熱病

 窓の向こうは綺麗に晴れ渡っており、気持ちの良い青空が広がっていた。
「ツナさん。風邪、大丈夫ですか?」
 見舞いに来たハルの言葉に頷き、綱吉は視線を戻して鼻を啜った。
 沢田家の二階、自分の部屋。壁際の一画を占拠しているパイプベッドに敷かれた布団に腰を下ろした綱吉は、見苦しいかとは思いつつも着替える訳にいかず、パジャマ姿のまま彼女らを出迎えた。
 獄寺に、山本の姿もある。山本の足に隠れるようにして、ランボとイーピンもが、不安そうな顔でこちらを見ていた。
「ごめ……けほっ」
 喋ろうとした途端に喉に痛みが生じて、息継ぎが巧くできなくて咳き込んでしまう。咄嗟に背中を丸めて両手で口を覆い、たくさんの友人に風邪菌を散らさないように、彼は膝を寄せてそこに額を埋めた。
 二度、三度と身体を揺すりながら咳を繰り返し、垂れた鼻水を指で弾く。涙まで出てきて、身を起こした綱吉はベッド脇に置いたティッシュケースに手を伸ばそうとし、先回りした獄寺に差し出されて苦笑した。
「あ、……」
 有難う、と言いたかったのだけれど、喉がいがいがして、引っかかりを覚える所為で言葉にならない。仕方なく頭を下げて礼の代わりにし、綱吉は二枚引きぬくとそれで鼻の下を拭った。
 どうにか空気が通り抜ける道を確保できたものの、また直ぐに詰まってしまって息苦しい。胸郭を軽く叩いて気道の具合を調整しながら、彼は山本が鞄から取り出したプリントを両手で受け取った。
 目を通す。理科と社会科の宿題だった。
「う」
 思わず苦虫を噛み潰した顔を作ってしまい、居合わせた全員から揃って笑われた。お陰で余計居た堪れなくなり、綱吉はわら半紙で顔を覆って赤い顔を隠した。
 風邪を引いて、今日で二日目。ようやく熱が下がり、どうにか起き上がれるところまでは回復したものの、喉の痛みと鼻水は止まらず、咳も出ているので、完治するにはもう少し時間が必要だった。
「しっかし、ツナが風邪とはなー」
 学校帰りの為、彼らは一様に制服だった。担いでいた鞄を下ろした山本の言葉に、何を揶揄しての台詞かを即座に理解した綱吉は、プリントに刻まれた折れ目をなぞり、肩を竦めた。
 本人は散々、その言葉をリボーンやビアンキ、果ては母親たる奈々にも言われてしまっており、今更気にも留めない。だのに綱吉が馬鹿にされたと感じた獄寺とハルが、ふたりしてムッとした表情で怒っているのがおかしかった。
「おれ、だっ……風邪くら、い」
 途中で咳をひとつ挟み、綱吉が嫌味にやり返す。片目を閉じて涙を浮かべた彼に、山本は小さく「悪い」と呟いて床に腰を落とした。
 獄寺も倣い、ハルは飲み物を貰ってくると言って、ランボたちを連れて階下に向かう。騒々しい足音が遠ざかっていき、綱吉はホッとした様子で腰から下を隠している布団をたくし上げた。
 背中側が寒いので、上着を探して視線を彷徨わせる。目敏く気付いた獄寺が、勉強机の椅子に引っ掛けられていたそれを取ってくれた上、広げて肩にかけてくれた。
「けど、ツナがいないとなーんか、教室が寂しいんだよな」
「そうそう。十代目が居ないと、妙に明るさが足りないと言うか」
 喋ると喉が辛いので、会釈だけで返した綱吉の横顔をじっと眺め、胡坐を崩した状態で座った山本が何気なく呟く。途端に獄寺がうんうん、と頻りに頷いて同意して、照れ臭さに頬を染めて頭を掻いたところで、盆を手にしたハルが戻って来た。
 温かな湯気を立てるコーヒーが三つと、水の入ったコップがひとつ。
「ツナさんは、お薬だそうです」
「げえ……」
 そういえば小一時間ほど前、お粥で昼食を済ませたときに飲むのを忘れていた。しっかり覚えていた奈々の意地悪に、綱吉は渋々彼女からコップを貰い、残る手で薬を握った。
 一回分ずつの小袋に入れられた粉末薬は、水で溶かすとどろりとして舌や咽喉に絡みつき、なかなか取れないのがネックだ。
 思い切り嫌そうにしながらも、友人を前にして苦いから嫌だ、とは格好悪くて言えない。綱吉は半泣きになりながら、今日の午前中に病院で処方してもらった薬の封を切り、顆粒を口に流し込んだ。
 舌が不味を感じ取る前にぎゅっと目を閉ざし、素早くコップを口に運んで一気に水で喉に押し込む。
 八分目まで注がれていた水をひと息で飲み干して、それでもざらりと残った粉末の食感に、彼は盛大な溜息を零した。
 獄寺たちはコーヒーと一緒に運ばれてきた菓子に手を伸ばし、談笑に興じるけれど、体調管理を優先させた綱吉は輪に加わらず、自分の部屋でありながら疎外感を覚えてベッドに横になった。
 途中からランボたちが加わって、例の如く獄寺と大喧嘩。リボーンまで参戦して大変な騒ぎとなり、とても落ち着いて風邪の療養に集中出来そうになく、綱吉が怒鳴って彼らを部屋から追い出す事で、事態はどうにか収束を見た。
 多分彼らは、綱吉の身をとても案じてくれていたのだと思う。ひとりで寝込むのはきっと寂しかろうと、元気付けようとしてくれていたのだというのも、分かる。
 だけれど全部、逆効果だ。見舞いに来てくれた気持ちはありがたくても、余計に病状を悪化させてくれるのは、嬉しくない。
 窓の外では、獄寺に頭を掴まれて放り投げられたランボの鳴き声が聞こえている。打たれ強いあの子のことだからきっと無事だろうが、そちらのフォローもしなければならないのかと思うと、非常に気が重かった。
 賑やかに廊下から階段へ向かっていく集団の気配を扉越しに窺い、やっと静かになったと綱吉は薄茶色のドアに寄りかかった。
 頬を押し当てると冷たさが心地よく、胸がホッとする。皆が騒いだ所為でまた熱があがったような気がして、彼はそのままずるずると膝を折って蹲った。
 ベッドに戻るのも億劫だった。窓が開けっ放しなので冷たい秋風が流れ込み、寒いのだけれど、身体は発熱の所為で火照っているので気持ち良くもあった。
 このまま此処に居てはいけないと頭で理解しても、身体はいう事を聞いてくれない。あの騒々しいメンバーを相手にしていたら、健康な時でも相当疲れるのだから、ただでさえ体力が落ち込んでいる風邪時の消耗具合はその比ではない。
「……お見舞い、かあ」
 掠れる声は殆ど音になっていなかったが、誰も聞いていないので特に気にならない。綱吉は小さく呟き、冷たいドアに額を打ちつけた。
 衝撃で首が前後に振れて、頭蓋骨の中身も一緒に揺れ動く。そうやって彼は、瞼の裏に浮かんだ、獄寺たちと違って顔を見せることは無さそうな相手の姿を意識から追い出した。
「どうせ、来てくれるわけないよな」
「誰が?」
「…………」
 ついに幻聴まで聞こえ出したか。本格的に危険なところまで病状が来ていると自覚し、綱吉は冷えた肌を伝った汗に身震いした。
 だってあの人は、放課後はいつも巡回に忙しく、人の身を案じている暇はない。そもそも性格的に、綱吉が病気になって臥せったところで、心配して駆けつけてくれるような殊勝な心構えを持っているとも思えない。
 けれど妙にリアルな幻聴に、綱吉は項垂れたまま首を捻った。
 硬い足音が聞こえて、眉間の皺が深まる。
「そんなところにいて、風邪引いたらどうするの」
「いや、まさか、そんなわけ……があぁうわぁぁぁ!」
「なに、ひとりでぶつぶつ言ってるの」
 冷や汗がダラダラと流れ、心臓がバクバクと音を立てる。目がグルグルと回り、意識がぐしゃぐしゃに掻き乱される。
 正常な思考回路がどこかへ吹き飛んでしまって、眩暈さえ覚えて後ろ向きに倒れようとしたところで、綱吉の身体はひょいっと軽く持ち上げられた。爪先まで宙に浮き、自分の身に何が起きたのかさっぱり解らない。
 開けっ放しの窓が上下逆さまに見えて、脇に抱えられたのだと気付いたと同時にベッドに放り投げられた。
 ばふっ、と空気を押し潰してスプリングに体が弾む。下敷きになった掛け布団の端が捲りあがり、冷えた素足を覆い隠した。
 恐々開いた瞼の向こうに、西日を浴びて陰影を刻む雲雀の顔があった。
「ヒっ」
 暗がりが落ちてきて、咄嗟にまた目を閉じてしまう。喉を引きつらせて横になったまま首を窄めたら、雲雀の唇は綱吉の左頬に触れて離れて行った。
 何処から入って来たのか、聞くのも愚かしい。ただ靴は脱いでもらいたくて、綱吉は彼の気配が遠ざかると目を開き、精一杯の抵抗を込めて睨みつけた。
 薄笑いを浮かべ、雲雀が余裕の表情で身を引く。前屈みの姿勢を戻す最中に、綱吉に上掛け布団を頭まで被せ、彼は今し方入り口に使った窓に向かって歩いていった。室内温度を下げる原因となっているガラス戸を閉めて、鍵までかけてしまう。靴は脱いで、その下に。
「…………」
 今日は心臓に悪いことだらけだ。顔まで覆った布団を半分ずらし、上半分だけを露出させた綱吉が、鼻を鳴らして彼の背中を見詰めた。
 顔が赤いのは、熱の所為だ。胸の鼓動が五月蝿いのだって。
「具合は?」
 全く期待していなかったわけではないが、本当に来てくれるとは思っていなかった人物の見舞いに、心が落ち着かない。そわそわと布団の下で膝をこねていたら、不意に聞かれて綱吉は唾を飲み込んだ。
 咽頭が焼ける痛みを発し、反射的に激しく咳き込む。仰向けだった体を横倒しにし、両手で口を塞いで肩を丸めた。
「げほっ、けほげはっ、はっ」
 肺胞が限界を訴えかけて、涙が滲む。息を吸いたいのに身体は吐くばかりで、苦しさに喘いでベッドの上で小さくなっていたら、戻って来た雲雀の手が優しく髪に触れた。
 櫛も入れていない寝癖だらけの頭を撫でて、背中へと降りていく。体の向きを変えてベッドサイドに座った雲雀が、落ち着くように諭して布団の上から軽く叩いてくれた。
 触られた場所から力が抜けて行く。
「は……」
 口を大きく開けて息を吸い、ゆっくりと吐き出した綱吉は、息苦しさが薄れていくのに安堵して、涙で濡れた睫を揺らした。
 雲雀がじっと、顔の造詣の所為で、どうにも怒っているように見えてしまう無表情で見詰めて来る。突き刺さるような視線は綱吉の具合の悪さを読み取ってか、ほんの少しだけ揺れていた。
 綱吉が落ち着いたと知ると、彼の右手は背中から離れていった。何処へ行くのかと目で追っていたら、視界を半分塞ぎ、汗で張り付いた前髪を払い除けていく。
 掌全体で額に触れられた。恐らく熱を測っているのだろうが、首を傾げているのが残る視界で見て取れた。
 下唇を突き出すようにして考え込んでいる様子が可笑しくて、つい笑ってしまう。くすぐったい気持ちになって、逃げるように首を振ったら、露骨にムッとした雲雀が左手を綱吉の頭の脇に落とした。右手はその反対側に。
 再び影が迫ってきて、綱吉は喉を引きつらせた。身体は勝手に反応して、咳をするようにとの命令が一方的に脳から下される。
 このままでは雲雀の顔面に風邪菌ごとぶちまけてしまうと、彼は慌てて目と口を硬く閉ざして顔を伏した。鼻の頭を布団に捻じ込まれると同時に、盛大に噎せる。
 げほごほと、全身を使って息を吐き、見るからに苦しげに悶えて奥歯を噛み締める。こんなところを雲雀に見られたくなどないのに、身体はちっともいう事を聞いてくれなくて、綱吉は半泣きになりながら、自分を見下ろしているだろう涼やかな視線に思いをめぐらせた。
 だいたい、どうして彼は来たのだろう。学校を休んでいるとはいえ、まだ二日だ。週末の休みと同じ日数でしかない。土日と全く顔を合わせないことだって、これまでも頻繁にあった。
 病気になって、気弱になっているからか。嬉しさと切なさが半々に混じって、息苦しさ以外の理由で涙が浮かび、鼻の奥がツンとした。
 シーツが皺になるまで握り締め、うつ伏せの状態でなおも喘ぐ。丸めた背中に何かが触れて、ハッとするより早く雲雀の上半身がベッドに乗り出した。
 上から圧し掛かられて、潰される恐怖に鳥肌が立った。だけれど雲雀は姿勢を維持し、綱吉の首筋に顔を埋めるに留めた。
 ぬるりとした濡れた熱が、襟足を這って行った。何が触れたのかは考えるまでもなく、引きつり笑いを浮かべた綱吉が彼の下で足掻く。じたばたと、両手両足を動かして逃げ出そうとするが、頭の左右に突き立てられた彼の腕は、さっきから少しも動いていない。
 握っていたシーツを離し、肘を突きたてて上半身を浮かせ、綱吉はまだ苦しい呼吸を誤魔化し、振り向いた。
「ひっ、ば」
「熱、下がってないんだ」
 肩をスプリングに沈め、腰を無理な角度で捻って淡々としている男を睨みつける。けれど喉の痛みは相変わらずで、巧く発音できないのがもどかしい。
 綱吉が歯軋りする前で、彼は首を傾けると顔を寄せ、額をぶつけてきた。黒髪ごと肌を押し付けられて、綱吉は腕一本で背中を浮かせ続けられずに結局仰向けに姿勢を作り変えた。
 被せられていた布団が跳ねて、爪先が覗く。雲雀が膝を持ち上げてベッドの中心に体重を移動させて来て、本格的に圧し掛かってくるのに綱吉は慌てた。
「ひば、り、さっ」
「なに」
「だめ……でっ、風邪、うつっちゃ」
 膝を持ち上げて彼を押し退けようとするが、抵抗は呆気なく封じられて虚しい。右足で太股を踏まれ、下半身の身動きも押さえ込まれた綱吉は必死に叫んだ。
 雲雀は以前、風邪を悪化させた程度で病院に入院した事がある。だから綱吉を数日寝込ませる程の病原菌を、彼に移すわけにはいかないのだ。
 それなのに雲雀は飄々とした態度を崩さず、押し返そうとする両手も捕まえて、頭の上でひとまとめに拘束してしまった。
「ほん、と……けほっ」
「風邪じゃないよ」
 身を捩って最後の抵抗をみせ、綱吉が叫ぶ最中にまた咳き込む。喉の痛みは本格化しており、熱も確実にあがっているようで頭の中がぼうっとする。視界もぼんやり靄が掛かったかのようで、胸を浅く上下させて短い間隔で呼吸を繰り返す中、雲雀がぽつりと言った。
 綱吉の病状は、午前中に診察してもらった医者にもお墨付きを貰った通り、典型的な風邪だった。しかし雲雀は違う、とあっさり否定し、涙目の綱吉に不敵な笑みを浮かべた。
 微妙に嫌な予感を覚え、背筋を粟立たせた彼の前で、雲雀が鼻を鳴らす。
「馬鹿は風邪、引かないよ?」
「…………」
 ああ、そうですか。そうですね、そうですとも。
 あまりにも予想通りの台詞に、涙も一気に引いて、綱吉はやさぐれた気持ちで横を向いた。
 いったい雲雀は、自分の事をなんだと思っているのだろう。根本的なところに疑問を抱いて、情けなくてまた泣きそうになったところで、左のこめかみにキスが落ちてきた。
 丁度、綱吉が首を横倒しにしている所為で、そこが雲雀にとっての正面に当たるのだ。そのまま下へ位置をずらし、頬を舐められる。赤く色付いた舌先が視界の端を泳いで、くちづけようとしているのが分かり、綱吉は慌てた。
「だから、ダ……んぅっ」
 さっき言った事を忘れているのかと、自分も言われた事を忘れた綱吉が仰け反って逃れようとした。が、自由に身動き取れない所為で巧く行かず、あっさりと唇を奪い取られてしまう。
 少し乾燥しているところに、雲雀の熱が混ざりこんで融けて行く。前歯を閉じて咥内への侵入はどうにか拒んだものの、たっぷり時間をかけて余すところなく舐られ、彼が満足して離れて行く頃にはもう、綱吉は息も絶え絶えだった。
 四肢に力が入らず、ぐったりとベッドに横たわる。ぜいぜいと荒く息を吐いて、解放された腕を交差させて顔を覆った。
「うつっ、……ら、どする、の……」
 まともに顔を合わせられなくて、綱吉が鼻を啜って涙ぐみながら途切れがちに文句を言う。けれど雲雀は何処吹く風を受け流し、先ほどと同じ台詞を繰り返した。
 湿り気を残す下唇を指でなぞられ、全身が竦む。
「うつらないよ、君のは風邪じゃないから」
 まだ言うか、この男は。
 どう考えても悪あがきでしかない判定を下し、楽しげに喉を鳴らした彼に歯軋りする。雲雀は、いつまでも顔を覆われたままでいるのが不満なようで、綱吉の手を強引に退かして真上から覗き込んだ。
 潤んだ琥珀に自分の姿がいっぱいに映し出され、満足げな笑みを浮かべる。
「それに、君はとっくに、風邪なんかじゃ太刀打ち出来ない、不治の病に掛かっているだろう?」
「……?」
 なにを言われているのか意味が分からず、綱吉が怪訝な表情で雲雀を見返した。そこへすかさず、雨のようにたくさんのくちづけが降ってくる。
 額に、こめかみに、瞼に。鼻の頭、頬、顎、そして唇へ。
 丸二日分、触れるどころか顔を合わせず、声も聞けなかったことへのあてつけか。いつになく執拗に触れてくる彼に煽られて、風邪の所為ではない息苦しさに喘いで綱吉は身を震わせた。
 身体中が熱くて、雲雀が触れた場所から溶けてしまいそうだった。
 ――あ、……分かった。
 ぼんやりする頭が見つけた答えに、綱吉は蕩けた目で雲雀を見た。
 自分だけではない。雲雀だって、とっくに不治の病に掛かっているではないか。掠れる声で言い返すと、彼はやっと気付いたかと嬉しげに笑った。

 処方箋なんて存在しない。
 これは、恋の病。

2008/10/19 脱稿