放熱

 細く萎びた枝の先に、枯葉が一枚ぶら下がっている。
 強く吹く風に煽られてひょろひょろと頼りなく揺れるものの、余程その木が過ごしやすいからなのか、細い腕はなかなか枝を放そうとしなかった。
 根性比べだな、と見上げていた綱吉は肩を竦めた。
「何見てんだ?」
 木枯らし吹き荒れる空の下、街路樹を眺めていた綱吉の背中に声が飛ぶ。話し掛けて来た相手が誰であるかは、振り返らずとも直ぐに分かった。
 綱吉はマフラーを緩く巻いた首を回し、ゆっくり近付いてくる背の高い影に淡く微笑んだ。
「ん、なんでもない」
 他愛も無い事に思い巡らせていたので、語るのは少々照れ臭い。なんだかセンチメンタリズムに浸っているようだったと数分前の自分を笑い飛ばして、彼は斜め後ろで立ち止まった山本に肩からぶつかっていった。
 押され、後ろにふらついた山本が踏み止まって両手を広げる。捕まりそうになったのを寸前で逃げて、綱吉はくるりと踵を返した。
 いつもなら山本は、しつこく追いかけてきて背中から綱吉を捕まえ、羽交い絞めにする。背が高く、がっしりとした男らしい体格をした彼に囚われたら、綱吉の小柄な体はすっぽりと彼の胸に納まってしまう。
 だのに今日に限って、それがなかった。
「山本?」
 しかも、追いかけてすら来ない。綱吉は彼から五歩ばかり先に行ったところで振り返り、怪訝に眉を寄せた。
 名前を呼んでも反応が鈍く、二度目に音量を上げて呼びかけたところで、彼はやっと顔を上げた。
「どうかした?」
「あ、いや」
 ほかに気を取られることがあったのだろうか。綱吉は首を傾げ、背負った鞄の肩紐を脇のところで握った。
 山本の返事は緩慢で、暫く待ってみたが先が続かない。曖昧に笑って誤魔化そうとしている様子が窺えて、綱吉は倒した首を真っ直ぐに戻すと、ついでとばかりに自分が見上げていた枯れ葉を探して視線を泳がせた。
 どうやら根競べに負けて、力尽きてしまったらしい。枝の先で当て所なく揺れていた葉はどこかに消え去った後だった。
「いこ」
 興味が一気に失せて、転がっていた小石を蹴り飛ばして山本を誘う。そして一足先に、彼は歩き出した。
 数ヶ月前の炎天下は何処へやら、今ではベージュ色の学生服をしっかり着込んでも寒さが身に沁みる季節になった。マフラーを巻いていても、隙間から紛れ込む冷気が肌を刺し、ぞぞぞ、と鳥肌が立つ。
 綱吉は吹き抜けた冷たい風に全身を強張らせ、奥歯を噛んで出しかけた右足を止めた。
 てっきり後ろにいると思っていた山本の姿が、遠くに小さくなっていた。
「あれ?」
 自分の声が聞こえなかったのか。まさか立ったまま眠っているとか。
 そんなわけが無い、と頭が弾き出した突拍子も無い想像に首を振り、綱吉は唇を尖らせて広がってしまった彼との距離を急いで詰めた。ぼうっとした顔で立ち尽くしている山本を背伸びして見上げ、心持ち焦点が定まっていない目の前で手を振ってみる。
「おーい」
「……え?」
 本当にどうしてしまったのか。彼らしくない鈍い反応に、綱吉は背伸びを止めて踵を下ろした。
 瞬きを三度繰り返し、やっと山本が綱吉の顔を見る。
「あ、悪りぃ。なに」
 聞かれても、綱吉は答えられない。むしろ聞きたいのは自分の方だ。
「なんでもないけど……」
 腕を下ろし、空中を爪で掻き回す。落ち着きなく動く手は、そのまま綱吉の心情を表していた。
 若干不貞腐れた顔をして、視線を逸らす。山本は急に機嫌を悪くした綱吉に慌てたようで、言葉を捜してか高い空に視線を投げた。
「いや、あ……っと。寒くなったな」
「うん」
 急に天気の話を始めたので、綱吉も渋々頷いて返す。ぶすっとしたままでいると、目の前を黒い影が通り抜けていった。山本が歩き始めたのだと気付いて、急いで後を追いかける。
 そして程なくして、追い越してしまった。
「あれ」
「ん?」
 背丈がある山本の一歩は、綱吉もずっと大きい。だのに気がつけば、前に居た山本が横に、そして斜め後ろに居る。
 たまにはゆっくり歩きたい日もあろうかと、無理矢理自分を納得させようとした綱吉だけれど、直感が働いたとでも言おうか。山本の様子の変化に彼は顔を顰めた。
 突然声を出した綱吉に、横を行く山本が首を捻っている。西日を浴びている所為か、その頬が心持ち赤い。
「山本、ちょっと」
 手招きして足を止め、綱吉は変な顔をする山本を無視して再度背筋を伸ばした。
 踵を浮かせ、爪先立ちになって同年代でありながらかなり違う身長差を補う。腕も伸ばした彼に顔を覗き込まれ、山本は意図を察せぬまま軽く膝を折って綱吉に近付いた。
 吐息が鼻先を掠めていく。額に触れられて、山本はひんやりとした感触に目を閉じた。
 短い彼の黒髪を掬い、直接素肌に指を置いた綱吉は、これだけでは解らないと自分の額にも残る手を置いた。目を閉じて沈黙し、心の中で一から五まで数字を数える。
 六に至ったところで息を吐き、肩を引いて腕を下ろす。
 他者の体温で温められた手を握り、綱吉は力なく首を振った。
「ツナ?」
 何がしたかったのだろうかと、瞼を持ち上げた山本が彼を呼ぶ。しかし唐突に険のある目で睨まれて、二の句が継げなくなった彼は口を閉ざした。
「山本……熱、あるよ。風邪?」
 覇気の乏しい小声で言われ、山本がきょとんとした顔をする。短い間隔で瞬きを繰り返し、自分自身を指差して首を右に倒した。
 綱吉が溜息混じりに仰々しく頷いても、彼は信じられないのか自分の手をおでこに押し当て、頻りに首を傾け続ける。その様に綱吉は頬を膨らませ、拗ねた様子でアスファルトを靴の裏で蹴った。
「熱、あるか?」
「あるよ」
「そうかー?」
「自分じゃ解らないだけだよ」
 綱吉だって、自分の額に触れてそれが熱いかどうかの判断はつかない。山本の熱だって、本当に高いのかどうか怪しいものだ。
 しかし彼の様子からして、頭が回っていないのは明らかだ。反応が鈍いのも、動きにキレがないのだって、風邪を引いて熱を出しているからだと考えればすんなり納得が行く。
 だのに当人はケタケタと笑って、そんなはずが無いと陽気に手を振った。
 人が真剣に話をしているのに、その態度はあまりにも失礼だ。綱吉は憤慨したが、彼はまともに取り合おうとせず、綱吉が気にしすぎているだけだと決め付けて、大きな掌で人の頭を撫で回した。
 その手だって、少し汗ばんで湿っている。
 本当に自分の思い過ごしならばいいのに。山本と一緒に懸念を笑い飛ばすことが出来ず、綱吉は不安な気持ちを増幅させて帰路を急いだ。
 果たして、当の山本は。
「……おっかしーなー」
 翌日見事に高熱を出して倒れ、学校を休んだ。
 放課後にプリント類を持参して見舞いに出向いた綱吉の前で、畳に敷いた布団に横になった山本は、火照って赤い顔で小さく愚痴を零した。
 綱吉が感じていた通り、彼は風邪だった。前日帰り着いた頃から調子が悪くなる一方だったのだが、日頃の鍛錬が足りなくてだらけているだけだ、と自分で思い込んでいたらしい。
 普通、足元がふらついたり、喉に痛みを覚えたり、咳が止まらなくなったら、自分の体調不良を真っ先に疑うものではなかろうか。どうして山本は、真逆の方向に考えを向けてしまったのだろう。
 基準が解らないと綱吉は正座を崩し、枕元に置かれた洗面器に目を向けた。
 水が張られたそれの縁に、白いタオルが半分に折り畳んで引っ掛けられていた。山本の額には、今は何もおかれていないので、綱吉が来ると知って彼が自分で外した可能性が高い。
 なにもこんなところで格好をつけなくても良いものを。空回りしている彼の張り切りに肩を竦め、綱吉は膝立ちになって洗面器ににじり寄った。
 タオルを手に取り、温い感触に眉根を寄せて全体を水に沈める。取り出して軽く絞り、雫が垂れないのを確かめてから広げて、小さく折り畳んだ。
「ツナ」
「山本が学校休むなんてね。みんな、大騒ぎだったよ」
 丁度良いサイズになったところで山本に向き直り、額に置いてやる。触れた瞬間に熱が奪われたからか、彼はひゃっ、と短い声を漏らして目を閉じた。
 野球部に所属し、いつだって元気一杯の陽気な親友が、こんな風に熱を出して寝込むなんて、初めてではなかろうか。非常に珍しい状況に出くわした綱吉だが、当然嬉しくなどなかった。
 昨日、もっと強く注意しておけばよかった。まさかこんなにも悪くなるとは思っていなくて、綱吉は自分に反省を促して俯いた。
 唇を噛んで悔しさを堪えていると、それは違うと弱々しく腕を伸ばした山本に言われた。
 頬に触れた彼の手は、熱を持って熱い。
「けど」
「風邪引いて熱出して、寝込んでんのは、全部俺の、体調管理の甘さが悪いんだ」
 それに、自分は馬鹿だから、絶対風邪なんか引かないという変な自信があったのだと、彼は軽やかに笑った。
 その自負は少し、というよりもかなり変だ。馬鹿だから風邪を引かないというのはただの俗説でしかなくて、真に受けて信じている人間がこんなに身近なところに居たことに、綱吉は素直に驚いた。
 同時に、昨日の自信満々だった山本が思い出されて、妙に納得してしまった。
「なに、それ」
 可笑しくてつい笑ってしまい、目尻を下げた途端、山本の表情から力みが消えた。ホッとした様子で頭を枕に押し付けた彼に、綱吉は口元を手で覆い隠した状態で目を瞬く。
「やまもと?」
「ん。やっと笑った」
 自分は何かしただろうかと、小首を傾げた彼に穏やかな笑みで返し、山本は優しい手つきで綱吉の頬を撫でた。
 山本が学校を休んで、皆が大騒ぎだった。あんなに元気な奴まで風邪を引くなんて、滅多にある事ではない。これは天変地異の前触れだ、とまで言い出す生徒も居て、正直、綱吉は息苦しさを覚えていた。
 前兆があって、見抜いていたのに、看過してしまったのが悔やまれてならない。山本が倒れたのは自分の所為で、もっと気をつけて強く注意を促しておけばよかったと、彼はずっと自責の念に囚われていた。
 そんな事は無い。綱吉が責任を感じる必要は無い。山本の目は口よりも雄弁に物を語っており、熱がある為か妙に艶っぽい瞳に見詰められて、綱吉は急に居心地の悪さを覚えて身を捩った。
 山本の太い指が頬骨をなぞり、顎から喉に降りてくる。皮膚の薄い敏感な場所をなぞられ、背筋に電流が走った綱吉は身を竦ませた。
 状況が変な方向に流れて行こうとしている。服の下でだらだらと冷や汗を流した綱吉は、何か違う話題で誤魔化そうと、必死に回らない頭を動かして彼の注意を逸らそうとした。
「そ、そういえば、さ。山本」
「ん?」
「あ、いや。あの、えっと」
 両手を泳がせ、立てた人差し指を天井に向けて綱吉が努めて明るい声を出す。けれど続きが何も思い浮かばなくて、綱吉は焦りを募らせてわたわたと上半身だけで暴れた。
 最中に山本の手も払い落とし、さりげなく距離を取る。
「あ、あの。そうだ、うん。水だ。水、替えてくるね」
 置かれてから随分経っている洗面器の水は温い。この水で湿らせたタオルもまた、温かろう。
 機転を利かせ、場を去ろうとした綱吉だったけれど、体調不良は何処へやら、熱があってふらふらの筈の山本は瞬時に布団を跳ね飛ばして身を起こし、洗面器に手を伸ばした綱吉を横から掻っ攫った。
「うわっ」
 指先が縁に引っかかり、跳ね上げてしまってプラスチックの盥がくるくると底を回転させる。水しぶきがあがったが、下に敷かれていた新聞紙の範囲内だったのが幸いだった。勢いもそう強くなかったお陰で、ひっくり返るようなこともなくやがて水色の器は静かになった。
 ただ綱吉の心臓は、数倍の速度で坂道を駆け上っていったが。
「や、ややや、やまも……?」
「ツナ、冷たくて気持ちいー」
 仰向けに山本の胸に寝転がらされ、後ろから羽交い絞めにされた綱吉が顔を引きつらせた。頬擦りされて、伝わってきた山本の熱の高さに驚いて悲鳴をあげる。
 必死に抵抗するも放してもらえず、余計に腕の力を強められる結果に落ち着いた。
 熱があるからか、山本の目はどことなくトロンとしており、蕩けた色をしていた。
「やまもっ、ちょ、放して!」
「えー、なんでー。ツナも一緒に風邪ひこうぜー」
「なんでっ」
 しかもろくでもない事まで言い出して、どうにか彼の上から退くのにだけは成功した綱吉が、落ちている濡れタオルに渋い顔をして怒鳴り返した。腕はまだ山本に握られたままで、狭い布団から出ることさえ出来ない。
 憤りを隠しもしない綱吉に、彼は屈託なく笑った。
「だってさー、俺、馬鹿じゃなかったみたいだし」
「はい?」
「ツナも風邪引いたら、馬鹿じゃない証拠だろー」
 意味が解らないと素っ頓狂な声を出した綱吉を無視し、彼はカラカラと喉を鳴らして楽しげに言った。
 どうやら相当熱があるらしい。冗談にしか聞こえないことを真顔で告げられ、綱吉はがっくりと項垂れた。その後頭部を、山本の手が梳いて通り過ぎていく。
 腰を抱かれ、引き寄せられた。
「そういう事は、出来るなら謹んで辞退させていただきたいんですが」
「駄目」
 今度は胸同士がぶつかり合って、至近距離から覗き込んだ彼の目は黒く澄んでいた。
 本気なのかと問えば、意味深な笑みしか返ってこなくて綱吉は戸惑う。
「ツナ」
 年に一度あるかないかの熱を出した日だからなのか。山本の珍しく甘えて来る声に、背筋がぞくりと震えた。
「もう……」
 結局ほだされてしまうのかと、綱吉は盛大に溜息を吐いて肩の力を抜いた。抵抗を止め、彼の胸板に寄りかかって心持ち速い彼の心音を指で数える。
 背中に回された彼の腕は、信じられないほどに熱くて、溶けてしまいそうだった。

2008/10/26 脱稿