渋皮

 カタカタと窓ガラスが細かく震えて音を立てている。
「もう冬の勢いだな」
 シャマルが外を眺めて呟き、手にした白い陶器のカップを静かに傾けた。
 皺だらけの白衣の裾を揺らし、椅子の上で優雅に寛ぐ様は、外見だけを見て判断するならば歳相応の格好良さが感じられた。但しひとたび女子を前にした途端、すべて台無しになってしまうのも綱吉は良く知っている。
 無類の女好きを自他共に認める彼を見上げ、綱吉は小さく溜息をつき、背凭れの無いパイプ椅子の上で肩を竦めた。
 クッションも無い硬い椅子を掴んで身体を前後に揺らし、同じく窓の外を見る。シャマルは冬と言ったが、雪が降るような本格的な寒さの到来にはまだ少し早い。もっとも朝晩の冷え込みは厳しさを増しており、肌寒さから目を覚ます日もあるくらいだった。
 布団から出るのも一苦労で、お陰で遅刻の頻度も酷いことになりつつある。厳しい目つきの風紀委員を思い出し、身震いした綱吉は鳥肌立った腕を咄嗟に抱き締めた。
「寒いか」
 獲物を狙う猛禽の目に怯えただけだったが、シャマルはそうは思わなかったらしい。勘違いを口に出して問い、空っぽになったカップを机の端に置いた。
 整理整頓という言葉とは無縁の、本と書類となんだか良く解らないものでごちゃごちゃになった彼の仕事机には、平らな面が本当に僅かしか残されていない。コップひとつ置くだけでいっぱいになってしまう、隙間と言っても過言では無い猫の額程度の空間には、吸殻が山盛りになった灰皿が置かれていた。
 そろそろ円盤からはみ出て、中身が溢れ出してしまいそうな雰囲気がある。よくぞこんな環境で仕事が出来るなと呆れ、綱吉は小さく丸めた身体を戻した。
「いや、あ……ちょっと?」
 否定しようとして思いとどまり、疑問符つきではあったがシャマルの言葉を認める。綱吉の小首を傾げての返事に、彼は顎に伸びた無精髭を撫で、ふぅん、とあまり興味なさそうに相槌を打った。
 自分から話を振ってきたくせに、その態度は酷くないか。至極淡白なシャマルの反応に不満で、綱吉は両膝を広げると間に両手を下ろし、握った椅子ごと身体を揺さぶって反感を露にした。
 椅子の足が床を擦り、必要以上に与えられる負荷からギシギシと嫌な音を響かせる。このままでは壊れてしまうと見たシャマルは、乱暴に自分の前髪を掻き上げて舌打ちし、大人しくしろと語気を強めて綱吉に言い放った。
 灰皿の上で、燃え尽きた灰がぽとりと落ちる。歯形の残るフィルター部分が己の重みに耐え切れず、円盤の縁から落ちてひっくり返った。
「えー、いいじゃん」
「弁償させられんのは、俺だぞ」
 パイプ椅子ひとつでガタガタ言うな。頬を膨らませて反論した綱吉の額を小突き、顰め面をした彼は落ちた吸殻を灰皿に捻じ込んで立ち上がった。
 広かった視界の大半がシャマルで埋まってしまい、首を伸ばして上を向いて彼の顔を見詰める。長いこと洗濯もせず、アイロンだって当然掛かっていない白衣のポケットに左手を入れた彼は、右手で中身を飲み干したコーヒーカップを持ち、座ったままの綱吉の脇を通り抜けていった。
 すれ違う瞬間、彼に染み付いた煙草の匂いが鼻腔を擽る。
「ちょっとは量、控えなよ」
 一日ひと箱は軽く開けてしまうシャマルは、身体中に煙草の匂いが染み付いてしまっている。それはもうすっかり慣れてしまったので別段構わないのだが、問題は彼の体調面だ。明らかに吸い過ぎで、過度の喫煙は確実に寿命を縮める。
 しかし綱吉の心配を呵々と笑い飛ばし、シャマルは保健室に設けられた簡易キッチンの流し台にコップを置くと、脇のコンロに載せていたヤカンを入れ替わりに持ち上げた。
 水が流れる音がして、彼が何をしているのかは振り返らずとも分かった。
「ココアでいいか」
「人が話してるんだから、ちゃんと真面目に」
「煙草は大人の男の嗜みだからな、簡単に止められるか」
 ガラス戸を引いてマグカップを取り出したシャマルが持論を展開させ、綱吉の忠言を一蹴する。ならば同じ喫煙者である獄寺はどうなのか、という不貞腐れた綱吉の問いかけには、返事がなかった。
 その代わり、ヤカンが湯気を吐く音がか細く耳に届いた。かちゃかちゃと食器を鳴らす音は断続的に続いていて、彼が綱吉の為にココアを入れてくれているのは、どうやら嘘ではなさそうだ。
 気を遣わせてしまっただろうか。そっと振り返った背後を窺い、白い背中が動く様をぼんやり眺める。腰を捻るのが辛くなって、足を床に下ろした綱吉は椅子ごと彼に向き直った。
 インスタントを利用しているので、沸騰した湯を注ぎ入れればそれで完成。手間が掛からなくて良いな、と嘯き、シャマルは掻き混ぜたスプーンを引き抜いて、流し台で水を湛えた別のコップに突き立てた。
 左右にひとつずつ、カップを持って振り返る。綱吉がこっちを見ているとは思っていなかったようで、彼は視線が合った途端に驚きに小さな目を見開き、少し照れ臭そうに首を横に向けた。
「ありがと」
「熱いぞ」
 遠慮せずに両手を伸ばした綱吉に、シャマルがこげ茶色の液体をなみなみと注がれたマグカップを渡す。厚みのある陶器製だけれど、沸騰した直後のお湯を使っているからだろう、コップの表面にまで熱が浸透していた。
 零さないように慎重に胸元に引き寄せ、中を覗きこむ。表面が僅かに波立ち、動きに合わせて湯気が揺れた。
 シャマルは自分の椅子に戻り、背凭れを回転させて深く腰を下ろす。あちらはコーヒーだろう、彼はココアなんて甘いものは嫌いだと言って憚らないから。
「いただきます」
 小さく会釈して、両手で包むように持ったカップに唇を押し当てる。そっと息を吹きかけて表面を冷ましてから、舌を伸ばして隙間から流し込んだ液体を咥内へと。
 直後。
「あぢ!」
 熱湯に口を焼かれた綱吉が裏返った声で悲鳴を上げた。
 残量たっぷりのコップを放り投げようとした腕に力を込めて堪え、ココアを頭から被る、などという惨事だけはどうにか回避させる。しかし舌を中心にした咥内の火傷は防ぎきれなくて、綱吉は瞬時に半泣きの顔を作って大きく口を広げた。
 ひりひりと痛む舌を伸ばし、外気に触れさせて冷ます。
「なにやってんだ」
「ふぶしゃい」
「……何言ってんのか分からんねえよ」
 五月蝿い、と言いたかったのだけれど、口を閉じることが出来ない所為で巧く発音できない。それはシャマルとて承知しているだろうに、拗ねる綱吉が余程面白いのか、人をからかって忍び笑いを零した。
 同じヤカンで沸かした湯を使っているのに、彼はさも美味しそうに熱いコーヒーを喉に流し込む。お前も火傷を負って同じ苦しみを味わえ、と睨みつけて念を飛ばしてみるものの、彼は平然としたまま半分を飲み干して湿った唇を舐めた。
 殆ど中身が減っていないココアを見下ろし、綱吉は悔しげに先ほど自分が口をつけた箇所に指を這わせた。
 まだ舌が痺れていて、とてもではないが飲めそうにない。猫舌のつもりはなかったのだが、そう揶揄されて綱吉は顔を赤くした。
「焦って飲もうとするからだろ」
「……」
「俺はちゃんと注意したんだからな」
 反論したいが、喋ることもままならないので出来ない。恨めしげに睨み返すのが精一杯で、熱いコーヒーを心底美味しそうに飲むシャマルが無償に憎たらしかった。
 息吹きかけて冷ますような真似もせず、喉を鳴らしてごくごくと。
 どうして平気なのだろう、彼は。痩せ我慢をしている風にも見えなくて、綱吉は胸の高さにあったコップごと両手を膝に下ろした。
「やっぱコーヒーは熱いのに限るな」
 それも大人の男としての嗜みだというのか。わざとらしい台詞回しに綱吉はぶすっと頬を膨らませ、しつこいくらいに何度もコップの縁をなぞった。
 もう舌を出していなくても平気になったが、だからと言って直ぐにココアを飲む気分にもなれない。トラウマとまではいかないが、心が萎縮して、まだ熱かったらどうしようと怖がっている。
「ボンゴレ」
「ん?」
「痛いか」
「うん」
 コップを包む手が次第に温まり、同じになって、熱いかどうかも分からなくなっても綱吉は動かなかった。
 さすがにシャマルも不安を覚えたのだろう。吸おうとしていた煙草を箱に戻して机に置き、椅子の上から僅かに身を乗り出した。
 繰り出された質問に短く答えて首肯する綱吉に、彼は渋い表情で眉間に皺を寄せた。綱吉は伏し目がちに彼を見上げ、真剣な眼差しに臆してまた俯いてコップを抱く手に力を込めた。
「見せてみろ」
「ふえ?」
「舌なんて所に塗ってやれる薬はねーけどな」
 痛みが長引くようなら、なんらかの処置が必要かもしれない。一応こんな男でも医師免許は所持しており、真顔で言われると綱吉も悪い方向に考えてしまって恐怖に竦んだ。
 疑いもせずに唇を開き、座りを浅くして彼に膝を寄せて舌を伸ばす。
 シャマルもまた椅子のコマを軋ませ、綱吉と爪先がぶつかるところまで距離を詰めてきた。
 その間彼は無言で、だからこそ余計に綱吉は怖くなる。シャマルがこんなにも真面目な顔をするところを見るなど滅多になくて、もし味覚が麻痺して戻ってこなかったらどうしようと、内心焦りながら綱吉は鼻先に感じた彼の吐息に咄嗟に目を閉じた。
 視界を闇で塞ぐ直前、人の顔を覗き込む男が楽しげに笑う様が見えた。
「っ――」
 嫌な予感が背中を突っ走って行って、咄嗟に身を仰け反らせようとしたが気付くのが一歩遅かった。無防備に差し出した綱吉の舌の表面を、湿り気を帯びた温かなものがなぞって離れていく。
 肩を強張らせ、反射的に口を閉じようとして自分で自分の舌を噛んだ状況に、綱吉は痛みを堪えて涙を耐える。鼻を啜る音が大きく脳内に響き、薄目を開ければ目の前にはしたり顔の男の姿。
 少し考えれば分かりそうなものを、巧く丸め込まれて騙された。自分の愚直さを恥じて綱吉は顔を真っ赤にし、小鼻を膨らませて不満を前面に押し出した。しかしシャマルは至って涼しい顔をして手を振り、椅子の上で頭から湯気を立てている綱吉を指差して笑った。
 額を小突かれ、不貞腐れた顔で綱吉が出したままの舌を引っ込める。
「冷めるぞ」
「うぐ」
 あっさりと言われ、衝撃を受けているのが自分だけというこの状態がまたも悔しくてならず、綱吉は口をへの字に曲げて仕方なく膝に放置していたマグカップを持ち上げた。
 そろりと唇に縁を押し当て、咥内を潤す。
 楽しげなシャマルが見守る中で飲んだココアは、甘い筈なのにほんのり煙草の味がして、苦かった。

2008/10/31 脱稿