろう、日頃は招き猫を仮の姿として過ごし、本性も狼に似た獣の姿である彼にとって、人が着る衣服など、腹の足しにもならない。
 だから先に、そう言ったのに。
 夏目の言葉を信じていなかった彼に視線を投げ、夏目は膝に下ろしたベージュのジャケットを前に、思案気味に眉を寄せた。
「ニャンコ先生」
「なんだ」
「これ、……高いのかな」
「はあ?」
 夏目がカーテンを開けたことで、床は斜めに陽射しが差し込んでいた。夕暮れ時とはいえ、日陰に比べればまだそこは温かい。中央に陣取り、畳に寝そべった獣は、思いも寄らぬ問いかけに素っ頓狂な声をあげた。
 折角気持ちよく眠ろうとしていたのに、落ちてきた睡魔を弾き飛ばしてしまった。細い目を真ん丸に広げた斑は、座布団の上から真剣な眼差し向けてくる優男を見上げ、無い肩を竦めた。
「私が知るわけなかろう」
 妖怪である斑が、人間の着衣の値段を知っている方が変だ。素っ気無い返事を聞いてから、やっと我に返った夏目は、自分の質問の馬鹿らしさに気付き、若干恥かしそうに視線を伏した。
 襟の部分を指でなぞり、持ち上げては下ろし、畳に広げてはまた掲げ、今度は自分の肩から胸にあわせてみる。
 どこか落ち着かない彼の一連の仕草に、すっかり眠る気を無くした斑は呆れ顔で欠伸をかみ殺した。
「着てみれば良いだろう」
「えっ」
 どこかの店で試着を躊躇っているわけではなし、何をやっているのか。ぶっきらぼうに斑に言われ、夏目はギクリとしながら上擦った声をあげた。
 驚きに目を見開いた彼の表情は引きつり気味で、図星を言い当てられて恥かしいのか、カーッと頭から湯気が立ち登った。頬もあわせて紅色に染まり、年頃の少女のように恥らう彼に、斑は短い前足で頭を掻いた。
「貰ったんだろう」
「聞いてたのか」
「何を遠慮しとる。さっさと着れ」
 わざわざ塔子が、高い金を払って夏目のために購入して来たのだ。早く袖を通して、着ているところを彼女に見せに行け。
 斑がせっついて説教臭く言い放ったが、座布団に片膝立てていた彼はなかなか頷こうとしなかった。サイズが合わないのを気にしているのではなく、着ること自体を遠慮している様子が窺えた。
 畳に広げた薄手のジャケットを見下ろし、夏目は姿勢を正して座り直した。両手を緩く握って膝に置き、僅かに背中を丸めて畏まった姿勢を作り出す。斑は起き上がり、問題の上着を挟んで彼の真向かいに陣取った。
 その足で踏もうとしたら、即座に飛んできた夏目の手に払い除けられた。そのまま弾かれて背中から転がり、じたばたと四肢を暴れさせて埃を撒き散らす。迷惑そうに夏目は顔を顰め、急ぎジャケットを庇って自分の胸に引き寄せた。
 汚れていないのを確かめてホッとして、なんとかもう半回転するのに成功し、息せき切らしている巨大大福を睨みつける。斑はいきなりだった彼の攻撃に怒り心頭で、爪を立てて畳の目を引っ掻いた。
 暫く無言の睨み合いが続いたが、数秒後、あまりにも時間の無駄遣いだと悟った斑が先に視線を逸らし、戦闘態勢を解いた。夏目もそれで手の力を緩め、胸に抱いたものに寄った皺に慌てて布を引っ張った。
 羮を冷ます時みたいに息まで吹きかける様は、傍から見れば随分と滑稽だ。上機嫌が過ぎて、本人本来の調子が狂ってしまっていると思われる。頬を紅潮させている夏目を上から下へ眺め、斑は丸い尻尾を振って彼に数歩近付いた。
「着ないのなら、返してくればよかろう」
 嬉しそうな顔をするくせに、袖を通そうとしない。それは肌に身につけるためのものであり、飾って楽しむものではないというのに。
 観賞用にして無駄にするくらいなら、捨ててしまえ。
 荒っぽい理論を展開させた斑をまたも睨み、夏目は奪われてなるものか、と彼を警戒して肘を突っぱねた。唇を尖らせて頬まで膨らませ、横暴な言い分の妖怪に露骨に拗ねてみせる。
 子供っぽい彼の態度に、だから、と斑はゆるゆると首を振って溜息をついた。
「着ないのか」
「着るよっ」
「なら、早くしろ」
「……」
 質問に大声で怒鳴り返した夏目だが、催促されると途端に黙り込む。瞳には戸惑いと歓喜が入り混じり、思案気味に寄せられた眉間の皺はさっきよりも本数が増えていた。
 塔子が選んだものだ、色も形も、デザインも悪くない。
 サイズは、襟のタグを見る限り問題ないと思われた。むしろ少し大きいかもしれない、今後背が伸びるのを考慮して選んでくれたのだと想像がついた。
 想われている。それが分かって、胸が熱くなった。
「でもさ、やっぱり。こんな高そうなの」
 塔子はこれを、どんな顔をして買ったのだろう。いかにもティーンエイジ向けの商品が並べられる中に入るのには、相当勇気が要ったはずだ。
 嬉しさと、申し訳なさが混ざり合い、それが夏目の表情を複雑なものにしていた。彼女の気遣いはとてもありがたいものの、これは甘んじて受け取るには高価すぎる品だ。どうやって返せばいいのだろう、これに見合う対価を。
 彼女にはいつも与えられるばかりで、自分はなにひとつ、彼女に与えられずにいるのに。
「あー、まったくもう。面倒臭いのぉ、お前は」
「いてっ」
 きめ細やかな細工が施されている胸ポケットの部位をなぞり、物思いに耽る夏目のその悩ましき横っ面目掛け、唐突に怒りを爆発させた斑が丸い体躯をぶつけた。
 夏目を横倒しに畳に沈め、自身は鞠球のように跳ねて反対側へ落ちる。一度だけ弾んで四肢を突っ張らせて着地し、もんどりうって倒れた青年を体格以上の威圧感で睥睨した。
 外見は潰れ饅頭の図体でありながら、本性の獣を思わせる獰猛な態度で吼えて起き上がろうとする夏目を威嚇する。間抜け顔は変わっていないのに迫力は申し分なく、夏目は腹に被さったジャケットを左手に抱え、右手でぶつかられた頬を撫でた。
「なにするんだ、先生」
 口を開くと、咥内が切れたのか痛い。微かに感じた血の味に臍を噛み、夏目は乱暴な斑に怒鳴った。しかし相手も譲らず、再び火花散る睨み合いが始まろうとしていた。
 それを邪魔したのは、
「おやおや、お取り込み中かい?」
 いったいどこから、どうやって入って来たのか。もとより人間の常識が通用するとは思っていなかったが、非常識甚だしい不法侵入者の声だった。
 耳覚えのある呆れ声に、ふたりしてハッとして振り返る。いつからいたのかさっぱり解らないが、閉まったままの窓を背景に、優雅にキセルをくゆらせる婀娜な女が立っていた。
 白い煙を紅色の唇から吐き出し、妖艶な視線を夏目に、次いで斑に投げかける。挑発的な目つきに斑は途端喧嘩を売る相手を変え、何の用かと彼女に怒鳴りつけた。
「ヒノエ」
「お久しぶり。なぁに、ちょいと良い酒が手に入ったから、一緒にどうかと思ってね」
 派手な色合いの着物を着こなし、癖のある髪を簪一本で纏めている。時代が違えば遊郭にでもいそうな出で立ちをしているが、これでも彼女は立派な妖怪だ。つまりは、夏目以外の人には見えない。
 にやりと口元を歪めて笑った彼女の台詞に、それまで猫のように毛を逆立てていた斑が嘘のように畳に転がり、甘えた猫なで声を出した。一瞬で激変した態度に夏目は肩を竦め、傷つけられてはたまらないと、塔子がくれたジャケットを片付けるべく立ち上がった。
「うちで酒盛りはやめてくれ」
 ついでに、騒々しいのを嫌って文句を言えば、はしゃぐ斑を楽しげに眺めていたヒノエの視線が夏目の手元を射た。
 興味深そうに目を細め、白い頬に白い指を添えた彼女が、窓枠に浅く腰を預けた状態で頬杖をついた。
「それは?」
 煙を棚引かせるキセルの先で示され、夏目は抱えていたものから顔を上げた。最初から説明するのも面倒で、適当にあしらおうと文言を素早く頭の中で組み立てていく。しかしコロン、と畳でうつ伏せになった斑が、忌々しげに口を尖らせるものだから、彼の目論みは実行前にご破算となった。
「そやつめ、貰ったものを着もせずに飾っておくつもりらしいぞ」
「先生!」
 人を指差しながら、行儀悪く言い放った斑に、夏目は咄嗟に声を荒げた。それはつまり、彼の指摘が図星な証明だ。聞いていたヒノエはキセルを咥え、どこか侮蔑を含んだ視線を夏目に返した。
 ニ方向から咎める目で見られ、夏目は前を向いたまま半歩後退した。これでは自分が、一方的な悪者ではないか。
「だって、せっ、折角新品なのに」
「服なんざ、汚してなんぼだろう」
「まだ時期じゃないし」
「なら時期になれば、ちゃんと着るんだな」
「う……」
 素早い斑の切り替えしに、夏目は次第に追い詰められて苦虫を噛み潰した顔をした。何故こうも、ジャケット一枚の為に彼に詰られなければならないのか。無関係なヒノエまで巻き込んで。
 反抗的な目で睨み返しても、効力は薄い。夏目は腕に抱いた上着を見下ろし、観念したようにその場で膝を折った。胡坐を作って天井を仰ぎ、弱りきった様子で頭を掻き毟る。
 最後に重く長い溜息を吐いて、彼はじっと人を見詰める四つの目を右から順に見ていった。
「こんな高そうなもの、軽々しく着られるわけ」
「なら、返して来い」
「それは嫌だ!」
 しどろもどろに言い訳を口に出せば、またも斑から茶々が入った。聞いた瞬間、夏目は耳のところにやっていた手で畳の縁を殴り、稀に見る剣幕で叫んでふたりを驚かせた。
 呆気に取られたヒノエの口から、キセルが外れる。左手に持っていたので下に落ちることは無かったが、もう少しで火種が畳を焦がすところだったのは、間違いない。
 斑も前脚を跳ね上げ、後ろ足だけで器用に直立不動の体勢を作っていた。もっとも五秒とせず、疲れたのか丸くなってしまったが。
 場の空気のまずさは、夏目自身が一番感じていた。珍しく取り乱してしまったと、日頃は押し留めている感情を表に出した自分を恥じ、顔を赤くして着ているシャツを引っ張って口元を隠した。
「いや、だからその……」
「またお前は、どうやって礼をすべきかで迷っておるのか」
「なんだい? それは」
 すっかり慣れっこになっている斑の呆れ口調に、ヒノエが身を乗り出して興味深そうに説明を求めてくる。妖怪らしい純粋な好奇心に溢れた視線を浴びせられ、夏目は口惜しさに唇を噛んだ。
 これまでも度々、夏目は塔子や滋の好意に甘えてきた。今までこんなにも自分を愛してくれた人はいなかったから、逆にその愛情が、ごく稀にだけれど、重く感じられるときがあった。
 自分はそんなにも親切にしてもらえる人間ではない。恩返しが出来るかどうかも分からないのに、一方的に良くしてもらうのは憚られてしまう。
 西村から聞いていたあの店の品物の平均価格は、夏目が一月で自由に出来る金額とほぼ同等。そんな店で売られていたジャケットだ、万単位の札が複数枚必要だったに違いない。
 それだけの金があれば、塔子だってもっとおしゃれが楽しめるだろうに。自分を犠牲にしてまで、夏目の為に尽そうとしている彼女を思うと、申し訳なさがどうしても先に出た。
「馬鹿じゃない?」
 俯いて苦しそうに胸の内を露呈した夏目だったが、聞かされたヒノエから発せられたのは、そんな感想ひとつだった。
 冷たく、あまりにもあっさり言われてしまい、夏目も一瞬、その台詞が自分に向けられたものかどうかの判断に迷った。顔を上げて彼女を見ると、黒い双眸は紛れも無く夏目に向けられていた。
「ヒノエ?」
「あー、もう。やだやだ、こんなウジウジ馬鹿がレイコの孫だなんて、思いたくないね」
 竹を割ったような性格をしていたという祖母と比較され、夏目はじたばたとその場で地団太を踏む彼女に呆然と見入った。キセルを握り締めた手も振り回して、下手に近付くとそれで殴られてしまいそうな雰囲気もある。
 約一分少々暴れまわった末、彼女は気が済んだのかまるで何事も無かったかのように涼しい顔をして、ずり下がった簪を直した。
「ヒノエの言いたいことは、よーっく分かるぞ」
「先生まで」
 斑までもが彼女に賛同して、夏目を咎める。またも一方的に責め立てられる側に置かれ、不条理さを感じながら夏目は座布団を引き寄せた。居住まいを正し、では、とヒノエの説明を聞く体勢を整える。
 その彼女は、畏まった夏目を見て、言われなければ分からないのかと、またも盛大に嘆息してくれた。
「だいたいね、夏目。あんたにそれを寄越した奴は、あんたに何か見返りを要求したのかい」
「それは、無い」
「だろう?」
「いや、だから……」
 なにが「だろう?」なのかが解らないから、夏目は彼女に聞いているのだ。
 塔子も滋も夏目に求めない、ただ与えるばかりだ。それが夏目には、こそばゆくて、嬉しくて、だからこそ落ち着かなかった。
 どうしたらこの感謝の気持ちを形に出来るだろう、伝えられるのだろう。不器用な自分で、彼女らに何をしてやれるだろう。迷惑をかけてばかりなのに、置いてもらっているだけでも充分なのに。
 まるで自分を、手間の掛かる息子のように扱ってくれるふたりに、この先どう接していけばいいのだろう。
「あいだっ」
 沈痛な面持ちで俯く夏目の頭に、今度はヒノエの鉄拳が下された。キセルで殴られたほうがまだマシで、骨を越して脳髄にまで響いた衝撃に思わず涙ぐんだら、そのキセルで顎を掬い上げられた。
 一瞬で接近したヒノエの顔がそこにある。どこか怒っている風にも見える瞳に、夏目は息を呑んだ。
「いいかい、坊や」
 幾許か低い、真剣な声色に瞬きも出来ない。吹きかかる彼女の呼気に前髪を煽られ、夏目は西日を背負う彼女の影を睨むように見返した。
「大事なのはあんたが嬉しいか、そうじゃないかだ。相手は見返り欲しさに与える偽善者じゃないって、あんたは今、自分で言ったんだろう」
 吐き捨てられることばに、目を剥く。
 同時に思い出したのは、袋を手渡した時の、塔子の楽しげな笑顔だった。
 玄関で広げるではなく、部屋に帰ってからひとりで見るように言ったのは、照れ隠しか、それとも夏目を吃驚させるためか。どちらにせよ、彼女は今も、間違いなく、夏目を待っている。
 彼女からのプレゼントを手にして、夏目がどんな反応をしたか。それを知りたがっている。
「あ……」
「その人が期待してるのは、此処に皺寄せたあんたじゃないだろ」
 コン、と今度は優しく、火の消えたキセルで額を叩かれた。頭は痛くなかったが、別の場所がちくりと痛んだ。
 時計を見れば、帰宅してから結構な時間が過ぎている。もうじき西の地平線に太陽は完全に沈み、夜が空を包むだろう。塔子は夕食の支度中だ。
「けど」
「四の五の言うな」
 夏目の前に屈んだヒノエが、なおも反論しようとするまた夏目を叩いて黙らせる。今度は痛かった。夏目は渋々開きかけた口を閉じ、鼻から息を吐いた。
「ヒノエ、そんな根暗は放っておいて、酒だ。酒、持ってこーい」
「あいよ。……夏目」
 場の空気を読まずに騒ぎ立てる斑の声に、ヒノエはゆっくりと立ち上がった。前髪の隙間から覗く鋭い視線は、見方を変えれば夏目を思いやる色が感じられた。
「人間の見立てにしちゃ、その色、悪くないよ」
「ヒノエ」
「さーって、今夜はパーッと飲み明かすとするかねえ」
 夏目が何か言いかける前に、彼女はくるりと身体を反転させて斑に向かって目尻を下げた。達磨のような腹をした猫は大喜びで両手を叩き合わせ、襖を開けて酒宴の用意をいそいそと開始した。
 置いていかれた格好の夏目は、出しかけた手を握って下ろし、膝に掛かるジャケットを撫でた。
 肌を滑る布地に目を細め、思い切って肩から背中にかけてはためかせてみる。マントのように羽織って、右腕を先に袖に通した。
 矢張り少し大きい。だが大きすぎるわけでもなく、窮屈すぎるよりはずっと楽だった。
「先生」
「ん?」
「似合う……か?」
「知るかっ」
 恐る恐る聞いてみるが、まだ夕刻だというのに白い陶器のお猪口を手にした斑は振り返り、つっけんどんに夏目の問いかけを蹴り飛ばした。
 ヒノエに目をやっても、酒を注ぐ手元に集中しており、ちらりとも見てくれない。
「ちぇ」
「一番見て欲しい人に、聞いてきたらどうだい」
「言われなくても、そうするさ」
 思わず悪態をつくと、スッと顔を上げたヒノエに言われて、売り言葉に買い言葉で頷いてしまった。
 口走った自分の台詞を後から吟味して、してやられたと彼女を見るが、もう遅い。撤回するわけにもいかず、背中を押された格好の夏目は、悔し紛れにすっかり此処で酒盛りをする気でいるふたりを指さし、怒鳴りつけた。
「お前ら、あんまり人の部屋の中、荒らすなよ」
「「はーい」」
 こういう時の返事だけは、行儀がいい。元気一杯のふたりに彼は数秒堪えて溜飲を下げ、上着を羽織ったまま障子戸を左に滑らせた。
 廊下に出て、後ろ手に閉める。
 自分にしか聞こえない妖怪たちの、心から楽しんでいる様子の甲高い笑い声に、胸の中に蟠っていた腹立たしさも、次第に治まっていくのが分かった。
 塔子は嬉しがってくれるだろうか――これを着た自分を見て。
「……よし」
 自分では見つけ出せない答えを求め、彼は意を決し階段を駆け下りた。

2009/02/16 脱稿